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紅の糸(序~終)

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2014-11-25 17:15:24
2015-06-28 19:34:14

ナルルで最初に話しかけた人・レオンさんがその年の新成人にも関わらず8日に結婚。初期状態で婚約間近だったことから想像して書いたSSです。


「すみません、同じエルグの方ですか?」
 少し震えた声が、レオンを呼び止めた。
 ほとんどが幼い頃からの顔見知りで構成されているこの国で、こんなに遠慮がちに話しかけてくる人物をレオンは知らない。振り返ってみると、予想通り、知らない顔の女性が立っていた。
「そうだけど」
「あの、私、今日ここに移住してきたラリサという者なのですが、お時間があるなら、お仕事について伺いたくて…」
 年の頃は同じくらいだろうか。女性らしい華奢な身体ではあるが、あまり目線を下げずに自然と会話ができるため、背は平均よりも少し高いのかもしれない。
「ああ、いいよ。オレはレオン・シャルヴェ。よろしくな」
 本当は、レオン自身も昨日エルグ長――いや、彼は副エルグ長だったか――に、仕事のやり方や心得を習ったばかりの新人である。だが、そうとは悟られないように、昨日聞いた言葉をほとんどそのまま彼女に伝えた。
「……全体の流れはこんな感じ。あとは実際にやってみて、分からなければ周りに聞くといい。オレはこれからちょっと用事があるから、もうエルグを離れるけど」
「あ、お忙しいところすみません!」
「いや、そんなに急いでいたわけじゃない」
 レオンはひらひらと手を降った。そんなにペコペコと頭を下げられると、こちらの方が申し訳なくなってくる。
「実際にやってみせてやれなくて悪いな」
「いえいえ、助かりました!それでは、お気をつけて」
 彼女は涼しげな目元で微笑み、ハキハキとした声で送り出す。元気のいい移住者がやってきたな、とレオンは思った。

 移住者。そう、これから会いに行く"彼女"も、移住者だった。彼女と出会ってからもう1年が過ぎたとも言えるし、まだ1年しか経っていないとも言える。今の女性は"彼女"にあまり似ていないが、緊張で固くなった独特の声音くらいは、あのときの彼女に似ていたかもしれない。
 ナディア――気づけば呟いていたのは、その名前。
 これから会いに行く、鮮やかな紅色の髪をした、年上の恋人の名だ。

1
 その日はティルグの結隊式だった。新しくティルグ員に選抜された者たちは、この日ようやく真新しいティルグコートに袖を通し、ティルグ帽を被ることができる。
 まだ学生の身分であったレオンは、弾むような足取りでティルグに入っていく若者の姿を木の上で眺めていた。彼の後ろ姿は、紛れもなく何度か顔を合わせこともある同じ国の住人のそれであったが、どこか遠い世界の住人のそれでもあった。
 今日は、同時にレオンの5才の誕生日でもある。
 この国ではその年に6才になる者が、毎年の始めに大人の仲間入りをする。昨日も今年の成人の儀式が執り行われていた。彼ら新成人は、身長だけでいえば、レオンより小柄な者がほとんどである。あの場にレオンが紛れていても違和感はなかっただろう。――あくまでも身長だけを基準にしたならば、の話だが。
 そう、ほんの数日早く生まれていれば、自分もあの中にいたのだ。今頃はこの学生服ではなく、各エルグの仕事着に身を包み、たどたどしく仕事を始めていただろう。あるいはティルグで訓練人形相手に剣を振るっていたかもしれない。しかし、そんなことをしている自分の姿は、頭の中に全く浮かばない。

「誕生日おめでとう。あとは、成人の儀式を迎えるだけだな」つい先ほど、父に言われた言葉だ。
「もう少しであなたもお兄さんね」その前に母からそういった一言もあった。

 成人が近づいるだけではない。母はその身に子を宿していた。あと5日もしない内にその子は生まれてくるだろう。今までずっと3人だった家族の中に、もう1人の人間が増えるというのだ。母が妊娠したと聞いたときには何の冗談かと思ったが、日に日に大きくなっていく母の腹部を見る限り、どうやら本当のことだったらしい。
 そして、同時に、この一年でレオンの身体も急激に大きくなった。去年の今頃の服はもちろん、半年前の服だって着ることはできないだろう。
 だがあいにくと、心は全く追いついていなかった。自分が大人になることも、家族が増えることも、目線の位置がだいぶ変わってしまったことも、いきなりすぎて訳がわからない。――時間の流れは、心までをも成長させてくれるわけではなかったのだ。

 ふぅとため息を吐くと、それが合図だったと言わんばかりに一陣の風が起こった。強風に思わず目を閉じる。木々の枝葉がざわめいた。
 それは風によって作られた葉擦れの音。だが、ただのそれだけではなかったのだろう。風が止んだ頃に目を開けると、そこには澄んだ川の水底を思わせる色をしたティルグ帽が目の前に現れていたのだから。
 手にとって見ると、まだ生地が固い。新品のもののようだ。ティルグの結隊式が始まるまで間もなくだという今、これを失った新人ティルグ員は、さぞや途方に暮れていることだろう。

 とりあえず持ち主を探すために、往来の方を見やると鮮やかな紅が瞳に飛んできた。その紅は、髪だった。編み下げ頭の、おそらく女性の髪。女性が右に左に揺れるたび、それは尻尾のようにぴょこぴょこ動いた。
 はて、あのような鮮やかな紅の髪を持つ者などいただろうか。レオンは記憶をたどる。赤毛の者はこの国にも、数こそ多くはないがそれなりに存在する。しかし、たとえばレオンの同級生・ガスパールのそれは、ノミカの実のような明るい色合いであり、たとえば第二王子・ハラルド殿下のそれは、ガスパールとは対称的に暗い色合いの赤褐色だった。それぞれ対照的な2人を例にあげたが、いずれにせよ、彼らの赤毛は、あの紅よりもずっと世界に馴染んでいる。
 だが、あの紅い髪は、文字通り、異彩を放っていた。
 しかし、レオンは、その色に見覚えがある。あの色は、そうだ、イコの実だ。

 甘酸っぱいイコの実は、食べ頃と言われる時期にはやや酸味が強い。だが、そこから少し熟れてくるとその酸味が抜けて、甘味が目立つようになる。この頃のイコの実は一般的には「味が緩くなってきた」と評価され、あまり好むものはいない。口に入れたイコの実がそういうものだった場合には、「ハズレを引いた」と残念がる者が多い。だが、レオンは、それを『アタリ』と表現した。正確には、レオンだけではなく、両親も含めたシャルヴェ家の3人だ。
 食べ頃を収穫したにもかかわらず、そういうイコの実が自らの口に入ってくる確率はそれほど高くない。ちょっと希少なものを発見したときの、そういった喜びは『アタリ』と表現する方が相応しい。
 そもそもレオンはあのイコの実の味が落ちているとは思わない。甘酸っぱいものばかりでは、逆に物足りないのだ。あの独特の優しい甘さもあってこそのイコの実なのであり、そのおかげで、イコの実をたくさん食べても飽きずにいられるのだ。それこそ、イコの実だけでも数日は平気でいられるだろう。栄養バランスのことは度外視する。
 そう、あの紅は、食べ頃といわれる時期を少しだけすぎた、あのイコの実の色に似ている。夕暮れで世界が朱に染まりつつある中でも一際目立ち、凛として立つ気高さと、少し艶っぽい、あの色に。

