@ayame0601s
目に映るその人が、本当に彼なのか。これは夢なのか、信じられない気持ちがあった。
ベランダへと足を進め、彼を見上げる。
月明かりに照らされているその端整な顔立ちは、よく見知ったもので。けれどたった数日見ていなかっただけで、とても久しぶりのようにも感じた。
髭切はいつものように口元に笑みを乗せ、私を見ている。
髭切さん、と口にしようとしたところで、彼は自分の唇に人差し指を当てた。それを見て、はっと冷静になる。
彼から視線を外し、室内へと目をやった。私以外誰もいないし、隣の部屋のドアが開く気配もしない。
静かに窓の鍵へと手を伸ばし、音を立てないように開け、ベランダへ出る。念のためカーテンをゆっくり閉め、外が見えないようにしておく。窓を閉める時も注意を払い、物音は立てないようにした。
冷たい風が頬を撫でる。嬉しさだったり、緊張だったり。
複雑な気持ちが絡み合う中、静かに、改めて彼を見上げた。
「こんばんは」
小さく、微かに掠れた彼の声が耳に届く。
その声を聞いた途端。彼と間近で目が合った途端、感情が昂り、どうしようもなく泣きたくなった。
この感情を、どう表現したらいいのか分からない。
声を聞いて嬉しいのかもしれないし、安心したのかもしれない。どうして今まで会いに来てくれなかったのか──あのまま、私とは会わなくていいと判断したのはどうしてなのか、という寂しさがあるのかもしれない。
色んなものが混ざり合い、言葉で表現出来ない代わりに、まるで感情だけが混沌としたまま、外へと溢れ出るように気持ちが迫り上がってくる。
心はひどくかき乱されていた。けれど、泣いては駄目だと。ぐっとそれを呑み込む。
「こんばんは」
出た声は、ほとんど音を成していない。けれど挨拶の言葉はちゃんと届いたらしい。髭切はその目元を和らげる。
その表情だけでも、自覚してしまった胸の内は切なさを覚えていた。話すべき事はあるはずなのに、彼を目の前にすると何を言えばいいのか分からなくなってしまう──けれど、その時。ふと、彼の顔にある傷に気がついた。
まるで引っ掛かれたような、細く伸びた傷痕が幾つかある。
その上、風に乗って届くのは、鼻をつく鉄のにおい。よく見れば、黒いパーカーは所々裂けていた。汚れた箇所が白くなっていたり、逆に濃い染みを作っている部分もある。
「髭切さん、大丈夫ですか?」
目立った傷は無さそうに見えるけれど、鼻先を掠める血のにおいは、随分と濃いものに感じる。まさか、見えないだけでどこか大きな怪我をしているのでは……そう思えば、先ほどまでの混沌とした気持ちは奥へと追いやられていった。
髭切は僅かに目を丸くして私を見る。そしてそのまま、表情を緩めていった。
「うん。僕は大丈夫。あ、弟もね」
「そうですか……良かったです」
「ありがとう。心配してくれて」
そう言った彼の表情は、あまりに柔らかいものだった。眉を下げ、どこか苦笑の混ざったその笑みは、肩の力が抜けたようなもので。
冷たさや表面的なものとは程遠く、それは今まで見た事のないような、素の表情に思えた。
そんな彼の様子に呆気にとられてしまい、言葉を失う。
「君は、僕が怖くないのかい?」
髭切は、ただ呟くように言った。
「え?」と思わず聞き返してしまえば、彼は更に、困ったように微笑む。
「無理やり、あんな事をしたのに」
その言葉が耳に届いた時、そこでやっと頭が動き出した。問われた事を理解すると同時に、彼はもしかして、少なからず気にしていたのかもしれないと……そんな考えが頭を過る。
髭切はそれ以上何も言わず、私の答えを待っている。じっとこちらを窺うように見つめられ、不意に心臓が締め付けられた。
彼は、私の本心を待っている。
この瞳に嘘は通用しないと、初めて会った時から分かっていた事だった。それなら、正直に思っている事を吐き出そうと。
そう思い、口を開いた。
