@Lily93758928
あんたは恋をしているか?
いつからかその人のことしか考えられなくなって、やらなきゃいけないことも手につかない。妄想の風呂につむじまで浸かって水面に思いを馳せる、こんな淡い体験を誰もがしただろう。
でもいつの間にかその風呂の栓は抜かれ、妄想という名のバスタイムは終わってしまう。あとは綺麗に畳んである服を着るだけだ。
恋は盲目とはよく言ったもので、笑っちゃうぐらい周りが見えなくなるんだ。平静を装ってても心の中では蒸気のように鼻から息を吐き出す猪、誰もが猪突猛進して砕けていくのだ。電車で隣に座っているおっさんも、ごみ捨て場でよく見るおばさんもみんなそれを経て大人になっている。
だけど中には未だに妄想の風呂の中に浸かったまんまのヤツもいる。そいつらにいくら声をかけたって無駄。水面しか見えないまま窒息してしまう。過ちにも気付かず、気持ちの良い暗闇へと沈んでいくんだ。
今回はそんな体のふやけきったいい大人とそれに人生を少しだけ狂わされた少年のお話。一見現実離れしてるかもしれないけど、あんたの近所にいる明るいおばさんだってこんな隠し事があるかもしれない。明日は我が身、隣の芝生は青いって言うだろ?あんたも気を付けな。
桜の名所や見頃を紹介するコーナーが次々と消えていき、俺の住む新宿は春という浮かれた季節から抜け出していた。
皆花見の余韻を懸命に脱いで着たくもないスーツを着て、足早にどこかへ向かっていく。
天気予報では春の暖かさから梅雨のじめじめした空気になっていくとは言っていたが、世界中から人が集まるここ新宿はいつも人の熱気を抱えている。俺は長いこと新宿に住んでるから分かる、肌で感じるのはいつだって気温じゃなくて名も知らぬ誰かのぬくもりだ。
新宿大ガードの足元の隙間を縫っていくと居酒屋が所狭しと並んでいる。誰かが法律で決めたのかと言うぐらい多い。どこも同じような店としか思えない。
しかし俺の住んでいる家もそんな大量生産された居酒屋を経営している。L字の茶色いカウンター、やたらとごちゃごちゃした厨房。だがうちは結構繁盛するんだ。何故なら混みいった路地裏から一歩抜け出しほんの少しだけ広い道路に面している。何軒かハシゴして判断能力が低下したサラリーマンを拾うことができるんだ。名前だって宮野酒場なんていう適当な名前だ。おふくろが苗字と酒場を組み合わせただけ。安直だけど儲かるんだ。
朝十時、俺は寂れたシャッターを開ける。まだ二十三だというのにそれだけで腰が少し痛くなる。
ピリッと痺れた感覚を手のひらで緩和させ、一歩外に出る。まずは道で潰れてるサラリーマンを起こさなきゃいけない。実家の布団かのように熟睡しているサラリーマンの頬を叩いて起こす。
「おおにいちゃん、もう朝か?」
酔い潰れているのに慣れているのか、サラリーマンは瞬時に答える。
「もう十時だぞ、家帰んな。」
俺はだるだるのチノパンのポケットから真っ赤なデザインが施されたLARKを取り出す。一本抜き取って火をつける。腰の痺れよりも濃厚な衝撃が口内で弾け、一瞬で目が覚める。
「浩介!さっさとそいつら起こしな!」
背後からおふくろの声が飛んでくる。サラリーマンは自分の母親に起こされたと思ったのか、すぐに立ち上がって大通りへと駆けて行った。二日酔いとは思えないほど軽快な足取りだ、おふくろの声は運動会だと役に立ちそうだ。
タバコを咥えたまま店先のパイプ椅子に座り、乱雑に置かれたスピーカーのUSBケーブルを手繰り寄せて自分の携帯に接続した。
膨大な音楽の森から一つの葉を見つけるかのように画面をスクロールさせて選んだのはDJ RYOWが唾奇と作ったall greenだ。
沖縄出身の唾奇の声は不思議と温かみがあり、鼓膜をゆっくりと温めて脳内を色付けていく。
深く吸い込んだ煙を肺に入れて一直線に吐き出し、目を擦った。早起きは三文の得なんて言うけど俺にとっては一文にもならない、日常の繰り返しだ。
昼の十二時になると観光客が押し寄せる。俺は冷蔵されて薄い白を纏ったビール瓶をお盆に乗せ、すでに顔が赤くなったアメリカ人夫婦に届ける。拙い感謝の言葉を背に俺は厨房へ戻った。
