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本作長義の講演会に関する私的まとめ

全体公開 6 4844文字
2019-05-11 19:33:09

5/3に参加させて頂いた「山姥切≠本作長義!?」の講演内容をレジュメと合わせてざっくりと書き起こした内容になります。基本的に当日会場で頂いたレジュメと睨めっこしながら簡易的にまとめたものです。詳しくはきっとどなたかが上げて下さると私が勝手に信じているレジュメをご参照ください。

Posted by @miu_sgame

 まず講師の先生がズバッと切り込まれたのは「徳川美術館に山姥切という刀はありません」ということ。もちろんそういった類のお話だろうなと予想はしていたんですが、思いの外ばっさりと冒頭から言い切られたのはかなり印象的でした。
 「今からお話することの大半はほとんど既存の資料として提示されているもので、多くのこの会場にいる皆さんにとっては周知のことかもしれませんが、今回徳川美術館側から出す新しい資料として尾張徳川に伝わる蔵帳(くらちょう)を提示したいと思います」
 蔵帳、というのは尾張徳川家が所蔵する物品を保管のために仔細を記し記録を残した台帳で、今現在に至るまでも徳川美術館が継続して管理・作製を続けているそうです。物品の謂れ、どこから受け取り、どこで保管されていて、そしてどこへ贈られたのか。そういったものを詳細に記した台帳というのは歴史的に見てもかなり珍しいらしく、刀剣ももちろん含まれる美術品の行方を追うにあたっての資料的価値は大変高いそうです。

 では肝心の本作長義の蔵帳記録ですが、一番最初に記録が残されているのは「泰心院様御部屋住 當御代 御腰物元下帳」、元禄六年(1693)までの物品記録がなされた収蔵刀剣台帳です。記録内容はざっくり要約すると「長義御腰物 折紙付(「これは何です、お幾らです」というのを書いてある、今でいう血統書とか領収書みたいな感じの捉え方でも問題ないと思います)。拵はなし。尾張徳川家三代綱誠の指料とするために本阿弥光務を仲介として延宝九年(1681)に金百五十両一分で購入」というもの。仲介として、というあたりに少し曖昧さがあり、購入前は本阿弥が持っていたのか、それとも別の人物が持っていたものを本阿弥が仲介者となって尾張徳川家に売ったのかというあたりは不明であるそうですが、この時点では本作長義の記述に名物、や号、といったものはありません。
 がっつり詳細記述までしてしまうと漢字ばっかりになってしまってややこしいので、ここからは何年に成立となった蔵帳であるか、と本作長義の記述名称のみを記載していきます。

○蔵帳記録2:「長義御腰物」(何年作製かの記載がありませんが三代綱誠所持刀の蔵帳なので先ほどのものとそこまで年代は変わらないと見られます)
○蔵帳記録3:(延享二年、1745年)「長義御刀 鎺共ニ※」
○蔵帳記録4:(文政七年、1824年)「長義御刀」
○蔵帳記録5:(明治五年、1872年)「備前國長義」
○蔵帳記録6:「備前國長義」(大正〜現在まで継続作製されています)
※記録2まで記載のなかった鎺(ハバキ)が付属品としてある事が記載。うろ覚えだけど尾張徳川家で独自に作ったんじゃ、と推測されていたようないなかったような。すみませんここうろなんで話半分でお願いします。あと「そんなこと言ってなかったぞ」とか「言ってたな」とか覚えてる方いたらご指摘下さい……すごいもやもやする……
※(5/12追記)尾張徳川家のこだわりで「木鎺」を作らせたのでは、との発言の裏付けが取れました〜! 良かった、聞き間違いじゃなかったみたいです……