「髭切さんの事、怖くないです。今は、全く」
髭切を真っ直ぐ見上げてそう言えば、彼はその目を見開く。それはほんの微かな動きだったけれど、どうやら彼にとって、私の言葉は意外だったらしい。
彼の感情が、こちらに伝わってくるのは珍しかった。その事に呆然としそうになってしまうも、続きを口にする。
「ただ、……寂しかったです。その……色々と。何も言われず、いきなり鶯丸さんの家でお世話になる事になったり。その後も、髭切さんとちゃんと話す機会すらなくて」
一度話し始めてしまえば、言葉が口をついて出てきた。
私は、寂しかったのだと、言葉にする事でより自覚する。「食事」をされて気づいてしまった感情も、もちろんその寂しさに含まれる。
けれど、その後。本当は、直接きちんと話をしたかった。
勝手に鶴丸に会いに行った事を、ちゃんと謝りたい気持ちがあった。
それでも、髭切はもう私に会う必要すらないと思っているのかと思うと……だから会いに来てくれなかったのだと思うと、どうしようもなく切なく、寂しさを覚えてしまったのだ。
「もうこのまま会えなくなるのかと……髭切さんは、このまま私とちゃんと話さなくていいと思っているのかと、そう考えたら、とても寂しかったです」
我慢していた感情が、堰を切ったかのように溢れ出す。普段なら押し殺してしまいそうな言葉も、この時ばかりは抑えきれなかった。
これではまるで、会いに来てくれなかった髭切を責めているようにも聞こえる。そんな資格は、私には無いというのに。感情だけが先走り、とても息苦しい。
話しているうちに、いつの間にか視線は下に向いていた。
吐き出した感情に対する、彼の反応を見るのが怖い。けれどどうしても、言葉が止まらなかった。
「そっか……ごめんね」
髭切の声が落ちてくる。謝らせたいわけではないのに。現に、彼は会いに来てくれているのだから。
彼を責めて、困らせたいわけではないのに、感情がちぐはぐでコントロールできない。
最後の最後で、こんな雰囲気になってしまうなんて……そう思うと、今更ながらに言った事を後悔した。
下を向いているせいで、髭切の表情が分からない。それでも見るのが怖くて、顔を上げられなかった。
「僕は怖かったんだ。君に会うのが」
彼の声が耳に届く。言われたその言葉に、目を見開いた。
それは、全く予想もしていなかったもので。
ゆっくり見上げれば、苦笑している彼と視線が交わる。
「君が関わると、冷静でいられなくなる。そう自覚してしまったら、途端に恐ろしくなったんだ。君に会うと、感情を抑えきれなくなりそうで」
髭切は一言一言、呟くように言う。
「そんな自分を、受け入れたくなかった。人間に心を寄せるなんて、もう二度としないと決めていたのに」
溢した笑みは、まるで自嘲するかのような。けれどその表情は、どことなく寂しそうなものにも見える。
言葉が出てこなかった。ただただ、彼の言った事を頭の中で何度も反復するしか出来ずにいた。
反復するだけで、その意味を呑み込めていない。呑み込む事を、躊躇していた。
髭切はそんな私を見て、嘆息を漏らすように笑う。
「言ってる意味、分かってる?」
「え、あ……えーと、半分、くらい」
「君が好きだよ」
続けた言葉に、息を呑んだ。髭切ははっきりと、迷いのない瞳で私を見る。
「だから、無理やりでも連れて行きたくなる。血を注ぎ込んで、一族に加えて。僕達と一緒に、長い長い時の旅に連れて行ってしまいたくなる」
髭切のその視線と、その声色は、あまりに優しいものだった。心にストンと落ちた言葉は温かく広がっていき、胸を淡く締め付ける。
『仲間にする時は、僕達の血を流し込むんだ』
いつか言っていた髭切の言葉が、頭の中で呼応した。彼は、人間だった膝丸に血を流し込んだのだと。
それなら私も、もし血を流し込まれたのなら。
「本当は、僕の意思だけでどうにでも出来るけど」
髭切は静かに、確認するような口調で言った。
