@toasdm
レッスンの合間を縫っての営業、ライブ、打ち合わせ。それがいつの間にか、営業の合間を縫ってのレッスンや収録になったのはいつくらいだっただろうか。ここのところ、彼女のプロデュースの腕がよかったのか、はたまた雨彦の素養が認められたのか、もしくはもっと別な、例えば需要のようなもののせいか、スケジュールが空いている日がなくなっていた。
比率の変わってしまった忙しさでも、雨彦はいつも通り、お疲れさん、と彼女を労う余裕もあった。お疲れ様です、と返しながら、しかし彼女はその顔色に、隠しきれない疲れを汲み取っていた。
「ふぅ……」
迎えの車の助手席に座るようになったのは、確か二人が付き合いだした頃だったと記憶している。それまではリアシートに掛けていたものだから、彼女は助手席のシートを出せるだけ前に出して、雨彦の長い足を少しでも伸ばせるようにと配慮していた。
それがいつの間にか、そういう、いわゆる男女の仲になって、大人密かな付き合いをしだしてからはいつも、雨彦は隣に座るようになった。そのせいで助手席は、随分と後ろの方へと下げられている。そういった細かな変化すらも特別な感じがして、彼女は嬉しかった。
「疲れたな……」
葛之葉雨彦という人物と接するようになってから、彼女は雨彦の口から初めて、その言葉を聞いた気がする。珍しいな、とは思ったが、色濃く出た疲れから察するに、本当に、疲れきっているのだろう。
「珍しいですね」
「……ん?」
反応も、いつもより若干遅い気がする。これは本格的に疲れているんだな、とハンドルを切り、彼女は気持ち急いで、雨彦をアヤカシ清掃社へと送り届けることにした。
「雨彦さんが、疲れたって言ったの、私初めて聞いたかもしれません」
「……そうかい?」
俺だって疲れるんだがね、と苦笑するが、笑顔もどこか覇気がない。どちらかというと、太陽のようにはつらつとしたというよりは、月のように涼しげな、といった雰囲気の雨彦ではあったが、ここまで疲弊しているのも珍しく感じた。
「明日は久しぶりのオフですから、お風呂に入ってゆっくりしてくださいね」
「そうさせてもらうよ」
ありがとうな、とシートを倒して、ヘッドレストに預けた頭を彼女の方へと向ける。雨彦の顔は疲れていたが、彼女とのそんなやりとりで、幾分雰囲気はリラックスしたように感じられた。運転中はあまりまじまじと見ることができないものの、なんとなく、雰囲気で彼女は、そんな雨彦の一安心を嗅ぎ取っていた。
「さすがに連日の過密スケジュールじゃ疲れちゃいますよね」
「誰が組んだんだろうな」
「あはは……私、ですね」
人気商売だからな、と深いため息と共に、雨彦はゆっくり足を伸ばす。雨彦はオフだが、彼女は普通に仕事がある。休みを合わせることも難しい二人にとって、送迎の車の中は寸暇を惜しんだ逢瀬のようなものだ。
「なあ、お前さん」
信号でゆるやかに停車した車の中、雨彦は彼女に手を伸ばす。ギアをパーキングに入れてサイドブレーキを引き、彼女はその手をそっと握って雨彦の方を見た。
「はい」
「癒してくれよ」
「……い、やす?」
「甘やかしてくれるのでもいいんだぜ」
前の車のテールランプと、街灯と。照らし出された頬は少し色が悪いようにも見えた。癒して欲しいというのは恐らく、雨彦の本心だろう。しかしどうやって、とまごついて考えて、彼女は握った手の甲をそっとさすった。
「ええと……よし、よし……いい子ですね、よく頑張りました」
それが、今の彼女にできる精一杯の癒しだった。後ろに下げられ倒されたたシートでは頭を撫でてやることもできず、伸ばされている手だけでなんとかしなければ、と考えに考え抜いた苦肉の策だった。しかしそれは、雨彦にとっては予想外だった(あるいは特に何も考えていなかった)と見えて、一瞬きょとんとした顔をしてから、雨彦は思いっきり破顔して笑い転げた。
「っふ、はははははははっ! あー、なんだお前さん、そういうのが好きなのかい?」
「えっ、え、私、ですか?!」
ぎゅっと握り返した手は力強く、表情もどことなく元気になったように見えた。それだけみると大成功に見えるが、爆笑していることからいって、結果はオーライだが過程はもしかしたら、大失敗だったのかもしれない。おろおろする彼女が手を振りほどこうとしても、雨彦は指を絡めてにやにやと笑うばかりだ。
「されて嬉しいことをするもんだろう、普通」
「う……」
にやつく雨彦はシートを起こして、彼女に顔を近づける。もう信号変わりますから、と慌ててハンドルに戻った手にちょんと触れて、雨彦は言う。
「今度お前さんが疲れたら、俺がそうして甘やかしてやるよ」
されて嬉しいんだろう、と嬉しそうに言う雨彦の顔から、疲れがすっかり抜け切った頃。車はまもなく、アヤカシ清掃社の並ぶ路地へと入るところだった。