@toasdm
何をそんなに飲むようなことがあったかと考えてみたが、雨彦はその考える隙すら与えずに千鳥足で電柱に抱きついている。
「ああああ、葛之葉さんそれは電柱です!」
「んーーー……? っははは、あー、電柱サンか」
普段の、飄々として何を考えているのか読めないような、大人らしい雨彦の姿は今はない。あるのはただただ、ひたすらに、酔っ払った普通に男の泥酔した姿だ。電柱をべしべしと叩いて、お前さんも苦労するな、俺と同じかい、と話しかけている雨彦の様子は、彼女の中にあったアイドル葛之葉雨彦像を粉砕してしまっていた。
「もー、最近仕事詰めすぎちゃったかな……」
駅はこっちです、と打ち上げの居酒屋から無事家に帰すミッションを請け負った彼女は雨彦を呼んでみるが、そうかいそうかい、とけたけた笑うだけの雨彦は、覚束ない足取りでふらふらと、今度はポストに話しかけ始めた。
「はははははは、なんだお前さん、真っ赤じゃないか、ん? 飲んだのかい? 俺と同じかい?」
「飲んでるのは葛之葉さんだけです、それはポストです、ポストは赤いものです!」
「んぁーーー……なんだお前さん、全然飲んでねぇなぁ」
「飲みましたから、ほら、もう!」
こんなに手間のかかる雨彦を、彼女は見たことがなかった。最近雨彦にお声のかかる仕事が多かったせいもあって、羽目を外しすぎるまで飲まなければやっていられないような忙しさだったのかもしれないと思いながら仕方なく、彼女は雨彦に肩を貸した。
「ひーくーいーなー」
「うっわ重、ちょ、葛之葉さん自力で立つ努力をしてください」
「頑張ってるさ。お前さんの期待に応えるためにも、な」
急にしっかりとした口調で、雨彦は酒臭さを振りまきながら遠くを見つめる。やっぱり疲れてるのかな、と見上げた顔は真っ赤だが、真剣さは完全に失われているようには見えなかった。
「……とりあえず、お水飲みましょう」
ちょうどすぐ先にコンビニを見つけて、彼女は雨彦を支えながらなんとかそこまでたどり着く。店内のひんやりとした空気に一瞬ほっとしたのもつかの間、雨彦はふらふらと店の中をうろつきはじめる。
「葛之葉さん、お水買ってきますから、ちょっとおとなしくしててくださいね」
「んーーー……」
聞いているのかいないのか、雨彦は商品棚から飛び出た頭を振って彼女の呼びかけに返事未満の返事をする。急がないと、と奥の冷蔵ケースからミネラルウォーターを引っつかんで、彼女はレジで素早く会計を済ませた。
「ええと、葛之葉さん……」
その姿は、すぐに見つかると思ったのだが。ひょっこりと色素の薄い雨彦の髪の毛は、商品棚の上のどこからも見当たらなかった。もしかして座り込み?!と慌てて狭い店内を探してみたが、雨彦の姿は意外な場所で、意外なほどあっさりと見つけることができた。
「お前さん、お前さん!」
「な、何してるんですか、葛之葉さん」
「お前さん、これ買おうぜ!」
目線はうんと下、しゃがみこんだ雨彦はお菓子コーナーのすぐ後ろにある玩具の並ぶ一角で目をキラキラと輝かせていた。
「え、食玩……?」
これ買ってくれよ、としゃがみこんで見上げる雨彦は、手に小さな箱型のパッケージを持って彼女に見せる。お菓子のおまけに玩具がついているのか、玩具のおまけに申し訳程度のお菓子がついているのかわからないそれは、どうやらデフォルメ動物の小さなフィギュアのようだった。
「たぬき」
「可愛いだろう? 小さいなぁ、お前さんみたいだ」
これ買ってくれよ、と腕をうんと伸ばして彼女に差し出す雨彦は、お母さんこれ買って、と強請る子供の姿と重なるようで、ますます彼女は、自分の中のアイドル葛之葉雨彦像がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じて頭を抱えた。
「あの」
「買ってくれるまで動かないぜ」
「えぇぇ……ぁー……」
不覚にも、可愛いな、と思ってしまったこと。
滅多に見ることのない(むしろ初めて見た)雨彦のつむじ、仕草、子供じみたお願い。
そういった様々な要素が、彼女の苦笑を誘って、甘やかさせてしまった。
「ちゃんと、お水飲みますか?」
「飲む」
「おうち帰ってから開けてくださいね?」
「帰る」
「じゃあほら、立ってください」
「立つ」
相当に、酔いが回っているのだろう、会話までもが子供じみているようで、ああ母性本能くすぐられるっていうのはこういうあれなのかな、と彼女は雨彦と手を繋いでレジへと向かった。
「はい、お水飲んでください」
「ん」
はしゃいで疲れたのだろうか、駅まで歩く雨彦は少し大人しかった。比較的空いていた電車で最寄り駅まで座っている間も、彼女の肩に頭を預けて眠る雨彦は大人しかった。水を飲んで少し酔いが醒めたのならいいのだけれども、と肩に感じる重みと存在感に、彼女は母性と笑みとが溢れておかしな顔になっている自分を車窓に見た。
雨彦の自宅は、駅からすぐそばとはいえ、泥酔した雨彦を一人で歩かせることに不安があった彼女は家まで送ると申し出たのだが、目を覚ました雨彦は大丈夫さと一言だけ呟いて、彼女を改札の外へ出さずに一人で帰るとそれを断った。
「あの、気をつけて」
「…………ああ」
「おやすみなさい、ちゃんとお水飲んでくださいね」
「お前さん」
「はい?」
ふ、と息を吐いた雨彦は、背中を向けたまま立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「……ありがとな」
「……?」
「こいつは帰って、神棚にでも大事に飾らせてもらうさ」
カラカラとたぬきのフィギュアの食玩の箱を振って、雨彦は振り返りニッと笑った。
改札の外で振り返った雨彦の顔は、彼女がよく知っている方の雨彦の顔だった。