店内BGMの決定権は俺にあるため、ZEEBRAの真っ昼間を選択した。単調ながらも自然と首を振ってしまうリズムが鳴り響く。
俺は酷く混む夜に備えて色々な料理の下準備を始めた。手に馴染んだ包丁でネギを淡々と切っていく。店内にはアメリカ人夫婦と俺とおふくろしかいない。変な空間だけど俺は充分慣れている。
「あら、お客さんかい?」
おふくろの声を聞いて店先を見た。
するとそこには見慣れない少年が立っていた。全くシワのない白いTシャツ、おまけのように添えられた胸ポケットに役目はなさそうだ。針金のように細い足、おまけに顔色はTシャツと同じだ。一目でいい飯を食べていないんだろうと分かった。
「どうした、酒は飲めないだろ。なんか食うか?」
少年は恐る恐る頷いた。なるべく俺たちと目を合わせないようにしているのが気がかりだった。
俺はまな板に包丁を置き、貧相な少年に与える飯を何にするか、頭をフル回転させた。
「どうだ、美味いか?」
咄嗟の判断で作った唐揚げを少年は貪るように囓っていた。一心不乱で食べている様子を見て少し嬉しくもなったが、どこか家庭環境が気になってしまった。
俺の思っていることはおふくろの思っていることでもあるのだろう、俺の言いたいことをおふくろが代弁してくれた。
「あんた、ちゃんと飯食べてんのかい?」
少年は一時停止したかのように一瞬固まり、ゆっくりと首を横に振った。
「お前ここら辺じゃ見ない顔だな、どこ住んでるんだ?」
「昨日、引っ越してきた。あっち。」
少年は後ろを指差した。その方向は高層マンションの密集地だ。
なんだかモヤモヤした感情が湧いてきた。俺とおふくろはそれ以上は聞かないことにした。
「名前は?」
「有村正人。中学生。」
正人はようやくいい顔色を取り戻していた。
「なんかあったらうち来い、金は取らないから。また唐揚げ作ってやるよ。」
すると正人は少し俯いた。
「今度は、おでんがいい。」
一瞬の静寂の後、俺とおふくろは大声で笑った。俺はカウンター越しに正人の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱してやった。わたあめでも崩してる気分だった。
正人が再び顔色を悪くして店に現れたのは二週間後の夕方だった。駅から雪崩れ込んでくるであろう大量のサラリーマンを捌くため、俺とおふくろは気合入っていた。大きめの冷蔵庫には瓶ビールがぎゅうぎゅう詰めだ。
自分の体に喝を入れるため、店先のパイプ椅子に腰掛けて一服していた。そんな時のBGMはAKLOのDIRTY WORKだ。フューチャリングのANARCHYとの掛け合いが絶妙で、これから来る戦いに備えるのに最適だ。
短くなってきたタバコを水の入ったバケツに投げ入れようとした時、俺の目に見慣れた白いTシャツが飛び込んできた。
「よお、正人か。これから混んじゃうけど何か食っていくか?」
だが俺の言葉は正人の耳に入っていないようだった。俺を見るわけでもなく、視線を失っていた。煤けたような目がひどく重そうだった。
「おいどうした。お前また顔色悪いじゃないか…。」
その言葉を皮切りに、正人の目から大粒の涙が滝のように出てきた。俺は華厳の滝を思い出していた。いつか修学旅行で見た光景に似ていた。
「話聞かせろ。」
俺は正人の肩を抱いて店内へ戻った。
「僕のお母さん、借金があって。ホストクラブが好きみたいで。」
正人はポツポツと語り始めた。要約すると、正人の母親はとあるホストに貢いでおり、そのホストは店に借金をしている。それを正人の母親が肩代わりしており、それが厳格な父親にバレて家庭環境は最悪だそうだ。
「僕のお父さん政治家で、もしかしたら週刊誌にバレるかもって…」
消え入るような声を聞き取るのがやっとだった。
どうやら近所の目をひどく気にした父親はすぐに引越しを決意し、セキュリティーの高い高層マンションを根城にしたそうだ。
正人の前にあるおでんは徐々に冷め、湯気は完全に消え去ってしまった。
「あの…浩介さん。助けてください…。」
