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縁巌現パロ

全体公開 83 16 6 69782文字
2019-12-08 23:57:59

キメツ学園軸の現パロです。終わってない。ので12/9限定公開にします。現パロなので一人称俺にしてます。

Posted by @cosonococo

 遠き日の記憶は、不意に蘇る。
あれは、縁壱と共に鬼を斬り始めてしばらくした頃、昼間は鬼が出ないので、夜に備えて少し寝ておこうかと俺が自室へ向かっていた時に、弟が日の当たる縁側で何やら梅の花の柄の袋を大事そうに手に抱えているのを見つけた。微笑む横顔が相変わらず気味が悪い。出来れば見なかったことにしたいのだが、自分が行きたい場所は縁壱の向こう側にある。声をかけず通り過ぎるのも不自然なので、多少胃に重たいものを感じながら、俺は弟の名を呼んだ。
「縁壱」
「兄上」
 俺が声をかけただけで無表情のまま顔を輝かせるな、気持ち悪い。
……それは?」
 物に執着しない弟が何かを大事そうにしているところが珍しく、ついつい聞いてしまう。本当は聞きたくなんか無かったのだけれど。すると弟はあの気持ちの悪い笑みをうっすら浮かべ、答えた。
「大事な思い出です」
 聞かなければ良かった。
 何だ、その漠然とした答えは。そんな風に返されたら俺は「大事な思い出とは?」か「中身はなんだ?」とか、聞き返さなければいけなくなるではないか。聞き返したら俺がまるで縁壱に興味があるようにみえるだろう。何たる屈辱。貴様、人と会話をしたいのであればもうちょっと具体的な言葉を返せよ。それであるから、日の呼吸を教えている時に他の剣士に絶望顔で見られるのだぞ、分かっているのか?アァ?分かってないだろうな、分かっていたらそんな漠然とした答えを口にしないだろうな。ああ、駄目だ、こいつとの会話は苛立ちが募るばかりだ。さっさと終わらせよう。
 さっさと眠りたかった俺は、「大事な思い出とは?」でも「中身はなんだ?」でもなく、違う問いを選んだ。
……好いた相手からでも貰ったのか?」
 どうだ縁壱、答え辛いだろう。お前のような朴念仁に一番効くのは恋愛話か猥談だと相場が決まっている。悩め、困惑しろ、その能面のような顔の表情筋を最大限に捻りあげて困り顔になるといい。お前のそんな顔を見られたら俺もいい夢が見れそうだ。
 が、縁壱はよどみない声で「はい」と答えた。ほぼほぼ即答だった。気持ち悪い。この手の話は少しは恥じらえ。なんだ、恋愛も百戦錬磨とでも言うのか。本当に気持ち悪い。
……そうか、良かったな」
 期待した反応を得られなかった俺はそう言い、自室に入り布団の中に滑り込んだ。そして目を閉じて寝ようとしても、瞼の裏に先程の縁壱の幸せそうな顔が浮かんで眠りにつけない。さっきまであんなに眠たかったのに。おのれ縁壱、俺の睡眠すら阻害するとは………………あの弟に、そんな相手が。
 意外と言えば意外だった。物事にそれほど興味がなさそうな男なのに、人並みに恋しく思う女がいるとは気持ち悪い。俺は妻と子がいるが、それは継国家の長男としての責務を果たすためのことだったし、彼らを愛おしく感じたこともない……恋をしたことがない。
 どことなく幸せそうに微笑む弟に、俺の知らない感情を知る弟に、俺は心が軋むのを感じた。ああ、妬ましい。気持ち悪い。そんな女がいるのであれば、その女を俺が奪ったら弟はどんな顔をするだろうか。俺に怒るのだろうか、俺を憎むだろうか、俺を侮蔑するだろうか。俺がここまであいつを憎んで妬んでいるのだから、あいつも同じくらい俺を忌み嫌い、妬んでくれたらどれだけ愉快だろう。しかし、心のどこかであいつが俺を心の底から嫌う日など来るわけがないと確信していた。俺がその女を奪ったところで、あいつはあの気持ち悪い笑みで祝福するに違いない。
 ああ、本当に気持ちが悪い弟だ。
 それからしばらく縁壱の周囲を注視していたが、それらしき女の姿は無く、結局縁壱の想い人の顔を拝む日は来なかった。
俺が梅の花柄の袋の中身を知るのは、それから60年後のこと、縁壱が死んでからの話になる。







「セックスすればいいんじゃないかなぁ?」
 は。
 ビールを飲み終えた瞬間言い放たれた童磨の言葉に、俺はまだ喉元に留まっていたビールを吹き出しそうになるが、どうにか意地で堪えた。俺のそんな動揺に童磨は気付いていないのか何なのか、にこにこと人好きする笑顔を浮かべている。
人好きするとは言ったが、俺は童磨の笑顔が嫌いだ。否、笑顔だけではなく全てが嫌いだ。顔も声も存在も全てが嫌いだが、生憎と童磨は今俺が非常勤の音楽講師として勤めているキメツ学園のスクールカウンセラーで、大まかに言えば同僚という枠になる。つまり、嫌いな相手でも飲み会があると同じテーブルで酒を飲む機会が出来てしまうのだ。ちなみに今日は何故か童磨と二人きりのテーブルになってしまい、最悪の布陣である。他のテーブルは大いに盛り上がっているらしく、その笑い声すら恨めしい。
それでも今世の初対面時に「前世で同じ血を分けられた兄弟じゃないか」と童磨が言った通り、俺と同じく昔の記憶のある童磨とは前世鬼狩りの奴らに比べて何となく精神的に話しやすい。俺も童磨も非常勤の立場だということもある。だが黙れ、過去に同じ血を分けられてはいるが俺は貴様と兄弟などではない。そう言った俺に童磨は朗らかに破顔したのだ。
「何を言ってるんだい黒死牟殿!俺は今人間だし君も人間だろう?つまり人類皆兄弟だよ!仲よくしよう!」
ああ、殺したい。殺したいのに今世は法律が許さない。猗窩座を始め、過去に鬼だったものも何人か生徒や教師としてなにやら浄化された晴れ晴れとした姿で今世を謳歌しているというのに、何故こやつだけは微塵も変わらず屈託のない淀んだ空気を纏っているのだろう。たまに猗窩座や胡蝶しのぶなどにぶん殴られている姿を見ると胸がすく思いだ。序列など今世ではどうでもいい、もっとやれ。
しかし、ここは騒がしい居酒屋で、未成年の胡蝶は当然のこと、今日は猗窩座も飲み会を欠席している。猗窩座がいると童磨は猗窩座に絡みたがるから楽なのだが。猗窩座が来ないなら俺も来なかったのに。盛大に後悔している俺の前で、童磨は良いことを思いついた!と言わんばかりにスルメを齧りながら活き活きと言葉を続ける。
「うん、そうだよ。それがいい。セックスすればいいんだよ、黒死牟殿!」
 何が「それがいい」だ。全然よくないだろう。セックス連呼するな屑。スルメ臭い。後昔の名前で呼ぶのを止めろ。地獄に落ちろ。
 言いたいことは山ほどあるが、とにかくこの一言に尽きる。
「黙れ」
 俺は後悔していた。こんな奴に、昨夜見た夢……というか前世の記憶の話をしてしまったことを。以前からちらちら弟の話はしていたのだが……こいつがスクールカウンセラーという職業柄聞き上手なのが悪い……とにかく聞くだけでいいのに、こんな突拍子のないアドバイスをしてくるから殺したくなる。
 俺は黙れと言ったのに、童磨は黙ることなく唇を尖らせる。どうも今世の俺には威厳が足りない。目玉が足りないからだろうか。
「話を聞く限り、弟君は黒死牟殿が好き、黒死牟殿も弟君を想っている。だったらやることと言えばもうセックスしかないだろう?」
 何を言っているんだこいつは。昔だったらその舌を引き千切っていたところだ。だが、法律という最強の盾の前では、俺は童磨の舌ではなく牛タンを食い千切ることしか出来ない。ああ、牛タンが美味い。やっぱり人間の食べ物は美味いな。俺は食の記憶が戦国時代で止まっていたが、もし現世で鬼になれと言われても絶対にならない。絶対人間より牛タンの方が美味い、断言出来る。無惨は平安時代生まれと聞いているから、カレーも食ったことがないんだろうな、可哀想に。
「私は別に弟を想ってないし、弟も私のことなど好きではない」
 デザートとして出てきた梅のシャーベットを食べながら俺はそう断言した。すると、童磨は目を丸くする。
「じゃあ俺は今まで何の話聞かされたのかな?」
「弟が気持ち悪いって話だったろうが」
