【創作】「rain」【BL】

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2014-10-23 14:05:33

◆【あらすじ】科学者のレインは、幼少期のトラウマから自身をデータ化して電脳世界で生きることを夢見ていた。軍人のルークは、過激派からレインの身を守る為、護衛の任務に就く。雨の帳に遮られた「向こう側」で、二人は恋に落ちる。

Posted by @kafunsyou

「rain」



突然降り出した雨が、全てを洗い流していった。
暴力も、喧噪も、地面に流れた血の跡も。それは目覚める直前に見る悪夢のようで。雨の帳は、世界と少年をほんの少し遠くする。

「レイン、窓を閉めなさい」

背後から飛んできた兄の厳しい声に、レインは飛び上がって振り向いた。二回り年上の長兄は、断固とした足取りで窓に近づき、音を立てて閉める。

「あの、あの人達は・・・・・・」

レインの言葉は、兄の視線に遮られた。触れてはいけない事柄なのだと、幼いながらも理解して、レインは口ごもる。重苦しい沈黙の後、大きな手が頭を撫でた。

「おいで。お茶にしよう」

兄の穏やかな声音に、幼い弟はほっと息を吐く。兄に手を引かれるまま、窓の閉められた部屋を後にした。


幼い頃に見た光景は、澱のようにレインの心に沈み、ある日突然浮かび上がる。取り囲まれ殴られ蹴られ、地面にうずくまっていた男性二人が恋人同士であり、同性愛を嫌悪する人々から暴行を受けたのだと理解したのは、レイン自身が己の性的指向を自覚したのと同時だった。
そして、取り囲んだ人々の中に、父と次兄を見たのは自分の勘違いではなく、母も姉も、長兄さえも黙認していたことを知る。

その時から、レインは、この世界と雨の帳で隔たれた。



朝のニュースで繰り返し流されるデモの映像に、レインは寝ぼけた視線を向ける。
過剰な機械化に警鐘を鳴らし、自然回帰を叫ぶ人の群。レインは、彼らの衣服は草の蔓で編んだのだろうかとぼんやり考えながら、トースターにパンを押し込んだ。

『・・・・・・によりますと、彼らはこの後、マリナ通りを行進し・・・・・・』

現場に派遣されたレポーターの声を聞き流しながら、メモに買い物リストを書き殴る。何で今時手書きなんだと、自分で自分につっこみを入れてニヤニヤした。

『貸せ!』
『あっ! ちょっと!』

デモ隊の一人がレポーターのマイクを奪い、彼らの主張をがなり立てる。家庭用ロボットは人類を堕落させる悪魔の発明で、今すぐ廃棄しなければ、家族の絆は分断され、夫婦の間に修復しがたい亀裂が入り、子供達は心を持たない木偶人形になってしまうらしい。
コーヒーを入れていたレインは、あまりの言い草に苦笑を漏らした。

そうか、僕は悪魔だったのか。

今現在、急速に普及している家庭用ロボットのAIを開発したのは、レインだ。その功績から、かなりの好待遇で今の職場に引き抜かれたのだから、彼にとっては神の恩恵とも言えた。
ニュースキャスターが読み上げた原稿によれば、昨夜のデモでは、怪我人が多数出たらしい。日に日に過激さを増す行動に、レインは眉を顰める。

彼らは、医療機器での治療も拒否するのかな・・・・・・。

頑迷な迷える羊達。だが、災害が起きれば、彼らも避難救助の対象となる。拒否する相手をどう迅速に救助するか、研究中の災害避難プログラムに学習させなければと、レインは新たな課題を見つけて満足げに頷いた。



ルーク・ウィンドフォード少佐は、手渡された資料から顔を上げる。クレイグ大佐は、日に焼けた顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、年若い相手の反応を見ていた。

「内容は理解出来たかね、少佐?」
「そうですね。半分くらいは」

手の中にあるのは、AI研究に関するレイン・エリスン博士の論文。ルークが辛うじて理解できた内容が正しければ、最先端の研究だ。

「それは素晴らしい。私は、これが未知の言語で書かれた古文書だと言われても、信じてしまうよ」

上官の軽口にも、ルークは表情を変えずに指示を待つ。クレイグ大佐は、椅子の背に身を預けると、今朝のニュースは見たかと聞いてきた。

「デモについて、延々流していただろう」
「警官隊と衝突したそうですね」
「危険分子が紛れ込み始めたようだ。そそのかされて、とうとう実力行使に出始めるらしい」

クレイグ大佐は、別のファイルを机の上に放り出す。

「コンピューター関連の研究所を爆破するそうだ。ま、これは未遂で押さえたがね。だが、これで終わりではないよ。そう、次はもっと巧妙にやるだろう」
「次の計画は、もう分かっているのですか?」

ルークの問いに、大佐は天井を仰いだ。

「目星はついている。彼らは、家庭用ロボットを目の敵にしているからな」

上官の言葉に、ルークは手の中の資料へと視線を落とした。レイン・エリスン。家庭用ロボット「rain」のAIを開発した天才学者。今は、軍の依頼で災害避難プログラムを研究しているはずだ。

「分かりました」

ルークはそう言って敬礼すると、静かに部屋を辞した。



車で四十分程走れば、研究所に着く。レインは指定の場所に駐車し、のんびりした足取りで建物内に入っていった。
おはようと挨拶を交わしていると、まだあどけなさの残る青年が、足早に駆け寄ってきた。

「エリスン博士ですね! お会いできて光栄です! サインを頂いてもいいですか!?」
「えっ? ああ、はい。はい」

戸惑いながらも、レインは相手の差し出してきた雑誌とペンを受け取り、表紙にのたのたと名前を書く。

「こ、これでいいかな?」
「ありがとうございます! うわー、本物だ!」
「はいはい、サイン会はそこまでだ」

レインの同僚であるロバート・ファフナーが割って入った。白衣を肩にひっかけた姿のロバートは、学生時代からと付き合いが長い。その彼から、インターンの学生だと説明され、

「そう言えば来るんだっけ。今日から?」
「五日前からだ。学生達は偉大なるエリスン博士の姿を捜して、右往左往してたぞ」

レインは首を竦め、それは悪かったと呟いた。ロバートは、いつものことだと言いたげに肩を竦める。隣で戸惑った様子の学生に、レインは視線を移し、

「まあ、程々に頑張って。それと、僕のことはレインと呼んで欲しい。『エリスン博士』は僕の兄だよ」
「農学博士なのさ。兄弟揃ってエリートだ。君が今朝食べたパンにも、博士の特許が使われている」

ロバートが付け加えると、学生はきょとんとした顔を向けた。

「いえ、朝はいつもシリアルとヨーグルトです」

その返しと、ロバートの表情に、レインは堪えきれずに吹き出す。

「いや、失礼。ええと、頑張って」

そう言って、やぶ蛇にならないうちにと、レインはそそくさと研究室へ向かった。


扉を閉めると、レインはほっと息を吐く。与えられた個室は、一人で籠もるには丁度良い広さだ。
オーディオのつまみをひねれば、流れてくるのは雨の音。世界からほんの少し遠ざかって、レインは椅子に身を沈めた。



午後、レインが昼食を買って戻ってくると、ロバートに腕を取られて、休憩室に引きずり込まれる。簡素なテーブルの上に、紙コップに入ったコーヒーが並べられて、周囲を他の同僚達が取り囲んでいた。皆、そわそわと落ち着かない様子を見せている。

「どうしたの? またスプリンクラーが誤作動した?」
「ウィンドフォード少佐が来てるんだ。今、所長と話してる」

ロバートの言葉に、レインは首を傾げた。

「確信はないけど、知り合いじゃないと思う」
「名前くらい知ってるだろ?」

だが、レインは頭を振って否定する。

「何処かのパーティーで会ったかな? 僕は、人の名前を覚えるのが苦手で」
「エリート軍人様だぞ。この前も新聞に出てた」

レインは気のない返事をして、袋からサンドイッチを取り出し、ロバートに差し出した。

「食べる?」
「いや、いらん。何でも、いくつかの研究所に脅迫状が届いたとかで、軍の警護がつくんだと。それで、うちの指揮は少佐殿が取るんだそうだ」

レインはサンドイッチをぱくつきながら、「その人、凄いの?」と聞く。

「凄い。二十五歳で少佐だぞ。父親も軍人だったらしいから、エリートの血筋だな」
「へえ・・・・・・若いなあ。六歳下かあ。それって凄い?」
「チョースゴイ。最年少で大佐になるかもって言われてる」
「そんな優秀な人がいるなら、安心だ。あ、一ついい?」

紙コップを手に取ると、ぬるくなったコーヒーを啜り、

「軍が動いてるなら、早く研究を進めないとね。予算を削られたら大変だ」



部屋に戻ったレインは、サンドイッチの袋を机に投げ出し、乱暴に一番下の引き出しを開けた。中に入れておいたノートパソコンを取り出し、鞄に移し替える。

万が一にも、見つかったら・・・・・・!