「探しものはこれか?」
 髪だけに気を取られていたが、彼女が着ているコートは、レオンの手にする帽子と同じ色をしている。おそらく彼女こそが、この帽子の持ち主なのだろう。
 思わぬ方向から言葉が降ってきたためか、紅い髪の動きが一瞬止まる。その間に、レオンは上手く着地できそうな場所を見つけて、木の上から飛び降りた。
 着地と同時に、足の裏がじぃんと痛んだ。おかしい、以前はもっと痛まなかったのに。今度からは、木の上から飛び降りるのはやめよう。――そんなことを心の中で独りごちていると、紅い髪がこちらに振り返る。
 その正体は、やはり女性だった。レオンよりも一回りくらい小さい小柄な身体、顔全体にはそばかすが散り、中央には高い鼻梁がある。驚きで見開かれた双眸の色を黒と表現するには少し青味が強すぎる。
 ……と、よく観察してみたが、彼女が誰なのかは、レオンにはついぞ分からなかった。見覚えがないのだ。その女性も目をぱちくりさせて驚いているようだった。
「ん」
 2人の間にできた沈黙を、先に破ったのはレオンだった。とりあえず、彼女が誰であっても、この帽子の持ち主であることには違いなさそうだ。短い声と共に、水色のティルグ帽をぶっきらぼうに差し出す。
「ありがとうございます」
 女性は帽子を受け取るときこそ丁寧ではあったものの、その後の動作は一瞬だった。尻尾のように垂れ下がった紅い編み下げを片手でくいっと持ち上げて、あっという間にそのすべてを水色の帽子に飲み込ませた。
「ええと……」
「……早く行ったら?」
 その手際良さからして、そのまますぐにティルグに向かうのかと思いきや、女性は何かを言いたそうにもじもじしている。一体何を言うつもりなのかは分からないが、何であるしても、悠長に話をしている時間などないだろう。なにせ、さきほどこちらをチラリと振り返りながらそこを通っていった人物は、水色のコート着て騎将を表す羽飾りがついた帽子をかぶっていたのだ。顔こそよく見なかったが、あの格好はこの女性が所属するアクアス・ティルグの騎将に違いない。
「あとでお礼に行きますので、お名前を」
 緊張からなのだろうか、先ほど礼を言ったときよりも少し声が固い。子ども相手に緊張などしなくていいのに。口調も、丁寧を通り越して畏まっていて、変な感じだ。
「レオン。レオン・シャルヴェ」
 こちらからも聞きたいことはあったが、尋ねる時間がないのは明白である。ましてやこちらは、さっさと行くようにと促した人間だ。問われた名だけを簡潔に答えると、レオンはその場をあとにした。彼女が無事、結隊式に間に合うよう、密かに祈りながら。

2
 無性にイコの実を食べたくなってきたのは、きっとあの紅い髪のせいだろう。
 イコの実を採るべく、心持ち軽い足取りでシーラル島へ向かったのだが、その途中のロークス港にて、運悪く――これは本当に運が悪かった――同級生のガスパールと遭遇してしまった。
 もはや内容も思い出せないほどどうでもいい話に興じていると、いつの間にやら夜の刻を知らせる鐘が鳴り響いた。通りで辺りがすっかり暗くなってしまっていたわけだ。途端に、船で向こうに渡ることが億劫に思えた。……こうなったのも全て、あの話し好きなガスパールに会ってしまったせいだ。まったく。

 とぼとぼと帰宅したレオンを待っていたのは両親と、なぜか机に置かれているフルーツパイだった。
 そのパイの隙間からわずかに顔を覗かせているのは、あの赤い果実――イコの実だ。それに気づいたときの喜びといったら、思わず叫びたくなるほどだった。今日中にはイコの実を口にすることができないのだと諦めていた直後なので、気の昂ぶりが違う。口には出さないその気持ちを、代わりに雄弁に語ったのはその瞳だった。
 腹を空かせて帰ってくるレオンのために、父か母が作っておいてくれたのだろうか。それにしては、と、さらにそのフルーツパイを観察して思う。そのパイの"何か"が少しだけおかしい。喩えるならば、めかしこんだ娘、とでもいったところだろうか。細部まで丁寧に仕上げられているそれは、食べてしまうのが少しもったいないくらいだった。
「それは?」
「ついさっき持ってきてくれたのよ」
「ナディア・グレトリーさんがな」
 レオンが尋ねると、母と父が口々に答えた。言葉の端々が弾んでいるのは気のせいではないだろう。そんなに、そのナディア・グレトリーとやらがフルーツパイを持ってきてくれたことが嬉しいのだろうか。

 さて、その『ナディア・グレトリー』だが、レオンの記憶の中に、そのような名前の人物はいなかった。国民の顔でさえ全員のそれを記憶しているわけではないのだから、名前もまた然り――ん?『顔でさえ』?
 このくだりは今日、既にやった。あれは、確か夕の刻だ。もしかしたら、彼女が――
「『親切にしてくれたお礼です』って」
 その一言でレオンは確信した。あの紅い髪の女性は、その名をナディア・グレトリーというらしい。そして、なるほど、両親の機嫌が良い理由も分かった。……分かってしまうと、むずがゆい。
「ただ帽子を拾って渡しただけだ。礼を言われるようなことじゃないと思うけど」
「とても感謝していらしたぞ」
 手を洗っている最中だったので、父の言葉は背中越しに聞いただけだが、ニヤニヤしながら言っていたように思う。
「美人だったなぁ。つい手を差し伸べてあげたくなるのも分かる分かる」
「まあ!それを妻の前で言うの?」
「おおっと、違う違う、誤解だって」
 ふん、人をからかおうとするからだ、もっと言ってやってくれ。

 その日、家族三人で談笑しながら食べたフルーツパイの味を、レオンは生涯忘れることはないだろう。食感はしっとりと優しく、味は、イコの実特有の酸味がありながらも、それだけとは思えないような甘さがあり、身を溶かすようにじんわりと広がっていく。レオンは何度もイコの実のフルーツパイを口にしたことがあるが、このようなものを口にするのは初めてだった。
「今までにないくらいの『大アタリ』だ」
 この味を、一言で言い表すならこれしかないと思った。
 そう感じていたのはレオンだけではないらしく、父も母も実に幸せそうな表情をしている。彼らはどんな食事でも喜んで食べるのだが、今日の顔は格別だ。自分も、2人と同じような顔をしているのかもしれない。