 現在の蔵帳記録に至るまで、本作長義の記述に「山姥切」は名物や号といった形はおろか、文字としてさえ一切出てきません。
 蔵帳というものは所蔵する物品を記録しているという点でやはり「家」のブランド力や品格といったものが計られる大切な記録。当然ですが、世の中からの価値の高い「名物」はあればあるだけ記載しています。公然に(幕府から)認められた「名物」はもちろん、御家名物……言っちゃえばローカル「名物」も「名物」表記してるし、何なら「名物」ではない「号」のみの刀剣も通称名で記載されています。本作長義が「山姥切長義」であると伝えられていたのなら、間違いなく蔵帳に「名物」表記、もしくは「山姥切」の表記があって然るべきです。
 そして、蔵帳は前述の通り品格を示すものであると同時に、事務引継ぎのための書類でもあるので、基本的に間違った表記も疑われることなく後世に引き継がれます。この象徴的なものとして一例「名物 中川郷」のことが引き合いに出されています。延享二年(1745)の蔵帳成立時には既に徳川将軍家に献上されたものであったにもかかわらず、勘違いで別の刀剣である郷義弘作の刀を「名物 中川郷」と誤表記。その誤りは明治五年(1872)まで間違ったまま踏襲されました。このように、書かれている内容について後世の者には、その是非は検証出来ないのです。
 これは逆に言えば、文字として、記載として残されていないのに、尾張徳川家の所蔵する千振り以上の刀剣の中で「本作長義」に「山姥切」の号があるということを二百年間もの間、口承のみで後世に引き継ぐことは絶対に不可能だ、ということを表してもいます。
 つまりこれは、少なくとも尾張徳川家、ひいては徳川美術館側にとっては収蔵してから現在に至るまで、「本作長義」を「山姥切」と認識したことは一度もない、という記録的事実と言えるわけですね。

 蔵帳記録6として提示した「尾張徳川家収蔵品台帳(現・徳川美術館管理台帳)」の記述について少し詳しく記載しておきます。
 3ページに渡っての本作長義の記述の後半に、昭和十三〜十四年(1938〜39)に徳川美術館及び尾張徳川公爵家が、当時の刀剣界(恐らく今もって影響が大きい方々だと先生の口振りからは察せました)の重鎮であった本間順治(薫山)先生、小泉久雄先生に鑑定を依頼したこととその鑑定結果が記されています。両先生とも本作長義が優れた出来の刀剣であること、そして国広の入れた銘が歴史的な価値を持ち大変貴重であることは指摘していますが、ここでも「山姥切」に関する言及はありません。
 両先生とも、この時点では「本作長義」と「山姥切」を関連付けて見ているわけではないことが伺えます。
 そしてそういった専門家からの再評価を受けてもあるのか、本作長義は昭和十四年(1939)九月六日、重要美術品に指定され、昭和二十四年(1949)二月十八日には重要文化財に指定されました。

 と、ここまでは「本作長義が山姥切でないと思われる根拠」について纏めてきましたが、ではなぜ本作長義のことを「山姥切」とする通説があるのか。その部分についてざっくりと纏めていきたいと思います。

 まず発端は、それまで関東大震災によって焼失したとされていた山姥切国広が、本間順治(薫山)先生によって昭和三十五年(1960)に再発見されたことです。徳川美術館の蔵帳の記述にもある通り、本作長義の鑑定もなさった先生ですね。
 昭和三十七年(1962)に編纂された「堀川国広とその弟子」における「山姥切」の作品解説において、本間先生の発言として「薫山曰く」と記述があります。内容を要約しますと、
「尾張家に伝来する名刀の中で『本作長義云々』と銘を切っているものがあり、それとこれ(山姥切国広)を比較すれば一見してそれをねらった作であることがわかる。しかも単なる模作ではなく素晴らしい出来であり、これこそは彼(堀川国広)の一生涯中自ら省みても最も記念すべき、そして誇るべきものであろう。この名刀が再発見されたことは大変喜ばしいことである。」
 といったところでしょうか。細かいニュアンスについては多少割愛しますが、本作長義を絶賛し、山姥切国広を本作長義の写しとしつつも、山姥切国広の出来もまた素晴らしいものである、といった内容です。この記述の中にふた振りの号に関するものはありません。
 ただ、同著の中に「山姥切国広の号のいわれは明らかではないが、一説に山姥切の号は元来長義の刀につけられたものという伝えがあり、その写しであるために山姥切国広と呼ばれたという。(要約)」という記述があります。
 しかしながら記述はあくまで「一説には」という形を取っており、号に関する特段の論究がなされているようではありません。そして上記の記述の中で山姥伝説について少し触れられているのですが、「山姥切」という名称の初出である「新刀名作集」(昭和三年、1928)の山姥切国広につけられた脚注とはやや異なった記述であり、また出典の明示もありません。

