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愚か君と虚構ちゃんⅡ

全体公開 27701文字
2019-06-12 18:50:20
Posted by @sugoidame




高い高い場所にいた。
俺は高い高い場所で手すりごしに世界を眺めて、何でもないような顔をして、ただ瞬きを繰り返していた。

世界中の誰もが俺を嫌っていた。親も、親戚も、クラスメイトも、教師も、通りすがりの人々も、夢の中の俺もみんな俺を見ては嫌な顔をして溜息をついた。鏡の中の俺はその一挙一動が不自然で気味が悪くて、周囲で澄ました顔をして過ごしている真っ当な人間とは似ても似つかない、どちらかといえば異星人と言った方がまだ納得出来るようなぎこちない表情で左右の瞳孔を縦横無尽にギョロギョロとふらつかせていた。なるほどこれは誰もが気持ち悪がるはずだと納得して、腑に落ちて、頷いて、そういうものだと理解して今日もフラフラと周りに合わせて歩く真似をしてみたり座る真似をしてみたり、喋る真似をしてみたり笑う真似をしてみたりする。
特に両親は昔から俺の事を嫌っていた。物心ついた時にはもう今と同じ視線しか向けてこなかったから、多分生まれた瞬間から二人はそんな感じだったのだろう。どうせ愛さないのに生んだことについてはもう今さら言っても仕方ないが、それなら苦しみとか死への恐怖とかそういうものを知る前な早いうちに殺しておいてくれればまだマシだったのに、とは思った。けれど改めて二人を見るとなるほど二人は俺と同じくらい自分のことが大嫌いらしい。見れば見るほど俺は二人によく似ていた。その気味の悪い不自然な挙動、表情、喋り方はまさに親子揃って共有されているものだった。二人ともこの世界を嫌っていたし、世界に嫌われていたし、自らの生を呪っていた。だから俺を生んだのだ。だから俺を嫌って当然だ。だってこれは当てつけなんだから!こんな最悪な世界で何より最悪な自分たちと自分たちの生がどうにも恨めしかったから、どうせならもう一人自分たちのような最悪に無責任に生を押し付けてやろう、という当てつけ。誰も彼もの悪意と悪意と悪意と悪意。その結果俺はここにいて、最悪な世界と自分自身を嘆きながら生きている。
でももう限界だった。

両親も俺も最悪なことには変わりはなかったけれど、両親も俺もそれを変えようとする努力は全くしていなかった。最悪だから。それそのものを嘆いては恨んでいるわけではないのだ。それを変えないといけないこと。何か努力をしないといけないこと。何かを求められること。だけど何をしたって無駄なこと。報われた努力も報われなかった努力も、どうせいつか何もかもなかったことになってしまうのに、こんな最悪のスタート地点から何かしようと思うだろうか?
例えばなかったことにする方法は、今。この状況とか。高い高いビルの屋上の手すり越しに最悪な世界を眺めている。ここから飛び降りてしまえば、どんな人間だって死んで、グチャグチャになって、それで終わりだ。何か残ったとしたって、どうせいつかここで死んだことすらなかったことになってしまうのだ。それが嫌だし、怖かったのだ。
この馬鹿みたいなスタート地点に立って両親に出来たことはせいぜい自分たちの遺伝子を残して最悪な子孫を最悪の世界に当てつけとして引き摺り出すことくらいで、当の俺はといえばそこまでする気力もなければ前にも後ろにも進む気力もない、原点だけあってY軸もX軸もない上も下も右も左もただただ進むべき道すらない虚無みたいな座標の中心で「最悪〜」と誰にも聞こえない声でぼやいてるだけだったのだから、両親はきっと一層落胆しただろう。

俺はいつでも傷だらけだった。これは比喩とかではなく、一目でわかるあからさまな生傷が常にやたらと体にあった。擦り傷だったり、切り傷だったり、膿み跡だったり、骨折だったり、打撲だったり。骨はよく折れた。骨の髄からしてやる気がないのか、人と比べて骨密度が低いのか。多分両方だ。要するにどれも別段あの両親から虐待を受けているとか学校で暴力の絡んだいじめを受けているとかそういうわけではなくて、それらは全て自分自身の愚かさに起源する傷だ。それらを自らの愚かさへの嫌悪と共にどうするでもなく、ウジウジと膿んだ生傷の真ん中に四肢を投げ出して「最悪〜」とぼんやり誰のせいでもない赤と灰色の混じった血みどろの空を見上げてぼやいていた。
それも全部全部限界だった。もうこんなのは嫌だった。嫌だから、バイバイ。バイバイ、さよなら、ヒュルヒュル、グチャリ。それで死ねたらそれでよかった。それが良かった。そうしようと思った。だから今日は朝家を出て、学校には行かずにここに向かった。高い高い場所だった。死ぬにはおあつらえ向きの廃ビルだ。どこにあったのかはしらない。探したらそこにあったのだ。だから登って、手すりから下の景色を眺めている。これで全部終わりだった。俺には俺を引き止める人間も、死んで悲しむ人間も、最期に連絡を取りたいような人間もいなかった。未練なんて何もなかった。あとは飛んで、死んで、バイバイ。さよなら、ヒュルヒュル、グチャリ。それで本当に終わりだった。

手すりを乗り越えて縁に立つ。愚かだから漫画やアニメで見るようにスマートに乗り越えることは出来なかった。腕に力を込めて体を持ち上げると浮遊感と共に下の世界と死の質感が下腹部に押し寄せて吐きそうだった。震える足は今にもこの断崖の限界の生から零れ落ちていきそうだった。未練はないけれど恐怖はある。理不尽だし、不合理な話だ。それもこれも全部全部俺が愚かだから。愚かだから、いつもいつもこうなのだ。
でもそれもやっぱり終わりだ。やっぱり終わりだ。どうしても終わって欲しかった。全部全部終わりにしたくて堪らなかった。ここで立ち止まってまた手すりを越えて日常へ帰っていけるのなら、そんな常識的な判断がこんな極限の状況で出来るのなら、俺の人生はもっともっと合理的で生きやすくて、こんなところから飛ぼうとなんて考えなかった。でも俺は愚かだから。愚かだからもう飛ぶしかなかった。バイバイ、さよなら。誰もさよならをいう相手なんていないけれど。きっと生まれた時だって、誰もこんにちは、よろしくねなんて言わなかった。最初から最期までそんな感じだった。あーあ。愚か。全部全部愚か。愚かだから人生を棒に振って死んだ。愚かだから棒に振らない人生にも価値すら見出せなくて死んだ。どうやったって俺の世界は最悪だった!バイバイ、さよなら。目を瞑って手を離した。フ、と気味の悪い浮遊感が妙に固形じみた質感をもって体を覆った。誰かが頭に浮かぶかと思ったけれど、誰の顔も浮かばなかった。思い出も何も脳の中には現れなかった。
潰れるその瞬間は、やっぱりすごくすごく痛いのだろうか。
痛いのはもう嫌だ!何でこんな死に方を選んだんだ?馬鹿だ、もっともっと楽な方法があったはずだ。俺は最期の最期まで、馬鹿で、何も考えてなくて、愚かで、空虚で、不気味で、理不尽で、
「ーーーーで!」
最悪だった!
「ーーーくん!」

突如、血みどろの灰色の空から透明な声が稲妻のように俺を貫いた。白い手。黒い服。俺の名前を呼ぶ。
「ーーしなないで」
それは廃ビルから情けなくはみ出して今にも落ちて死にそうな俺の腕を掴んで必死に叫んでいた。顔は、よく見えない。
「大好きなんだ」