 ふと、母の腹部が目の端に映った。なだらかに突出したそこにいる弟か妹も、いつか今の自分たちと同じような顔をして、『アタリ』だなんて言いながら、食事をするのだろうか。あるいは、既にそうしていたりして。
 それは無意識に口に出ていたらしい。レオンの呟きを耳にした両親は、先ほどとは少し違う感じの、だが間違いなく幸せそうな笑顔を浮かべた。

「レオン、誕生日おめでとう。本当に、大きくなったな」
「おめでとう、レオン。もうすっかりお兄さんね」
 父と母が、目を細めて言う。

 今朝はただ時間が流れただけだとしか感じなかったこの日が、実はとても大きな意味のある一日だったのだと感じたのは、この日が終わる頃だった。
「……ありがと」
 他人に聞かせるつもりなどまるでないような小さな声は、それでも発した自分が驚くくらい素直な気持ちがこもっていた。

3
 あれから3日ほど経過した。今朝母の様子を見に来た巫女さまが言うには、母のお腹の中にいる子どもは、もういつ生まれてもおかしくないらしい。
 この国――ナルル王国は、しばらくの間、やれ古城の修復だ、連絡船の整備だとかで国中がゴタゴタしていた。しかし、ここ最近になってようやくいつもの落ち着きを取り戻しつつあった。それと同時に多くの女性が妊娠・出産をしたわけだが、彼女たちは必然的に少しばかり年を召していた。そのためにあまり目立つことがなかったのだが、もはや白髪の方が目立つ年齢になっていた母は、子を生むには少しだけ高齢だったようだ。もちろん、だからといって出産ができないわけではないのだが、若い人よりも無理ができないのは確実なのだろう。
 巫女さまは「くれぐれも安静に」と母に言い渡し、「しっかりお手伝いしてあげるのですよ」とレオンに言いつけた。父にも何か言っていたような気がするが詳しいことは覚えていない。

 手伝い、と聞いてレオンが真っ先に思い浮かんだのは、食事を用意することであった。だが、あいにくと自分一人で――いや、親と一緒にでさえロツパンを焼いた記憶はない。家には作り方が記された本が置いてあったし、実際ロツパンを焼くことは難しいものではなかったのだが、こういう日に張り切って挑戦することがうまくいくなんて都合のいい話は物語の中くらいにしかない。ここは堅実にヤァノ市場で調達すべきだ。
 ――そう、市場で調達するはずだったのだが、まさかロツパンが買えないほどに財布が軽くなっているとは思いもしなかった。勢い勇んだりせずに、きちんと小遣いをもらってくればよかった。悲嘆を込めて、重い息を吐き出す。
 ハーブでも摘んで小銭を得るか、失敗覚悟で料理本と睨めっこしながらロツパンを焼いてみるか。さてどうしたものかと考えあぐねていると、隣のハリキリ本舗で訓練用サプリを買い込んでいる客が目に入った。
 澄んだ水底を思わせる水色のティルグコートと、同じ色の羽根帽子を目深に被った女性。あまり見覚えのない横顔は、だが確かに一度は見たことがある。
 たぶん、あれは――
「ナディア・グレトリー?」
「え? あら!」
 驚きで持ち上げられ、やがて緩やかな弧を描いた薄く細い眉の色は、あの紅。それはとんだ失敗の後に見つけることができた、今日一番の『アタリ』だった。

「あれからティルグの方にシャルヴェさんのお宅を教えていただいたんです。お礼をしたいのだと言ったら、ちょうど通りがかった他のティルグの方が、『あそこの家の子はフルーツパイ、特にイコの実を使ったものが好物だから、それがいいんじゃないか』って」
 フルーツパイが好物……? それは確かに否定できない――というか、まさにその通りではあるが、公言した覚えはない。両親のどちらか、あるいは両方が他所で話して回っているのだろうか、とも考えたが、彼らにもハッキリと言ったことはないはずだ。さすが親だけあって、子をよく観察しているものだ。――そう感心はするが、恥ずかしいから言いふらすのはやめて欲しい。
「私はてっきりあなたのお子さんがそうなのかと思っていたのですが、あれはあなたのことだったのですね。ご両親にお会いしたときは、少々驚いてしまいました」
「は?」
 聞き間違いだろうか。
「ちょっと待てよ、オレ"の"子どもだって?」
 いくらなんでも若すぎるだろう。確かにレオンは5才であり、まだ誕生日の来ていない今年の新成人と年齢は同じかもしれない。しかし、自分はまだ遊学舎に通う身。子どもを持つことはもちろん、結婚だって許されてはいない。
 だが、すっかり取り乱すレオンとは反対に、ナディアは落ち着いた柔らかな声で、穏やかに肯定する。
「はい」
「いやいや、おかしいだろ。あの時だってオレは、この学生服を着ていたよな?」
 確かに年少者のそれと比べると、ズボンの丈こそ長くなってはいるが、大人たちが着ている仕事着とは明らかに形状が違うものだ。いくらか上背があっても、この服を見れば大人と見間違える者はこの国にはいない――そのはずだと、レオンは思っていた。
「私、ここに来てからまだ半年しか経っていないんです。その服が学生服だと知ったのも昨日今日のことでして」
 移住者か。なるほど、合点がいった。それならば、レオンがその顔を知らなかったことも、学生服を着ていた自分を子持ちの成人と間違えたことも――後者は少しショックだが――納得がいく。
 いや、しかし、とレオンの頭の中に小さな疑問が生じた。『半年しか』と彼女は言っている。彼女が半年もこの国にいたのならば、他の情報はともかく、あの鮮やかな紅の髪くらいは目に焼きつくだろう。たとえ彼女がシーラル島に住んでいて、シーラ・エルグに所属し、滅多にロークス島に来なかったのだとしても、だ。レオンだって、果実を採りにいくためにシーラル島へ行くことも少なくなかったのだから、どこかですれ違うことくらいあったはず……。
「……まあ、立ち姿だけなら大人と間違われることがないわけじゃない」
 いや、別にいいか。生じた小さな疑問は頭の片隅に追いやって、とりあえずは適当に相槌を打つ。
「いえいえ、立ち姿だけでなくて、雰囲気も大人びていますよ。その堂々とした振る舞いは、私には真似出来そうにありませんもの」
「それ、本気で言ってるのか?」
 これはただぶっきらぼうなだけだ。幼い頃はよく両親に注意されたし、上級生やガスパールを怒らせてしまったり、下級生を怖がらせたのも一度や二度ではない。もはや咎める者はいないが、それは許されたのではなく、もはや呆れられたからだろう。
 レオンがつまらないことを思い出して顔をしかめていると、横からクスクスと上品な笑い声が聞こえてきた。声だけでなく、その仕草も優雅で品がいい。――そういう振る舞いこそ、自分には到底真似出来そうにない。
「……あのフルーツパイは、故郷の味なのか?」
「いえ、そういうわけでは。一応レシピ通りに作ってみたのですが、小さなお子さんに喜んでもらえたらという気持ちがあったので甘くなりすぎていたかもしれません。お口に合わないようでしたら申し訳ありませんでした」
「いや、アレは『アタリ』だった。……ああ、じゃなくて、ええっと、うまかったよ」
「まあそうですか! お気に召していただけたようなら何よりです」
 すまなそうにしていた眼差しはすっかり消えて、ナディアはその顔に再び柔和な笑みを浮かべる。
 本当に、一体どうしたらそんな風に笑えるのだろうか。つられて笑ってみたものの、自分のそれは、小さく鼻が鳴るだけの、上品とは程遠い言葉で表現すべきようなものにしかならなかった。