「君は、どうしたい?」
彼の髪を揺らした風が、言葉を乗せて耳に届く。私を見つめるその視線は、全てを包み込むように落ち着いたものだった。
私は、どうしたいのか。彼に問われた事を、そのまま自分に問いかける。
髭切は私に決めさせようとしてくれている。一緒に、行くかどうか。バンパイアになって、人間をやめて。私に親はいない。私が居なくなっても、困る身内はいないのなら、彼らと一緒に行ってもいいのかもしれない。
一緒に、行きたい。このまま、二度と会えなくなるのなら。
「私は──」
──もし、その時が来たら。
不意に、鶯丸の言葉が脳裏を過る。
──少しでも迷うなら、やめておけ。
「わ、私は……」
私は、迷いがないと言い切れるのだろうか。ふと、そう思ってしまった。
親はいなくても、友人はいる。私を心配してくれた、大切な友人達。人間をやめるという事は、その友人達と会えなくなるという事で。
鶴丸と茶番のようなやり取りをして笑ったり、光忠と些細な事で笑い合ったり。今まで培ってきたそういう日常が、なくなるという事で。
私はその日常を手放す決断を、今、この場でしてしまっていいのだろうか──そう思ったら、途端に揺らいでしまった。
思わず、口をつぐむ。決断に、迷いが出ている。
どうすればいいのか。
どう決断すれば後悔しないのか、その答えを出せなくなってしまった。
「……うん。それでいいと思うよ」
髭切の声が落ちてくる。柔らかく細めたその目は、私の心情を読み取ってしまったのだろう。全て察したその表情は、とても穏やかなものだった。
「迷うなって言う方が難しいだろうけど。それでも迷いがあるなら、きっと後悔する」
「……っ」
「それは不幸な事だからね。お互いにとって。この世の中は、僕達にとって生きにくい。そのままの方が、幸せなはずだよ」
「ひ、髭切さん、」
言葉を遮るように、彼の名を呼ぶ。まるですがるようだと、自分でも感じていた。
これを言ったところで迷いが無くなるわけではないけれど。
それでも、今言っておかなくてはと。込み上げる感情が私を急き立てる。
「もう……もう、会えないんですか? 今日お別れしたら、もう二度と」
「……」
「私は、髭切さんの事──」
最後まで口に出来なかった。突然、腕を引かれたからだった。
そして気づけば、彼の腕の中に収まっていた。
いきなりの事に驚き、言葉を失う。ひんやりとした彼の衣服が頬に当たる。埃っぽい砂のにおいと、血のにおい。
けれどそんな事が気にならないほど、強くぎゅっと抱き締められ、心臓は忙しなく胸の内側を叩いている。
「それ以上は、言わないで。無理にでも連れて行きたくなってしまう」
呟いた言葉は、悲しそうにも聞こえた。
無理やりでも、いいのに。頭の片隅でそう思ってしまう反面、それは狡い考え方だとも、十分なほど分かっている。
こればかりは、自分で決めなければ。もし仮に後悔してしまった時、彼のせいにしないためにも。彼はその選択肢を与えてくれているのだから。
「人間の君と、僕達では生き方が違いすぎる」
その先は、言わなくても分かってしまった。
人間の私と、人間ではない彼らと。
その道が交わる事は、本来有り得ない。そしてそれはもう、きっと二度と交わらない。
彼の背に、そっと腕を回す。すると更にぎゅっと抱き締められ、込み上げる感情が目の奥を熱くする。
「ごめん、なさい」
「どうして謝るの。迷うのは当然だ、君は恵まれた環境にいる。あんなに心配してくれる友人、そうそういないよ」
僕にとっては鬱陶しかったけど。彼はそう続けると、ふふ、と笑った。それはまるで、冗談でも言うような口調だった。釣られるように、私も頬が緩む。
ああ。彼は、最後まで気を遣ってくれているのだと。
気まずい別れにならないように、明るくしてくれているのではないかと──そう思うと、笑顔でいたいのに。やっぱり寂しさが込み上げてくる。
