@sugoidame
*
未だにあの白い手を探していた。
もうあの日の夢を見ることはなかったけれど、あの夢が虚構でないことは確かだった。別に、どこにも根拠はないけれど。
あの夢が虚構でなければいいと、そう思う気持ちだけは本当だった。
この世界にはあまり正真正銘の真実というものはないけれどそれでも全てが虚構と言い切れるわけでもなく、例えば一部の生き物にとっては真実だけど客観的に見れば虚構だったり、虚構になりたいけどなりきれないものだったり、真実になりたいけどなりきれなかったりするものがある。だれかの真実はだれかにとっては虚構で、だれかの虚構はだれかにとっては真実だったりする。
だけど、そうだ。
それは例えば冬の間だけトンネルの横に草に埋もれてひっそりと現れる扉だとか、深夜、参加しなかった祭りが終わった筈なのに聞こえてくる祭囃子だとか、遺書の続編とか、13月1日などがある。
だけど、それは、永遠に虚構であったり真実であったりするわけではない。そうだ。そう思う。
例えば魂を込めて書いた小説に実際魂が乗り移って動いているように見えたりすることがある。名前を持って意思をもって、まるで旧知の理解者であるかのように寄り添われているように思うことがある。
そんなものは他のだれかにとっては虚構でしかない。けれど、その彼自身にとっては確実に揺るぎない真実だとするなら、例え全世界がそれを否定するとしてもそこに魂が存在する事実は彼にとって絶対的に真実だ。そしてそれが彼にとって真実で、そこに魂があるのなら、それは虚構ではないのだ。
あれ?
それから、そうだ。
見てもいない夢がある。
それでも、その夢を真実だと思い、
その夢を見たことが真実だと思うのなら、
この世界にはあまり正真正銘の真実というものはないけれどそれでも全てが虚構と言い切れるわけでもなく、例えば一部の生き物にとっては真実だけど客観的に見れば虚構だったり、虚構になりたいけどなりきれないものだったり、真実になりたいけどなりきれなかったりするものがある。
みんなほんとは知らないだけで、真実も虚構も何かであることで必死で、ぜんぶたしかにそこに、だれかの意思をもって存在しているのだ。
*
愚か君は何でもなくていいんだよ。
何かである必要なんてないんだよ。
「ナウ〜」
虚構ちゃんが鳴いた。
虚構ちゃんは今日も安心の化身みたいなフワフワした布に包まれて、部屋中をフワフワと舞っている。俺にだけ聞こえる虚構ちゃんの声は、俺をどこまでも安心させる甘美で優美で安心な、やわらかなマシュマロのような白い言葉だ。
起きてから寝るまで俺は虚構ちゃんとずっと一緒にいるけれど、何も虚構ちゃんは普段から鳴き声のように俺をマシュマロの言葉で包み続けているわけではない。これはさっき、起きがけに不安を爆発させて虚構ちゃんに泣きついた俺を安心させようとしてくれているのだ。
虚構ちゃんは俺のことが大好きで、俺も虚構ちゃんのことが大好き。それはずっと変わらない。何が変わっても、何が来ても、何が失くなっても、何になっても、それだけは絶対に同じだ。
だけどあの日の夢とあの日の希望みたいな男の顔が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
ビルの屋上から飛び降りて死のうとした俺を引き上げた白い手があった。しなないで、と俺の名前を呼んだ声があった。
あの手をもう一度掴んだら、あの日、自分を何のためらいもなくゴミ箱に捨てて消えた男の気持ちがわかるのだろうか。俺でもあんなふうに幸せになれるだろうか。
「ラ〜」
愚か君は幸せじゃなくていいんだよ。
幸せになろうとする必要もないんだよ。
「マウ〜」
愚か君は不幸せじゃなくてもいいんだよ。
どちらかである必要も、何かである必要もないんだよ。
「虚構ちゃん」
虚構ちゃんは今日もヒラヒラチラチラと白い白い夢のように舞っている。
「虚構ちゃん」
また、
「虚構ちゃんはどこから来たの?」
またその声に、またその白い白い白い白い白い声に、
「ウー」
ーー鏡だ!
「ーー鏡だ!虚構ちゃん」
少しずつ忘れていくものがある。
それが何か忘れてしまったけれど、何かを始まりから少しずつ忘れていっている。誰かと出会ったことを、誰かの顔を、声を、言葉を、少しずつ。
俺は愚かだから。
全部全部いつか忘れてしまうのだ。
けれどまだ覚えていることがあった。
あの夢と、虚構ちゃんが大好きな想いと、だれかの言葉。
「全部あの鏡のせいだ!」
*
思えばあの男とヤンがおかしくなったのも、男があの鏡を二人で覗いたと言ったときからだった。
正確には二人は過去を思い出したから、あの鏡には悪い過去が閉じ込められているのだ。それを見るから壊れてしまう。壊れないように大切に大切に見えないように捨てたのに、その過去を思い出すからいけないのだ。
俺があの夢を見たのもあの鏡を覗いたせいだ。もっと考えてみれば、あの鏡に俺が辿り着くまでに見ていた数々の悪夢は、あの鏡が俺を呼び寄せようとしていたようにも思えてくる。
森の奥には花園があって、
その中央には鏡がある。
その鏡を覗いた虚構が、
虚構ではなかった過去を思い出して狂ってしまう。
そうだ。そんな話だ。そんな単純な話だ。
思い出した。
思い出した?
そんな話は聞いたことがない!
虚構ちゃんが後ろから静かにヒラヒラと舞って付いてくる。朝と昼と夕暮れと夜がぐちゃぐちゃになって混ざり合ったような日差しと陰りと茜と黒と星空の下、木と葉と花の形をした何かをガサガサと掻き分けながらあの道を走った。
男が自分の作品を抱えて血みどろで歩いて探した花園へ、俺が虚構ちゃんを忘れて夢中で求めた花園へ、続く道を。
この道は、
この道はどこにあるのだろうか?
