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愚か君と虚構ちゃん

全体公開 1 16563文字
2019-04-26 16:54:58
Posted by @sugoidame





この世界にはあまり正真正銘の真実というものはないけれどそれでも全てが虚構と言い切れるわけでもなく、例えば一部の生き物にとっては真実だけど客観的に見れば虚構だったり、虚構になりたいけどなりきれないものだったり、真実になりたいけどなりきれなかったりするものがある。そういうものは主観が生き物なら少しわかりやすいけれど多くの場合は概念で、冬の間だけトンネルの横に草に埋もれてひっそりと現れる扉だとか、深夜、参加しなかった祭りが終わった筈なのに聞こえてくる祭囃子だとか、遺書の続編とか、13月1日などがそれに値する。どれもこれも「あったらいいな」「ない方がいいな」みたいなフワッとしたそれすらあるのかないのか認知されないような無意識の中に存在したりしなかったりするもので、実際別にあってもなくても何も変わらないし、誰も困らないし、誰も喜ばない。けれど世界のバランスを保つためには欠かせないものだ。ということも特にない。世界のバランスなんてものは無い上にそもそも必要とされてもいない。ただただ真実でも虚構でもなく、主観を交えて言えばどちらかといえば「別にあってもなくてもいいけど何か嫌」の部類に入る。そういうものがこの世界にはそこそこある。
概念の例を出したが、生き物で言えば俺である。名前も特になく、居ても居なくてもそこに全く影響を及ぼさず、ただただ形容するならば「何か愚か」何か愚かなので愚か君と呼ばれている。何か愚かな人間は、別に自分に関係がなくても何か嫌。そんな感じだ。対してこの世界を大きく占めているのは「虚構」の割合で、虚構とは何かというと虚構である。そのまま、フィクション。虚構なのだ。だからそこに「居る」と、その虚構自身と周囲が全て認めていても虚構であることに変わりはないのでそこには何も「居ない」のだ。ついでに言うと虚構自身というのも虚構に過ぎないので、虚構がいくら自分はここに居るのだと意思表示をしてもその意思も存在も何もかもどこにもないのである。
このことは知り合いが以前教えてくれたことなのだが、正直この感覚は未だに俺もよくわからない。なぜなら彼女はいつだって目の前にいるから。彼女はいつだって目の前をヒラヒラフワフワ舞っていて俺の名前を呼ぶのだが、知り合い曰くそれは全て虚構らしい。否定しようにも当の彼女が「虚構ちゃん」で、俺は彼女が世界で一番大好きなのでその呼び名を否定するこは出来ないのだ。まあ彼女が虚構ちゃんならば彼女は虚構なのだろうと思うしかない。その知り合いにだって虚構ちゃんは見えているのに虚構ちゃんはどこにもいないらしい。
ただ不思議と虚しくならないのは、きっとそれが到底有り得ないと言い切れる話ではないからだ。何か根拠があってそう思うのではなく完全に俺の思想の影響なのではあるが、この世界でなくとも「そういうこと」はままある。この虚構の世界と対極にある世界では基本的に全ての物は真実であると認識されている。彼らは自分たちの存在を疑わない。仮に自分がいないとしても、自身の思想、思考の存在について疑わない。けれど彼らは生まれてきて、死んでいく。生まれてくる前、死んだ後に彼らがどこにもいないことを俺は知っている。彼らが生きていた世界が、世界になる前にはどこにもなく、いずれ世界ごとどこにもなかったことになるのを俺は知っている。何もないのだ。何もかもなかったことになる真実は、果たして真実と呼べるだろうか?結局最終的に行き着くのが虚無ならば、そんなものは既に虚構であるのと同じだ。要するに、どんな世界であろうと、自分が真実であろうが虚構であろうが根本なんて何も変わりはしないのだ。世界なんてそういうものだ。そういう風に、出来ている。
そういうもので、あってほしい。



「お疲れ様、虚構ちゃん」
しかし世界というものはそう簡単に悟りきれるものではないようで、真実や真実と虚構の混ざり合う何かは俺の目の前で着実に虚構になって消えていく。それは文字通り、そこにあったものが無くなるという形で。
俺がそう声をかけると、虚構ちゃんは振り向いて「ナ〜」と鳴いてケラケラ笑った。淡いピンクがかった、顎の辺りで切り揃えられた白髪。その前髪は顔を全て覆い隠してしまっていて、両サイドの髪束だけが肩のあたりまで垂れている。前髪の少し上辺り、構造はわからないが目と口に見える黒がこちらを見る。さっきまでそこに泣きそうな顔をして立っていた人間は、もうどこにもいなかった。
出会った時から虚構ちゃんはずっとそうだった。
