@toasdm
何らかの、自分にとって都合の良い聞き違いをしたのではないか、と道流は耳を疑った。しかし目の前でカウンターに突っ伏している彼女はぐったりとしながらも、先ほどと同じ台詞をもう一度、繰り返している。
「私、この味と、結婚する~……」
「味……味玉、じゃ、ないッス、よね……?」
自分が彼女に対して抱いている思いは、そっと包み隠して穏便に済ませようと思っていたところに、こんな、結婚などというセンシティブなワードを出されてしまうと、さしもの道流も動揺が色濃く出てしまう。頬はカウンターにつけたまま顔だけを道流の方へ向け、彼女は疲れた、と情けない声を出している。
「お疲れッス、師匠……」
「うぅぅ……」
このままじゃお客様にお出しできないんで、とハネ品の味玉を彼女に持たせるようになって随分経つが、彼女はすっかり、そのおこぼれの虜になってしまったようで、とびきりの笑顔とおいしかったですの言葉、洗った空っぽの密閉容器と交換で毎週、道流は彼女を密かに餌付けしていた。
三十分前。疲労困憊といった様子の彼女がふらりと男道ラーメンに顔を出したので、道流はいつものように、殻剥きの際に白身が少々剥がれてしまった味玉を密閉容器に詰めて彼女に持たせようとしたのだが……。
「疲れたぁ~……」
「し、師匠っ」
ふらふらと、カウンターの椅子に腰掛けると、彼女はそのままカウンターに突っ伏してしまった。思わず駆け寄った道流の前、スーツの下で彼女の腹は、ぐきゅるるるぅ~、と情けないSOSを発信した。ハラ減ってちゃリキ出ないっすよ、と苦笑して、道流は表の暖簾を片付けてから、いそいそと軽食の準備を始めた。
チャーハン、ラーメン、餃子に唐揚げ。ぱぱっと手早く複数の料理をこしらえて、道流は労りの言葉と共に彼女の前に並べた。
「うぅ……」
「食ってくださいッス」
朗らかな笑顔に促され、彼女は割り箸をパキンと割って一口ラーメンをすすった。
「……うぅぅぅ~」
「ま、不味かったッスか……?」
そしてそのままカウンターに突っ伏して、彼女は隣に座った道流の方すら見ずに、ぼそっ、と小さく呟いたのだ。
「私、この味と、結婚する~……」
ここしばらくの餌付けの成果だろうか、彼女はすっかり道流の料理の味に馴染んでしまったようで、心身の疲労を拭うような慈愛に満ちた手料理は、とうとう彼女にそんなことを言わせてしまったのだ。疲れてるんスね、とそっと彼女の頭を撫でて、道流はのびちゃうんで、とラーメンを勧める。おとなしくすすりながら彼女は、自分が今口にした気持ちと共に愛情の一杯を噛み締めた。
「……おいしぃ……」
「よかったッス」
こんなことを聞いてもいいのかどうか、迷いがなかったとは言えなかったが、しかし道流の口は、道流の意志とは関係なく、彼女に問いかけをしてしまった。
「……あの、師匠。それは嬉しいッスけど……味だけ、ッスか?」
「違う~……食感も量も栄養も全部……飼い慣らされたい~……私もうこれがないと生きていけないぃ~……」
間延びした口調に、相当参ってるんだな、と苦笑しながら、道流は味玉をかじる彼女にさらに問いかけた。
「あー。そういう意味じゃないッスよ」
「んん……?」
もぐもぐと、慣れた味の味玉を頬張って、空腹が満たされて少し余裕が出てきたのか、彼女はほっこりと笑う。大好物は最後に食うんスね、とラーメンを食べきった彼女の手をとって、道流はじっと、彼女の瞳を覗き込んだ。
「飯だけッスか、自分のこと、必要としてくれるのは」
「……」
そこで黙るということは、彼女にもうっすらと、自覚はあるのだろう。想いが同じなら、と道流はハラを決め、ぎゅ、と手の中の彼女の手を握りこんだ。
「自分が必要とされてるのが、飯だけならよかったんスけど」
抵抗はなく、瞳はじっと、潤んだままで道流を見つめ返す。
「……そうじゃない、って気付いちゃったら、もう駄目ッスね」
見逃せない、見過ごせない。彼女が必要としているのが、味も含めた自分自身なら、と、道流は両手で包んだ彼女の手をそっと持ち上げ指先に口付けを落とした。
「自分のこと、好きなんスよね?」
ぽろぽろと、涙を零して好きだと言う彼女がなぜこんなに疲れているのかまではわからなかったが、それもいずれ、自分がそういったものから彼女を守ってやればいいだけだ、と決意を新たに、道流は彼女を優しく抱きしめる。
「……自分も、師匠が好きッスよ」
「道流さぁ~ん……」
ぎゅう、と抱きしめた彼女の体は想像よりもずっと小さくて、もうこれは、絶対に自分が守りたい、と思わざるを得ないほどだった。
「可愛い師匠には、味玉もうひとつサービスしとくッスよ」
涙味の味玉をさらにひとつ追加して、道流は彼女がおいしそうに食事を平らげるのを幸せな気持ちで見届けていた。