……それが、オレのところに逃げ込んできた理由?」
カチャリ、と小洒落たティーカップとソーサーの重なる音が部屋中のしんとした冷気に浸透するようにやけに大きく響いた。男は人を小馬鹿にしたような顔で、呆れたように俺に尋ねた。
「う……
「え?何?ウ〜?」
男の家がどこにあるのか、そういえば俺は知らなかった。行く宛も付けずにただひたすら逃げるようにあの場所から離れて、どこともしれない森の中にまろび出た。それからただ俺の背後にある何かを振り切ろうと前も見ずに右往左往走り回った。それから息が切れて、脳に何も送られなくなって、景色が真っ白になって、あらかた全身にどこで負ったかもわからない生傷が出来上がった頃、気がつけば俺はこの男の家の前に立っていた。そこがどこか知らなかったし、男の家なんて今までに見たこともなかったけど、そこに男がいるという確信だけは何故かあった。ややあって、予想通り見覚えのある家主と見覚えのあるグニャグニャの虚構が連れ立って玄関から姿を見せ、俺を見て目を見開くのを俺は不思議な感情で眺めていた。
「う、う、う、……うあ……あー」
「何ソレ。ついに愚か君まで虚構ちゃんになっちゃったわけ?」
男は苛立ちを隠しもせずに不快そうに俺を睨んだ。
家の中は家主のイメージと違わず質素で物が極端に少なかった。窓は開いていないため空気の流れは一切感じないが、妙に不快感のない無限に広がっているような固形の冷気に包まれていた。
男は突然家の前に現れた俺を見つけると気味悪そうに眺めていたが、俺が何も言わないのを見て諦めたように溜息をついて家の中へと引きずり入れた。食卓に座らせ、毛布まで掛けて頂いた俺が少しずつ断片的に零し始めた話を最後まで不服そうな表情を浮かべながらも聞いてくれたところを見ると、思っていた程冷淡な男ではなかったのかもしれない。
「う……
「だから何だよ!さっきまでちゃんと喋ってただろ!」
「うわあー」
キレ出した男を隣にいたヤンが無言で宥める素振りを見せると、男はしぶしぶといった様子で腰を下ろした。
それにしても、今日はいつにもまして男は苛々していた。普段から神経質な方ではあったが、ここ最近会っていなかったせいか、その性質が今日は随分と際立って見える。
……まあ話はわかったよ。ていうか、正直めちゃくちゃ怖かったよ。何てホラー?」
「うっ……お、まえ、さ……
「愚か君も怖かったのはわかったからちゃんと喋ってくれない?そういうのすっごいイラッとくるわけ。ねえヤン?」
「ん〜?ふふ。ふふ。うん。うん〜?ふふ。にゃあ〜」
満足そうにヤンを撫でるその細い手首を俺はジト目で睨みつける。喋ろうと思えば人らしく喋ることは出来るが、いかんせん状況が状況なのだ。一通り経緯を説明し終えて、何か言おうとすると何もかもが濁流のように押し寄せてきて呂律が回らなくなっていた。それから、めちゃくちゃ怖かったよ。ではないのだ。それどころの話ではないのだ。こっちはこの世界の平穏を一気に全て吹き飛ばされてしまったような気分なのに、そんなちゃんちゃん、みたいな雰囲気で終わらされてはたまったものではない。
恨みのこもった目で睨みつける俺の視線に気が付いたのか気が付いていないのか、ヤンを撫でるもう片方の細長い腕でテーブルに頬杖をついて男は続けた。
……まあ全部気になるけどさ。愚か君が見た前世?みたいなものは大体オレが見たものとも合致してると言えるよ。ここではないどこかの世界にいて、死ぬ間際を追体験したような感じだろ。でも、実際に死ぬ瞬間ではない」
……そう。でも、俺は、……俺はそのあと、本当に死んだのかわからない。たぶん、死んでない」
誰かが俺の手を引いたから。
思い出しながら、必死に手繰り寄せた言葉を紡ぐ。
あの時無我夢中で死にそうな俺を掴んだ、ひんやりとした手の感触を生々しい程に覚えている。それから、冷たい体温とは裏腹に、嫌になる程熱のこもった声。俺を呼ぶ。言葉。名前。
死なないで、と言った。
大好きだ、と叫んだ。
それから、強く引き上げた。
あれは俺を救いにきたのだ。俺に死なないでほしいから。あれは俺を愛していた。あんなところまで追いかけてきて、大好きだと叫んで、本当にあの死の淵から引きずり上げてしまう程に。
「顔は覚えてないの?」
……わからない。そこでこっちに戻ってきたから」
あれが誰だったのか俺は知らなかった。だって記憶の中の俺にはそんなことをしてくれそうな人は一人もいなかったから。記憶の中の俺は誰にも愛されていなかった。誰も彼もが俺を嫌っていて、当然友達と呼べる人だっていなかった。あの俺を愛してくれていた人なんて誰一人としていなかったし、言ってしまえばそのことだって俺があそこから飛ぼうとしたひとつの原因だったのだ。それなのにあんな言葉を俺にかけてくれる人を、忘れていたり気が付かなかったりすることがあるだろうか?
ただひとつだけ言えることは、それでも俺を引き上げた力強い冷たい手は確かにあの記憶の中にあったのだということ。
俺はあの手に、俺を引き上げた力に、かけられた言葉に、呼ばれた名前に、あの瞬間確かに救われていた。あの手が俺を大好きだというのなら、俺もあの手の持ち主を大好きなのだ。それだけはあの記憶に触れて思わず逃げ惑い、こうして男に拾われてティーカップを傾けているうちに確信できたことだった。
……それより、オレが言いたいのはそっちじゃなくて」
そう一人ごちる俺にじっとりとした視線を向けて男が呟いた。ぱたり、と、いつのまにか力の入っていたらしいティーカップを持つ指先から一滴の雫が落ちてソーサーを叩いた。その雫がつるりと中央に滑っていく様子を眺めながら、ようやく指がその熱を覚えた。
「愚か君が見ていた夢の話だよ」



時は二百日程前に遡る。断っておくと、外が明るくなったり暗くなったりするのに規則性があるわけではないので、この世界に一日だの二日だのという概念があるのかどうかは定かではないが、そんな中でも虚構ちゃんと俺は寝たり起きたりを適当に繰り返している。外側暗くなったり明るくなったり、暗いままだったり明るいままだったりする中で鐘が鳴るのだ。その鐘の音に合わせて生活をしたりしなかったりしている。鐘の鳴る期間、起きてから寝るまで、眠っている間の長さが一定であるかどうかは別として、その繰り返しを俺たちは一日と呼ぶことにしている。
ここで言う二百日程前とは、最後に男が虚構ちゃんと俺の元を訪れた日ーーヤンが今のヤンになった日だ。あの日、男はグニャグニャになって壊れたヤンを捨てにきた。虚構ちゃんは虚構を抱きしめることで消すことが出来るから、男の言う通り虚構ちゃんはヤンに抱きついた。そうしてヤンが救われて、一度は消えたはずだった。けれどヤンは戻ってきた。不気味な笑い声と無邪気な笑顔だけその身に遺して、あとは全部なくなってしまったけれど。足の代わりにグニャグニャとした赤褐色の触手のようなものを一本生やして、虚構ちゃんの腹を破ってここに帰ってきた。
男はヤンを蹴飛ばして虚構ちゃんに差し出していたけれど、帰ってきたヤンを見ると、フンと鼻を鳴らして人を小馬鹿にしたような笑みを薄らと浮かべてから、それは大切そうに体に巻きつくヤンをそのままに連れて帰っていったので、後になってからはあれはあれで良かったのだろうと思うようになった。
俺が毎晩悪夢にうなされるようになったのは丁度その日からだった。
あの日、男は広場を抜けて森を抜けた向こうには誰もしらない花園があると話した。その中央にある鏡を覗いたら、この世界に来る前の自分が見えた。それから全て思い出した。どうして俺たちはここに来たのか。ここに来る前は何をしていたのか。男は本当はヤンと一緒にこの世界に響く鐘の在処を探していたようだったけれど、それは見つけられなかったらしい。鐘は一日に三回、まるで朝と昼と夜の節目を教えるかのように鳴る。この世界に来てからあの鐘が鳴らなかった日はなかったけれど、その鐘がどこでなっているのか、俺は全く知らなかった。
男が帰った後、虚構ちゃんと俺は眠った。
その時、俺は確かに聞いたのだ。
四回目の鐘の音を。
一度鐘が鳴ってから次の鐘が鳴るまでが一定だとは限らないが、それは俺たちがclosedの看板を玄関にかける合図にしている鐘の音の次に鳴る、目を覚ます合図にしている鐘の音とするにはあまりに鳴るのが早すぎたし、いつも聞いている鐘の音と比べると明らかにどこか粘性のある不気味で異質な音だった。腹の中に燻って掻き回されるような不快感のあるじっとりとした響きを押し込めて、俺は布団に潜って目を瞑った。

