X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

[硲]一杯の小宇宙

全体公開 2 2143文字
2019-10-29 15:26:44

「醤油野菜チャーシュー、味玉」

硲先生がひたすらラーメン食べてるだけのお話です。

Posted by @toasdm

 一見さんと顔馴染みの中間くらいのポジション、道夫は空きっ腹と共に見知った暖簾をくぐった。十センチほど開いたままの引き戸は秋めいた空気を店内へ、絶え間なく運んでいるが中は熱気と湿気で満ちていた。この店は常夏だな、と薄く曇った眼鏡を外してカウンターに着くなり、さっと水は、道夫の前に置かれる。
「醤油野菜チャーシュー、味玉」
「はいよ」
 ふくふくと、レジ横に飾られている招き猫の置物のようなふくよかな女性がカウンターの中に入れば、すかさず店主が大釜の蓋を取りほぐした麺をバッと掴んで茹で始める。夫婦で揃いのTシャツを着てここに店を構えて、もう何年になるのだろうか。眼鏡を拭いてかけなおし、道夫はその二人の、実にシステマチックなやり取りを眺めた。
 声は一切、発さない。なのに一連の動作は完全な連携を崩さないのだ。
 店主が麺を茹で始めたのと同時に、妻の方はさっと丼を湯にくぐらせて軽く拭き、空いたスペースにすっと置く。置かれるやいなやそこに醤油のタレが入りラードが入り、その横で、もやしがフライパンでジャッと踊り出す。あれよあれよとスープが大鍋から掬い出されて、漉し網は、ついさっきまで野菜を炒めていたはずの妻の手が丼の上に差し出される。店主が麺を湯切りする僅かな時間でタレとスープを妻が合わせて、炒め野菜の出来上がるタイミングは麺の茹で上がったきっかり十二秒後。店主が麺とスープを馴染ませた直後にチャーシューとネギがこんもり盛られて、そっと味玉が添えられた一杯は、おまたせ、の声と共に道夫の前にどん、と置かれる。
 ほぅ、と感嘆の吐息を漏らしてから、道夫は再び眼鏡を外す。丁寧につるを畳んでジャケットの胸ポケットに差し、いただきます、と手を合わせて割り箸を割る。ラーメンの湯気は、眼鏡との相性が非常によくないのだ。ラーメンと対峙する時の、それは道夫の、臨戦態勢のようなものだった。
 手にしたレンゲがスープを掬い、まずは一口、ずず、とすする。途端に口の中に広がる旨みと、鼻に抜ける豊かな香り、醤油のコクとまろやかな風味が渾然一体となったその一口は、一言で言うなら至高の一口だ。私はこれを求めていたのか、と心の深くにまで染み渡る納得と、早く、もっと、と鳴る腹の催促とが、道夫の割り箸を閃かせた。
 一閃、掬い上げた麺がスープと共にレンゲを経由し、一思いに口の中へと飛び込んでくる。麺の固さも上々、食べ応えと食べやすさとを兼ね備えた、ひと噛みごとに充足感が加速度的に増していくそれは、旨み走った電流だ。もう眼鏡の曇りを気にすることもなく、はふはふと、道夫の手と口はラーメンに伸びる暇など一切与えないと言わんばかりに平らげていく。
 野菜の歯ごたえはシャキシャキと、メンマはボリボリと。噛み締めたチャーシューから迸り止まらない旨みの脂が、口の中をめくるめく味の変化で道夫の舌を飽きさせない。ネギの香りが口をリセットし、道夫は一心不乱にその一杯の小宇宙と向き合っている。
「ふぅ……
 額から滴る汗を取り出したハンカチで軽く拭って水を飲み、道夫はスープをまたひと掬いすする。うまい、と素直に口から零れたのを、しかし店内の雑音はうまくかき消している。それでいい、と不敵に笑い、道夫は最後の仕上げとばかりに麺を一気に平らげはじめた。
 すする、噛み締める、飲み込んでまたまたすすり、噛み締める。品よくしかし豪快な一口ひとくち全てが、食の喜びと空腹への癒しの感謝で縁取られた最高傑作の連続だ。そうしてすっかり麺とチャーシューと野菜とを食べつくした丼スープの中に、ちょこん、とひとつ、味玉が転がる。スープの中で十分に温められたそれを慈しむように、道夫はレンゲで掬ってそっと箸を入れた。
……
 とろり、絶妙な半熟具合の卵の黄身が、レンゲの中にゆっくりととろけだす。つるりとした白身は薄茶のタレ色に染まり、中の黄身に至っては半透明のグラデーションを広げている。ほころんだ頬に密かな笑みを浮かべたまま、まずは半分、口の中。期待していた場所に期待していた味が、期待していたように広がる至福を飲み下し、今度はレンゲから直接、スープごと道夫はすするように食べる。口の中でもそのとろみが嫌味なく広がり、まったりとした黄身のコクは適切な温度で舌全体を、いっそ暴力的なまでの深い味わいでもって包み込んでいく。
 全てが完成された丼を、とうとう道夫は両手でしっかり支え持ち、分厚い縁に口をつける。ごくり、鳴る喉は音を立て、永遠に続くかのような美味を一瞬で全て飲み干した。
……ほぅ」
 うまかった、の代わりに飛び出した吐息が全てを物語る。骨の髄まで、魂までもが満たされたような感覚に目を細めると、道夫は丼を丁寧にカウンターの上へと置いた。最後にコップ一杯の水を飲みたいような、この味わいを少しでもとどめておきたいようなもどかしさを抱えたまま、道夫は半分だけ水を飲んでそれも丼の隣に置き、眼鏡をかけた。
「ごちそうさまでした」
「はいありがとうございましたー!」
 威勢のいい返事に背中を押され、満腹感を引き連れて道夫は店を出る。
 満ち足りた体を撫でる秋風は、満足した心と汗をかいた肌にどこまでも心地良かった。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.