「虚構ちゃん、鏡だ」
いつもの白と、いつもの鳴き声。こんなところに来ても虚構ちゃんは何も変わらない。虚構ちゃんが違う姿を見せるのは俺の夢の中だけだ。虚構ちゃんは普段家の天井を飛び回るのと全く同じようにフワフワヒラヒラと俺の頭上を舞っていて、俺の指差す鏡を興味深そうに見下ろしていた。
「鏡だよ」
虚構ちゃんは、いつもと同じ、
笑っているのか泣いているのかわからないような白い白い声。
虚構ちゃんはこの鏡に映るのだろうか。
「虚構ちゃん」
「愚か君」
クスクスと、ちいさな掠れた吐息が聞こえる。
「ーーくん」
*
「ーーくん!」
ビルの屋上から飛び降りた、俺の名前を呼ぶ人がいた。
俺の手を掴んで、力強く引き上げる手があった。
「しなないで」
泣きそうな声で、俺に縋る言葉があった。
「大好きなんだ」
そう、言う。
それだから、
だれも俺を愛さなかった世界で、だれも俺を救わなかった世界で、最期の最期でそう言った。
白い手と、黒い服。
かさついた、今にも泣き出しそうな声。
愛しい愛しい何かに縋るような、愛しい愛しい声。
「いかないで」
その手が、声が、言葉が大好きだった。
彼だけが俺を理解しようとしてくれた。
彼だけが俺を愛そうとしてくれた。
彼だけが俺を救おうとしてくれた。
彼だけが俺の名前を知っていた。
どうして忘れていたのだろう。
どうして思い出せないのだろう。
これは誰の手だろう。
俺の名前を呼ぶのは、俺の手を最期の最期で掴むのは、こんなに俺に死んでほしくないのは、
どうしてわからないのだろう。
ずっとここにいたのに。
風が吹く。声が止む。閉じていた瞼が開いて、ビルにぶら下がったまま顔をあげる。
彼が、見える。
泣きそうな、それは、
「ーーーーーーあ」
ふ、と手が離れる。
そうじゃない。
手を離したのは、俺だ。
「ーーーーーー何だ」
それはまだ俺を見て叫んでいた。目の前で起こっていることを認めたくないというように、ボロボロと涙を零していた。まるで大切な何かを失ってしまったように。
「ーーーーーー俺か」
あーあ。
じゃあ幻覚だ。
だれも俺を愛さない世界だ。
たれも俺を救わない世界だ。
その世界で、最期の最期で俺の手を掴もうとしたのは、俺の名前を呼んだのは、俺をずっと愛そうとしていのは、
「ーーしなないで!」
あれは、自分自身そのものだった。
あれは俺を愛そうとしていた。
あれは俺を救おうとした。
あれだけだ。俺だけだ。
一人もいない。それだけだった。
それも愛そうとして愛せなかった。
救おうとして、救えなかった。
俺の名前を呼ぶ。
その名前の部分だけが靄がかって聞こえない。
あーあ。
幻覚だ。
愛せなかった。
愛せなかった。
自分一人も愛せなかった!
自分一人も救えなかった!
だから落ちた。
落ちて、潰れた。
自分一人すら愛せないのに、他人に愛してもらおうなんて傲慢だった。
俺はそもそも、人に愛される資格すらなかった。
最期の最期でそんな簡単なことに気付くなんて最悪だ。
しらないまま死ねばよかった。
あの俺が、俺を救おうとなんてしなければよかった。
あーあ。
あーあ。
あー、あ。
*
「ーーちゃん」
ーーを呼ぶ。
「ーーだよ」
ーーを呼ぶ。
黒い、黒い、黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い声。
わかるのはきみの名前と、きみの愛と、きみの言葉だけ。
それだけ。
*
だれのはなしだ?
*
この世界にはあまり正真正銘の真実というものはないけれどそれでも全てが虚構と言い切れるわけでもなく、例えば一部の生き物にとっては真実だけど客観的に見れば虚構だったり、虚構になりたいけどなりきれないものだったり、真実になりたいけどなりきれなかったりするものがある。そういうものは主観が生き物なら少しわかりやすいけれど多くの場合は概念で、冬の間だけトンネルの横に草に埋もれてひっそりと現れる扉だとか、深夜、参加しなかった祭りが終わった筈なのに聞こえてくる祭囃子だとか、遺書の続編とか、13月1日などがそれに値する。どれもこれも「あったらいいな」「ない方がいいな」みたいなフワッとしたそれすらあるのかないのか認知されないような無意識の中に存在したりしなかったりするもので、実際別にあってもなくても何も変わらないし、誰も困らないし、誰も喜ばない。けれど世界のバランスを保つためには欠かせないものだ。ということも特にない。世界のバランスなんてものは無い上にそもそも必要とされてもいない。ただただ真実でも虚構でもなく、主観を交えて言えばどちらかといえば「別にあってもなくてもいいけど何か嫌」の部類に入る。そういうものがこの世界にはそこそこある。
嘘だ。
ここにあるのは虚構だけだ。
*
*
*
この世界にはあまり正真正銘の真実というものはないけれどそれでも全てが虚構と言い切れるわけでもなく、例えば一部の生き物にとっては真実だけど客観的に見れば虚構だったり、虚構になりたいけどなりきれないものだったり、真実になりたいけどなりきれなかったりするものがある。そういうものは主観が生き物なら少しわかりやすいけれど多くの場合は概念で、冬の間だけトンネルの横に草に埋もれてひっそりと現れる扉だとか、深夜、参加しなかった祭りが終わった筈なのに聞こえてくる祭囃子だとか、遺書の続編とか、13月1日などがそれに値する。どれもこれも「あったらいいな」「ない方がいいな」みたいなフワッとしたそれすらあるのかないのか認知されないような無意識の中に存在したりしなかったりするもので、実際別にあってもなくても何も変わらないし、誰も困らないし、誰も喜ばない。けれど世界のバランスを保つためには欠かせないものだ。ということも特にない。世界のバランスなんてものは無い上にそもそも必要とされてもいない。ただただ真実でも虚構でもなく、主観を交えて言えばどちらかといえば「別にあってもなくてもいいけど何か嫌」の部類に入る。そういうものがこの世界にはそこそこある。