「おかしいぞ、俺は全然違う話聞いてた気がするんだけど、おかしいぞ?」
 首をひねる童磨が俺の手元に自分の分のデザートを置く。童磨はあまりシャーベットやアイスクリームなどの冷菓子を好まない。理由は知らんし知る必要もないが、貰えるものは貰っておくことにする。薄緑色のシャーベットを金属製のスプーンで突き刺し、口に運ぶ俺を、童磨は心底憐れんだ目で見た。
「可哀想に、セックスするって考えに至らないばかりに拗れてしまっているんだね。なんて気の毒な兄弟なんだろう」
 不快感が冷菓子で冷えた腹の底を駆け巡り、思わず口を付けていたストローを噛み締めた。鬼の頃はあまり気にならなかったが、人間である今はやたら童磨の言葉が癇に障る。お前が俺の弟の話をするな。
 怒りに任せて手元のウーロン茶のグラスを割らんばかりの勢いで握る。そんな俺の状態に気付くことなく、童磨は急に真顔になり、ハッとその賑やかな虹彩を見開いた。
「もしかして、黒死牟殿はセックスのやり方を知らないのかな?なるほど、それではセックスなんて答えを見つけられないな。なるほどなるほど黒死牟殿は童貞か!何恥じることは無い!弟君が初物好きかもしれないしね!」
 うんうんと頷きながら俺の肩を不躾にバシバシ叩き始める童磨に、怒りで今は無いはずの4つの目が開くかと思った。俺の前世は既婚子持ちだ……
 しかし、今世では確かに現段階では童貞であることは間違いないので、何とも言えず、冷えたスプーンを噛むしかない。
「童磨……もう黙れ」
 店内は騒がしいが、童磨の無駄に溌剌とした声はやたらに響く。他の同僚もそれぞれ話に花を咲かせてこちらの話など聞こえていないようだったが、自分たちが聖職であることを思い返すとセックスだの童貞だの連呼されると何となく後ろ暗い。が、童磨は不思議そうに首を傾げた。
「居酒屋以外のどこで猥談をしろって言うんだい?んん?ベッドの中?俺は女の子が好きだけど、前世の縁もあることだし、黒死牟殿がどうしてもって言うならやぶさかでもないよ!俺は優しいからね!」
「私は何も言っていない」
「実際のところ、何で弟君とセックスしないんだい?」
 どういう質問だ、それは。崩壊した倫理観のがれきの中を探しても、質問の意図が見つけられない。何で弟とセックスをしないのか?弟とセックスをしないことに理由が必要なのか、弟だからということ以外に?呆れてものが言えない俺に、童磨は困ったように笑う。
「黒死牟殿、俺たち前世で人喰ってるんだから、倫理観なんて今更じゃないかな?武士だった人は変なところで頭が固いなぁ。生き苦しくないかい?」
……過去に過ちを犯したからこそ、今世では清廉でありたい。何より我らは贖罪に努めるべきだ」
「そういうところが頭が固いって言うんだよ!でも、俺黒死牟殿のそういうところ嫌いじゃないよ!」
「私はお前が嫌いだ」
「大丈夫だよ!俺は黒死牟殿が俺のこと嫌いな分まで俺を愛すから!」
「私はお前のそういうところが虫唾が走る」
「でも弟君とは双子なんだろう?君たちの身体はほぼほぼ同じ遺伝子じゃないか。同じ遺伝子を持つ個体とのセックスなんてそれは最早ただの自慰行為だよ、ほら倫理上なんら問題ない!」
 何故地獄はこいつを今世という野に放ったのだろうか……地獄でも扱いに困ったとしか思えない。
 鬱憤晴らしにひたすらストローを噛んでいると、今日の幹事である煉獄杏寿郎が締めの挨拶を始めた。キメツ学園の今後の繁栄を祈って一本締めをしましょう皆さまお手を拝借よーぉ!パン!ありがとうございました~!という一連の流れをやりこなし、俺達は席を立つ。童磨はたかだか一本締めに「やれやれ俺はこういうノリほんと苦手だよ~」と心底疲れたような顔をする。お前の好きなノリいまいちよくわからんな。
「あっ」
 その時、童磨は俺の手元を見て、面白いものを見つけたと言わんばかりに目を輝かせた。
「黒死牟殿、噛みすぎ」
 あ。
 しまった、と俺は眉間を寄せてしまう。ストローの吸い口にはしっかりと歯形がついていて、最早初めの原型がない。外では我慢していたつもりだったのだが、我慢が出来ていないことをそのストローが教えてくれた。猗窩座が飲み会を欠席したがる気持ちも分かる。俺たち元鬼には、噛み癖があるのだ。
「噛み癖ってストレスって言うけど、何か溜まってるなら俺が話を聞くよ、黒死牟殿」
 童磨が何やら同情の目線で言ってくれるが、どう考えてもお前だ、お前。
「そういえば、弟君ってさ」
 童磨が居酒屋の店員から鳥の子色の外套を受け取りながら、くるりとこちらを向いた。何だ、またセックスだ童貞か言い始めるのか。俺はあいつの性経験なんて把握してないぞ。
「前の記憶って、どうなっているんだい?」
 しかし、案外まともな問いに、俺は一瞬だけ外套に袖を通す動作を止めてしまう。この紺青色のピーコートとかいうものは、俺の音楽講師としての採用が決まった時に母がプレゼントと言って送ってきたものだ……名前は母だったが、母のセンスからは程遠いものだったので、縁壱からだということは一目で分かった。初めは使うつもりは無かったが、冬の寒さが本格的になった日におそるおそる袖を通してみれば、思いのほか軽く、温かかった。以来、冬の間は使ってやっている。
「あれだろう?黒死牟殿の弟君って、始まりのなんちゃらなんだろう?もし記憶があるなら、聞いてみたいなぁ。あの無惨様を追い詰めた武勇伝を。ワクワクするね」
「それは無理だろうな」
 俺は首に臙脂色の襟巻を巻きながら答えた。これは二年前の誕生日に母がプレゼントと言って渡してきたものだ。勿論これも縁壱のセンスで、初めは使うつもりはなかったが、冬の寒さが本格的になった日に手近にあったのでついつい巻いてみたら思いの外肌触りがよく、温かかった。以来、冬の間は使ってやっている。外に出ると、冬の外気が頬に刺さり、俺は襟巻に……先日無一郎に「襟巻って言うの止めてくれない?ジジ臭すぎて聞くだけで耳が老化するんだけど」と言われたのを思い出しながら俺はマフラーに顔を埋めた。
「なんで?」
 追って出てきた童磨に、俺は肩を竦める。
「あいつは何も覚えてない」
 そう、俺の弟、過去の名前は継国縁壱。今世でも継国縁壱。あいつは、前のことを全く覚えてないのだ。
 そもそも、キメツ学園の生徒や教師も過去のことを覚えている人間と覚えていない人間は半々らしい。誰が覚えていて誰が覚えていないのか、俺は童磨と猗窩座と行冥、無一郎以外ほとんど把握していない。不死川実弥にも記憶がある。会うたびに舌打ちをされるから、あいつは覚えている。童磨に記憶持ちだと気付かれたのは「記憶がある人は俺を見るとなぜか額に青筋を立てるんだよ」とのことだ。なるほど、確かに俺も無一郎と初めて会った時に物凄い顔で見られたな。
「そうだったのか!気の毒な黒死牟殿……弟君が早く記憶を取り戻すよう俺も祈っているよ」
「不要だ。別に記憶を取り戻してほしいとは思っていない」
「ええ?そうなのかい?」
 どうして、と言いたげな童磨に俺は黙する。コートもマフラーも温かい。この温かさは、縁壱が何も覚えていないからある温かさだ。覚えていたら、こんなものを俺に与えるはずがないのだ。覚えていたら、弟を裏切り、欲の為に六つ目の醜い化け物になり人間を食い殺していた男に、温かく微笑むはずがない。本来、再び縁壱の兄になる資格など俺にはないはずなのだが、何故かまた兄弟として生を受けた。正直地獄である。
 きっとこれは、罰なのだろう。
弟が過去を思い出したらきっとあいつは今度こそ俺を嫌うだろう。一生怯えて暮らせという神の意志なのかもしれない。
俺はコートのポケットに手を突っ込み、入っている硬い感触を強く握った。
……黒死牟殿」
少し前を歩いていた童磨が立ち止まり、慈しむような笑みを俺に向けてきた。気持ち悪い。
「これから俺のうちに遊びにおいで」
……何故?」
「俺は優しいからね、俺が黒死牟殿にセックスのやり方を教えてあげるよ!そうだそれがいい!」
「では童磨先生、今日はお疲れ様でした、おやすみなさい」
