@corona_moca1111
【5月11日 事件当時 蝶野 あみの場合】
ポットの中のお湯をティーカップに注いで、カップを温める。すると紅茶は冷めないでそのまま注がれる。ティーカップは温もりを持ち、茶葉もポットの中で蒸される。そして、少しの手間をかけて入った紅茶は本来の魅力を全て表し始める。
外ではたくさんの人々が熱に浮かされて何かを叫んでいた。数人、物を投げているような音さえ聞こえた。紅茶のお湯は沸騰してから直ぐに入れるが、そのまま飲む訳では無いのに。
蝶野は超自我のカップの傍に、個包装の砂糖を置いた。こじんまりとしたそれはその中に小さな幸せを蓄えている。
「……あかねさんも飲みます?…………それもそうですよねー。超自我さん、多分大騒ぎを止めないと行けないんだと思うんですー。……いいんですか?ありがとうあかねさん。」
超自我のカップの位置には、彼女の鳥が座った。蝶野は、もう1つだけ小さいカップを白いふくらみの所に置いた。そのおばけも浮くことなくそこに座った。
周りには喧騒、近くには「博士」の足音、隣にはぬいぐるみ、その場には蝶。
数分経って、いい匂いが漂い始めた。蝶野はカップの中のお湯を捨て、ポットの口のそばに網を起きながら紅茶を注ぐ。紅く優しい温かさと共に、懐かしい香りが漂って、周りに広がっていく。外で銃声が鳴った。カップがぶつかって音を立てた。蝶野はあかねさんのカップの中の優しさに幸せのパッケージを開けて、砂糖を溶かした。直ぐに見えなくなる。
「今日の紅茶はあかねさんの色ですねー。」
そう言うと、鳥はボタンの目を伏せたように見えた。蝶野の代わりに柔らかいお化けが、近くにあるスイッチを押した。音楽しか流さないラジオが流れ始める、穏やかなリズム。アコースティックギターの優しい弦の音。誰かがこの部屋の外をすごい勢いて駆け抜けて行った。女の人の囁くような声がラジオから零れている。
"Sous aucun prétexte, je ne veux
Avoir de réflexes malheureux
Il faut que tu m'expliques un peu mieux
Comment te dire adieu"
蝶野には何語だかは分からなかったが、それでも引きつけるような声で話すように歌っているのでかけておいた。内線電話のベルが冷たく鳴り響く。手をかけてその音を止め、話しかける。
「はい、カウンセリングルームです。」
「蝶野さん無事ですか?」
「こちらはとくに異常ないですよー。」
「では引き続き待機でお願いします。状況が落ち着き次第また指示します。」
「はーい。」
電話の主は一方的にこちらを確認して切れた。忙しそうに駆け回っているのだろう。無線だったみたいだ。なんとなくラジオにもノイズが走り、次のフレーズが流れてくる。
"Mon cœur de silex
Vite prend feu
Ton cœur de pyrex
Résiste au feu
Je suis bien perplexe
Je ne veux
Me résoudre aux adieux"
蝶野は自分のカップの中に少し温めた牛乳をゆっくり注いだ。紅が柔らかなベールに包まれていく。スプーンを入れて混ぜると一気にもやが広がる。砂糖をつまんで沈めると、跡形もなく消えていく。
「……愛情を込めて、でしたっけ。」
どこかで聞いたセリフを思い出して、蝶野はふふっ、と笑った。それをゆっくりと口に含むとほんのりと口に広がる安心感が、蝶たちでさえ落ち着けていた。
そっか、ミルクティーか。
「後で彼にも作ってあげられるといいなー、ね、しろちゃん?」
ぬいぐるみが喜びを示して跳ねた。
いたぞ、あそこだ、と声がして。誰かがまた、近くの階段を駆け下りていった。
"Je sais bien qu'un ex...amour n'a pas de chance, ou si peu
Mais pour moi une ex... plication vaudrait mieux"
ラジオの中の赤の他人が、嘆くかのように話している。昭和の歌謡曲のようなそのリズムと、小洒落た楽器の音、よく分からないけれど不安な気持ちはこの部屋の外のせいだろうか。もう一口、愛情を飲んで、一息ため息をつくと、また冷たいコールが鳴った。
「はい、カウンセリングルームです。」
「あ、風呂寝っす」
「あら、シアさん」
「まあ忙しいんで要件だけ伝えるっすけど、あれについての内容は全部合ってるっす。で、今来てるのは彼も含めた5人っす。前のも陽動っす。」
「……そうですかー。」
少し黙ってしまったその間に曲のサビが流れる。
"Sous aucun prétexte, je ne veux
Devant toi surexposer mes yeux
Derrière un Kleenex
Je saurais mieux
Comment te dire adieu
Comment te dire adieu"
「……その曲、フランス語っすね。」
不意に曲のことを言われて蝶野はびっくりする。
「そうなんですか?、ラジオなので全然気にしてなくてー」
「多分、「さよならを教えて」って曲っすよ。……あ、動き出したので切るっす。それじゃ」
切れた電話の音が、つー、と響いた。慌ただしく周りの時は進んでいた。まるでここだけ違う世界みたいだな、と蝶野は思った。
受話器を元にかけて、ラジオの音を少し大きくする。あかねさんの目が光った。蝶野はあかねさんと目を合わせて会話する。
「……知ってたんでしょうー、フランス語の曲だと、有名なのかも。あかねさんは聞いたことありましたー?……んー。」
蝶野は曖昧に笑った。あかねさんも元の向きに戻って、紅茶の量が減った。不思議と布は濡れていない。
蝶野は目を閉じて耳を済ませた。ザワザワとしたノイズもあり、人の声もしたが、それでもその曲は穏やかに入ってきて心に染みた。
"Tu as mis à l'index nos nuits blanches, nos matins gris-bleu
Mais pour moi une ex... plication vaudrait mieux"
曲名を踏まえて聞くとまるで悲しみを語っているかのようにも聞こえた。口の中に残る甘みがまるで思い出のようだった。
"Sous aucun prétexte, je ne veux
Devant toi surexposer mes yeux
Derrière un Kleenex
Je saurais mieux
Comment te dire adieu"
蝶野は大きく伸びをして、パソコンに向かった。これからきっと忙しくなるんだろう、またみんなにカウンセリング、とはならないといいけれど、と確認を始める。
カウンセラーの仕事は人間がそこにいる限り続くのだ。終わりだと思う出来事があっても、その人が大丈夫だと思うまで。
その人が別れを告げられるまで。
Comment te dire adieu
Comment te dire adieu