鞄を抱き締め、椅子に身を沈めた。脅迫状が届いたのは研究所、自宅までは足を踏み入れないだろう。常に持ち歩くよりは、自宅に隠す方が安全か。レインは溜め息を吐いて、目を閉じた。

もう少し待ってくれれば、僕はこの世界から消えるよ・・・・・・。

生体のデータ化。過去に行われた実験の悲惨な結果から、現在は禁止されている研究だ。だが、それこそがレインの望み。自身をデータ化し、肉体を捨てる。雨の帳に隔たれたこの世界で生きるのは、もう限界だから。

僕はただ、研究が続けられれば、それでいいんだ。

過激派の主張にも、エリート軍人にも、興味はない。ただただ、邪魔をしないでくれと祈る気持ちだった。



「お会いできて光栄です、エリスン博士」

目の前の相手から手を差し出され、レインはおどおどと握り返す。何故か所長に連れられて、例の「エリート軍人様」がやってきたのだ。

「こ、こちらこそ、光栄です・・・・・・ウィンフィールド少佐」
「ウィンドフォードです」

眉一つ動かさずに訂正され、レインはごにょごにょと謝罪を呟きながら、身を竦める。
所長から、少佐がAIの研究に興味を持っていること、レインから研究内容を説明して欲しいことを告げられた。一瞬、拒否しようかと口を開き掛けたが、思い直して曖昧に頷く。恐らく、所長も考えていることは同じなのだ。

『彼の機嫌を損ねたら、予算を削られるかもしれない』

軍関係の依頼を引き上げられたら、研究所の存続すら危うい。協力するに越したことはないのだ。
所長は、少佐をレインに押しつけた後、長居は無用とばかりに部屋を出ていく。気詰まりな沈黙の中、口を開いたのはウィンドフォード少佐のほうだった。

「エリスン博士は、家庭用ロボットのAIを開発したとお聞きしましたが」
「あー・・・・・・僕のことは、レインと呼んでください。エリスン博士は、僕の兄です」

相手は一瞬訝しげな顔をした後、了承の印に頷いて、

「では、私のことはルークと呼んでください」
「はい?」
「ウィンドフォード少佐は、私の父です」

からかわれているのかと思ったが、ロバートが「父親も軍人だ」と言っていたのを思い出す。自分から言い出した以上、拒否することも出来ず、レインは「・・・・・・はい」と頷いた。

「ええと、あの、何から説明しましょうか・・・・・・」
「貴方の研究について。ただ、私は門外漢なので、的外れな質問をしてしまうことかもしれません」
「あっ、それは、あの、はい、大丈夫、です・・・・・・」

にこりともしない少佐から、レインはおどおどと視線を逸らす。

この人は苦手だ・・・・・・。

厳格な雰囲気が、長兄を思い出させた。あの日見た、兄の険しい視線が脳裏に蘇る。それでも、レインはキャビネットからファイルを取り出して、基礎的な説明から始めることにした。




定時を告げるチャイムが鳴り響き、レイン博士が顔を上げる。博士の熱心な講義は、ここまでのようだ。

「あ、えーと、今日はここまでにしましょうか」
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした」

ルークの謝罪に、博士は驚いたように顔の前で手を振り、

「え? あっ、いえ、こちらこそ。長々とすみません。退屈でしたでしょう」
「いいえ、大変興味深く拝聴しました」

実際、博士の説明は平易な言葉で分かりやすい。基礎を噛み砕いて教えてくれたおかげで、ルークは、あの論文の内容がもう少し理解出来る気がした。

「博士は、教えるのがお上手ですね」
「あははは、皆が貴方のように飲み込みが早いと楽なんですが」

レイン博士が、机に散らばった書類を片づけようと腰を浮かせた時、椅子の背側にあった鞄が床に落ちる。ルークが拾い上げようとしたら、横から勢いよく奪い取られた。視線を向けると、恐怖に固まった相手の顔。

「あっ! す、すみません!」
「いえ、こちらこそ。大切なものなのですね」

平謝りしてくる博士に、ルークは何でもない風を装い、言った。レイン博士は、しきりに「大切な資料が」と繰り返す。

「帰りは車ですか?」
「へ!? あっ、はい、あの、はい」
「不安があるなら、部下に送らせますが」

ぎょっとした顔の相手に、ルークは、「大切なものなのでしょう?」と鞄を示した。

「連中が、貴方の研究成果を狙わないとも限りません」
「い、いえいえいえ! あのっ、仕事は持ち帰らない主義なので! 大丈夫です!」

「大切な資料」とやらは、仕事に関するものじゃないのか?

だが、怯える相手を刺激しないよう、ルークはゆっくり頷く。

「そうですか。では、また明日。私は、まだ仕事が残っておりますので」
「あっ、そ、そうですか。た、大変ですね」
「では失礼します」

ルークは敬礼してから部屋を出た。廊下の途中に身を隠し、レイン博士が扉から顔を覗かせるのを確認する。少ししてから、博士も部屋を出てきた。きょろきょろと回りを見回してから、鞄を抱えて歩き去る博士。途中で事故を起こさなければいいがと考えながら、ルークは制服の襟元に隠したマイクに囁く。

「エリスン博士が帰宅する。目を離すな」
『了解』

くぐもった応答の声に満足し、ルークは、あの鞄の中身を確認する方法を検討し始めた。


ルークが警戒しているのは、レイン博士の暗殺よりも、彼がテロリストに引き入れられること。自主的に協力する線は薄いが、ないとも言い切れないし、それ以上に、協力させる方法などいくらでもある。
念の為、家族にも護衛をつけているが、あの鞄の中身を奪い取る方が、簡単で効果がありそうだ。

手を出したのは失敗だったな・・・・・・。

博士に余計な警戒心を抱かせてしまった。今頃、必死で隠し場所を考えていることだろう。

自宅に隠すか、持ち歩くか。どちらにしても、早急に確保する必要があるな。

クレイグ大佐から渡された論文と、研究所での博士の評価から、ルークは確信した。レイン博士は科学者として最高峰の頭脳を持ち、テロリストにとっても利用価値があると。
今はまだ、博士は自分が狙われていると思っていないだろう。狙いは研究所だと。下手に怯えさせて、研究に支障が出ては困るというのが、大佐と所長からの要請だった。

『法で禁止されていなければ、私は博士をデータ化して、永久に研究を続けて欲しいですよ。彼の頭脳を最大限に利用する為には、人の寿命は短すぎますな』

冗談めかしていたが、半分は本心だろうとルークは考える。それだけの相手を、敵に渡す訳にはいかない。

今は、信頼させることが重要か・・・・・・。

彼が自分から打ち明けるまで、どれだけの時間が掛かるだろう。あまり手間を掛けさせないでくれと、ルークは一人呟いた。



レインは、自宅のプリンターが吐き出す紙束を眺めながら、一体自分は何をしているのだろうと考える。

こんなことしても、迷惑がられるだけじゃないか・・・・・・。

半日かけてルーク少佐相手に講義を行った結果、彼の得意不得意を把握したレインは、自宅で得意分野の詳しいアプローチと、不得意分野の基礎的な解説をまとめ上げ、印刷を開始したところで我に返った。

どうせ、明日は来ないだろうし。

印刷を中止し、吐き出された紙を纏めて封筒に入れる。研究所の資源回収箱に持って行こうと、床に放り投げた。
明かりを消して、寝室へと向かう。手探りでオーディオのスイッチを入れ、流れてきた雨音に耳を澄ましながら、ベッドに横たわった。
最初は、ただ作業に集中する為に流し始めた雨音が、今では彼の生活に欠かせないものとなっている。自分の全てが雨粒となって降り注ぐ様を夢想しながら、レインはクローゼットに押し込んだ鞄の中身に意識を向けた。

