平成31年4月25日に発行した同人誌「おはよう/おやすみ」より全文掲載。
推しが推しの寝顔を見たり逆に見られたりする話の詰め合わせ。III,IV時空かつ諸々捏造有。
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目次
2ページ
木漏れ日の下 / はるグレ
京終さんにテスト勉強させたいグレイスちゃんの話
3ページ
手のひらからあなたへ / ライレフ
すやすや寝てる弟君を眺めてるオニイチャンの話
4ページ
ずるい子 / プロ氷
寝顔が見たい識苑先生と氷雪ちゃんの話
5ページ
新たな朝を迎えに / レイ+グレ
レイグレ姉妹が一緒に寝てる話
6ページ
おはよう/おやすみ / ハレルヤ組
ハレルヤ組がこたつで寝てる話
木漏れ日の下 / はるグレ
全ての授業が終わり、ホームルームも済んだ土曜日の昼下がり。普段ならば昇降口や部室へ向かう生徒が行き交う廊下は、今は閑散としていた。窓の外に広がるグラウンドには運動部の影はなく、校内に響く楽器の音色もない。常は活気に溢れた学園は、どこかひっそりとしていた。
廊下の様子とは真逆に、常は人が失せ静寂とした教室からは様々な音が聞こえてくる。鉛筆が紙の上を走る音、紙がめくられる音、授業中と相違ないそれらが人気の無い空間に響く。違うところを挙げるならば、聞こえるのは教師の声でなく、生徒たちの真剣な声や思い悩む呻りであることだ。
「わっかんねぇ……」
ゴン、と痛々しい音をたてて机に突っ伏した朱い頭から、酷く重苦しい声があがる。半ば放り投げるように手から滑り落ちたシャープペンシルが、その下敷きになった真っ白なノートの上に落ちた。上に並べて広げられた教科書は書き込みはおろか折り目一つついておらず、それがろくに使われていないことをよく表していた。
「先ほど授業でやったところではありませんか」
悲壮感を漂わせる片割れの様子に、烈風刀は呆れ果てた表情で言う。普段ならば怒気がにじむ音で紡がれるであろうそれは、呆然に近い音をしていた。誰よりも兄の勉強嫌いを理解している彼だが、ほんの数時間前に学習したばかりの範囲でこうも苦戦しているのを見てはさすがに怒りすら湧いてこないようだ。はぁ、と深く吐いた息には疲労の色が強く見えた。
「だってー……」
「大方寝ていたのでしょう」
「たしかに寝てたわね」
えぐえぐと泣き声をあげ言い訳を並べ立てようとする朱を、隣に座る碧がバッサリと切り捨てる。向かい側に座った躑躅が、追い打ちのように肯定の語を発した。浅葱の瞳が、打ちひしがれた紅梅を睨めつける。ほんの少しだけ上がった朱い頭が、鈍い音をたてて再び机に突っ伏す。普段と変わらぬ光景に、薔薇の少女はくすくすと小さな笑声を漏らした。
「大丈夫デスヨ。分からないところを無くすためにミンナで勉強会をしているんデスカラ。雷刀も一緒に頑張りマショウ?」
「うん……」
レイシスの優しい励ましに、力ない声が返される。少女の健気な言葉に応えるべく、雷刀はのろのろと顔を上げた。普段は八重歯が覗くにこやかな口元は、今は大袈裟なほどの悲嘆と辛苦で歪んでいる。うぅ、と泣き声に近い呻きを漏らし、少年は机上に転がったペンに手を伸ばした。
春も終わり夏に差し掛かる五月の末、ボルテ学園高等部は中間試験を目前にしていた。試験直前に行われる特別補講は午前で終わったが、テスト勉強をするために残っている者も少なくはない。部活動が禁止され多くの者が帰宅したこの時間、教室内には空いている机を寄せ教科書や問題集に向かう生徒たちの姿がいくつも見られた。レイシスたちもその一組だ。放課後勉強会をしマショウ、という少女の提案の下、高等部二年に属する四人は己たちの机を寄せ合わせ、教師から事前に告げられた範囲を重点に復習をしていた。
数学の教科書と問題集を交互に睨み、グレイスは静かにペンを走らせる。華奢な指が可愛らしいデザインのそれを操る度、几帳面な字でいくつもの数式が描かれていく。時折手を止め教科書や自身のノートを見返しつつも、少女は回答用の大きな空白を埋めていった。
「分からないところはありマセンカ?」
小問題を一つ解き終わり、次の文章題に視線を移したところで、隣から問う声が飛んでくる。半ば睨むように紙面に向けられていた躑躅の目が、声の主へと向けられる。上がった視線の先には、こちらを覗き込むレイシスの姿があった。介意が見える声音とは正反対に、桃色の瞳はどこか楽しげにキラキラと輝いている。きっと、皆で勉強会をできることが嬉しいのだろう。
ナビゲートシステムというゲーム運営における最重要な存在であるレイシスは、常に業務に追われており、他の者に比べ学生らしい生活を送れずにいる。一切気にしていないという風に振る舞う彼女が確かな寂しさを覚えているのは皆が知っていた。だからこそ、今日のような『放課後に皆で集まって勉強をする』という学生らしいイベントは、薔薇の少女にとって楽しくてたまらないのだろう。浮き足だった様子の姉を見て、真剣に引き結ばれていた躑躅の口元がわずかに緩んだ。
「ここは大丈夫なんだけど……、こっちのがよく分からないのよね」
悩ましげに眉を寄せ、グレイスは細い指で紙をたぐり一ページ前の問題を指す。明確な解法が思い浮かばず、後にしようと一旦飛ばしていたものだ。記述のために空いたスペースの端には、式が書かれては消された跡が残っていた。
「あぁ、これはデスネ」
問題文に目を通し、レイシスは自身の教科書の下に重ねていたノートを手に取る。美しい細い指がページを繰り、似たような問が書かれた場所を探し開く。整然と並んだ式の周りには、要点を的確にまとめた解説が丁寧に書き込まれていた。二色のペンを使い分け詳しくまとめられたそれは、授業中教師が示した言葉を書きとめただけでないことが一目で分かる。彼女の日頃の努力がよく表れたものだ。
「こういう風にこっちの公式も使うんデス」
「……あぁ、そっか」
ノートと教科書を往復して指差し、レイシスは解に繋がる道を示していく。姉の言葉を真剣な様子で聞いていた妹は、しばしの沈黙の後力強く頷いた。点在していた小さな疑問がようやく解け、少女は示された公式に必要な数字を当てはめていく。ほどなくして、放置されていた大きな空白は丁寧な数字と記号で埋められ、導き出された数字が解を記す欄に描かれた。
「これでいいのよね?」
「えっと……、そうデス! 正解デス!」
少し自信なさげな様子で、躑躅の少女は先ほど訊ねた部分を差し出す。並んだ数字群をしばし眺め、薔薇の少女はにこやかな笑みを向けた。己の導き出した解が間違いでないと分かり、グレイスは安堵の溜め息を吐いた。
「他は大丈夫デスカ?」
「引っかかってたのはここだけ。あとは今のところは大丈夫よ。……ありがと」
くりくりとした可愛らしい瞳で見つめる姉に、躑躅は平気だと言うようにペンを振って返事をする。付け足されたような礼の言葉は、未だ言い慣れない故に呟きのようなものになってしまう。それでも、薔薇の少女にはしっかり聞こえただろう。どういたしマシテ、と弾んだ声と花開くような笑顔が最愛の妹に向けられた。
ページを戻り、グレイスは残る空欄にペンを走らせる。姉の教えのおかげもあってか、今度は手が止まることはない。苦手意識を抱いていた範囲を全て終え、少女は小さく息を吐く。知識と思考を総動員した疲れは大きいものの、たしかな達成感が胸の内に広がった。この調子で頑張らねば、とやる気に満ち溢れた瞳が次の問題を読み解いていく。一年の範囲を主としたそれを解いていく内に、ふと脳裏に見知った黒がよぎった。今は関係が無いというのに、一度浮かんでしまったとらえどころのない金の瞳は、頭の隅に居座り離れない。少女の細い眉が小さく寄せられた。
「グレイス? どうしマシタカ?」
鈴のように軽やかな声が己の名を紡ぐ。はっと顔を上げると、視界の端にこちらを見つめる桃の瞳が映った。不思議そうな色が浮かぶそれに、少女はようやく己の手が止まっていたことに気付く。あぁ、と受け答える声は気の抜けたものだ。
「……始果のやつ、ちゃんと勉強してるのかしらと思って」
シャープペンシルの頭を口元に当て、躑躅はぽそりとこぼす。小さく奏でられた音色には、わずかな憂慮が見えた。
グレイスと一緒にネメシスに迎え入れられた始果は、彼女の一つ下である高等部一年に編入していた。しかし、ただ躑躅の少女と共にありたいがために籍を置いている彼は、学業自体には一切興味がなく、勉強している様子など全く無い。見かねた青髪の級友がいくらか面倒をみてやっているようだが、その世話焼きな優等生が頭を抱え嘆いている姿を少女は何度も見ていた。彼伝にクラスで行われた小テストを白紙のまま提出したと聞いて、思わず説教したことは今でも覚えている。それでも欠片も変わらないのだから、呆れる他ない。
「授業は受けてるみたいだけど、全然理解してないみたいなのよね。大丈夫なのかしら」
はぁ、と少女は重く息を吐く。グレイス自身、他人の心配をしている暇があるのかと問われれば否だ。けれども、あれほどまでやる気のない姿を知ってしまっては、面倒を見てやらねばと思ってしまうのも仕方がないことだろう。このまま留年されては堪ったものではないのだ。自分の理解も深まるから、と己に言い聞かせ、余裕がある時に分かる範囲は教えている。それでも、あまりのやる気のなさ故に、効果があるかと問われれば黙り込み目を逸らすレベルである。
「では、始果君も呼んではいかがでしょう? 今回のテストは一年の範囲も多く含まれていますし、ちょうど良いかと」
烈風刀は一度手を止め、難しそうに口を引き結ぶ少女へと問う。元より世話焼きな性分だからか、はたまた何か通じるものでもあるのか、彼は狐面の少年のことを以前からよく気に掛けていた。今回もグレイスの話を聞き、少しの懸念を覚えた故の提案なのだろう。
思ってもみない言葉に、躑躅の目がぱちぱちと瞬く。たしかに、今年度二年に編入したばかりで一年の範囲をまだ理解しきっていないグレイスよりも、きちんと修めた烈風刀が教える方がより適切だろう。しかし、始果を呼ぶということは、教える側である彼らの負担が増えるということだ。すぐ隣で泣きそうになっている兄や自分に教えるだけでも十二分に忙しいだろうに、これ以上の負担を強いる羽目になるのは気が引けた。
「……大丈夫なの?」
「えぇ」
「もちろんデス!」
おそるおそる訊ねる躑躅に、薔薇と浅葱は優しく頷く。二人の温かな言葉に、グレイスはありがと、と拙いながらも礼を伝えた。素直な様子に、紅水晶と翡翠が愛おしそうにゆっくりと細められた。
「じゃあ、ちょっと探してくるわ」
「携帯で連絡すればいいいんじゃなインデスカ?」
そう言って立ち上がろうとした妹を見て、レイシスは首を傾げる。今の時代、手のひらサイズの小さな端末一つで連絡が取れるのだ。わざわざ校内を探す必要はないだろう。疑問に満ちた薔薇の顔を見て、躑躅も同じ方向に頭を傾ける。高い位置で結ったサイドテールがふわりと揺れた。
「あいつ、携帯なんて持ってないわよ?」
「えっ? じゃあ、いつもはどうやって連絡取ってルンデスカ?」
「……何も言わなくても、知らない内に隣にいるのよね」
グレイスの言葉に、一同はあぁ、と気の抜けた声を漏らす。どういう理屈かは全く分からないが、始果は少女の隣にいきなり現れることが多い。少女が彼を求める言葉を紡いだ次の瞬間にはその場にいるなんてことは日常茶飯事だ。酷く抽象的で非現実的な答えだが、二人と共に過ごしている人間には納得に足るものだ。
椅子の脚が床を擦る音と共に、少女は立ち上がる。机上に広げた冊子を手早く閉じ、邪魔にならないよう隅に重ねて置いた。
「多分まだ帰ってないだろうし、どこかにいるでしょ。探してくるわ」
「あっ! オレも――」
「雷刀は黙っていてください」
少女に続き立ち上がろうとした雷刀の襟を、隣から素早く伸びた腕が力強く掴む。そのまま、腕の主である烈風刀は掴んだそれを力いっぱい引き、兄を無理矢理椅子に座らせた。朱い少年の喉から聞き苦しい声があがった。
いってラッシャイ、と見送る姉に軽く手を振って返し、グレイスは教室を出る。カラカラと軽い音をたてる引き戸を閉め切ると、先ほどまで聞こえていた音はどこかくぐもったものに変わった。くるりとつま先でターンし、少女は廊下を歩く。ここから一番近いのは、彼が籍を置く一年の教室だ。まずはそちらに行こう。
階段を下り、該当の階に出る。廊下に面した窓から教室内を覗いて回るが、見慣れた黒の姿は無い。予想通りの結果に、グレイスは足を止めることなく教室棟を歩いて行く。階段下の狭い部分、掃除ロッカーの陰、照明の当たらない隅といった薄暗い場所を、少女は真剣な表情で覗いていく。事情を知らない人間が見れば、猫でも探しているのだろうかと勘違いするような動きだ――相手はすぐに姿を消すつかみどころのない狐なのだから、当たっているようなものだけれど。
心当たりのある場所をひとしきり回り終えたが、探し人は相変わらず見つからない。教室棟にはいないと思っていいだろう。あとは、と少女は踵を返す。階段を上り来た道を途中まで戻って、今度は特別教室棟に続く渡り廊下へと向かった。
