@toasdm
勘違いしてんだろな、と頭をがしがしかきながら、英雄は事務所を出る。惜しいことをしたと思う気持ちももちろんあったが、彼女が英雄の真意を勘違いしているのは恐らく、あらゆる意味で明白だった。
落し物を拾ったら一割もらえる、は、小学生でも知っている身近な知識だ。ただ色々と誤解があって、そして、彼女の誤解はそこではなかった。はぁ、とため息をついてふらふらと、気がつけば英雄は事務所の屋上へと続くドアを開けていた。
「ん、これ、プロデューサーのか?」
給湯室の隅に転がっていたリップクリームを、英雄は何の気なしに拾って彼女に届ける。ありがとうございます、とパッと顔を輝かせる彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いて、英雄はニッと歯を見せて笑った。
「大げさだな」
「いやいやいや、この時期のリップクリームは大事ですよ」
「なら落とすなって」
そういやもうそんな時期か、と窓の外に目をやれば、街路樹は少し色づいて、秋の気配が近付いているのがよく見える。やっぱそういうとこも女なんだよなぁ、とリップクリームを塗る仕草に例えようのない複雑なときめきを感じて、英雄は彼女から目を逸らした。
「あ、そうだ」
「んぁ?」
リップクリームで潤った柔らかそうな唇を、彼女はにんまりと綺麗な形に歪める。小悪魔めいた悪戯顔に、英雄の胸はまたどきりと高鳴る。
「落し物って、届けたら一割もらえるんですよね?」
「あーーー……それか」
何をそんなに楽しそうにしているのかはわからなかったが、彼女の言わんとしていることはなんとなくわかった。つまり、リップクリームを拾ってくれた礼をしたい、ということだろう。一割な、と苦笑して英雄は続けた。
「正確には五パーセントから二十パーセントだぞ、それ」
「えっ、そうなの?!」
やっぱそうだよな、と今まで何度か豆知識として話してきたのを思い出し、英雄は彼女の隣に椅子を引いて腰掛ける。
「物件、ようは落し物だな、それの返還を受ける遺失者は、当該物件の価格の百分の五以上、百分の二十以下に相当する額の報労金を、拾得者に支払わなければならない。遺失物法二十八条一項ではそうなってるんだぜ。一般的には間をとって一割ってことになってるけど、最大二割までは受け取る権利があるんだよな」
「へーーーー……二割かぁ……」
たかだか五百円くらいのリップクリームの、最大でも二割といえば百円程度だ。一割ともなれば五十円、飴玉かチョコレートか、ガムのひとつでもくれるのかとさして期待せず油断していた英雄に、彼女はにまにまと笑いながらとんでもないことを言った。
「リップクリームの一割分、キスでもしますか?」
「…………っは?」
現物支給もいいとこだろ、というどうでもいいつっこみを返しながら、英雄はやおら立ち上がり、彼女の頭を軽く小突く。むー、冗談なのに、と頬を膨らませながら尖らせた唇は、先ほど塗っていたリップクリームの艶と柔らかそうな感触、発色で、英雄はそこにちらちらと視線を送った。
「一割、か」
「二割でもいいんですよ」
私は寛大なので、と胸を張る彼女をもう一度小突いて、冗談もほどほどにしとけよ、と英雄は踵を返して事務所を出た。最早なんの用があって事務所を訪ねたのかすらも飛んでしまうようなドキドキに、赤くなってはいないだろうか、と英雄は耳たぶを軽く引っ張った。
一割でキスなら二割はもっと深いキスってことになんのかな。ってか、柔らかそうだったよな。ぷるぷるしてたし。いや、何考えてんだよ俺、しっかりしろって。
きっと、彼女は英雄を「そういう冗談を笑ってやり過ごしてくれる相手」だと勘違いしているのかもしれないが、英雄の方からしてみればとんでもなかった。英雄はお礼の価値について考えてあえて、彼女から向けられた絶好のチャンスを見送ったのだ。
「勘違いしてんだろな……」
冷えた空気が可視化した白い独り言とため息は、屋上から空へと還る。
「……あんたのキスが、五十円や百円だってことになるだろ、キスしたら」
その理屈もおかしかったが、割り切れないまっすぐな気持ちを無視することは難しかった。やっぱお礼もらっとけばよかったかな、と後悔をしながら、英雄はしばらく、盗み見ていた彼女の唇の残像にやりきれない気持ちでいっぱいになっていた。