早くバックアップを完成させないと・・・・・・。

ノートパソコンの隠し場所としては心許ないが、少佐の部下が家捜しすることもないだろう。長い時間をかけて、慎重に行ってきたデータ化だ。今更、水泡に帰すなど耐えられない。

どうか、邪魔をしないでくれ・・・・・・。

サーサーと流れるノイズに耳を傾けながら、レインは微睡みの中に沈んでいった。


実家の食卓に、長兄と次兄が座っている。兄弟が勢ぞろいすることなど、何年ぶりだろうか。
次兄が、笑いながら長兄を指差し、

『レイン、たまにはガールフレンドの一人や二人、連れてきたらどうだ。このままじゃ、兄さんみたいになっちまうぞ』

しかめっ面の長兄は眼鏡を押し上げ、じろりと次兄を睨んだ。

『お前のようにならないだけマシだ』
『はいはい、すいませんでしたー』

真面目で堅物の長兄と、放浪癖のある次兄。水と油のようにも見えるが、意外と仲は悪くない。

『二人とも、たまの家族団らんくらい、機嫌良く過ごせないの?』

姉の後ろから、甥が顔を出した。長兄に気がついて首を竦めると、こほんと咳払いして、

『あの、レイン博士。俺・・・・・・私のレポートを見ていただけませんか?』

かしこまった口調に笑いながら了承し、腰を上げかけた時、氷のような長兄の声が響いた。

『レイン、窓を閉めなさい』

途端に、周囲を雨のカーテンが閉ざす。倒れ伏した二人の男と、彼らから流れる赤い血を、水滴が洗い流していった。


レインは目を開けると、ぼんやりと周囲を見回す。暗い寝室に、オーディオから流れる雨音が響いていた。
ベッドの上で身動ぎし、胎児のように体を丸める。出来るなら、母の胎内に戻って、そのまま命を終えたいと願う・・・・・・。



「おはようございます、レイン博士」
「ひゃああああああ!!」

研究所の自室、扉を開けたらルーク少佐が立っていて、レインは飛び上がった。

「申し訳ありません。驚かせるつもりはなかったのですが」
「い、いや、あの、す、すみません・・・・・・」

レインはびくびくしながら室内に入る。少佐の視線が、レインの手元に向けられ、

「鞄を変えられたのですか?」
「へ? あ、ああ、あの、えっと、コ、コーヒーを零してしまって・・・・・・」
「失礼しました。些細なことが気になる質なものですから」

レインはもごもごと呟きながら、一体何の用だろうと、視線を彷徨わせた。少佐は、手に持っていたファイルを差し出すと、

「博士の論文を拝見いたしました。内容について、いくつか質問をしても宜しいですか?」
「はい?」
「ご迷惑であれば、日を改めますが」
「えっ? あ、い、いえ、大丈夫ですが、あの、ちょっと見せてください」

レインはファイルを受け取ると、中身にざっと目を通す。几帳面な字の書き込みが、ルーク少佐の熱心さを伺わせた。

「あー・・・・・・はい、はい。そうですね。ええと、それなら、先にこちらに目を通してもらったほうが」

鞄を探り、資源回収に出すつもりだった封筒を取り出す。少佐に手渡した後で、中身が不完全なのを思い出した。

「すみません、印刷が途中で、あの、インクが・・・・・・切れてしまって・・・・・・」

苦しい言い訳を絞り出しながら、レインはバタバタとパソコン前に座る。

「あのっ! 続き! 纏めますんで! 先に読んでてください!」
「ご迷惑では?」
「大丈夫です!」

いつもの癖で、オーディオのスイッチを入れる。雨音を流しながら、レインはキーボードを叩き始めた。



研究者というものは、時に突飛な行動を取る。ルークは、延々流れる雨の音を聞き流しながら、レイン博士の背中を見つめた。AIの研究についての質問は、博士の警戒心を解く為の口実でもあるし、個人的な興味からでもある。ルークは椅子を引き寄せると、腰を下ろして、博士から渡された封筒の中身を引っ張り出した。

『ルーク、今日は何の勉強をしたの? 僕に教えて』

学校から帰ると、何時も笑顔で迎えてくれたのは、「サイダー」と名付けられた家庭用ロボット『rain』。
ルークが生まれる前から父は軍人であり、母が亡くなった後も軍人であり続けた。
親戚の家に引き取られたルークは、実父の顔を写真でしか知らない。養父母はとても良くしてくれた。ルークが寂しい思いをしないように気を配り、実父のことを折に触れて話してくれもした。だが、ルークにとっての実父は、テレビや新聞、周囲の人間が伝える話の登場人物でしかない。実父の死を伝えられた時、ルークは無感動にそれを受け止めた。名前だけは知っている人物が、何処か遠くの地で亡くなった、それだけのこと。
ルークにとっての「家族」は、養父母とサイダーだった。

レイン博士と話していると、サイダーを思い出す。『rain』のAIを開発した当人を護衛する任務に着いたのは、何とも不思議な巡り合わせだ。

ふと、視線を感じてルークは顔を上げる。レイン博士が、穏やかに微笑んで此方を見つめていた。まるで、帰宅したルークを出迎えるサイダーのように。

「何処まで理解出来ましたか? 僕に教えてください」

優しい口調は、兄のサイダーそのもので。ルークは、少年時代に引き戻されたような気がした。

「はあっ!? あっ!! す、すみません!! つい癖で!!」

レイン博士が弾かれたように立ち上がったので、ルークも驚いて腰を浮かす。レイン博士は、足を滑らせたのか派手にひっくり返った。

「ひゃあああああああ!?」
「大丈夫ですか、博士?」
「だ、大丈夫です! 慣れてます!!」

その時、正午を告げるチャイムが鳴る。レイン博士はあわあわと立ち上がって、「昼ご飯買ってきます!」と叫び、部屋を飛び出していった。
一人残されたルークは、素早く机に近寄ると、引き出しを次々と開けていく。痕跡を残さないよう注意を払いながら、中身を確認していった。机が終わると、壁側のキャビネットを確認。室内のめぼしいものを粗方見終えると、パソコンに取りかかった。
書きかけのテキストは、博士が渡してきた資料の続きらしい。その他のデータに不審なものは見あたらないようだが、念の為、確認作業を続けた。



紙袋を抱えたレインが部屋に戻ると、ルーク少佐が手持ち無沙汰にキャビネットを眺めている。

「すみません、遅くなりまして」
「いえ。こちらが勝手に押し掛けているのですから、お気になさらず」

レインは机の上に散らばったままの書類を脇に寄せ、紙袋の中身を並べた。

「適当に買ってきましたが、駄目な物があったら言ってください」
「却って気を使わせてしまったようで、申し訳ありません」

代金を払おうとする少佐を押し留め、二人で買ってきた物をより分ける。

「少佐は、何故AI研究に興味を?」

コーヒーを啜りながらレインが聞くと、ルーク少佐は首を傾げて、

「意外ですか?」
「そうですね・・・・・・あの、皆さん、表面的なことは聞いてきますが、ここまで深く知りたがる人は、研究者以外にいません。テレビを買う時に、中の配線まで聞かないでしょう?」

レインの例えに、少佐はふふっと笑った。その笑顔が、思いの外子供っぽく見えて、レインはコーヒーを取り落としそうになる。

「大丈夫ですか?」
「あっ、だ、大丈夫です」

あわあわとコーヒーを机に置いていたら、「兄のことを、知りたくて」と言われた。

「お兄さん?」
「はい。家庭用ロボットですが、私にとっては兄なのです」

ルーク少佐が語る思い出話に、レインは引き込まれる。何度か、家族同然の扱いだという話を聞いたことはあるけれど、今、目の前で改めて話されると、不思議な気持ちだった。
家族に憧れがあるのだと言う少佐の気持ちが、レインには分かる。自分も、家族が欲しかった。雨のこちら側にいる「家族」が・・・・・・。