そう呟くと正人は再び涙をこぼし始めた。おでんの冷えた汁に暖かい涙が吸い寄せられるように落ちていく。波紋が大根を叩いた。
「どうして欲しいんだ?」
「仲直り…。」
純粋無垢な少年が両親の仲直りを願って涙を流すなんて普通の家庭じゃありえないだろう。俺は自然と拳を握りしめていた。
「今日は泊まってけ。どうせ親家にいないんだろ?」
ゆっくりと頷く正人を見ていた俺の肩をおふくろが軽く叩き、顎で二階へ上げるように指示した。
大勢のサラリーマンを捌き終わって時計を見ると長針は十二の数字を跨いでいた。
カウンターでうなだれているサラリーマンをおふくろに任せ、俺は二階に向かった。
俺の部屋で正人は漫画を読んでいた。少しでもリラックスできているようで安心した。
「面白いよな、それ。日本人だけど忍者って未だに憧れるもんな。」
正人はこくっと頷いた。若干頬が緩んでいるのを確認し、俺はベッドに腰掛けてタバコに火をつけた。部屋を照らす豆電球に煙が吸い寄せられていく。うちはLEDと縁がない。妙な音を立てて俺と正人を頑張って照らしている。これでもうちじゃ中堅選手だ。
「どうしたんだ、しばらくは顔色良かったのに。なんかあったんだろ?」
正人の顔色がより一層青くなった。よく見ると肌も荒れており、思春期の男子中学生にしてはニキビが多い。俺だって学生時代こんな肌じゃなかった。正人は重々しく口を開いた。
「帰ってきたら、お母さんとお父さんが、喧嘩してて…怒鳴りあってた。僕は木彫りの熊みたいだった。言いたいことを言えないまま固まっていて、二人は見向きもしてくれない。本当に僕は二人の子供なのかな。学校で愛がどうとか習ったけど、実感したことないんだ。」
俺は物心ついた時には父親がいなかった。東京じゃ腐るほどいるシングルマザーに育てられた。もちろん何度も父親の存在を懇願したが、俺はその倍おふくろから愛情を注いでもらった。こんなこと口が裂けても言いたくないけどな。
俺はその場をやり過ごすかのように煙を燻らせた。龍のように登っていく。俺も昔はこんな龍の背中に乗りたかった。どっかの昔話のオープニングみたいにな。愛情は注がれても良い子になれなかった俺は口から龍を吐いている。夢は少しでも叶ったのだろうか。
重い空気に耐えられず、俺は無理やり話を変えた。
「お前の母さんが行ってるホストクラブの名前教えてくれないか?」
正人は漫画から俺に視線を移動し、何かを思い出すような眉の動きを始めた。毛虫のように蠢いている。
「プラチナナイト。これ、名刺。」
するとポケットから一枚の紙切れを出した。銀色に輝く長方形の紙の真ん中には筆記体でシンジと書かれていた。何ともありきたりな源氏名だ。
だがそのホストクラブの名前には少し聞き覚えがあった。どこかで聞いた名だった。
俺はその疑惑を晴らすように携帯をポケットから抜き出し、ある男に電話をかけた。
そいつを紹介するには少し時間がかかるが、聞いていってくれ。
新宿は多くの不良少年たちの巣窟にもなっており、日々パトカーのサイレンが絶えない。悪ガキの危ない噂はTwitterのように日々更新されていく。この街の流行はそういった連中が作り出していると言っても過言ではない。
だがそんな悪ガキ共の間にもピラミッドが形成されている。随分と分かりやすい食物連鎖が描かれているのだ。
SGC。この名を聞いて悪さを企む余所者はいない。新宿ギャングクラブという安直な名前だが、俺はそいつにそんなことを言えない。殺されるかもしれないからな。
進藤晴翔。新宿に蔓延る悪ガキ共の王様。SGCからは帝王だとかカイザーだとか呼ばれている。一体いつからこの街は独立国家になったのか。
俺は晴翔と幼馴染で、小中高といくつか伝説を残しているがそれはまた次の機会に。
独立国家への電話はすぐにつながった。
「どうも、浩介さん。カイザーにお電話ですね、お繋ぎ致します。」
晴翔に電話をかけると何故か側近が出るのだ。聞き慣れた野太い声に一つだけ返事をしてカイザーを待った。毒味でもされてる気分だ。
「なんだ浩介。」
晴翔の声帯は早くも冬の時代だった。すでに氷河期。俺は昔テレビで見た凍りついたマンモスを思い出した。