別れたくない。一緒に、行きたい。それなのに、迷いがどうしても捨てきれなかった。
「君のような人間もいるのだと、知れて良かった」
そう言った彼の言葉に、涙が溢れてくる。
私こそ、出会えて良かったと。そう言いたかったのに、言葉にするとぐしゃぐしゃに泣きじゃくってしまいそうで。ただしがみつくように、抱き締め返す事しか出来なかった。
「今までありがとう。さようなら」
*
耳の奥で感じるアラームの音に、意識が浮上する。同時に瞼の裏で光を感じ、無意識に眉を寄せた。
無理やり目をこじ開け、携帯を探す。手探りでやっと見つけたそれの画面を開き、けたたましいアラーム音を解除した。
もう、朝か。
また、一日が始まる。
引き戻された現実に、感じる脱力感。やっぱりあれは夢だったのだと、そう思った時の寂しさはいつまで経っても無くなってくれなかった。
最近、よく夢を見る。それはいつも決まっていて、あの時の夢だった。
人間ではない彼らと過ごした、あの日々の夢。
それは思い出がそのまま呼び起こされたものもあれば、改ざんされたものもあった。けれどどちらにせよ、夢の中の私は笑っているのだ。
あれから、もうすぐ一年が経つ。それでも感じるのは懐かしさではなく、寂しさがずっと居残っている。
彼と別れたあの日から、ずっと。
のそりと体を起こし、仕事に行く準備を始める。顔を洗って、着替えて化粧をして。朝食のパンを焼いている間に、テレビをつけた。
テレビでは毎朝見ているニュースキャスターが、原稿を読み上げている。政治がどうだの、どこで事故が起こっただの。変わらない日常。あの出来事そのものがまるで夢だったかのように、普通の日常が戻っていた。
彼らと別れたあの日以来、例の、猟奇的な連続殺人事件は起こっていない。
正確には、彼らがこの街を去った次の日に放送された、大きなニュースを最後にして、だった。
廃墟で見つかった、複数の死体。そのどれもが今までと一致するように、首筋に咬まれたような傷痕が残っていたのだと。あの次の日、どのテレビ局でも話題に上がっていた。
それを見た時、ああこれは彼らの仕業だ、と直感的に思った。おそらく、わざと。咬み痕を残す事で、一連の殺人事件と関連させるように、この事件の根源を終わらせたのではないかと、そう思った。
その後の調べにより、遺体の身元の判明がなされ、どの人物も酔狂なバンパイア信者だったのだと──おそらく、兄弟の標的であった上層部のバンパイアは、灰となって消えてしまったのだろうけれど──その情報は、メディアをざわつかせた。しばらくは、様々な憶測が飛び交っていたぐらいだ。
バラエティー番組でも今まで以上に特集が組まれ、街を歩けば、至るところに吸血鬼関連のものが目につくようになった。
これは彼らもきっと、鬱陶しく思うに違いない。これを予想して、早々に街を出たのかもしれない。そうぼんやり思った事を、今でも覚えている。
「次のニュースです」
テレビの中でアナウンサーがそう言い、画面が変わる。画面端に表示されている時刻を見れば、そろそろ出なければいけない時間だった。
朝食を胃に押し込み、両親の遺影に手を合わせる。毎朝の日課を行った後、足早に家を出た。
あれから私生活で変わった事といえば、職場が変わった事ぐらいだった。電車に乗って、駅から歩いて。以前の職場とは、全く別の方向へと足を進める。
そこは、小さな会社ではあったけれど、それでもお陰様で仕事は順調だった。
「あ……」
会社の前で見かけた姿に、声が漏れる。
こちらに気づいた彼は、よっ、と手をあげた。私はそんな彼へ向かって、お辞儀をする。
「社長、おはようございます」
「ああ、おはよう……って、きみは此処だといつも敬語だな」
鶴丸は私を見て苦笑している。
この会社の社長である鶴丸は、会議や会談が無ければ、いつもラフな格好だった。
彼の胸元で、見慣れた十字架のネックレスが光を反射している。
