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つくもの社 第4話

全体公開 9278文字
2019-07-14 07:41:42
Posted by @ayame0601s




 髭切さんの後をついていき、長い外廊下を歩く。
 きゅ、きゅ、と、歩く度に足元でなる音は鶯張りによるものだと、昼間の京都観光で知ったばかりだった。
 昼間、私はただ、京都観光をしていただけだったのに。
 まさかこんな事になるとは、想像もしていなかった。
 外廊下には所々、足元に明かりが灯っている。箱型の木枠に、和紙が貼られた行灯。中で灯っている明かりが、ゆらゆらと和紙に映し出されている。
 髭切さんの手にある持ち運び式の行灯は、先ほど空き部屋から持ってきたものだった。光源は彼の持つそれと廊下に置かれた行灯だけで、通り過ぎる部屋の各々に明かりはなく、外は月も出ていない。とにかく暗く、やけに広い日本家屋だった。

 ──ここでは、自分の名を言わない方がいいよ。

 髭切さんの言葉を思い起こす。なぜ、彼はあんな事を言ったのだろうか。名を知られた時、一体どんな不具合があるのか。
 髭切さんは私の名を知っている。私が言ってしまったからだ。それは、私にとって何かまずい状態を引き起こすのだろうか……
 疑問はぐるぐると胸に渦巻くも、それを直接聞くのは躊躇われた。聞くのが怖い、というのもある。得体の知れないものに、触れてしまう恐怖のような。
 そんな事を考えている間に、ふと前を歩いていた髭切さんが立ち止まった。

「ここが君の部屋だよ」

 横目で私を一瞥すると、彼は襖を開ける。立て付けが悪いのか、滑りの悪い音を立てながら開いた襖の奥は、真っ暗な一室だった。
 髭切さんはその暗闇に臆することなく、慣れた様子で部屋へ入ると手に持つ行灯を置いた。心許ない明かりが室内をぼんやり照らしあげる。
 部屋は机と小さな本棚、鏡のついた小さな化粧台があるシンプルなものだった。

「布団は押し入れにあるけど随分出してないし、かび臭いかな。あとで持ってきてあげる」
「ありがとうございます」
「お腹は空いてる?」

 言われ、自分の胃袋に問いかける。緊張と疲労で身体は疲れ果てているも、お腹は空いていなかった。

「いえ、大丈夫です」
「そう。それなら、布団持ってくるね」
「あ、あの!」

 部屋を出ていこうとする髭切さんを呼び止める。彼は振り返ると、「なに?」と小首を傾げた。

「あ……いえ、ありがとうございます」

 言おうとした言葉は呑み込み、代わりにお礼をもう一度言う。髭切さんは一瞬訝しげな視線を寄越すも、小さく口元に笑みをたたえると「どういたしまして」と言って、今度こそ部屋を出ていった。

 明日帰ります、と言えなかったのは、身に危険が及ぶかもしれないと考えてしまったからだ。彼らは人ではない。鬼ではないけれど鬼に近いもの、らしいのだから。
 それはこの道中聞いていたはずなのに、ここに来てやっと実感が押し寄せてきた。
 ここで会った、髭切さん以外の──彼らもきっと人ではないのだろう、人の姿をした、人ならざるもの。その彼らが私へ寄越す視線を受けて、急に怖くなってしまったのだ。

 あの視線や態度は、明らかに、何かしらの意図を感じるものだった。

 もしかすると、私が明日帰るとなった時、今晩、何か起こってしまうかもしれない。何が起こるのかは分からないけれど……そんな危機感を覚えた。
 それなら明日、こっそり出ていった方がいいのだろうか。それとも、もう逃げ出した方がいいのだろうか。そう、悩みが過ってしまったのだ。
 自分からついてきておいて勝手な話ではあるけれど、じわじわと足元から不安が這い上がってくる感覚がした。