虚構ちゃんは虚構を救うことが出来る。虚構ちゃんは目の前に何かが現れると必ず飛びついてそのフカフカの体で抱きつくのだ。特に生き物だと動きは俊敏で、多少離れていても弾のような速さで両腕と呼んでいいのかわからないがそれに対応する部分を目一杯広げ、白い髪をユラユラ揺らしながらフワッと飛んできてフカッとその生き物の顔面を包むように抱きしめる。その動きは非常に愛らしくて可愛らしい。愛らしくて可愛らしいのだが、その直後には不可解な事が起こる。虚構ちゃんが抱きしめて顔を隠された生き物は次の瞬間跡形もなく消えてしまうのだ。あの心地良いフカフカの向こうでジュワ、と熱で溶けるような音を立ててそこからいなくなってしまう。それから笑う。虚構ちゃんが、ケラケラと笑う。可笑しそうに、不思議そうに。
虚構になるのだ。
あの知り合いはそう言った。俺もそう思った。虚構ちゃんに抱きしめられたら、何もかも虚構になって消えてしまう。虚構になって消えるというのも語弊があるが、正確には消える彼らは元々虚構なのだ。本当はどこにもいないのに、そこにいることになっている。周囲から見れば彼らには全く害も利もないため誰に咎められることもないが、同時に彼ら自身の利害も見落とされがちだ。彼ら虚構は虚構なりに悩んだり悲しんだり苦しんだりしているけれど、虚構なので実際にはそんな感情なんてないのだ。だから全部無視される。虚構はそれが悲しいけれど、虚構だからその感情が本物なのか本当はどこにもないのかわからない。だとか。そんな理由で、虚構は虚構ちゃんのところへやってくる。多分、彼らはその感情を肯定してほしいわけではない。悲しんだり苦しんだりしてもいいんだよ、とか。そんな言葉は求めていない。ただ認めてほしいのだ。彼らが虚構で、本当はどこにもいないことを。世界はどこも虚構に厳しいけれど、虚構ちゃんはどこまでもどこまでも虚構に優しい。虚構でもいいんだよ、ではない。そうではなく、虚構だからどこにもいなくてもいいんだよ。そう語るのだ。どこにもいなくていいんだよ。悲しまなくても苦しまなくてもいいんだよ。嬉しくなくてもいいんだよ。楽しくなくてもいいんだよ。名前なんてなくていいんだよ。誰からも好かれなくても、誰も好きになれなくても、誰からも無視されてもいいんだよ。自分にすら嫌われても、自分すらいるかどうかわからなくてもいいんだよ。だってきみは虚構なんだから!本当はどこにもいないんだから!あのフカフカの中で、虚構ちゃんはそう言って何もかもを溶かすのだ。虚構ちゃんはとても冷たいけれど、真っ暗闇の中で蕩けるようなフカフカは熱い。熱くて、熱くて、あまりに心地良い。きみは虚構だよ。その熱で、その温度だけで、どうしようもなく救われてしまう。きみは虚構だよ。そう溶かす熱が、同時に首筋を撫でる虚構ちゃんのサラサラの髪が、体の奥からあるはずのない心を優しく抉り出して灼いていく。あるはずのない脳みそがグズグズと泡立って掻き混ぜられて、そのまま何もかもグチャグチャのまま、何もかもが認められてしまう。あの開放感を、あの気持ち良さを俺は知っている。何を隠そう俺もやられたから。だから虚構ちゃんから抱擁を受けて消えてしまう生き物の気持ちは痛いくらいわかるのだ。
「お茶にしようよ、虚構ちゃん」
今日虚構ちゃんを訪れてきた少女も虚構だった。まちがえちゃったの。そう言って泣きそうな顔で笑っていた。なるほど、と思った。何を間違えたのかはわからない。けれど彼女がそう言うのならば彼女は虚構なのだろう。抱き締めたくてうずうずしている虚構ちゃんに俺が合図を送るとすぐに喜んで飛びついた。そうして消えた。それだけだった。彼女がどこへ行ったのかはしらない。けれど元々どこにもいないんだから、きっともう、ちゃんとどこにもいないのだろう。そうあればいい。そう思う。
「マ〜」
虚構ちゃんは嬉しそうにまた部屋の中をフワフワ舞ってテーブルについた。俺はカモミールの入った瓶を開ける。虚構ちゃんが笑う。いいね。今日もカモミールを淹れて。そう言っている。クッキーを何枚かお皿に並べて俺も虚構ちゃんの向かいに座る。
「おいしい?」
「ウ〜」
昔はなりふり構わず誰を見ても飛び付いては消していた虚構ちゃんだったが、今はもうそんなことはない。先程の少女のように虚構ちゃんに抱きしめてもらいにきた生き物だけ、俺が許可した時にだけ抱きしめる。俺がそうお願いしたのだ。断っておくと問答無用で消さていく生き物に同情を覚えたとかそういう理由では一切ない。むしろ彼らは幸福だった。消えた方がいいとまでは思わないが、彼らはみんな真実も、心のどこかで消えたがっている。それなら何故かというと、正直な話、俺は虚構ちゃんのことが大好きになってしまったのだ。
抱きしめられたから大好きになってしまったというのも単純な話だが言ってしまえばそれが全てだ。あの瞬間、あのフカフカに包まれて熱で脳みそがドロドロになって、認められた開放感と多幸感で俺はいっぱいいっぱいになった。このまま消えるんだろう、それがいい、本気でそう思いもした。けれどそれで終わらなかった。俺は消えなかった。俺はあの瞬間熱の中で、自己中心的な幸福感を上回るほどの感情を俺を抱きしめている張本人の虚構ちゃんに抱いたのだ。それは愛でも恋でもなかった。そう感じた。
