@toasdm
秋空は高く、一希の頭上にその青を広げていた。飾るいわし雲は秋の季語だと、歌詠み好きな同い年の仲間が言っていたのを思い出す。
「女心と秋の空、か……」
移ろいやすい女心を、天気の変わりやすい秋空なぞらえたそれは、元々は、女心ではなく男心だという事を、一希は知っていた。
尾崎紅葉。金色夜叉で有名な明治の文豪の残した「三人妻」では、男心と秋の空、ヨーロッパの諺に、女心と冬日和といえりと続く。男の愛は秋空のように変わりやすく、女の感情は冬の風のように強弱が激しい、というたとえだ。しかし十九歳の一希は、年端の割にはそのような、浮ついた移ろいやすさを持ち合わせてはいなかった。
「おれは……秋空ほど器用じゃない」
ふぅ、とついたため息は、心地よい秋風に乗って事務所の屋上から街の雑踏へと運ばれて溶け消えた。
自分が彼女を好きだと気付いたのはいつだっただろうか。手を引かれて、背中を押されて、父の影として暗がりを歩いていた自分を光のど真ん中へと導いてくれた彼女という存在を、プロデューサーとしてではなく一人の人間として敬愛し、一人の女性として恋慕の情を抱くようになったのは、いつだっただろうか。ほのかな思慕は徐々に色濃く、はっきりとした境界線のないグラデーションで一希の世界を塗り替えていた。
自分の想いを自分の言葉で届けられるような自分に、一希はまだ、なれているとはいえなかった。秘密を抱えたまま生きてきた過去の自分を、一希はまだ乗り越えきっているとはいえなかった。ステージに立ち、歓声を浴び、九十九一希として必要とされ求められ、認められていく中でその頻度は減ったとはいえ、過去を振り返るとその過去に、一希の思いはまだ囚われてしまう。こんな中途半端な自分では、届かないものがあるのだと、一希は空を見上げた。
「プロデューサーは……秋空みたいに、変わったりはしない」
それは、今も変わらず一希をアイドルとして導いてくれるという点でもそうだったし、アイドルである自分を好きにはならないだろうという点でもそうだった。彼女の中にある確固たる信念は、一希には変えられない。
「……でも」
胸いっぱいに吸い込んだ秋の空気は心地よく、淀んだ悩みと引き換えに一希の中を満たした。頑張ろう、と自然と背筋が伸びるようなその感覚は、彼女が微笑みかけてくれた時と似ていた。
「こんな、大人でもない子供でもない、自分の力で漸く歩き出したばかりのおれにも、みんなにも、等しく接してくれるところは……そうかもしれない」
目に焼きつくような空の色と眩しさに、一希はすっと目を細める。
「それと」
もう一度、今度は目を閉じて、肺を空気で満たす。空ごと吸い込むようにゆっくりと、深く大きく吸い込んだ感覚は、清々しさだ。
「プロデューサーの心は、秋空のように澄んでいて」
視界いっぱいの青に、一希は手を伸ばす。
「高くて…………遠い、な」
高く、高く。手の届かない空は痛いほど澄んでいた。
「プロデューサー……」
その青に映した青い恋心は、一希の手では、届かない。この恋はまだ、あの空にすら届かない。
「今はまだ、言えないが」
指と指の隙間から漏れてくる光ごと、一希は想いを捕まえるようにぎゅっと握った。
「いつか、それがちゃんと言えるようなおれに、なります」
掴んでみせる、と決意を握り締めた一希は、思いを映したその秋空に、拳を突き上げているようだった。