@toasdm
「傘、借りたぜ」
「やっぱり」
彼女のやっぱりは、自分の傘がなかったことに対するやっぱりではなく、傘たてに刺さっていた自分の傘が濡れていたからでもなく、その傘の畳まれ方に対するやっぱりだ。お前さん存外雑だな、とからかうように苦笑する雨彦が使った後の傘は、まるで新品のそれのようにきっちりと綺麗に、折り目正しく畳まれるからだ。
「もう少し大きい傘にしたらどうだい?」
「葛之葉さんに合わせて、ですか?」
ご明察だ、とけらけら笑う雨彦は、こうして時々、彼女の傘を拝借していくことがある。女物の傘なんて(大きさ的にも色柄的にも)使いにくいだろうに、とは思っていたが、まさか合わせてくれと言われるとまでは思ってもみなかった。傘ではカバーしきれなかったつなぎの裾をタオルで拭きながら、雨彦は冗談交じりに茶化して言った。
「大きいことはいいことだぜ?」
「濡らした裾拭きながら言われても説得力ないですよ」
「そうかい」
ステージ上の雨彦に対しては確かに、そう思う場面もあった。長い手足は動きがダイナミックに見えたし、高い背丈は人目を惹いた。しかしそれ以外の場面では、彼女は雨彦に対して不便そうと思うことの方が多かったように思う。
撮影に同行することも多々あったが、ロケバスでは長い足が邪魔そうに見えたものだし、狭い場所での撮影では頭上に細心の注意を払う必要があった。衣装さんにはいつも特別な計らいを受けていたし、今こうして事務所のソファに掛けている様子からも、快適そうという印象は微塵も感じられなかった。大きいことはいいこととは、彼女にはあまり思えなかったのだ。
「お前さんは小さいからな」
振り返らずとも彼女には、雨彦のその表情ははっきりと見えていた。にやにやと、からかうように笑うのだ。腹立たしいことに、雨彦のその表情は魅力的に見える。雨彦の持つ魅力をよりいっそう引き立てているように見える、どこかミステリアスでお茶目な笑い方は、ファンの心だけでなく彼女の心も捉えているような気がしたものだ。
しかし、小さいと言われたことについては純粋に、腹立たしさしか感じない。別に気にしているわけではないが、彼女はどちらかといえば小さい。具体的には、150センチいかない程度には小さい。雨彦とは実に45センチ以上の身長の開きがあるものだから、ソファに掛けている雨彦の前に彼女が立ってやっと、正面から顔が見えるかというくらいには、彼女の中では雨彦の顔は、常に下から見上げた顔の記憶ばかりだ。
「葛之葉さんが大きすぎるんですって」
「おかげさんでな」
何がどうおかげさんなのかは不明だが、雨彦は目の前に立つ彼女の顔を少し見上げて、にんまりと満足そうに笑った。
「お前さんを下から見上げるのも珍しい」
「小さいのだっていいもんですよ」
売り言葉に買い言葉といわんばかりに、彼女は雨彦を少し睨む。俺だって昔は小さかったんだぜ、とまた笑って、雨彦はおもむろに立ち上がりその勢いで彼女の腰をぎゅっと抱き、あろうことかそのまま自分の目の高さまで持ち上げた。
「うわ、ちょっ、葛之葉、さんっ」
「地上約190センチの展望をお楽しみください、なんてな」
傘の話題から身長の話題になり、いつの間にかこんなからかいを受けて彼女は一気に混乱する。確かに高さはあったが不思議と怖くなかったのは、雨彦の腕がしっかりと、彼女を抱きしめて固定しているせいだろうか。結構いい眺めだろう、と目の前の雨彦の顔はにやにやと、彼女を見つめている。
「わかった、わかったからおろして!」
「何がわかったんだい?」
「おっきいのいいから、もういいからおろしてください!」
ばたばたと暴れる彼女を丁寧に着地させ、わかってくれりゃいいさ、と雨彦は子供をあやすように優しく彼女の頭をぽんぽんと撫でる。なんの話してたんだっけ、と未だばくばくとうるさい胸を押さえて、彼女は記憶を手繰り寄せる。ああそういえば傘だった、と雨彦のからかいトラップから無事抜け出した彼女は、雨彦を見上げてむっとしたまま苦言を呈した。
「自分の傘使ってくださいよ、持ってないんですか?」
「いや? ちゃんとあるぜ、大きい傘が」
じゃあどうして、と聞き返した彼女をまた座って軽く見上げて、雨彦は言う。
「惚れた女にちょっかいかけて何が悪いんだい?」
またからかって、と膨らませた彼女の頬をつんとつついて、雨彦は今度は、一切のにやけを消し去った真剣な顔付きで彼女を見つめる。
「これがからかってるような顔に見えるのかい?」
「……」
ミステリアスで何を考えているかわからない、飄々とした雨彦のことは、彼女にはよくわからなかった。わかってたまるか、と気付きかけた心を傘のように閉じて、彼女はふい、とそっぽを向いた。
「雑なお前さんの代わりに、傘をキレイに畳んでやってるのさ」
「そのくらい一人でできます」
そうかい、と笑う雨彦は次の仕事の資料に目を通し始める。まさかも本当にも全て一緒に閉じてしまった彼女の心の傘は、普段雨彦に雑だ雑だとからかわれるような雑な畳み方で、かけられたちょっかいの残りはしばらく、彼女の頬から消えなかった。
彼女は、傘を上手に畳むのが苦手だった。