その日の夢は虚構ちゃんに会う夢だった。
俺は人気のない夜の路地裏を学生鞄を持って歩いていた。どこかに帰ろうとしていた気がするけれど、どこに帰ろうとしていたのかは覚えていない。確かなことほ、そこは俺が眠っている世界ではないことだった。その夜はあまりに冷たくて静かだったので、いつも虚構の世界に訪れる黒はやっぱり夜ではないのだろうと思った。
そこでは一歩歩くたびに夜が背後から取り返しの付かない死に変わって世界を呑み込んでいくようだった。空は黒と赤と黄色がステンドグラスのようにお互いを刺し合って傷つけ合って、色の先端を尖らせてグチャグチャに混ざり合っていた。ガチャガチャとそれが蠢いて空の夜をグルグルかき混ぜるので、黒と赤と黄色の傷ついて死んだ遺体から零れた金色の血液が、ぼたぼたと粘性のある雨のように路地裏のコンクリートに落ちては汚した。俺はその色があまりに怖かったので今にも走り出して逃げてしまいたい気分だったけれど、帰る場所が思いつかないので重い重い学生鞄をぶら下げて、空も背後も見ないように俯いて歩いていた。
帰る場所も、会いたい人もいない世界だった。来た道も夜空も死んでしまった。ふと思いついて立ち止まってみると、後頭部が焼けるように熱くなった。それから、背中。死んでいく夜に背後から殺されていくようだった。それがあまりに熱くて悲しいので、ボロボロと反射的に涙が零れた。体は背中から夜と一緒にドロドロに溶けていく。涙が視界を滲ませて、服の胸元を次々濡らした。滲んだ視界で見上げた空は、黒と赤と黄色が一切傷つけ合わない綺麗なグラデーションを描いていた。その鮮やかで穏やかな夜空が途方もなく美しかったので、涙は一層頬に溢れた。
そこで虚構ちゃんに出会った。
涙で溶けた視界の中に、一つだけフワフワの白が見えたのだ。路地裏の突き当たりに雪だるまのような白があって、頭部と服の部分の白をユラユラフワフワと揺らして立っていた。俺は涙を拭ってそれを見た。
虚構ちゃんがこちらを見ていた。
風もないのに長い前髪とポンチョをユラユラと靡かせて、暗い暗い路地裏の奥に立ったまま、虚構ちゃんが俺を見ていた。
俺は半分が熱で溶けた体を引き摺って歩いた。半分になった頭と脳で考えた。
どうしてここに虚構ちゃんがいるのだろう。
どうしてこんなに虚構ちゃんが好きなのだろう。
どうしてこんなにどうしようもなく、俺は虚構ちゃんに救われてしまうのだろう?
虚構ちゃんに、触れようとする。
虚構ちゃんが、何かを言おうとした気がした。
風が吹いた。
ステンドグラスの夜が崩れて、黒と赤と黄色と金の破片が世界中に散らばって夜を覆った。視界がグチャグチャになってしまう。虚構ちゃんが見えなくなる。
目を、覚ます。

それから毎晩虚構ちゃんが夢に出てきた。俺は夢の中で俺だったり、俺じゃなかったりした。虚構ちゃんと俺は毎日別々の部屋で寝ているけれど、その日からは目を覚ますといつも虚構ちゃんが横に居た。
虚構ちゃんがドロドロになって溶けてしまう夢を見た。いつものように俺がマ〜とかウ〜とか鳴いている虚構ちゃんにぐちぐちと不服を垂れていると虚構ちゃんが俺を見ながらドロドロに溶けていくのだ。白い髪も服も同じ素材で出来ているように同化して、液状化した白がバタバタと二人で座るソファを伝って床に溜まった。虚構ちゃんは溶けても溶けても床に落とすのがどこまでも白でしかないのが怖くて悲しくて堪らなかった。泣きながら目を覚ますとやっぱり横に虚構ちゃんが居た。
虚構ちゃんがたくさんいる夢を見た。そこは虚構でも虚構ではない世界でもなかった。虚構ちゃんの白がフワフワと世界を埋め尽くして、それ以外には何もなかった。幸せな幸せな世界だった。でも、虚構ちゃんはみんな死んでしまった。一人、また一人ずつ体の中心から煮えるような熱にやられて、ぐずぐずに沸騰しながら苦しそうな声を上げて虚構ちゃんはみんな死んでしまった。その世界のどこにもいない俺にはどうしようもなかった。死んだ虚構ちゃんと、何でもない世界があった。けれどまるでそれがあるべき真っ当な姿に見えてしまったのが悲しくて、その日も泣きながら目を覚ましたのだ。やっぱり虚構ちゃんが横に居た。
毎日毎日夢を見た。俺が泣きながら布団を持ち上げて起きるので、虚構ちゃんはいつも少し寒そうに身を縮こませるように寝返りをうった。

そしてまた夢を見た。
どんな世界でも、死んでしまった虚構ちゃんも、虚構ちゃんはいつも虚構ちゃんだった。虚構ちゃんはナ〜とかウ〜とか鳴いていて、俺は俺であろうが俺でなかろうが虚構ちゃんが大好きで、虚構ちゃんは俺が大好きだった。それだけが悪夢の救いだった。
だから、虚構ちゃんが虚構ちゃんでなくなってしまった。その時の恐怖が、思い出す程に生々しい粘ついた冷気と共に確かな質感を持って背筋を撫でる。あれは紛うことのない悪夢であったし、最悪な現実だと言われても疑えない程の生々しさがあった。だからそれから目を逸らすように、隣に寝ている筈の虚構ちゃんも確認せずに逃げ出してきたのだ。
今朝か、昨日か。今目を覚ましている俺が最後に見た夢だ。夢の中で俺は何か虚構ちゃんに怒っていた。虚構ちゃんに出会ってから今まで虚構ちゃんに怒ったり声を荒らげたりしたことなんて一度もなかったけれど、とにかく夢の中で俺は虚構ちゃんを責めていた。夢の中の俺にはその状況に何の違和感もなくて、ただそこにある感情を何も疑いもなく受け入れて、そのまま虚構ちゃんにぶつけていた。虚構ちゃんはナ〜とかウ〜とか言っていた。
その勢いで、俺は普段だったら絶対にしないことをした。虚構ちゃんを見ようとした。虚構ちゃんが何なのか知ろうとした。虚構ちゃんの前髪の向こうを、いつも俺を見つめる真っ黒な瞳の奥を、暴こうとしたのだ。普段なら絶対にしない。そんなことをして、虚構ちゃんが虚構ちゃんでなくなってしまったら困るから!あの白い白い前髪と真っ黒な目と口の向こうにあるのが虚構ちゃんでも何でもなかったら。虚構ちゃんが、虚構ちゃんではない何かであったら。虚構ちゃんが虚構ではなかったら。虚構ちゃんが、そこに本当にに「居る」のだとしたら。そうしたら俺はもうどうしようとなくなってしまうから。
だけど夢の中の俺はそんなことは全て忘れてしまって、不躾に虚構ちゃんの奥を覗いたのだ。そこで見たものが、今も脳裏に焼き付いている。
何もなかった。
虚構ちゃんは何でもなかった。白い白いフワフワの前髪の向こうに、黒い黒いクルクルの目の向こうに、虚構ちゃんも何もいなかった。真っ暗だった。虚構ちゃんは、俺の眼に映る白以外は全くの虚構だったのだ。暗い暗い虚無が俺を覗く。今にも脳がグチャグチャになって破裂してしまいそうだった。白の向こうの虚無の中には黒すらもなくて、ただ無限に広がる暗い虚無と虚構が何の感情も持たずに虚構ちゃんの中を蝕むように満たしていた。そうして虚無の向こうが、何もないのにグルグルと幾何学模様が回転するような感覚を覚えた。その中心がパックリと割れて、目に見えない血が溢れてどこにもない血溜まりを作る。そこから、声がする。
「愚か君が私の妄想なんだよ」
ーーああ!
違う、そうじゃない。そんなことはどうでもいい。俺が何であろうと構わない。虚構ちゃんが何であろうと本当は別にどうでもいい。そうじゃない。そうじゃない。最悪だ。俺は最悪なことをした!
虚構ちゃんが、"俺の前で"虚構ちゃんではなくなってしまった!……違う。そうじゃない。
それじゃあまるで、だって、妄想する虚構ちゃんがどこかにいるみたいじゃないか!
喋らないでほしかった。ナ〜とかウ〜とか、それと「愚か君」それだけ声に出してくれればよかった。それだけでよかった。それが虚構ちゃんだった。虚構ちゃんが虚構ちゃんではない「何か」で、どこかに「居る」ことを俺にだけは教えてほしくなかった。中身が虚無でも何でもいい。虚構ちゃんがそこにいてくれれば、本当はどこにもいなければ、そういうことにしておいてくれれば何でも良かった。
最悪だ。最低だ。そんなことを自覚してしまいたくなかった。これでは俺は最低だ!俺が最低だ。虚構ちゃんのことを大好きだと言いながら本当は自分を守ることしか考えていないことが、自分の都合の良い虚構ちゃんを愛していたかったことが露呈した!もう何も話したくない。どこにもいたくない。今すぐ死んでしまいたかった。そう考えて、こんな時でも虚構ちゃんに抱きしめてほしいと願う自分に嫌気がさした。
虚構ちゃんの声は穏やかでも荒くもなかった。淡々と事実だけを述べるようなその声色が、虚構ちゃんにどうしようもなく似つかなくて違和感があった。虚構ちゃんに事実なんて語ってほしくなかった。いっそこのまま虚構ちゃんも俺も虚構になって消えてしまいたかった。
虚構ちゃんを見る。もう虚構ちゃんの中の虚無はフワフワの白に覆われてしまって、虚構ちゃんは何も言わなかった。虚構ちゃんの白と黒と俺の中のドロドロの最悪が絡み合って混じり合って卒倒しそうだった。フワフワの虚構ちゃんに触れようと手を伸ばす。こんな時でも俺はこの虚構ちゃんにほんの少し安心して、また虚構ちゃんのことが大好きな気持ちがムクムクと生物のように湧き上がっていていた。手を触れる。瞬間、
「うあ……
パリン。
どこかで何かの割れる音がした。
「あ、あ、あ、あ、あ……
ーー夜だ!
ーー夜が割れたのだ!
黒と赤と黄色の細かい細かいステンドグラスの蠢く夜が、その密度に悲鳴をあげたのだ。この世界には夜はないから、あれは夢の夜が割れたのだ。あの日見た夢が現実が平行世界がその世界線を鷲掴みにされてここに一纏りになって重なったのだ。夜は金色の血を流しては壊れたヴァイオリンのような音で泣く。血みどろになった何億もの世界線が虚構ちゃんを囲って泣き叫びながら責め立てた。
虚構ちゃんが嗤った。
虚構ちゃんが嗤った。
嗤うな。
嗤うな!
嗤うな!
金色の血が乾いて白になる。それが蒸発して銀になる。夢が現実が世界が虚構ちゃんに泣きついて、お世辞にも綺麗とは言えない極彩色のステンドグラスをバラバラに裂く。破片が世界を散り散りに埋め尽くして、虚構ちゃんと俺の肌を刺す。削る。酷い声で泣く。
俺は血だるまになって削れて小さく小さくなっていく。虚構ちゃんは白い白いフワフワのまま、俺を、夢を、現実を、世界を、嗤っていた。
「あ、あ、あ……ああ……うわああ……
逃げろ。
「あああああ……ああああ……ああああああああ……
ここから逃げろ。
「ひ、……あ、あ、ああああああああ……!」
今すぐに!
「あああああぁあぁああぁあぁぁああ……
小さく短くなった血で濡れた赤い赤い足を必死に走らせる。前も後ろも右も左もわからなかった。もしかしたら前も後ろも右も左もどこにもなかったのかもしれない。その場から逃げ出すことに必死だった。そこにいてはいけなかった。虚構ちゃんを見ていられなかった。削れた身体中に走るたびに衝撃が走って身を裂かれるような痛みと熱が全身を劈く。小さく小さくなった腕が手が指先が、どこかにぶつかる度に感覚がなくなっていって、だんだん壊死していくようだった。
そのうち、俺は何かを体から勢いよく剥いで立ち上がったようだった。それは走るための重い重い枷だった。それを床に叩きつけた途端、全身から痛みが冷たくなって引いていくように感じた。体が急に軽くなった。
ーー逃げろ!
それから俺はまた飛ぶように駆け出した。扉がある度に力ずくでこじ開けて、森があれば腕を前に出してどこまでもどこまでも掻き分けていった。
ーー誰もいない遠くへ!
次第にまた身体は傷だらけになって痛んできたが、そこから滲む血が赤いのに安心した。安心して、どこまでもどこまでも逃げた。虚構ちゃんが怖かったのだろうか?合わせる顔がなかったのだろうか?それとも、もうどこにも居たくなかったのだろうか?今となってはあの時に逃げろと叫んだ声の意図はわからない。けれど俺はあの声に導かれて、あの声に縋るようにどこまでも逃げた。
逃げて、逃げて逃げて逃げて、いつの間にか辿り着いていたのは見たこともない広い花園だった。ふと気がつけば俺は花のアーチを潜り抜けて小洒落た煉瓦の道を歩き、広場の中心へと足を進めていたのだ。
そこにはあらゆる花が咲き乱れていた。ずっと昔から名前を知っている花、名前は知らないが見たことのある花。一度も見たことがない花。大きな花。小さな花。丁寧に整えられたそれらはしかし、どれも白と黒の色しかなかった。圧倒的に白が多く、所々に黒の花弁がチラチラと覗く。風が吹く度に黒は白に揺られて姿を消し、白の小花がフワフワと舞った。俺はその真ん中に向かって続く煉瓦の道をユラユラと歩いた。白は何度でも虚構ちゃんを思い起こさせた。それからヤンを思い出した。最後に男を思い出した。グルグルと記憶の中の顔を順に思い出しては忘れながら歩いた。
ぼんやりとした頭でうつらうつらと考える。そういえば、俺は自分の顔を知らない。何度思い返しても自分の顔だけは一度も頭に浮かんでこなかった。なぜだろう?考える。うつらうつらと足を進める。黒と白と黒と白がユラユラフワフワと視界を染めた。黒い小花と白い小花がフワフワチラチラと視界の花園を切り刻んだ。
だんだん広場の中心に近づいて、そこにあるものが見えてくる。男の言葉を思い出す。
『広場の中心には鏡があって』
ーーそうだ。
鏡だ。この世界には鏡がないのだ。
だから俺は今まで自分の顔を見たことがなかったのだ。知らなくても無理はない。
ーーでも、鏡って何だ?
どうしてこの世界にないものを知っているのだろう。
『オレとヤンはその鏡を覗き込んだ』
まるで、この世界の他に俺が生きていた世界があるみたいじゃないか?
『ーー思い出したんだ』