概念の例を出したが、生き物で言えば俺である。名前も特になく、居ても居なくてもそこに全く影響を及ぼさず、ただただ形容するならば「何か愚か」何か愚かなので愚か君と呼ばれている。何か愚かな人間は、別に自分に関係がなくても何か嫌。そんな感じだ。対してこの世界を大きく占めているのは「虚構」の割合で、虚構とは何かというと虚構である。そのまま、フィクション。虚構なのだ。だからそこに「居る」と、その虚構自身と周囲が全て認めていても虚構であることに変わりはないのでそこには何も「居ない」のだ。ついでに言うと虚構自身というのも虚構に過ぎないので、虚構がいくら自分はここに居るのだと意思表示をしてもその意思も存在も何もかもどこにもないのである。
このことは知り合いが以前教えてくれたことなのだが、正直この感覚は未だに俺もよくわからない。なぜなら彼女はいつだって目の前にいるから。彼女はいつだって目の前をヒラヒラフワフワ舞っていて俺の名前を呼ぶのだが、知り合い曰くそれは全て虚構らしい。否定しようにも当の彼女が「虚構ちゃん」で、俺は彼女が世界で一番大好きなのでその呼び名を否定するこは出来ないのだ。まあ彼女が虚構ちゃんならば彼女は虚構なのだろうと思うしかない。その知り合いにだって虚構ちゃんは見えているのに虚構ちゃんはどこにもいないらしい。
ただ不思議と虚しくならないのは、きっとそれが到底有り得ないと言い切れる話ではないからだ。何か根拠があってそう思うのではなく完全に俺の思想の影響なのではあるが、この世界でなくとも「そういうこと」はままある。この虚構の世界と対極にある世界では基本的に全ての物は真実であると認識されている。彼らは自分たちの存在を疑わない。仮に自分がいないとしても、自身の思想、思考の存在について疑わない。けれど彼らは生まれてきて、死んでいく。生まれてくる前、死んだ後に彼らがどこにもいないことを俺は知っている。彼らが生きていた世界が、世界になる前にはどこにもなく、いずれ世界ごとどこにもなかったことになるのを俺は知っている。何もないのだ。何もかもなかったことになる真実は、果たして真実と呼べるだろうか?結局最終的に行き着くのが虚無ならば、そんなものは既に虚構であるのと同じだ。要するに、どんな世界であろうと、自分が真実であろうが虚構であろうが根本なんて何も変わりはしないのだ。世界なんてそういうものだ。そういう風に、出来ている。
そういうもので、あってほしい。
*
「お疲れ様、虚構ちゃん」
しかし世界というものはそう簡単に悟りきれるものではないようで、真実や真実と虚構の混ざり合う何かは俺の目の前で着実に虚構になって消えていく。それは文字通り、そこにあったものが無くなるという形で。
俺がそう声をかけると、虚構ちゃんは振り向いて「ナ〜」と鳴いてケラケラ笑った。淡いピンクがかった、顎の辺りで切り揃えられた白髪。その前髪は顔を全て覆い隠してしまっていて、両サイドの髪束だけが肩のあたりまで垂れている。前髪の少し上辺り、構造はわからないが目と口に見える黒がこちらを見る。さっきまでそこに泣きそうな顔をして立っていた人間は、もうどこにもいなかった。
出会った時から虚構ちゃんはずっとそうだった。
虚構ちゃんは虚構を救うことが出来る。虚構ちゃんは目の前に何かが現れると必ず飛びついてそのフカフカの体で抱きつくのだ。特に生き物だと動きは俊敏で、多少離れていても弾のような速さで両腕と呼んでいいのかわからないがそれに対応する部分を目一杯広げ、白い髪をユラユラ揺らしながらフワッと飛んできてフカッとその生き物の顔面を包むように抱きしめる。その動きは非常に愛らしくて可愛らしい。愛らしくて可愛らしいのだが、その直後には不可解な事が起こる。虚構ちゃんが抱きしめて顔を隠された生き物は次の瞬間跡形もなく消えてしまうのだ。あの心地良いフカフカの向こうでジュワ、と熱で溶けるような音を立ててそこからいなくなってしまう。それから笑う。虚構ちゃんが、ケラケラと笑う。可笑しそうに、不思議そうに。
虚構になるのだ。
あの知り合いはそう言った。俺もそう思った。虚構ちゃんに抱きしめられたら、何もかも虚構になって消えてしまう。虚構になって消えるというのも語弊があるが、正確には消える彼らは元々虚構なのだ。本当はどこにもいないのに、そこにいることになっている。周囲から見れば彼らには全く害も利もないため誰に咎められることもないが、同時に彼ら自身の利害も見落とされがちだ。彼ら虚構は虚構なりに悩んだり悲しんだり苦しんだりしているけれど、虚構なので実際にはそんな感情なんてないのだ。だから全部無視される。虚構はそれが悲しいけれど、虚構だからその感情が本物なのか本当はどこにもないのかわからない。だとか。そんな理由で、虚構は虚構ちゃんのところへやってくる。多分、彼らはその感情を肯定してほしいわけではない。悲しんだり苦しんだりしてもいいんだよ、とか。そんな言葉は求めていない。ただ認めてほしいのだ。彼らが虚構で、本当はどこにもいないことを。世界はどこも虚構に厳しいけれど、虚構ちゃんはどこまでもどこまでも虚構に優しい。虚構でもいいんだよ、ではない。そうではなく、虚構だからどこにもいなくてもいいんだよ。そう語るのだ。どこにもいなくていいんだよ。悲しまなくても苦しまなくてもいいんだよ。嬉しくなくてもいいんだよ。楽しくなくてもいいんだよ。名前なんてなくていいんだよ。誰からも好かれなくても、誰も好きになれなくても、誰からも無視されてもいいんだよ。自分にすら嫌われても、自分すらいるかどうかわからなくてもいいんだよ。だってきみは虚構なんだから!本当はどこにもいないんだから!あのフカフカの中で、虚構ちゃんはそう言って何もかもを溶かすのだ。虚構ちゃんはとても冷たいけれど、真っ暗闇の中で蕩けるようなフカフカは熱い。熱くて、熱くて、あまりに心地良い。きみは虚構だよ。その熱で、その温度だけで、どうしようもなく救われてしまう。きみは虚構だよ。そう溶かす熱が、同時に首筋を撫でる虚構ちゃんのサラサラの髪が、体の奥からあるはずのない心を優しく抉り出して灼いていく。あるはずのない脳みそがグズグズと泡立って掻き混ぜられて、そのまま何もかもグチャグチャのまま、何もかもが認められてしまう。あの開放感を、あの気持ち良さを俺は知っている。何を隠そう俺もやられたから。だから虚構ちゃんから抱擁を受けて消えてしまう生き物の気持ちは痛いくらいわかるのだ。