 今世的な対応をし、俺は帰路についた。随分と俺も今世に慣れたものだ、と駅の自動改札機をワンタッチで通りながら思う。否、朝の通勤ラッシュにはいまだに慣れないが。夜の電車はすいていて良い。二三人ほどしかいない車両に飛び込み、空いている席に座ってほっと息を吐いたと同時に眠気に襲われる。鬼の頃には無かったものだ。
 久しぶりの人間の身体は、か弱かった。転べば皮膚が破け血は出るし、鏡を手で割れば血が出るし、しかも治るのに数日かかる。ついつい前世の感覚で動いてしまい、大怪我をしたこともあった。鬼狩りのやつらこの体で俺達に立ち向かってきたのか?狂人か?と今更ながら思ったりもした。その狂人どもが今職場に大量にワラワラいるのだから恐ろしい話だ。
 最寄り駅につき、改札から出た時だった。普段と違う光景に、俺は改札機のど真ん中で足を止めそうになってしまう。だが、通勤に慣れた体は自然と前に足を踏み出していた。
 改札前にある、象の足のような柱にもたれかかり、スマホ画面を見ている梅鼠色の外套の男。そのスタイルと整った顔に独特な雰囲気のおかげで、その男周辺だけがパリの街中のように見える。東京の小汚い駅をパリ化するな。相変わらず神に愛された外見をしている。俺にはなく、あいつにはある額の痣もやつの美形を引き立たせる小道具に見える。腹ただしい。双子のはずなのに何故俺とお前にここまで差がある。
……縁壱」
「おかえりなさい、兄さん」
 ここにいるはずのない顔が、俺を見つけてわずかに表情を輝かせる。相変わらずの能面だが、何となく喜んでいるのは分かった。
「お前、何でここにいる」
「さっきパリから帰ってきたところです。兄さんにお土産渡そうと思って」
 なるほど、パリ帰り。だから両手いっぱいの荷物を持っているのだな……だが縁壱、お前が持っている荷物、全部ブランドのショップバックなのはなぜだ。何だか俺は嫌な予感がしてきたぞ。
「チョコレート。後最近寒くなってきたから手袋とか」
 そう言って色とりどりのショップバックを5,6個軽く持ち上げてみせる縁壱に俺はうんざりした気分だった。こいつは海外や地方へ行くたびに俺に何かと物を買ってくる。まるで、あの頃の俺のようだったが、縁壱の場合貢ぐ、という表現が正しいかもしれない。そう、俺は縁壱に貢がれている。
貢物は大体菓子類か衣類だ。弟の土産の衣類など正直気持ち悪いが物は良いので、気付けば俺の衣類は縁壱の土産で賄えている。職場でも不死川実弥が弟の修学旅行土産だという、あいらぶ北海道Tシャツを着てきていたし、特に変なことでもないだろう。
 でも、流石に買い過ぎだろう、金は大丈夫なのかと一度聞いたことがあるが、縁壱は能面顔で「全く問題ない」と、むしろなぜそんなことを聞くのかと怪訝な顔で俺を見てきたので、俺は縁壱の懐の心配をするのをやめた、一生。
 しかし、大量の土産を持つ手が寒さで赤くなっているのは、見過ごせなかった。
……縁壱お前、演奏者の手を冷やすな」
 俺はポケットから手を出し、土産を渡すために突き出された手を握った。氷のように冷えている。何が手袋を買ってきただ、馬鹿なのか、自分に使え。演奏者としての自覚が足りない。そう言おうと顔を上げて、俺は引いた。
……何笑っている、気味が悪い」
「え?いや、兄さんだな、って思って」
 にやつく口元を手で押さえながら視線を斜め上へ向ける弟に、俺は思わず盛大にため息を吐いてしまった。ついつい手のかかる弟だと思ってしまいそうになるが、こいつは今世でも大人を仰天させた神童で、神に愛された男なのだ。
 ガタンガタンと、頭上から列車が発車する振動が降ってきた。その音を聞き終えた縁壱はちらりと上を見てから、俺の顔を伺う。
……終電、今のでなくなってしまったようで」
 弟が何を望んでいるのか手に取るように分かった俺は、呆れたようにため息を吐いてみせた。
……分かった、泊っていけ」
 毎度毎度、縁壱はこうなのだ。海外から帰ってきたら土産を理由に会いに来て、俺の家に泊まっていく。帰れと言われないように、終電間近に来訪するのが常だった。それを分かりつつも俺は縁壱を拒否出来ない。何故なら、俺が了承すると、縁壱は毎度毎度飽きもせず、嬉しそうに笑うのだ。
「縁壱、お前腹は?」
「機内食食べたから平気です」
「そうか。お前あそこにどれくらいいたんだ?」
「30分もいなかった。兄さんにメール送った時に着いたし」
 縁壱が言うように、スマホを確認したらつい20分ほど前に「今どこ?」というメールが縁壱から届いていた。
……お前俺の家の合鍵持ってるだろう」
 勝手に入っていれば寒い思いをしなかっただろうに、俺の弟は変なところで馬鹿だ。そして弟は小首をかしげながら無表情で言うのだ。
「少しでも早く兄さんに会いたかった」
 本当に馬鹿だ。
 家までの道のりを縁壱の話に耳を傾けながら歩く。今世の弟は、俺と二人きりの時はよく話した。寒さで顔にある生まれつきの痣をさらに赤くした縁壱は、俺といて何が楽しいのかわからんが始終機嫌がいい。表情はさして変わらないが、口数が多い。他人と話している時よりも早口で、何より普段話しかけられなければ答えない縁壱が、俺には熱心に話しかけてくる。そして海外帰りの弟は大体行ってきた国のプレゼンを始めるのだ。あのホテルが良かった、あの場所の景色が良かった、あの店の何が兄さん好みそう。そして散々自慢話をした後に、必ずこう締めくくる。
「今度は兄さんと行きたい」
 そんな金は無い。と言うのが率直な感想なのだが、それを言ってしまうと縁壱は「金なら俺が出す」と言い始めるので、最近は「そのうちな」と適当にあしらうようにしている。こちらが適当にあしらっているだけだというのに、縁壱はまるで行く約束を取り付けたように嬉し気に口元を歪めるのだ。
 そうこうしているうちに、俺が一人で住んでいる5階建てワンルームマンションについた。父の援助を一切断っている俺が今の給料で住むのにはぎりぎりの住まいだ。少し年季が入っていて、実家の自室の二分の一にも満たない広さだが、2年も住めば愛着がわく。
 家について、コートを脱ぎながら風呂が沸いていることを確認した。本来飲み会に疲れた俺が真っ先に風呂に入ってさっさと寝るために沸かしておいたのだが、身体が冷え切っている弟に一番風呂を譲る。
 殊勝に遠慮する縁壱を風呂にぶち込んで、俺は部屋着のパーカーに着替え、茶を淹れるために湯を沸かした。縁壱の着替えは、前回俺の服を貸したら「兄さんの服は少し小さくて可愛らしい」と文句を言いやがったので、こっそりワンサイズ大きいものを用意しておいたのを引っ張り出す。20すぎてまだ成長するとか神に愛され過ぎだろう、俺なんかここ数年の健康診断全く変化がないというのに。さも普段使っているものだと見せるために、タグを切って脱衣所に投げ込んでおく。気配に気づいた縁壱の「ありがとう」という声がシャワー音の向こうから聞こえた。
 ほとんど縁壱専用になっている来客用の布団をベッドの横に敷いたところで、俺はやっと一息がつけると同時に、縁壱と二人きりだと間が持たないので、見る気のないテレビもつける。と、画面に弟の能面顔が映し出された。つけなきゃ良かったと思いつつも、急に消すのも不自然なので、そのままにしておくと、女子アナのはしゃぐ声が耳を突いた。
『フルート奏者の継国縁壱さんが先日行われたコンクールで見事優勝しました。これは日本人初の』
 ダメだ、やっぱりムカつく。
 今世に生まれて、一つだけ良かったことがある。それは縁壱に対するこの感情を適切に表した言葉と出会えたことだ。「ムカつく」。その言葉を聞いた時、何て縁壱にぴったりな単語なのだろうと感動すら覚えた。ちなみに「キモい」もなかなか丁度いい。
 俺のムカつくキモい弟は、今世では天才フルート奏者として世界でその才を遺憾なく発揮している。とはいえ、初めから天才だと思われていたわけではない。むしろその逆だった。縁壱は、産声以降7歳まで声を発しなかったし、笑う事すらなかった。医者に見せると、耳は聞こえているようだとのことで「恐らく世界に興味がないのでしょう」との診断で、両親はその結果に憤慨していたが、俺は適切な診断だと思った。そして、ソファに無表情で座る弟の双眸を覗き込む。赤い瞳は何も映すことがなく、まるでただの人形だった。