特別教室棟、一階端にある開け放たれた非常口を出て、そのまま外周をなぞるように裏手へぐるりと回る。反対端を目指して、少女はまっすぐに歩みを進める。高い棟が作る大きな影がようやく途絶え、日差しが降り注ぐ場所へと出る。眩しさに目を細めながら、グレイスは空へと枝を伸ばす木々に沿って歩む。しばしして、特別教室棟から少し出たほとんど学園の端に近い、敷地を囲むように並ぶ木が途絶えた場所に出た。このあたりだっただろうか、と少女は辺りをきょろきょろと見回す。以前、ここで彼が眠っていたのを見かけたことがある。教室棟にいないのならば、ここが最有力候補だ。
サクサクと草を踏みしめる音が人気の無い静かな空間にこぼれては消えていく。程なくして、柘榴石の瞳が陰った場所に常磐色を捉えた。ようやく見つけたその姿に、少女は小さく息を吐く。そのまま、足早にそこへと向かった。
春に生まれたばかりの若い葉が大きく広がる木の下には、探し求めていた少年――始果が眠っていた。最近になってようやく着るようになった学園指定の白いジャケットは、乱雑に畳まれ脇に置かれている。その上には、常に頭に括り付けている狐面が放り投げるように載せられていた。年中身に着けている深緑の襟巻きはぐるぐると毛糸玉のようにまとめられ、枕代わりに頭に敷かれている。横を向き軽く丸まるように眠る姿は、大きな獣のようだった。
「始果」
少年の傍らにしゃがみこみ、グレイスは名を呼びながらその肩を軽く叩く。蹲った彼は身動き一つせず、普段ならば少女をまっすぐ見つめる月色の瞳は瞼の奥に隠れたままだ。この程度では、彼を目覚めさせることはできないようだ。
「始果、起きなさいってば」
今度はぐいぐいと押して身体を揺さぶる。細い体躯がぐらぐらと揺れるが、闇夜色の睫毛に縁取られた目は閉ざされたままで開く気配すらない。何度名を呼び揺さぶろうが、眠りの海に沈んだままの少年はぴくりとも動くことがなかった。
珍しい、と少女は驚いたように大きく瞬きをする。普段の彼ならば、名前を呼んだ時点で飛び起きるはずだ。それどころか、近づいただけで瞬時にその場から姿を消し、何事もないように己の隣に並び立ってくるだろう。だというのに、今日は返事はおろか、目を開けてこちらを見ることすらしない。いきなり現れるな、と度々叱り飛ばしている彼女だが、眠っているとはいえこれほどまで反応が無いのは何だかつまらなく思えた。もやもやとした何かが胸の内に広がっていく。マゼンタの大きな瞳が、不機嫌さをあらわに眇められた。
はーるーかー、と、ふつふつと湧き出る感情をぶつけるように、少女は目の前の白い頬をぺちぺちと叩く。顔面を遠慮無く触られているというのに、少年は変わらず目を閉じ静かに寝息をたてるだけだ。何よ、と怒気を孕んだ呟きが昼下がりの空気に溶けて消えた。
「……そんなに寝心地良いのかしら」
呑気な寝顔を眺め、少女はぽそりと小さな疑問を漏らす。いつでもどこでも隣に存在する少年が己の存在を認識することなく眠り続けるなど、よほどの理由があるに決まっている。彼がこれほどまで深い眠りについてしまうほど、この木陰は心地がいいのかもしれない。事実、広がる枝と青葉が夏めいた眩しい陽光を適度に遮り、手入れされた柔らかな芝のあるここは、こうしてしゃがみこんでいるだけでも十分に快適だ。寝転べば、更なる心地良さが得られるのは容易に想像ができる。
まだ知らない感情がぐるぐると渦巻く胸の内に、好奇心が顔を覗かせる。小さなそれはどんどんと膨らみ、少女の心をくすぐった。少年の肩を掴んでいた小さな手がそっと離される。不満げに眇められていたスピネルが、そわそわとした様子で辺りを見回す。ちょっとだけならいいわよね、と言い訳に似た呟きを漏らし、グレイスは始果の隣にそっと腰を下ろした。そのまま、彼に背を向けこてんと草の上に倒れ込む。躑躅色の長い髪が、若草の上を流れるように広がった。
若い下草が、制服から覗く細い腕をそっと受け止める。細かなそれは少女の肌を傷つけることはなく、むしろ労るように小柄な身体を優しく包んだ。頭上に広がる若枝は生まれたばかりの青葉とともに影を落とし、二人を強い日差しから守るように覆う。陽光が適度に遮られているからか、気温が少し低くなったように感じた。たしかに、これは昼寝をするには最適だろう。
さぁと駆け抜ける初夏の風が、若々しい梢を揺らす。涼やかなそれが草葉を撫で上げ、さらさらと軽やかな音を奏でた。穏やかな暖かい日和の元を、子守歌のようなさざめきが響いていく。苛烈な感情でささくれた少女の心が次第に凪いでいく。
小柄な体躯を包む心地良さに、瞼が躑躅の瞳をそっと覆っていく。さっさと起こして戻らなきゃいけないのに、と頭で考えるも、少女はわずかに身じろぐだけで依然横たわったままだ。様々な問に立ち向かいフル回転した脳は思っていたよりも疲弊しているらしい。睡魔が囁く甘言に抗えず、細い身体からどんどんと力が抜けていった。
木漏れ日で淡く照らされた緑がどんどんと視界から消えていく。代わりに、深い黒が意識を塗り潰していった。再び吹いた清風が、白く透き通った肌を撫でる。寝かしつけるようなそれを受け、可憐な躑躅はゆっくりと暖かな眠りの海へと沈んでいった。
可愛らしい寝息が、熱を孕み始める夏の空気に溶けて消えていく。隣から聞こえるそれが深いものになったのを確認して、始果はぱちりと目を開いた。音も無く身を起こし、緑衣に身を包んだ少年は己に背を向け眠る少女を見下ろす。躑躅の花を思わせる柔らかで細い睫毛で縁取られた大きな目は伏せられ、健康的に色付く唇の間からは小さな呼気が漏れている。愛しい少女の穏やかな寝顔を見つめ、少年はそっと口元を綻ばせた。
グレイスがこちらに近づいてきた時点で、既にはっきりと意識が覚醒していた。普段ならば名を呼ばれるより先に飛び起き、すぐさま彼女の隣へと駆けていくが、今日は何故だか分からないが起き上がろうと全く思えなかったのだ。結果、空寝をし、少女を意味も無く手間取らせることとなってしまった。
退屈な授業を終えてすぐ、始果は一学年上に籍を置く少女の元へと向かった。しかし、同じく授業を終えた彼女は帰り支度をする様子はなく、教室に残りどこかはしゃいだ様子で姉らとノートを広げ何かを話していたのだ。
その向かいに座る碧い少年の姿に、忍の少年は自然と眉をひそめる。何故だかは全く分からないが、グレイスがあの少年と共にいるのを見ると、胸の内がもやもやとしたものでいっぱいになるのだ。本心を言えば無理矢理にでも割って入り引き剥がしたいが、実行すれば躑躅の少女は酷く嫌がり怒るだろう。今回はその隣に彼女が慕う姉がいるのだから尚更だ。胸中に渦巻く訳の分からないものを晴らしたくとも、そのために愛する少女が願い求め続けていた夢を邪魔することはしたくはなかった。
かといって、理解し得ぬ重い感情を抱えたまま普段通りに過ごせるほど少年の心は熟していない。どうしようか、と考えた末、以前級友が教えてくれた――というよりも、二色の瞳の少年に頼まれ、そこで寝ていた栗色の少年を見つけ叩き起こした時に知った――この場所に来たのだった。わだかまる何かをどうにか誤魔化そうと、狐面の少年は萌ゆる青葉の上に身を投げ出した。そうして、愛しい少女が探し訪れ、隣で眠りについた今に至る。
何故こんな行動に出てしまったのか、少年自身はっきりと理解していない――愛する躑躅が彼らから離れ、己ただ一人の隣にいてほしいと無意識に願ってしまったことを、彼は理解することができないだろう。その情に『嫉妬』という名前がつけられていることを、自我を持ち始めたばかりの狐は知らない。
寝転び若葉に身を預ける少女を眺め、始果は脇に脱ぎ捨てていた制服のジャケットを手に取る。新たな海の世界へと移り変わった際に一新された学園の制服は、胸元までしかないノースリーブのセーラ服に、太腿を惜しげもなくさらけ出したハーフパンツと、肌の露出が非常に多いものだ。穏やかな日和の中、木陰で和らいだ温かな日差しの元にいるとはいえ、このままでは身体を冷やしてしまう。軽く振って皺を伸ばし、大きく広げたそれを少女の細い身体を包み込むように掛けた。自身が身に着けていた衣服を彼女が着ている姿に、何だか胸の内が少しだけ満たされた気がした。
風に揺れる木々が小さな笑声を漏らす中、始果は安らぎに溢れる可愛らしい顔をじぃと見つめる。しばしの思案の後、音もなく立ち上がった。そろりと慎重な足取りで反対側に回り込み、再び柔らかな草の上に座り込む。そのまま、先ほどのグレイスと同じくゆっくりと寝転んだ。背中合わせだった二人が向かい合わせになる。目の前に広がる穏やかで愛らしい寝顔を眺め、琥珀の瞳が慈しみに細められた。
腕を伸ばし、少女の頬にかかる細く柔らかな髪を取り退ける。そのまま、始果はその白く柔らかな頬に己の手を沿わせた。手のひらから伝わるたしかな存在と幼子のような温もりが、心を覆う靄をゆっくりと晴らしていく。ようやく訪れた凪に、少年は細く息を吐いた。
「おやすみなさい、グレイス」
すべらかな頬を愛おしそうに撫で、始果は少女の名を囁く。木の葉が擦れるかすかな音にかき消されそうなほどのそれは、酷く穏やかな、幸福に満ちた音色をしていた。
舞台の幕が下りるようにゆっくりと瞼が閉じていき、二つの月が明けの空に消えるように姿を隠していく。己の全てである愛おしい躑躅を見つめた狐は、手招く微睡みに再び身を預けた。
手のひらからあなたへ / ライレフ
被ったタオルを乱暴に動かし、がしがしと濡れた頭を拭く。髪が含んだ水気を吸って、白く柔らかなそれがどんどんと湿り重みを増していく。拭いきれなかった雫が、肌の上に透明な線を描いた。
頬を伝う水を鬱陶しげに拭きつつ、雷刀は弟の部屋へと向かう。普段は彼が先に風呂に入るのだが、今日はたまたま自分が先になってしまった。外は既に闇に支配され、時計盤の上を歩く二本の針は天辺に近づきつつある頃合いだ。明日も学校があるのだ、あまり遅くなるのはまずいだろう。上がった旨を伝え、さっさと入るように言わなければならない。水分を多分に吸った冷たいタオルを首に掛け、少年は薄暗い廊下を歩いた。ぺたぺたと少し湿った足音が狭い空間に響く。
薄闇の中、淡い光がフローリングを照らす。リビングと廊下を隔てるドア、そこにはめ込まれた細い擦り硝子から光が漏れ出ていた。風呂場に向かった時、リビングには弟が残っていたことを覚えている。こまめな消灯を心掛けている彼が電気を点けっぱなしにしたまま部屋に戻ることはおそらく無いはずだ。この時間はもう自室に戻っていると思ったがこちらにいるのだろうか、と雷刀は小さく首を傾げる。そのまま、細いドアノブへと手をかけた。
ガチャ、と硬い音をたて、薄い扉が開かれる。部屋の奥、二人でよく座って過ごすソファに目を移すが、そこには姿勢良く座る弟の姿は無い。代わりに、座面に見慣れた碧い髪が散っている光景が朱い瞳に飛び込んできた。
背筋を冷たい何かが撫ぜる。脳が現状を理解するより先に、足が動いた。冷え切った床を力一杯蹴り、雷刀は蛍光灯に照らされたその場所へと駆ける。テレビも点いていない静かな部屋に、騒がしい足音が響いた。
あまり広くない部屋だ、目的の場所にはすぐに辿り着く。ダンと音をたてて床に膝をつき、朱は横たわった少年の顔を急いで覗き込んだ。
「おい、烈風刀――」
切羽詰まった声で名前を呼ぶが、返事は無い。焦りで大きく見開かれた紅緋の目には、目を閉じ穏やかな表情で柔らかな座面に頭を預ける片割れが映った。朝を迎える直前の澄み渡る空のような碧は瞼の奥に隠れ、縁取る若葉色の睫毛は緩やかな曲線を描いている。彼の聡明さを表すような整った眉は端がわずかに下がっており、どこか幼い印象を与える要因となっていた。薄く開いた口からは、落ち着いた呼気が規則的にこぼれていた。
眠っているだけか。焦燥に駆られた脳味噌がようやく現状を理解して、雷刀は深く重い息を吐く。緊張で硬くなっていた身体から力が抜け、その場にずるずるとへたり込んだ。何事も無かった安堵と神経が張り詰まった疲労が、一気に襲いかかってくる。重力に押し潰されるように深く項垂れ、少年は目を伏せた。ソファで眠ることなど、自分もよくやっているではないか。何故、真っ先にその可能性を思いつかなかったのか。たしかに彼がこのように寝そべっていることはまず見ないが、それにしてもあまりにも短絡的な勘違いだ。はぁ、と疲れと呆れが色濃く滲む重い息が無意識に漏れ出た。
のろのろと顔を上げ、すぐ目の前にある弟の寝顔を見つめる。学内では怜悧で大人びた表情を見せる彼だが、今のそれは年相応の子どもらしさを残したものだ。男性らしく整っておりながらも、丸みを残した頬や綻んだあどけない口元が、目の前の少年はまだ成長途上であることを思わせる。愛する弟の可愛らしい姿に、朱は口元を緩ませた。
しかし、と雷刀は小首を傾げる。真面目な彼は、だらしがないと言ってソファに寝そべるようなことは良しとしない。自分がそのまま眠っていれば、風邪を引くからちゃんと布団で寝ろ、と容赦なく叩き起こされるのが常だ。そんな烈風刀が、このように寝転けていることなど非常に貴重な姿である。