資料の続きを纏め終えたレインが、印刷してルーク少佐に渡した時、タイミング良く定時の鐘が鳴った。

「間に合わなくて、ごめんなさい」
「いいえ。これは宿題にしますから」

少佐の言葉に、レインは一瞬躊躇ってから、おずおずと切り出す。

「あ、明日、も、来られますか?」
「ご迷惑でなければ」
「ああ、はい。勿論。貴方とお話しするのは楽しいです」

それは、本心からの言葉だった。



自宅に戻ったレインは、寝室で雨の音を聞きながら、ベッドに身を横たえる。

家族、か・・・・・・。

同性の自分では、ルーク少佐の家族にはなれないなと考え、自分の考えに飛び起きた。

「い、いやいやいや! 何言って!!」

慌てて否定すると、またベッドに倒れ込む。自分が同性愛者だと自覚した時から、何度も諦めてきたではないか。まだ懲りないのかと、自分に言い聞かせた。

大体、向こうは仕事で来ているんであって、個人的な感情なんてないんだから・・・・・・。

レインは掛け布団に潜り込むと、余計なことを考えるなと念を押す。辛い思いをするのは自分なのだからと。



ルークにとって、週末を迎えるのは頭の痛い問題だった。平日は自宅と研究所の往復なので、護衛するのも楽だが、休日となるとそうも言ってられない。レイン博士に家から出るなとも言えず、ルークはさりげなく博士の予定を確認する。

「食料の買い出しに行かないと。週末にまとめ買いしてるんです」

人の気も知らないで、博士は呑気に言った。週末のスーパーマーケットは、さぞかしごった返しているだろう。しかも、またデモ行進が予定されている。この機に乗じて、博士に接触を試みられないとも限らなかった。

「後は、映画でも行こうかなと」
「・・・・・・何か、興味を引くものが上映していますか?」

暗い館内は、相手方にとって絶好の場所だ。人々はスクリーンに集中している。隣に誰が座ったか、確認する者もいないだろう。

「いえ、特には無いんですけどね」

だったら控えてくれないかと、出かかった言葉を飲み込む。この善良で、呑気な、専門分野以外に全く関心のない人物は、自分がどれだけの危険に晒されているか、分かっていないのだ。

「あ、でも、土曜は出てくるかもしれません」

レイン博士がのんびり付け加え、ルークは相手の顔をまじまじと見つめる。

「こちらに?」
「はい。学会に出席している同僚が、帰ってくるんです。その資料を見せてもらいたくて。まあ、週明けで」
「もし良ければ、私もその方にお会いしたいのですが」

途中で遮られた博士は、訝しげな顔でルークを見返した。

「はあ、では、月曜に」
「いえ、土曜日の方が」

ルークの主張をどう受け止めたかは知らないが、博士は「分かりました」と頷く。

「では、土曜に。こちらで待ち合わせしますか?」
「家までお迎えに行きます」
「ふぁ!? えっ、そんな手間をかけさせる訳には」
「お気になさらず」

出来るだけ早く、博士の身柄を確保したかった。相手は「悪いですよ」と繰り返すが、結局ルークが押し切る。
これで土曜日は乗り切れるが、問題は日曜だ。さすがに、週末を全部潰させる口実は思いつかない。ルークは思い切って、制服の内側に手を入れた。

「博士、これを」
「はい。・・・・・・はい?」

黒光りする銃身に、レイン博士が息を飲む。護身用に持っていて欲しいというルークからの提案は、派手な身振りとともに拒否された。

「あ、扱えませんよ、こんなの!」
「射撃の経験は?」
「ないない! ないです! 止めてください!」

いささか過剰とも思える拒絶だが、暴力とは無縁に生きてきたであろう相手には、刺激が強すぎたか。ルークは銃をしまうと、代わりに防犯ブザーを取り出す。

「では、こちらを。銃よりは扱い易いでしょう?」
「まあ、そうですが・・・・・・。これは必要なんですか?」
「研究所の外では、護衛もつきませんから」

表向きは、と心の中で付け加えた。ルークは、レイン博士を騙していることに罪悪感を覚え始めていたから。
レイン博士はブザーについた紐を指に絡めながら、「子供みたいですね」と笑う。

「念の為、です。週末に、またデモが行われるようですから」
「はあ・・・・・・まあ、近づきませんよ。僕だと分かったら、何をされるか」

博士は肩を竦め、シャツのポケットにブザーを滑り込ませる。少し躊躇う様子を見せてから、口を開いた。

「心配してくれるのは、職務だからですか?」

今更な質問に、ルークは眉をひそめる。他にどんな理由を想像しているのだろうか?

「それもありますが、友人として心配しています」

この数日、博士から講義を受けるのが楽しみになっていた。任務をきっかけに、彼と親しくなれたらと思う。
レイン博士は目を見開いた後、微笑みを浮かべ、

「貴方と友人になれて光栄です、ルーク」

と言った。


雨の音が満ちる寝室で、レインは胎児のように体を丸めて横たわる。浅い眠りは、心の底に沈んだ澱をかき混ぜた。

『死ねよホモ野郎!』
『この町から出て行け!』

周囲を取り囲み、罵声を浴びせる人々。レインはうずくまって、耳を塞いだ。誰かの手が、髪をつかんで無理矢理顔を上げさせる。視線の先にいたのは次兄。口汚く罵りながら、憎々しげな視線を向けてきた。
人の輪の外側に、長兄と姉がいる。氷のような眼差しが、レインの心を抉った。

知られてしまったら、もう「向こう側」にはいけない。

不意に、罵声と喧噪が消える。代わりに、ルークが目の前に立っていた。声を掛けようとしたレインの眉間に、銃口が突きつけられる。

『レイン、窓を閉めなさい』

その瞬間、レインは飛び起きた。薄暗がりの中、額の汗を拭う。
今の今まで忘れていた。窓を閉めた後、外から響いたのは二発の銃声。長兄は、車のエンジン音だろうと言っていたし、そう思い込んでいた。
彼らがどうなったのか、誰も教えてくれない。
レインはじっとりと汗をかきながら、目を見開いていた。



「おはようございます、レイン。約束は覚えていますか?」

ルークの言葉に、いかにも起きたばかりといった様子のレインは、ぼんやりと視線を彷徨わせる。乱れた髪を掻いて、寝間着の裾を引っ張り、欠伸をかみ殺したところで思い出したのか、「うわあ!」と声を上げた。

「す、すみません! 寝坊してしまって!!」
「いえ、こちらが無理を言ったのですから」
「す、すぐ支度します! あの! 中でどうぞ!」

大慌ての様子に、ルークは笑いを堪えながら、家の中へと足を踏み入れる。
狭いが、小綺麗な家だ。もっと乱雑な暮らしを想像していたが、研究の傍ら、家事もこなしているらしい。

「ごめんなさい、シャワーを浴びてきます。あ、良かったら、冷蔵庫の中に飲み物がありますので」
「どうぞお気遣いなく」

棚の雑誌は発行順に揃えられ、ソファーのクッションは綺麗なグラデーションを見せている。そう言えば、研究室のキャビネットや机も、きちんと整頓されていた。意外と神経質なのかもしれない。

これなら、侵入者があればすぐ気がつくだろうな。

レインがあたふたとバスルームに駆け込み、少しして水音が響くのを確認してから、ルークは迷いなく二階へ向かった。


突き当たりのドアを開けると、雨音が零れ出す。一瞬呆気に取られたが、オーディオから流れていることに気づき、余程好きなのだなと肩を竦めた。乱れたままのベッドを一瞥してから、クローゼットに目を付ける。扉を開け、上段に押し込まれていた鞄を見つけた。

コーヒーを零したんじゃなかったのか?