俺には物心ついた時からじわじわと前世の記憶がよみがえっていたのだが、この弟はどうなのだろう。そもそも本当にこいつはあの、俺の弟なのだろうか?何の意志も持たず力なく投げ出されている弟の小さな手を取ると、その手は確かにきゅっと俺の手を握った。
俺と弟が今世生を受けた継国家は、ざっくり言えば政界に繋がりがあるような金持ちで、金持ちはなぜか子供にありとあらゆる英才教育を行いたがる。今世、双子は忌子とは考えられていなかったようで、縁壱と俺は両親から同等のチャンスを与えられた。となれば始まるのはそう、神に愛されし御子爆誕伝説と俺の地獄の日々である。
 縁壱は、今世でももれなく神に愛された子どもだった。言葉を発しないが耳は聞こえる縁壱にまずあてがわれたのは、俺が先に習っていたピアノだったが、初見で自在に音をかき鳴らし講師をモーツアルトの再来!と戦かせた。テニス、水泳、バレエ、フィギュアスケート、絵画、空手、剣道などスポーツや芸術の分野でも、縁壱が歩いた後には彼の才能にひれ伏す人間の屍だけが残った。見覚えのある光景だった。認めざるを得ない。こいつは間違いなく縁壱だ。過去、俺が激しく憎み嫉妬した、あの。
 このまさかの展開に当然、両親、特に父は縁壱に熱狂した。何人もの専属の家庭教師をつけ、縁壱を自分の後継者として育てようとしていた。俺には見向きもせずに。俺は、縁壱のオマケにしか過ぎなかった。
俺に前世の記憶がなければまた前世と同じ過ちを繰り返していただろうが、前世で400年以上も縁壱を敵視していた俺はすでに精神的に疲弊していた。たまに何でも出来すぎる弟を率直にこいつ気持ち悪いなと思うことはあるが、憎しみや嫉妬の気持ちはあまり浮かばなかった……多少はあったが……それなりにはあったが。だが、諦めの思いの方が強かった。
俺は縁壱に比べれば凡才で、初めは才覚があると言われていたピアノも縁壱と比べれば、まぁまぁ上手いレベルにしか過ぎない。テニス、水泳、バレエ、フィギュアスケート、絵画、空手、剣道などスポーツや芸術の分野でもどれをとっても縁壱には勝てない。分かり切ったことだったから、落胆も失望も最早無かった。縁壱が動くたびに熱狂する大人の横で、俺は黙々と俺に与えられた役割をこなす。凄いな、縁壱は。上手いな、縁壱は。笑顔を作りながら俺は何度もそう言った。
 前世夢中になっていた剣の道を進む気にはなれなかった。なるべくなら違う道を選ぼうと、俺はピアノに熱中する。……剣の道では縁壱には敵わないと、前世で充分学んだせいもあるかもしれない。だから、縁壱が絶対に選ばないであろう道を、出来るだけ遠い道を、俺は歩むことにする。縁壱、お前は剣道なり柔道なりサッカーなり野球なりバスケなり、好きなものを選ぶと良い。俺はお前が絶対に興味がないだろう道にする。そう、音楽という前世は全く縁のなかった道に。お前はどうぞどうぞ剣の道へ進んで遺憾なく才能を発揮してくれ。透明な世界など音楽の道には全く関係ないからな。
これで弟とは道が交錯せずに済むと安心しきっていたある日、俺がピアノを弾いていると、いつものように縁壱が寄ってきて、それまで言葉を発しなかった弟が、突然口を開いた。
「兄さんの夢は、世界一のピアニストになることですか?」
 ちょっと待て、おいこら。
 正直、戦慄した。貴様折角人が、人がお前は絶対選ばぬ道を選択したというのに、どういうつもりだ?
 ぎょっとした俺を、縁壱の赤い双眸がじっと見つめる。この光景には見覚えがある。あの、思い出すだけで虫唾が走るあの記憶。
馬鹿やめろ、本当にやめてくれ縁壱。昔を思い出させるな。何でわざわざこっちに来る!?
 恐怖に心臓が竦み上がり、呼吸が浅くなる。怖気が走る。目の前の弟が怖い。こいつが、次に何を言うのか―――
 縁壱はその時、初めてうっすらと微笑んだ。
「なら、縁壱は世界一の笛吹きになりたいです」
 …………は?
…………ふえふき?」
 俺がたっぷり間を置いてからそう問い返せば、弟は無表情に戻り、頷く。ふえふき。笛吹き?笛?なんの??
 ホイッスルを無表情でピッピ鳴らしている弟の顔しか浮かばず、黙してしまった俺に、弟はさらに言葉を続けた。
「兄さんと一緒に演奏するなら、何の笛が良いのですか?」
 演奏という単語に、何となくだが理解が出来た。
「アッ、ピアノとのアンサンブルってことか?笛?え、管楽器のことか?ふ、フルート……とか?」
 笛吹きという言葉を理解しきれないまま、俺はあまり深く考えず、とりあえずパッと思いついた楽器名を上げる。他にもサックスやクラリネットなど色々あっただろうに、幼い俺も知識不足で、とりあえず笛の形状をしている楽器を上げたのだ。
 縁壱は「ふるぅと……」と何回か呟き、そんな縁壱の姿を見ながら俺はドッドッドと緊張で強く鼓動している心臓を撫でた。この時俺は気付く。
 こいつには、まだ前世の記憶がないのだ。記憶があったら、鬼になった俺になど、あんな風にほほ笑むわけがない。ぐっと、鼻の奥の方が熱くなるのを感じた。
「縁壱」
 俺はどこを見ているのか分からない縁壱の顔を胸に抱く。
……俺はお前にふさわしい兄になってみせる」
 それが、俺の贖罪だった。縁壱の癖の強い髪を頬に感じながら、俺は鼻を鳴らす。俺はずっと縁壱が嫌いだった、憎らしかった、鬼にすらなったのに、そんな俺をひたすら想い続けてくれた弟に出来る事はもうそれしかないのだ。
 縁壱は俺の言葉をどう思ったのか、遠慮がちに小さな手を俺の背に回す。背に感じる二つの小さなぬくもりに、頼むから記憶を取り戻さないでくれと神に願った。醜い俺の姿を、縁壱に思い出させないでくれ。
そしてその日のうちに、唐突に幼い縁壱は両親に言った。
「縁壱は、ふるぅとがやりたいです」
 母親は手に持っていたお気に入りのティーカップを、父親は磨いていたゴルフクラブを落とした。
 縁壱が彼らの前で話したのはこれが初めてだったし、今まで与えられるがままだった縁壱が、何かをやりたいと自ら言うのも、それが初めてだったのだ。驚きと喜びを隠せなかった両親は、即日縁壱にフルートを買い与えた。確かU字管フルートだったと思う。4万円くらいする。両親の盛り上がりを幼い俺は少しの寂しさを覚えるが、けれどそれは元々前世でも縁壱が手にするべきものだったのだ。それに、内心少しホッとしていた。縁壱が、ピアノを選択しなかったことに。これで多少はあいつと比べられる機会が減る。
そして両親の期待の視線に見守られながら、縁壱は新品のフルートを……恐らくそれは前世の記憶が体に残っていたのだろう。縁壱は無意識に全集中の呼吸で吹き、フルートをパァンと破裂させ、一瞬で4万円を木っ端みじんにした。その瞬間だけは、嫉妬とかどうでも良くなった。キョトン顔の縁壱と、何が起きたのか理解できず固まってしまった両親の姿は、今思い出しても笑える。「笛が、なくなってしまった……」と縁壱が呟いた瞬間、俺の腹筋が死んだ。
 しかしその後は縁壱もコツをつかんだらしく、フルートを爆散させることはなかった。もともと他人が使えない呼吸を操れる男だったんだ、フルートは音を出すのが難しいと言われているらしいが、呼吸が重要な楽器の扱いは上手かった。縁壱自らやりたいと言ったのもあり、今までやってきたどの習い事よりもめきめき上達していく。その姿に講師は天を仰ぎ涙していた。俺はその光景に幼心ながら嫉妬よりもドン引きし、見なかったことにしたかった。が、そんな俺を見つけた縁壱はフルート片手に「兄さん、一緒に演奏しよう」と近寄ってくる。そんな姿は素直に可愛かった。後、何かの拍子でまたフルートを爆発させないだろうかという期待もあった。
 幼い頃は俺がピアノの伴奏を弾いてよく縁壱と演奏をしたものだった。そんな俺たちを母は微笑ましく見ていたし、父も最初はそうだったと思う。父は、たまに自分の会社で開催したパーティで俺と縁壱の演奏を披露した。子どもにしては上手い演奏に、パーティの参加者は喝采を送ってくれたし、父もどこか誇らしげで俺も拙い演奏を褒められ、満たされた。縁壱の兄らしい兄をやれていることにも。