こんなところで寝てしまうほど疲れているのだろうか。そう考えて、常は明るく輝く紅玉が陰る。すっと細められたそれには、悔恨と悲愁が浮かんでいた。
ネメシスの外から突如現れた少女――グレイスにより、少年たちは日々忙殺されていた。様々な新要素を搭載し業務が増えたゲーム運営だけでも十二分に忙しいというのに、そこに容赦なく襲い来る彼女やバグへの対処も加わったのだ。この電子の世界を維持するために運営業務に集中しなければならないが、ネメシスに害を及ぼす躑躅の少女の存在も決して放ってはおけない。レイシスを筆頭とした運営に関わる者たちは、増えに増えたタスクをこなすために奔走していた。
魂や冷音、識苑、マキシマと様々な者が力を貸してくれているが、ゲーム運営の根幹に携われるのは、相応の権限を与えられたレイシス、雷刀、烈風刀の三人だけだ。特にネメシスと深い繋がりを持つレイシスの存在は重要であり、責任も担当業務も重大である。
守るべき愛おしい少女の負担を少しでも減らすべく、兄弟二人で懸命にサポートに努めている。けれども、雷刀の知識と処理能力は、二人よりも少しばかり足りていなかった。レイシスや烈風刀がこなす業務を彼が担当しても、処理にいささか時間を有してしまう。この激務の中では、デスクワークだけに関しては戦力としてカウントするのは難しい水準である。
無理にこちらの作業に手を出しても効率は上がらない。戦闘面では誰よりも秀でているのだからそちらに集中しろ。眉をひそめた弟の言葉は非常に辛辣だが、そこには焦りを感じる兄を気遣う様がしっかりと感じ取れた。
気にしなくてもいい。自分たちができない他の仕事を全て引き受けてくれているのだから、とても助かっている。心優しい彼女もそう言って優しく微笑んでくれた。
けれども、力になれない情けない自分の分だけ、優しい二人や手伝ってくれている者たちに余計な負担がかかっているのは、鈍いと評されることの多い雷刀でも嫌でも分かる。
強い罪悪感と、己の無力さへの憤りと悔しさが、少年の心の内を闇色に染め上げる。胸いっぱいに満ちる負の感情に、少年は苦しげに顔を歪ませた。皆が評価している能力を全て否定し、必要以上の自己嫌悪に陥っていることは、今の彼には気付くことができない。
底の見えない暗闇に落ち行く思考を切り替えるため、少年はブルブルと頭を大きく横に振る。ただ考えるだけでは無意味だ。追いつけるよう努力をしなければ。強く眇められた炎瑪瑙がぱちりと開く。鮮やかなそこには、決意の色が強く見えた。
一人で考え込んでいる場合ではない。早く、何か彼に掛ける物を持ってこなければ。空調が効いたこの部屋は快適な温度を保っているが、何も被らず眠っていては風邪を引いてしまうかもしれない。本当ならば起こして部屋に連れて行くべきなのだろうが、こんな場所で横になってしまうほど疲れている彼を叩き起こすことはどうにも気が引けた。このまま一晩というのはさすがに無理だが、もう少しだけでも寝かせてやりたかった。
自室に薄手の毛布があったはずだ。それを持ってこよう。そう考えて、雷刀は床に手をつき立ち上がろうとする。瞬間、低い呻りが耳に届いた。非常にかすかな音だが、二人きりの静かな部屋でははっきりと聞き取れた。
急いで音の方へと視線を移す。声の主、ソファの柔らかなクッションに身を預けた烈風刀は、どこか苦しげな顔をしていた。整った細い眉はわずかに寄せられ、眉間に薄く皺を刻んでいる。穏やかな呼吸をしていた口は引き結ばれ、強ばっているように見える。晒された白い喉から漏れる音は酷く震えた低いもので、短くあがる様は彼が感じている苦しみをそのまま表しているように聞こえた。
悪い夢でも見ているのだろうか。弟の痛ましい様子に、兄も痛苦に表情を歪める。日常での疲れを癒やす夢の世界ですら、彼は精神の安寧を得ることが出来ないのか。せめて眠る時ぐらい安らかであってほしいのに、それすら叶わないのか。ぶつける当ての無い悲憤に、少年は苦しげに顔をしかめた。
「――らいと」
固く閉じた口がわずかに綻び、細い隙間から兄の名が溢れた。いきなりのことに、跪いた少年の身体がびくりと震える。普段、ろくに寝返りもせず静かに眠る彼が寝言を言うなど、驚くに決まっている。ましてや、それが自分を示すものならば尚更だ。朱い目が意味も無く瞬きを繰り返す。無意識のそれは、少年が動揺していることを如実に表していた。
らいと、と小さな口が再び兄の名を紡ぐ。その音は、苦しさよりも寂しさを孕んでいるように聞こえた。床についていた手が、ソファに投げ出された烈風刀の手に無意識に伸ばされる。同じほどの大きさのそれをどうにか包み込むように、雷刀は己の手を重ねた。
夢の中では何が起きているのだろう。理知的で気丈な彼が、寂しげに名を呼ぶ状況とは一体何なのだろう。己の身に何か起きて思わず呼んだのか、それとも助けを求めて呼んだのか。当人は眠っているのだから、この場で答え合わせをすることなどできない。不安に、焦燥に、悲嘆に、心が酷くざわめく。何が彼を苛んでいるのか全く分からない。どうすれば彼に安らぎを与えられるのか分からない。彼のために何もすることができない。思考はどんどんとマイナス方向に傾き、少年の胸をさざめかせるばかりだ。ギリ、と噛みしめた歯が耳障りな音をたてた。
烈風刀、と今更のようにその名を紡ぐ。何よりも大切な片割れを呼ぶその声は、普段の彼からは想像できないほど細くかすれたものだった。切羽詰まった音色に応える者はいない。夢の世界に身を浸す彼には届くはずがないだから当たり前だ、と頭では理解しているが、心はそれを受け止めきれず無為に焦る。重ね握った手に自然と力がこもった。
緋色の目を眇め、雷刀は床に放り出してた片腕を上げる。のろのろとした動きで伸ばされるその手は、怯えるように震えていた。少し骨張った指が、躊躇うように緩く曲げては伸ばしてを繰り返す。所在なさげな動きで宙をふらつく手が、強い決心を表すように一度強く握られる。大きく開き、少年は眠る恋人の髪に触れた。
春のくさはらを思い起こさせる柔らかな碧を、形の良い頭の丸みに沿ってゆっくりと撫でる。少し癖のあるしなやかな髪を梳くように、つむじから毛先へと指で辿る。時折、隙間から逃げたそれが兎のようにひょこりと跳ねた。
大丈夫だから。苦しまなくていいから。心配しなくていいから。ちゃんと傍にいるから。そんな思いを込めて、愛しい人に触れる。小さな頃から落ち込んだり悲しんでいる時はこうやって頭を撫でて慰めていた。眠る彼に伝わるかなど分からない。もう高校生になった今、この行為に意味があるかすら分からない。けれど、少しでも愛する人に安らぎをもたらしたい。切なる願いを込めて、朱は口を閉ざしたまま片割れをなぞる。慈しむようなその手つきは、祈りのようにも見えた。
闇夜が音を吸い込む部屋の中、二人分の呼吸がぬるい空気に溶けて消えていく。手を重ね髪を撫ぜる真紅の目の前、寄せられ直線に近い形を描いていた細い眉がゆっくりと解ける。刻まれた皺がどんどんと薄れ、元のなめらかな様を取り戻していく。強ばった口元がわずかに綻ぶ。そこからこぼれるのは苦しみを表す呻きでなく、落ち着いた緩やかな呼気だった。
悪夢は去ったのだろうか、と兄は目を閉ざしたままの弟を見つめる。堪えるような苦い表情は和らぎ、だんだんと穏やかさを取り戻している。白い喉が濁った痛ましげな音をこぼす様子もない。安堵を覚えるものの、少年の心を曇らせる不安は未だ残ったままだ。
んぅ、と幼い声が二人きりの部屋にこぼれる。長らく下ろされていた白い瞼がひくりと震え、緩慢な動きで持ち上がっていく。薄く開いたそこから現れた翡翠は、潤みぼやけた色をしていた。
「らいと……?」
常は凜としたよく通る利発な声は、どこかふわふわとした舌足らずなものになっていた。半ばまでしか開いていない目は、未だ焦点が定まらないのかどこか遠くを見ているようにも感じる。まだ半分眠っているような状態なのだろう。完全な覚醒に至るにはまだまだ時間がかかるように見えた。
しぱしぱと眩しげに瞬く孔雀石が、正面の柘榴石を捉える。瞬間、微睡みにとろけたその美しい瞳が、愛おしげに細められた。昇る朝日が世界を照らし出すように、膨らんだ蕾が花開くように、烈風刀はふわりと微笑む。らいと、と愛し人の名を紡ぐ声は、内に溢れる幸をそのまま音として形にしたようなものだった。
この世全ての幸福を表したような笑顔に、朱の心臓がドキリと一際大きく脈動する。生まれた時から兄弟である彼のこれほど甘やかで幸せそうな顔など、なかなか見ることがない。潤みとろりとした瞳と健康的な赤で飾られた唇でつくられたそれは、どこか艶然にさえ思えた。どんな言葉を持ってしても正確に表すことなどできないその表情は、恋人の心臓と脳味噌を激しく揺さぶるに十二分な破壊力を有していた。
幸と眠気に彩られた目がそっと閉じられ、浅海色がその姿を隠す。程なくして、すぅすぅと穏やかな寝息が静かな部屋に響いた。
碧い頭から手を離し、雷刀は痛いほど脈打つ心臓をぎゅうと押さえる。年相応のあどけなさと大人の色香を漂わせたうつくしい笑顔と、名を呼ぶ幸福に満ちたとろけた声と、それら全てが己一人だけに向けられたとびきりのものだという事実が、少年の思考と心をぐちゃぐちゃにかき乱す。心の臓が激しく脈打つ音が耳のすぐそばで聞こえる。風呂から上がって随分と経ったはずなのに、顔が燃えるように熱い。息が苦しいほどに喉が渇く。先ほどまで憂慮で陰っていた茜色の瞳は、歓喜と動揺で大きく見開かれていた。
その頭を彩る髪ほど頬を赤らめた兄は、すやすやと健やかに眠る弟を恨めしげに見る。悪夢から解き放たれ穏やかに寝ている様子は嬉しいものだが、この処理しきれないほどの思いをどうしてくれるのだ。あぁもう、ずるい。ひきょうだ。かわいい。いとおしい。だいすき。うぅ、と喉から絞り出された呻りは、相反する感情が混じり合った複雑な音色をしていた。
重ねたままの手を指でそっと撫でる。無頓着な自分とは違ってきちんと手入れされたそれはすべらかで、眠っているためか普段よりもずっと温かい。伝わる熱に、乱れた心がわずかに凪いでいく。自然と綻んだ口元は、愛しい人と同じ、幸せな柔らかいアーチを描いていた。
強く押さえていた左胸から手を離し、朱は眠る碧へと手を伸ばす。顔にかかる横髪を指で持ち上げるように退け、簡単にまとめたそれをピアスで彩られた耳にかける。青白い蛍光灯の光の下、どこか幼さが残る頬があらわになった。こくりと息を呑み、少年はそっと顔を寄せる。そのまま、溢れ出る愛おしさと、彼の心の安寧への願いと、ほんの少しのいたずら心を乗せ、その頬に口づけた。
名残惜しさを覚えながらも、唇を離す。不安げに弟の顔を覗き込むが、その目が開く気配は無い。覚醒に至らなかった意識は、また夢の世界へと戻ったのだろう。こぼす寝息は落ち着いており、もう苦しみに喘ぐ様子は感じられなかった。
可愛らしい恋人の寝顔を見つめ、雷刀は薄く笑う。彼が再び目覚めたら、あの美しい翠玉をまっすぐに見つめ、名前を呼んでやろう。溢れる愛を全部詰め込んだ甘ったるい声で呼んで、優しい微笑みを浮かべて、『おはよう』といつものように言ってやろう。そうすれば、烈風刀も先ほどの自分のように驚き顔を赤らめるだろうか。二人きりの時に見せる朱で頬を彩った可愛らしい表情を思い浮かべ、少年はそっと目を細める。覗く柘榴石には、いたずらめいた色がはっきりと見えた。あれだけ自分の心をぐちゃぐちゃにかき乱したのだ。彼にも同じ目を遭わせてやりたい。そんな理不尽なことを考える。芽生えたいたずら心を止める者はこの場にいない。
手を伸ばし、雷刀は夜明け前の空を思わせる髪を優しく撫でる。穏やかに眠る碧の幸を願い、朱はそっと目を伏せた。
ずるい子 / プロ氷
足下が崩れ、どこかに勢い良く落ちていく感覚が身体を襲う。突然の衝撃に、机に伏せた痩躯がびくりと大きく震える。ガタ、と安物のデスクチェアが耳障りな音をたてた。
暗闇に沈んでいた意識が突然跳ね上げられる感覚に、青白い瞼が痙攣するように震える。幕が上がるようにゆっくりと開き始めたそこから、夕日の瞳が顔を覗かせる。常は好奇心でキラキラと輝く鮮やかな色は、残る眠気でけぶっていた。苦しげに眉を寄せ、識苑は組んで枕代わりにしていた腕に額をぐりぐりと当てる。起き抜けで乾いた喉から低い呻き声が漏れ出た。
くぁ、と欠伸を漏らしつつ、青年はゆっくりと身を起こす。積み上げ先送りにしていた書類を処理していたはずなのだが、どうやら途中で眠ってしまったらしい。外し忘れた眼鏡に圧迫された目頭が鈍い痛みを訴えた。ブリッジ部分をつまんで取り、上手く開かない目を手の甲でゴシゴシと擦る。白衣の袖で汚れたレンズを拭い、擦る手と交代するように塗装が剥げかけた眼鏡を所定の位置へと戻す。細かな傷が付いたレンズを通して、ようやく世界が輪郭を取り戻した。
乱雑に重なった紙の上に放り投げていた携帯端末に手を伸ばす。黒に染まる液晶画面を指で軽くつつくと、平たいそれに青白い光が灯った。ロック画面に表示された角張った数字は、日が暮れ夜が近づきつつあることを示している。どうやら思っていたよりも長く眠っていたようだ。琥珀の目が苦々しげに眇められた。
