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[雨P♀]優しさの残り香

全体公開 1878文字
2019-07-19 17:54:40

「悪夢を見なくなるおまじない、ってやつさ」

悪夢見過ぎて寝るのが怖いPさんをアロマオイルでリラックスさせてあげる雨彦さんのお話です。

Posted by @toasdm

 がば、と目を覚まして跳ね起きるだけの元気があったのは、悪夢にうなされる毎日の最初の方だけだ。夢の後味の悪さに疲弊した精神を入れておくだけの肉体は、今はただただ、寝起きの気だるさと最低な夢とで陰鬱に張られた蜘蛛の巣に絡められてベッドに沈むだけだった。別にどうってことないはずなのに、ただの夢なのに、と理性は日常へと彼女を引っ張ろうとしていても、怖いものは怖い、嫌なものは嫌、後味悪いものは胸糞が悪い、と幼子のような柔らかな精神がそれを拒むように彼女を暗さに重く縛った。張り付いた喉の渇きに呻きながらのろのろと体を起こして、彼女は彼女を苛む悪夢の残滓を振り払うように頭を振った。
「眠れなかったのかい」
「雨彦さん……
 隣で寝返りをうった雨彦に、起こしてしまったかと謝る彼女に、気にするなよと雨彦も身を起こす。お前さん汗酷いな、と伸ばした労りの手で彼女の額を拭って、雨彦は彼女の顔を覗き込む。
「顔色も酷い……どうしたんだい、お前さん」
「いえ……大した、ことじゃ……
 寝起きであることを差し引いても青白い彼女の顔に浮かんだ絶望の色を、雨彦は拭い去るように何度も擦る。しかしそれ以上深く追求して彼女の記憶を穿り返すのも趣味が悪いか、と雨彦はそれ以上なにも言わずに彼女を抱きしめた。その抱擁がどれほど彼女の気持ちを落ち着けて救っているのかは、雨彦にはよくわからなかったが、屁の突っ張り程度にはなるだろうと彼女の悪寒が収まるまでしばらく、雨彦はそうしていた。

 そんな朝を繰り返すうちに彼女はすっかり、眠ることそのものに対しても恐怖を覚えるようになったのか、その日の夜もなかなか寝付かない彼女のところへ、雨彦は小さな手提げを持ち込んだ。
「使ってみるかい?」
「え……?」
 がさがさと包みを開けると、そこには小さなアロマランプとエッセンシャルオイルがセットで収まっていた。小さなキャンドルを取り出してアロマランプに据えて、雨彦はそれを枕元に置いてエッセンシャルオイルの小瓶を彼女に見せた。
「悪夢を見なくなるおまじない、ってやつさ」
「ラベンダー、の、ブレンドオイルですか?」
 雨彦の親指程度の小さな瓶のキャップを捻り開け、雨彦は香りを確かめる。お前さんも嗅いでみな、と彼女の鼻先へそれを向け、雨彦はフッと優しく息を吹いた。
「あ……いい香り」
「だろう? ラベンダーの精油には安眠とリラックスの効果があるらしい」
 雨彦の吐息に運ばれてきた香りは、すっと透き通ったまま彼女の鼻から体の中を正常な空気で満たして、ふわっと抜けていく。心地良さに目を細めた彼女の前、アロマポットの精油皿に少量の水を注いで、雨彦はそこにぽとぽとと、澄んだ香りを落としてキャンドルに火を灯した。
「わ……
「ほぅ……
 照明を落とした部屋の中、キャンドルの炎がゆらゆらと揺れて、透かし彫りのアロマポットの紋様が壁に淡いオレンジ色の影を落とす。嫌味のない透明な香りがその温かな光から部屋の中へとゆっくり広がっていって、二人は思わず、安心感を吐き出すようにため息を漏らした。
「これ、落ち着きますね」
 これならゆっくり眠れそう、ともぞもぞ布団に潜った彼女の頭の下に、雨彦はさっと逞しい腕を差し込んだ。
「こっちも落ち着くだろう?」
 ニッと笑ってウィンクまでして、雨彦は彼女をゆっくり胸に抱き寄せ囁いた。落ち着くけどときめいちゃうかも、と見せたゆるい笑顔は久しぶりで、その様子に雨彦も心の肌着を脱いだような気持ちになる。
「こいつもまじないさ」
 うとうとしはじめた彼女の額に唇を優しく押し当てて、雨彦はトントンと、背中をたたいて彼女を眠りへと導いた。あー、効いてきたぁ、と間延びした声はやがて穏やかで規則正しい寝息へと変わり、すっかり眠りに落ちた彼女の安らいだ寝顔を、雨彦は眠りの淵で愛しさと共に胸に抱く。
「香りには気持ちを落ち着ける効果もあるが」
 一段一段、ゆっくりと、雨彦は眠りの階段を下りていく。すぅすぅと響く彼女の寝息を子守唄に、雨彦は聞き手不在の優しさを紡ぐ。
「邪を祓い、魔を退ける効果もあるんだぜ」
 香りも炎も古来から、逢魔が刻の闇から人を護ってきたのだという。
「だから……お前さんのこともきっと護ってくれるさ――
 ちろちろとオレンジを広げているキャンドルにフッと息を吹きかけて、雨彦は寝室に静寂の闇を下ろす。

「おやすみ、お前さん」

 どうか、良い夢を。
 寝息二つの寝室に、労りと優しさの残り香は魔を遠ざけるように朝まで漂っていた。


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