 俺がピアノで奏でる曲は、技巧を学ぶための練習曲以外には縁壱の伴奏が多くなっていく。メロディのない譜面は俺の人生のようで、弾きながら少し笑ってしまった。俺はいつだって縁壱の人生の伴奏者だ。
 フルートを吹く縁壱は、相変わらず無表情ではあるが、俺の目から見て楽しそうに見えた。過去、剣術にはすぐに興味を失ってしまっていたのに、音楽は心の優しい縁壱の性に合ったらしい。
「兄さんとの演奏はとても楽しいです。兄さんのピアノと俺の笛の音が混ざり合って溶け合って響くのがとても心地いい」
 でも無表情で言われたその言葉はちょっと気持ちが悪かった。父母が表情の作り方を指導する講師を縁壱につけた気持ちが少し分かる。
様相が変わったのは小学校4年頃。ある日のパーティで演奏をした時、俺は音を間違えてしまったのだ。それに気付いた縁壱もフォローをしてくれたし、大した間違いではないと俺は思ったのだが、パーティ後俺は鬼の形相をした父に頬を叩かれた。
「縁壱は完璧なのにお前はどうしてそうなんだ。退屈な音楽しか奏でられないのだからせめて音は正確にしろ。自分でも分かっているんだろう?お前の伴奏は縁壱にふさわしくない」
 正論だった。確かに情感豊かな縁壱の音に比べて俺の音は退屈で、取柄は正確性しかない。縁壱があまりにも完璧すぎるゆえに父は俺に歯がゆさを感じていたらしく、それがこの時の出来事で噴出した。それ以降、俺が何をしても父は「縁壱にふさわしくない」と口にするようになった。そこから、何かが狂い始める。
 どんなに練習量を増やしても、指が痛み爪が割れるまで練習しても、俺は縁壱には追い付けない。どんなコンクールで優勝しても、虚無感しかなかった。俺が優勝出来たのは縁壱が出ていないからだし、音は変わらず退屈で縁壱の音に及ばない。分かっていた。同じ舞台に立っても、観客の拍手はすべて縁壱のもの。俺のピアノはいつだって脇役で、その脇役としても俺の実力は力不足だと。
 そうこうしている間に、縁壱はどんどん上達していき、とうとう父は縁壱の伴奏者にプロのピアニストを用意すると言った。候補は、名門音楽大を出て、海外のコンクールでの優勝経験があるという華々しい経歴を持つ女だった。お前に縁壱の隣りに立つ資格はないと、現実を突きつけられた。あいつにふさわしい兄になると決めたのに、それすら難しいのか。
 家の中、自室に閉じこもっても縁壱が練習するフルートの美しい音が聞こえてくる。気が狂いそうだ。俺はこの輝くような音を奏でられない。縁壱の音を聞きたくない。どうすればあんな音色になるんだ。縁壱の音が分からない。
 届かない、どんなに頑張っても、弟に。今も昔も。
 縁壱の音を聞きたくない一心で、ピアノの蓋を開けて鍵盤を叩く。力任せにかき鳴らす酷い演奏だった。どうすればいい、どう練習をすればあの音にたどり着けるのだ。分からない、理解出来ない、縁壱の音が。どうすれば、その音になるのか、その音にどんな音を合わせればいいのか、全く分からない。
 そして、縁壱との最後の共演となるあの日、室内に響き渡る縁壱の第一音は、前回共に演奏した時よりも伸びが良く、輝いていた。俺は愕然とするしかない。は?止めろ。その音に俺はどんな伴奏をすればいい?強く叩けばいいのか?それとも弱く?分からない、縁壱が何を考えているのか、どう音を奏でようとしているのか、全く分からない。息継ぎもどこでしているのか分からない。次の音がどう響くのすら、予想がつかない。双子なのに、全く分からない。
 混乱した俺は、伴奏のテンポをあげていってしまった。それに気付いた縁壱が、難なく俺の伴奏に合わせる。ソリストに合わせさせてしまうなんて、伴奏者としては失格だった。伴奏は、ただただソリストが気持ちよく演奏出来るよう努めなければいけないのに……父の冷たい視線が突き刺さるのを感じる。
 何より、どうしてこんなめちゃくちゃな伴奏に、完璧に合わせてくるんだ、縁壱。本来、お前の音に合わせなきゃいけないのは俺の方だというのに。逃げるように音を滑らせても、縁壱は完璧についてくる。もうやめてくれ、俺を解放してくれ。
 演奏が終わり、縁壱への拍手が響く中、俺はピアノから顔をあげられない。父の顔を見るのが怖かったのだが、いつまでも俯いているわけにもいかない。恐る恐る顔を上げると、拍手をする観客の中に父の姿は無かった。それは死刑宣告に等しかった。
その日の深夜、練習のしすぎで痛む手は思うように動かず、俺は癇癪を起してピアノの鍵盤を殴りつけ、楽譜を床にばらまいた。痛い、指も手も心も。何故上手くいかない。嫌いだ、父さんも母さんも縁壱も、才能のない自分自身も。
激情のまま頭を掻きむしったその時、はた、と気付く。
 これでは、前世の二の舞ではないか。
望むな、自分を過信するな、俺と縁壱は生きている世界が違う。同じ世界を見る事など、絶対に出来ないのだ、諦めろ。所詮俺などその程度なのだ。そもそも、前世と同じく、誰も俺に期待をしていないのだから。一体俺は誰の期待に応えようとしている?
……もういい、諦めよう。
不意に見上げた窓から丸い月が見え、俺は呼吸を整える。全集中。久しぶりの感覚に筋肉が引き攣り、血が沸いた。気持ちが落ち着き、頭の中がクリアになっていく。自分の心音を聞きながら、俺は自分でばらまいた楽譜を拾い集めた。惨めだった。
すまない、縁壱。俺はまた、お前と同じ世界を見られそうにない。ふさわしい兄になると言ったのに、諦めてすまない。でも駄目だ、諦めないと、俺はまたお前を妬み、嫉み、恨んでしまう。
 それでも、一瞬だけ。初めて二人で一緒にスポットライトを浴び、拍手を貰ったあの時は、お前と同じ世界が見えていたんだろうか、縁壱。
 ぐしゃりと握り潰した伴奏の楽譜に俺の手から滲む血がべっとりと着いた。限界だった。
 次の日の早朝、俺は縁壱に伴奏を辞めることを伝えた。縁壱は少し眉間を寄せた後に「ごめんなさい、兄さん」と言った。謝るなよ、これ以上俺を惨めな思いにさせるな。
 父は俺に何も言わず、ただ新しい伴奏者の手配をこなしていた。
 結果的には父の采配は大当たりだった。俺もその後縁壱の演奏を聞きに行ったが、やはり俺のピアノよりプロの演奏の方が彼の音は良く響いていた。そのおかげか、縁壱は駆け上がるように世間から評価をされ、今に至る。
定期的にテレビではイケメンフルート奏者と祭り上げられ、最近ではフルート以外の笛の形状をしている楽器にも興味を持ち手あたり次第演奏し、作曲もやり始めたようだ。出すCDは「これを聴くとよく眠れる」「悪夢を見なくなった」などと評判になり、売れ行きも良いらしくテレビで定期的に話題になっている。
あいつは何をやっても褒めたたえられる。腹ただしいのは、あいつがあまりに完璧すぎてネットにもアンチが殆どいないこと。あいつに恨みつらみを投げつけるのは、大体あいつの才能を妬んだやつばかりで、根も葉もないゴシップをネタに叩くことしか出来ない哀れな負け犬しかいない。フン、貴様らに縁壱の何が分かる。
 コートのポケットに入れていた紫色のちりめん袋を取り出し、両手の中に包み込んで俺は目を閉じた。
 昔のことを思い出すと、まだ呼吸が乱れがちになってしまう。心を落ち着かせるんだ、集中、集中。縁壱の前で、せめて普通の兄の仮面を被るために。
 ――兄上、自分の心音に集中するのです。
 前世、縁壱が全集中の呼吸の方法を教えてくれた時の言葉を思い出しながら、呼吸を整えた。昏い地獄に落ち、炎に焼かれ続けた日々を思い出せ。今世は贖罪に努めるのだ。
「兄さん、風呂ありがとう」
 縁壱の声に、俺はこっそり手に力を込めた。ちりめんの袋の中にある硬い感触を手の平に感じると、不思議と安心出来るのだ。縁壱にこの存在を隠したかったのもある。
「ちゃんと温まったのか?」
 平静を装いながら、俺は縁壱へ視線を向けた。よし、わざわざ用意した着替えは縁壱にぴったりだったようだ。もう二度と小さいなんて言わせないからな。
「おかげさまで」
「今度は作曲か、お前何でもやるな」
 今見ていたテレビの情報をそのまま口にすると、縁壱は少し嬉し気な顔になり、いそいそと俺の隣りに座る。家主のベッドに座るとはいい度胸だ。