 とりあえず、髭切さんが布団を持ってきてくれるまでは待機しようと、部屋を見渡す。こぢんまりとした、小さな和室だった。6畳くらいだろうか。行灯の頼りない明かりだけでは、不安を煽る。
 ふと上を見れば、天井には電気が取り付けられていた。なんだ、電気あるんじゃないか──照明に繋がっている紐に手を伸ばし、それを軽く引っ張った。

……つかない」

 かち、かち、と何度か音がなるも、明かりは点らなかった。この屋敷自体に、電気が通っていないのかもしれない。おまけに、冬の日本家屋は底冷えする寒さがある。
 もう一度、室内をぐるりと見やった。
 小さな文机にこじんまりとした本棚。誰かが使っていたのだろう。規則正しく本が整列されている。
 それに三面鏡付きの化粧台は、ここが女性の部屋だった事を示していた。
 誰か持ち主のいる家具達は、客観的に考えると気持ち悪いはずなのに、不思議とそこまで不快な感覚が無かった。綺麗に掃除されているように見えるからだろうか。
 そんな時、きゅっきゅと、鶯張りの廊下の鳴る音が耳に届いた。

「布団、持ってきたよ」

 髭切さんの声がかかる。彼は両手に抱えたそれを、よいしょ、と室内へ置いた。

「とりあえず、今日はこれで我慢して」
「あ、はい。ありがとうございます。あの、」
「ん?」
「ここのお部屋、私が使っていいんですか? どなたかのお部屋じゃ……

 言って、後悔をした。行灯の明かりしかない、薄暗い中でも分かる。
 彼の表情が、ふっと消えた。

「ああ、ここはもう使われてなくて」

 そう言った彼は何事もなかったかのように、にこりと笑んだ。

「他の部屋より掃除が行き届いてたからここにしたけど、嫌なら他でもいいよ。そうする?」
「あ……いえ、嫌なわけじゃないんです。もし誰かのお部屋なら、申し訳ないなって思って……
 
 大丈夫なら使わせてもらいます。そう言って話を締めくくる。
 何となく、タブーに触れてしまったような、そんな気がした。

 その後はお手洗いの場所と浴室の場所を教えてもらい、彼とはおやすみなさいを言って別れた。
 浴室の場所を教えてもらったものの、行く事に迷いが生じた。このままこっそり逃げ出した方がいいのか、まだ悩んでいる。
 それにこの広い屋敷の、しかも暗い中、浴室まで行くのは怖くもあった。
 どうすればいいのか、分からない。自分が置かれている状況も、まだ把握しきれていないのも本音だった。
 投げやりになり、敷いた布団に倒れこめば、思ったより柔らかい感触に受け止められる。同時に鼻を掠める香りに、まぶたは自然と重くなっていった。

 ──いい香り。

 どこか、心が落ち着くような。
 歩き疲れた身体は、布団に沈み、溶けていくように。それと共に、意識も吸い込まれていくように落ちていった。


 元より、器用であったり要領がいいわけではなかった。
 人より努力をしないと、同じ土俵に立つ事も難しい。努力をしたとしても、報われる事ばかりではなかった。
 能力というのは、生まれ持ったものだ。元から出来る人もいれば、なかなか難しい人もいる。
 私は後者だった。頑張っても、なかなか実を結べない。結果を重視するこの社会において、評価を得られなければやる気は失せ始め、やりがいも感じられなくなっていく。
 仕事に疲れていた。京都に来たのも、そんな現実から逃げたかったからだ。
 それなら、もしここが、現実世界とは離れた別世界、だと言うのなら。
 このままここに、この世界に、逃げてしまうのも有りではないだろうか──。

