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蜃気楼の器5

全体公開 3760文字
2019-09-25 02:01:09

カメラマン長谷部×古物店店主酸素 というパロだ


――あの暑い日を覚えている。蜃気楼の向こうに置いたはずの心は、いつの間にか幻そのものを美しいと思ってしまった。その心だけは本物だと、彼ならば言ってくれるかもしれない。

 柊にも長谷部にも、その時が近づいていることは気づいていた。そしてそれから目を逸らすことは、おそらく彼ら自身が、最も許し難いだろう。

 冷えた空気が肌を突き刺していく。灰色に濁った空からは軽い雪が次々に落ちてきて、木々の色を失くした道を白く染め上げようとしていた。柊の元へ歩く長谷部は傘も差さず、降り注ぐ雪に身を任せ、歩道よりも白く曇る息をひとつ吐いた。この辺りの雪は風が吹かない限り積もりやすいらしく、わざわざ誂えた雪道用のブーツで、転ばないよう慎重に歩を進める。
 十二月の終わり頃、世間がにわかに騒がしくなるこの日も、長谷部は柊の元へ訪れようとしていた。なんの誘いもなかったと言われれば嘘になるが、それよりも柊に会いたいと思った。それは前向きな感情であるとともに、まるで追い立てられるような、焦りのせいでもあった。長谷部はそれをうっすらと感じているし、柊自身には更にはっきりとわかることだろう。
 道の半ばにたどり着いても、ロキの迎えはなかった。寒さに弱い猫のことだから、動けなくても当然かもしれないが、しかし長谷部にとっては、それは宣告のように感じられた。

(今日で最後かもしれない……
 
突然でもなんでもない、決まりきった出来事だった。
 古物店にたどり着けば、店の前の札は閉店中と書かれていた。長谷部の記憶にある限りそれは初めてのことで、なんだか見ていられなくて裏返して立てかけ直した。ポケットから手を取り出して引き戸の取っ手に触れる。手袋をしていないためかじかんでいるはずだったが、その手は震えてはいなかった。戸を開いた先、果たしてそこには、長谷部の予想した通り、柊は迎えに来なかった。声をかけずとも、長谷部にはその意味がわかっていた。頭と肩の雪を簡単に払って、ため息をひとつつく。無意識に詰めていた呼吸を促すためであったが、わずかに安堵の色を含んでいることを、長谷部自身も知っている。
 誘われるように、店の奥へと歩みを進めた。いつもの丸椅子は、奥の会計机の横に並べて置かれていた。その様子だけは、長谷部の心臓をひどく締め上げた。更に奥にひっそりとある扉を開けると、蝶番がすすり泣くように声をあげる。聞き慣れた音だった。ドアの先は靴を脱ぐスペースの他は一段高くなっていて、木の板の床と襖で構成された、小さな和式の居住区だ。入ってすぐ目に入る左手の襖の先が柊の寝所である。何度も訪れたこの場所は、こんな日であっても特別な気配など一切なくて、いつも通り素っ気ないままだった。だからこそ長谷部はいつも通りに、その襖を開いた。


寝所である和室の中心には一組の布団がしかれていて、その上に柊が静かに横たわっていた。長谷部にとって見慣れた光景だったが、今日のそれがいつも通りでないことは、ここに来る前からわかっている。足音を立てようと目を覚ます様子のない柊の側へ腰を下ろすと、大きく息を吸った。

「おい、起きろよ」

語りかける声は長谷部が思う以上に和室全体を震わせた。それはまさしく長谷部の思いの強さそのものであり、最後にもう一度だけ声を聞きたい、縋るような願いだった。
 一瞬の後か、それとも一時間か、曖昧な時間が過ぎて、勿体ぶるように柊がゆっくりと両目を開く。目を覚ました姿勢のまま、柊は視線を動かさない。しかしその意識がはっきりしていることは、長谷部にはよくわかっていた。

「もういいのか」

あまりにも端的な長谷部の言葉はまるで会話になどなっていなかったが、二人の間には他の誰にもわかり得ない、通じ合う何かが出来上がっているようだった。柊はその言葉に耳を傾けるようにして、再び目を閉じた。かけられた布団の胸元が一際大きく上下する。

「元々……ほんの少しの間だけ与えられた、奇跡と呼ぶ他無い時間だった……。むしろ、長すぎたくらいだ……

柊の声には悔いや未練がなかったし、その表情に終わりへの恐れは見られなかった。ただただ運命を受け入れるその姿が、今の長谷部にはなぜだかひどく腹立たしく、また悲しく思えた。

「そうじゃないだろ」
……なに……?」

長谷部は夢中で、半ば絞り出すように言葉を紡ぐ。彼自身は、自分の頭に浮かぶこの感情が、言葉が一体何に由来しているのかわかっていなかったが、それでも声を発することをやめられなかった。