フン、と男は心底興味なさそうに鼻を鳴らした。隣でヤンがフニャフニャと笑う。
「で、これからどうするつもり?」
男は空になったカップをぞんざいにテーブルの端に寄せると、両手で頬杖をついてこちらを覗き込んだ。人を小馬鹿にしたような表情がその顔に浮かぶ。その細い腰にヤンがクルクルと絡みついて戯れるように頬を寄せる。男は表情を変えないままその頬に頭をすり寄せた。
「どう、って」
「だから、虚構ちゃんのとこに帰るのかって聞いてるんだよ」
「帰るよ!」
そう問われ、思わず強い口調で返してしまう。男は少しだけ目を見開いて、
「あそう」
と言って口を噤んだ。

あの花園に辿り着いて、あの鏡を覗き込んだ。その後のことは前述の通りだ。死に際の俺を見た。冷たい手。声。死ななかった。空を見た。逃げて、気がついたらここにいた。
「てっきり合わせる顔がないとか言ってここに居座るつもりなのかと思っちゃった」
……そんなことはしない」
その全ての始まりは虚構ちゃんだった。虚構ちゃんの夢を見て、一方的に暴こうとして、傲慢な己の気持ちに勝手に気が付いて勝手に逃げ出した。今頃何もしらない虚構ちゃんは家で一人ぼっちで待っているのだ。俺が思い出したことも、見た夢も何もしらない虚構ちゃんは、一人ぼっちの家の中で何か思っているだろうか。それとも、何も思ってくれちゃいないのだろうか。
……俺は虚構ちゃんのことが大好き。虚構ちゃんも俺のことが大好き。それだけは絶対に変わらないから」
何も思ってくれていなくてもいいのだ。それだけは絶対に、どんなことがあっても揺るがないのだ。そうであってほしい。そうであってほしいと願う気持ちだけが本当だった。それでもいい。それでもいいから、何度でも俺はあの虚構ちゃんの元に帰りたかった。
「帰ったら虚構ちゃんが普通の女の子になってたらどうするの?」
……そんなことはない」
「あるよ」
「ない」
男はきゅっと目を細めて哀れむような表情を浮かべた。初めて見る顔だった。
「あるよ。愚か君。そういうことはね、あるんだよ」
続けながら、男は自分の神に細い指を梳き入れた。長い紫の髪を括る髪留めを慣れた手つきでスルスルと解く。髪留めは艶のある長髪を先まで撫でて外れる。紫色がパラパラとその端正な顔に影を落とした。
「昨日まで死ぬ程魅力的だった虚構なんて、すぐに生ゴミみたいに下らないものになっちゃうんだよ」
吐き捨てるように男は零した。
バラバラの文字が意味になって理解すると同時、ぐ、と、体が強張った。握る拳に力が入る。
男の様子にはやっぱりどこか違和感があった。男は人を馬鹿にすることはよくあったが、こんな風に頭ごなしに無意味な否定はしない筈だった。けれど、そんなことはどうでも良かった。
どんな姿でも、何が本物でも、虚構ちゃんがそんな風に言われるのは許せなかった。
立ち上がろうとしてしかし、
「そんなこと……
ーー憚られた。
「あ、癪に障ったならごめん。悪気はないよ」
男がヒラヒラと手を振る。そういう問題ではない俺の様子の機微などには一ミリも気が付いていない小綺麗な顔には、人を小馬鹿にしたような笑みが浮かんでいた。
その腰に、ヤンがグルグルと絡みついている。しっとりと湿る赤褐色の触手はまるで人魚のヒレを彷彿とさせる。上半身はぐったりと男に預け、細い腕でその体に抱きついている。その顔が、男の肩口からこちらを見ていた。
白い大きな瞳の中心には黄色の小花のような模様が浮かんでいる。男からはその表情は見えていないだろう。溢れんばかりの涙を瞳いっぱいに讃えた、それは今までに見たこともないような慈愛に満ちた表情だった。愛情と憐憫の入り混じる、それは聖母のような穏やかな笑みだ。純真無垢そのものであるその姿はいっそ恐怖すら覚えるほどに真っ白で、美しい。ヤンが俺を見る。溢れそうな涙は凪いだ海を思わせる。白い白い何もない瞳に、未練のように宿る花。
あいしてあげて。
瞬きをするとその涙は泡のようにパチンと弾けて消えてしまった。ようにみえた。男に向き直ったヤンがフニャフニャと笑いながらいつものようにその肌にたくさんキスを落とした。
「んふ。ふふ。……んふふ、ふふふ、にゃあ〜ふふ」
男は首筋に噛み付くように柔らかいキスを無数に落とすヤンを愛おしそうな手つきで表情を変えずに撫でる。少しくすぐったそうに目を細めて首を傾げる。それから我に返ったように手を離し、冷酷そうな目でその顔を眺めた。
俺は何も言えないまま、立ち上がろうとする男を見ていた。
……じゃあオレは部屋に戻るから。愚か君も、帰るなら帰りなよ」
「ふふ。ふふふ。んふふ……
そう言い残して男は扉の向こうに消えていこうとする。蛇のように絡みつくヤンは嬉しそうにそれに着いて行く。挨拶をするかのように振り向いて俺を見た。それから、男に向き直る。笑いながら、愛おしそうに呼びかける。
「ハリー」