「お茶にしようよ、虚構ちゃん」
今日虚構ちゃんを訪れてきた少女も虚構だった。まちがえちゃったの。そう言って泣きそうな顔で笑っていた。なるほど、と思った。何を間違えたのかはわからない。けれど彼女がそう言うのならば彼女は虚構なのだろう。抱き締めたくてうずうずしている虚構ちゃんに俺が合図を送るとすぐに喜んで飛びついた。そうして消えた。それだけだった。彼女がどこへ行ったのかはしらない。けれど元々どこにもいないんだから、きっともう、ちゃんとどこにもいないのだろう。そうあればいい。そう思う。
「マ〜」
虚構ちゃんは嬉しそうにまた部屋の中をフワフワ舞ってテーブルについた。俺はカモミールの入った瓶を開ける。虚構ちゃんが笑う。いいね。今日もカモミールを淹れて。そう言っている。クッキーを何枚かお皿に並べて俺も虚構ちゃんの向かいに座る。
「おいしい?」
「ウ〜」
昔はなりふり構わず誰を見ても飛び付いては消していた虚構ちゃんだったが、今はもうそんなことはない。先程の少女のように虚構ちゃんに抱きしめてもらいにきた生き物だけ、俺が許可した時にだけ抱きしめる。俺がそうお願いしたのだ。断っておくと問答無用で消さていく生き物に同情を覚えたとかそういう理由では一切ない。むしろ彼らは幸福だった。消えた方がいいとまでは思わないが、彼らはみんな真実も、心のどこかで消えたがっている。それなら何故かというと、正直な話、俺は虚構ちゃんのことが大好きになってしまったのだ。
抱きしめられたから大好きになってしまったというのも単純な話だが言ってしまえばそれが全てだ。あの瞬間、あのフカフカに包まれて熱で脳みそがドロドロになって、認められた開放感と多幸感で俺はいっぱいいっぱいになった。このまま消えるんだろう、それがいい、本気でそう思いもした。けれどそれで終わらなかった。俺は消えなかった。俺はあの瞬間熱の中で、自己中心的な幸福感を上回るほどの感情を俺を抱きしめている張本人の虚構ちゃんに抱いたのだ。それは愛でも恋でもなかった。そう感じた。
今となってはそれは愛なのかもしれないし、恋なのかもしれない。何でも良い。何であれただ純粋に、ただただ「好き」という感情がそこにあった。愛でも恋でも何でも良い。それは虚構ではなかった。虚構ちゃんが好き。世界で一番。今でもずっと。俺はこのよくわからない虚構ちゃんという生き物のことが本当に本当に大好きになってしまったのだ。だから虚構ちゃんが誰彼構わずフカフカと抱き付きにいくのが少し嫌だった。だからお願いした。それだけだ。俺がそうお願いすると虚構ちゃんは少し不思議そうに首を傾げていたが、すぐにいつものケラケラと笑ってからかうようなような音色で「ラ〜」と鳴いた。わかったよ、と言っていた。何を隠そう虚構ちゃんも俺のことが大好きなのだ。
それからずっと、虚構ちゃんと俺は一緒にいる。
眠りから覚めたらゆっくり起きて、俺は卵を使って食事を作る。虚構ちゃんは気まぐれで食べたり食べなかったりする。起きてから次の食事までは一緒にソファに座って本を読んだり手遊びをしたりテレビを観たりして過ごす。昼食をとった後は虚構がやって来たりやって来なかったりするので虚構ちゃんと虚構を救ったり救わなかったりして過ごす。しばらくして客足が途絶えたらお茶の時間。虚構ちゃんはカモミールが好きだから毎日カモミールを淹れるけれど、俺は毎日虚構ちゃんに何を飲みたいか聞く。虚構ちゃんは毎日嬉しそうにカモミールにしよう、と答えてくれる。お菓子がある時はお菓子も並べる。最初の頃は虚構ちゃんは飲んだり飲まなかったりしたけれど、最近は毎日俺に付き合ってくれるようになった。その後も虚構がちらほらやって来るのできりの良いところでclosedの看板を玄関にかける。それから散歩をしたり、本を読んだりテレビを見たり話をしたりして2人で過ごす。夕食は食べたり食べなかったりする。眠る時はおやすみを言ってそれぞれの部屋のベッドに潜るけれど、虚構ちゃんは夜中になると頻繁に俺のところにやってくる。勝手に潜り込んでくる虚構ちゃんに起こされたことはまだないので、虚構ちゃんは余程人のベッドに侵入するのが上手いのだろう。そうして次の日がやってくる。
こんな感じだ。ちなみに俺は愚かなので1日に3回くらい怪我を負っている。今日も火傷と打撲を一つずつ負った。虚構ちゃんはそんな俺を見て、心配したりケラケラ笑ったりしている。
ずっと一緒にいる。
「虚構ちゃん、この前食べたケーキ覚えてる?」
「マ〜」
「美味しかったよね。後でまた買いに行こうよ。また明日一緒に食べよう」
「アウ〜」
ずっと一緒にいる。
俺が虚構ちゃんのことを大好きだから。虚構ちゃんも俺のことが大好きだから。
ここがどこかわからないけれど、虚構ちゃんが何なのかわからないけれど、俺自身も誰なのかわからないけれど。
*
お茶の食器を片付けていると、チャイムも鳴らさず不躾に玄関の扉がガチャリと開けられる音がした。外の遠慮がちな冷気がテーブルの上の観葉植物の細い葉をカサカサと揺らす。鍵を閉め忘れただろうか。いかんせん愚かなのでそういうことは頻繁にあるため特に驚くこともなく振り返る。大方どこからか虚構ちゃんの噂を聞きつけてやってきた虚構だろう。対客人用の声をあげてそちらを見ると、そこには一人の少女が佇んでいた。
*
彼女を家の中に招き入れ、カモミールと残っていたマドレーヌをお皿に並べて机に座った。少女は躊躇いがちにカップとマドレーヌのどちらに先に手を伸ばそうか逡巡した後、カップの取っ手に手を添えた。虚構ちゃんはフワフワと少女の周りを舞った。