 それからどれだけの時間が過ぎただろうか。レオンとナディアは大通りに置かれた長椅子に腰掛けながら会話を楽しんでいた。
 レオンは、年上の女性と話したことがないわけではない。だがその中でまともに会話したといえるのは母くらいのもので、あとは遊学舎で一緒になった1つか2つ年長の女子くらい、それもせいぜい挨拶に毛が生えた程度だった。特に用事がないのであれば自分から積極的に話そうと思わなかったし、あちらから話しかけられてもどうやって話を終わらせるか、どうやったら放っておいてもらえるか、そんなことばかり考えていた。
 なのに、どうして彼女とはもっと話がしたいと思ってしまうのだろう。こちらの少ない言葉の真意をすぐに汲み取ることができる彼女に宿っているのはきっと知性だけではない。彼女の優しい眼差しは、レオンがそうして欲しいと願うことを全て読み取っている――そんな気がした。もちろんレオンも彼女に見つめられて嫌な気がしなかったので、自然と己をさらけ出していたわけだが、それにしても心地いい。
 一言で言うと、そのときのその場所は、レオンにとって最上のものだった。彼女といるから、彼女と話をしているから、彼女を見つめているから、彼女に見つめられるから、その空間が作られている。二度と得ることができないかのようであり、それでいて、永遠に続くかのようでもあった。
 そう、柔らかな声、薄い唇、そばかすの散った、しかし、艶やかな頬、細い弧を緩やかに描く紅の眉――それらで満足していれば、本当に、永遠に続いていたのかもしれない。
 
「その髪だけど――」

 言葉を口にしたその瞬間、ナディアの瞳に怯えたような異質な色が差したのを、レオンは見逃さなかった。
 途端に大通りを歩く人々の靴音や話し声が、一気に耳に流れ込んでくる。――うるさい。ここがこれほど不快な場所だったなんて。とても2人で誰にも邪魔されずにいられるような場所ではないのに、先ほどまではそう感じなかった。
 それはきっと、自分と――いや、自分たちとこの不快な世界を隔てていた何かがあったからに違いない。だが、それは壊れてしまったのだ。水泡が弾けるかのように、一瞬にして。
 ナディアの表情の変化は、さほど大きいものではない。ただ通りを過ぎていく人々がそれに気づくことはないだろう。しかし、レオンは当事者である。笑みを作り直したことくらい、分かる。分かってしまう。
「……では、私はこれで。お手伝い、頑張ってくださいね」
 スッと立ち上がったナディアの姿は、背筋がピンとしていて美しく、神聖なものに感じられた。それは同時に手を伸ばしてはならないものだった。

 冷たい風が吹き付ける。そうだ、今日は肌寒かった。それすらも先ほどまでは感じなかったというのに。

4
 気が付くとレオンは妖魔の森を訪れていた。
 ここに来るのはどれくらいぶりになるだろうか。ここに住む友人にも長らく会っていなかったが――ん、『友人』?
 いや、バカな。アラクト山の麓の人里外れた不気味な森になど、住む者がいるはずない。はて、一体どうしてこんな場所にやってきたのだろうか。確かに、昔――と言っても、1年くらい前のことだが――嫌なことがあればここに来ていたような気もするが。
 森は不気味なくらいに静まり返っている。人混みを好まないレオンとしては、本来静寂は喜ばしいことであるが、こんな不気味さは余計だ。
 帰ろう。何か大切なことを忘れている気がするが、今は一刻も早くこの場を去りたかった。
「バイバイ……」
 背にした妖魔の森からは、寂しげな声が聞こえた……気がしたが、妖魔の森に漂う雰囲気が聞かせる幻聴だろう。薄い緑色の影が見えたのだって、幻覚だ。
 だってここには"人"など誰もいなかったのだから。

 こうしてレオンは、ロツパンを調達するという目的を終ぞ果たせなかったわけだが、それどころではなくなってしまった。
 この日の晩、ついに母が産気づいたのである。おそらくはいつでも外を飛び出せる用意をしていたのだろう、父はすぐに巫女さまを呼びに向かった。もちろん、この非常事態に寝ていられるほどレオンの神経は図太くない。父が戻ってくるまでの間、レオンは横たわる母の側に立ち、その手をしっかりと握っていた。
 母が病気にかかって怠そうにしている姿は、数こそ少ないものの目にしたことがある。しかし、こんなにも悶え苦しむ姿を見るのは初めてだった。このまま死んでしまうのではないか、そんな不吉な考えが頭を過る。けれどしてやれることは何もない。そんなことをしても何にもならないと分かっていながらも、握りしめたその手には自然と力が入る。
「だい……じょうぶ……。だいじょうぶ……だからね」
 レオンの抱く不安を感じ取ったのか、母は苦しみながらも声を絞り出す。何もできないばかりか、元気づけなければならない母に、逆に元気づけられてしまうとは。
「……ッ、ああ」
 これ以上、母に気を遣わせることがないよう、何とか頷いて見せたが、それが果たして励みになったのかは怪しいところだ。
 父が巫女さまを連れて帰ってきたときには、レオンはすっかり憔悴しきっていた。父と巫女さま、それぞれから声をかけられた気がするが、何も耳に入ってこなかった。とりあえず、巫女さまの服がいつもと違ったことだけは覚えているが、他の記憶はぽっかりと穴が空いたかのように存在しない。