思わず、目を見開く。
男の足がピタリと止まる。
紡がれた言葉がどんな意味を持つのか理解できなくて、数秒の間思考停止したままそのフニャフニャした背中を眺めた。沈黙を待っていたかのように外でカラカラと風が吹いた。窓が開いているのか、男の髪がユラリと浮いた。
俺が何か言う前に男は静かに扉を閉めた。木製の重い扉の向こうに消えて、もう二人の姿は見えなくなってしまった。



ものの数十分後、俺は再び男の家を訪れていた。
断っておくと俺は確実に帰ろうとしていた。虚構ちゃんのいるあの家に帰ろうとこの家の庭から出て、森の小道を抜けようとしたのだ。しかし大した深さもないと思っていた森はどこまでも奥深く、進んでも進んでも木々は減るどころかその密度を増していった。それだけならまだ良いのだが、振り向けばいつでも、どれだけ歩いても歩いてもほんの少し後方に男の家がいつまでも見えた。初めはそういうドッキリかとも思ったがあの男にそんなことをするメリットがあるとは思えないし、あの二人にそんな芸当が出来るとも思えない。この世界のことだからこの森から抜けるにも何かコツがいるのだろう。男はよく虚構ちゃんの元を訪れていたから良い方法を知っている筈だ。
そう考えて、仕方なく俺は歩き回ってクタクタになった体を引きずって男の家に戻ってきたのだった。踵を返して二百歩程歩けばすぐにあの家に辿り着いた。家を出てきてから戻ってくるまで空はずっと青かったし、鐘も鳴っていないからそう長い時間は経っていないだろう。
そう思いながら再び訪れた男の家はほんの少し雰囲気が変わっているように見えた。目に見えてわかる変化は玄関口に飾ってあったように思えた白百合の花瓶がなくなっていることくらいであったが、開いていた扉を開くと少しずつ物の配置が変わっていたり減っていたりするものがあってやっぱり違和感があった。あれから掃除でも始めてみたのだろうか。
とはいえ、人の家の内装をあまり気にしても仕方がないのでソロソロとリビングに近づいて遠慮がちにノックをする。すると中からヤンのフニャフニャとと唸る声が聞こえてきたので控えめに戸を引いた。
男はどうせ返事などしないだろう。
「あー……悪い、森を抜ける方法を知りたいんだけど……って、あれっ?ヤンだけ?」
「ん、んー。ふ。ふふ。うー」
しかし、大方二人でいつも通りグルグルと絡み合っているのだろうと予想していた部屋の中には意外な様子が広がっていた。部屋の中心に配置された大きなソファには毛布に包まったヤンだけがポツンと鎮座していて、男の姿はどこにもなかった。
「何だ、お前らいつも一緒にいるわけじゃないんだな。森の抜け方……は、ヤンは知らないよな。あいつどこにいるかわかる?」
「んー。うー。ふふ。んん……うー」
ヤンは俺の言葉を理解しているのかしていないのか、ウネウネとその身をソファの上で捩らせた。しかし続けて瞬きを繰り返しながら俺がやってきた廊下の方に視線をやる。他の部屋にいると言いたいのだろう。
実際、ヤンがああなってしまったのは虚構ちゃんと接触してからのことで、ヤンは元々はかなり聡明で、物腰は柔らかいが意見ははっきりとしている青年、といった感じだったのだ。あのウネウネの中で眠っているのがあのヤンであるとしたら、賢いことに変わりはないのだろう。そう考えると、フニャフニャとした笑みとグネグネの動きでしか自分を表現出来なくなってしまった今の姿が少し痛ましく見える。あの日の出来事が正解だったのかどうか、ヤンと意思疎通が図れない俺には男の様子を見て判断してみるしかなかったのだ。ヤンは何か思っているのだろうか。何か思うことは出来ているのだろうか。
……ありがと。探すわ」
それ以上ヤンを見るのはやめて、俺は帰る方法を探すことに専念しようと考える。下手に詮索してももうどうにもならないのだ。だってあの出来事は虚構ちゃんにとっても不可抗力だったらしいのだから。
踵を返し、廊下に出る。
その時、ヤンがもぞりと動く気配がした。背後からくぐもった声が霧の様に掠れて空に溶けるのが聞こえた。
「ハリー」
苦しそうな声。
……ヤン?」
毛布に包まれた体がウネウネともがくように波打った。何かに助けを求めるようにその腕が空を掻き毟る。強張った細長い指がそれぞれバラバラに震える。今にも五本の指が、広げすぎてボトボトと千切れ落ちてしまいそうに見えた。毛布からかろうじて覗いている肌はどこもぐっしょりと汗にまみれていた。
しばらくどうしていいかわからずに呆然と立ったまま眺めていると、ヤンは助けが来ないことを悟ったのか腕を下ろし、今度はバリバリと喉を掻き毟り始めた。痛そうに、苦しそうに爪を立てて掻く。ヤンが背中を仰け反らせた瞬間、目があった。
その瞳からは大粒の涙がボロボロと溢れていた。涙は顔から首、鎖骨を落ちて服すら濡らしていた。それがソファを伝って床に落ちても、涙は次から次へと溢れた。ついさっき、家を出る前に見た穏やかな笑顔と綺麗な涙とは似ても似つかない凄惨な様子だった。けれどこの姿になってからは笑顔と無表情しか浮かべていないヤンは他の表情の作り方をしらないのか、その顔は涙が幾粒も流れ落ちている以外は全くの無垢な顔だった。
「ヤン!」
そこで我に返り、部屋に駆け戻る。
ヤンの様子がおかしい。ここですぐに男を探しに行くことも出来たけれど、愚かだから悲痛な表情で心配そうな声をあげてヤンに駆け寄ることしかできなかった。その腕に手を伸ばそうとして、思わず「ひっ」と声が漏れた。
「バカ、バカバカバカ!何してるんだよ!」
「うー。う、ううー。ハリー。ハリー。んー。うー」
ジタバタともがくヤンの両腕を必死で抑え込む。その喉元は掻き毟り過ぎて酷い状態になっていた。肉が抉れ、赤い筋肉がブツブツと千切れているのが見える。辛うじて骨は見えていないが、血に塗れたそこはあまりに痛々しい有様だった。ヤンが掠れながらも聞き取れる声を発しているのも信じられないくらいだ。
「何だよ、急に何があったんだよ……!さっきも言ってたけどハリーっていうのはあいつのことか?あいつが何かしたのか!?」
「あ……うー。ぅうぅう……んん……あー……んう……
……え?」
毛布を見た。
バスタオル程の小さな毛布だった。てっきりヤンの全身を包んでいるものだと思っていたそれは、その上半身に被さるので精一杯程のサイズしかなかったのだ。けれど、それはヤンの全てを包み込むのに十分な大きさではあった。
「なんで……あし、……お前、足は?」
「う……
「お前……いつからここにいるんだ?」
その切れ目に痛みはなさそうだったけれど、ここにある望みはそれくらいしかなかった。ヤンの足を成していた赤褐色の触手はドロドロに溶けてスライムのようになってソファの下に落ちていた。残された上半身は毛布に包まれていたけれど、ついさっき俺を見送ったばかりとは思えない程の喉元の掻き跡と同じような傷がたくさん刻まれている。それから、傷口や触手とは無縁そうな、鼻をつく悪臭。それは紛れもない人間の濃縮された体臭であったが、この状況にあったとしても、どう考えてもものの数時間で蓄積されるようなものではなかった。
「クソ、何だよ、あいつはどこだ!?こんな時に何してるんだよ!?」
ヤンが苦しんでいる。こんなにも苦しんでいるのに、俺には何もわからなかった。何も出来ることはなかった。悔しいけれど、ヤンを何とかできるのはあの男しかいないと思った。あの男なら冷静にヤンをなだめて、傷に意味をつけて、全てを人を小馬鹿にしながら説明出来るだろうと思った。
「ヤン、ちょっと待ってろ。ごめん、俺には何も出来ないけど、あいつを呼んでくるから」
床に落ちた毛布をヤンにかけてやって、そう声をかけて立ち上がる。そう広い家ではないから、ここにいるのならすぐに見つかるだろう。
「なあ、あいつハリーっていうのか?」
部屋を出る直前にそう問いかけると、ヤンは血塗れの喉から掠れた声で
「うー」
と唸った。それを聞いて俺はほんの少しだけ、虚構ちゃんを思い出した。