少女の名前は知らないけれど、俺は彼女を知っていた。自分の名前を知らない彼女を、俺は十三月一日と呼んでいた。言葉足らずな彼女から得られた情報がそれだけだったからだ。
別に少女とだけわかっていればよかったけれど、何となく呼び名がないのは物足りなかった。目に見えるものには名前があるべきだと思う。
「それで、今日はどうしたの?君がうちに来るなんて珍しいね」
十三月一日は出会った時から虚構だったけれど、虚構ちゃんにゆるしてもらうのを拒んだ数少ない虚構のひとつだ。虚構ちゃんの言葉がわからないのが怖いらしい。虚構ちゃんの言葉を理解できるのは俺だけで、虚構ちゃんには当然悪意なんてないのだが、幼い少女には不可解で恐ろしいものに見えるのだろう。
言葉は、たしかに大切なものだと思う。
「あの鐘がどこで鳴っているのかしっていますか」
伏し目がちの視線をソーサーに滑らせて、十三月一日はか細い吐息を一気に声にして吐き出した。この話し方は彼女の癖だった。少し考えてから、次に言うことを躊躇って、それから一息に口に出す。彼女の口調さえ早口には聞こえるが、その間があるせいで彼女との会話は常にとてもゆっくりと進んだ。
あの鐘とは、この世界で唯一時間の感覚を思わせる、一日(と俺が勝手に定義している)に三回鳴る鐘のことだろう。毎日俺と虚構ちゃんはその鐘の音を目安に過ごしている。
この世界において俺と虚構ちゃんの生活範囲はこの家と、もう一つ、家の前に続く小道を進むとある広場だ。その広場にはあらゆる店が並んでいて、生活に必要なものも必要ないものも全てそこで調達できる。あの鐘がどこで鳴っているかなんて考えたこともなければ、それ以外の場所を探索しようという気すら起こしたことはなかった。
けれど、そういえば、俺が知っている限りのこの世界の中に鐘のようなものは存在していなかったような気がする。
「私気になって鐘を探したんです家を出て、広場を抜けて脇にあった小道を進んだら長い階段があったんですそこをどんどん降りて、いきました」
十三月一日は更に続けた。カップに添えた白く細い指先が小刻みに震えている。時折カチ、と陶器の揺れる音が響いた。これも彼女の癖だった。
「そうしたら細い長い階段の先にと、鳥居があったんですそこを潜ると更に細い道が続い、ていて小さな神社がありました」
ここで彼女がふと顔をあげて俺を見た。不安そうなベージュの瞳が居心地悪そうにクルリと動く。
「かがみが、ありました」
「お話します。お話します。私が見たこと全部きいてください私どうやら虚構じゃなかったみたいなんです。ね、知ってましたか十三月なんてないんです私ずっと知りませんでしただってだれも教えてくれなかったから。神社の鏡が全部教えてくれました。あの鏡は本当のことを全部お話する鏡です。ほんとの私は、でも、もうちょっとできっと死にます。おとながみんな私のことをいらないと言って十三月に捨ててきたからもうすぐ息ができなくなる。その前にここに、」
「ウ〜」
十三月一日はふと飛び回る虚構ちゃんに目を止めた。
虚構ちゃんは夢のように、嘘のように白い。本当はここにいないかのような身軽さでフワフワチラチラ舞う。彼女の視線に気が付いたのかそれとも偶然か、虚構ちゃんは人懐っこそうな仕草で十三月一日の顔にそのフワフワの白を近づけた。興味深そうに覗き込む。
十三月一日は居心地悪そうに視線を逸らし、それからしばらく床を見つめた。ややあって何か言いたそうに唇が震える。数拍おいて、一気に息を吐いた。
「あなたに会いにきたのかもしれない」
その手を虚構ちゃんに伸ばした。虚構ちゃんの髪を撫ぜるように差し出されたその指先はしかし、何も触れていないかのように虚構ちゃんの頭部をスルリと潜り抜けた。虚構ちゃんがケラケラ笑う。
それから我に返ったように彼女は俺の方を見て言った。
「また来ます」
*
*
家を出ると目の前にあったのはいつもの小道ではかった。
そこには長い長いどこかへと下る細い細い石造りの階段があって、まるで手招きしているかのように提灯が灯っているのだった。
それから、夢をみる。
*
世界で一番優しいのは夢と幻覚だ。
許されるならずっと見ていても良い。
それに気が付いたのはもう随分前のことだ。それからずっと夢と幻覚を見ている。
正確には、見ていることにしている。
現実は全部虚無と無為と悪意の掃き溜めみたいなものだ。それから逃れるため、子供の頃はどんな夢も幻想も自分のものだった。現実と非現実の区別がついていないから、ただひたすらに心地よかった。
でも夢も幻覚もいつか覚めてしまうと知ってしまってからは、眠っても気を失っても夢なんてみなくなってしまった。本当は見ていたのかもしれないけど、起きたら全部忘れていた。
残ったのはクソみたいな現実だけ。
死にたがりの両親。死にたがりの癖に、何の取り柄もない癖に、一丁前にゴミだけはひとつ生んで、毎日毎日殴ってみたり蹴ってみたり怒鳴ってみたり無視してみたり。して、挙句、オレが大人になる前に二人して仲良く車でガードレールに突っ込んで、海に落ちて死んでしまった。うまく人と話せないから、誰も彼もに嫌われて学校も行かなくなってしまった。 ラブラブの心中に置いていかれて一人になった。親戚がいるのかどうかもわからない。どうにか就職してしょうもない会社の下っ端になったけれど、そこにも居場所なんて特になかった。
はやくしねばいいのに、と目に映る全てから言われているようだった。鏡の中の自分も嫌悪感に満ちた目でオレをみていた。はやくしねばいいのに。
はやくしのう、と思った。
この足枷が邪魔だ、と思った。
その足枷は家中に散らばっていた。両親が死ぬ前は誰も使っていない物置の奥で床を軋ませていたのだが、家に誰もいなくなってからは少しずつ部屋に侵食してきて、今では足の踏み場がない程に床を埋め尽くしていた。
それは一本の小説だった。