鞄の中にあったのは、ノートパソコン。立ち上げてみたが、パスワードが設定されている。
いくら博士がのんびり屋でも、そう都合良く長風呂をしてくれないだろう。解除する時間はないと判断して、ルークはパソコンを鞄にしまい、クローゼットの上段に戻した。今は、在処が分かっただけでいい。
ルークは足音を殺し、するりと寝室を抜け出した。


ルークの運転で研究所までやってきたレインは、早速同僚の部屋へと向かう。ナターシャ・エステスはすでに出勤していて、二人を出迎えた。

「お会いできて光栄です、エステス博士」
「こちらこそ、お会いできて光栄ですわ、少佐」

型通りの挨拶を交わした後、レインはナターシャから資料を受け取りながら、

「学会はどうでしたか、ナターシャ?」
「相変わらず退屈な集まりよ、レイン。酸欠になりそうだったわ」

豊満な胸を膨らませて、ナターシャは派手な溜息をつく。レインは笑いながら、同感ですよと言った。

「ナターシャ、少佐に、貴女の研究について説明してもらえませんか?」
「あら、私よりエリスン博士の方が、余程詳しいのではなくて?」

ナターシャの軽口に、レインは苦笑しながら手を振る。

「僕は門外漢ですから。コーヒーでいいですか?」
「ありがとう。出来ればミルクと砂糖もお願い」

レインは頷いて、給湯室へ向かった。


コーヒーを三つ、トレーに乗せていたら、ロバートがふらりと入ってくる。

「何だ、休日出勤とは珍しいな」
「僕より、君の方がよっぽど珍しいよ。インターンの子達の相手?」

レインの言葉に、ロバートは呆れたように天井を仰いで、

「雛鳥達は、偉大な博士のサイン会当日に、危険だからと帰されたよ。爆破に巻き込まれたら事だからな。頼むから、もうちょっと外界のことにも興味を持ってくれ」
「ご、ごめん」

レインは首を竦め、ミルクと砂糖をトレーに乗せた。

「エリート軍人様は、ミルクと砂糖をたっぷりがお好みなのかい?」
「違うよ、ナターシャの分。彼はブラック派だ」
「そりゃ、いい趣味だ。さすがエリート様は、コーヒーも女も趣味がいい」

トレーを手にしたレインは、ぎょっとして動きを止める。ロバートは一人頷きながら、

「今一番ホットな話題は、ウィンドフォード少佐がランドール将軍の娘に、何と言ってプロポーズするか、だ。俺は、ストレートに「結婚しよう」だと思うね。彼は言葉で飾るタイプじゃない」
「あっ・・・・・・恋人が、いるんだ」

レインの言葉に、ロバートは器用に小型端末を取り出し、画面を見せてきた。何かの雑誌らしく、ロゴの下に、彫りの深い顔立ちの女性が微笑んでいる。

「タリア・ランドール。退役したランドール将軍の愛娘さ。今人気のスーパーモデルだ。さすが少佐殿は、任務にも恋にも手を抜かない」
「そう・・・・・・そうなんだ。凄いね」
「何、偉大なるエリスン博士にだって、チャンスはあるさ。少佐を通して、婚約者の友人を紹介してもらえよ。その時は、俺のことも宜しく頼む」

胸を張ってポーズを取る同僚に、レインは曖昧な笑顔を浮かべた。

「うん・・・・・・良く売り込んでおくよ」
「頼むぞ。皆の期待が掛かってるんだからな」



ナターシャの研究室の前で、レインはトレイを持ち直す。

大丈夫。慣れてるから。何時も通りに。

自分に言い聞かせて、扉を開けた。「お待たせしました」と言った声は落ち着いていて、コーヒーを渡す手は震えていない。レインは、熱心に講義するナターシャを邪魔しないよう、壁にもたれて二人を見守った。
ナターシャの話を真剣に聞くルークの横顔に、胸が痛む。けれど、その痛みもいずれは消えるだろう。「いつものこと」なのだから。

正午を告げるチャイムが鳴り、レインは自分の研究室に戻った。何故かルークもついてきたので、いっそ全て確かめてすっきりしようと、レインはタリア・ランドールのことを切り出す。
ルークの返事は、「何度か食事をしたことがあります」だった。

「恋人に対して、随分淡泊ですね」

レインがからかうように言うと、ルークは首を傾げ、

「貴方にも、食事に誘う相手くらいいるでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・」

黙ってナターシャから受け取った資料を片づけるレインに、ルークも察したのか、それ以上追求してこない。レインは机の引き出しを閉めると、最大限の努力を払って、ルークの顔を見た。

「贅沢を言っていると、私のようになってしまいますよ。貴方の新しい家族に、彼女ほど相応しい女性がいますか?」

大丈夫、落ち着いて。何時も通りに。

「どうぞ、お幸せに」

レインは「昼食を買ってきます」と言って、部屋を出る。溢れてきた涙を慌てて拭うと、足早に洗面所へ向かった。



夕方、レインを送り届けた後、ルークは久しぶりに自宅へ帰る。
独身用アパートメントの一室、最低限の家具が置かれた殺風景な部屋で、パソコンを立ち上げた。
さっと件名に目を通し、不必要なメールを削除していく。多くのダイレクトメールに混じって、タリアからのものがあった。
ルークは手を止めて、無機質な文字列を眺める。

レインはどこで、タリアのことを知ったのだろう。

直ぐに思い当たるのは、レインの同僚であるロバート・ファフナーだ。遺伝子工学を専門とし、社交的で、女好きの、お喋りな風見鶏。
何故、あんな軽薄な男とレインが親しいのかと、ルークは苛立ちを覚える。
ナターシャの研究室に戻ってきた時、様子がおかしかったから、恐らくその時に吹き込まれたのだろう。タリアのことを、どう受け止めたのだろうか。きちんと説明したかったが、どう言えばいいのか分からなかった。

『貴方の新しい家族に、彼女ほど相応しい女性がいますか?』

それは間違いではない。タリアには、「軍人の妻」として求められる全てが備わっている。実際、この任務が終わったら、正式にプロポーズするつもりだったし、彼女もそのつもりでいるだろう。けれど。

何故、笑わなかった・・・・・・。

タリアのことを聞いた時の、レインの顔を思い出す。悲しげな眼差しで、こちらを見つめていた。拒むように背を向け、部屋を出ていく後ろ姿。彼がいつものように笑ってくれたら、悩むこともなかったのに。

思いはいつしか、兄のサイダーへと向かう。ルークが父と同じ道に進むと決めた時、サイダーは笑わなかった。ただ悲しげな眼差しで、「君が決めたことなら」と言っただけ。あの時から、兄との間に埋めがたい溝が出来、いつしか連絡すら取り合わなくなった。もう何年、顔を見ていないだろう。

レインとも、疎遠になってしまうのだろうか。

自分の考えに、背中がぞくりとした。任務が終われば、彼との接点はなくなる。「外界」に興味を示さないレインは、何時しか自分のことを忘れてしまうだろう・・・・・・。
ルークは、手で顔を覆い、机に肘をついた。
任務のことも、タリアのことも、サイダーのことも忘れて、ルークの思考はただ一点を堂々巡りする。

彼は何故、笑わなかったのだろう。



呻き声をあげて、レインは体を起こした。寝室を満たす雨の音を切り、ぼさぼさの髪を手で更に乱しながら、浴室に向かう。脱衣所の鏡を覗き込んで、酷い顔だと苦笑した。
シャワーを浴び終わる頃には、大分気持ちも浮上してくる。まだ、ルークのことを考えると胸が痛むけれど、それもいずれ消えるだろう。

失恋なんて、何時ものことじゃないか。

まさか、この年になって恋をするとは思わなかった、それも年下の相手に、と笑いを漏らした。彼には相応しい女性がいて、出世の道も約束されている。自分は遠くからその幸せを願うだけ。それで十分だ。
髪を拭きながらキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。乏しい中身に、そういえば食料の買い出しに行かなきゃいけないんだったと、思い出した。
テレビのリモコンに手を伸ばすが、そのまま引っ込める。どうせ、代わり映えしないニュースばかりだろう。パンをトースターに突っ込み、メモ用紙をちぎって、買い出しリストの作成に取りかかった。


日曜日のショッピングセンターは、相変わらずの人混みで。レインは、すいませんすいませんと頭を下げながら、目当ての棚に向かう。
メモ用紙に書き付けた品を籠に放り込み、次の売場へとカートを押した。

何とかリストの品を揃えて、レジを通す。そろそろ昼時なせいか、ただでさえ混雑している店内は更に混迷を増し、レインは買った品を袋に詰め込んで、ほうほうの体で駐車場へと戻った。
車のトランクを開け、買い物袋を押し込んでいると、ポケットから防犯ブザーが転がり落ちる。うっかりなくしてはルークに叱られると、慌てて拾い上げたら、

「すみません、エリスン博士ではないですか?」

振り向くと、同年代くらいの男性が立っていた。貴方の論文を読んで云々という言葉とともに握手を求められ、レインが疑問も持たずに手を差しだそうとした瞬間、光が上着を掠め、布地を切り裂く。