『主さまは、なかなか戦績が上がりませんね』

 不意に、誰かの声が頭の中でこだまする。

『敵は勢力を広げてきています。我々も、それに対抗出来るような部隊を形成していかなければいけません』

 聞いたことがあるような、けれど誰のものか分からないその声は、私に向かって話しているものだった。
 その声と話し方に、意図せず、心臓が緊張をし始める。

『主さまには、まずしっかり刀を集めていただかないと。このままの戦績では、本丸解体の危機も危ぶまれます』

 可愛らしい声なのに、毅然とした口調。
 戒められている。それは私のためを思っての言葉だと、頭では理解していた。けれど私の能力が劣っていると、非難を受けているような気持ちにもなる。
 自分では、頑張っているのだ。やれる事を必死にこなしている。それなのに、能力が組織の期待に伴わない。まるでそれを指摘されているかのような言われようで。
 心がぎゅっと狭まって息苦しい。

『通常はお薦めしないのですが、背に腹は代えられません。主さまはまず霊力の底上げをせよと、政府からの通達が来ています』

 暗闇にぼんやり浮かぶシルエットは、動物のようだった。ぼやけて、はっきり見えない。そのシルエットが、淡々と言葉を放った。

『霊力を上げる方法は幾つかありますが、その中でも──』


 ふっと言葉が途切れると同時に、意識が浮上した。
 硬直する体と、胸の内側を激しく打ち付ける心臓の音。思い出したかのように呼吸をすれば、肺は震えている。
 息を吸って、吐いて。何回かそれを繰り返せば、体の緊張は少しずつ解れていった。手のひらと洋服の下に、じわりとした汗の感触。ゆっくり体を起こし、辺りを見回した。

 ここは一体どこだろう……そう考え込んだのは一瞬だけで、すぐに寝落ちる前の事を思い出す。思い出して、肩を落とした。どうやら、不可思議な世界にきた事は夢じゃなかったらしい。
 夢、といえば。さっき、変な夢を見た。
 聞こえる声も、言われた言葉も鮮明で。感じる感情は、リアルなものだった。
 能力の低さを咎められ、身体が萎縮してしまう感覚。手は、いまだに震えていた。
 まるで今の職場のようだったと、ため息をつく。
 それにしても、あるじ、とは一体……刀、という単語が出てきていた事も、やけに引っ掛かった。

 ──僕は付喪神だよ。刀のね。

 おそらく、髭切さんの言葉に影響された夢だったのだろうと、そう結論付けた。

 部屋はやけに暗かった。どうやら、行灯の中の火が消えてしまったらしい。
 ゆっくり立ち上がり、ダメもとでもう一度、照明に手を伸ばした。紐をつまみ、軽く引く。かちっと音が鳴る。

「あれ? ついた」

 ジジジ、と鈍い音がした後、ぼんやりとした仄暗い光が部屋に行き渡る。
 電気が、ついた。つくとは思っていなかったため、少し驚く。さっきは接触が悪かっただけなのだろうか。
 そのまま何とはなしに襖を開ければ、外は先ほどの暗闇と違い、雲の隙間から月が微かに覗いていた。

 電気はついた。それに、外は月の明かりでほんのりと明るい。
 明かりがあると、人というのは安心するものらしい。
 スーツケースの中から取り出した着替えを抱え、夜の廊下を歩いた。きゅっきゅ、という鶯張りの音は、どう歩いても出てしまう。
 寝汗をかいたせいで体がべとつき、気持ちが悪かった。化粧も落としてしまいたいし、何より寒くて仕方がない。
 この不可思議な世界、たとえ明日帰るにせよ、何が起こるか分からないのだ。それなら、入れる時にお風呂に入っておいた方がいいのかもしれない──そう思い至り、電気もつくし、と浴室へと足を運ぶ。
 電気はつくとはいえ、この屋敷はつけない方針なのか、廊下は相変わらず行灯の明かりだけだった。けれど月が僅かでも出ているというだけで、薄暗さから生まれる不安感が、少しでも薄れていく。
 