ずっとずっともう思い出せないくらい前から書いていた、長い長い物語だった。
その原稿用紙が、対して広くもないアパートの一室を玄関先から中までを埋め尽くす勢いで散らかっているのだ。
その一枚一枚はもうペンが滲んで黒ずんでしまって何と書いてあるのか読めないものも多い。順番もぐちゃぐちゃで、どれが一枚目なのかもわからない。けれどオレはその長い長い物語を何度も何度も拾い上げて読んだから、もう何も見なくても一から脳内で再生することが出来るくらいだった。
物心ついた頃にはもう心の拠り所となっていたから本当にいつ書き始めたのかはわからない。もしかしたら一枚目はオレが書いたのではないのかもしれない。けれどこれは確かにオレの小説だった。家で、学校で、どこにも居場所がないとき。だれも話し相手がいないとき。いつでもこの物語を思い出せば、まるでだれかオレのことをあいしている人が読み聞かせでもしてくれていくるかのような安心があった。
だれでもない、どこにもいない人の話だ。
よく作家は身近にいる人をモデルにして創作すると言う。自分の地元が舞台だったり、創作意欲を自身の周辺の特異な点から刺激するのだ。けれどオレにしてみればそんなものはくそくらえだった。自分の小説の中に現実世界を想起させるような要素が入っていたら頭がおかしくなってしまう。出来るだけ知らないこと。出来るだけ現実とかけ離れたこと。見たことも聞いたこともない言動。周囲にいる誰とも似つかない性格。それから、理想。
話の内容もこの下らない現実の要素は全て捨てた。朝も昼も夜も、言葉も他人も時間も生も死もいらない。必要なのは綺麗な音と、色と、ひとつのうつくしい存在だけ。彼はありとあらゆるものを見た。ありとあらゆるものをあいして、歌って、ゆるした。オレとは正反対の、クリーム色の絹のような髪。大きくて丸みのある瞳。しなやかな肢体。心。
物語の全編を通して、彼の歌う唄と、彼を取り巻く色と、彼に揺蕩う愛を描いた。そこにはだれもいなかった。彼が一人、何もない世界で見えない愛と色と唄を愛していた。それは理想で、夢で、幻想だった。
この世の全てが虚構ならいい。ここにあるものが本当はどこにもなければいい。本当はどこにもない幻覚が、ひたすらうつくしいものであればいい。
彼の名前をヤンと名付けた。知っている限り何の意味も持たない言葉だ。どこか舌触りがよくてきれいな響きだった。タイトルもそれにした。この小説の含む要素の何もかもが何の意味も持たなければいい。それだったら、素晴らしい。
何千枚も、何万枚もの原稿用紙がここにはあった。何百万字、何千万字の理想と幻想がここにはあった。
これがオレの足枷だった。
なぜならまだ完成していないから。
あと一文で完成するのだ。あと一文で完成するから、そうしたら死のう。そう思ったのは二年ほど前だった。この完璧で素晴らしいうつくしい世界はあと一文で完全になる。そうしたらもうこの世に期待することなんて、何もない。
けれど最後の一文が書けないまま、思いつかないままだらだらと二年が過ぎていた。
この素晴らしい物語を締めくくるのが怖いのだろうか。ここに誰もいなくなってしまうのが怖いのだろうか。それとも、もしかして、まだ死にたくないのだろうか。
そんなのまるで、この生に何か期待でもしているみたいじゃないか。
目を瞑って彼の記憶を半数する。二十数年、彼の見た景色を追想する。思えばこのろくでもない人生の大半をオレはそうすることで過ごしていた。くだらない学校生活、くだらない家、くだらない職場。くだらない自分。それを見ないように聞こえないように、ヤンに縋って生きてきた。
オレだけのヤン。この世界で、他のだれもしらない。オレだけが知っている、最高で、至高で、唯一のすばらしい世界。
それでいいはずだった。
あと一文さえ付け足せば完結だった。それだけでくだらない人生にも満足できそうだった。本当だった。
本当だった。
世界で一番優しいのは夢と幻覚で、その中心で全部虚構みたいな顔をして、ずっと騙され続けていればよかった。
でもいま目の前にあるのは嘘みたいな下らない現実と、痛みと色のない固形の感情だった。
需要があるんだ、とその男は言った。
弛緩剤を打たれて指一本も動かせないオレを見下ろして、男は心底つまらなそうな表情をその老いた顔に浮かべている。その表情が普段鏡に映る自分の顔によく見ているので虫酸が走る。目が合うと男は人を小馬鹿にしたような顔で鼻を鳴らして笑った。
「でももう、廃棄処分みたいなもんだろ。何の価値も無いお前にちょっとした金がつくんだから悪い話でもないだろ」
それを聞いて、それもそうだ、と思った。
話によると男はオレの祖父ということらしい。今まで一度も会ったことも声を聞いたこともなかったので初めはにわかに信じられなかったがその表情の作り方があまりに自分に似ているので納得せざるを得ない。けれどオレとは違い、随分と人を謀るのがうまいみたいだった。
その男との出会いは一本の電話だった。もうとっくに使い物にならなくなっていると思っていた家の電話がか細く鳴いたので、こんな家に電話をかけてくる相手が気になって受話器をとってみた。この時点でもうどうにでもなれと思っていたのだから、自業自得といえば自業自得だ。
何も喋らないつもりだった。電話先の相手が自分の祖父だと名乗っても、近況をしつこく聞いてきても、体調を気遣われても、食事の心配をされても、両親のことを謝られても、面倒を見ると言われても、オレは何も答えなかった。もしも相手が本当に血縁者だとしても、もう誰にも何も期待するつもりはなかった。けれど、それから毎日かかってくる電話には十数コールをおいて欠かさず出るようになった。男はしわがれた寂しそうな声で、両親が会わせてくれたらこんなことをしたかっただとか、家族写真を大切に持っているだとか、そんなことを毎日つらつらと語った。オレは何も喋らなかった。