「篠笛用の曲をいくつか作ったので、それを」
 篠笛。フルートではなく。
 弟の天才ぶりは知っていた俺は、どちらかといえば弟の悪癖にため息を吐いた。
 縁壱は笛マニアだ。世界各国の笛を収集し、部屋にコレクションしている。幼い頃に世界一の笛吹になると宣言していたが、とりあえず世界有数の笛収集家にはなりかけているだろう。どこかの少数民族の笛なども完璧に吹きこなす。文化人類学の教授が縁壱を訪ねてくるくらいだ。そうした来訪者にも縁壱は熱心に対応し、望まれればその笛の音を聴かせていた。あまりに熱心で母親に本気で心配されていたが、母親の話だと縁壱は何かを探しているらしい。一度、新しく笛を手に入れた縁壱が、笛を鳴らし音を聴いた瞬間「……違う」と呟いていたのを聞いた母親は、何が違うのかと尋ねた。その縁壱の答えが、こうだ。
―――遠い昔、聴いた笛の音を探しています。いつ聞いたのかどこで聞いたのかも覚えてないのですが、俺はあの音がとても愛おしいのです。
母は首を傾げたが、それを聞いて俺はこっそり嘆息した。
 馬鹿だな、縁壱。あの笛はもう二度と鳴らない。あれはお前が死んだとき、俺が真っ二つにしたのだから。
 そんなことは知らない弟は、今は篠笛に興味を持っているらしい。どこかの地方で出会った里神楽が無音の舞だったからそれに曲をつけてみたいのだ……という話を少し熱っぽく語る弟の横顔を、俺は早くあの笛の記憶の底に沈めてくれることを願いながら眺めた。
……それで、兄さん、俺、兄さんに頼みたいことがあるのですが」
「ん?」
 俺が弟の土産であるチョコレートを食べ始めると、突然弟は手に持っていたマグカップをガラステーブルの上に置き、ベッドから降りて居住まいを正し俺と正面から向き合った。チョコレートが美味い。俺好みの苦みが強めのチョコレートだが、もしかしたら食べるのは早かったかもしれない、とどことなく真剣な弟の無感情顔を見下ろしながら思う。大量の土産を背にそんな顔をするな。まさかこれをダシに強請ってくるわけじゃないよな?不安で口の中が苦くなってきた。
……兄さん、俺、兄さんとまた演奏がしたい」
 意を決した、といった感じで言った縁壱の言葉を聞いた瞬間、俺はチョコレートの味を見失った。
「は……?」
「今度のコンサートで、ピアノを弾いて欲しい」
 真っ直ぐに俺を見る縁壱の視線でますます口の中に砂が入っているような気分になる。
……何言ってる、俺は演奏会なんて、大学の卒業演奏会以来出てない。コンクールだって、もうずっと」
 慌てて縁壱から視線を外し、俺は綺麗に形作られたチョコレートに視線を落として逃げようとするが、そんな俺を縁壱は追ってくる。
「音楽教室の発表会で伴奏しているとか。後、ジャズバーなどでも弾いていると」
 確かに、人の紹介や学校でときたまに伴奏者としてピアノは弾いている。そしてたまに、ソリストとしても。何で知っている、こいつ。誰がタレ込んだ……無一郎、あいつしかいない。
「それは、非常勤講師だけじゃ喰えないから、金のためにやっているだけだ」
 そうだ、本来俺はあまり人前で弾くのは好きじゃない。それでも弾くのは、金のためだ。人として生きるために最低限の金を手に入れるための。だが、縁壱はさらに詰めよってくる。
「勿論、俺もちゃんと金は出す。兄さん、いくら欲しい?」
 しまった、金の話は縁壱の得意分野だ。こいつの後ろにはあの継国グループがついている。恐らく、一億寄こせと言ってもこいつは間違いなく用意する。やめろ、俺のピアノにそこまでの価値はない。
「嫌だ、縁壱。無理だ、したくない」
 言い訳などしたところで無駄だと気付いた俺は、きっぱり拒絶した。冷たい兄だと思われそうだが、こうするしかすべがない。縁壱もそう言われることは予想していたのだろう。けれど、目に見えてしょんぼりし始めた。
……兄さんが俺と演奏したくないのは、知っています。でも俺も、今回はどうしても兄さんがいい」
 実のところ、縁壱から伴奏の依頼を受けるのは、初めてではない。これで9回目くらいのお願いで、過去7回は俺が嫌だと言えばすぐに引き下がったのだが、ここまでしつこいのは確かに珍しい。
「何故だ」
「次で最後なのです」
……最後?」
……父さんが、もういい加減会社を継げと」
 縁壱が無表情で口にした人物の存在に、俺は少し目を大きくした。父が縁壱を継がせたがっていることは知っている。父も、恐らく焦っているだろう。自分の子が音楽の天才鬼才だと称賛されたから、調子に乗ってそのまま続けさせたら、めきめきと頭角を現して世界で活躍し、自社を継ぐそぶりを見せないことに。 縁壱は父の意向にしたがって大学は音楽大ではなくハーバードに行ったと見せかけて、実はハーバードと言っても芸術科に入学していたし、卒業後はフルートを辞めて継国に入るのかと思ったが、卒業後そのままアメリカの音大の修士課程に入り、父親の度肝を抜いた。更にかなり優秀な生徒として評判だったらしく、向こうの教授がアメリカに残って音楽を続けろと説得をしたが、今度は縁壱は日本に帰ってきて俺に盛大に抱きついてきた。しかし、日本に帰ってきたと言っても縁壱はいまだに音楽活動を続けている。
歯噛みしている父の顔が浮かぶようだった。自分の失態に気付いた時に、父は勘当しているはずの俺に継国グループに入るように言ってきたが、俺はそれを拒否した。俺がグループに入れば、俺に懐いている縁壱もついてくるだろうとでも思ったのだろう。縁壱に振り回されている父を見るのは面白いが、弟がこうして俺にその話を告げたということは、ついに辞めるつもりなのか。
縁壱にとって、結局継国も、音楽も、どうでもいい話なのだ。事実、縁壱はあの音を捨てることに、何のためらいもない。
「父さんと25になったら継ぐ約束をしていたので、来年以降、演奏会の予定は入れていない。それは俺も構わないのですが」
 構わないのか。俺は内心舌打ちをしてしまう。
「が?」
……俺はもう一度、一度でいい。兄さんと演奏したい」
 再び縁壱は俺の顔を見上げ、懇願する。こいつが懇願する相手なんて、この世に俺だけだろう。それに関しては気分は良いが、縁壱、出来る事と出来ないことがあるんだ。
……俺がお前と舞台に立つと、父さんが怒る。最後の演奏会なら尚更だ、あの人は華々しくお前を演出したがる。俺との共演なんて許すはずがない」
「そんなのどうだっていいではないですか、俺達はもう成人している。父さんのことなんて」
「俺は、どうでもよくない」
 確かに俺はもう勘当されている身ではあるが、継国の家にはどんな形でも縁壱が必要なのだ。縁壱にも、本人はそう思っていなくとも、継国が必要だ。それに、父が俺と縁壱を共演させたくない気持ちも分からないでもない。
「縁壱、お前は完璧な人間だ。完璧なお前の音が、俺の未熟な音のせいで崩れるのは嫌なんだ、俺のピアノはお前に釣り合わない、分かるだろ?」
 俺のピアノはいまだに縁壱と並べるレベルの音ではない。それは父よりも誰よりも俺自身が知っている。けれど縁壱はうっすらと眉間に皺を寄せた。
……分からない。俺は、兄さんのピアノが好きだから」
「最後なら、ちゃんとした伴奏者を選ぶべきだ」
「俺は兄さんに伴奏をしてもらいたいわけじゃない。兄さんとアンサンブルがしたい」
「結局伴奏だろうが。無理だ。また、あの時みたいにお前の足を引っ張るだけだ」
「俺は足を引っ張られたとは思ってない、あの時だって」
「風呂入ってくる」
 これ以上縁壱と話をしても埒が明かない。縁壱は絶対に俺に伴奏をして欲しいし、俺は絶対にしたくない。会話をしたところで、何か変わるわけもなく、時間の無駄だった。
 話は終わりだと言わんばかりに俺はベッドの上に用意していたタオルと着替えを引っ掴み、風呂場へと足を向ける。
「兄さん、俺は」
 逃げようとしていた俺の背に、縁壱は静かな声を投げてきた。こっちが折角話を終わらせてやろうとしているというのに!この家から追い出してやろうか!と憤慨しかけた俺の頭を縁壱の冷えた言葉が撫でる。
「俺は、完璧な人間じゃない」

 お前が完璧な人間じゃないなら、俺は一体なんなんだ。虫けらか?