「うわっ!?」

驚いて尻餅をついたレインに、男が覆い被さってきた。目の前に迫る白刃を払いのけようと手を振り上げた拍子に、防犯ブザーが鳴り響く。
大音量に、男が一瞬怯んだ。異変に気がついたらしい警備員が、声を上げて駆け寄ってくる。
レインはへたり込んだまま、逃げ出す男の背中をぼんやりと見送った。



「レイン!」

連絡を受けてショッピングセンターに急行したルークは、レインが通された事務室へと駆け込む。
ちょうどコーヒーを飲もうとしていたレインは、紙コップの向こうから目を丸くしていた。

「あっつ! あ、すいません、大丈夫です、すいません」

渡されたおしぼりで顔や手を拭いている相手に構わず、その腕を取る。上着の一部が切り裂かれているが、皮膚までは到達していないようだった。「エリスン博士に怪我はありません」と報告は受けているが、実際に確かめないと気が収まらない。

「大丈夫ですか? 怪我は?」
「服を掠めただけですから。驚いたけれど、今はもう大丈夫です」

顔色は多少青ざめているものの、微笑む顔は何時も通りで、ルークは胸をなで下ろした。

「それにしても、何故此処に? 朝のニュースは見なかったのですか?」

ルークの質問に、レインはきょとんとした顔をする。またか・・・・・・と内心溜息をついて、デモのルートがこの近辺に変更になったことを説明した。

「ニュースくらい、見てるかと思いました」

レインは首を竦め、「すみません」と返してくる。これ以上責めても仕方ないと、ルークは矛先を納めた。
防犯カメラの映像は、解析に回してある。遠目だが、警備員やレインの警護についていた隊員も目視しているので、直ぐに身元は割れるだろう。

「とにかく、今日はホテルに泊まってください。自宅に戻るのは危険です。私の車で送りますから」
「えっ、でも」
「レイン。これ以上、心配させないでください」

真剣に告げると、相手もしおらしく頷いた。


流れていく景色が茜色に染まる。街灯の光が流れる筋となる様を目で追いながら、レインはバックミラー越しにルークを見た。
駐車場で襲われた時、駆けつけた男性が警備員と話しているのを聞いたと、ルークに言うべきだろうか。彼は「ウィンドフォード少佐の部下」だと説明していた。タイミング良く現れたこと、ルークにすぐ連絡が行ったこと、自宅ではなくホテルへ送られていること。さすがにレインも、自分が狙われていることに気づく。何故秘密にしているのかまでは、分からないが。
デモ隊の狙いは何だろう。やはり研究内容だろうか。レインなら、アップデートにウィルスを紛れ込ませることも可能だ。そうやって一気に破壊したほうが、手間も掛からない。
ルークが自分の研究に興味があると言い出したのも、任務の上でだったのだろう。それならそれで構わない。むしろ、そのほうが良かった。

あくまで仕事上の関係であったほうが、気が楽だ・・・・・・。

任務を終えたら、ルークとの縁は切れるだろう。そのまま忘れてしまえばいい。いつものように。

ノートパソコンだけでも、回収できないかな。

パスワードを一度でも間違えたら、データを消去するようトラップを仕掛けてあった。デモ集団に悪用される恐れはないものの、やはり水泡に帰すのは惜しい。レインは、窓の外をぼんやり眺めながら、どう理由を付けて自宅に戻るか考えていた。



殺風景な一室に案内されて、レインはベッドに腰を下ろす。何処かのラジオ局で環境音を流してくれないかなと、室内を見回した。
ルークが、簡単な作りの棚に、部屋の鍵を置く。

「此処に置きますから、無くさないように」
「ありがとう。あなたの部屋番号をメモしておいてくれますか?」

じっと向けられた視線に、レインは照れ笑いを浮かべ、「忘れてしまうかもしれないから」と返した。だが、ルークはにこりともせず、

「この部屋に泊まります」
「はい?」
「いくら何でも、自分が狙われていることくらい、気づいているでしょう?」

それはそうだけど、と言葉を濁すレインに、ルークは床を示し、

「私は此処で十分ですから。ご心配なく」
「えっ、そんな、させられませんよ、そんなこと」
「なら、一緒に寝ますか?」

冗談だと分かっていても、レインの心臓は跳ね上がる。やめてくださいと呟いて、視線を逸らした。
沈黙が落ちる。気まずさを解消しようと、レインは努めて明るい声で、

「私に張り付いていたら、恋人に会いに行く時間も取れませんね」

ルークは少し首を傾げ、「恋人などいません」と答えた。

「また、そんなこと言って。タリアさんがいるじゃないですか。彼女に怒られてしまいますよ」
「何度か、食事をしただけです」

レインの茶化しにも反応せず、真顔で返答してくるルークに戸惑いながら、「でも、噂になっています」と続ける。

「皆、賭をしていますよ。あなたが何と言ってプロポーズするか」
「下らない噂です。噂は、噂でしかない」

その固い口調に、レインが困惑していたら、近づいてきたルークに抱きしめられた。

「ひゃぁ!?」
「君を愛している、レイン」
「はぁ!? なっ、ちょっ!!」

振り払おうともがくも、相手はびくともしない。そのままベッドに押し倒され、間近で顔をのぞき込まれた。ルークの整った顔立ちに一瞬息を呑み、レインは顔を背ける。

「レイン、君の本心が聞きたい」

耳元で響く声に、レインは身を竦めた。

「あの時、何故笑わなかった?」
「えっ? あ、な、何のことか・・・・・・」

本気で戸惑っていると、ルークは、タリアのことを話した時だと言う。

「あの時、君は笑わなかった。いつも、何があっても、君は笑顔でいるのに。何故、あの時だけ笑わなかった」
「え? な、そんな、あの・・・・・・お、驚いただけですよ。貴方に恋人がいるなんて、意外だなって。それだけです。・・・・・・もう、こんな悪戯やめてください。全く、冗談が過ぎますよ」

レインはルークを押し戻そうとするが、逆に手を取られ、シーツに押しつけられた。

「それが、君の本心か?」

真顔で問いかけられ、レインは目を逸らす。

「決まってるじゃないですか・・・・・・何でそんな」
「だったら、何故笑わない?」

ルークの言葉に、レインは唇を引き結んだ。まるで笑い方を忘れたかのように。

「君が、いつものように笑ってくれたら、二度と持ち出さない。今夜のことは冗談だったとして、全部忘れてくれ。私も忘れる」
「・・・・・・それで、タリアさんと結婚するんですか?」
「君が笑うなら」

レインは目を閉じて、雨の日に倒れていた二人を思い出す。雨に打たれ、赤い筋が地面に流れていった・・・・・・。

「・・・・・・笑える訳がない。貴方を愛しています、ルーク」

震える声で吐き出すと、ルークの息を吐く音が聞こえる。頬に触れる手の暖かさと、低い囁き。

「愛してる、レイン」

そろそろと顔を向けると、唇を塞がれた。互いの体に腕を回し、きくつ抱き合う。今はただ、温もりだけを感じていたかった。


穏やかなレインの寝顔を眺めながら、ルークはタリアに別れを告げた時のことを思い返す。レインが駐車場で襲われる前、彼女と会い、話をしていたのだ。レインの本心がどうであれ、自分の心は既に決まっていたから。
別れを切り出した時のタリアは、相変わらず冷静で、ただ残念そうに、「仕方ないわ」と呟いただけ。
彼女なら、幾らでも新しい相手は現れるだろう。自分は彼女に相応しくなかった、それだけのことだ。
レインが深く息を吐いて、寝返りを打つ。ルークは相手の髪を指に絡めながら、「良い夢を」と囁いた。



翌日、ルークの車で出勤するレイン。
さすがに事情が広まっているようで、皆遠巻きにこちらを見ている。人の輪にロバートを見つけ、レインは小さく手を振った。
もっとも、今は誰とも話したくないが。

研究室に入ると、まずルークが室内を点検する。レインはそわそわしながら、何度も扉の施錠を確認した。

「大丈夫、ちゃんと掛かってる」
「ひゃああ!」

後ろから抱きしめられ、レインは素っ頓狂な声を上げる。待って待ってと言いながら、慌ててルークの手を振り解いた。

「い、何時も通りに振る舞うって、言いましたよね!?」
「二人きりなのに?」

首を傾げて問うルークに、レインは視線を逸らし、

「だ、誰かが気づくかもしれない、し。そもそも、普段は鍵なんて掛けないから」
「今の状況で、開けっ放しのほうが驚かれるよ。いくら君でも、そこまで浮き世離れしてるとは思われてないさ」