 きゅ、きゅ。辺りに廊下の音が響き渡る。冬だからか虫の声もしなく、張り詰めるような冷たい空気と夜の静寂に包まれていた。
 確か、浴室へはここを曲がると言っていたはず──髭切さんの案内を思い起こし、分岐点を曲がろうとした時、ふと少し先にある明かりが目に入る。

 一室から、明かりが溢れていた。誰かがあそこに居るのだろう。

 そういえば門で会った和服の人と、何かを話し合う、と髭切さんは言っていた。会議でもしているのだろうか……議題はおそらく、私の事なのだろうけども。
 見つかる前に、と、そそくさとその場をあとにし、浴室へと足早に向かった。

「うわぁ……

 目的地である浴室に着いた途端、思わず声が漏れてしまった。浴室……というより浴場は、ちょっとした温泉施設並みの広さだったのだ。真っ暗な脱衣所も、恐る恐る電気のスイッチを入れてみれば薄暗い明かりが灯り、その広さがよく分かる。
 一般家庭にはないような数の、脱衣カゴ。髭切さん含め、この屋敷には4人だけなのかと思いきや、実はもっと居るのではないかと思うほどだった。大所帯なのだろう。そう考えると、この屋敷の広さと部屋の多さにも納得がいった。
 浴場自体も、脱衣所の広さに匹敵するようなもの。大浴場だった。湯気が立つなか、ひたひたと足を進める。造りは古く見えるものの、掃除の行き届いた空間。湯船に浸かればお湯は柔らかく、生き返る心地がした。

 ──これから、一体どうなるのだろう……

 成り行きでついてきてしまったけれど。あの時はそれしか選択肢がないように感じた。
 とりあえず明日、もう一度あの橋に行ってみよう。
 そう決意し、英気を養うように深く湯に浸かった。



「帰る?」 

 あのあと少し仮眠をとり、迎えた朝。髭切さんは、私の言葉を復唱しながら聞き返す。
 一夜明けた朝、空一面に雲が覆い、どんよりした暗さは日中とは思えないものだった。
 そんな中、一通りの準備を終えたあと髭切さんを探し、帰る旨を伝えたのだ。こっそり出ようかと一時は迷ったものの、一晩泊めてもらった身として、それはやはり失礼だろうと考え直した。
 その為、スーツケースを手に今すぐ出れる状態で髭切さんを探し、その旨を伝えれば、彼はほんの微かに眉頭を上げて私の言葉を聞き返した。

「はい。もう一度、あの橋に行ってみようと思って。泊めてくださりありがとうございました」
……そっか。それなら送るよ」

 そう言うなり、彼は背を向けて歩き出した。まさか送ってもらえるとは思っても見なく、思わず唖然としてしまう。

「え、あの、いいんですか?」
「うん、暇だし。それにあの道、一人で帰るつもりだったの?」

 問われ、昨日歩いてきた道を思い出す。確かに、不気味ではあった。それは夜だったからだと、自分を鼓舞して部屋を出たくらいだった。
 髭切さんが送ってくれるのなら、一人で帰るより随分と心強い。
 初めはどこか素っ気ないように見えたけれど、本当は優しい人なのかもしれない──そう思いながら、お礼を口にしようとしたその時だった。

「もう帰るのか?」

 突然、後ろからかかった声に、出かけた言葉を呑み込む。
 咄嗟に振り返れば、一体いつからそこに居たのか、一人の男性が廊下の柱に背を預け、佇んでいた。
 藍色の和服を身に纏い、顔には穏やかな笑みをたたえている。その服装は、神職の方が着ているのを何度か目にした事があった。狩衣、と呼ばれるものだっただろうか。それによく似ていて、その姿はどこか神々しく、目を張ってしまった。

「せっかく会えたというのに。そう焦らなくてもよいではないか」

 ゆったりとした口調のその人は、柱から離れると静かにこちらへと近づいた。
 目の前に立つその人を見上げる。柔らかい目元に、長い睫毛。すっと通った鼻筋。薄い唇は品よく弧を描いている。

