@corona_moca1111
「なーんか、静まり返ってますねー」
蝶野あみが普段勤務する研究所は、異様なほどの静けさに満ちていた。休日出勤でも特別な日でもなく、ただ、人の足音や紙の音だけがした。妙なざわつき、妙な静けさ、すべてが人に影響することなど言うまでもない。
それを察知したのか、彼女の「蝶」たちも、どこか違った様相をしていた。妄想か、そうでないかは、さておいて。
「しろちゃんどーしたのー?珍しくせわしないねー。……うんうん。私もあんまりこういう雰囲気得意じゃないよー。うーん、なにかあったのかなぁ?」
手元にあるぬいぐるみはいつもならあまり動かないのだが、廊下に人がいないのと感情のざわめきを反響したのか、パタパタと手を動かし、視線をあっちこっちに変えていた。
あみの部屋に行くまでには、入り口から研究所の中心を通る必要があった。ここの研究所もほかの研究所と同じように様々な人物がかかわっていて、その中心、ということで購買と談話スペースがある。購買のおばさまはうわさ話に敏感なタイプで、かといって人の悪口は広めないような、いい人だった。あみに対してもそこそこ励ましてくれる。そんな人が、神妙な顔をして、せかせかと仕事をしていた。
「おばさん……?」
あみは、その様子に違和感を覚え、話しかけた。
「あら。こんにちは蝶野さん。今日は遅めなのねぇ」
「はい、昨日ちょっと忙しかったので。」
おばさんの話し方がいつも通りになったので少し安堵しつつ、蝶野は違和感の正体を知るために、話をつづけた。
「なにかあったんですか?」
「……何がって?」
あからさまに話したくなさそうな反応だ。そっぽを向きつつ、ドライにしている。
「いや、いつもより元気なさそうですし、なんか、ソワソワする空気というか、なんというか……」
ふっと空気がゆるくなった。おばさまは、蝶野さんの言葉に笑いつつ、
「蝶野さんは優しいのねえ。おばちゃんは元気よー!でも、しらないなら知らない方がいいわよー、いい話じゃーないから。」
と、質問をかわした。聞かれたくないことを聞く必要はないが、何かはあったのだと、その発言が空白を確かにしていた。それで十分、そう思った蝶野は、ちょっとした飲み物を買ってその場を去った。
蝶野あみの仕事場は別にオープンではなかった。が、それでも空間にしみた違和感は伝染する。いつも通りになるまでしばらくかかるんだろうな、と、彼女は対策を練り始めた。過緊張、どこか周りに気を配らないといけないような気まずさは、ミスも誘発しやすく、みんなをつかれさせてしまう。そのようにつぶやきながら、すっかり調べものに没頭しそうになる彼女を止めたのは、いつもとは違う、良く知らない研究員だった。
「失礼します。おはようございます。繁殖学の田町です」
「あ、おはようございますー。」
申し訳なさそう、というか、なんとなく、緊張している、というか。頭を掻いている青年の状態を見ながら、起こった「何か」の近くにいた人なのだろうかと予想しつつ、蝶野は微笑みかける。
「初めていらっしゃいました?」
「そうですね。」
「繁殖学の部屋からだと遠かったと思いますけど、迷わずにたどり着けましたー?」
「実は、一回道を間違えました」
「ふふふ。大丈夫ですよー私も十回くらい間違えてましたからー。で、なんでしょう?」
蝶野の空気感に多少は楽になったのか、その、明らかに焦ってきたであろう服装を整えながら、田町と名乗った人物は要件を話し始めた。
「実は、今日だけ臨時なんですがその、こちらの仕事をやっていただきたくて。」
「はい、あー、わかりましたー。」
蝶野は確かに心理学寄りだが、その待遇ゆえにこうした雑務もたまに来る。別に嫌いではなかったし、別の場所を見て場の空気感を調整するのも広義的に見れば仕事の範囲だと、彼女は感じていた。渡された資料を見ると、そこには臨時の趣旨、臨時のトップ、臨時特有の上層部のサイン、変更点についての指示、その他、いろいろな非日常が列挙されていた。それをかみ砕きつつ、異様な空気の原因に一歩近づいた気がしつつ、蝶野はぼそっとつぶやく。
「えーと?あら。いいんですか?回っちゃって。」
「はい、上司が、なんか、人に対して丁寧に話せる人にやってもらったほうが、下手に哲学人を刺激せずに済むって」
「あー、やった方がいいって言われたんですか。ならやりますよー。」
「すみません、余計な仕事だとは思うんですけど。」
「……いえいえー、大丈夫ですよー」
そこで会話がおわると蝶野は思っていた、がそこにまだ田町はとどまっていた。どこか、行き場のない何かを抱えている面持ちで、うつむきがちにとどまっている。
「……。」
「どうかしました?」
蝶野はそんな人をほっとくにもいかず、軽いノリで話しかける。
「……いや、すみません。蝶野さん、若干、班長ににてるから、つい、し、失礼します!」
それに対して大慌てで相手は出て行ってしまった。
出ていかれてはカウンセリングも何もない、と蝶野は割り切る。班長って人が、いなくなったのか。そんでもって雰囲気が似ていると言われてしまった。どんな人なのかは知る由もないけど。それにしても、と、資料をみて、文字の波を整理しつつ、思ったことは口を出ていく。
「……接触時間五分が10分になったし、これ、バイタル?医師免許……じゃ無いんだけど、まぁ、臨時だからいいのかな……?うーん、また聞けてないし。え、なぁに、あかねさん。」
蝶野はもう一つのぬいぐるみに向けて話しかけた。少々の間があって、語気を強めた「独り言」が続く。
「あかねさん、まず人と勝手につながっちゃダメですよ。……分かって話してくれたなら、まーいいですけど、んー、聞いていいやつでした?……え、………。」
と、急に部屋に不自然な沈黙が流れ、蝶野の顔から笑みが消える。
「……。」
黙ったまま彼女は席に座り、手帳のメモ欄にメモを始める。「班長=そくせさん 要検索」「豹変」「殺人?」「わからない人(?)」。物騒な言葉のわりに、彼女の筆跡は丸く小さく、乱れもなかった。
「うーん、それは、明らかに「おかしい」ですよね。……データ見てみます?多分更新したてなんで全部残ってると思うし……ねぇ、あかねさん。あかねさんも、落ち着かないんですか?……そうですかー。検索しますねー?」
こうして、蝶は無関係だったとある花の行く先に立ち寄ることになったのだった。