姿勢悪く丸まった背筋を冷えた空気がそっと撫でる。寝起き故か、室内はいつもより気温が低いように感じた。晒したままの首に手を当て軽く揉む。机に伏せて眠るのには慣れているが、秋めいてきた今日この頃はどうにも身体の節々が痛む。『歳』という語を思考から無理矢理追い出しつつ、識苑は凝り固まった首をぐるりと回した。
まだ眠気が失せきっていないのか、拭ったはずの分厚いレンズを通した先の世界は、雨に濡れた窓から覗いたようにぼやけている。青年は眼鏡をずり上げ、隙間から指を差し入れ再び目を擦る。それでも、急浮上した意識にはまだ睡魔がまとわりついているように思えた。目覚ましにコーヒーでも飲もう、と考えつつ、指を組んで大きく伸びをする。座ったまま、デスクチェアの座面をくるりと回し、立ち上がるべく後ろを向いた。どっこいしょ、と年寄りめいた掛け声とともに腰を浮かせたところで、来客兼仮眠用のソファに人影があることに気付く。突如視界に飛び込んだ見知った色に、橙の目が大きく見開かれる。細い肩がビクリと大袈裟なほど跳ねた。
使い古されくたびれたそこに腰を掛けていたのは、学園の中等部に所属する学生――そして己の恋人でもある氷雪だ。普段ならばすっと背を伸ばし姿勢正しく座る彼女だが、今はクッションがほとんど潰れた背もたれに身体を預けていた。つぶらで可愛らしい翡翠の目は閉じられ、その清らかな色を隠している。小さく開いた口からは、すぅすぅとかすかな呼吸の音が聞こえる。どうやら眠っているようだ。
何故彼女がここに、と青年は動揺をあらわに目を瞠る。中途半端に開いた口から、声になりそこねた息が漏れた。部活動に所属していない彼女がこんな時間まで学内に残っている理由は無いはずだ。成績も人並み以上なのだから、放課後補講を受けた可能性も無い。慌ててメッセージアプリを開くが、放課後こちらを訪ねるといった連絡は入っていなかった――そもそも、事前に知っていたならばこんな風に寝転けることなど絶対に無い。どれだけ思考を総動員しても、寝起きの頭ではそれらしき解は導き出せない。疑問がぐるぐると頭の中を巡るばかりだ。
ふと、困惑に揺れる橙が白雪の隣へと向く。色あせた座面に広がる袂の横には、薄い書類が置かれていた。クリップでまとめられたそれの一枚目には、大きな文字で先日技術班で話題になった新機体に関わる文言が書かれている。その左上には、同じ班に属する少年の文字で、早く見ろという旨の文が殴り書かれたメモが挟んであった。どうやら、これを届けに来たらしい。優しい彼女のことだ、おそらく呑気に眠っていた自分を無理に起こさず、静かに待っていてくれたのだろう。そして、待ちくたびれて眠ってしまったのだ。
申し訳ないことをしたなぁ、と識苑はバツが悪そうに顔をしかめ、桃色の頭を掻く。片付けるべき作業の途中で惰眠を貪り、その上心優しい彼女を待たせてしまうなどあまりにも情けない。白い喉から音にならない呻りが漏れた。
足音をたてないよう細心の注意を払い、青年はそっと少女の元へと歩み寄る。幾ばくかの逡巡の末、その足はソファの一歩手前で止まった。氷雪ちゃん、とおそるおそる愛しい名を呼ぶ。混乱のあまりか細くなった声は、眠る彼女を起こすには至らない。可愛らしい雪女は、穏やかな表情で目を閉じたままだ。どうしよう、と識苑は困ったように口元を手で押さえる。最終下校時刻が近づきつつあるのだから、早く起こして寄宿舎へと送っていくのが正解だろう。けれども、こんなにも気持ちよさそうに寝ている彼女を起こしてしまうのは何だか躊躇われた。
迷い立ち尽くした痩身がぶるりと震える。秋に移りつつあるこの時期、夕方になると一気に気温が下がる。ろくに空調が機能しないこの部屋は、外から侵入する秋の寒さに支配され始めていた。こんなに部屋でそのまま寝かせておくのは良くない。冷気を操る彼女にとってこの程度の寒さは何も影響がないだろうが、細く小柄な身体を見ているとどこか不安を覚えてしまう。全て己の自己満足だ。
身に着けていた白衣を脱ぎ、識苑はソファにもたれかかった氷雪にそれを掛ける。くたびれ柔らかくなった生地が、少女の身体全体をすっぽりと覆った。自身の服に包まれ眠る愛し人の姿に、青年の胸の内を何かがじわじわと満たしていく。おそらく理解してはいけないそれを振り払うように、勢いよく頭を横に振る。大雑把にまとめて結い上げた長い髪が、犬が尾を振るように大きく揺れた。
大きく深呼吸をし、どうにかざわめく心を落ち着ける。本当ならば、こんな無意味に立ち尽くさず、すぐさま机に向かい残った作業を進めるべきなのだろう。けれども、夕日色の瞳は心地よさそうに眠るその可愛らしい顔を自然と追ってしまう。関係相応に互いの距離は縮まっているが、彼女が傍で眠るような機会は未だ訪れていない。こうやって寝顔を見るのは、これが初めてだ。恋人が見せる初めての表情は、彼の思考の大部分を奪うほどの愛らしさを有していた。
夕焼け色の瞳が、気持ちが良さそうに眠りにつく少女を見る。閉じられた目を縁取る純白の睫毛は夜中降り積もる淡雪のようで、触れれば溶けて消えてしまいそうな儚さがある。真っ白な肌には傷など一つもなく、澄み切った水のような清らかな印象を抱かせる。健康的な色をした頬は緩やかな曲線を描いており、触れなくともそのすべらかさと柔らかさが分かる。それがまた、彼女の少女らしい可愛らしさを引き立てていた。
暗い色の座面に流れる白い髪は、まるで夜空に浮かぶ天の川のようだ。緩く編まれところどころほつれた長い髪は、澄んだ雪解け水を紡いだような澄んだ色をしている。透明感のある白は、朝日を受けて輝く雪原を彷彿とさせた。
この白を、彼女は冷たい色だと時折自嘲気味に表していた。しかし、識苑はそんな風には欠片も思えない。彼女のそれは冷たいのではなく、涼やかで清廉な、汚すことなどできない純粋な色彩だ。夏の澄んだ小川や冬の初めのおぼろ雪のような、爽やかさや儚さを感じさせるうつくしい色だ――そんなことを言えば、彼女は頬を真っ赤に染めその可愛らしい顔を隠すだろうから、未だに伝えられずにいる。
あどけない寝顔に、蜜柑色の目が愛おしそうに細められる。好きな人が自分の側で、何の憂いもなく穏やかに眠っている。その事実が、何よりも幸福に思えた。
この愛らしい顔をもっと近くで見たい。余す所なく全て見たい。ささやかな欲求が胸をくすぐる。馬鹿げた欲望を消し去るべく、青年は再び頭を強く振る。けれども、湧き上がったそれは膨れるばかりで、失せる気配など欠片もない。ほんの一歩先で眠る少女のかんばせから目を離せぬまま、無意識にごくりと唾を飲み込む。必死に止めようとする理性を振りほどき、溢れる好奇心は今の今まで固まっていたその足を動かした。
立ちくらみのようにふらりと踏み出した足が、意識的に空けていた一歩分の距離を詰める。たったそれだけで、心臓が大きな音をたてて脈動する。顔を見るだけだから。他にやましい気持ちなんて一切無いから。これくらいの距離ならいつもと変わらないから。そんな拙い言い訳を脳内で並べ立て、識苑は普段彼女と相対する時のように屈む。先ほどまで遠くから見下ろしていた可愛らしい寝顔が、眼前に広がる。どくりどくりと心臓が大きく鼓動する。
遠くからでも見惚れるかんばせは、近くで見ると更にその魅力が分かる。日に焼けていない白い肌は、混じりけのない純粋なものだ。健康的に薄く紅を浮かべる様子から、ただ色を失っているのではなく、彼女自身が本来持っている美しいものだと証明している。大きな目を縁取る睫毛は長く、瞬けばそよ風に吹かれる花のようにふわりと揺れるだろう。普段はどこか自信なさ気に端を下げた眉は、今は安らぎにか柔らかなアーチを描いていた。寝息を漏らす小さな唇は、春を間近に咲き始めた桜のような淡いピンクに色付いている。それはリップなどで彩ったものでなく彼女自身が生み出した色だということは、その柔らかく温かな色彩を見れば瞭然だ。さらさらと流れる白髪は、その一本一本が銀を溶かし編んだように艷やかで、ほのかに輝いて見えた。
美しい。可愛らしい。愛おしい。青年の胸を、苦しいような、温かいような、不思議な感覚が満たしていく。抱く感想はどれもこれも陳腐な表現であるが、これ以外に彼女を形容するにふさわしい語は見つからなかった。
触れたい。そのすべらかな肌に、長い髪に、柔らかな頬に触れたい。あまりにも浅ましい欲求が、満たされたはずの胸に突如湧き上がる。いや、触れるのはさすがにまずい。起こしてしまったらどうするのだ。そんな寝込み襲うようなことなど許されない。一度理性を振り切り調子に乗ったそれを、今度こそねじ伏せる。中学生じゃあるまいに、と内心自嘲し、識苑はレンズが汚れることを厭わず、眼鏡の隙間から手を差し入れ目を覆った。
溜め息のようなかすかな声が、寒々とした室内に落ちる。手を退け開いた目の先に、雪色に縁取られた瞼がひくりと動いた見えた。まずい、と好奇心と愛おしさで溢れていた青年の思考に、大きな警鐘が鳴り響く。身を離すより先に、熱で潤んだ翡翠と動揺に瞠られた琥珀がぶつかりあった。眠たげにとろけた瞳が、次第に元の澄んだ様相を取り戻していく。だんだんとピントを合わせていき、伴うように覚醒に至る意識が目の前の色を認識する。それが誰を表すものかを理解し、氷雪はびくりと身体を震わせる。刹那、白い肌の上にぶわりと鮮やかな紅が広がり、雪原を染め上げた。
目を見開き真っ赤になった少女の様子に、識苑もびくりと身を震わせ慌てて数歩後退する。蹴り飛ばすように踵に当たったキャスター付きの椅子が勢いよく床を滑り、真後ろにあったデスクにぶつかる。ガシャン、と金属が擦れる耳障りな音が二人きりの部屋に響き渡った。
「えっ……あ、っ、せんせ、い……?」
「おっ、おはよ! 氷雪ちゃん!」
困惑でふるふると揺れる翠玉の持ち主は、驚愕と動揺と羞恥がない混ぜになった声で目の前の彼を呼ぶ。起き抜け、真っ先に目に入ったのが恋人の顔というのは、初心な少女にとって刺激が強すぎたのだろう。それも、視界いっぱいに広がるほど間近ならば尚更だ。
同様に、識苑も目を覚ました彼女の名を大きな声で呼ぶ。彼のそれも、少女と同じように驚愕と動揺で酷く揺れていた。ただ、こちらはそれ以上に後悔と焦燥の色が強く出ている。虎目石は挙動不審と表現するのが適切なほど宙を泳ぎ、喉は引きつった笑いを漏らしていた。乾ききった音が、静まりかえった部屋に虚しく響く。
今、どんな状況にあるのか理解しようと、氷雪はきょろきょろと辺りを見回す。一つしかない大きな窓の外が闇色に包まれつつある様子を見て、少女はあ、と声を漏らす。小さなそれには、かすかな驚きとたしかな悔やみが見て取れた。白い袖で口元を隠すその表情は、苦しげに陰り歪んでいた。
「す、すみません。わたし、寝てしまって……」
「大丈夫だよ。俺が寝てたから起こさないで待っててくれたんでしょ? こっちこそ、ごめんね」
しゅんとした様子で謝る雪色に、鴇色は気にする必要はない、といつものように手をひらひらと振る。普段と変わらぬ態度を装おうとしているが、彼女の前では意識して『先生』と己を称するところを、無意識に素のまま『俺』と称したことに気付けないほど、彼は平静には程遠い状態にある。
事実、自分が起きていれば、彼女は待ちくたびれて寝ることなどなくすぐに用件を済ませ帰ることができたのだ。こんなに遅くまで残らせてしまったのは、全て自分の責任である。己が謝るのはともかく、彼女が謝る必要性など欠片もない。それでも、常磐色の瞳は憂いの色を孕んだまま、わずかに伏せられてしまった。
痛ましげに細められた萌葱が、突如ぱちりと開かれる。俯いた少女は、きょとんとした様子で自身の身体を見下ろしていた。どうしたのだろう、と、青年もつられてその細い身へと視線を移す。そこに広がるくたびれた白を見て、橙の瞳がカッと大きく見開かれる。元々健康とは言い難い白い顔が、さぁと音をたてて色を失くしていく。真っ青と表現するのがぴったりな容貌をしていた。
「ご、ごっ、ごめん! えっと、あの、その、部屋の中寒いから風邪引いちゃわないかなって思って! ごめんね! お節介だったね! 邪魔だね!」
「あ、……い、いえ……、大丈夫、です」
慌てふためきまくしたてる青年の姿に、氷雪は面食らったようにぱちぱちと瞬きをした。どこか呆けた様子の声はすぐに元の澄んだ音色に戻り、彼女は急いでふるふると首を振った。わずかな沈黙の後、ありがとうございます、とたどたどしい礼の言葉が静かな部屋に落ちる。雪色の袖に隠された小さな手が、細いその身体を覆う白衣の裾をきゅっと握り締めた。元より皺だらけだった布に、小さな皺が新たに刻まれる。
不快感を抱かせる前に急いで剥がすつもりだったが、そうやって握っているのを見ると無理矢理奪うのは憚られる。自ら脱がずにいるのだから、少なくとも不快に思っていないようだ。青年は密かに安堵の溜め息を吐く。しかし、問題は依然山積みのままだ。思考を埋め尽くす不安と焦燥と動揺で、心臓はうるさいほど早鐘を打つ。このまま破裂してしまいそうな勢いにすら思えた。いっそ破裂してしまった方が楽なのかもしれない、とこんがらがった思考の片隅に馬鹿げた考えがよぎる。ただの現実逃避でしかない。
