@toasdm
比較的空いている時間帯を狙ったおかげで電車の中はそこまで人口密度は高くなく、しかし座る場所はどこにもなかった。しかたなく立った彼女と道夫はつり革に掴まって、電車の揺れをやり過ごしながら車窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
「む」
ごちん、とそれなりに重ためな音がして、彼女は視線を道夫へと向ける。
「……」
その身長なら仕方ないですよ、の視線と、この身長なら仕方あるまい、の視線とが交わって、一瞬の間をおいてくすりと互いに笑いあう。道夫の額のすぐ前で、つり革はぶらぶらと揺れていた。人と人との隙間をなんとか確保してせめて眼鏡だけは守らねば、と道夫は立ち位置を微調整してそのぶらぶらをやり過ごす。ここならば、と軟着陸したポジションは、先ほどよりも彼女に近かった。
「大変そうですね」
「恥ずかしいところを見せてしまった」
同じ事務所の背丈の高い二人よりはまだいいが、と道夫は照れた笑みを見せる。笑ってもまだ年上の雰囲気をまとっているのに、よくよく見ると少し若見えするその笑い方はあまり見かけるものではなく、彼女は一瞬ドキリとして、それから「これはイケる」と謎の確信を持って心の思い出メモにそっと記した。
「でも、黒板の下の方とか大変だったんじゃないんですか?」
「うん?」
走る電車の音にかき消された彼女の小声を拾うように、道夫は少し体を傾けて彼女の方へと耳を寄せる。おお顔が近い、と一瞬たじろぐ彼女は先ほどと同じように、黒板の下の方、と繰り返して、やっと聞き取れた道夫は、ふむ、と記憶を辿るように目線を上へとあげた。
「いや、さほど苦労はしなかった」
「え、そうなんですか?」
意外です、と目を丸くする彼女に、道夫は続ける。
「しゃがんで書くことも可能だが、チョークの持ち方を変えるとしゃがまなくても書けるものだ」
「へぇ~……」
「例えば」
「?!」
彼女の気のない返事を説明不足と履き違えた道夫は、おもむろに彼女の人差し指をつまんで、即席のチョークに見立てる。混乱する彼女を置き去りにしながら道夫の説明は続いた。
「普段はこのように持つが、下の方に書く時はこうして逆に」
「わかわ、わかっ、わかりま、わかりましたわかりましたすごい、すっごいわかりやすい! わっかりやすいなぁっ!?」
「……ん?」
大げさな彼女の反応に、道夫は首を傾げて彼女の顔を見て、そして全てを理解する。あ、と短く小さく呟いて、道夫はその時初めて、自分が彼女に、馴れ馴れしく触れていたことに気がつく。
「……これはチョークだ」
「私の指ですね!」
ほどほどに人目のある衆人環視の中でいきなりの接触、立っている二人の前のシートで気まずそうに座っている他の乗客の目の前での接触に、道夫は謎の言い訳をはじめる。
「限りなく指に近いが今はチョークなのだ」
「いや絶対フル私の指です!」
「……実は私たちは付き合っているのでこうして手を繋ぐことになんら違和感はない」
「落ち着いてくださいね!?」
照れのあまり明後日の方向へ暴走する道夫もレアケースではあったが、恥ずかしさならば彼女も負けてはいないので、この珍しい道夫については彼女の心の思い出メモには記されなかった。言ってる内容滅茶苦茶ですよ!と、なんとか事態の収拾を試みようと顔を上げた彼女は、にやりと笑う道夫の表情から、おやおや?と一つの可能性に気付いた。
「……硲さん」
「なんだろうか」
「おちょくってますね?」
「はは」
君は今チョークなのだから黙っているように、とつまんでいた指をぱっと離して、道夫は今度は指を絡めて、所謂恋人繋ぎで彼女を見下ろす。離してください、とその手をぶんぶんと振りほどこうとする彼女と、君の慌てるところは珍しい、とそれを許さない道夫の攻防戦を、二人の前に座った赤の他人は「ただの痴話喧嘩か」程度に流してスマートフォンへと目線を落としていた。
もうチョークでいいですから離して、は、事実上彼女の降参のサインだった。