そのまま抱き寄せられ、頬に口付けされる。レインは真っ赤になって、ルークの腕から逃げた。

「て、手を出すの早いですよ、ね。若いから?」

レインの言葉に、ルークは首を傾げて、「いや」と返し、

「むしろ遅いくらいだ。君と出会うのに、二十五年も掛けてしまった」

一瞬きょとんとしたレインだが、次の瞬間、首まで朱に染める。

「愛してる、レイン」

されるがままに抱き寄せられたレインは、このまま時が止まればいいと、ぼんやり考えた。



夜は、レインが強固に主張した結果、自宅へ戻る許可が下りる。家の周囲に警備員を配置し、ルークが自宅内でも警護する条件付きで、だが。

もしかしてと覚悟していたが、誰かが進入した形跡もなく、室内も荒らされていないので、レインはほっとした。
点検を終えたルークが戻ってきて、レインに声を掛ける。

「空き巣に入られているとでも?」
「え? ああ、まあ。うっかり戸締まりを忘れてるんじゃないかって、気が気じゃなかったですよ」
「それか、私の部下が家捜しをすると?」

その言葉に、レインはぎょっとして顔を上げた。ルークは真面目な顔で、こちらを見つめている。

「レイン、この際、隠し事は無しだ。私は、君が取り替えた鞄の中身に興味がある。関係ないなんて言わないでくれ。私は、君を守りたい。全力で」

レインは戸惑い、「貴方を巻き込みたくない」と、弱々しく呟いた。

「下手したら、懲戒免職になる、かも。それだけじゃなくて、あの、僕は」
「レイン」

気がついたら、ルークはすぐ目の前に立っている。伸ばされた手が、レインの頬に触れた。

「私は、君を守りたいんだ」

真剣な表情の相手に、嘘やごまかしは通用しないと悟る。

「・・・・・・寝室へ。クローゼットの中に、鞄を隠してある」

きびすを返して二階へ向かうルークの後を、レインはうなだれながらついて行った。



ルークは、レインが鞄からノートパソコンを取り出すのを、黙って眺める。
パスワードを打ち込もうとしたレインの動きが、一瞬止まった。ルークが制止しようと手を伸ばしかけた時、レインは悲しげな目で、パソコンの向きを変える。

「どうぞ」

ルークは、表示されている文字列とレインの顔を交互に見やってから、「すまない」と頭を下げた。

「君がデータを破壊するのではないかと、疑ってしまった」
「いえ・・・・・・気にしないでください。そう考えたことは事実だから」

気まずい沈黙の中、ルークはざっと目を通してから、レインに解説を求める。相手は微笑んで、「僕です」と言った。
ルークは二・三度瞬きしてから、困惑気味に口を開く。

「すまない・・・・・・意味が」
「僕、ですよ。このパソコンの中には、『レイン・エリスン』のデータが入っています。悪用されるのを防ぐ為に、パスワードを一度でも間違えたら、全てを消去する手筈になっています」

淡々と語られた驚愕の内容に、ルークは再び文字列を凝視して、

「もし、復元されたら・・・・・・?」
「ルーク、いくら僕でも、そこまで浮き世離れしていません」

ルークが顔を上げると、レインが悪戯っぽく微笑んでいた。ルークも、ふっと笑いを漏らして、体を起こす。

「ありがとう、レイン。おかげで、このパソコンも守る必要があると分かった」
「違法なデータですよ?」
「でも、君だ。私は、君を守る」

頬を染めて俯く相手を抱きしめたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えて、ルークは新たな疑問を口にした。

「何故、自分をデータ化しようと? 研究の為?」

レインは首を傾げ、「それもありますが」と言った後、ふと遠くを見るような目をする。

「窓を、閉めなさいと言ったんです」
「え? 窓?」

唐突な言葉に、ルークは寝室の窓へ視線を向けた。室内の明かりを反射したガラスは、きちんと鍵まで掛けられている。
レインは淡々とした口調で、上の兄が言ったのだと続けた。

「後で、おかしいなと思ったんです。兄は優しい人だから、怪我人を見捨てるなんて、ありえない。でも、あの時は・・・・・・」

支離滅裂に思えた言葉の羅列が、少しずつ形になっていく。
幼少期に目撃した光景と、不可解な兄の行動を理解した時、レインはこの世界を見限った。
柔らかな笑顔と、浮き世離れした態度の陰で、深い絶望を抱えていたのだ。雨の帳に遮られた、向こう側で。

「レイン」

ルークはレインの体に腕を回し、きつく抱きしめる。

「ちょっ、ルーク、痛いですよ」

レインの抗議に構わず、ルークは耳元に口を寄せた。

「私が君を守るから。この世界で生きて欲しい。何処にも行かないでくれ」
「・・・・・・・・・・・・」

沈黙の後、レインが背中に腕を回してくる。頼り無いけれど、確かな温もりが、そこにはあった。

「何処にも行きません・・・・・・貴方の側にいたい」

ルークは腕を緩めて、レインと顔を見合わせる。互いに顔を寄せ、唇を重ね合わせた。
もう、雨の音は必要ない。


程なくして、レインを襲った男が逮捕された。
研究室でその知らせを受けたレインは、安堵すると同時に、ルークがどことなく不機嫌な様子に気づく。

「ルーク、何か心配事でも?」
「ああ。他にも何人か捕まって、彼らの供述を照らし合わせた結果、研究施設を爆破する計画が判明した」

驚くレインに、ルークは手を振って、

「此処ではないし、手は打ってある。けれど、どうも罠ではないかという気がしてね」
「えっ・・・・・・つまり、囮、かな? そちらに注意を逸らして、別の施設を襲う、とか?」

レインが首を傾げて問うと、ルークに抱き寄せられた。

「ちょっ! 何!?」
「さすがエリスン博士。良く出来ました」

頬にキスされ、レインは身を竦める。

「もう、やめてください。僕も貴方のことを、ウィンドフォード少佐と呼びますよ?」
「それより、その話し方を止めて欲しい」
「え?」
「君の同僚に対しては、そんな言葉遣いをしないだろう?」

誰のことを言っているのか理解できなくて、レインは訝しげな顔でルークを見た。ここ数日、同僚達は遠巻きに顔を合わせるくらいで、言葉を交わしていない。
だが、輪の中に見たロバートの顔を思い出す。もしかして、いやでも、と逡巡していたら、ルークが苦笑を漏らし、

「分からないならいい。それより、今回の件で、私は他の現場に回されることになった。だから、君の警護は他の者が当たる」
「えっ・・・・・・あ、そう・・・・・・ですか。仕方ないですね」

寂しさが胸にこみ上げるけれど、こればかりはどうしようもないと、レインは自分に言い聞かせた。これ以上、ルークの立場を危うくしたくない。
自分のせいで、タリア嬢との結婚話を潰してしまったのだから。

「君が再度襲撃される危険性は薄いとの判断だ。それでも、行き帰りには私の部下が同行するよ」
「私のことより、貴方が心配です」
「大丈夫。その為の訓練だ」

でも、と言いかけたところで、ルークに抱きしめられる。

「大丈夫・・・・・・必ず君の元へ戻るよ、レイン」

囁き声とともに唇を塞がれ、レインはルークの腕に身を委ねた。



夕方から降り出した雨が、窓を濡らしている。レインはコーヒーを手に、ぼんやりと其の光景を眺めた。

ルークはどうしてるかな・・・・・・。

彼がレインの警護から外れて三日経つ。僅かな日数が、耐え難い程の長期間に感じられた。暫く連絡出来ないとの言葉通り、ルークからは電話もメールもない。職務の邪魔になってはいけないと、レインからも送ってはいなかった。
ただひたすら耐える。一人には慣れているはずなのに、別離の苦しみは想像以上の重さで、レインにのしかかった。
もうすぐ、終了時刻を告げるチャイムが鳴る。帰りにスーパーマーケットに寄っていいかと聞いたら、今日の警護担当は快く応じてくれた。レインは空になった紙コップを握りつぶすと、ゴミ箱に放り込む。鞄に手を入れて、中から買い物リストを書いたメモを取りだした。几帳面だな、と笑うルークの声を思い出し、レインは深い溜息をつく。