 外が白みだした頃に訪れた一瞬の静寂の後、誰に遠慮することない大きな泣き声がシャルヴェ家に響いた。けたたましいその声は、けれどもちっとも不快ではない。

「よく頑張りましたね。とても元気な男の子ですよ」

 巫女さまの声が聞こえる。きっとこちらにも語りかけているのだろう。レオンは徐々に意識を取り戻す。
 生まれたばかりのその子――弟はこれが同じ人間なのかと思うほどに小さく、まるで人形のようだった。しかしそれはわずかに身じろいで、その身に生命が宿っていることをレオンに示してみせる。
 弟を包み込むように抱いて、慈しみの目を向ける父と、ぐったりしながらも満足そうに微笑む母。その姿は、知らずのうちにいくぶん若返える。父に抱かれた赤ん坊の髪も、先ほどまでは茶色かったのに、今はレオンのそれであるかのような金に染まった。
 分かっているのだ、若返った両親も、金髪になった赤ん坊も、幻だということは。しかし、きっと、その幻通り、5年前に自分もこうやって、この家に迎えられたのだろう。

 知らず知らずのうちにこぼれていたのは、笑みや安堵の息だけではなかった。

5
 こんな小さな身体のどこに、これだけ大きな声を出すエネルギーがあるのだろうか。弟――リヒャルトは、顔を真っ赤に染め上げて、力いっぱい泣いていた。その赤い頬を見るたび、レオンはナディアの紅い髪を思い出す。
 理想の世界ができたかと思えば、すぐに崩壊してしまったあの日以来、ナディアとは話をしていない。というのも、リヒャルトが生まれて以来、今こうしているように家で子守をしている時間が増えたからである。――いや、正直に言おう。積極的にではないにせよ、避けていたのは事実だった。水色のティルグコートを見るだけで、それが明らかに違う人物であっても、心は竦んでいた。
 こうやって、こちらの都合など全く考えずに泣き喚く弟と過ごすのは、ある種の逃避行動だったのだが、何かにつけて思い出しまう。
「おー、元気よく泣いてるなぁ」
 いつの間にか父が帰ってきていたようだ。弟の必死な様子に比べると、のんきなことこの上ない。もっとも、先ほどまでナディアのことを考えていたレオンも他人のことは言えない。弟が喋れれば「お前が言うな」とツッコミを入れられていたところだろう。
 しかし、弟よ、許して欲しい。無理もないのだ。
 確かに、最初の頃は目の前でわあわあと声をあげられる経験などしたことがなかったから戸惑ったものの、3日もすればこういうことにもすっかり慣れたし、5日も経った今ではすっかり3人目の親状態だった。今泣いているのは、眠いというただそれだけの理由。こうやって抱き上げて、気が済むまで泣かせてやればいい。――と、教えたのはそこにいる父だ。
「まったく、元気がいいなんてもんじゃないよ」
「リヒャルトはまだ大人しいさ。お前の泣き声なんかこの比じゃなかったぞ。メイビ区に入ってきただけで聞こえてきたからなぁ」
 嘘か本当か分からないが、たぶん、嘘、だろうな、うん。
「よしよーし、父ちゃんが来たぞー。……ほらほら、レオン、交代だ」
 父が、レオンの腕の中からリヒャルトを奪いとる。すると、その泣き声はみるみるうちに小さくなり、やがては泣き止んでしまった。
「さすがオレだなー。どうだ、尊敬してもいいんだぞ?」
 そうやってしたり顔さえしなければ、本当に尊敬していたかもしれないのに。なに、父が特別なことをしたのではない。ただ単にリヒャルトが泣き疲れただけだ。レオンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「そういえば、さっきそこでナディア・グレトリーさんに会ってな」
 ナディア・グレトリー――その名を聞いたとき、心臓がどきりと脈を打った。
「コイツの出産を祝ってくれたんだけど、『レオンさんはお元気ですか?』って。お前のことを心配していたみたいだったぞ。留守番しているだろうからうちに来ないかと誘ったんだけど、独身の女性に言う言葉じゃなかったかな、これは」
 また母ちゃん――もちろん、父にとっての妻である――に怒られるかもなーなどと言いながら、父は快活に笑う。
 しかし、そんな父とは反対にレオンの表情はいつにも増して固くなった。
 そうだ、具体的な年齢は把握していないものの、ナディアは自分とは違い、成人の身であることに変わりない。だとすれば、結婚していてもおかしくはなかったのだ。父の言葉を鵜呑みにすれば、今はまだ結婚をしていないようだが、それもいつまで続くか分からない。
 ナディアが誰かと結婚する。それはおそらく祝福すべきことのはずだ。だが、想像するだけでこんなにも胸が騒ぐのは何故だ。微笑むナディアの姿は、見ているこちらでさえも幸せにしてくれそうなのに、その横に知らない男が立つのだと思うと――笑顔を向ける相手が自分ではないのだと思うと、苦いものがこみ上げてくる。この想像図は決してあり得ないものではない。急に不安が押し寄せてきた。
「まあ、そろそろリーグ戦も近いし、バスケットに訓練用のサプリメントがいくつか入っていたし、たぶんティルグにでも行ったんだろうな。顔でも見せてやったらどうだ?」 
「そうする」
 もはや居ても立ってもいられなくなったレオンにとって、父の提案は、渡りに船だった。別に後ろめたいことをしに行くわけではないが、この父にいろいろとからかわれるのは面倒だ。どう理由をつければ自然にナディアに会いに行けるだろうかと思案を巡らせるところだったが、ありがたいことに、その手間が省けた。
 今にも駆け出したい気持ちを抑えて、レオンはあくまでも静かに家を後にした。
 だが、レオンはこのときも気づいていなかった。親というものは、子をよく観察しているものなのだということに。

 
 父の言葉を頼りにして、レオンはナディアの所属でもあるアクアス・ティルグへと急いだ。
 リーグ戦が近づいているということは、つまり、競技会の受付も間近に迫りつつあるわけで、ティルグは練習試合を求める老若男女で溢れていた。そのために、全体を見通すことができないのだが、苛立つことはなかった。ナディアはここにいる――根拠など何もなかったが、レオンにはそうした確信があった。
 なんとか人波をかき分けて進むと、訓練場のエリアにたどり着く。一歩足を踏み入れると、神聖な空気と、ピンと張り詰めた緊張感が肌を刺した。こちらにもそれなりに人はいたのだが、ここでレオンがその瞳に捉えたのはたった1人の人物だった。不自然なくらい目深にティルグ帽をかぶった人物――もちろん、ナディア・グレトリーである。
 
 レオンの両親は共にどこかのティルグのどこかの騎兵隊に所属していた経験がある。何でもそこでチームメイトになったのが、2人が絆を深め合ったきっかけだったとか。……いや、違うティルグの騎兵同士で剣を交えたのがきっかけだったか。まあ、よく覚えていないが、とにかく親2人には、剣に打ち込んでいた暑苦しい時代が少なからずあった。
 だが、その子であるレオンはあまり剣に興味がない。基本型ですら、身についているか怪しい。しかし、そんな彼の目にも、ナディアの剣筋が普通とは少し違うということくらいは分かった。
 少し剣を振るっては、ゆっくりと確かめるように基本の型を再現し、再び訓練人形相手に剣を振り下ろす。基礎の確認、といったところだろうか。その剣には目にも留まらぬ速さもなければ、大地揺るがすような力強さもなく、舞うような美しさもない。ただひたすらに堅実そのものである。
 もし、自分ならば、あれを延々と続けるといったことができるだろうか。考えるまでもない。だが、その姿を眺めるとなると違ってくるから不思議なものだ。まだ日は高く、世界は明るかったが、光はそこだけを照らしていたかのように、その姿は輝かしく、一種の神々しさがあった。