「お前はこうして、またこの世界に存在することができたんだろ。それはお前の意思がそうさせたんじゃないのか。いつもいつも運命だ世界だって、こうして会えたんだからもうそんなもの捨てちまえよ」
「京輔……

長谷部にはもう何がなんだかわかっていない。言葉が理性を追い越すごとに、その声は悲痛さを増していく。喉を引き絞るように発せられる叫びは、すでに子供の駄々と同じで、理屈もへったくれもない、支離滅裂なわがままだ。そんなことは長谷部にもわかっていた。わかっていたけれど、最後に言わなければならないと強く思った。ずっと言えなかった言葉を。

「奇跡とか偶然とかそんなんじゃないんだよ。お前が強く望んだから叶ったんだ。これが夢でも幻でも、俺がお前と再開できたのは間違いないんだよ。俺の中のお前と、今のお前と、何も変わってなかった。だからいいんだよこれで!だから……お前の、望みを、願いは、」

勢いに任せた言葉たちは、次第に砕けて意味を成さなくなっていった。それは長谷部の思いが途切れたわけではなく、その涙によるものだった。彼は恥も外聞もなく、顔をくしゃくしゃと歪めて泣いていた。それでも止まない洪水のような声を聞いて、柊は長谷部を静かに見つめた。その瞳はかすかな驚きと一緒に、慰めるような色を含んでいる。こんな状態にあって尚、いっそ緊張感がないほど、柊は長谷部をあやすように手を伸ばして、止めどなく涙の溢れる頬を撫でる。そうすれば長谷部の眉尻がいっそう情けなく下がって、柊は困ったように笑った。
 長谷部は必死だった。自分の思いを伝えようとしても、内側から溢れてくる意味のわからない衝動に押し流されて、自身の願望を上手く掬いだせない。何かがあったはずだった。柊と出逢ったときから抱いていた、たった一つの望みが。すべてが夢のようで蜃気楼のようで、一瞬の後には消えてしまいそうな世界でも、絶対に失くすことのできない願いが。それは長谷部の与り知らぬ長い長い間大切に仕舞っていて、埃被って見えなくなってしまうほどのものだった。
 長谷部の苦悩を柊は知ってか知らずか、長谷部に触れる手はますます優しく、彼を宥める。長谷部がそれを思い出せるまで待ってくれると言わんばかりの、甘やかすような視線だ。涙は相変わらず流れ続けたままだが、長谷部の顔には笑みが浮かんでいた。泣いているのか笑っているのかわからない、不格好な表情ではあったが。

「俺は、お前が、」
「うん」
「お前に、」
「うん」

柊の声はどこまでも優しかった。目はすべてを包み込むように細められた。頬に添えられた手は今までで一番暖かくて、血の通った人間である事実が長谷部の心を揺さぶった。それから、すとんと落ちるように納得した。とても簡単な、子供みたいな願いだった。

「お前に言ってほしかった」
「うん」
「俺と会えてよかったって」

それだけだった。それが長谷部京輔という魂が残した願いの、たったひとつだった。それだけを言って、長谷部は口を閉じた。彼の瞳は風のない水面のように静かだ。しかし今度は柊が、その目を零さんばかりに見開いている。照明を受けてきらきらと反射する瞳が綺麗で、長谷部は思わず前のめりになって、柊の目尻に触れた。一粒だけ、静かに雫が落ちた。

(やっとだ)

長谷部の心はすべて満ち足りた。柊のその顔が見られたのを、長谷部はきっと忘れないだろう。たとえどんなに長い先の未来であっても。ふと、あの盃が思い浮かんだ。あれを気に入ったのはきっと、柊に似ていたからだ。
(俺はお前を、少しでも満たせただろうか)
柊は長谷部を見つめて、長谷部も同じように見つめ返した。彼らはとっくに覚悟を決めていた。柊は己に添えられた長谷部の手を自分の手で掬い取り、これで十分だと言うように、柔らかく握った。

「京輔」
「なんだ」

握った長谷部の手に額を押し当て、柊は呼びかけた。長谷部はこれ以上ないほど甘やかに返事をする。先ほどと立場が逆転していて、二人は同時に失笑した。続く言葉が、柊の最後の言葉になるのだろうか。長谷部は少しだけ、握る手に力を込めた。

「また会おう」

欲望の濁流に押し流されてしまいそうだった。それは強すぎるあまり呪いとも言えるような願いであり、意思であり、彼自身が初めて見せた、彼だけの欲だった。有り余る歓喜で長谷部の心は引き千切れそうに叫んだ。柊がまるで遊びに行く約束をする子供のような顔で笑うので、長谷部も心のままに笑った。それで最後だった。

 いつの間にか長谷部の意識は途切れて、暗闇へと放り出された。


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