縋るように白衣を握ったまま、少女は小さく口を開き、ぱちりと瞬きをする。川底のように澄んだ碧の瞳が、何かを探すようにきょろきょろと急いであたりを見回す。己の隣、ソファの座面に置かれた紙束を捉え、細い指が慌ててそれを掴んだ。
「あの、これ……、魂さんから預かってきたものです。目を通してほしい、と」
賞状のように両手で持ち、氷雪はおずおずと書類を差し出す。彼女が立ち上がるより先に一歩進み、識苑はありがとう、と朗らかな笑みとともに受け取る。すぐさま同じ分だけ後退し、詰まった距離を元に戻した。明らかに不自然な動きだが、指摘できる者はこの場にいない。指摘できる余裕など、互いに持っていなかった。
「ごめんね、わざわざ」
「いえ、……わたしが、持っていきたいと魂さんにお願いしたので」
それなら、先生に会えるから。か細い声が、日に焼けていない白い喉から紡がれる。降り始めた雪のようにすぐさま溶けて消えてしまいそうなそれは、識苑の耳にたしかに届いた。喜びと愛しさと幸福感が、胸にぶわりと広がっていく。溢れる感情に、呼吸が詰まるような感覚がした。そっかー、と何とか返した声は、とろけきった甘い音をしていた。
ちょっと確認するね、と断り、青年は立ったまま資料に目を通す。表紙に書かれた題の通り、内容は以前話題になった新機体の性能やシステムに関するものだった。ソフト面に長けた彼の切り口から語られる機能性や構成は非常に面白い。同時に提示された問題点への解決案を頭の中で組み立てつつ、橙の瞳はぺらぺらと紙を繰り、細かな字を追った。
一通り読み終え、めくっていた紙の端を軽く整える。当時はただの妄想といった程度だったが、こうやってまとめてみれば十分に現実性があるものに思えた。示された分、こちらもしっかり返さねば。新たな企画への期待に、自然と口角が上がる。完全なる趣味で業務を増やした自分に恨み言を吐く未来が容易に想像できるが、今は忘れることにする。
それにしても、と掴んだ書類の束を今一度眺める。合理性を優先する魂ならば、この程度のことはメールなりなんなりで済ませるはずだ。だというのに、何故今回はわざわざ紙媒体で寄越したのだろう。内容自体も、面白くはあるが急いで読まねばならないほどの重要性は無い。早く見ろと急かすメモの文言にも違和感を覚えた。彼らしくもない不可解な行動に、桃の頭がこてんと傾いだ。
文字が連なる白に顔を向けたまま、識苑は座る少女をちらりと横目で見る。一瞬だけかち合った若葉色は、怯えたように大きく見開かれ、すぐさま逸らされた。予想通りの反応に、青年は漏れそうになる呻きをどうにか抑える。彼女は人と接することを苦手としており、かつ非常に恥ずかしがり屋だ。ともに過ごす時間が増え慣れてきたとはいえ、それは未だに変わりない。あんな風に近距離で見つめ合う羽目になった直後に、普段通りに振る舞うことなどできないだろう。誰よりも近くでその成長を見てきた彼は、それを一番理解している。
けれども、ああも露骨に避けられては心が切り刻まれるように酷く痛む。苦しい、辛い、と心の内で泣き叫ぶも、全ては欲求を抑えきれず考えなしに行動した己が悪い。自業自得以外の何でもない。
湧き出そうになる涙を何とか堪え、青年はずり落ちてくる眼鏡を指で押し上げる。すん、と悲しげに鼻をすする音が冷え切った部屋に落ちた。
並び連なる文字をなぞる虎目石を、わずかに伏せた天河石がそっと追う。求めた色を捉えた瞬間、氷雪は急いで目を逸らした。直後、彼女の柔らかな心に強い後悔の念がのしかかる。反射的なものとはいえ、こんなあからさまに避けるなど、優しい彼を傷つけてしまうだけだ。宝石のように美しいまあるい目が自己嫌悪で歪む。けれども、頭からつま先まで羞恥でいっぱいになった今、愛しいその姿を視界に入れることは少女にとって何よりも難しいことだった。
放課後、たまたま寄った作戦室で魂から書類を預かった――というよりも、届けにいかないかとわざわざ持ちかけてくれた――氷雪は、特別教室棟へと向かった。放課後の薄暗い廊下を進んだ棟の奥、ひっそりと存在している今は使われていない準備室――識苑が勝手に学内での活動拠点として使っているそこへとまっすぐ足を運んだ。
何度も訪れた部屋に辿り着き、少女は扉の前で呼吸を整える。最近は試験などが重なり、彼と会う機会はめっきり減っていた。下校時刻を過ぎ日が暮れ始めたこの時間ではほんの少しだけだろうが、久しぶりに二人で話せるかもしれない。そんな小さな期待に逸る心を落ち着け、白い手が細かな傷がついたドアノブを回す。軋む耳障りな音とともに、金属製の扉がゆっくりと開かれた。失礼します、という挨拶とともに、薄く開いたドアの隙間から物で溢れた部屋へと足を踏み入れる。蛍光灯の青白い光に照らされる空間の片隅、鈍色のデスクの上にできた書類の海の中、伏せた桃が見えた。
落とさぬよう書類をしっかりと抱き、雪色は雑然と置かれた物の間を縫って歩き、鴇色の元へと向かう。すぐ傍まで寄ると、組んで枕にした腕と机の隙間から穏やかな寝息が漏れているのが聞こえた。どうやら眠っているようだ。部屋には仮眠用のソファが備えられているが、忙しい彼はそこに辿り着く前に机に突っ伏して眠ることが多々ある。きっと、今日もそのパターンなのだろう。
先生、と彼を示す音を紡ぐ。しばしの沈黙の後、ぅ、と濁った低い呻きがあがった。桃色の頭が鈍い動きで横を向く。掛けっぱなしになった眼鏡が腕に当たり、軽い音をたてた。起きただろうか、と氷雪はあらわになったその顔を覗き込む。明るい山吹色はそこにはおらず、代わりに分厚いレンズと青白い瞼があった。ただ寝返りを打っただけで、彼はまだ夢の中にいるようだ。
すやすやと気持ちよさそうに眠りこける識苑を、少女は興味深そうにじぃと見る。彼が眠る姿は何度か見たことはあるが、これほど間近で寝顔を見るのはこれが初めてだ。今までしっかりと見る機会のなかった恋人の表情に、翡翠の瞳はどんどんと吸い込まれていく。澄んだそれは、好奇心で輝いて見えた。
常ならば眼鏡の奥できらきらと輝く夕陽は、今は瞼の奥に隠れている。縁取る桃色の睫毛は人よりも少し長く、繊細な印象を与えた。同じ色の細い眉は、安らぎに少し垂れている。閉じた目の下には濁った青灰が浮かんでおり、十分な睡眠を取れていないことを端的に表していた。スッと通った鼻梁には、眼鏡の鼻あてに圧迫され薄い跡が付いている。以前、もう慣れてしまったと彼は苦笑しながら話してたが、わずかに赤らむ肌は痛々しく見えた。腕枕に預けた頬はむにりと形を変えており、その柔らかさが伝わってくる。縁の無い眼鏡が飾る目元は、長い前髪に軽く覆われている。白い肌の上をなびくように広がる様子は、枝垂れ桜を思い起こす。わずかにひらかれた口から漏れる呼気が、その端を揺らしていた。
せんせい、と氷雪は再び眠る彼を呼ぶ。遠慮がちに肩を叩いてみるが、返ってくるのは穏やかな寝息だけだ。小さな心に、じわじわ寂しさが広がっていく。久しぶりに会えると、話すことができると思ったのに、夢の世界に身を預けた彼は一向に目覚める気配は無い。勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になるなど、身勝手極まりないのは分かっている。けれど、恋に焦がれた乙女の心は、理性が説く正論を受け止めることができなかった。
長い逡巡の末、氷雪はこくりと小さく息を呑む。白い着物に包まれた細い腕が、青年の顔へと伸ばされた。緊張したように震える細い指が、そのかんばせを覆う長い髪に触れる。少し硬いそれを指ですくい、カーテンを開くようにそっと退かす。すくいあげた薄紅梅をむき出しになった耳に掛ける。隠されていた肌があらわになった。
どくりどくりと心臓がうるさいほど拍動する。喉が詰まったような苦しさに、少女は大きく息を吐く。無意識に呼吸をするのを忘れていたらしい。落ち着かせるように深呼吸し、強ばる手をどうにか広げる。そのまま、目の前で眠る彼の顔へと指を伸ばした。細い指先が、柔らかな頬に触れる。ゆっくりとした動きで指の腹が、手のひらが、色の薄いそこを撫でるように触れていく。美しい小さな手が、青年の頬を静かに包んだ。
温かい。そんな当たり前の感想が湧き上がる。その当たり前を確かめるように、氷雪は指を軽く曲げ、包み込んだそこをなぞる。不規則な生活で少し荒れた肌は、触り心地が良いとは言い難い。けれども、この手から伝わる何もかもが酷く愛おしく思えた。融かされてしまいそうなほど優しい熱が、寂しさで暗く陰った心を柔らかく照らしていく。溢れる幸福感に、緊張で引き結ばれていた口元がそっと綻んだ。
普段ならば、彼に触れることなど不可能に近いことだ。情けないほど臆病な自分は、朗らかな笑みを浮かべる優しい顔を見るだけで、そのうつくしい瞳を見るだけで、心臓が破裂してしまいそうなほどドキドキするのだ。自ら手を伸ばすことはおろか、差し出された手を取ることすら困難なレベルである。だというのに、こうやって触れることができるだなんて。氷雪自身思ってみなかったことだ。
常は応えることができないのに、彼が眠りにつき己を認識できない今は、自ら手を伸ばすことができる。なんてずるい人間なのだろう。自己嫌悪と罪悪感に、息が詰まる。苦しみを表すように、川底色の美しい目が強く眇められた。
触れた時よりもずっと慎重な動きで、包んでいた手をそっと離す。与えられていた温もりが失せていく感覚に、ツキリと心が痛む。身勝手なそれを掻き消し誤魔化すように、少女は顔を伏せ胸の前でぎゅうと拳を握った。
どうしよう、と意味もなくあたりを見回す。備え付けられた窓の外に見える空は真っ赤に染まっており、日が西の空へと消えつつあることが分かる。帰りが遅くなるのはあまり良くない。メモでも残して置いていくのが最善だろう。頭ではそう分かっているのに、何故だかその最適解を選ぶことができない――より正確にいうならば、選びたくなかった。あれだけ触れて幸福に満ちたはずの心は、まだ彼といたいと駄々をこねた。
もしかしたらもう少しで起きるかもしれない。ちょっとだけ。少しだけ待ってだめだったらすぐに帰るから。だから、もうちょっと。
そんなくだらない言い訳をいくつも連ねてまで残ったというのに、結局自分まで眠ってしまうだなんて。その上、余計な気遣いまでさせてしまったのだから、あまりにも情けない。うぅ、と細い喉からに悔恨で染まりきった音が漏れる。溢れ出る負の感情を堪えるように、少女は己の身体を包む白衣を縋るように両手で握り締めた。
ぐるぐると渦巻き淀む心から逃げるように、ぎゅうと強く目を閉じる。真っ暗になった視界に、鮮やかな琥珀色が浮かび上がる。ほんの少し動けば触れてしまいそうなほどの距離、視界を染め上げるような優しい色、己の名を呼ぶ少し低い声。先ほどの彼の姿が、鮮明に想起される。雪色の頬が、咲き誇る紅梅のように鮮やかな赤で染まる。固く閉ざされた目が勢いよく開いた。
そうだ、あれだけ近くにいたのだ。自分の寝顔も見られてしまったに違いない。ようやく気付いた事実に、翡翠の瞳がめいっぱい開かれる。寝顔なんて、きっと相当間の抜けたものだ。そんなものを愛しい人に見られてしまうだなんて、なんて恥ずかしいことだろう。急いで顔を伏せ、少女は両の頬を手で覆う。融けてしまいそうなほど熱をもつそこが真っ赤になっていることは、鏡を見ずとも分かった。
あぁ、恥ずかしい。恥ずかしい。けれど、全て自業自得なのだ。勝手に寝顔を眺め、勝手にその頬に触れ、身勝手なわがままを言って居座って、結局眠ってしまったずるい自分が全て悪いのだ。
うぅ、と少女の白い喉が声にならない音をあげる。羞恥に染まりきったそれが、二人きりの部屋に音もなく溶けて消えた。
新たな朝を迎えに / レイ+グレ
優しく包み込むような闇が薄れ、宙を漂っていた意識がゆっくりと浮上していく。ん、と吐息のような寝ぼけ声とともに、桃色の長い睫毛がふるりと震える。ゆっくりと持ち上がった瞼の奥から、宝石のように丸い瞳が姿を現した。
眠気が薄く膜張る視界は薄暗い。まだ朝が訪れ始めた時間帯なのだろうか、とレイシスは幾度か瞬きする。現実を認識しようとする思考はまだ睡眠から抜け出しきれておらず、ふわふわと広がり散っていくばかりだ。
布団がもたらす温もりを甘受しようと、少女はこてんと身を横に向ける。柔らかな枕が美しい曲線を描く頬をそっと受け止めた。ゆっくりと暗幕が下りゆく視界の中に、鮮やかな色が映る。一体何だろう、と少女は靄がかった視界を晴らすように、ぎゅうと目を瞑り開きを繰り返す。微睡みにけぶる薔薇色は次第に元の澄んだ色を取り戻し、目の前に広がる鮮麗な色彩に焦点を合わせた
己のする隣、ベッドの端に近い位置には小柄な少女がいた。ふくふくとした頬を大きな枕に預けた彼女は、大きく可愛らしい目を閉じ眠っている。わずかに開いた口から、すぅすぅと穏やかな吐息が漏れているのが聞こえた。形のいい小ぶりな頭は躑躅色の長い髪で彩られ、ウェーブがかったそれが白いシーツの上に散っている。布団の裾から覗く手は透き通るように白く、柔く握られた指は華奢なものだ。手首は細く、掴めば手折れてしまうのではないかと不安に駆られる。彼女がまだ成長途上であることがよく表れていた。