細長い廊下をバタバタと駆ける。廊下沿いにはいくつかの部屋があるようだったが、どこも扉は開けっ放しになっていた。ひとつずつ覗き込みながら進むも男がそこにいる気配はない。奥へと足を進めるたびに焦燥が激しくなる。
「クソ、どこにいるんだよ……おい、出てこい!このままだとヤンが死ぬかもしれないぞ!出て……あ」
廊下の突き当たりに、一つだけ扉の閉まっている部屋を見つけた。リビングの木製の扉と同じく重厚そうな扉ではあったが、鍵穴などはないようだった。見つけるや否や、パニックになった両手で勢いよくノックをする。返事も待たずに扉を開けた。
「入るぞ!」
中にいるかもわからない男に向けて、精一杯の声を振り絞る。元来あまり大声を出すのに慣れていない上にここまで探し回ってきたせいで声は変に裏返って、乾いた部屋に掠れて溶けた。
果たしてそこには、
……愚か君?」
ーー居た。
ようやく見つけた。そこはどうやら書斎のようだった。いくつもの本棚に囲まれた中心、ペンと紙の散らばる机と椅子に腰かけた男が驚いたように目を見開いてこちらを見ていた。
「なんでここに?」
「俺は森の抜け方を聞きに……今はそんなことどうでもいいだろ!リビングに来い、ヤンが苦しんでる!」
「ヤンが?」
「そうだよ!何であいつを一人にしてるんだよ!早く……おい!」
男は暫く俺と廊下の方を交互に見て目を白黒とさせていたが、なかなか立ち上がろうとしなかった。痺れを切らした俺がその腕を掴んで立たせようとすると男は俺を振りほどき、固まったようにそこに居直した。強張ったその顔を見て思わず語気が強くなるのを感じる。
「立てよ!」
……行かない」
「は!?」
「そっか。ヤンが……でも、それはそうだ。そうだよ。ヤンは死ぬだろうな」
「何言ってんだお前!そんなこと……
「愚か君、さっき何て言った?」
声を荒らげる俺に、男はピシャリと言葉を返す。的を得ないその会話にどうしようもないもどかしさを感じる。この男は何を言っているんだ?元から人の話を聞かないきらいがあるとは思っていたが、ここまで話が通じないことはなかった。
「森の抜け方を聞きに来ただって?今更?」
「今更って……知らなかったんだから仕方ないだろ。家を出る前にお前何も言わないしさ」
「だって、愚か君」
男は椅子に腰かけたまま視線を真っ直ぐ俺に向ける。それがあまりにも鋭く冷たいので、さっきまでの焦燥と怒りは一瞬でどこかへと消えてしまった。だって、ヤンが。やんが。ヤンが。喚く声が、頭のどこか遠くの方で他人事になって聞こえてくる。
「愚か君がこの家を出たのって、もう百日くらい前なんだよ」
窓のない書斎はどこもかしこも埃だらけで、かび臭い匂いがツンと鼻を突いた。よく見れば書斎の本棚や本はどれもモウモウと埃を被っていて、もう長い間手に取られてすらいなさそうだった。唯一埃が払われている机の上には、何千枚もの原稿用紙がどうでもよさそうに積まれていた。
「は……?」
「虚構ちゃんの元にも帰らずに森の中にいただって?何してたわけ?」
「そんなこと……俺は鐘の音も聞いてないし、あれから一日すら経ってねえよ」
……きみがそんなんだから、もう全部終わっちゃったよ」
どういうことだよ。言おうとして、息を呑む。
机の上にだけ積まれていると思っていた原稿用紙は床中にうず高く積まれていて、足の踏み場が無いほどに散乱していたのだ。今まで気が付かなかったのが不思議なくらいにそこは異様な空間だった。ヤンのことに必死で足元に気を配る余裕がなかったが、部屋の中心に来るまでにも俺は数束の原稿用紙を踏み倒していたようだった。
……あ、悪い」
その原稿用紙の一枚一枚全てには、びっしりとペンで文字が書き込まれていた。
「いいよ。全部ゴミだから」
男は俺が慌ててかき集めるそれらを見ることもなく吐き捨てた。机の上の原稿用紙に滑らす視線はまさしく生ゴミでも見るかのような冷めた目だった。
「ゴミ、って……これ全部お前が書いたんだろ」
思わずそう零したが、男は何も言わなかった。
冷めた目。刺すような冷徹な視線。退屈そうな、どうでもよさそうな表情。その全てとここにある原稿用紙の上の文章の熱量が不釣り合いだった。
けれどわからないなりにわかったふりをしてみると、やっぱり男の本性はこの原稿用紙が物語っているような気がする。男は心底退屈そうな顔と人を小馬鹿にしたような顔しか出来ない。しないのではない。出来ないのだ。ヤンは不思議そうな顔で、表情ひとつ変えずにボロボロと大粒の涙を流す。それと同じだ。
「あいつのところに行ってやってくれよ。ほんとはお前だって心配してるんだろ。好きなんだろ。……ハリー」
男は何も言わない。ただ刺すような目で原稿用紙を見ている。膨大な量の文章を。自分の綴った文字を。
「お前の名前だろ。あいつが呼んでた。あいつには教えたんだろ。……なあ」
心底どうでもよさそうな顔でじっと眺めて、動かない。
「ヤンのところに」
「うるさい!」