「俺の名は三日月宗近。おぬしの名は何という」

 緩和な微笑みを浮かべる美しい顔立ちに、思わず見惚れてしまっていた。三日月、と名乗った彼に名を聞かれ、自己紹介をしなければ、と我に返る。
 しかしそこでふと、髭切さんの言葉が頭を過った。
 
 ──ここでは、名を言わない方がいい。

 髭切さんに目配せしたくなるも、彼は私の後ろにいる。振り返るのはあからさまだろうと、ぐっと堪えた。
 けれど、どうしたらいいのか──名乗れないのならどう返事をするべきか分からず、言葉に詰まる。

……ほう。先に何か吹き込まれたか。まあよい」

 私が言い淀んでいるからか、三日月さんは何かを察したらしい。特別気を悪くした様子もなく、狩衣の袖で口元を隠し、くすくすと笑った。

「して、帰ると言ったな。どこか当てはあるのか?」
「あ……いえ、とりあえず橋に戻ってみようと」
「橋、か」

 ふ、と何かを考えるように、三日月さんは視線をずらす。けれどすぐ、その瞳を私へと戻した。

「行く当てがなければ、また戻って来ても良いからな」

 そう言って、目尻を和らげて微笑んだ。それはまるで、橋に行っても帰れないのだと、暗に言われているようで。
 ありがとうございます、とお礼を言えば、彼は笑みを深める。そしてふと、私の後ろの方へ視線を配った。
 視線を追うように振り返れば、その先にいたのは髭切さんだった。

……悪いけど、先に門のところで待っててくれる? すぐ行くから」

 髭切さんは三日月さんの視線を受けた後、私をちらりと見てそう言った。その言葉に頷く事しか出来ない。三日月さんと、何か話があるのだろう。
 それはきっと私の事だと、そう察知すれば居心地の悪さが襲ってきて、逃げるようにその場を後にした。

 それからは誰とも会わず、髭切さんに言われた通り門の前で彼を待つ。門の両側には、昨夜と変わらず松明に火が灯っていた。曇天の重く暗い日中で、松明の明かりは仕事をしている。

 冬の刺す空気を頬に感じながら、先ほど出会った彼の事を思い出した。

 三日月、と彼は名乗っていた。それは昨晩、門の前──まさしくこの場所で出会った、白い和服姿の彼が口にしていた言葉だった。三日月を呼んでくる、と。その三日月と呼ばれていた人が、先ほどの狩衣姿の彼なのだろう。

 そういえば、あの物珍しげに見てきた白い彼の名を、聞いていなかった。

 そんな事を考えていた時だった。ふと感じた視線に、顔を上げる。
 この門から少し離れた、森の入り口。そこは昨日、髭切さんと通ってきた所だった。

 そこに、誰かがいる。

 こちらを見ていていたらしいその人と目が合えば、彼はひらひらと手を振った。その際、羽織の袖がゆったりと揺れる。
 それはまさしく先ほどまで考えていた、昨日出会った白い和服の彼だった。
 手を振られたため、ぺこりとお辞儀で返せば、今度は手招きをされた。ちょいちょい、と、こちらへ来いと言われている。
 どうしようか迷いが生まれる。昨日の物珍しげな視線や、何か含んだような言動に、どうにも苦手意識を植え付けられてしまった。
 屋敷の方へと振り向けば、まだ髭切さんの姿は見えない。
 もう一度視線を戻せば、彼は尚も手招きを繰り返していたため、小さく深呼吸して森の方へと近づいた。

「よっ。昨夜はよく寝れたかい?」
「あ、はい。おかげさまで……ありがとうございました」
「はは、俺は何もしてやれていないが。それにしても、こっちは日が出てるんだな」