 ティルグ見学の日か、競技会の日でもない限り、ティルグに子どもがいることは滅多にない。理由は明確、訓練人形を使うことが許されているのも、練習試合ができるのも大人だけだし、そもそも子どもがウロウロするには危険な場所だからである。そのため、ここで長い間ぼーっと立ち尽くしているレオンの存在はとても目立つはずであり、誰かから邪魔だと咎められてもおかしくはなかったのだが、それをするような人物は誰もいなかった。レオンの目的が傍目にも明確で、邪魔立てしてはならないものだと皆が感じていたからである。彼の目的に気づいていなかったのは、おそらく、その"目的の人物"だけだろう。
 やがてナディアは、身に纏っていた緊張を解いた。もっとも、それは自分を見つめる存在に気づいたわけではなく、ただ単に疲労によるものだ。しかし、話しかけるタイミングを覗っていたレオンにとって、それは待ち望んでいた機会の到来であったことに違いはない。
「訓練中でも、帽子はとらないんだな」
 ああ、第一声がこれとは。もっと気の利いたことが言えないのか。そんな声がレオンの脳内で聞こえた気がしたが、黙らせる。今日もナディアの紅い髪は、水色のティルグ帽の中に隠されている。その尻尾のような編み下げも含めて。
「帽子を落とさないようにするのも訓練の一環です。帽子が落ちるようなことがあっては負けですから」
 本当なのか冗談なのか分からないことを言って、ナディアは小さく笑った。それはとても可憐で、上品で。もっと前に話しかけなかったのことを悔いると同時に、靄がかった心を晴らしてくれた。
「無事に弟さんが生まれたと聞きました。お祝いを申し上げたかったのですけれど、お忙しい様子でしたので、少し心配していたんです。お元気そうでよかった」
「あ、ああ、うん。……今日はまだ、訓練を続けるのか?」
「ええ。そのつもりですけれど……?」
 歯切れの悪いレオンに対して、ナディアは何か感じるところがあったのだろう。だが、そうやって小首を傾げるナディアの姿は不意打ちだった。直視できずに、パッと目を逸らす。
「そ、そうか」
 そして、落ち着けるように、ふう、と息を吐いてから、再びナディアに向き直った。

「ちょっと話があるんだ。訓練が終わるまで待ってる。終わったら声をかけてくれ」

6
 避けられてしまうのではないだろうか。自分がそうしていたように、ナディアもそうするのではないか。そんな可能性は、考えなかったわけではない。けれども、実際、そんな子どもじみたことをナディアはしなかった。

「お話ですか。それなら、今日はもう切り上げます」

 だがしかし、そんなにあっさりと動いてくれるとは思わなかったので、レオンは当惑した。
 だから、今、なぜ西公園に、ナディアと2人で来ることになってしまったのか、ちょっと分からない。場所を変えたいと申し出たところまでは覚えているのだが、西公園がいいと言ったのは、自分だったのかナディアだったのか、それとも、何となく足が向いた先がここだったのか。
「ここには、異国の花がたくさんあるんだ。故郷の花もあるかもしれないな」
「へえ、そうなんですか」
 違う。話したいのはこんなどうでもいい話ではない。落ち着け、冷静になれ……。
 呼吸を整えて、自分の心に語りかける。
 怖い――レオンは、今、恐怖している。今度こそ、もう二度と話せなくなってしまうのではないか。あの日見たナディアの表情が頭を過る。何かに怯えたようなあの瞳。そうさせたのは紛れも無く自分だが、何がそうさせたのかはイマイチ分からない。こんな状態で話をしたら、また彼女を傷つけてしまうのではないのか。後先考えない己の行動力が恨めしい。
「……あなたとお話をしたあの日、私、とても楽しかったです。あんなに楽しかったのは久しぶりでした」
 レオンが言葉を紡げないでいるのを知ってか知らずか、ナディアはレオンに言った。
 予想外の言葉だった。あの日、ナディアは確かに気分を害したはずだ。そして、そのきっかけは、レオンにあった。そのはずなのに、『楽しかった』? ……。そうだ、『楽しかった』んだ。ナディアの隣に座って、一緒にとりとめもないことを話して――本当に、楽しかった。
 夏至が近づいてきたとはいえ、昼の時間は永遠ではない。日はだいぶ傾きつつあった。それでなくても、ナディアは目深に帽子を被っているものだから、レオンから見るとその表情はよく分からない。一方で、彼女からは、レオンのことがどう見えるだろうか。――頬を真っ赤にして、唇をわなわなと震わせるこの不格好な姿がすべて分かってしまうのならば、恥ずかしいことこの上ない。
 けれど、ここまで来て、何も言えなかったら……、ただの腰抜けだ!
 拳をぎゅっと握りしめる。
「オレも、楽しかった……! 誰かと話をして、あんな気持ちになったのは、…う、生まれて初めてだ」
 声が震えて、涙が出そうになった。こんな思いをしたのだって、生まれて初めてだ。
「ずっと、一緒にいたいって思った」
 あとはもう、頭の中が真っ白になって――
「好きだ! ナディア・グレトリー!」
 気が付くと、とんでもないことを口にしていた。