今となってはそれは愛なのかもしれないし、恋なのかもしれない。何でも良い。何であれただ純粋に、ただただ「好き」という感情がそこにあった。愛でも恋でも何でも良い。それは虚構ではなかった。虚構ちゃんが好き。世界で一番。今でもずっと。俺はこのよくわからない虚構ちゃんという生き物のことが本当に本当に大好きになってしまったのだ。だから虚構ちゃんが誰彼構わずフカフカと抱き付きにいくのが少し嫌だった。だからお願いした。それだけだ。俺がそうお願いすると虚構ちゃんは少し不思議そうに首を傾げていたが、すぐにいつものケラケラと笑ってからかうようなような音色で「ラ〜」と鳴いた。わかったよ、と言っていた。何を隠そう虚構ちゃんも俺のことが大好きなのだ。
それからずっと、虚構ちゃんと俺は一緒にいる。
眠りから覚めたらゆっくり起きて、俺は卵を使って食事を作る。虚構ちゃんは気まぐれで食べたり食べなかったりする。起きてから次の食事までは一緒にソファに座って本を読んだり手遊びをしたりテレビを観たりして過ごす。昼食をとった後は虚構がやって来たりやって来なかったりするので虚構ちゃんと虚構を救ったり救わなかったりして過ごす。しばらくして客足が途絶えたらお茶の時間。虚構ちゃんはカモミールが好きだから毎日カモミールを淹れるけれど、俺は毎日虚構ちゃんに何を飲みたいか聞く。虚構ちゃんは毎日嬉しそうにカモミールにしよう、と答えてくれる。お菓子がある時はお菓子も並べる。最初の頃は虚構ちゃんは飲んだり飲まなかったりしたけれど、最近は毎日俺に付き合ってくれるようになった。その後も虚構がちらほらやって来るのできりの良いところでclosedの看板を玄関にかける。それから散歩をしたり、本を読んだりテレビを見たり話をしたりして2人で過ごす。夕食は食べたり食べなかったりする。眠る時はおやすみを言ってそれぞれの部屋のベッドに潜るけれど、虚構ちゃんは夜中になると頻繁に俺のところにやってくる。勝手に潜り込んでくる虚構ちゃんに起こされたことはまだないので、虚構ちゃんは余程人のベッドに侵入するのが上手いのだろう。そうして次の日がやってくる。
こんな感じだ。ちなみに俺は愚かなので1日に3回くらい怪我を負っている。今日も火傷と打撲を一つずつ負った。虚構ちゃんはそんな俺を見て、心配したりケラケラ笑ったりしている。
ずっと一緒にいる。
「虚構ちゃん、この前食べたケーキ覚えてる?」
「マ〜」
「美味しかったよね。後でまた買いに行こうよ。また明日一緒に食べよう」
「アウ〜」
ずっと一緒にいる。
俺が虚構ちゃんのことを大好きだから。虚構ちゃんも俺のことが大好きだから。
ここがどこかわからないけれど、虚構ちゃんが何なのかわからないけれど、俺自身も誰なのかわからないけれど。



お茶の食器を片付けていると、チャイムも鳴らさず不躾に玄関の扉がガチャリと開けられる音がした。外の遠慮がちな冷気がテーブルの上の観葉植物の細い葉をカサカサと揺らす。鍵を閉め忘れただろうか。いかんせん愚かなのでそういうことは頻繁にあるため特に驚くこともなく振り返る。大方どこからか虚構ちゃんの噂を聞きつけてやってきた虚構だろう。しかし対客人用の声をあげようとして、そこに立っているのがそれなりに見慣れた長身の男であるのに気がついた。
「よう、久しぶり」
その男は無遠慮に家に上がり込むと目も合わせずに挨拶した。その後ろからもう1つの人影が現れる。彼らは最近常に2人でいた。
「本当に久しぶりだな。何しに来た?」
「何ってここに来る理由なんて知れてるだろ。そこの虚構ちゃんに用があってさ」
そう言うと男は目を細めてクスクスと笑う。
高い位置で一つに括られた紫色の長髪に黒いコート。猫を思わせる吊り目に零れ落ちそうな程大きな琥珀色の瞳。
「メウ〜」
「虚構ちゃん、待って。話を聞こう」
「メウ……
「だから決まってるじゃん。オレも虚構を消してもらおうと思って連れてきたんだよ」
諌められてしょんぼりと肩を落とす虚構ちゃんに心底退屈そうな視線を向けて、細長い指先で無駄に艶のある長髪を弄びながらそいつは続ける。虚構ちゃんは言葉を理解しているのかしていないのか、ユラユラと男の周りを興味深そうに飛び回っている。以前も会ったことはあるのだが、もう覚えていないのかもしれない。
男が誰なのかは知らないけれど、俺は彼を知っていた。この世界には俺と、虚構ちゃんと、男とそれからもう一人。俺が知っている限り意思疎通の出来る存在はそれだけしかいないからだ。男は以前は時折俺と虚構ちゃんの元を訪れては、拾ったという虚構を虚構ちゃんに引き渡したり、この世界の考察を適当に語ったりしていた。けれど、色々と知った風な口をきく割にはその話は夢物語のような創作としか思えないようなもので、結局何一つ進展らしいものはなかった。
けれどその中の一つに、虚構ちゃんはどこにもいないというものがあった。冒頭に出てきた知り合いというのはこの男のことだ。虚構ちゃんはここにいるけれど、本当はどこにもいない。それは何だかすごく素敵なことに思えたから、信じられないような本当のこと、だと思うことにしている。
「虚構ちゃん、こっちにおいで」
「知ってるよ。きみたちさっきも女の子1人殺してたでしょ。一緒じゃんか」
