@corona_moca1111
桜はふわふわと空をすべり、青い空と白い雲の間をすり抜けて、太陽に透かされて視界から抜ける。
蝶野は花びらの動きに引きつけられ、それを目で追っていく。
花から外れてしまったそれは風に流されて、ほかのものをかわし、すり抜けて、それでも緩やかに落ちていく。
窓ガラスをあけて、手を伸ばして、そのひとひらをつかもうとしてみる。
ひょい、と、花びらにかわされる。
もういっかい、そっと、両の手のひらを上にして器を作り、伸ばした。
落ちてくる花びらが、ゆったりと、その上にのった。
そのままゆっくりと包み込むように手を合わせる。
花弁はそのまま、そこに残っていた。
「やったっ」
静かながらつい声に出してしまったのか、蝶野は花びらをきちんと持ったまま周りをきょろきょろとした。それで気になったのか、廊下の向こうから別の白衣を着た人物が声をかけた。
「蝶野さん」
そこにいたのは、眼鏡をかけている黒髪の青年、だった。確か担当は「ダブルバインド」だっただろうか。あまり話さない人だが、心理学者なのは知っていた。
「えーっと、」
「ああ、村上です」
「むらかみさん。すみません思い出せなくて。」
「いいですよ、で何かあったんですか。」
「いえ、大したことじゃ、ないです。これが、」
蝶野はゆっくりと手を広げる。それでも、桜の花びらはその風圧で浮いて、廊下にの上に落ちようとする。
蝶野はまた、その下に手を入れて掬おうとしたが、今度はその動きも流れになり、ひらり、ひらりとその薄いピンクは飛んでいく。
そして、冷たい床に落ちる。
それが何故だかやるせないと感じた彼女は、花びらに指をくっつけ、床から剥がし、軽く摘まんだ。
「桜。よく取れましたね難しいでしょうに」
「ひらひらしていたので、ついー」
「確かにここからきれいに見えますね。ダブルバインドに見せてやることにしましょう。」
村上はすぐさま携帯を取り出し、窓から桜の映像を取り始める。
桜は相変わらず、量こそは変わるものの、ずっと散り続けていた。それはまあ、綺麗ではあった。ただ、どこか名残惜しい気持ちが沸き上がってきてやまない。春とはそういう季節だった。
「……村上さん」
蝶野はふと、あることを聞いてみようと思った。
「はい」
「村上さんの担当は、ダブルちゃん、ですよね。」
「勿論」
「人を信じられない彼女は、あなたも疑っているんですよね。」
「当然でしょうね」
「……どうして、それでも」
蝶野はそこで言葉が急に詰まってしまって首を傾げた。そこから先が言えない。言えなかった。村上も黙ったままだ。
訂正しようと口を動かしても口からは息だけが漏れた。窓の外で風が吹き、たくさんの花びらが散った。
おかしいな、とおもっても、言葉は出てこない。
あせるのとともに花びらが目に入る。
指の上のそれはしなびてしまっている。
散った花弁は元には戻らない。
失ったものは元には戻らない。
傷ついた心自体は元には戻せない。
変わってしまったものは元には戻らない。
初めからそのようになっていたことはなかったことにはできない。
花びらが落ちる。
時が止まることは、無い。
「それでも手を伸ばすのは今のあなたがその花びらを持っているのと同じです。」
村上は、蝶野のようすを知っているだろうが、わざと無視してか、動画に音声が入っていないのを確認し、動画の編集作業をしながら言う。
「心理学をかじってしまったからかもしれません。なんとなくですが心の仕組みを理解してしまったからかもしれません。まあそんなことはどうでもいいんです。桜の花びらが落ちるのを少しでも悲しく思った。人を信じられないのを少しでも損だと思った。そういう存在だからと見捨てられるのを少しでも酷いと思った。行動するにはそれで充分ですあとは手段だけですよ。」
まくしたてるように語っている彼の顔は、いたって変化せず、その瞳は動画の画面、一点を見つめてそらさなかった。
桜の花びらのもとに紋白蝶が飛んでいる。花びらをかわしながら、翻しながら飛んでいる。
フワフワして、つかめないが、その飛び方は力強い。
蝶野は自分を少し落ち着かせつつ、あたりさわりのない質問をする。
「……ダブルちゃん、いい子ですか?」
「まあ恋人にしてはわがままですが可愛いところもたくさんあります。」
「そうですかー。」
「あの子もあの子なりに穏やかに人を信じられる道を探している最中のようで。僕が心配なのは僕がいなくなってからですよ。誤解も容態も悪化しそうで。」
覚悟のできている人だという尊敬とともに、彼女はそうなったときの相手の状態を分析してみる。
「……大切な人を、自分の中にいるとはいえ、失う」
自然と口から出てくる推測を、彼は否定しなかった。
「そうなるとだいぶ暴走するでしょうししばらくは不安定になります。彼女は人間と違って感情の分散ができいないのでなおさら。話すことも疑わしいのでできませんし、善意を受け取れません。そうですね。」
村上は会話を切る。急に話がつながらなくなり、蝶野は焦る。
「はーい?」
「聞いた理由が分かりました。被害妄想患者の思考回路は彼女に近いですから」
きょとんとした。
「そんなつもりじゃなく、なーんとなく、だったんですけどー」
村上は蝶野のほうを見る。と、携帯をポケットに入れ、そのままほかの持ち物もつかみ、そのまま廊下を歩いていこうと背を向けて歩き出す。と、振り返って蝶野に声をかけた。
「言い忘れました。そろそろ彼女が心配しますので。彼女らは唐突に悲鳴を上げますが、それは本人が本人を認識するため,本人の声を自分で聞くためでもあります。では。」
そして、足早に去っていく。デートの時間に遅れると怒られると焦っている彼氏のようにも、遅れると首を切られると焦っている白兎にも見えた。
蝶野はその早さと突発さと、情報量と、様々なことが嵐のように押し寄せてきたのを感じた。とともに、この混乱が彼女を相手にできる理由だろうと分析する「誰か」がどこかにいた。