@toasdm
お邪魔しちゃったかしら、の第一声を否定した、大丈夫です、の声は随分と弾んでいて嬉しそうで、反響していた。そう、ならいいんだけど……と多少気まずそうにする翔真の反応が珍しくて、気にしないでください、と彼女はバスタブの中で足を伸ばした。
「そちらはいかがですか?」
「いいわよ、眺めもお湯も」
「っふふ……こっちは相変わらずです」
遠くの温泉郷で仕事をしている翔真を見送ったのは、もう随分と前のような気がするし、帰ってくるのはもっとずっと先のような気がしていた。実際は、つい先日送り出して、明後日帰ってくるのだが。
「相変わらずの、うちのお風呂です」
広くはないが、翔真と二人で何とか入ることのできる作り付けのバスタブ。翔真さんは温泉だもんね、とほんの少し贅沢をしたくなって、彼女は翔真の出先をでかでかとパッケージに印刷した温泉の素を買って入れてみた。
「そう。寂しいんだね」
お湯よりももっと温かい、人の心の通ったその一言に、じわりと視界が滲み出す。大丈夫です、の声は先ほどとは正反対に、ひどく落ち込んでいるようで、無理をしているようで、同じところといえばバスルームの中で反響していることだけだった。
「アタシもね、アンタがいないと張り合いがないっていうか」
「うん……」
ふぅ、とため息をついている翔真は、今どんな顔をしているのだろうか。閉じた瞼に押し出された涙は音もなく即席温泉もどきの湯に溶け消えて、瞼の裏に描き出した翔真の顔は、まぶしいくらいの笑顔だった。
「ダメねぇ……しっかりしなきゃ」
「すみません……」
「アハハ、違うわよ」
てっきり自分の不甲斐なさを責められたものだとばかり思った彼女の言葉を、翔真は優しく笑って否定する。
「アンタがいなくたって、しっかりしなきゃ、って思ったのサ」
「…………そう、ですよね……」
通常業務には、お互い支障がでているわけではなかった。ただ、仕事に没頭できている間はそうだとしても、こうしてお互いに一人と一人の時間を作って、ふ、と心に隙間を感じたときに、もっとしっかりしなければ、と思ってしまうところは少し、似ているのかもしれない。ちゃぷ、とお湯の音を立てて、彼女は肩に湯をかけた。
「でもね」
問い詰めるでもなく、諭すわけでもなく、優しく穏やかに、翔真は語りかける。
「寂しい、って感じてもらえるのって、なんだかちょっと、嬉しくなぁい?」
「…………そう、かもしれないです」
自分だけが寂しいわけじゃないから、とどこか安心できるような、そんな気持ちになることは否定できない。会いたいって思ってもいいんだ、寂しいって感じるのは悪いことじゃないんだ、という自分の感情を受け入れてもらえる安心感は、寂しさを強くも弱くもしてくれるようだった。
「アタシは嬉しいよ、アンタがそんな風に思ってくれるなんてサ」
「ふふ……変なの」
「お風呂の中ですっぽんぽんのまま電話してるアンタだって大概よ」
「う、そうです、か……」
今お風呂です、くらい言ってくれたっていいじゃないの、とからから笑う翔真が、このくらいの時間に電話をくれることはわかってはいたのだが、今日はとっととお風呂に入って寝てしまおう、と寂しさから逃げようとした彼女は、いつでも電話を取れるようにと万全の体制で早めにお風呂に入っていた。実際その読みは的中して、バスタブの中で一呼吸ついた瞬間に、翔真からの電話がかかってきた。
「待っててくれたんだろう?」
「……はい」
それすらもお見通しの翔真の声が、暖かく彼女を包む。はぁ、と溜め息をついて、翔真はぽつりと呟いた。
「会いたいねェ……」
その一言があるだけで、随分気持ちが違うものだ、と彼女もふぅ、と溜め息をついた。私も会いたい、と弱音を吐けば、アラ、おんなじね、と嬉しそうに翔真が笑う。
「会いたい」
「会いたいよ、アタシも」
もう少しだからいい子でお待ち、と言い聞かせたのは、彼女に対してだったのか、それとも翔真自身に対してだったのかは、そのどちらもだろうとしか答えられなかったが、ただその一言で、二人はどんなに離れていても、その距離をゼロにすることができるような気がした。
「のぼせないうちに上がんなさいよ」
「うん」
「夜更かし厳禁!」
「っふふ、うん」
「湯冷めしないようにまかなって寝るのよ」
「もう……お母さんみたい」
つながる心と他愛もない会話が、寂しさを少しずつ剥がしとっていくようで、自然にこぼれた笑顔はきっと、お互いが記憶しているその表情そのままなのだろう。
「アンタみたいなでっかい子供、こさえた覚えはないわよ」
「はぁい」
離れていても日常は、二人に等しく訪れる。どうせなら嫁にでもなっとくれよ、と言いかけて、翔真は息を詰まらせた。
――こういうのは、やっぱりアンタの目をみて言わせてもらいたいわね。
代わりに「お土産たんと買って帰るから」と楽しみを持たせ、翔真は電話を切った。
温泉郷の雪は、会いたいと思う気持ちのように静かに降り積もっていた。