ある日から、男は何か大切なものや欲しいものはないかと聞いてくるようになった。何でもいいからしてやれることがないか、ということらしい。欲しいものなんてないからここでも何も言わなかった。けれどあまりにしつこく聞いてくるので、次第にオレは、不思議とこの男に対して怒りや恨みのような感情を持つようになっていた。今更欲しいものも誰かにしてほしいこともない。こっちは、だって、今すぐにでもここからいなくなりたいのだから。自分に巻きつくしがらみも言葉も感情もここにあるもの全て何もかもなかったことになればいい。
あと一文、‘彼’を象る最後の欠片が揃って仕舞えばオレはすぐにでもそうするのに。
それなのに、それだけなのに。それなのにこの男は今更のこのこと電話をかけてきて、一言も返事をしない電話先の相手を孫だと疑わずに、平和に温厚に生きてきた証拠の寂しそうな声でそんなことを言うのだろう。それがあまりにも恨めしくて憎らしくて、けれど、電話はとり続けた。
男の勘に触る声と言葉を聞き続けて、ある日ついに決壊したオレは男を怒鳴りつけていた。その怒りを、恨みを、明日にでも死んでやると、そう叫んだ。随分長い間人とまともに会話をしていなかったからそれは叫びとも声ともつかないものであったけれど、男は不思議と聞き取れたようだった。
それから次に返ってきた言葉は、想像もつかないようなものだった。
「小説を書くのか」
ほっとしたような、嬉しさと安心が入り混じったような、平和な人間が得意な感情をたっぷりと滲ませた声だ。
「読んでみたいな」
そして、本当に情けないことに、その言葉を聞いてオレの怒りも恨みも感情も、全て一息に跡形もなくどこかへ消えてしまったのだ。
そんなことを言われたのも、そんなことを考えてみたこともなかったから。
どうやら男は本当にオレの小説に興味があるようだった。それから男がオレに向けて言うことはまるで夢か幻覚でも見ているかのような現実味のない言葉ばかりだった。小説を読んでみたい、と言った。その世界に興味がある、と言った。冗談じゃない。これはオレの世界だ。けれど、誰にも見せるつもりもなかったけれど、誰にも理解なんてしてほしくなかったけれど、それでも、もしかしたらその言葉に救われていたのかもしれない。
一度くらい死ぬ前に誰かにこの世界を知って貰ってもいいかもしれない。
最後の一文くらい、自分だけのものでなくてもいいかもしれない。
そう思った。
それこそまるでこの生に何か期待してるみたいだ。今思えば心底下らない感情だ。それでもあの一言でどうしようもなく救われてしまったのは、多分、きっと、そういうことなのだろう。あれから男が小説を読みに来るという話が決まるまでの数日間、まるであの言葉を言われた瞬間に生まれたかのような新鮮な感情に包まれていた。
結論から言ってしまえば、それはまさしく夢であって、幻覚だった。あの会話の隅々に至るまで全て、本当のことなんて何もなかった。男が本当にオレの祖父か、そうでなくても血縁者であるだろうことを除けば全部全部あの男のまやかしだった。オレの小説を読みたい人間なんて一人もいないし、オレの世界に興味のある人間なんて一人もいなかった。
けれど、同時にオレは心底この男に感服していた。なけなしのプライドも何もかも捨ててしまえば、つまり、オレは男の夢と幻覚を愛していた。下らない両親のことを気に病み、孫の体調を気遣うこと。形ばかりの家族として、形ばかりの幸福を求めたかったこと。何か大切なものを尊重しようとしてくれること。返事のない相手にかける色とりどりの言葉。拙い創作を中身を見てもいないのに愛してくれること。怒りも恨みも否定しないこと。それは全部全部虚構でどこにもない妄言で、愛も本音もないまやかしだったけれど、それら全てをオレは愛した。それが夢で、幻覚でしかなかったことも含めて。この幻覚が好きだった。どうしようもなく下らない最低な汚らわしい創作だ。本だったら読まないし、映画だったら共感もしない。けれどこのクソみたいな隙だらけの幻覚は、オレにとって馬鹿馬鹿しい程完璧だった。
つまりこういうことだ。男は金に困っていた。親も死に、唯一頼れた息子は女と心中した。酒と賭け事に溺れ、職にも付けず、あらゆる金融機関に手を出した。裏の世界にズブズブに浸かってとうとうどこからも金が出てこなくなった矢先にうまい話を聞いたらしい。そこで男はあまり価値のなさそうな人間の存在をひとつ思い出した。
「どこに需要があるのか知らないが、こういう動画はそこそこの金で売れる」
そう言って、男は馬鹿みたいに大きい鉈を取り出した。派手でわかりやすい方がいいのだろう。
生きたまま人を解体する画が欲しいのだという。
痛いだろうな、と思う。
けれど同時にどこかでほっとしている自分もいる。
やっぱり世界で一番優しいのは夢と幻覚だった。
夢と幻覚が終わってしまうのは恐ろしくて辛い。
だから最後の一文が書けなくてよかった。
あの世界の何よりも美しく素晴らしい幻覚が完成してしまわなくてよかった。彼が、ヤンがどこにもいないとわかってしまう前に死ねてよかった。あの途方もなく優しい、甘い、柔らかい、白い白い幻覚が、他の幻覚に汚されなくてよかった。オレの小説に、世界に、オレ自身に、優しい人間が一人もいなくてよかった。
最後の最後まで優しくて、オレが愛したのはどこまでも夢と幻覚だけだった。この現状にも、男に対しても特に何の感情も抱かなかったのはそういうことなのだろう。現実は下らなくて最低だ。そこに何の期待もない。やっぱりこの生になんて何の意味も期待もなかった。それでよかった。このまま死ねたら完璧だった。
痛いだろうな。
あーあ。可哀想だ。
「ーーーろ」
可哀想だ。
夢も幻覚も、どこにも必要なければよかった。
可哀想だ。可哀想だ。痛いのは嫌だ。痛いのは可哀想だ。優しい夢も幻覚も幻想も虚構も白も世界も全部全部可哀想だ。
誰も愛してくれなかったなんて、誰も名前を呼んでくれなかったなんて、
「ーー逃げろ!」
全部嘘だ。虚構だ。冗談だ。誰か聞いてくれ。だれか知ってくれ!