 風呂で鏡の結露を手で乱暴に拭うと、腹部……前世で無一郎に刺された部分から背まで広範囲に広がる黒紫色の火傷跡のような痣と、醜い傷跡が映った。縁壱の顔にあるものとは性質が違うものだと、一目でわかる。生まれた時からある醜いこの痣は地獄に落ちた証なのだろう。自分の罪を忘れるなと、語りかけているようだった。この痣と傷跡を他人に見られるのが苦痛で、人前で服を脱いだことがここ数年殆どない。記憶の限り、縁壱の前でもだ。
 完璧でくもり一つない縁壱の瞳に、醜い俺の姿を映したくなかった。
 鏡を見るのが苦痛だ。あの、蜘蛛のような醜い姿の自分を思い出す。それに体の痣は年々濃くなっていくばかりで、それは前世のあの痣のことを思い出させた。
 俺は、25で死ぬのだろうか。
 前世はその運命に抗ったが、今世は抗うすべがないし、例えそうだとしても俺は運命を受け入れるつもりだった。俺がいなくなったら、縁壱はどうするのだろう。音楽を続けるのか、継国を継ぐのか……どちらにしても、死ぬかもしれない俺には関係ない話ではあるが。
 風呂から出て着替えをし、パーカーを着なおす。体の痣のことがあり、無意識のうちに厚着をしてしまう。カンガルーポケットに入れていたあの袋の存在を確かめて、脱衣所から出た。
 縁壱が待ち構えているかと思ったが、床に敷いておいた来客用の布団に大人しく寝転び、もう寝ているようだった。そのことに安堵し、シングルベッドに寝転んで電気を消す。
 縁壱の寝息を背で聞きながら、ポケットの中の袋を取り出す。寝ている間に潰して壊したくなかった。
 結んだひもを引っ張り、袋の口を開けて中身を確認する。棒状のものが二本、間違いなく入っていることを確かめて再び袋を厳重に閉じた。
 縁壱。
 今世に生まれ、隣にお前と同じ顔と同じ名を持つ弟といても、どうしてもお前が恋しくなる。お前の魂はどこにあるんだろうか。今俺の横で寝ている弟の中にあるのか、それともどこか別なところへ、行ってしまったのだろうか。
 本当は少し怖い。もし、前世と同じく俺の寿命が25で尽きるなら、その前にもう一度お前に会いたい。今世で出会えなければ、もう二度と会うことがない、そんな予感がして仕方がないのだ。
 今の俺には、過去に間違いなくお前と俺が存在していたことを伝えるこの不格好な笛に縋ることしか出来ない。
 縁壱……
 あの日、自覚したと同時に消し炭になり、終わったと思ったお前への恋心を、俺はどうするべきなのだ。
 


 縁壱の伴奏者を辞めてから、少し経った頃、通っていた小学校の校外学習で訪れた寺で、俺はそれを見つけた。
 その寺には鬼の伝説が残っているというところで、鬼にまつわるものを収集し、保管しているというマニアには有名らしかった。案内人が、猿の頭蓋骨に鬼の角に見える何かをくっ付けたものを鬼の頸だと紹介し、クラスメイトが悲鳴なのか歓声なのかよく分からない声を上げている。正直なところ、落胆していた。展示されている鬼の頸やら鬼を倒した刀やら、すべてが偽物ばかり。世の中欺瞞で溢れている。縁壱がこれらを見たら、どう思っただろうか。
 縁壱とは、あれからほとんど口を利いていない。縁壱は7歳まで口が利けなかったので、家庭学習を主にしていたが、話すようになってからは、私大の付属小学校に通う俺とは違い、インターナショナルスクールとかいうものに通っている。おかげでクラスメイトは俺が双子であることを知らない。それは俺にとってありがたい環境だった。
 顔は合わせないが、あいつの吹くフルートの音は家のどこにいても聞こえてくる。父が、音響設備がしっかりした部屋を地下に作る予定だと言っていたが、早く作って欲しかった。あいつの音が聞こえるということは、俺のピアノの音もあいつに聞こえるということだ。聞かれたくなかった、あいつにだけは。だから俺はピアノに鍵をかけて、家では弾くのを止めた。父はそんな俺にますます失望していたようだが、もうどうでもよかった。ピアノは学校の音楽室で教師から了承を貰えた放課後に下校時間まで、指がなまらない程度に弾いていた。縁壱は学校には来ないから、何も考えず安心して好きなだけ弾ける。その時が、当時の俺が唯一安らげる時間だった。何より、弾きたい曲を自分で選べるようになったのがいい。今まで縁壱の伴奏曲しかやってこなかったが、稚拙でも自分一人で音楽を完成させられることに小さな感動を覚えていた。
だから、校外学習もさっさと終わらせて、早く学校でピアノが弾きたかったのだが、室内の片隅にあった展示ケースに、俺は一瞬呼吸をするのを忘れた。そこに収められているそれは、真っ二つに割れた不格好な小さな笛だった。
 案内人はそれを「鬼が持っていたもの」と紹介するが、小学生はあまりにも地味な展示に興味は示さなかった。それはそうだろう、傍から見ればただの棒きれにしか過ぎない。だが俺はそれの前から動けなくなっていた。多少、色あせてはいたが間違いない。
 何故これが残っている。
 思えば、俺が塵となったのは大正時代のことで、現代まで大体100年程度のものであれば、伝え残っていてもそれほど不思議な話ではない。
「あの」
 気付けば案内人を呼び止め、俺はこう言っていた。
「これが欲しいです。どうすれば、譲っていただけますか。いくらお支払いすればいいですか」
 もともと俺のものなのだから、俺の手元に来るのが正しい。俺はそう思っていたが、案内人や寺の関係者は困惑の表情を見せ、勿論優しく窘められた。子どもが鬼の頸や鬼を倒した刀、そういったものを欲しがるのは、珍しくないことで断ること自体は慣れているようだったが、何故こんな地味なものを欲しがるのかと首を傾げられた。
 その日から、時間があれば俺はその寺に通った。丁度ピアノの練習時間も減った時期だったので、縁壱とは違い俺には時間があったのだ。週3~4のペースで行き、関係者と顔を合わせるたびに俺は譲ってくれるよう毎回冷たい地面の上で土下座した。
 寺の関係者は、ますます困惑した。それはそうだろう。一般的に見て、それほどの魅力がない展示物だ。だが俺には、俺だけは、この笛の価値を知っている。
 寺に通い続けて半年ほど経った頃、同い年くらいの寺の坊主に声をかけられた。何故、それほどまでにあれが欲しいのか、と。
……弟が俺に遺してくれたものだからです」
 そう答えると、坊主は怪訝そうに眉間を寄せる。それはそうだろう。理解して欲しいとも思わなかった。
 そして俺は、雪が積もる地面に手をつき、頭を下げた。
「お金はいくらでも払います。何でもします!どうか、譲ってください。お願いします!」
……顔をあげられよ。俺は盲目だから、そのような懇願は不要だ」
「もうもく……?」
 俺はおそるおそる顔を上げ、そして改めて坊主の顔を見て目を見開く。
……お前、確か、ひめじま」
 俺が名を呼ぶと、坊主の眉がぴくりと上がり、「ふむ」と鼻を鳴らし、どこかへ行ってしまった。かと思えば、すぐに何かを手にもって戻ってくる。無言で渡されたのは、雪かき用のプラスチックで出来たスコップだった。
……手伝え」
 一昼夜降り続いた雪を集めるのを手伝えと言われ、そういえば今何でもすると自分が言ったことを思い出す。つまり、雪かきを手伝えば、あれを譲ってくれるという事だろうか。俺はそれを受け取り、悲鳴嶼の指示に従って日が暮れるまで雪かきを行った。それが終わると、俺に温かい甘酒を飲ませた後に悲鳴嶼は「明日も来い」と言った。なるほど、一日程度の労働では譲れないらしい。
