@toasdm
小腹が空いたもんでね、と豪快にかじった真っ赤なりんごに、大きな一口が白を描く。親戚筋が青森からいただいたらしいその裾分けに、雨彦は事務所のソファでしゃくしゃくと、小気味よい音を立ててかぶりついていた。
「おいらせ、って品種らしい」
「おいらせ……ですか」
聞いたことないですね、と言う彼女に、俺も知らなかったよ、と雨彦は苦笑する。
「なんでも限られた生産農家しか栽培してないらしい、希少な品種だそうだぜ」
「へぇ……」
「お前さんも食ってみるかい?」
「え、うわっ」
どこから取り出したのだろうか、雨彦は丸のままのその大ぶりのひと玉を、デスクの彼女のぽんと投げ寄越す。雨彦の手の中にあったときにはさほど大きさを感じなかったそれは、彼女の手の中に収まりきらないほどに大きな実で、すん、と香りを嗅いでみれば、豊かな芳香が心の奥と胃袋を上手にくすぐった。
「わぁ……すごく、いい香りですね」
「だろう?」
味もなかなかだぜ、とかじった実から覗く蜜を見せて、雨彦は笑う。
「でも、葛之葉さんみたいに豪快にかじりつくわけにもいかないので」
私はこれで、と給湯室から果物ナイフと一緒に、ついでに彼女はティーポットも持ち出した。
「茶でも淹れるのかい?」
「ふふ、実は神谷さんに教わったんですよ」
しょりしょりと、彼女はりんごをカットして、剥いた皮をティーポットへと落としていく。へぇ、と微妙な反応を返しながら、雨彦は興味津々彼女に近付いた。
「こうやって」
切ったりんごのひとつを摘んで、ん、と目を瞠りながら、彼女は紅茶の茶葉をティーポットに入れる。そこにポットからお湯を注いで蒸らしながら、ニコニコと、ティーカップを二つ用意して言う。
「皮にも香りがついているので、紅茶と一緒にティーポットに入れると、アップルティーができるんだそうです」
「……ほぅ」
そいつは随分小洒落てるな、とつぶやいた雨彦の口調はどこか面白くなさそうだ。もう一切れ、と皿に乗せたりんごを摘んで、彼女は秋を噛み締めた。
「んーっ! ジューシーで、甘いけどさっぱりしてて、すごくおいしいですねこれ!」
「……だろう?」
彼女の絶賛を受けても、雨彦は内心、面白くなかった。同じ事務所の人間が、彼女にどうやって手ほどきをしたのか、考えるだけで面白くなかった。葛之葉さんもどうですか、と芳醇な香りの紅茶を勧められたが、それがまた、ナチュラルでくせがなく、飲みやすくて――。
「へぇ……結構本格的で、うまいな」
「ですよね!」
うまい、というのも癪だった。かたやカフェ仕込のお洒落なアップルティー、かたやりんごの丸かじりだ。勝負の世界の話じゃないが、雨彦は完全に、どことなく負けた気分になって気を揉んでいた。
「…………リンゴ酸」
「え、りんごさん?」
りんごにまでさんをつけるのかと一瞬耳を疑った彼女に、そっちのさんじゃない、と苦笑しながら、雨彦はポットに入りきらなかった皮をひとつ摘んで言った。
「リンゴ酸はアルカリ汚れが落ちやすい。シンクやなんかの水周りとか、アルミの鍋やらやかんやらの黒ずみ汚れを落とすなら最適だぜ」
「は、はぁ……?」
ちょっと擦るだけでいい、と言いながら雨彦は、例えようのない敗北感に目を閉じる。掃除の手ほどきとお洒落な紅茶とでは、端から勝負になるわけがないのだ。
「……はぁ」
完敗だな、とソファに戻った雨彦は、一人惨敗を喫してひっそりと落ち込んだ。
「ん、でも」
しゃくしゃくと、紅茶とりんごとを往復しながら、彼女は目を細めて笑う。
「こんなにおいしいりんご、私初めてです」
「……はは、そうかい」
ああクソ、悔しいな。俺はお前さんのその一言で、勝った気分になっちまう。
ありがとうございます、と朗らかに笑う彼女の笑顔を今最大限に引き出しているのは、お洒落なアップルティーではなく雨彦が彼女に分け与えたりんごだ。
勝ったな、と勝手な満足でかじりついたりんごは、先ほどよりも甘く感じた。