「それはもちろん。私は雇われている身ですので」
「きみの敬語は慣れないなぁ。なんかこう、寒気がする」
そう言って大袈裟に震えて見せるものだから、心底不快な顔を作って睨んでみた。すると鶴丸は、「おお怖い」と言いつつ楽しそうに笑うのだ。
鶴丸はあれから結局、病院へは一度も行かなかった。けれど何も後遺症なく、こうして元気に仕事復帰している。
あの後。鶴丸は、一晩すれば大分意識がはっきりとしていた。大きな怪我をしたわけではない。ただ、強く頭を打ったのだと、意識の戻ったその日に、彼は説明してくれた。
あの場所へは、親の仇を討ちに行ったのだとも。鶴丸は苦々しげにそう続けたのだ。
「結局、もつれ合った末に吹っ飛ばされたんだが」
どうやらその時、頭を打って意識をなくしたらしい。
鶴丸の親の仇──彼が指していたのは、あのカルト集団の事だった。
猟奇的な殺人事件について、ネットには一部で動画や画像が流れ出ていたらしい。テレビでは放映できないような、残虐なものだったと。それは、親が殺された状況と全く同じだったのだと、鶴丸は憎悪を含めて説明した。
鶴丸も、カルト集団を追っていたのだ。あの兄弟のように。だからこそ、バンパイアの苦手とするものを身につけ、膝丸とも鉢合わせをしたのだろう。
おまけに鶴丸は、あの兄弟を幼い頃に見たと言う。
「俺が実際見たのは、親がすでに息絶えてからだったが……その時見たのが、彼らだったと。あの顔は忘れるまいと、ずっと思っていたんだが」
そう言った鶴丸は、最後まで腑に落ちない様子だった。
その理由は、十字架のネックレスだ。
あれを触った髭切が何も反応を示さなかった事が、鶴丸の中で吸血鬼と断定できない原因となっているらしい。
本当は、かなり辛そうだったのだけれど。それは、私の胸の中にしまっておいた。
結局、鶴丸の親の仇の真相ははっきりしなかった。それでも私は、あの兄弟ではない気がするし、願望のようなその思いを、持ち続けていてもいいような気もする。
話はその後、鶴丸をどうやって見つけたのか、あの兄弟は一体何者なのか、という流れになってしまい、誤魔化すのに大変苦労する事となった。彼らも鶴丸と同様、カルト集団を追っていたのだと……結局、そんなざっくりとした説明しか出来なかった。けれどその事に対しては、嘘をついていない。
案の定、鶴丸はあまり納得していなかったようだけれど、私がそれ以上話さなけば、追及される事もなかった。
そのような形で、一応、この件については収束がついている。
鶴丸にとっては不明確で納得のいっていない部分も多いのだろう。けれど彼は、それを深く聞き出すよりも、日常に戻る選択をしてくれたらしい。
それは、私にとっても助かった部分が大きい。もし彼がしつこく追及してくるようなら、距離を取ってしまったかもしれないし、こうして彼の元で働く事も出来なかっただろうから。
その後は、徐々に日常へと戻っていった。
まるで、今までの事が全て夢で、何事もなかったように。
「なあ、今夜飲みに行かないか?」
会社の自動ドアを通り抜けたところで話しかけられ、ふと我に返る。
隣を歩く鶴丸を見上げれば、くい、とお猪口で飲む仕草をした。
「今夜?」
「ああ、光坊も都合がつきそうだ」
三人で飲むのはとても楽しい。いつもなら即答するも、今日に限っては躊躇してしまった。
今夜は、予定があった。予定があると言っても、誰かと約束をしているわけではない。けれど、個人的に予定を入れていた。
「今夜は、ごめん。先約があって」
そう言えば、鶴丸は驚いたように目をぱちくりさせる。
「そうなのか。ハロウィンパーティーでもするのかい?」
「うん。そんなところ」
「なんだなんだ。きみが仮装するところなんて想像できないなぁ」
「超セクシーなお色気ナース予定です。鶴丸が見たら惚れちゃうかもね」
「へえ。そりゃ見てみたいもんだ」