……殺してなんかない」
「一緒だよお」
男は人を小馬鹿にしたような顔でクスクスと笑った。この態度も普段から気に入らなかった。
最初に俺に「虚構になる」と説明したのはこの男のくせに、わざわざ殺すという言い方をするのが嫌味らしい。一緒じゃない。そう続けようとして、
「んええ、殺しちゃったの?」
遮られた。
その声は男の背後から、這いずるようなのっぺりとしたトーンで鼓膜をザワザワと震わした。男声であるが実際に聞かなければ想像も出来ない程無垢で甘ったるいその声は、率直に言って気味が悪い。
その声の主はずっと男の後ろに佇んでいた。それが見えていたから、俺はこの依頼の全貌を聞きたくなった。
「そうだよ、こいつら殺したよ」
「殺してないって言ってるだろ」
あっけらかんと答える男を睨みつけると同時、「んふ」と男の背後でもう一度、うねるような笑い声があがった。
「んふ、んふふ、……くふふ。殺し、殺しちゃダメでしょ。んふふふ……殺すのはダメでしょお。んふ……ふふ、ふふふふ……
声の主はグニャグニャと軟体動物のように体をくねらせて笑い声を部屋いっぱいに響かせる。声はどこまでも無垢そのもので、部屋に流れる空気の粒子の隙間をグネグネと潜り抜けながらべったりと、細い声がこびりついていくようだった。それはしばらく体をグルグルさせていたがやがて足が溶けたように床に伏せて行き、背中を大きく反らしては海老のように跳ねまわったり、男の足元に蛇のように絡みつくようにして床に体を擦り付けた。
「んひひひひ……ダメ、だめだめダメ、殺しちゃだめだよぉ……ふふふふふ、んにゃぁあぁん……んぁあぁあ……あぐぅ……
ややあって、ゴスッ、と。
男のブーツのヒールがそれの腹部を踏みつける。それは少し苦しそうに眉を顰めたが、なお白目を向いた顔には気味の悪い笑顔が張り付いていた。全身が小刻みに痙攣して、その指先は白い喉を掻き毟る。
……これを、捨てに来た」
その生き物に心底つまらなそうな視線を投げて、男が低く呟いた。腹を踏みつけた足を一旦引いて、今度は足元に巻き付いたそれを両足でバラバラに蹴り上げて振り解く。拘束が取れたところでまた3回ほど足で押し出して、床に滑らせてこちらに寄越す。それは蹴られている間は声を上げずに静かにしていたが、差し出された瞬間再び痙攣を始めて可笑しそうに笑い出した。
……どういうこと?」
それはさっきまでずっと男の背後に立っていた。玄関から入ってきてからずっと直立のまま忙しなく目だけを動かして部屋の様子を伺い、定期的にギョロギョロと目頭が引きちぎれそうな程目一杯に目を見開いて俺と男を交互に見ていた。男はそれと、目を合わせようともしなかった。男は俺も見ないまま、今も上か下を向いて話している。
「どうってそのまま。これは虚構だから虚構ちゃんが殺すべきだろ」
名前を呼ばれた虚構ちゃんは今にもまたヒラヒラと舞い出しそうだったけれど、俺の様子を伺って催促するように首を左右に振っていた。
「そうじゃなくて」
俺は虚構ちゃんを宥めることも出来ないまま、男と生き物を呆然と見つめる。その生き物は最初からそこにいた。最初からそこにいて、何も言わずに薄気味悪い表情を浮かべているから俺は男を迎え入れたくなかったのだ。言おうか迷って、口にする。
「それ、ヤンじゃないのかって言ってんの」
開いたままの玄関扉の向こうから、鈍い鐘の音がどこか小馬鹿にしたように聞こえてきた。どこから鳴らされているのかは知らないが、普段はこの鐘の音を聞いてclosedの看板を提げる。
男は俺の言葉を受けて一瞬だけばつの悪そうな顔をして、また退屈そうな表情に戻った。

ヤンは人当たりの良い好青年だった。彼も俺がこの世界で出会った虚構の1人だ。虚構ちゃんの淡いピンクがかった白髪とは違い、肩のあたりで切り揃えられたボリュームのある白髪は日のあたりによってはクリーム色にも見える。吊り目がちで大きな瞳は知り合いの紫髪の男同様猫を思わせたが、男よりは遥かに柔和な印象を与える髪と同色の瞳だった。茶色がかった薄い布を女のように流して来ていたが、その細身と質感のある肌に不思議と違和感はなかった。
ヤンとの出会いは男を通じてだった。男はどこから見つけてくるのか、頻繁に虚構を拾ってきては虚構ちゃんに救済を求めた。男の連れてくる虚構はどれもこれも救いようがないようなグニャグニャに見えたが、虚構ちゃんはその全てを綺麗に救い上げてみせた。しかしある日男が隣にヤンを置いて虚構を連れてきたのだ。
『彼は虚構だけどまだ誰にも救うことはできない。オレやきみと一緒だよ』
そう言って男はヤンを虚構ちゃんにも触らせなかった。俺もそういうものか、と納得してお茶を出してもてなしたりした。ヤンは機知に富んでいて話し方も穏やかで少し茶目っ気もあり、こんな俺でもそれなりに楽しく会話が出来た。