 以降の学術見解において、山姥切国広の本科が本作長義であること、そして山姥切という号もそもそも本作長義につけられたものであるということは定説となっていきますが、昭和三年の「新刀名作集」時点では「山姥切」が「長義」の写しの可能性があるという指摘のみで、「本作長義」を写した刀という由緒は「山姥切」には伝わっていません。
 つまり「山姥切」が再発見されて以降、「本作長義」と「山姥切」の関係がにわかに言われるようになったのです。

 結論として、「本作長義」を「山姥切」とする史料的根拠は全く存在せず、今日の通説は昭和三十七年(1962)以降に出された佐藤寒山・本間薫山氏の著作で言及されてからであり、ゆえに「山姥切」とは、国広作の刀剣にのみつけられた号と断定される。
 と講演は締めくくられました。

 5/3の講演会後に行われた懇親会でのQ&Aコーナーでの興味深い質問と回答もいくつか紹介しておきたいと思います。こちらは講演会後の帰宅時に急いで思い出しつつメモを取った内容なので、今までのレジュメ等のまとめよりかなり曖昧な表現になるのですがご了承下さい。

Q,山姥切国広が本作長義の写しとする史料的根拠はないとのことですが、実際ふた振りの間に関係はないのでしょうか?
A,いいえ、関係はあると思われます。これだけの近い期間(山姥切国広は天正十八年二月に鍛刀、本作長義は同じく十八年五月に銘入れ)に同じ刀工が関わっていること、そして本作長義と山姥切国広が大変良く似ていることからも、山姥切が本作長義の写しであろうことはほとんど間違いないと思います。

Q,長義を「本作」長義と呼ぶのは何故ですか?
A,「本作」というのは「この作」という意味です。国広自身が打った刀ではないため、「これは長義作の刀ですよ」と銘入れしているわけですね。

Q,なんで「ながよし」じゃなくて「ちょうぎ」って呼ぶんですか?
A,訓読みだと色々読み方があって統一するのが難しいんです。当時の蔵帳にも「た行」で収録されているので、実際のところがどうかはともかく、「ちょうぎ」と呼ぶのが無難だということでそう読んでいます。

Q,本作長義は実戦刀というわけではなく大事に受け継がれてきたもの、ということでしたが、大磨り上げされているのはどうしてなんでしょう?
A,磨り上げされた当初は実戦刀としての役割を求められていたと思われます。受け継がれてきたという歴史そのものによって刀剣とは価値が付加されていくものですから。



 以上をもって「山姥切≠本作長義!?」の講演会内容の私的まとめを終えたいと思います。史料として提示しております内容はすべて要約であり、多少の意図の読み違いや誤読等、あるかと思われますのでぜひ何方が上げるであろう(と私が個人的に期待している)講演会レジュメも参考になさりつつお読み下さいませ。
 この度素敵な講演会を企画して下さいました徳川美術館様、そして本公演の講師を務めて下さいました原学芸員さま、ならびに運営をなされた学芸員・スタッフの皆さま、本当に楽しい時間をありがとうございました。長義の菓子切り通販めっちゃ待ってるのでよろしくお願いします。また六月行きます。名古屋に住みたい。
 本作長義(以下58字略)の刀剣展示は6/16まで徳川美術館にて行われております。運が良ければ学芸員さんにお話を伺えるチャンスなどもあったりなかったりするかもしれませんので、お時間のある方はぜひとも足をお運び下さい! みんなもとくび女子になろう!


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