片眉をあげて、彼は笑みを作る。その余裕な笑みが憎たらしい。
けれどそれは、からかうためにわざと作っている事も、長年の付き合いから分かっている。
「だからさ、また今度行こうよ」
そう付け足せば、彼は快く「ああ、了解だ」と頷いた。
鶴丸と、こういう会話をするのは楽しい。おかげで、日常に戻れているような気がする。
けれど、今日は。今日だけは、少しだけそこから離れたかった。
今日は10月31日。ハロウィンだった。
だからといって、誰かとパーティーをするわけではない。誰かと、過ごす予定もない。
ただ、何となく。今夜は、あの家で過ごしたいと、前々から思っていたのだ。
あの兄弟と過ごしていた、あの家で。
髭切とお別れをしたあの夜、彼から鍵を受け取っていた。彼らの家には、私の私物がまだ残っていたためだ。
「僕らは、もうあの家には戻らないけど」
彼は期待を残さないようにか、そう言った。
髭切がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。それでも、もしかしたら。もしかしたら、気が変わるかもしれない。ふらりと、立ち寄るかもしれない。
そんな気持ちは、どうしても残ってしまった。そのため、私物を回収した後も、何回か休みの日にあの家へ行っていた。
家は、家具もそのままで。彼らが生活していた痕跡がそのまま残っているのに、主のいない家はひどく冷たかった。電気も、ガスも止まっている。それでもたまに行っては少し掃除をして、そのまま泊まってしまう日もあった。
もちろん、彼らが来た事など一度もない。
鶴丸の十字架のネックレスが彼の元に戻っているのも、髭切がそのまま残しておいてくれたからだ。
「彼のネックレスも、返してあげてよ」
わざわざ、髭切はその言葉を伝えてくれた。
「触りたくないから、その辺に放置してあるけど」
その言葉通り、ネックレスは投げ捨てられた状態のまま放置してあった。よほど触りたくなかったのだろう。そもそも、触れるものでは無かったのかもしれない。
鶯丸が、鶴丸に触れなかった時の事を思い出す。
あの様子が本来のものだとすると。髭切はあの時、どれだけ我慢をしていたのだろうか。
それを考えると、鶴丸があのネックレスに信頼を置いている事についても、十分納得がいった。
仕事を終わらせて、一度自宅へ戻って。今夜はあの家に泊まるつもりで、支度をする。
あの家に行くのは、もうこれで最後にするつもりでいた。だからこそ、鶴丸達との飲み会も断ったのだ。
このままこんな事を続けていては、いつまで経っても先に進めない。あの家に行く限り、兄弟の影をいつまで追ってしまう。
区切りとして今日を選んだのは、去年のこの日。ハロウィンのこの夜、髭切が訪れてきた記憶がそうさせているのかもしれない。
彼が来ない事は、頭では分かっているのに。未練がましい感情が、何か区切りがないと諦めさせてくれない。
私は、後悔してしまったのだ。あの時の決断を。
あの時、ついて行けば良かったと、何度も後悔した。日常を送っていても、たとえそれが楽しいものであっても……心のどこかで、いつも小さい穴がぽっかりと空いている。
けれどそれは、ついて行ったとしても同じ事だったかもしれない。整理がつかないまま、人間をやめて。今となっても、どちらの選択が良かったのか分からない。
ただ確かな事は、それは他の誰のせいでもなく、自分自身が導いた結果なのだと。
私の選択で今があるのだと、それだけははっきり言える事だった。
自宅からあの家に行くには、繁華街を通る必要がある。毎年、この時期の繁華街は、仮装した人で混雑している。今年も例外なく、街中は人で溢れかえっていた。
夜だというのに、街中は昼間のように賑やかで。去年と同様、今年も例の連続殺人事件が話題となったからか、吸血鬼の格好をした人が多かった。