「ああ。プラチナナイトってホストクラブさ、確かお前んとこのOBが働いてるよな?」
「そうだ。」
カイザーの冷たい返事を聞いてようやく確信した。それならば話は早い。
正人と出会ったこと、そして正人の家で巻き起こっていることのあらましを説明した。
「それで、俺は何をすればいい。」
投げ付けられた疑惑への解答はシンプルだった。シンジを取り巻く環境を知りたかったからだ。
俺がそう伝えるとカイザーは迷うことなく返事した。
「分かった。とりあえずそのOBに連絡を入れる。」
俺の返事を待たずに電話は切れた。このやりとりを何年も繰り返しているが毎度腹が立つ。俺は吸いかけのタバコを灰皿にぐりぐりと押し付けた。
「浩介さん…?」
不思議そうに首を傾げる正人に俺はウインクした。こっちには最強の味方がいるのだ。安心して欲しいという意味合いだったのだが、正人はさらに困惑そうな表情をしていた。これでオチない女はいないはずなんだがな。
忍者漫画の好きなキャラクターを正人と語り合っている時、外から軽めのクラクションが聞こえた。
窓を開けて見下ろすと、カイザーを乗せたBMWが店の前に止まっていた。飲み屋ばかりが立ち並ぶこのあたりに似付かない車だ。電話役の側近が俺に会釈した。
「おう、入れよ。」
それだけ伝え、俺は窓を閉めた。
数秒の沈黙の後、部屋のドアが音もなく開いた。
車のホイールに似た銀色の髪は女みたいにサラサラしている。それを真ん中で分け、うちの隙間風でそれをなびかせている。
晴翔の体に吸い付いているかのような純白のVネックからは洗練された胸筋が覗いている。それを飾るかのように髪と同じ色のネックレスが彩っていた。大きな十字架が張り付いている。
白いスキニーパンツは筋肉を誇張することなく、氷柱のようだった。まず上下白で銀色の髪の毛なんて普通じゃない。だがこれが似合ってしまう、それがカイザー・晴翔だ。昔からよく知っている。
晴翔の後ろから金髪を噴水のように盛った男が顔を覗かせた。俺はそいつと一度だけ話したことがある。
「よお、セイヤ。」
「こんちは!」
短くもキレのある挨拶。こいつはSGCのOBで今はホスト、セイヤだ。
側近の電話役が扉の前で仁王立ちする中、カイザーとセイヤだけが腰を下ろした。
「まずは借金の件だ。セイヤ説明しろ。」
話を任されたセイヤは座ったばかりなのに正座を正した。SGCを抜けてもなお帝王の権力は絶対なのだ。そうなると俺は農民だ。
「はい、よくホストが金に困ってオーナーに借金するケースはありますが、実はうちの店じゃそのシステム採用してないんですよ。」
「なんだと?それは本当か?」
セイヤの代わりに帝王が深く頷いた。貫禄があってちょっと嫌になる。
しかしそれだと話が変わってくる。一体借金の存在は何なのか。
「これは正人の母親に話を聞いてみるしかないかもな、正人。お母さんの電話番号知ってるか?」
すぐに頷く正人を合図に帝王と農民の緊急会議は場所を移すことにした。
正人の母親から話し合いの場所として指定されたのは永賓館という懐石料理屋だった。やはり政治家の妻だ、こういった所で外食するのは日常茶飯事なのだろう。
帝王、元帝国民、金持ちの息子、農民の四人は母親の席へ案内された。重たそうな障子を開けるとそこには日本酒を嗜んでいる正人の母親がいた。
何度も言うが俺は農民だ。帝国の端っこでしがないBARを経営していると言っても過言ではない、なので金持ちの妻というともっと派手な見た目をしているのかと思ったがそんなことはなかった。
肩まで伸びた茶色い髪の毛は内巻きで、端正な顔立ちをより美しく見せている。
母親の前に四人は腰を下ろした。母親が口を開く。
「こんばんは。正人の母です、清美です。」
俺は今回の出来事を最初から全て話した。段々と清美の顔色が出会った時の正人と同じ色に変わっていく。カメレオンみたいだ。
「なので現在借金している額を教えていただきませんか?」
清美は少し口ごもったが、観念したかのように告白した。
「…四千万です。」
俺は耳を疑った。ホストが店に借金する金額にしてはデカすぎる。まるで疑わなかったのか。俺は呆れた。
