@corona_moca1111
蝶野が薄暗いアパートに寄るようになって、1週間とちょっとが経った。と言っても、彼女の体調もあるので数日に1回、夕暮れ時に、手芸屋のついで……ということにしている。周りの人にも。
本当は少し方向が違うのだが。
少し長めの時間の中、今までのメモを、一応見る。そこにはちょっとしたメモが並んでいて、 1行日記のようだった。
4/5
開いた瞬間閉じられた。扉越しに断られる。
4/7
不在。
4/9
扉は閉じられなかったが断られた。
4/11
前とおんなじ。呆れてたな。やめないでーす。
4/14
いない。
いや、居ない、というのは多分寝ているのだろうと、蝶野は予測していた。家で休んでいるならそれでいい。出てこれるなら、それはそれでいい。ちゃんと礼儀正しく出来るなら、それだけ余裕が生まれてるってこと。人のことを少しでも考えられるなら、それだけで、認められる方に、生きやすい方に1歩ずつ、1歩ずつ、近づいていく。
彼女はそう信じる。それに、少しずつ前進しているのも感じていた。このまま、動く機会があって、何となく、生活が動き出して、落ち着くところを探す手間をかけられるようになれば、それでいい。
それでいいんだ。
「それでいいんです。」
病院の布団で泣きじゃくる人に向けて言う。
「無理して焦る必要はないです。回復が最優先。回復したらまた理想に向けて動きましょう。ここで回復した方が効率もいい。」
布団から出て来ることはできない。でも、その頭を向けたのは分かった。
「僕は救えません、そんなやつじゃないです。でも、……僕は見捨てはしませんよ。そばにいますから。……まぁ、マシになればいいです。」
手を伸ばしてきた。だから、手を掴んだ。そこにあった温かさは確かに存在していた。
「……やつれてるとはいえ細すぎですね。ご飯は喉を通りませんか?ちゃんと食べないと良くなりませんよ。」
持っていったものを並べていく。あったくて甘いのがいいかと、ココアの缶。外れなさそうだと、チョコチップクッキー。ちょうどいい大きさだった、サクマドロップ。甘いものばかりでもと、ポテトチップスのコンソメ。貰ったにしては美味しかったきな粉のおまんじゅう。今日も多分戻ってくるとして、ま、おまんじゅう1個くらい食べながら帰ればいいか、と、蝶野は軽く捉えていた。カウンセリングルームに置いておくお菓子を、少し増やしただけなのだ。どんなお菓子でも人の手で作られていて、どんなお菓子でも命と比べたら軽かった。
すっかり慣れてしまった街並みを歩く。暗くなってからでは薄い色の花は溶けてしまってよく見えない。人工的な光は逆に生き、世界ごとその色に近く染め上げる。でも、それは元の色が無くなったわけではない。ただ、光の当たり方が違うだけ。
リズム良く歩を進める。その踏み込みがテンポを刻んで、ふと、曲が思い浮かぶ。彼女の口から少しの音が詰まって漂っていく。そのままメロディは宙を舞い、街中に、夜に、透明な色を浸していく。
蝶野はぼやかしながらも何となくそれっぽく歌う。何かの劇中歌らしかったが、詳しくは知らない。でも、曲は良かったのだ。たまにラジオを垂れ流しにする時に、偶然流れていた。
フレーズを口ずさもうとしたら、歌詞が出てこない。ハミングで流し、首を傾げて少しクスッと笑う。全然覚えていない。歌えるくらいは覚えていたつもりだったのに、と、携帯を使って調べ上げる。日本語の曲ではなかったので、ついでに和訳、と打ち込んでみる。スクロール。
デュエット曲の初めは男性のソロだった。町の星々に、闇の中から見える光に、自分のためなのか話しかける。そこに女の人の声が入る。みんなが欲しがる唯一のものだと、星を例える。いろいろな影の中に隠れるその、光るもの。
昂揚、目くばせ、感触、共有。
ハミングとともに足取りも軽く、荷物も少し揺らして、蝶野はその道を歩む。
と、いつもより早くたどり着いた。
いつもはさみしさが漂っているはずの古い建物も気にならない。
ただ、念のためスキップをやめて、鼻歌も小さくして、お目当ての扉に近づく。
と、蝶野は気が付いた。
かけておいた袋がなくなっている。
見えないはずの夜空の星が、彼女に向かって輝いた気がした。