 空が茜色に染まっていた。
 優雅に飛んで行く鳥は、その姿に似合わぬ濁った声で、どこか優しげに鳴いた。生ぬるい風は、遠慮がちに肌に触れた。――「よくやった。想いを伝えられることなく恋が終わるという結末は、これで回避されたな」まるでそう言ってレオンを慰めるように。
 ナディアが好きだという言葉に、嘘偽りはない。正直な気持ちだが、だからこそ困るし、困らせる。たとえばもっと軽く言えたのなら、ナディアも今の言葉を笑って流すことができるだろう。こんな言い方をしたら、何かしらの対応をしなくてはならない。
 その、『何かしらの対応』が何であるか、レオンには分かる。もし、今の自分に対して、顔を赤らめ、言葉を詰まらせ、「好きだ」と言ってくるような女の子がいたとしたら――そんな物好きがいるとは思えないが――返す言葉は決まっているのだ。ナディアだって、きっとそう言う。
「ありがとう。私もあなたが好きですよ」
 その言葉を聞いて、一瞬、舞い上がった自分の何と愚かしいことか。違う、本気じゃない。そういうパターンで切り返してきただけのことだ。もういい、もう分かった。それ以上聞きたくない。今すぐ穴に入って身を隠すか、この場から走り出すか――とにかく姿を消してしまいたい。
 しかし、そんなレオンをここに留めるかのように、ナディアは続ける。
「2つほど、謝らせてください」
 ナディアの表情が変わった。もちろん、彼女の顔は見えないから実際にどんな顔をしているのかは分からないままだ。しかし、甘く穏やかだったその声に、少し別の色が加わったのだ。それが具体的にどういったものなのかを表現することは難しいが、敢えて言うならば、不安、だろうか。
「まず1つ、あの日――帽子を拾っていただいたときから、私があなたに別の人を重ねていたことです。あの人に会ったのは、もう何年も前になりますね。私は今のあなたよりも幼く、だからこそ、"あの人"を盲目的に恋い慕っていました」
 見たことのない少女時代のナディアの姿が頭に浮かんだ。今のナディアの姿から察してに、さぞや愛らしい姿だったに違いない。そんな少女に恋い慕われていた"あの人"とは、この世に並ぶ者がいないほどの果報者に違いない。
「大人になったら、その想いを伝えようと思っていたのですが、門前払いをされてしまいました」
「……どうして?」
 フラれた理由など、あまり思い出したくないだろうし、ましてや語りたくなどないだろう。そういった気遣いができるのならば、それはただ大人になっただけの男性たちよりも立派な紳士なのだろうが。
「私の髪の色――鮮血のような不吉な色が、彼にはとても不快だったそうです」
 彼女の声音の中に身を潜めていた不安の色は、待っていたとばかりに姿を現して、彼女の声を乱した。目の前に立っているのは、ナディアに違いないが、レオンが知る彼女ではない。きっと、あれは、そう、少女時代のナディアだ。何らかの方法で、"あの人"がナディアの髪の色を不快だということを聞いたときの彼女が、今、そこで涙を流している。
 確かにナディアの髪の色は、珍しい。初めて見た時など、しばらく目を奪われたものだ。
 だが、そうは言ってもたかが髪の色。外見を構成する個性の1つに過ぎない。同じ個性の1つならば、まだ背の高さとか、恰幅のよさとか、そういったものの方がよほど重要だろう。――いや、これは個人個人によって見解が別れるだろうから言い切るべきではないか。だが、少なくともそういった個性の1つに過ぎないことで、縁起がいいとか悪いとかを判断するような人物は、ここ、ナルル王国にはいないはずだ。
 それは、ナルル王国の国民ならではの――髪の色どころか肌の色だって、人によって異なるのが当然であるという移民の国ならではの――感覚なのかもしれない。国民ほぼ全員が同じような色の肌をしており、同じような色の髪を持つ人々が暮らす国があるのだという話は授業か何かで聞いたことがある。ナディアの故郷がどういうところなのか、レオンには全く分からない。しかし、たとえどんなところでも、ナディアの髪の色を不吉だなどと嫌悪したばかりか、それを口に出してナディアをひどく傷つけた"あの人"が許しがたい存在だという結論は、揺らぎようがない。
「……そして、あなたに謝りたいもう1つのことというのは、先日、お話を中断させてしまったことです。本当に申し訳ありませんでした」
「いや、あれはオレの方が悪かったんだ」
 そういったナディアの過去を知らなくても、ある程度想像することはできたのかもしれない。
 彼女が帽子を受け取ったとき、それをすぐに頭にかぶせた。彼女は、他の髪の長いティルグ員たちと違い、編み下げでさえも帽子の中に隠している。――思い返せば、ヒントはたくさんあったのだ。
「でも、あの日オレは、あんたの髪を悪く言うつもりなんてこれっぽっちもなかった」
 少し咳払いをして続ける。これだけは、今、ハッキリと伝えたい。
「アンタがくれたフルーツパイは、それまで食べたことのない味がして、でも、とってもうまかった。それと同じで、その髪だって、オレは今まで見たことなかったんだけど、すごくキレイだと思ったんだ」
 先ほど勢いに任せて告白したときとは、まるで違う人物がここにいた。こんなに落ち着いて、もう一度、この言葉を言えるだなんて思わなかったし、言っている今でさえも、そう思う。
「オレはもっとその髪が見たい。ナディア・グレトリーは、その髪も含めてナディア・グレトリーで、そんなアンタを、オレは好きになったんだ」
 深く傷ついた少女時代のナディアにも、この言葉が届いて欲しい――それが叶わぬことだと分かっているが、レオンはその言葉を"彼女たち"に向けて言った。

 沈黙は、再び訪れた。
 今度は鳥も鳴かず、風も吹かない。きっと彼らにも呆れられてしまったのだろう。そして、ナディアもこう思っているはずだ――何度もしつこい、と。
「じゃあ、それだけだから」
 絞りだすようにポツリと言うと、レオンはナディアに背を向けた。同時に世界がぐにゃりと歪む。リヒャルトのように泣くことができれば楽なのだろうが、あいにくと自分はもはや赤ん坊ではない。
 言わなければよかった、という後悔は、確かにある。けれども、今はどちらかと言えば、達成感の方が強い。ただ、どちらにせよ、これで終わったことには変わりない。これ以上、この場にいたら、聞きたくもない宣告を聞かされることになってしまう。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 行かないで!」
 夕闇の中、駆け出したレオンを慌てた声が追いかける。だが、レオンは止まらない。振り切るつもりで走った。