それから男はヤンと一緒にまた虚構を拾ったりして訪れていたが、段々とその足も遠のいていき、たまにぽつぽつと来るだけになり、やがて虚構を探すのをやめたのか、ごく稀に気まぐれに俺をからかいに2人で遊びにくる程度になった。それもしばらくすると途絶え、虚構ちゃんとの散歩中に向こうも歩いているらしいのをよく目にするだけになっていた。が、それもここ最近はなくなっていた。最近の男と言えば前よりはひどく頻度は落ちていたものの、1人で虚構を拾ってきては虚構ちゃんに救わせていた。
そんなわけで、俺はヤンを見るのは本当に久しぶりだった。だから男の後ろから彼がまるで気狂いのような顔をしてニタニタと無垢で下劣な笑みを浮かべているのを見て、初めはそれが誰なのかわからなかった。けれど男が一向に虚構を差し出さずに話を逸らすような素振りをするのを見て確信した。そこにいるのが他でもない虚構なのだ。
ヤンを消そうとしている。
きっとヤンに何か不具合が起こって彼はおかしくなってしまったのだ。いらなくなった。だから捨てにきた。単純な回答だ。
……お前がヤンを連れてきてからしばらく見なくなったとき、正直少し嬉しかったんだよ」
「オレが来なくなってせいせいして?」
「お前と、ヤンのことを想って」
「あそう」
ヤンは出会った時からヤンだった。男がそう呼んでいたから。この世界では俺も男も虚構ちゃんも、名前らしい名前は付けられていない。自分も、誰もその名前が何だったのか、そもそもあったのかすら知らないからだ。けれどヤンだけは最初から男にヤンと呼ばれていた。ヤンから名乗ったのか男が名付けたのかは知らないけれど、俺は後者なんじゃないかと思っていた。
「でも愚か君いつも言ってるじゃん。はやく死にたいし何もかもいつかなかったことになるんだから最初からいない方がマシだとか、虚構ちゃんの力は救いだとか」
……
「ね、ヤンを見なよ。こんなんになっちゃったよ。もうダメになっちゃったよ。可哀想だと思うだろ?このまま生きてたって見るに耐えないだけだし、本人だってどうせ望んじゃいないよ。殺してやるのが一番なんだよ」
ただ勿論、この感情が俺のエゴで我儘であるのも知っていた。ヤンに消えて欲しくない。それはどうせ苦しんで死ぬのを知りながら何も知らないふりをして生き物を生み続ける向こうの世界の生き物と同じ思考だ。俺はそれを忌み嫌っているから、この男に説教なんか絶対にできない。そのことを男も知っている。
依然として蹴られた体勢のまま床に転がってふにゃふにゃと笑ったり苦しんだりしているヤンに目をやる。それは幸せそうではないし、ましてや不幸せそうにも見えなかった。居ても居なくても同じの虚構だ。こうなった生き物を何度も見たことがある。どこか遠くに捨ててくれば、もう生き物でも何でもなくなるだろう。けれどその虚構が果てしなく救われてしまう方法も俺は知っていた。
……お前は?お前はまだ救われないのか?」
「ヤンを殺すならオレも殺すって?残念だけどオレはまだ殺せないよ」
「殺すんじゃない。救いだ」
「宗教みたいになってきたね。大丈夫?」
「宗教でも何でもいいよ。騙されててもいいから信じてる。虚構ちゃんは救いだ」
……宗教でもないなあー。ふふ。妄執でもない。ただのダメダメだな」
皮肉る口元を笑みで歪めた。わからない。皮肉じゃないのかもしれない。もしかしたら賞賛かもしれないし、呆れかもしれないし、嘆きかもしれない。男はつまらなそうな表情と、人を馬鹿にしたような表情しか出来ないのだ。皆でお茶をしたときもそうだったから、きっと表情を作る能力が根本的に欠けているのだろう。そうでなければただの冷血漢だ。けれどヤンにかける言葉のひとつひとつが、俺が虚構ちゃんにかける言葉に似ていたのを知っている。
……せめて理由を教えろよ。ヤンがああなった理由。それくらいは聞く義理もあるだろ」
「義理?そんなのあるかな?」
「ないならいいよ。何も聞かないし要求も呑む。何も知らずに虚構ちゃんにヤンを殺せとお願いするだけだ。正確には救いだけど」
男は目を細めた。きゅ、とその口元が結ばれる。何を言おうか何も言わないのか、しばらく迷っているようだった。ややあって口を開く。
「あの鐘がどこで鳴っているのか知ってる?」
あの鐘とは、虚構ちゃんと俺が店仕舞いの合図にしている鐘のことだろう。それは毎日三回、まるで朝と昼と夜の節目を教えるようにどこかで鳴る。あの鐘はここに来た時からずっとあって、毎日鳴らなかったことはないけれど、それがどこにあるのか、誰が鳴らしているのか、誰も鳴らしていないのかは知らない。俺は静かに首を振った。
「オレとヤンは鐘を探した」
ぽつりと男が呟いた。
「虚構を拾い集めるのをやめた辺りからかな。オレとヤンはこの世界中を鐘の音を頼りに探し回った。家と、ここと、広場にしか行ったことがなかったから随分と骨が折れたよ。ね、愚か君もそうでしょ。この家と広場以外の場所を訪れたことがある?鐘の場所を知ろうと思ったことはある?」
首を振った。
男の言う通り、俺はこの家と広場にしか行ったことがない。広場は家を出ると目の前にある一本道を5分ほど歩くとあり、公園のような広い敷地に花が咲いていて、周りに店がいくつかある。そこにある店は基本的に変わらないが、少しずつ増えたり減ったりする。生活に必要なものは全てそこでまかなえる。