「電話でうちの浩介が伝えた書類、持ってきてくれましたか?」
晴翔の問いにはいとだけ返事をして清美はカバンをまさぐった。俺はもうすでに帝国民なのか。納税でもした方が良いのだろうか。
「こちらになります。」
正人のTシャツみたいにシワのない書類が俺の目の前に差し出された。
借用証書のコピーだ。確かに四千万と記述されている。きちんと借主住所もしっかりと明記されている。
それを手に取った晴翔は光に翳した。お洒落な鑑定士のようだ。
「こいつは偽造だな。」
その言葉に皆晴翔を見た。
「偽造というより、金額の部分と貸主の部分が別の用紙で修正されている。おそらく借りた金額は四千万じゃない、それに貸主がプラチナナイトのオーナーになっているが、これも違うんだろう。」
なんとなく把握できたが、俺と晴翔以外誰も理解していないようだ。帝王の手を煩わせないように俺が代わりに説明する。
「おそらくだが、シンジが本当に借りた金額は四千万より少ない。そしてオーナーから借りてるんじゃなくて違う金融機関から借りてるんだろう。それを金持ちのあんたに相談として持ちかける。金使いから見て判断したんだろうな。本当の借金額が三百万だったとして、完済しても手元に残るのは三千七百万。十分特だな。」
俺の説明が完璧だったのか、帝王が隣で頷いていた。王に貢献した気分だ。納税はバッチリだろうか。
しかし清美は驚きを隠せないといった表情をしていた。それもそうだ、自分が今まで貢いでいたホストの話は全て嘘だったのだ。
「ナンバーワンになるために金が必要だ、俺には君しかいない。だから頼む。みたいなことを言われたんだろうあんた。」
晴翔の問いかけに清美は俯くことしかできなかった。さらにカイザーの詰問だ。清美の周囲は氷点下を記録した。
ホストの常套句ではあるが、こういうセレブは引っかかりやすいんだろう。要はいいカモということだ。
「よし、とりあえずシンジが客を騙しているってことが分かったな。うちに戻って作戦会議と行こう。」
俺の言葉を皮切りに他の三人は立ち上がった。俺の後についてこようとする正人を清美が慌てて引き止めた。
「ちょっと正人、一緒に帰るのよ?何時だと思ってるの?」
立ち止まった正人は清美の方を一切見ずに首を横に振った。正人の肩は震えていた。
「僕はもう、あの家には帰りたくない。お父さんがいなくても、嫌だ。玄関に立ってるだけで息が詰まりそうになる。パンパンの水槽に飛び込んだみたい。どこも息ができない。」
おそらく初めて親に向かって自分の意見を言ったのだろう。声の震えは徐々に治まり、ハキハキと喋るようになってきた。
「二人が怒鳴って作り上げたあの空間に行きたくないんだ。お願いだから。やめて…。」
息子の主張に慣れていない清美はひどく取り乱し始めた。黒目が座らず泳いでいる。
「正人、何を言ってるの!二人で話すのよ?お父さんはいないから、安心して?一緒に帰りましょ?ね?」
そう言って正人に近付いて来る清美の前に俺は立ち塞がった。清美は不思議そうに俺を見上げる。意外と背は低かった。
「あんた、いくら何でも都合が良すぎないか。自分の欲で招いたのがこの現状だ、話し合いもせずにただ怒鳴りあって正人を家の隅に追いやって、挙げ句の果てには外に追い出したんだ。赤の他人に全てを告白する人間の勇気があんたにわかるか?」
俺は何故かおふくろの顔を思い出していた。いつだって男は親に歯向かいたいものだが、不思議と嫌いになれないものだ。
清美に背を向けている正人の肩を抱き、俺は清美の目をしっかりと見て言った。
「とにかく今は正人をあんたの所に帰すわけにはいかない。この件が片付くまで預からせてもらうぞ。自分のやったことを省みてから親らしいことを言え。」
おそらくこの時の俺は晴翔よりも冷えていた。胸の奥がジンジンと冷えていく感覚がわかる。これが帝王の気持ちなのだろうか。
「浩介、行くぞ。」
晴翔の声を合図に俺たちは部屋を出た。去り際に清美を見るとその場に座って項垂れていた。悲哀に染まったカメレオン、俺は爬虫類に詳しくないからあれだけど、なんとかその色を戻してやろう。