「ふふ……だんだん大きくなってくだろ?」
Pさんのマタニティフォトを毎日撮影していたみのりさんと、Pさんと、生まれてきた赤ちゃんのお話です。
@toasdm
床に貼り付けたバミリテープは二箇所あった。ひとつは壁際に、もうひとつはそこから二メートルも離れていないところに。みのりはそれらをそっとはがして、はがした跡をいとおしそうに指でなぞった。
今日、この家に家族が増える。日当たりのいい別室に据えられたベビーベッド、その上に吊るされたメリーゴーランド。この世の中にある幸福をそのまま形にして取り出したとしたら、恐らくそれらのうちの何点かは、こんな形をしているだろう、とみのりは目を細めた。何の気なくその陽だまりの部屋でシャッターをきり、みのりは車のキーをひょいっと空中に放り投げてキャッチして、家を出た。
時間に余裕があるとはいえ、こんなに緊張するのはいつぶりだろうかとみのりは何度も時計を確認する。しっかりものの彼女のことだから、今頃普通に退院の会計を済ませて部屋でのんびりと、あ、のんびりとはしてないかも、と想像の中ですら忙しくあれこれと気を回している彼女に想いを馳せながら走る車道は、混雑していたが幸福だった。病院の駐車場に車を停めて降りた足、普通のハイカットのスニーカーはまるで羽でも生えているかのように軽やかだった。
「お待たせ」
「みのりさん」
病室のドアをそっと開けると、二人は示し合わせたかのように小声でひそひそと話す。ほんとよく寝る子だよね、と眠る赤ちゃんを抱いた彼女に近付いて、みのりは健やかな頬にそっと触れた。
「柔らかいな……っふふ」
「親孝行だから、よく寝てくれるのかも」
ふぇ、と泣きもせず、赤ちゃんは彼女の腕の中ですやすやと寝息を立てている。生まれたときは俺に似てるかな、君に似てるかも、などとはしゃいでばかりいて写真を撮る余裕すらなかったみのりだが、一週間毎日通い詰めるようになって徐々に慣れてきたのか、みのりは周囲が呆れるくらいにシャッターを切り続けた。フラッシュと音を何度も確認して、みのりはまた、慎重に、眠る赤ちゃんを抱く彼女の写真を少し離れて撮影した。
「あ。そうだ」
「?」
持ってきたトートバッグから取り出したのは、小さいながらも分厚いアルバムで、みのりはそれを彼女の隣に腰掛けて、広げて一緒に見ようと肩を抱き寄せた。
「あ……」
それは、先ほどテープをはがした床の上に立つ、彼女のサイドからの一枚を収めたアルバムだった。
連続したそれらは毎日分、彼女の妊娠が発覚してから出産の為に入院するまで約三百枚分。
「ふふ……だんだん大きくなってくだろ?」
みのりの言うとおり、徐々にお腹がせり出してきて、パラパラとめくるとまるでアニメーションのように大きくなる彼女の姿を、みのりは毎日、同じ場所から撮り溜めてきたのだ。
「いつかこの子が大きくなったらさ、みせてあげようよ。君が大きくなるのを俺たちはこんなに大事に待ってたんだよ、って教えてあげたい」
幸せを手渡す手段はいくらあっても困らないだろ?とはにかんで笑うみのりは、以前よりもずっと頼もしく、父親らしくなったように彼女には感じられた。うん、と幸せそうに微笑む彼女を優しく抱き寄せて、みのりは荷物をまとめる。
「帰ろう、俺たち三人の家に」
差し出された手を受け取った彼女と似たような顔が、二人の間で穏やかに眠っている。ベビーシートにそっと寝かせて、車はゆっくりと走り出した。
「まだハイハイには早いと思うけどさ」
信号待ちの合間に、みのりはぽつりと後部座席に話しかける。
「バミリ、はがしちゃったんだよね。うちの子が食べちゃったら困るだろ?」
「……っふふ」
みのりさん、気が早いですよ、と笑う彼女に、笑わないでよ、と照れくさそうにみのりも笑う。バミリなくても写真は撮れるしさ、と車を再びゆっくりと走らせながら、みのりはアルバムを埋められる幸福感と共に帰路に着いた。
ひとつは壁際に、もうひとつはそこから二メートルも離れていないところに。
床に貼り付けられていた幸せを記録するためのバミリテープは、二箇所だった。