ぐれいす、と桜色の唇が四音を細く紡ぐ。寝起きでふわふわとした声には、かすかな驚きと幸せが見えた。そうだ、しばらくの間グレイスと共に暮らすことになったのだ。覚醒に至り始めた脳味噌が、昨日の記憶を再生し始める。
長い長い闘いの末、ネメシスに迎え入れられた躑躅の少女はボルテ学園に編入することになった。利便性を考え寄宿舎に住まうことになったのだが、学年などの兼ね合いもありまだ部屋が決まらない状態だ。ではその間どうするか、と皆で話し合う中、レイシスは真っ先に手を挙げた。心許なさそうにぬいぐるみを抱き締める小柄な少女に駆け寄り、部屋が決まるまでの間一緒に暮らそう、と一回り小さくなった手を握り尋ねたのだった。
学園に近いから通学には困らない、自分とならばあまり気兼ねしなくてもいいだろう、こちらでの生活に慣れる練習になるはずだ、と必死に理由を挙げ、ピンクの瞳が驚きに見開かれたマゼンタをじぃと見つめる。しばしの沈黙の後、大きな瞳をわずかに伏せ小さく頷いた彼女の手を取り、薔薇は躑躅と共に自宅へと帰ったのだった。
隣に横たわる少女を眺め、レイシスは愛おしそうに目を細める。本来ならば、グレイスにベッドを譲り、自身は来客用の布団で眠るはずだった。しかし、そのことを告げた途端、それはおかしい、自分は世話になる側なのだから譲ってもらう必要なんてない、と彼女は怒りを露わに主張したのだ。全然おかしくありマセン。おかしいわよ。そんなことありマセンヨ。そんな訳ないでしょ。何でそんなに強情なんデスカ。貴方に言われたくないわよ。互いに一切譲らず長い口論を交わした末、じゃあ二人ともベッドで寝れば全部解決デスネ、とのレイシスの主張が押し通され、昨晩は共にベッドに入ることとなった。そして、今朝に至る。
ようやく全ての記憶を掘り起こし終え、桃の目がそっと伏せられる。こちらに来たばかりで交流が少なく、他者との間に壁を作っている彼女にかなりの無理を言ったのは承知している。それでも、心優しいグレイスは文句を言いつつも自身のわがままを受け入れてくれた。仕方ないわね、と呆れた調子で紡がれた肯定を意味する響きに、どれほど喜びを覚えたことか。言語化などできないほど、少女の胸は歓喜で満たされたのだった。
他人と同じ布団で寝るなど、きっと緊張し休むにも休めないだろう。長い間誰にも頼らず一人で過ごしてきた彼女ならば尚更だ。けれども、鮮やかな躑躅は己が隣にいることを、共に過ごすことを許してくれた。二年の歳月、ずっと求めてきた願いが叶い、少女の胸は幸せでいっぱいに満たされたのだった。それをめいっぱい表すように布団の中で抱き締めたら、全力で突っぱね拒否されたのだけれど。
ぼやけていた視界がすっかりと晴れ、意識がはっきりと覚醒する。鮮やかな桃の睫毛に縁取られた目が、未だ眠りの海に身を浸した躑躅を眺める。少し釣り目がちな鮮烈なマゼンタは今は瞼の奥に消えている。その大きな瞳を飾り付ける長い睫毛は、笑みを浮かべる口元のように下向きのアーチを描いていた。小さな口元は瑞々しい赤で彩られており、少女が健やかに過ごしていることを表している。可愛らしいそこから漏れ出る規則的な呼気は、愛らしい音色をしていた。丸みのある頬は透き通った白色で、どこか艶めいたアンバランスな印象を残す。触れればどこまでも沈んでしまうのではないかと錯覚するほどのそれは、綿がたっぷり詰まった清潔な枕に埋もれている。同じく枕に埋もれた小ぶりな頭は、癖が強くも細くしなやかな髪で包まれている。普段は高い位置に結い上げているそれは今は解かれており、皺のないシーツの上に幾筋もの鮮やかな曲線を描いていた。
布団の中に潜らせたままだった腕をそろりと伸ばす。目の前、ずれ落ち目元にかかった躑躅色の長い前髪を、邪魔にならないようにそっと退かした。軽く額があらわになった姿は、どこか幼く見えた。ん、とかすかな声が、自然の紅で彩られた唇から漏れる。起こしてしまっただろうか、と少女は急いで手を引っ込める。声の主は目を開ける様子はなく、すぐに穏やかな呼吸が再開される。ほっと小さく息を吐き、レイシスは安らかな寝顔を見つめた。
重力戦争の最中での彼女は、いつでも警戒心をあらわに眉を寄せ、釣り上がった鋭い目でこちらを睨み対峙していた。終結に向かい、抱え込みそのまま消滅しようとした本音を吐露した彼女は、愁傷と哀絶に顔を歪め、大粒の涙をぼろぼろと流し慟哭した。どの姿も、レイシスの記憶に鮮明に焼き付いている。きっと、一生忘れることができないものだ。
今、己のすぐ隣で眠る彼女の顔には、あの時の攻撃的な色も、悲痛な色も無い。年相応の女の子が浮かべる、穏やかで健やかなあどけないものだ。生きることを願ってくれて、伸ばした手を取ってくれて、己の場所まで来てくれた大切なその人が、今ここにいる。幸を享受して、穏やかに生きている。そんな現実が叶った幸福を噛み締め、レイシスは眩しそうに桃の瞳を細めた。
サイドボードに置かれた目覚まし時計へと目を向ける。小さな文字盤の上には、短い針が六の字を超え天辺を目指し始めているのが見えた。薄暗かった部屋が、カーテンを通して注ぐ陽光で淡く照らされ始める。日の光が世界を包む時間が間近に迫っていた。普段ならばもうそろそろ起きる頃合いだが、今日は休日だ。今すぐ起きる必要も、健やかに眠る彼女を起こす必要もないだろう。
細く白い指が、美しい曲線を描く柔い頬を撫でる。傷一つない白い肌は、薄明かりに照らされる部屋でもほのかに輝いているように見えた。指先から伝わる感触が、熱が、彼女の存在が確かであることを示す。胸中に広がる幸福に、少女は思わず微笑みを浮かべた。
躑躅の瞳が開いたら、真っ先に『おはよう』と言おう。それから、朝ご飯を作って、一緒に食べて、たくさん話をしよう。買い物に行くのもいいかもしれない。それから、それから。
共に過ごす休日への期待を胸に、レイシスは愛しい妹を見つめる。二人一緒に新たな朝を迎えるまで、あと少し。
おはよう/おやすみ / ハレルヤ組
下ろされた瞼がひくりと動く。痙攣するように細かに震えた白い帳がゆっくりと上がり、潤んだ柘榴石が現れた。まだ眠気に身を預けたままの瞳に、強い白が飛び込んでくる。頭上から容赦なく降り注ぐ光に、雷刀は苦しげに目を細めた。
己の役割を全うしようと輝く蛍光灯の光は、寝起きの人間にはいささか刺激が強い。光源を直視した状態ならば尚更だ。けだるい腕を持ち上げ、少年は眩しいそれを手で遮る。それでも、青白い輝きは指の隙間から侵入し、今にも閉じてしまいそうな目を無理矢理こじ開けようとする。二度寝を許そうとしないそれから逃げるように、緩慢な動きで転がり身体を横に向ける。彼を象徴する赤い髪が落ち着いた色合いの絨毯に音もなく散らばった。
身を包み込む温かな炬燵布団に潜り込む。再び夢の世界に戻ろうとしたところで、覚醒に至りきらずぼやける視界に柔らかな色が飛び込んできた。輝くように鮮やかながらも優しい桃が、にじむ世界の中できらめく。なんだっけ、と少年は微睡み鈍る頭を働かせる。たっぷり十数秒の思考の末、脳に刻み込まれたその色と存在がようやく結びつき、雷刀はビクリと大きく身を震わせた。動いた拍子に炬燵机に足がぶつかる。ガタ、と天板に乗ったマグカップが音をたてた。
目の前に広がる美しい髪は、紛れもなく我らが愛しい少女――レイシスのものだ。しかし何故彼女がここに、それも自分の隣にいるのだ。中途半端に覚醒した頭で必死に記憶を漁る。引き出しを全て開け放ちひっくり返したところで、ようやく答えとなるそれが見つかった。
そうだ、今日はレイシスの誘いで三人で過ごすことになったのだ。年始は運営業務もお休みだから久しぶりに遊びにいきたい、との少女の控えめな提案に、兄弟二人で即座に賛同の返事を送ったのが先日のこと。すぐさま予定を合わせ、カレンダーをそわそわと眺める日々を過ごし、待ちに待った日を迎えた。午前中にレイシスを迎えに行き、街で彼女が以前から行きたいと言っていた店をたくさん巡り、夕方には夕飯の相談をしつつ買い物を楽しんだ。日も暮れ夜も近くなった頃合い、一人暮らしのレイシスの部屋よりも、二人暮らしのこちらの方が広く何かと都合が良いだろうという烈風刀の弁――恋慕の情を寄せる彼女の部屋を訪れるなど心臓が持たない、という思考は同じ感情を有する兄には筒抜けだ――を受け、三人は『嬬武器』の表札がかかる部屋へと帰ったのだった。
その後、皆でわいわいと料理し、炬燵で揃って夕飯を食べ、テレビのバラエティ番組でやっていたクイズで競い合い、と穏やかな時間を過ごしたことはしっかりと覚えている。しかし、楽しい記憶はそこでぷつりと途絶えてしまっていた。おそらく、炬燵に入って過ごしているうちにそのまま眠ってしまったのだろう。ふかふかとした厚い布団で囲われた机に潜り込んだ身体は、未だ心地良い温もりに包まれている。電源が切れていないということは、そこまで長い時間は経っていないようだ。ようやく記憶の整理を終え、少年は一人溜め息を吐いた。
わずかに落ち着きを取り戻し、雷刀は猫のようにゆっくりと瞬きをする。眠気が拭いきれないままの鈍い紅玉が、真横に横たわる形の良い頭と、絨毯にふわりと広がった滑らかな長い髪に向けられた。
冬の静かな夜、音が消えた部屋の中、かすかに聞こえる寝息は落ち着いたものだ。こちらに背を向けている状態のため、愛しい少女の顔を見ることは叶わないが、その表情は安らかなものだと容易に想像がつく。呼吸に合わせ小さく上下する華奢な身体を眺め、少年は愛おしげに目を細めた。
そういえば、烈風刀はどうしたのだろう。まだ微睡みに足を浸した脳が、片割れを求める。実直な彼は、常日頃から炬燵で寝るな、と言っている。このようにだらしなく寝転けた二人の姿を見て、起こさないはずがない。けれども、あの清澄な碧は狭い視界の中には見つからなかった。部屋に戻ったのだろうか。小さな疑問を解決すべく、雷刀は片腕を突き重い身体をわずかに起こした。
地に近かった視点がゆっくりと上がっていく。腕にかかる体重が増えるにつれ、絨毯の上に横たわる少女の身体で遮られていた向こう側が明らかになった。
桃の隣、身体一つ分離れた場所には、碧が同じように寝転んでいた。こちらを向いた整ったかんばせには、あの澄み渡る水宝玉は見えない。切れ長の大人びた目は静かに伏せられ、若葉色の睫毛がその縁を彩っている。炬燵布団に潜り込み、目を閉じ絨毯に身を預ける姿は、彼もまた眠っていることを意味していた。
珍しい、と驚きに赤い目が幾度も瞬く。あの烈風刀が愛するレイシスを放っておくわけがないとは思っていたが、まさか彼までここで眠っているとは思ってもみなかった。普段は行儀が悪いと怒るくせに、と少年は唇を尖らせる。そんな彼すらこんな風に眠り込んでしまうのだから、炬燵が持つ力は恐ろしい。魔性とはこういうのを言うのだろうか、とまだ半分眠った頭で考える。
寝転がる二人を眺め、雷刀は小さく首を傾げ難しそうに呻る。弟が言うように、炬燵で寝ていてはあまり身体に良くない。温度調節機能が働き内部のヒーターが切れてしまえば、ぬくぬくと心地良いこの場所は一気に冷え、ただ床で眠るのとほぼ同じ状態になってしまう。起こすのが正しい選択だろうが、こうも穏やかに眠っている姿を見ると、無理矢理起こすのは気が引けてしまう。自分自身、この身体を包み込む温かな空間で眠る気持ちよさを心の底から知っているのだから尚更だ。
目を閉じ思考を巡らせ幾ばく、雷刀は一人小さく頷く。床に突いていた片腕からすっと力を抜き、そのまま絨毯にぽすりと倒れ込んだ。起き上がった分抜け出てしまった身体を、再び炬燵布団の中に潜り込ませる。身体全体が優しい温もりに包まれる感覚に、柘榴石が気持ちよさそうにとろけた。
愛しい二人がこんなにも気持ちよさそうに眠っているのだ。それをわざわざ起こすだなんて、あまりにも可哀想である。このまま寝かせてやることが、彼らにとっての幸せに違いない。きっとそうだ、と少年は自信満々に頷く。普段ならばその滅茶苦茶な理論を正面から否定する双子の弟は、今は夢の世界に旅立ったままだ。彼を止めることができるものなど、この場には存在しない。
それに自分だってまだ眠っていたいのだ。先ほど垣間見えた片割れのあどけない寝顔は、まるで眠りの世界に誘うような可愛らしく気持ちが良さそうなものだった。隣から聞こえる規則正しい可愛らしい寝息も、まだまだ眠気が支配する思考には子守歌のように思える。彼らと同じく穏やかな夢の世界に再び飛び込みたくなるのは、もはや必然の欲求だ。そも、半分眠った頭では炬燵が持つ魔力に抗うことなどできるはずがない。
久しぶりの休みだ、これぐらいだらけたっていいではないか。もう数日もすれば、また元の忙しい日々に戻る。新たな日々を元気に過ごすため、こうやって英気を養うのもきっと必要なことだろう。そんな言い訳を並べ連ね、少年はぺたりと絨毯に頬をつける。よく手入れされた肌触りの良い毛が心地良い。柔らかなそれが、朱い頭をそっと受け止めてくれた。