こんな小説も世界も彼も、本当は、本当は、
「こっちだ!」
焼けるような痛みの向こうで誰かがオレの名前を呼んだ。どんな名前なのかはしらない。けれどそれは確かにオレの名前だった。
それは必死に叫んで、泣いて、オレのために手を伸ばした。
その声が、表情が、言葉が、感情が好きだった。忘れていた、これは誰の手だ?この声だけがオレを愛していた。こんなに想ってくれているのに誰なのかわからない。
「逃げろ!」
*
あの声を、手を探す。
*
これは俺の話だ。
これは俺の夢だ。
*
あの声の主を探している。最後の最後で俺を救って、逃してくれたのは誰なのだろう。毎日思い出そうとする。夢を見る。目が醒めると虚構ちゃんが横で眠っている。
十三月一日は少し前に頭がおかしくなってどこかへ消えてしまった。まだ彼女のことを覚えている。この世界には元々、俺が知っている限り言葉を交わすことの出来る存在は彼女と虚構ちゃんしかいないから当然だ。ずっと忘れることもないだろう。
彼女は確かに救われていたようだった。
*
「ナウ〜」
愚か君、どこにいるの。
虚構ちゃんが俺を探している。俺がキッチンから顔を出して手を振ると、虚構ちゃんはパッと白い服を翻して嬉しそうに飛んでやってくる。ポフ、という心地よい音ともに視界が白く暖かく染まる。虚構ちゃんはこうして俺の頭を抱くのが癖だった。
虚構ちゃんは俺のことが大好きで、俺も虚構ちゃんのことが大好き。それだけはずっと、ずっと、初めから終わりまで変わらない。
「愚か君」
虚構ちゃんは、白い鳴き声と俺の名前しか喋れない。本当は喋ったりしているけれど、その言葉は俺にしかわからない。
「虚構ちゃん、なんでかな」
「ウ〜」
愚か君、ここにいたんだ。
「なんで虚構ちゃんは俺のことが大好きなのかな」
「メウ〜」
今日もカモミールを淹れて。
「なんで俺は虚構ちゃんのことが大好きなのかな」
「ペヨ〜」
愚か君、大好きだよ。
「なんで俺は虚構ちゃんの言葉がわかるのかな」
「ラ〜」
「虚構ちゃん、どこにいるの?」
「ナウ〜」
愚か君、どこにいるの。
虚構ちゃんは虚構だ。誰に聞いたのかもう覚えていないけれど、彼女は本当はどこにもいないらしい。虚構ちゃんは確かに俺のことが大好きで、俺は虚構ちゃんのことが大好きで、現に俺の目の前を白をヒラヒラ揺らしながら舞っているのに、彼女はどこにもいないのだという。
「ナウ〜」
愚か君、どこにいるの。
「愚か君」
虚構ちゃんは虚構だ。
愚か君は愚かだ。
愚かだからよく怪我をするし、すぐに全部忘れてしまうし、虚構ちゃんを見失ってしまう。
「ナウ〜」
愚か君、どこにいるの。
愚かだから、虚構ちゃんが本当はどこにもいなければいいと思う。ここにいる虚構ちゃんが、俺のことが大好きな虚構ちゃんが、俺だけの虚構ならいいと思う。
「ウ〜」
愚か君、ここにいるよ。
愚かだから、本当はどこにもいないのがだれなのかわからない。
「ナウ〜」
愚か君、どこにいるの。
愚か君、どこにいるの。
愚か君、大好きだよ。
愚か君、あしたもあそぼう。
愚か君。
ここにいるよ。
「虚構ちゃんが本当はどこにもいなくてもいいよ」
「マウ〜」
愚か君もどこにもいなくてもいいよ。
「でもここに虚構ちゃんがいる虚構だけはずっと俺にのこしてね」
「ペヨ〜」
愚か君がここにいる虚構だけはずっと信じてるからね。
愚か君がだれでもなくても、どこにもいなくても、ずっと信じてるからね。
私がどこにもいなくても、愚か君がどこにもいなくても、ふたりでずっとここにいようね。
そうしちゃおう。
「ラ〜」
それがいいな。
*
「ナウ〜」
虚構ちゃん、どこにいるの。
「愚か君、ここにいるよ」
愚か君は黒い服をユラユラ揺らして、クルクルチラチラと舞っている。愚か君は黒い鳴き声と私の名前しか喋れない。その言葉がわかるのは私だけ。これからも。今までも。
十三月一日は頭がおかしくなって死んでしまった。彼女と話をするのは楽しかったから残念だ。
私は毎日あの夢で私を逃がしてくれた手を探している。あれはきっとここにくる前の、愚か君に会う前の私だ。あれが誰なのか、最後の最後で私を愛してくれていたのが誰なのか、それがわかったらきっと救われる気がする。
夢を見る。
目を醒ます。
夢を見る。
目を醒ます。
鐘が鳴る。
鐘が鳴る。
鐘が鳴る。
鐘が鳴る。
愚か君が横で眠っている。
彼と同じ景色を、同じ世界を、ここで見ている。
ふたりともどこにもいないけれど。
*
愚か君と虚構ちゃん