……ヤンが言ったんだよ。『あの鐘はどこにある?』って。流石に驚いた。そんなこと考えたこともなかったから。それはそうだよ。鳴ってるんだからあるんだよ。不思議でしょ。世界がそれだけのはずはないのに、オレも愚か君もそれ以上深く探ろうとはしなかった。広場から先へ進もうとしなかった。オレが虚構を拾うのも、よく家の周りに落ちてるからってだけ。鐘だってそうだよ。毎日どこかで必ず鳴っているのに、どこで鳴っているかなんて気にかけもしなかった。だから探した。オレたちは広場からどこかへ出ようとしたんだ。広場の脇に小道を見つけて、そこをずっと進んでいった。まず森があって、川があった。海があって、あとショッピングモールがあった。それからカフェがあって、池があって、球場があった。誰もいなかったけど。家にも戻らずに何日も捜索した。細い道をずっと進んで、曲がって、どう行ったかもう覚えてないけど、オレとヤンは広場に出た。いつもの広場じゃない。もっと狭い……まるで花園のような広場だった。花のアーチが入り口にあって、煉瓦の道が中央まで敷かれていた。オレたちはその道を進んだ。中央には展示台みたいな台があって、その上に丸い鏡が貼り付けられていた。オレとヤンはそれを覗き込んだ」
そこで男は言葉を切った。いつも通り語り口は淡々としているものの、そこから紡がれるのは想像もつかない突飛な話だった。広場の向こう。森。海。カフェ。そんなものはしばらく見た記憶もなかった。そう考えて、しかしはた、と思い当たる。この世界では俺はそんなものは見たことがない。では今、海と聞いて想像がつくのは?カフェにショッピングモールに球場。どれもありありとその建物の輪郭を脳裏に描くことが出来た。
これは誰の記憶だ?
「思い出したんだ」
男は台本でも読むかのように滑らかに言葉を零した。
「その鏡を覗き込んで、ヤンは全部思い出した」
虚構ちゃんが忙しなく部屋の天井付近をウロウロと飛び回っていた。足元はやっぱり半透明で、虚構ちゃんが電灯の下を潜り抜けた時も灯りは何も通っていないかのように一瞬も暗くなることなく平気で部屋を照らし続けた。ふと、男がそれをどうでもよさそうに見上げる。
「ヤンが、オレが、愚か君が。オレの家の周りによく落ちてる虚構が。どうしてここに来たのか。ここに来る前は何をしていたのか」
虚構ちゃんがラ〜、と鳴いて、直後に緩やかな風が吹いて軽い玄関扉がゆっくりと閉まって、ガチャリと乾いた音が部屋の中にやけに大きく響いた。
「みんな虚構ちゃんに会いに来たんだ」
……虚構ちゃんに?」
「そう。みんな虚構ちゃんに救われたがっていた。みんな虚構ちゃんに抱きしめて貰って、虚構であることを認めてもらって、真実も虚構も未練も妄執も劣情も丸ごと愛してもらいたがっていた。それからそのまま消えたがっていた。あの鏡の向こうに映っていたのは、この世界に来る直前の自分自身とその情動だ。オレたちはね、みんなここじゃない、別の同じ世界にいたんだよ。そこからその世界のどこにも居もしない虚構ちゃんを見つけ出そうと必死だった。作り出そうと必死だった。……虚構ちゃんに会いたかった理由。虚構ちゃんに会うまでの自分。それをぜんぶ思い出してしまって、ヤンはああなった」
そう言って息を吐いた。飛び回る虚構ちゃんの下で、ヤンの細い肢体がウネウネと執拗に波打っていた。夜中に聞こえてくる猫の鳴き声のような笑い声を軽快にあげながら、時折聞き取るのも困難な不可解な呻き声をあげる。
今の話が本当ならば、ヤンは自分自身の過去によって壊されてしまったことになる。聡明で健康そうに見えたヤンが何を抱えてこちらに来ていたのかは知らないけれど、ここまで元の見る影も失くしてしまうほどヤンの脳髄を深く傷付けている過去とは一体どれほどのものなのだろうか。
それから黙っている男の横顔を見て、ふと思う。もしかしたら男は後悔しているのではないだろうか?変わらない日常をつついたら弾ける泡のようなものだと知りながら、気付かないふりをして大切に守りながら続けようとしていたのだ。それを好奇心に駆られて不用意に突いてしまった。ヤンが壊れた。ヤンを壊した。ヤンを拾って、暮らして、連れ出して不用意に針で刺したのは、
「ヤンを殺してやってくれ」
それはそうだ。
救いだなんて、言えるわけがない。
……虚構ちゃん、いいよ」
「メウ〜」
これを救いと認めてしまったら、男は許されてしまうから。男は悔いていたのだとしたら、虚構ちゃんの元へ連れてくるのもきっと決断に時間がかかっただろう。俺にはわからないけれど、男は俺たちを『まだ救われない』と言っていたから、虚構ちゃんに抱きしめられる前にどうにか出来ることがあったのかもしれない。でもその前にヤンはダメになってしまった。何ならここにくる前のことなんて思い出さなくても良かった。俺も男もヤンもみんな、このままを、停滞を愛していた。けれどみんながこの世界へやって来た理由を知ってしまった。壊れたヤンを見てしまった。
駄目になったヤンを蹴りながら、何を考えていたのだろう?