目の前、小さく上下する華奢な身体を眺め、少年は幸せそうに目を細める。おやすみ、と口の中で呟き、雷刀は再び瞼を下ろす。炬燵がもたらす温もりが、彼を再び夢に続く道へと誘った。
降ろされた瞼がひくりと動く。細かに震えた白い帳がゆっくりと上がり、奥から潤んだ紅水晶が現れた。突如明るい場所に放り出された感覚に、半分ほど開いた目が眇められる。んー、と眠たげな声を漏らし、レイシスは眉を寄せた。眩しさから逃げるように、少しだけ顎を引き身体を縮こめ丸まる。
微睡みが膜張りぼやける視界の中、落ち着いた茶の上に若草が散っているのが映る。見慣れたはずのそれが何なのか思い出せず、少女は不思議そうにゆっくりと瞬きをした。
「…………れふと?」
ゆるりと稼働を始めた頭が、その色が誰を示すのかを理解する。桜色の唇が、彼女を慕う碧い少年の名を紡いだ。何故彼がここに、と少女はまだふわふわとした意識の中、記憶を探る。しばしして、働き始めたばかりの脳が該当するそれを探り当てた。
そうだ、せっかくのお休みなのだから皆で遊ぼう、と兄弟二人を誘ったのだ。昼間は街で遊び、夕方は相談しながら夕飯の買い物をして、皆で料理し食べ、と穏やかな時間を過ごしたのだった。しかし、記憶は皆でテレビを見ていたところでぷつりと途絶えてしまっていた。おそらく、炬燵に入って過ごしているうちにそのまま眠ってしまったのだろう。腹が十二分に満たされた状態でこの楽園のように温かな場所に潜り込んでしまえば、眠くなってしまうのは必然なことだ。日中、街を歩き回って疲れていたのだから尚更だろう。現に今、炬燵布団の中に潜り込んだこの身全てを包み込む温もりは、再び少女の意識を眠りへ誘おうとしている。
しかし、彼まで眠っているとは。ほのかに潤みぼやけて映る桃が、穏やかな表情で目を伏せた少年をぼぅと見つめる。双子の碧い方は、優等生と評されるように非常に真面目で規律を厳格に守る人物だ。このようにだらしなくうたた寝することなど良しとしないだろう――少なくとも、双子の朱い方にそう言って叱っている場面は何度か見た。珍しいこともあるものだ、と未だはっきりとしない頭で考える。
目の前に横たわる碧の寝顔をぼんやりと眺める。普段は正面をまっすぐと見据える浅葱の瞳は瞼の下に隠れ、代わりに髪と同じ色をした長い睫毛がその存在を主張していた。普段見せる冷静さを漂わせた怜悧な表情は、眉が少し下がっているためか普段よりも柔らかく見える。大人びて見える彼も、まだまだ少年であることが分かるものだ。
くぁ、とレイシスは小さく欠伸をする。こうやって目覚めてしまったが、何度瞬きをしても視界も思考も晴れきらない。眠気が消え失せる気配は一切感じられなかった。むしろ、睡魔が再び忍び寄ってくる感覚すらする。全ては、この炬燵という魔性の存在のせいだろう。寝ぼけた頭が、益体もないことを考えた。
そういえば、雷刀はどこに行ったのだろうか。眠気が膜張りにじむ視界の中、少女は朱を探す。桃色の目に映るのは、碧い少年と絨毯、そこから途切れたフローリングとベランダに続く窓を覆うカーテンぐらいだ。わずかに思考を巡らせ、少女は鈍い動きでころりと転がり身体を反転させる。予想通り、探し求めた朱は反対隣で眠っていた。
快活な性格を表すような大きな目は閉じられており、太陽のように明るくキラキラと輝く紅緋は今は見えない。縁を飾る茜色の睫毛は、笑顔を模る口元のように下向きの柔らかな曲線を描いていた。八重歯が覗く口は軽く開かれており、そこからすぅすぅと穏やかな寝息が漏れている。健やかに眠るその表情は、元より子どもらしさを感じさせるあどけなさがより強く表れているように見えた。
「らいと」
炬燵布団から出ないようにそっと腕を伸ばし、レイシスは雷刀の肩をとんとんと叩く。寝起きでろくに力が入らないのもあってか、夢路を巡る少年は欠片も反応を示さない。依然、すやすやと穏やかな寝顔を浮かべている。
のろのろと転がり、元の方向を向く。今度は、烈風刀へと腕を伸ばす。れふと、と同じように名前を呼んで肩を叩いてみるが、やはりこちらも目を開ける気配は無い。薄く寝息が聞こえるばかりだ。
同じ寝顔だ、と少女は思わず口元を綻ばせる。双子ではあるが性格が正反対の二人だ。冷静で聡明な烈風刀と、元気で明朗な雷刀とでは違う印象を持つ人は多い。けれど、こうやって改めて見てみれば、二人とも鏡で映したようにそっくりだ。烈風刀が見せる鋭さも、雷刀が見せる柔らかさも、互いにしっかりと持っている。微笑ましい光景に、温かな桜色の目がそっと細められた。
ふぁ、と再び欠伸が漏れる。眠ってしまう直前まで三人でテレビを見ていたはずだが、その賑やかな音は聞こえてこない。おそらく、スリープ機能が働いたのだろう。それほど長く、しかもバラエティ番組の騒がしい音の中目覚めることなくぐっすりと眠っていたはずなのに、瞼はどんどんと重みを増していく。炬燵に入ったままの身体は、じわりじわりと眠気に侵蝕されているように思えた。触り心地の良い厚い炬燵布団と内側を照らすヒーターが与える温もりにかかれば、か弱い少女の意識を微睡みへと引きずりこむなど造作も無いことだ。
半ば閉じかかった桃色の目が、緩慢な動きで壁に掛けられた時計を見る。盤上で時を刻む二本の針は、まだ日付が変わるまで多少の猶予があることを示していた。
もぞりと動き、レイシスは柔らかな毛布の中に口元まで潜り込む。空調が機能している室内は快適な温度を保っており寒さは感じていなかったが、こうして潜ってみるとなかなかに冷えていたのだと思い知らされた。布団から出ていた部分が温められていく感覚に、少女はほぅと安堵に満ちた息を吐く。心まで温もりで包み込まれているように思えた。
目の前、眠る碧が閉じつつある薔薇の瞳に映る。安らぎきった穏やかなその寝顔を眺め、少女は幸せそうに笑みを零した。
おやすみなサイ、と誰に聞かせるでもなく呟く。ゆっくりと目を閉じ、レイシスは再び温かな眠りの海へと身を委ねた。
降ろされた瞼がひくりと動く。細かに震えた白い帳がゆっくりと上がり、奥から潤んだ孔雀石が現れた。常ならば澄み切った視界は、まるで薄い膜を何枚も隔てたようにぼやけ、輪郭を掴むことすら難しい。ぅ、と眠気を多分に含んだ呻りが細い喉から漏れた。
まとわりつく眠気を振り払うように、烈風刀はぎゅうと目を閉じて開いてを繰り返す。ようやく靄が晴れつつある視界の中に、鮮やかな桃色が飛び込んでくる。眠気で薄くけぶる翡翠が、美しいそれをぼんやりと眺める。最高級の顔料のように鮮やかで、きらきらとつややかに輝くその色はたしかに見覚えがあるものだ。たっぷり十数秒。起きたばかりでふわふわとした思考がその色が表す存在を理解し、少年はビクリと大きく身体を震わせた。反射的に後退した拍子に、炬燵机の足にぶつかる。ガタ、と天板に乗ったリモコンが固い音をたてた。
己の目の前、桃色の髪を絨毯の上に広げ穏やかな顔で眠っているのは、我らが愛しい少女――レイシスだ。しかし、何故彼女がここに、しかも自分の隣にいるのだ。一気に覚醒しパニックに陥りかける思考をどうにか押さえつけ、烈風刀は急いで記憶の引き出しをひっくり返す。手当たり次第全て開け放したところで、ようやく該当するそれが見つかった。
そうだ、昨日は久しぶりに三人で過ごしたのだった。午前から街へ出掛け、レイシスが以前から行きたがっていた場所を周り、相談しながら夕飯の買い物を済ませ、兄弟が暮らす部屋――一人暮らしの彼女の家に男二人で押しかけるのは、世間体的にも自分たちの心臓にも悪い――に帰ってきたのだった。
皆で料理し、和気藹々と夕飯を食べ、バラエティ番組のクイズで競い合い、と穏やかな時間を過ごしたことは覚えている。しかし、和やかな記憶はそこでぷつりと途絶えてしまっていた。おそらく、炬燵に入って過ごしているうちにそのまま眠ってしまったのだろう。今頬から伝わる感触は、枕のさらさらとした生地でなく、絨毯のふわふわとした毛並みのそれだ。
ようやく現状を理解し、烈風刀は苦々しげに顔をしかめる。重い腕を動かし、思わず目元を片手で覆った。固く横一文字に結ばれた口元には、後悔の色がありありと浮かんでいた。日頃から炬燵で寝るな、と兄に再三言っているというのに、自分がこの調子では説得力など欠片もないではないか。この醜態を見て、朱い目を意地悪く細めからかう片割れの姿が容易に想像できる。はぁ、と重苦しい溜め息が吐き出された。
覆っていた手を退け、少年はそっと目を開ける。広がる視界の真ん前には、目覚めた時と変わらず薔薇の少女の寝顔があった。宝石のように澄んだ輝く桜色の瞳は、新雪のような澄んだ白の瞼の裏にそっと隠れている。きらめくそれの代わりに、髪と同じ色をした長い睫毛が目元を彩っている。白い肌の上をなぞる鮮やかなそれは、まるで春を間近にした冷たい空の下静かに咲く花ような美しい光景だ。薄く開いた艶めく唇からは、小さな可愛らしい寝息が漏れている。規則正しいそれは、彼女が安らかな眠りの世界を楽しんでいることを表していた。常はぱっちりと目を開きくるくると表情を変える可愛らしさが目立つかんばせは、今はどこか大人びた女性らしい美しさを思わせるものだ。少女の可憐な魅力を再確認し、翡翠の目が愛おしそうに細められた。
片腕を突いて身を起こし、烈風刀はすやすやと眠る少女の向こう側を覗き込む。予想通り、そこには同じように寝転がった兄の姿があった。炬燵布団を限界まで被って潜り込み、絨毯にぺたりと頬をつけ、半分口を開けたまま眠る姿は幼い子供そのものだ。普段と変わらぬ寝姿に、呆れとある種の安堵を覚える。
ぐしぐしと目を強くこすり、烈風刀は未だまとわりつく眠気をどうにか吹き飛ばそうとする。屈伸運動のようにぎゅっと目を閉じ開いてを何度も繰り返し、どうにかクリアな視界を確保して、壁に掛けられた時計に視線を移す。浅葱の目の先、文字盤の上を進む二つの針は、既に日付が変わってからしばらく経った頃合いであることを示していた。
まずい、と少年は再び眉根を強く寄せ、目を眇める。夜が更ける前にレイシスを送っていく予定だったのに、もうこんな時間になってしまったとは。幸い、時折訪ねてくる彼女のために衣服や布団一式は備えてあるので、それ自体は問題が無い。けれども、自身の単純なミスで彼女に迷惑を掛けてしまうことになるなど、あまりにも情けが無い話だ。己の間抜けさと不甲斐なさに、少年は今一度嘆息する。地に音をたてて落ちてしまいそうなほど重いそれは、自己嫌悪と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざった暗い色をしていた。
しばしの逡巡の末、烈風刀は極力布団が捲れぬよう注意を払いつつ、炬燵から半身を抜け出す。今の今までヒーターで心地よい温度で身を包んでいたためか、空調がしっかりと機能しているはずの部屋は冬の空の下のように寒く感じた。明確な温度差はもちろん、寝汗も一因だろう。十二分に温まった空間にずっと浸していた背中は、ほんのりと汗を掻いていた。
「……れ、れいしす、おきてください」
緊張で無意識に震える手を伸ばし、烈風刀は名を呼びつつ眠る少女の肩を軽く叩く。そっと指先で触れる様は、起こすためというよりも寝かしつけるための動きという方が自然なものだった。相手はこの世の何よりも愛おしい女の子なのだ、普段兄にやるような調子で触れることなどできやしない。優しい手つきになってしまうことは仕方のないことだ。案の定というべきか、少女が目を覚ます気配は一切感じられない。桃の大きく可愛らしい目は、変わらず閉じられたままだ。
ぐっと思い切って身を起こし、今度は少女の後ろで眠る兄へと腕を伸ばす。絨毯に完全に身を預け、布団に潜り込み呑気に眠るその姿に、少年はむっと目を眇める。レイシスはともかく、雷刀には再三炬燵で眠るなと言っているのだ。なのに悪びれもせず堂々と眠っているのだから腹立たしい。ふつふつと湧き出る怒りを表すように、弟は寝転がったその肩をがっしりと掴んだ。
「らいと、おきてください」
少女への優しい手つきが嘘だったかのように、烈風刀は掴んだ肩を容赦なく揺さぶる。寝転がった兄の身体が、まるで地震でも起きたかのようにぐらんぐらんと大きく揺れる。普段もこうして起こしているが、今日のそれは一段と激しい――半分は八つ当たりのようなもの故だ。かなりの衝撃だったのだろう、深く眠っている様子の朱い眉が苦しそうに強く寄せられ、眉間に皺を刻んだ。う、と重く鈍い声があがる。がっしりと掴む手を振り払うように、雷刀は勢いをつけて反対側へと寝返りを打つ。しばし低い呻きが真夜中の部屋に響いた後、再び音が消え静かになる。あれだけのことをされても、真紅の瞳が姿を現す気配は無い。呆れを多分に含んだ浅葱が、真っ赤な後頭部を睨めつけた。
「あとごふん……」
「あとじゅっぷん……」
輪郭が掴めないふわふわとした寝言が二つ重なる。炬燵に潜り込み寝転がる桃と朱は、心地が良い夢の世界から抜け出したくないと、眠りに身を浸したままわがままを言った。並ぶ温かな色彩とタイミングがぴったりと合った様子は、まるで兄妹のようだ。