黒いマントに、口元についた血糊のペイント。顔色は明らかに悪く、目の下には隈ができている。いわゆる、おとぎ話に出てくる吸血鬼の格好を人々は真似て、この日を楽しんでいた。
それを見たら、髭切は「人間は面白いね」と笑ったり。膝丸は「滑稽だな」とでも言うのだろうか。
そう思うと思わず笑みが溢れ、しかしすぐに、切なさが込み上げる。
こうやって、何かにつけて彼らを思い出しては駄目だ。これではいつまで経っても未練が絶ちきれない。
とにかく、早くこの人混みを抜けたかった。この場では、普通の私服である私の方が、場違いのように思える。
奇怪な衣装の人々に圧倒されてか、辺りを見回しても、私服姿の人は埋もれてしまっていた。
そういえば去年、この中に人ならざるものが紛れ込んでいても分からないと思っていたな──と。そう思い出していた、その時。
目の端にふと映ったものに、足を止める。
キャメルの、トレンチコート。
思わず息を呑む。すぐに振り返れば、そこにはもう、人がごった返していて。
けれど、確かに。
確かに、見えた気がしたのだ。
足はそちらへと向いていた。考えるより先に、一歩を踏み出す。
人の流れに逆らうように。何度もぶつかりそうになるも、歩みを進める。心臓が、呼吸が、止まりそうだった。人混みを掻き分けて、合間から何とか前を見て。
人違いかもしれない。キャメルのトレンチコートなんて、着ている人はいくらでもいるのだから。それでも、あのシルエットは、もしかしたら。そう思ったら、焦る気持ちが痛いほど胸を締め付けた。
必死に探しながら人混みを避けているうちに、人の波から抜け出していた。辺りを見回せば、ふと、誰かが路地裏へと入って行ったのが視界に入る。
心臓が、強く打ち付ける。ゆっくりと近づいていけば、そこは細く、暗い路地裏が奥へと続いていた。
表の喧騒からかけ離れ、切り離されたような闇が広がっている。
無意識のうちに、こくりと唾を飲み込んだ。けれど、選択は端から一つしかない。
一歩足を踏み入れ、そのまま進めた。
コツ、コツ、と、自分の足音だけが辺りに響く。奥へと進むにつれ、表通りのざわめきはどんどん遠退いていった。
そして、行き着いたその先。
行き止まりとなっている袋小路に、二人、暗闇の中で静かに佇んでいた。
「ついてきちゃったんだね」
一人がそう言う。穏やかな口調に、柔らかい声色。
暗くて顔はよく見えないけれど、笑みを溢しているのは伝わってくる。
「君は学ばないな」
もう一人が、口を開いた。
その言葉は、決して咎めているものではなく、苦笑が乗っている。
言葉にならなかった。目の前の二人が、懐かしくて、でも信じられなくて。
あんなに会いたくて、でも会えるとは思っていなくて。
何か、言わなくてはと。そう思うのに、胸がひどく締め付けられ、声にならない。込み上げてくる涙を、我慢する事が出来ない。
何か言おうとする度、どんどん目の奥から涙が溢れ、言葉を出せなかった。
「ありゃ。膝丸、お前が咎めるから泣いてしまったじゃないか」
「な……っ! いや、俺は咎めたつもりでは!」
二人のやり取りに、思わず笑ってしまうも、それでも涙腺が壊れたかのように涙が止まらない。
泣きたくなかった。せっかく、会えたのに。
急いで目元を拭っている間に、コツ、と靴の音が響いた。
「そんなに擦ると、真っ赤になってしまうよ」
目の前に来た髭切は、私の手をそっと取る。
見上げれば、彼は目元を細めて微笑んでいた。
「髭、切、さん」
出た声はしゃくり上がってしまった。それでも彼は「ん?」と優しく答えてくれる。
間違い、ない。目の前に、彼がいる。
「会いたかったです、っ、ずっと。ずっと、後悔してました。ついていけば、良かったって」
言葉にすると、また視界に涙の膜が張り始める。
ついていけば良かったと。ずっとそう思っていた。戻った日常はすぐ体に馴染んだものの、心の片隅にはいつも彼らが居た。
それでも、時間がいつか解決してくれると、そう思っていたのに。