「ペヨ〜」
虚構ちゃんは天井付近で嬉しそうにクルクル回ってから両腕にあたる部分を目一杯広げて、スイーっと俺と男の間に降りてきた。それから真ん中に横たわるヤンをポフ、と抱いた。
その顔を胸元に埋めさせて、優しくフカフカと抱きしめる。虚構ちゃんの淡いピンクがかった白髪が、ヤンの銀に近い白髪と一本ずつ緻密に清潔に絡み合ってフワフワとキラキラの中間みたいな色で光って揺れる。またいつの間にか開いていた玄関の扉の隙間から緩い風がユラユラと吹き込んできて光とともに2人を撫でる。それは見ているこっちが許されていくような、幸せになっていくような、やさしくて神聖な光景だった。
瞬きをした次の瞬間、そこにヤンはいなかった。
……救われてよかった」
男は何も言わなかった。
けれどこれは救いなのだ。誰がどう思おうと、俺の中で虚構ちゃんは永遠に救いだ。
本来、男は許される必要なんてないのだ。男が無理に連れ出したわけではないとかそういう意味ではなく、男には許される必要も、気負う必要も悔いる必要も何もない。だって男も虚構なのだから。本当はどこにもいないのだから。そんな感情は全てあるはずのない虚構だから。
男も救われにここに来たのだから。これが救いでないのなら、この世界のどこにも救いなんてありはしない。きっと向こうの世界で、それが怖かったからここに来たのだ。
……あと一行」
「え?」
その時、男が低い声で呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの小さな声だったけれど、耳に届いたそれは妙な質感を持って空気を濡らした。目を離せないでいた虚構ちゃんから視線を男に移す。男はヤンのいなくなった跡を心底退屈そうに見つめながら、虚構ちゃんも俺も見えていないかのように何かにせき立てられるようにして淡々と零した、
「あと一行だったんだ。オレがこの世界に来た理由だ」
「メ"……
窓を見ると外はすっかり暗くなっていた。
窓の向こうには紫も紺も茜も街灯の白も何もなかった。この世界の夜はびっくりするくらい黒いのだ。びっくりするくらい黒い黒い星のない世界の空を、透き通る程白い白い虚構ちゃんがクルクルと舞う夜は、びっくりするくらい美しい。いつか見た光景が思わず脳裏に浮かび上がって、次に未だにどこにもいなくなったヤンを大切そうに愛おしそうに抱きしめている虚構ちゃんの後ろ姿が目に入る。俺はどこまでも虚構ちゃんのことが大好きだった。
「ウ"……
「オレはね、小説を書いてたんだよ。別に小説家ってわけじゃないけど。だけど死ぬ気で書いてた。……あと一行だったんだ。あと一行が、最後の一行が、最後の最後まで書けなかった」
そう言い残すと男は家を出て行こうとした。こんなに暗い時に外へ出たことはないけれど、この黒い黒い世界でも歩けば家へ辿り着けるのだろうか。
「メ"ウ"ッ……
……虚構ちゃん!?」
そんなことを思った直後、ゴポリ。と。濡れたような鈍い音が部屋に響いた。

それは二メートル程の長さで、人の胴体程の太さがあった。赤褐色で黒い粘性のある液体がドロドロと吹き出しては床をベタベタに濡らしている。触手のようなそれはウネウネと跳ねまわり、床を叩く度にボトボトと鈍い音を立ててドロドロの液体を撒き散らす。震える先端は蛇の尾のように細くなっていて、その二メートル先、触手の大元。それは虚構ちゃんの腹部から突き出ていた。
「きょ、こうちゃん!」
虚構ちゃんは背中を屈めて震えていた。白い髪の両端が風に煽られたようにユラユラと揺れる。しかしすぐにその動きは収まって、次いでまるで意志をもった触手のようにその1束1束が空を掻き毟るように上下左右に苦しそうにウネウネと蠢き始めた。慌てて俺が駆け寄るよりも先にその動作も事切れて、コトリという擬音が聞こえてくるかのような綺麗なフォームで虚構ちゃんが崩れ落ちる。
事態が尋常ではないことは誰の目にも明らかだった。
「なん、どう、どうし、嘘、まって、うそ、うそうそうそ、きょこうちゃん、しなないで」
懇願を嘲るように虚構ちゃんの腹部を突き破って暴れる触手は一層激しく暴れ出した。俺は虚構ちゃんと触手のどちらへ手を伸ばそうか一瞬だけ迷ってから、虚構ちゃんを背中から強く抱きしめた。どうしていいかわからなかった。抱きしめることが今第一に行うべき適切な対応でないことは明白だったが、虚構ちゃんのことを何も知らない俺は虚構ちゃんのことが大好きな気持ちだけが頼りだった。触手がバタバタと蠢く反動が虚構ちゃん越しに伝わってくる。
虚構ちゃんが死ぬ!