ふにゃりと安心しきった表情で眠る少女を見つめ、烈風刀はぐ、と苦しげに息を詰まらせる。布団に囲まれたこの空間は今は温かだが、自動温度調節機能によりスイッチが切れてしまえばすぐに冷え切ってしまう。それに、温かすぎて今の自分のように寝汗をかいてしまうのも問題だ。そのままで身体を冷やしてしまい、風邪を引いては大変ではないか。最悪、低温火傷をしてしまうかもしれない。眠るならばちゃんと布団で眠るべきだ。そんなことは十二分に分かっているし、常々説いている。けれども、これだけぐっすりと眠る二人を――レイシスを起こしてしまうのは気が引けた。
はぁ、と今日何度目かの嘆息が部屋に落ちる。どこか影が差した翠玉が、再び壁掛け時計へと視線を移す。大きな盤上で暮らす長い針は、三の字を指差す直前で止まっていた。
五分だけ。あと五分だけだ。五分経ったら絶対に起こそう。無意識とはいえ本人がそう申告したのだから、その通りに起こすのはおかしいことではないはずだ。自分に言い聞かせるように考えたところで、烈風刀は打ちひしがれるように両手で顔を覆った。この選択は最善には程遠いということも、彼女に対して甘すぎるという自覚もはっきりとしている。けれども、長い間片恋を煩わせている少年には、愛おしい少女のささやかな幸せを自らの意思で壊すことなどできなかった。
炬燵の電源スイッチへのろのろと腕を伸ばす。入れっぱなしになっていたそれを一度切り、再び入れ直す。これでしばらくは切れることなく炬燵の温かな世界は守られるだろう。うたた寝を良しとしないくせにわざわざこういうことをする時点で自分はかなり甘っちょろいということは、眠気で鈍った頭では気付かなかったということにする。
細い身がふるりと震える。やはり内部ヒーターでしっかりと温められた炬燵に比べ、空調で軽く整えた程度の室温は低く感じた。彼女が訪れることを想定し、部屋を隅々までしっかりと掃除したため、上着や毛布といった目立ち邪魔になるようなものは全て片付けていた。悩み悩んでたっぷり十数秒、少年は諦めた表情で再び絨毯の上に寝転んだ。このまま何も着ずに座っていては身体が冷えてしまう。それで自分が風邪を引いてしまっては意味が無いではないか。罪悪感がチクチクと胸を苛む。意識に反し、寒さに屈しつつある身体は温かな布団の中に潜り込んだ。
天板に置いたままだった自身の携帯端末に手を伸ばす。引き寄せたそれを数度タップし、時刻を確認する。ロック画面に表示されたデジタルの数字は、彼女が指定した時間までまだまだあることを語っていた。
端末を傍らに置き、烈風刀はそっと薔薇の少女に視線を移す。柔らかな絨毯に頬を預け目を閉じた彼女は、依然幸せそうに眠っている。すぅすぅと穏やかな呼気を漏らす口元は、微笑んでいるようにも見えた。可愛らしい寝顔を眺め、藍玉がふわりと細められる。美しいそれは、微笑みにも似た柔らかで幸せに満ちた形をしていた。
身体を包む温もりが、そっと夢路へと手招く。様々な感情でぐちゃぐちゃにかき乱されすっかりと覚醒しているつもりだったが、睡魔はまだ頭の片隅に潜んでいたらしい。しつこいそれを振り払うように、烈風刀はごしごしと目をこする。それでも瞼は重くなるばかりで、どんどんと持ち上げることが困難になりつつあった。眠ってはいけない、と少年は顔をしかめる。しかし、睡魔に抗うには、少年はあまりにも無力だった。
起こさなくては。起きていなければ。そう強く考えるも、烈風刀の意識は次第に微睡みの海へとゆっくりと沈んでいった。
降ろされた瞼がひくりと動く。細かに震えた白い帳がゆっくりと上がり、奥から澄んだ薔薇輝石が現れた。透き通った可愛らしい目が眩しそうに瞬く。わずかに潤んだそれが光を受けて輝く様は、美しいと形容するのが相応しいものだ。
眠気が色濃く残る目元を指でこすり、レイシスはゆっくりと身を起こす。小さな口から、可愛らしい欠伸が漏れ出た。口元を押さえつつ、少女はきょろきょろと室内を見回す。両脇には、自身を挟むようにして眠る朱と碧の双子がいた。碧の後ろ、窓を覆う厚いカーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。既に世界は朝を迎えたようだった。夜中に一度目覚めた記憶はあるが、結局あのまま眠ってしまったらしい。途中起こされた覚えも無いので、兄弟二人もあのままずっと眠ってしまっていたのだろう。
もう一度目をこすり、薔薇の少女は指を組んで上へぐっと伸びをする。絨毯の上で一晩寝て過ごしたからだろうか、細い肩が少しきしみ小さな悲鳴をあげるのが聞こえた気がした。思い切り伸ばした腕をそっと下ろし、少女は大きく息を吐いた。
すっかりと目覚めた桃の目が、壁掛け時計へと向けられる。アナログ式の二本の針は、平日ならば遅刻が確定した時刻を指していた。今日は休日だが、さすがに起こした方がいいだろうか。このまま床でずっと寝ているのもきっと身体に悪い。現に、この身を浸した炬燵の温もりはだんだんと失せているらしく、かすかな寒さが足下を上ってきているように感じる。ふるりと少女の細い身体が震えた。
「烈風刀、烈風刀」
左隣で眠る少年に手を伸ばす。名前を呼び、レイシスはその肩をとんとんと軽く叩いた。しばしして、小さな寝ぼけ声とともに白い瞼が動く。幾度か震えたそれが、舞台幕のようにゆっくりと開いていく。現れた燐灰石はけぶったような色合いをしており、まだ夢に半分身を浸しているように見えた。
「烈風刀、もう朝デスヨ」
小さく首を傾げ、少女は開ききっていない彼の目をじぃと見つめる。ぼんやりと宙を眺めていた海色が元の透明感を取り戻し、ぼやけていた焦点が合っていく。目の前、まっすぐ己を見つめる桃をようやく認識した碧は、大きく目を見開いた。少年の細い身体がビクリと大袈裟なほど跳ねる。ゴン、と鈍い音が朝日が差し込む部屋に響いた。息を飲む苦しげな声とともに、烈風刀は身を縮め丸まる。どうやら、先ほどの音は彼が炬燵机に足をぶつけたもののようだ。
「大丈夫デスカ?」
「……はい、大丈夫です……、大丈夫……」
あまりにも痛そうな音と反応に、レイシスは心配そうな様子で少年の顔を覗き込む。反して、彼はその揺れる撫子の瞳から逃げるように更に身を縮こまらせ顔を伏せた。返す声は普段の落ち着いたものではなく、少しかすれ震えている。本当に大丈夫なのだろうか、と少女は不安げに眉端を下げる。その震えが痛みだけでなく、想いを寄せる少女の顔を間近で見た驚きと羞恥とわずかな喜びによるものということも、伏せた顔が鮮やかな赤に染まっていることも、純粋な彼女が知ることはない。
しばしの苦悶の後、烈風刀はようやく顔を上げる。もうすっかりと目が覚めたのか、碧い瞳は夏の空のように晴れやかな、澄んだ色をしていた。
「おはようございマス」
「おはようございます。……すっかり、朝になってしまいましたね」
にこやかに笑う薔薇に、碧も微笑みを浮かべ返す。しかし、その優しい表情は窓へと視線を移した途端曇ってしまった。普段、兄に炬燵で寝るなと散々言っているのに、自分も眠ってしまったことを悔やんでいるのだろう。うたた寝ならともかく、丸々一晩寝てしまったのだ。強い後悔が彼を襲っているはずだ。あまり気にする必要はないだろうに、重く受け止め気に病んでしまうのだから、彼はとても真面目で誠実だ。だからこそ些細なミスが許せないことは、すぐ傍でずっと見てきた兄と少女は知っていた。
「デスネ。今日も良い天気デス!」
気にするなというように、少女は元気よく答える。事実、少しだけ開いたカーテンの隙間から見える空は青く、雲の白もあまり見えない。この時期はまだまだ寒いが、散歩をするにはうってつけの日和だろう。少女の気遣いを察してか、少年はそうですね、と柔らかに返した。
「アッ、雷刀も起こサナイト」
くるりと身を反転させ、レイシスは己の後ろに横たわる少年へと身体を向ける。少女に背を向けた状態で寝転がった朱は、あれだけ大きな音がしたというのに未だ眠っている様子だった。首まですっぽりと炬燵布団の中に潜り込み、膝を抱えるように丸まって眠る姿は、猫のようだ。
「雷刀、朝デスヨー。起きてくだサイ」
「雷刀、起きてください」
朱い頭を見下ろし、レイシスは目を閉じたままの少年の名を呼ぶ。いつの間にか炬燵から出た烈風刀が、横を向いて寝転がった兄の前へと回り込む。そのまま、横たわるその肩を掴み、容赦なく揺さぶった。丸まった身体が荒波に揉まれるかのように揺れる。あまりにも乱暴だが、真顔で揺さぶる弟とそれでも眠ったままの兄の様子を見るに、どうやらこれが二人にとって普通らしい。一人っ子の少女は、その光景を興味深そうに見つめた。
雷刀、と弟は苛立った声で兄の名を鋭く呼ぶ。その声が届いたのか、強く揺さぶられ続けたのがやっと効いてきたのか、柔らかな布団に埋まった少年は鈍い呻り声をあげた。音に成りきれていない寝ぼけ声とともに、朱はもぞもぞと動き更に炬燵の中に潜り込もうとする。いい加減痺れを切らしたのだろう、烈風刀は片割れの身体を包む柔らかな布団を鷲掴み、勢いよく引っ剥がした。厚くふかふかとした暖かな衣を失った兄は、寒さにぶるりと大きく震える。うー、と濁った低い呻きがあがってしばらく、ようやくぴっちりと閉じていた瞼の奥からまあるい紅玉がゆっくりと覗いた。眠気でとろりと柔らかくなったそれが、己を見下ろす蒼玉へと向けられる。寝ぼけ眼で弟を見つめた兄は、ことりと小さく首を傾げた。
「れふと……?」
「おはようございます。さっさと起きてください」
寝起きでふわふわとした声を、厳しく硬い声がバッサリと切り捨てる。慣れているのだろうか、じとりと睨めつける翡翠を気にすることなく、雷刀はくぁ、と欠伸を漏らした。八重歯が覗く口が大きく開き、ゆっくり閉じてもごもごと動く。手の甲でごしごしと目をこするが、彼のキラキラと輝く元気な目はなかなか開く様子がない。寝転がったままなのも相まって、今にも眠ってしまいそうにも見えた。
「雷刀、おはようございマス」
「んー……。レイシス、おはよ」
少女の声に、少年はころりと転がり後ろを向く。愛しい薔薇色の笑顔を見上げ、朱もふにゃりと笑った。しぱしぱと幾度か大きく瞬き、少年は転がりうつ伏せて、ぐっと伸びをする。今一度大きな欠伸を漏らし、雷刀はようやくその身を起こした。さっむ、と呟き、少年は脇に避けられた炬燵布団へと手を伸ばす。その指が生地に触れるより先に、隣から伸びてきた手にぺしりと叩き落とした。炎瑪瑙が恨めしそうに眇められ、手の持ち主を見やる。同じく鋭く細められた藍晶石が真正面からぶつかった。
くしゅん、と小さな軽い音が朝の部屋に響く。音の主である少女は、恥ずかしそうに頬を染め、急いで口元を押さえ隠した。連鎖するように、違う音色をしたくしゃみが二つ続く。すん、と鼻をすする音がひとつ。妙に息が合ったそれが何だか面白く、三人はくすくすと笑いを漏らす。和やかな笑い声が重なる光景は平和そのものだ。
「すっかり冷えてしまったみたいですね。温かいお茶でも淹れましょうか」
小さく苦笑し、烈風刀は机へ手を伸ばす。天板の上に置いたままになっていたマグカップ三つを手早くたぐり寄せ、少年は空になったそれらを取った。キッチンに向かおうと立ち上がる彼を見て、レイシスも一拍遅れて立ち上がる。はわ、と慌てた声があがった。
「ワタシがやりマスヨ!」
「大丈夫ですよ。レイシスはゆっくりしていてください」
「イエ! 泊めてもらったんデスカラ、それくらいさせてくだサイ」
こちらをまっすぐに見上げるきらめく桃の瞳に、碧は思わず気まずげに目を逸らす。彼からすれば、昨日は己のミスで家に帰してやれなかったのだ。泊めることなど当然である。こちらが迷惑を掛けてしまったのだから、彼女には何の気兼ねもなくくつろいでいてほしいのだ。しかし、ここで強く否定し無理矢理座らせれば、優しい彼女は可愛らしい顔をしゅんと悲しげに曇らせるのは容易に想像がつく。彼女に気を遣わせてしまうのは嫌だが、それ以上に悲しい思いをさせてしまうのは何としてでも避けるべき事態である。
言葉に詰まって数拍。ではお願いします、と浅葱は困ったように眉端を下げ、手に持った桜色のマグを手渡した。ハイ、と元気よく返事し、レイシスは落とさないように受け取ったそれを大切に両手で抱えた。
「あっ、じゃあオレも」
二人のやりとりを見て、いつの間にか寝転がり炬燵のスイッチに腕を伸ばしていた雷刀も立ち上がる。軽い言葉からは、彼女のように助けになろうという意思は感じられない。事実、彼は手伝いをする気など欠片も無い。単純に、弟と可愛らしい薔薇の少女を二人きりにしたくないだけだ。
さっと二人の間に割って入り、兄は弟の手から赤色のマグカップを取る。いきなりのことに、深碧の目がきょとんと開かれる。その意図を即座に察し、烈風刀は隠すことなく強く顔をしかめた。くるくると表情を変える弟を眺め、茜の瞳が愉快そうに細められる。自分のは自分で洗うよ、と言う声は、意地の悪い響きが含まれていた。二人の様子を見て、レイシスは楽しげに目を細める。天然で恋に疎い薔薇色には、少年らの攻防は仲が良くじゃれているように映った。
パタパタと軽い足音が三つ重なる。少年少女らの賑やかな声が新しい日を迎えた部屋に響いた。