彼らと会って、こんなにも感情が溢れてしまえば、もう迷いなんてない。
「私も、一緒に、連れて行ってください」
肺が震えて、言葉にするのが精一杯だった。涙で前がほとんど見えない。きっと、顔はぐしゃぐしゃになっているのだろう。
それでも、ちゃんと目を見て伝えなければと。
彼を真っ直ぐ見上げて、口にした。
「うん。もう、そのつもりでいるよ」
そう言った彼は、私の手を引いた。前のめりになりながら、そのまま彼の胸へと飛び込む。
「君が、ちゃんと決断してくれたから。僕達についてきた事、後悔させないようにする」
髭切はあの時のように、私を腕の中に包み込むと、そう呟いた。
抱き締められ、心臓は痛いほどに早鐘を打っている。それでも、胸に広がるのは安心感だった。
髭切の背中に、腕をそっと回す。すると彼は、「ねえ」と、私へ言葉を溢した。
「君は、僕の事好き?」
突然のその言葉に、思わず呆気にとられるも。直後、急速に顔へと熱が集まった。
どうして、いきなり。心臓は、更に緊張を訴え始める。
「ほら、あの時聞けなかったから」
髭切はそう軽く言う。確かに、言えなかったけれど。あまりにいきなりではないか。
けれどおそらくこれは、彼にとっての確認で。
あの時言えなかった事を言わなくてはと、恐る恐る口を開いた。
「私は髭切さんの事、好き、です」
実際に口にすると、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がない。おかげで、あんなに止まらなかった涙は、見事に引っ込んでしまった。
きっと、それが彼にも伝わっているのだろう。
ふふっ、と楽しそうに笑うと、僕も、と呟いた。
「弟もね、君の事が好きなんだよ。ね」
突然そう言ったかと思えば、髭切は顔だけ後ろを向いた。釣られるように、私もそっとそちらへ視線を向ける。
その先にいたのは、もちろん膝丸だった。暗闇に目が慣れてきたためか、何となくその表情が窺える。
膝丸は口を薄く開き、固まっていた。
「なっ」
「ね?」
「いや、」
「今日の計画を話した時、大賛成していたじゃないか」
「っ、それは、兄者のためを思って」
「だが嫌いなら賛成しないだろう?」
髭切のその言葉に、膝丸は口をつぐむ。
私は二人のやり取りを、ただ聞いている事しか出来なかった。
「……俺は、兄者の好きとは違うが」
ぼそりと、膝丸は呟くように言う。
「妹ができると思えば、悪くない」
そう言ったかと思えば、彼はすぐに顔を背けた。
おそらく膝丸なりの、精一杯な私への気遣いなのだろうと。
そう感じれば、胸に温かいものが広がった。
「良かった。満場一致だ」
そう言った髭切は、私の名を呼ぶ。
見上げれば、彼と目が合った。
その瞳は、初めて会ったあの時とは全く違う、温かくて柔らかいもので。
「次に目が覚めた時、君は僕達と同じになっているけど」
本当にいいのかい? と、髭切は再確認する。その言葉に、深く、深く頷いた。
それを見て彼は微笑むと、私から少し離れ、うなじに手を宛がう。
「これからも、よろしくね」
柔らかい声色。どこか既視感を覚えるこの状況は、初めて出会ったあの時のような恐怖を、全く感じない。
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
あの時は言えなかった言葉を、口にする。髭切は目を細めて微笑むと、私の首筋に、そっと顔を寄せた。
ひんやりと冷たい彼の唇が、首元に触れる。
けれど流れるように入ってくるのは、温かさを感じるものだった。
それは痛みを感じるでもなく、あの甘く強い刺激でもなく。とても、緩やかなもので。
その感覚が、全身へと広がっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、眠りにつくように。
彼らを近くに感じながら、目の前が真っ暗になっていった。
完