ダン!と大きな音が鳴った。立ち上がった男を見て、机を思い切り殴りつけた音だと気が付くのに数秒かかった。男は焦点の合っていない目を見開いて呆然と立っていた。興奮するのに慣れていないのか、時折鋭く息を吸ったり、ピクリと肩を震わせる。
「なに、怒って」
「うるさい、うるさい!黙れ!お前に何がわかるんだ!?ヤンの何を知ってるんだ!?」
「なっ……
その手が机の上に伸び、数枚の原稿用紙を鷲掴みにする。止める間もなく胸の前でそれをグチャグチャに潰し、何回も何回も執拗に裂く。ビリビリになった紙が雪のように床に積もる。よく見れば紙の破片は部屋中に落ちていた。
「バカ、やめろよ!喧嘩したいわけじゃない!」
今にも暴れだしそうな男を抑え込もうと試みるが、その手はあっけなく振り払われる。肩で息をする男を刺激しないよう、なるべく落ち着いて語りかけた。
「お前達の間に何があったのかは確かにしらないよ!でも少なくとも、向こうでヤンは苦しんで……
「その名前を呼ぶなよ!」
「いっ……
男が投げた何かが頬を掠めて、背後の壁に乾いた音を立ててぶつかる。当たったところから熱い液体が伝うのを感じた。
「何でお前なんかにヤンの、あの子の名前を呼ばれなきゃいけないんだよ!?クソっ、クソっ、クソクソクソっ!嫌だ、嫌だ嫌だもう……あの時名前なんか付けなきゃ良かった!名前なんか呼ばなきゃ良かった!」
床に落ちたそれは白い鋭利な陶器片だった。その正体を探すと、原稿用紙で埋もれた部屋の中心部、テーブル周辺に同じような破片が粉々になったものから大きいものまで、まとまって落ちているのを見つけた。
割れた陶器の中心にあるのは、水を失ってカラカラに枯れた、白百合。
「っていうか、オレの名前だって、呼んでんじゃねー!」
「うわあ!」
花瓶の破片を拾って、もう一度。先程よりも少し大きめのそれはすんでのところで耳を掠めて、壁に当たって砕け散った。
「待て!落ち着けよ!おい!わかったよ、もう呼ばないから!」
「あうっ……
それはほとんど悲鳴だった。懇願する俺に更に追い討ちをかけようとしたのか、男は再び陶器の破片に手を突っ込む。しかし勢いが余ったのか、傍目にもわかるほどの深い傷がその手のひらに刻まれた。男はほんの少しだけ顔を歪めてもう片方の手で傷口を覆った。
今だ。
その隙を見計らい、後ろから男を抑え込む。
「軽率なことをしたなら悪かった。でも、ほんとに俺は心配だったんだよ……なあ、話を聞いてくれよ」
……
見れば男の手の傷はそれだけではなかった。他にも同じく、陶器片ーーおそらく玄関に飾ってあった白百合の花瓶ーーで負ったであろう深い切り傷がいくつもあった。それらのほとんどは何の処置もされないまま、ジクジクと膿んだまま痛々しく放置されている。
……おい、大丈夫か?」
しゃがみこむような形で抑え込んだ男はそれから静かになって動かない。不安になって後ろから顔を覗き込もうとするが、下された長い紫の髪で隠れてその表情は見えない。
ややあって、
……ごめん」
小さく、消え入るような声で呟いた。次いで紡がれる声はほとんどいつも通りの男の声色だった。
「取り乱した。悪いことしたね」
その様子を伺いつつ、ゆっくりと男を立たせる。男は素直にユラユラと立ち上がった。
「なら、ヤ……あいつのところに」
「行かないよ。それは変わらない」
「何で……
「オレさあ、小説を書いてたって言ってたでしょ」
「え?」
唐突に男は静かな声で話し出す。
男は何事もなかったかのようにフラフラとまた椅子に座った。傷だらけの手のひらをどうでもよさそうに机の上の原稿用紙の上に投げ出す。ドクドクと滴る血と黄色くなった膿がその紙と文章を汚した。
「ずっと書いてたんだよ。あの鏡を見て愚か君が過去を思い出したように、オレも全部思い出した。この世界に来る前のオレはつまらない会社員でさ、多分、社会人二年目とかだったかな」
その血を、膿を、なすり付けるように原稿用紙の文章を汚しては消していく。床に散らばった原稿用紙も、よく見ると何枚か黄ばんで読めなくなっているものがあった。
……でも、実はオレも愚か君に負けず劣らずの愚か者だったんだよ。仕事は上手くいかないし、人と上手く話もできない。この世の全てから嫌われてると思ってた。両親は死にたがりで、子供の頃は毎日毎日人生の恨みつらみを聞かされて過ごした。高校に上がるころに二人揃って自殺したけど」
……あ」
机をじっと見つめて、我を忘れたように話す男は気が付かない。
俺が入ってきたときに開けっ放しにしていた書斎の扉の向こうから、這ってきたのか変わらず上半身だけになったヤンがこちらを覗いていた。綺麗だったクリーム色の髪は涙と汗に濡れてボロボロになって、廊下の埃を絡ませている。剥き出しになった喉の肉にはなお剥がれかけの爪を立てている。
思わず声をあげようとすると、ヤンが震える人差し指を口元に添えて俺を見た。
なにもいわないで。
俺にヤンの言葉はわからないけれど、その仕草は必死にそれを伝えているようだった。
「子供の頃から……誰にも見えないところで、二十年くらい。ずっと一本の小説を書いてた。別に何も楽しくなんてなかったけど、何も書きたいことなんてなかったけど。毎日生きた心地がしなかったから、そこにオレが生きてた証明をしたかったのかも。……そんなことないか。何だろ。多分当てつけかな。その時何にも楽しくなかった、何も持ってなかったオレのことが大嫌いだったから、大嫌いなオレに何度も何度もそれを自覚させるための当てつけだったのかも。とにかくオレは生きてる間、ずっと小説を書いてたんだよ。誰にも言ったことはなかったし、子供の頃から書いてたから文体も設定もいろいろ変わったりしたけど、そんなことは何も気にならなかった。それで、この小説が完成する時にオレは死ぬんだろうなって、ずっと漠然と思ってた」
ヤンは相変わらず無表情だったけれど、絶えずボロボロと涙を流すその姿からには、俺には想像もつかない程の色々の感情が鬱屈しているように見えた。男は相変わらず真底退屈そうな表情のまま、無感情そうに自分の中に手を突っ込んでは鷲掴んだ言葉を適当に床に散らしている。
(涙と言葉に色がついていれば良いのに)
それを見て、どこか他人事のようにそう思う。
「小説はほとんど完成してた。あと一文だけだった。オレの小説はあと一文で、あと一行で完成だったんだよ。でもその最期の一文がずっと書けなくて、三年くらいの間ずっと考えてた。三年間、オレの小説の最期の一文だけをずっと考えてた」
ふと、気付く。そう話す男の横顔に、ほんの少しだけいつもとは違う雰囲気を覚えたのだ。
「もしかしたら死にたくなかったのかな。そんなはずはないんだけど。……そんな文に、たかがオレの最期の一文に何の意味も価値もないことなんてわかってたけど」
心底退屈そうな顔。人を小馬鹿にした顔。平坦な声。投げやりな口調。どれも普段と変わらない。いつもと同じ男であることに変わりはない。けれど、その声の温度はいつもより少しだけ温くて、穏やかな気がした。
(きみがそんなんだから)
「あ……
男の言葉を思い出す。
部屋中に散らばった紙。文章。陶器。言葉。血。膿。廊下に這い蹲る、ヤン。
中心で俺を刺す。男。
「そうか」
どこかすっきりとしたその表情。俺は胸がすっと空いていくのを感じた。推測を立てて合点がいく。
部屋のランプがチカチカと揺れた。風のない部屋に影を落とす。寿命だったのか、ランプは小さな灯になってしまって部屋は暗いまま隅々が黒になって消えた。
僅かな灯が頬を灼くように照らす。
「完成したのか」
半ば吐息のような俺の声はやけに芝居がかっていて、まるで虚構のように聞こえた。



「愚か君、この世界で未練がなくなってしまった生き物はどこに行くと思う?」
男は笑いながら俺を見た。いつもの人を小馬鹿にしたような顔ではない、どこか棘の抜けたような、爽やかさしえ感じる笑顔だった。そのはにかんだような笑みに、もしも男が他の人生を歩んでいたなら日常的にこんな表情を見せていたのだろうかと思う。
「わかんないよね。オレはさ、今まで虚構ちゃんに消された生き物はみんな帰って行ったんだと思うんだよ」
……帰った?」
ポタリ。
風の入る隙間さえ無い筈の部屋に、水の滴るような音が響いた。どこから聞こえてきたのかはわからない。
「そう。元いた世界に」
ポタリ、ポタリ。
ゆっくりと間をあけて、液体は仄暗い部屋の空気を穿った。硬い音がして、次に弾ける音がする。灰色の部屋がだんだんと黒になっていく。さっきまで微かな灯りを灯していたランプは見ればもうどこにもなかった。部屋中を埋め尽くしていた原稿用紙も、もう一枚も見えなかった。水滴の垂れる音に混じって、グニャリと壁が歪む音がした。
「誰もフィクションだった」
天井が、床が、壁が生き物のようにうねって部屋を狭めた。黒い液体がその隙間からボタボタと絶え間なく落ちて部屋中に水溜りを作った。いつのまにか部屋の隅にヤンが佇んでいて、半分になった体で猫のように目を光らせて男を見ていた。
「虚構になりたかった。虚構でありたかった。だって救われなかったから。自分に未練があるなんて信じられなかったから!」
男は嬉しそうに身を捩って外套のポケットから何かを取り出す。その手に、顔に、外套に、黒い液体がボタボタ落ちる。黒はスライムのようにドロドロと床を這い、既にそのくるぶし程の深さまで溜まっていた。跳ね回る天井と床だけがあって、壁はもうどこにもなかった。黒の浅瀬がどこまでもどこまでも続いていた。
「愚か君、この世界はどれもこれもがフィクションだ。本当のものなんてひとつもない。虚構ちゃんはどこにもいない。森も広場も鐘もない。鏡もない。家もない。木も花も草も人も虚構も何もない。ヤンもオレも、この世界のどこにもいない。未練もない。楽しい気持ちも悲しい気持ちも苦しみも喜びも、全部全部あるはずのない虚構。フィクション。だれかの作り物。みんな、みんなみんなみんなみんなみんな、」
黒は血液のようだった。世界の鼓動に合わせて黒は足元にドクドクと溜まって積量を増した。男は膝下までそれにどっぷりと浸かって、ズルズルと引き摺られるように奥へと進んだ。ヤンが男を追いかけるように身を捩ったけれど、もう手も足もなかったのでどうしようもないみたいだった。光る瞳でじっと見つめる。男は目も合わせない。
「そうで、ありたかった」
目も合わせずに、懐から出したものを大切そうにそっと開く。それは一枚の原稿用紙だった。隅の方は既にドロドロの黒に汚れていたけれど、まだ中心は綺麗なままで読みとるには十分だった。
満足そうに、幸福そうに、それを眺める。何度も何度も指でなぞる。今にも泣き出しそうな顔で、満ち足りた笑みを浮かべて、胸元に寄せる。
男は未練を認めたのだ。
そう思った。
ずっと一人で不遇の環境で文を書いていた。最後の一行が書けなかった。そのまま死の際に触れた。その小説が自分にとって何でもないものだと思っていた。自分の不甲斐なさを思い知らせる当てつけだとも吐き捨てたそれを、大切なものだと思いたくなかったのだ。最後の一行が書けなかったことを、完成を望んでいたことを、そのまま死んでしまう自分への未練をなかったことにしようとした。
けれど男はここに来た。虚構の世界に迷い込んだ。きっとあの鏡を見て悟ったのだ。この世界に迷い込んだ時点で、虚構などなかったことにはできないのだ。だって自身が虚構なのだから。虚構ちゃんを否定してみた。思えば虚構ちゃんがどこにもいないと言ったのは男だった。そうであってほしかったのだろうか。そうでないと、何度も考えたのだろうか。
この部屋で、ずっとフィクションにしてしまおうとした未練に向き合った。あんなに部屋が原稿用紙でいっぱいになるまで悩んだ。あれが男の未練の全てだ。それだけじゃない。男の全てだ。あの血も膿もペンもインクも陶器も花も、全て男の人生だった。
……そうか」
あの一枚。男が大切そうに抱えるたった一枚。一文を、男はずっと探していた。
「お前は……どこに帰るんだ?もう一度やり直すのか?」
「やり直す?」
男は呆れたように笑った。肩の力が抜けたように体を揺らし、ヒラヒラと手を振る。憑き物が落ちたような仕草だった。
「馬鹿言うなよ。帰ったらオレは今頃バラバラ死体になってる真っ最中だよ」
そしてあっけらかんと言い放った。何でもないことのように、心底どうでもよさそうな顔で。
……は?」
男は人を小馬鹿にしたような顔で俺を見た。その笑みは心底退屈そうな、どうでもよさそうな色をしていた。聞き覚えのある、クツクツとした声で笑う。どこか振り切れた雰囲気だけを残して男は笑う。
「言っただろ。オレが思い出したのは本当に死に際の一瞬までなんだ。……殺人鬼がいてさ。オレはそいつに殺される。……多分、痛いよ。生きたままバラバラになるのはさ」
ふと思う。
……でも、ヤンは?)
そうだ。ヤンはどうなるのだろう?さっきまでの思考の違和感に気付く。ヤンは?ヤンは男の未練ではないのか?涙を流して、身を切られて、溶かされて、尚も男を追おうとするヤンはどうなる?男が救われるのなら、ヤンはどうしてあそこにいるのだろう。
男が原稿用紙を手から離した。大切そうに抱えていた一枚を、まるで鼻紙を捨てるかのように手から零した。
「あっ……
黒に落ちて溶けてしまう!
慌てて身を動かそうとした瞬間、原稿用紙の内容が見えた。四隅が黒い。粘ついた黒の糸を引く紙。その一行目。

