@acbh_dmc4
ある時からコロッセオに天使が住み着いた。
そんな噂が実しやかに囁かれ始めたのは、新緑の輝く気持ちのいい時期のことだった。
近くで見た者はいないが、遠目でコロッセオの天辺から美しい翼を持った何かが飛び立つのを、私を含めた複数人が目撃しているのだ。
今もこうして大空を翔る、その二つの何かが楽しそうに上空を旋回していた。
友人に借りた望遠鏡でその飛翔するモノを確かめる。
動きがめっぽう早くてその姿を追いきることは出来ないが、1つは真っ白で、もう一つは灰色の胴体をしているのを確認できた。
その姿は鳥にしては大きすぎるし、そもそも鳥類というよりも翼はあるが人の形のように見える。
もっと近くでその姿を確認したくて、何度もコロッセオへと赴こうとしたのだが、その度に何かしらの邪魔が入った。
やれ雇い主からの呼び出しだ、やれ親兄弟の急な病気の知らせだと、二つの飛翔するモノが現れる頃にコロッセオへと向かうと必ず問題が起こる。
これはもしや、その天を翔るモノ達が、その生活を脅かされまいと人知を超えた力で妨害しているのではないかという考えに至った。
私と同じくその天使の姿を近くで見ようとした者たち全員が同じようにコロッセオへと向かうことが叶わなかったのだから。
それはそうと、天使がローマに現れてから、随分とこの土地は豊かになった。
農地の作物はたわわに実り、ワインの出来はどこも軒並み高く上質なものが出回っており、金回りも実に良い。
今まで悪さばかりしていた盗賊達や詐欺師の連中も見かけないし、先ぶれの伝える情報も店の宣伝ばかりになった。
私もこの所仕事がうまくいくようになり、生活に余裕も生まれてまさに順風満帆だ。
ローマ市民は皆同様に幸せそうに毎日を過ごしているのだから、きっとあの天使と言われているモノ達がローマに幸福を齎したのだ。
そう思えば、皆もそのモノ達の生活を脅かすまいと大空を見上げてはそっとしておこうと囁くのだった。
「しかしなぁ、それでもやっぱり近くで見たい…」
そう一人ごちれば、隣で酒盛りをしていた友人がワインを煽って豪快に笑った。
「なんにせよ、こうも順調に人生を謳歌できるのはその天使様様ってな。だからお前もそんな尊い天使様の不興を買って幸運をつぶすような真似やめとけよ」
「そ、それはそうなんだが…」
「そういえばお前、最近天使様の絵ばっかり描いてんだろう?なら尚の事天使様の恩恵を一身に受けているじゃないか」
私の生業である絵画の事を持ち出されると言葉に詰まってしまう。
ここ最近は寝ても覚めてもあの天使たちの姿を思い、キャンパスに向かっている。
どんな姿なのだろう。きっととてつもなく美しいものに違いない。仲睦まじく楽しそうに飛び回る2人の天使。
絵画といえば、大きな動きのなく静止したものが多い中、私の描く力強く飛翔する天使たちの絵はとても人気がでている。
本物の天使をこの目にしたいという好奇心が強いのは否定しないが、それだけではない。
鳴かず飛ばずで腐っていた私に、大きく羽ばたくチャンスをくれた天使に礼を言いたいのだ。そんな思いを口にすれば友人は一つ苦笑してからまるで慰めるように俺の肩をたたいた。
「その幸運の天使たちの機嫌を損ねると災いが降りかかるともいうし、程々にしておけよ?」
「むー、分かっているさ…だがいつか…天使様にこの気持ちを知ってもらいたい」
「案外祈りでも捧げてやれば、届くかもしれないぞ?お前も天使教徒の奴らと一緒にコロッセオにお祈りしに行っとけ」
友人の茶化しに少々腹を立て、奴が飲もうとしているワインのグラスを浚って飲んでやった。
****
家にいればありとあらゆる贅沢が出来るのだが、この日俺は一人酒場へと飲みに行っていた。
あの男に頼めばこの国に、いいや、この時代にない珍しい食べ物や飲み物をいくらでも出してもらえるが、たまには環境を変えたくもなる。
作られた世界とはいえ、この世界の食事は馴染みのあるものだし、人との関わりを持たなければ周りの喧騒は心地よいものだ。
誰に係るともなく、元の世界と比べると少しだけ上等な酒で喉を潤していると、とある二人組の会話が耳に入ってきた。
なんとも身に覚えのある者達へ関心を向けているようで、思わずその男の話を耳を聳てて聞いてしまった。
最終的には自棄を起こしたように天使への祈りを捧げ始めて、これ以上聞くのは止めておこうと意識を反らした。
しかしそれとなく周囲への話を聞いていると、その男の話していた「幸運の天使」の話は酒場中で耳にすることに気が付いた。
なんてことだ。完全にあの飛行が噂になっているじゃないか。
あの男は飛行する際にはコロッセオに誰も向かわぬよう、また変な噂にならぬように設定を弄っていると言っていたのに!
更に幸運の天使に対する感謝の声や祈りの言葉が続き、いたたまれなくなって逃げるように酒場を後にした。
乱暴にテベル塔の扉を開き、ズカズカと足音を大きく立ててあの男を探す。
2階に誂えた書斎に男を見つけて、彼が座る執務机に両腕を叩きつけて男に凄んでやる。
「酒場で俺たちのことが噂になっていた。あんた、あの付近には誰も近寄れないようにしたんじゃなかったのか?」
俺の剣幕にきょとんとした顔をしていた男が、得心いったというような笑みを見せた。
そして何でもないことだと言わんばかりに手元の本に視線を戻し、特に気にした風もなく言葉をつづけた。
「ああ、近寄ることは叶わないが、流石に皆に空を見ないようにはしていないからな。だが干渉されないようシナリオを用意したから問題ない」
「それが噂になっている『幸運の天使』ってやつか」
「ははは!天使か!それはまた神聖な設定になったものだ」
まるで他人事だというように面白そうに笑う男に脱力する。
俺たちの生活に干渉しなければそれでいいという男に、酒場で感じた据わりの悪い思いを伝えたところで仕方がないと諦める。
まぁ確かにこの世界で生きやすいよう全ての厄介事を消し去ったのだから、この男は噂通り「幸運の天使様」で間違いはないのだ。
「では、幸運の天使殿。読書の時間を邪魔して悪かったな」
揶揄いでそう言ってやれば、目を白黒させて困った顔をする男が面白くて、これから暫くこの呼び名を使ってやろうと密やかに笑みをこぼした。
END.