 彼は世間話よろしく、空を見上げてそう言った。そんな彼につられて、顔を上げる。
 空は相変わらず厚い雲に覆われていて、日が出てている、という表現には程遠いように感じる。

「もう帰るのかい?」

 質問され、空を見ていた視線を彼に移す。昨夜も思ったけれど、人懐こい笑みを浮かべる彼はどこか中性的で、綺麗な顔立ちだった。

「はい。もう一度、橋に戻ってみようと思って」
「橋? ああ、戻橋か。それなら送ってやろう」

 そう言ったかと思えば、彼は私の手首を掴む。
 不意の出来事に肩は大きく跳ね、身体は一気に強張った。

「っ、いえ、あの、大丈夫です。髭切さんが」
「髭切……そういえば昨日、髭切が連れていたのを見たな」

 独り言のように呟けば、彼は歩き出す。手首を掴まれているせいで、彼に合わせるように足を動かした。
 掴まれている手首は、そんなに強くないものの。いささか強引な行動は圧があり、逆らえないような恐怖すら感じた。

「あ、の! 本当に大丈──」

 大丈夫、と、最後まで言えなかった。言葉を終える直前、突風が起きたからだ。
 突然、びゅっと強い風が横から吹き付ける。咄嗟に目を瞑るのと同時に、手首の圧迫感が消えた。
 何が起こったのか、分からなかった。恐る恐る目を開ければ、目の前にはもう、先ほどの彼の姿はない。

「ったく。血の気が多いなぁ」

 声が上から降ってくる。直後、木の上から誰かが飛び降りる姿が視界に入った。羽織をはためかせ、ストッと軽やかに着地したのは、私の手首を掴んでいた彼だった。

「そうさせているのは、君だろう」

 別の声がすぐ横からし、ハッとする。顔を向ければ、そこに居たのは髭切さんだった。
 肩からずれた上着を羽織り直し、目の前の彼を見据えている。
 その右手には、刃の露になった刀が握られていた。

「此処は我が本丸の領分であり、これは僕が連れてきた娘だ」

 落ち葉を踏み鳴らし、髭切さんは私の前へと静かに立つ。すぐ目の前にある彼の大きな背から、刺すような殺気が滲み、思わず息を呑んだ。

「領分、ねぇ」

 呟かれた言葉が、髭切さんへ向けられる。

「俺は森の外で手を出していないし、この娘、ここから出ようとしているように見えたが」

 各々の言葉には棘があり、張り詰める空気に身体が萎縮する。空気は一層冷たく、少しでも動けば何かが崩れるようなそんな危うさに、自然と息を殺していた。
 会話の内容は、よく分からない。けれど彼──白い和服のその人は、昨夜会った人と別人なのだろうか。
 会話を聞いていて、そう違和感が生まれる。 

「そんな、錆び付いた刀で」

 苦く笑って言い捨てた彼は、髭切さんの刀に視線を向けていた。その言葉につられるように、思わず私も刀に視線を落とす。
 言われてみれば確かに、刃物のあの輝きが無いように見える。

「きみは、いつから喰ってないんだ」

 憐れむようなその言葉はどこか不穏さを含んでいて、咄嗟に声の主へと視線を向けた。
 言葉を発した彼は私を見ると、笑みはそのままに、目元を細める。
 この時、本能が察した。
 彼は──彼らは人ならざるもので、私はただの人間で。
 そこにあるのは、捕食者と被食者の関係なのかもしれないと、直感が告げる。

「まあいい。騒がせたな」

 そう言うと、彼はひらりと片手を上げ、暗い森の中へ溶け込むように消えていった。
 心臓が、思い出しかのように早鐘を打ち出す。身体は緊張していたらしく、背中に伝う汗は冷たい。

……行こうか」

 この時やっと言葉を発した髭切さんは、刀を鞘へ戻すと、歩き出す。
 こちらへ背を向ける彼の表情は全く見えず、彼が何を考えているのかも、私には知り得ない事だった。





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