何も書かれていなかった。

……オレにはさ、未練があったよ。愚か君。認めたくないけど。でも、解決した。もう未練はない。愚か君、オレはさ」
細い声がした。見るとヤンが男の元に近づこうとしていた。けれど手も足もないから一ミリも進めずに踠いている。光の弱くなった目が、落ちた原稿用紙を見つめている。名残惜しそうに、恨めしそうに、灼けるような目で見ている。黒に腰まで浸かって、男は捨てたそれに目もくれない。心底退屈そうな目で、人を小馬鹿にしたような顔で笑った。

「最初から、何も生み出さない方が良かったよ」

ヤンは泣いてはいなかった。けれど視界の隅で、ヤンがひどく傷付いた表情を浮かべるのが見えた。
男はそう吐き捨てると、身を翻して黒の液体の向こうへドクドクと呑まれるように進んでいく。それはまるで入水自殺のようだった。黒と男の境界がわからなくなっていく。
「待てよ、……!」
名前を呼ぼうとして、拒否されたことを思い出す。黒は俺を連れて行く気はないようで、足を進める度に周囲の黒は消えて硬い床に変わった。追いかけようとしてしかし、
……虚構ちゃん?」

ヒラヒラと、白が舞っていた。
こんな舞台には途方もなく似つかない、無垢で無邪気で、どこまでも美しい白だった。
どうしてここに虚構ちゃんがいるのだろう。
どこからか現れた虚構ちゃんは蝶のようにチラチラと上下しながら空を舞った。そうして黒の奥へと消えて行く男に纏わり付くように、はたまた案内でもするかのようにクルクルとその周囲を回った。
虚構ちゃんが舞うたびに白い光が夢のように小さく灯って、無数の蛍になって黒に映えた。蛍はユラユラ飛び回ってこちらまでやって来る。それは小さな星空だった。その光景はあまりに現実感がなくて、気が遠くなりそうだった。
黒は虚構ちゃんの動きに合わせて踊るように波紋を作った。
……虚構ちゃんが、これをやったの?」
次に出てきたのはその言葉だった。
そんな筈はない。この黒はあまりにも虚構ちゃんの白とかけ離れ過ぎている。虚構ちゃんはこんな救い方はしない。思わず口をついて出たその言葉はしかし遠くの虚構ちゃんにしっかりと届いていたようで、虚構ちゃんは向こうから振り返って俺を見た。

「ナ〜」
ひさしぶり。

「あ……
涙が溢れた。
声が漏れた。
胸がいっぱいになった。
情緒が、思考が、何もかもが虚構ちゃんの一言でぐちゃぐちゃになっていくのを感じた。黒と黒と黒の世界に、極彩色のステンドグラスがキラキラと現れるのを見た。白い蛍は赤と黄色と青と紫と橙になって黒を彩った。
「ひさし、ぶり」
虚構ちゃんだ。
虚構ちゃんがいる!
全て忘れてしまった。今起きたこと。悲しかったこと。嬉しかったこと。苦しかったこと。笑顔。涙。光。黒。全部全部どうでもよくなってしまった。遠くから俺を見る虚構ちゃんの白が、俺にしかわからない言葉を紡ぐいつもと変わらないその声が、俺の中の全てを一瞬にして満たした。虚構ちゃん。虚構ちゃん。虚構ちゃんがいる。その感情が洪水のように何もかもを押し流して体いっぱいに流れ込んで、今にも胸が張り裂けそうだった。
確かに俺は虚構ちゃんの元に随分と帰っていなかったのだろう。男が百日と語ったあの森の中を彷徨った数分間を、今更になって実感する。どうして気が付かなかったのだろう。こんなに長い間虚構ちゃんに会っていなかったのに、どうしてわからなかったのだろう。
「虚構ちゃん。ごめんね。虚構ちゃん」
「ラ〜」
いいよ。
気がつけば目の前に虚構ちゃんがいた。虚構ちゃんは白い白いフワフワの袖で思い切り俺を抱きしめた。目の前が真っ白になって、夜が消えて、黒が赤が黄色が青が緑が紫が消えて行く。泣いても泣いても涙は虚構ちゃんの白に溶けて乾いて消えた。脳がグズグズと音を立てて溶けて行く。
それでも。
虚構ちゃんの夢を見た。何度も何度も夢をみた。虚構ちゃんが死んでしまう夢を見た。虚構ちゃんがいる夢を見た。俺の夢を見た。知らない人の手。熱くて冷たい手。声。
「愚か君」
虚構ちゃんが俺を呼ぶ声。それとはやっぱり似ても似つかない。どうしようもなく安心してしまう、その声。それはやっぱりあの夢で俺の手を引いた声ではなかった。
「虚構ちゃん」
ゆるしてね。
懇願する声は白が混じって掠れていた。それでも虚構ちゃんはフワフワの白で変わらず包んでくれる。
虚構ちゃんはゆるしてくれる。それを知っている。あの夢の手を追いたい俺を、白い声で鳴きながらゆるしてくれる。
「あの手をもう一度掴んだら」
虚構ちゃんが優しく鳴いた。どこまでもどこまでも救われる、甘くて白くて柔らかい声。黒はもうどこにもなかった。もう忘れてしまいたかった。未練も希望も絶望も、全部全部最悪だった。もう誰かの虚構も現実も散々だった。あんなフィクションは嫌だった。そんなことはわかってる。人の未練は最悪だ。しらないほうがいい。思い出さない方がいい。そんなことはわかってる。
それでも。
「俺もあんな風に消えるのかな」
それでも、何も書かれていない原稿用紙を抱きしめた男のあの顔が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。








その家には何もなかった。

さっきまで男がいた書斎の扉は跡形もなく消えていた。
もうこの家の住人は一人も見当たらなかった。

その廊下の隅に、一冊の本が落ちていた。タイトルには主人公であろう少年の名前が書かれていた。
それは何度も呼んだことのある名前だったけれど、そういえば、俺は彼の名前を彼自身から聞いたことはなかった。壊れてしまう前の彼は、名前を呼ばれる度に嬉しそうにはにかんでいたのを思い出す。

この世界では自分の名前をはっきり知っている生き物はいないのだ。生き物は、一人も。一匹も。













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