 ――そのつもりだった。しかし、まるでナディアの意思がそうさせたかのように、レオンの足が滑り、それはもう盛大に転んだ。下は草地になっていたから、石畳に身を打ちつけたときよりは何倍もマシだが、痛いものは痛い。その痛さと転んだショックと情けなさに、レオンはしばらく身動きがとれなかった。おかげ涙も引っ込んだ。
「ああっ! 大丈夫ですか!?」
 いろいろな意味で、全然大丈夫じゃない。
「へ、平気だ、これくらい……」
 平然を装うのは――装いきれていないが――せめてもの強がりだ。
 大した怪我をしていないことが確認できたからだろうか、ナディアは安堵の息を漏らし、ふっと笑みを浮かべた。なぜそれが分かるのか。そこでレオンは、はたと気づく。ナディアの顔が、すぐ目の前にあったのだ。頬が燃えた。
「……レオンさん、本当にありがとうございます。私、本当に嬉しいです。先ほども言いましたけれど、あなたと一緒にお話しているととても楽しかったのですから。あの人に会った頃の――あの人を想っていた頃の私に戻れたような、そんな錯覚までしてしまいました」
 ナディアは寂しげに目を細めた。
「でも、それはあくまでも錯覚なんです。実際の私は、あなたよりずっと年をとったおばさんです。あなたは、それを分かっているのですか?」
「それも含めて、『ナディア・グレトリー』だろ」
 まったく。分かっていないのはナディアの方だ。
「オレより年上だっていうのは見れば分かる。そんな今更なことを言われたくらいで、オレの気持ちが冷めるかよ」
 ナディアは優しい。けれど、今はその優しさが、辛い。あるはずもない希望を抱いてしまう。
「もういい。他に好きな人がいるだとか、今でも"あの人"のことが忘れられないとか、そもそも恋愛なんてする気がないとか、ガキなんか好みじゃないとか、――なんか、いろいろあるだろ、他のこと。ハッキリ言ってくれ。それが出来ないって言うなら、もう、行かせてくれよ」
 また世界が歪んできた。
 そうやって、半ばいじけていると、横で、ナディアがふっと笑った。こんなに情けない姿を見せているのだから、笑われるのも無理はない。――そう思ったが、どうやらそういう意味で笑ったのではないらしい。
「……あなたは、私があなたを拒むことを望んでいるのですか?」
 夏至近いこの日、そこに春は訪れた。控えめなその笑顔は、ここに多くあるどの花よりも、美しく可憐だった。
 しかし、これは幻か。ナディアの言葉は幻聴か。そう疑わずにいられないほど、レオンが想像していたものとは違う。
「そ…そんなことは、ない、けど……」
 マイナスなイメージがおよそ存在しないような人間の頭のなかを、花畑と揶揄することがある。花畑というのは、ここ西公園よりも、もっと多くの花が咲き乱れている場所を言うのだが、今、この状態は、まるで自分の頭のなかがそうなってしまったかのようだった。
「だ、だって、オレは、ナディアよりずっと年下だし」
「今更何を言っているのですか」
「め、迷惑じゃないのか? オレは――」
「拒まれたいというのであれば、そうします。けれど、それは私の本心ではありません」
 なおも続けようとするレオンを、ナディアがぴしゃりと制す。それ以上何も言えなくなってしまったが、レオン頭のなかは依然として混乱している。これが夢や幻なのだとしたら、相当残酷だ。けれど、先ほど強打した額は、じんじんと痛みを主張する。まるでこれは現実だと訴えるかのように。
 ナディアは目を伏せて、少し俯きながら自らの帽子に手をかけた。そこで窮屈に収まっていたものは、ようやく自由を得た。紅い艶髪がするりと姿を現す様は、恥じらうようでもあり、艶かしく誘っているようでもあり。
 ナディアはゆっくりと面を上げると、はにかみながら言った。

「帽子が落ちてしまいました」
 


 後から聞いた話だが。
 ナディアは入国してしばらくの間、はくらい堂にある髪染めを使っていたらしい。だが、あいにくと相性がよくなかったようで、まずその匂いに吐き気がしたし、それに耐えてもすぐに色が抜けてしまい、果てには頭皮に湿疹ができてしまったのだとか。
 故郷で魔術を嗜んでいたものの、剣を振ることには慣れていなかった。だが、支給されるティルグ帽を手に入れるためになんとか頑張って、剣技試験で合格を手にしたらしい。同期のティルグ員はもちろん、騎将でさえも、ナディアがそんな目的を持って試験に臨んでいたとは思わなかっただろう。
 面白い話のようにも思えるが、それだけ思いつめていたのだと考えると、胸にこみ上げてくるものがあった。

「お待ちしていますよ。気が変わってしまうまで」
 互いに想いを伝え合ったあの日、冗談めかしながらナディアは言った。
 彼女が何を待つつもりなのか、レオンには分かる。全く不安がなかったと言えば嘘になるが、彼女の言葉を信じて、この日まで自分を磨き続けたつもりだ。

「ちょうど1年前は、この日が来るのが嫌だったんだけどな……」
 王宮前で感慨深そうにレオンが呟くと、横でガスパールが吹き出した。
「レオンくんも大人になったもんだねぇ」
「まあ、お互いにな」
 今年、遊学舎を卒業して成人の儀式を迎えたのは、この2人のみだった。2人とも志望書を提出しなかったので、エルグ長同士が話し合って決めた結果、レオンはシーラ・エルグに、ガスパールはローク・エルグに、それぞれ配属されることになった。いつも遊学舎で顔を合わせていたけれど、住居がそれほど近いわけでもないし、これからはめっきり会う機会が減ってしまうのか。支給された仕事着に身を包む友の姿は、まるで別人のそれのようだ。
「そういえば、知ってる? パ…お父さんから聞いたんだけど、年末に来た移住者の夫婦……っていうか、家族連れだけど、"お父さん"の方は、僕たちと同じ年だったんだって。しかも、僕と誕生日が全く同じなんだよ」
「へえ、同じ日に生まれたなんて、面白い偶然があったもんだな」
 彼らとは直接話をしたことはないが、その噂は耳にしたことがある。なんでも、以前この国に遊びに来てここを気に入ったらしく、結婚を期に移住することを決めていたんだそうだ。手続き等の関係なのか、実際に移住する頃になると、家族がもう1人増えていたらしいが。
「あ、珍しがるところはそこだけ? ふぅん、そっかそっか」
「何だよ、おかしいところあったか?」
 芝居がかった調子でガスパールは続ける。
「だってさ、僕たち、今これから成人の儀式を始めるんだよ? それなのに、彼には恋人がいるどころか、結婚して家族がいるなんてさ。僕はもうそっちの方にビックリ。まだ恋愛とか全然ピンと来ないしさぁ。まあ、レオンくんは違うみたいだけどー」
 なるほど、からかわれていたのか。……まったく、ナディアのことなど話したことがないというのに、どこまで知っているんだ、コイツは。
「まあ、彼の凄いところは他にももっとあるんだけどね。あと、今日来た移住者っていうのも――」
 ベラベラとしゃべり続けているのは、彼なりに別れを惜しんでいるからなのだろうか。しかし、そのお喋りも、新年の挨拶を交わしていた評議員たちが、それぞれ決められた位置についたときに終わった。その時がきたらしい。
 静寂の中、レオンはゆっくりと息を吐いて目を閉じた。

 ――『家族』か。まず最初に浮かんだのは、両親と、最近、家の中をよちよちと歩くようになった弟の姿だった。自分と両親と3人だけの家族の中に、もう1人の人間が増えることなんて想像もできなかったのに、今では逆に弟がいなかったことが信じられないくらい当たり前の存在になっていた。
 流れるように続いて浮かんできたのは、ナディアの姿だった。理由は分かる。まったく、我ながら呆れたものだ。
 彼女がその紅い尻尾を、帽子の外に出して街を歩くようになったのは、あの日からだったように思う。彼女の髪が、他の人の目にも触れるようになってしまったことは少しだけ寂しくもあったが、自分だっていつでも見ることができるようになったのだし、遠目にでも彼女を見つけやすくなったのだから嘆くばかりでもない。

 もう待たせない。儀式が終わったら、この国のどこかで自分を待っていてくれている彼女を探しに行こう。彼女から伸びる、あの紅の糸をたどって。

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さりゆ @slry_p
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