その恐怖だけが身体中を支配した。虚構ちゃんがいなくなってしまう。得体の知らない何かに腹を食い破られて震えながら死んでしまう。あまりにもあまりにも怖かった。同時に小刻みに震える温い背中のフワフワに、まるで反射のように全く場に削ぐわない無責任で最低な安心感を覚えていることにも気付いて涙が溢れた。
「虚構ちゃん、しなないで」
無責任な懇願だけを繰り返し繰り返し安心な背中に泣きながら投げた。今にも死んでしまいそうなどこまでも安心な小さな背中を繰り返し繰り返し抱きしめる。
「おいてかないで」
「ナ〜」
「あっ……
ケラケラと虚構ちゃんが笑った。次いで驚いた声をあげて男が虚構ちゃんに近寄った。ケラケラケラケラと虚構ちゃんが笑っていた。何かがおかしいようだった。虚構ちゃんの安心な背中はもう震えてはいなかった。腹を突き破ってうねっていた触手も動きを止めたらしかった。
ゆっくりと顔を上げる。気付けば虚構ちゃんは少し先に座っていた。さっきまで俺が虚構ちゃんを抱きしめていたのは夢みたいだった。その向こうに、赤褐色の触手の先端がダラリと転がっている。
ズル、と何かが這い出した。ゴポッとスライムが溢れるような音がする。おそるおそる立ち上がってそこにいるものを覗き込んだ。
目を疑う。
……ヤン?」
そう言おうとして、声は掠れて震えて消えてしまった。代わりに男が信じられないものを見るように目を見張り、その名前を呼んだ。
黒い粘液でグズグズになっているけれど、それは確かに消えたはずのヤンだった。変わらない白髪に茶色のローブ。しかしその足は消滅していて、代わりに赤褐色の長い一本の触手のようなものが生えていた。ヤンは不思議そうな顔で辺りをキョロキョロを見渡し、時折「くふふ」と幼い子どものような笑い声をあげた。声は変わらず果てしなく無垢ではあったが、さっきまで張り付いていた狂気的な笑みはどこにもなかった。
……信じられない」
思わず溜息が漏れる。
こんなことは今までに一度たりともなかった。虚構ちゃんに救われたはずの虚構が、腹を食い破って出てきたのだ。それも姿を異形に変えて。それなのに当の虚構ちゃんと言えば何事もなかったかのようにケロッとしていて、普段俺をからかう時のようにケラケラと笑っている。その腹部にも傷跡はおろか、血が溢れた形跡もなかった。虚構ちゃんが血を流すのかどうかは疑問だが、黒い粘液ですらその白いポンチョを一切汚してはいなかった。
「あ……
スルリと男は俺の横を抜けた。ヤンの傍にしゃがみ込む。
「立てる?」
延べられた男の手を握り返して、ヤンは嬉しそうに「んふふ」と笑った。ややあって、スルスルスルと触手がゆっくり移動して男の体に絡みついた。それから上半身がゆるやかに持ち上がり、男の肩のあたりに顔を寄せる。空いている両手で男に抱きつく。もう一度、今度は更に嬉しそうに笑みで顔をグニャリと歪めた。
「くふふ」
男はそんなヤンを小馬鹿にしたような笑みを浮かべて眺めてから、心底つまらなそうな表情で「仕方ねえな」と肩を竦めた。
「虚構ちゃんでも救えないならお手上げだね。今日は帰る」
……そうか」
虚構ちゃんはもう笑ってはいなかった。帰ろうとする男とヤンの周りを見送るようにヒラヒラと舞う。その足元が気体のように白く靄がかっているのを見て、俺は自分の足も無くなっていることを思い出した。ヤンは幽霊のように足がぼやけているのではなく確かに質のある触手に変わっていたので関連性はないとは思うが、やはりどことなく不気味に感じた。
男が外へ出る直前、俺はふと思い出して声をかけた。
「鐘はあった?」
男は一瞬足を止めた。けれど振り返りもせず、再び外の黒へと足を進めた。
「なかったよ」
その姿は黒に触れた瞬間、攫われたように消えて見えなくなってしまった。

扉が完全に閉まってから、男の言っていたことについて少しだけ考えた。広場の脇の小道を抜けて、森や海やカフェやショッピングモールや球場を見た。家にも帰らずに何日も探し回ったらしい。そしてヤンが壊れた。思い返してみれば、男がヤンを連れずに再び1人で俺たちを訪ねてくるようになった時が丁度それから間もない時期だったのだろう。
しかし一つだけ気にかかった。
俺は男が1人で訪ねてくるようになるその少し前まで、ヤンと広場を散歩する男を頻繁に目撃しているのだ。
あれは気のせいだっただろうか?
虚構ちゃんは飛び回り疲れたのか、降りてきて俺をソファまで連れて行くと頭を俺の肩に預けてうつらうつらし始めた。それがあまりに可愛らしくて愛おしくて幸福なので、さっきまでのことを全部忘れてしまっても、何もかもがどこにもなくてもいいような気分になるのだった。
虚構ちゃんの髪がユラユラ揺れる。どこからか鐘の音が聞こえてくる。
(鐘はこの時間に鳴るのだったか?)
思考がぼやけていく。
次第に、眠くなってくる。













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