貴方に会いたいですよ、ルーク。

相手も同じように感じているだろうかと思いを馳せていたら、チャイムが鳴った。レインは立ち上がってオーディオのスイッチに手を伸ばし、そう言えば鳴らしてなかったと気づく。
ルークと過ごすようになってから、雨の音を必要としなくなっていた。

「エリスン博士、そろそろ帰宅の時間ですよ」

扉の外から、警護の担当者に声を掛けられる。レインは「直ぐに行きます」と返し、鞄を手に取った。



雨粒が、駐車場のライトを反射しながら傘を叩く。レインは車のトランクに買った品を積めながら、横で傘を差し掛けている軍人を見上げた。

「すみません、貴方が濡れてしまいますね」
「いいえ、お気になさらずに。慣れていますから」

そう言って笑った相手の左手に、シンプルな指輪がはめられているのに気づく。きっと、自分の妻にも同じようにしているのだろう。
隣にいるのがルークだったらと考え、直ぐに其の考えを押しやった。彼のことを考えるのは、一人になってから。いつか周囲に気づかれる日が来るとしても、出来るだけ先延ばしにしたかった。
レインがトランクを締めるのと、女性の呼び掛けが聞こえたのは、ほぼ同時。
そして、「ランドールさん?」という声と、乾いた銃声が響くのも。
レインがぎょっとして振り向くと、隣に立っていたはずの相手はうずくまり、太股を押さえていた。街灯に照らされて、ぬらりと光る血の筋が、雨に流されていく。
逃げるのも声を上げるのも、もう遅すぎた。
つかみかかられたレインは、濡れたコンクリートの上に引き倒される。雨に濡れた顔が、光の中に浮かび上がった。ロバートが見せてきた画像そのままの、タリア・ランドールの笑顔。

「この私が恋人を男に取られるなんて、あるわけないでしょう?」

目の前に突きつけられた銃口と、タリアの笑みに、兄の声が重なった。

『レイン、窓を閉めなさい』

雨の帳と銃声が、レインと世界を切り離す。


病院の廊下を、ルークは驚異的な早さで駆け抜けていった。
目指す病室の扉から、丁度白衣の一団が出てくる。ルークは医者とおぼしき男性の腕を取ると、

「先生、彼は・・・・・・エリスン博士には、面会できますか?」

相手は一瞬眉を潜めたが、ルークの制服を見て納得したように頷き、改めて首を振った。

「非常に危険な状態です。面会は許可出来ません。第一、話せる状態ではありませんよ」

ルークは叫びそうになるのを堪え、「分かりました」と引き下がる。
一団が去った後、扉の外で待機していた部下が声を掛けてきた。

「少佐、博士は」
「分かっている。家族への連絡は?」
「此方へ向かっていると」
「分かった。君は、家族を迎えに行ってくれ。此処は私が引き受ける」
「え? ですが」
「いいからさっさと行け!」

ルークの突然の剣幕に、部下は慌てて敬礼すると、全力で駆けていく。部下の姿が完全に見えなくなってから、ルークは躊躇い無く病室の扉を開けた。



白く無機質な病室のベッドに、変わり果てた姿のレインが横たわっている。頭から顔の大半を包帯で覆われ、呼吸器をつけられていた。その痛々しい姿に、ルークは膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、ベッド脇に駆け寄る。

「レイン・・・・・・レイン・・・・・・!」

血の気のない手を握り、自分の頬に押し当てた。目の前の恋人の命が、風前の灯火であることを、経験から悟る。

すまない、私のせいで・・・・・・!

タリアが犯人だということは、早々に箝口令が敷かれていた。公式の発表は、テロリストによる犯行となるだろう。だが、そんなことはどうでも良かった。自分のせいで巻き込んでしまったこと、自分が側にいれば防げたとの思いが、ルークを押し潰す。

「・・・・・・私も直ぐに、君の元へ行く。愛してるよ、レイン」

囁いたその時、僅かにレインの指が動いた。ハッとして顔を上げると、薄く開かれた目が、ルークへと視線を向けている。

「レイン!?」

呼吸器の向こう側で、唇が震えた。ルークは躊躇い無く手を伸ばし、呼吸器を外した口元に耳を寄せる。
微かな、途切れ途切れの声。それが、レインの最後の言葉となった。

「・・・・・・・・・・・・」

ルークは、もはや無意味になった呼吸器を、そっと元の位置に戻す。レインの額にキスを落とし、握っていた手をベッドの上に横たえた。
目を閉じて、胸の前で十字を切る。感傷に浸っている時間はない。これが最後のチャンスなのだ。
ルークは、音もなく病室を抜け出すと、そのまま病院から姿を消した。


レインの自宅に戻ったルークは、寝室のクローゼットからノートパソコンを持ち出す。きちんと整えられたベッドに視線を投げるも、素早く家を出て車に乗り込んだ。
とにかく、時間がない。誰かに気づかれる前に。


研究所には、何処か緊迫した空気が漂っている。レインが襲われたニュースは既に伝わっているだろうが、まだ安否不明のままだろう。ルークは確固たる足取りで、レインの研究室へ向かった。
別れた時と変わらぬままの室内に、ルークは一瞬足を止める。だが、直ぐに気を取り直して、ノートパソコンを机に置いた。
此処なら、家族も直ぐには来ないだろう。
画面に現れたパスワード請求に、ルークは一文字ずつ、慎重に打ち込む。一度でも間違えれば、機会は永久に失われるのだ。どうか聞き間違いではありませんようにと、祈りながらエンターキーを押す。
真っ黒な画面に息が止まりそうになったが、直ぐに起動音がして、レインの顔が浮かび上がった。

レイン・・・・・・!

ぼやけた視界の向こうで、レインが戸惑いがちに微笑んでいる。ルークは画面の角度を変えて、カメラが自分を写すように調整した。

『おはよう、ルーク。私が起きたということは、本体は駄目だと言うことですね』

穏やかで冷静な声に、ルークも手で顔を拭いながら、「残念ながら、そういうことだ」と返す。

「後悔しているか?」
『いいえ。自分で望んだことですから。でも、貴方に触れられないのは寂しいです』

困ったように笑う顔も、穏やかな声も、生前のままだ。ルークは、画面に映るレインの頬を指先で撫で、

「レイン、私がそちらに行こう。永遠に、離れることのない世界に」

躊躇い無く発せられた言葉に、画面の向こうのレインが目を見開く。

『ルーク!? 何を!?』
「今の君なら出来るはずだ。僕をデータ化してくれ、今すぐに」
『待って、そんな急に・・・・・・。まだ、私も完璧かどうか分からないんですよ。検証して、問題がなければ』
「時間がないんだ、レイン」

ルークは拳銃を取り出すと、銃口を自らのこめかみに押し当てた。画面の向こうで、レインが悲鳴を上げる。

『ルーク! 駄目です! そんな!』
「イエスかノーかで答えてくれ! さあ!」

ルークが本気なのを感じとったのか、レインは悲しげな顔で頷いた。

『分かりました・・・・・・だから、その銃を下ろして』

拳銃をしまったルークに、レインは「後悔しませんか?」と問いかけてくる。ルークは、その言葉に笑みをこぼした。

「自分で望んだことだ。君のいない世界に、未練などないよ」



発砲音がしたとの通報に、警備員が駆けつける。彼らが見たのは、レイン・エリスン博士の机に突っ伏し、事切れた状態のルーク・ウィンドフォード少佐だった。



著名な博士と少佐の死は、センセーショナルな文句とともにネットを駆けめぐる。
公式発表では、エリスン博士の死は過激派による殺人、ウィンドフォード少佐の死は拳銃の暴発による事故となっていた。だが、自称目撃者や陰謀論を唱える者達が、その内容に反発し、様々な憶測が流れる。
次々と現れては消えていく「真相」を、「ルーク」は冷めた目で眺めていた。

『ルーク』

彼に寄り添っていた「レイン」が声を掛ける。「ルーク」は的外れな真相を遮断し、「レイン」の手を取った。あくまでデータ上の遣り取りにすぎないのだけれど、彼らにとっては、まぎれもない「現実」。

『行こうか』

二人は微笑みあい、電脳の海へと姿を消した。


終わり


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