@toasdm
「っと」
それは、いつもの次郎の癖だった。独り身の次郎にとって、車の助手席とはつまり、買ったものを乗せるところなのだ。例えば特売の卵、例えば缶ビール。珍しく急ブレーキを踏んだ次郎は、反射的に助手席に手を伸ばす。卵やビールを落としてしまうと、無駄な出費に繋がってしまうからだ。
「……あ、ごめんね」
「い、いえ……」
ただ今日に限っては、卵やビールの代わりに、プロデューサーが乗っていた、というだけだったのだ。反射的に伸ばした手が急ブレーキの勢いで触れたのは彼女の柔らかな膨らみで、いわゆるラッキースケベというやつだった。
「いやほら、いつも卵とかビールとか乗せてるからねぇ」
「た、卵とか、ビール、落としちゃ、ダメ、ですしね」
沈黙は一番気まずくて、次に気まずいのは彼女のぎこちない対応だ。いやいや参っちゃったね、とまだ柔らかな記憶が残る左手で後ろ頭をがしがしとかいて、次郎は横目でちらりと彼女の様子を見る。
明らかな嫌悪感を浮かべている様子がないことから、あらぬ誤解は心配なさそうだ、とひとまず胸を撫で下ろす。こういったアクシデントでは、触った方も触られた方も、妙な緊張感で心臓がバクバクしてしまう。別に付き合っているとかそういうわけではなく、単に見かけたから車に乗せただけの次郎は、雰囲気もなにもあったもんじゃないよねぇ、と居心地の悪さに居住まいを正した。
「……あの」
「ん、何?」
今のは素っ気なくなかっただろうか、と妙に気を回しすぎている自分に気付きながらも、次郎は努めて普通の返事をする。運転中は隣をまじまじと見るわけにもいかず、次郎は前方をしっかりと見ながら声と気持ちだけで彼女を見る。左のミラーを確認するついでに一瞬見た彼女の顔は赤かったように見えた。
「…………わ、私気にしてませんから」
「あ……そ、ね」
そうやって言われると余計気になっちゃうんだよねぇ、と次郎は内心頭を抱える。だってそれ絶対嘘でしょ、俺に気を使っちゃってさぁ、と彼女のいじましさが次郎の胸をぎゅう、と締め付ける。もしかしたら、男の人にそういうことされたことないのかも、まで考えて、次郎は己の浅ましさを呪った。
えーこういう時何を言えばいいの?意外とおっきかったね、着やせする?とかアウト過ぎるでしょ、柔らかかった、とか感想系は絶対ダメ。いやでも、結構あったよねぇ……プロデューサーちゃんの胸。
「いやいや」
「え?」
暴走した次郎の頭が次から次へとよからぬことを考え出して、それを止めるために思わず漏れた独り言に、彼女は反応する。なんでもないよ、と有耶無耶にごまかして、次郎は事務所の前で車を止めた。
「ほい、到着」
「あ、ありがとうございます……」
明らかに動揺が残る彼女の態度から推測するに、本当に、次郎に触れられた先ほどのあれが初めてなのかもしれない、と邪な考えが浮かんだのを、頭の中のミニ次郎が大きなハンマーでぴこぴこと潰すイメージで次郎は押さえ込む。もう一度、シートベルトを外しながらありがとうございましたと礼をする彼女がドアを開ける直前に、その一言は投げかけられた。
「……お、お礼に、ちゃんと揉みます?」
「はいっ!?」
い、今あんた何言ったのか、わかってんの!?
次郎の動揺は声には出ずに、ばくばくと激しい心音になる。
「冗談ですなんでもないです私戻りますありがとうございました」
息継ぎなしで五秒かからずそう告げて車を降りて事務所に駆け込んだ彼女の背中を見送りながら、次郎は大きな大きな、深いため息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーー……」
ノればよかった、と思わなかった言えば嘘になってしまうのが悔しい。別に俺、プロデューサーちゃんのことそんな目で見てなかったんだけど、とラッキースケベを振り返ってみるが、あんな可愛い反応されちゃたまんないよね、というところで立ち止まっておくのがギリギリだと判断した。
「卵とかビールとかさ、そういうのよりはあんたが大事だよ」
それが、今の次郎に言うことのできるギリギリラインだった。