 それから俺は悲鳴嶼の指示通り寺に毎日通った。休みの日は一日中、学校のある日は学校が終わってから。電車一本で行ける距離で良かった。父はほとんど家にいなかったし、母も縁壱の面倒を見るために俺の動向などそれほど気に留めていなかった。ただ、縁壱だけほとんど家にいない俺を訝しげに見ていた。
「兄さん、どこへ行くのですか。俺も一緒に行きたい」
「お前はレッスンがあるだろう、縁壱」
 毎回玄関先で呼び止められても、毎回俺はそう答え、弟を振り切るように外へ飛び出した。
 悲鳴嶼は、寺の清掃を俺に手伝わせた。寺は建物も庭も広く、全て掃除するのにかなりの時間を要する。指示された場所を掃除した後は、悲鳴嶼の滝行につき合わされた。これが掃除より辛い。滝は冷たく……冷たすぎると水は湯気のようなものを上げるということを、俺は初めて知る。水圧の強い冷たい水は痛くて、本当にナイフで刺されているのではないかと思った。最初の一か月くらいは辛すぎて帰りの電車の中で涙を堪えていたが、二か月目となるとその冷たさにも慣れる。すると今度は丸太を三本かつげと言われた。は?意味わからん。出来るわけないだろ、新手の苛めか?けれど悲鳴嶼は無言で俺を見つめる。元上弦の壱がこの程度出来ないと?という顔だった。出来るわけないだろうが、今はただの人間な上、9歳の子どもだぞ。だが、悲鳴嶼の話によれば、子供用に丸太の大きさは通常の4分の1にしているとのことだった。やるしかないということなのか。これをやったら、本当にあの笛を譲ってくれるのだろうか。結局、俺はその日の帰りの電車で腰と肩の痛みに泣いた。
 三か月目、やっと丸太を三本背負った俺に、悲鳴嶼は今度は大岩を一町分押し運べと言う。は?意味わからん。出来るわけないだろ、新手の嫌がらせか?しかし悲鳴嶼はまた無言で俺を見つめる。押すって、この岩を、手で……
 俺は自分の背丈の二倍はあろう大岩と、自分の手を交互に見て、今更ながら激しい拒絶反応に襲われる。
 こんな大岩を押したら、きっと手が壊れてしまう……ピアノが弾けなくなってしまう。
「嫌だ」
 初めてはっきりと拒否した俺に、悲鳴嶼は「何故」と静かに問う。
「俺はピアノが弾きたい。こんな岩を押したら、骨が折れる。そしたらピアノが弾けなくなる」
 すると、悲鳴嶼は少し驚いたような顔になり「ぴあの」と小さく呟く。そしてしばらく考え込んだ後、俺を手招きして、寺の離れに連れてきた。離れという立派な表現よりも、倉庫と呼んだ方が正しい。人通りの少ないそこは、恐らく普段からあまり人の出入りがないのだろう。悲鳴嶼がカギを開け、扉をがらりと開けた瞬間、ひんやりとした空気とかび臭さが鼻を衝く。真っ暗だったが、先に入った悲鳴嶼が電気をつけると、今度は俺が驚く番だった。畳敷きの広間に、大小さまざまな段ボールとともにグランドピアノが置いてあったのだ。
「寄贈品だ。調律はこまめにしてはいるが、年に一度、寺主催のチャリティーコンサートで使う以外あまり使っていない」
 空気の入れ替えの為に窓を開けながら、悲鳴嶼がそう説明してくれた。寺の人間がこのピアノに関心がないことは積もった埃から見てとれた。こんな保存方法ではそのうちピアノ自体にカビが生えるだろう。
 それでも調律は少し前にしてあるとのことで、鍵盤を叩けば音程はそれほど落ちて無かった。
「何か弾いてくれ」
「はっ?」
 突然の言葉に俺は驚いて悲鳴嶼を振り返る、と、やつはもう畳に腰を下ろし、聴く態勢に入っているではないか。
「何を」
「何でもよい。君の好きな曲で構わない」
 好きな曲、と言われ、俺は固まった。好きな曲とは何だ?今まで縁壱の伴奏ばかりしてきて、自分が好きな曲など、考えたことが無い。そもそも曲って、好きになるものだったのか?
しかし、少し前に縁壱に弾いて欲しいとせがまれた曲があるのを思い出す。練習だけして結局縁壱には聴かせていないが、それでいいだろう。
 曲を決め、椅子の上に積もった塵を払ってからそこに座り、白黒の鍵盤と久しぶりに向き合った。弾きなれないピアノだと第一音がどう響くか分からない。でもさっき弾いた感じでは少し湿気で音はこもるが、学校のピアノとそれほど遜色ない音だった……ような気がする。それに悲鳴嶼は盲目だから、耳が良い。はっきりとした音が望ましいが、だけれども強すぎる音は良くない。この曲は第一音と二音が命だと俺は思う。その二つの音で演奏の全てが決まると言っていい。強すぎず低すぎず、美しい音を静かに響かせなければならない。
 呼吸を整えろ。すべての集中をこの指先に。全集中、全集中だ。
 すっと呼吸をしながら背筋を正し、そして俺は身を屈めた。
 繊細さを持ちながらも芯の強さを求めて鍵盤を叩く。そして響いた一音に、俺は背筋を強張らせる。血の気を失うとはこのことだ。湿気で重くなった鍵盤から発せられた音は、期待よりこもっていて、全く音が響かなかったのだ。
あぁ、終わった。
続く第二音もやはり鍵盤の重さで軽やかさに欠ける。つまりもう少し俺が鍵盤を軽く叩けばいいのか?だめだ、どう頑張っても音が全体的に重い。しかも湿気で心なしか鍵盤の戻りが遅い。高音が全然響かない。低音も重苦しすぎる。あまり使わないなら乾燥材を入れてくれ。縁壱ならば、こんな楽器でもきっと完璧に弾きこなしたのだろう、ああ妬ましい。妬ましい!
 結局最後の高音も全く余韻の残らない響きになり、予想よりも早く音が切れた瞬間俺は肩を落とす。無様な演奏だった。縁壱がいなくて良かった、と今朝も縁壱に一緒に行きたいと言われたことを思い出して息を吐いた、その瞬間、パンパンパンという乾いた音が聞こえた。何だ?とそちらへ視線をやると、悲鳴嶼が手を叩いている。何をしているのだ、この男は。手を叩くというのは神社ではなかっただろうか。それか虫でも飛んでいたのだろうか。
 しかしなぜか俺を見ながら手を叩き続ける悲鳴嶼が、だんだん不気味になってくる。
……何をしている?」
 思わずそう聞いてしまうと、悲鳴嶼は眉を上げて手を止めた。
「拍手だが?」
 はくしゅ。
 一瞬俺は何を言われているのか分からなかったけれど、拍手とは、あれか、いつも縁壱が浴びていた、あれか。悲鳴嶼の大きな手から発せられる拍手は低音で、普段よく聞いていたパチパチという高音ではなかったから、すぐに気付けなかったが、拍手なのか。
「とても綺麗な演奏だった、ありがとう巌勝」
 綺麗な、演奏。
綺麗なんて、記憶の限り初めて言われた。後さらっと初めて名前を呼ばれた。やはりこいつは俺のことを覚えていたのだ。
 ついでに、演奏をして、ありがとうと言われたのも初めてのことだった。
 ……徐々に耳が熱くなっていくのを感じる。悲鳴嶼が盲目で良かった、きっと今の俺の顔は真っ赤になっているだろうから。
……そんな感謝をされるような演奏ではない。音も全然」
「うむ、確かに未熟な旋律ではあったが、未来を感じさせる音でもあった」
 未来、という言葉に俺は少し唇を噛む。確かに、俺に初めてピアノを教えてくれた講師も、才があると俺に言った。確かに努力をすれば、上達はした。だけどそれは縁壱と比べれば亀の歩みで、あいつには敵わない。縁壱のような音が欲しかった。けれど、どんなに真似ようとしても縁壱の音にはならない。あの頃と同じだ。俺は日の呼吸を使えず、結局ただの模倣である月の呼吸しか扱えなかった。今回も、どんなに縁壱を目指しても俺はそこにたどり着けない。縁壱になれない。
徐々に俯きかけた顔を、悲鳴嶼の言葉が上げさせる。
「それは君だけの音だ。他の誰にも奏でられない、巌勝だけの」
 頭の片隅で、何かがぱちんと弾けたような感覚があった。
 俺は悲鳴嶼の顔を凝視してしまった。それは思いもよらぬ話だったのだ。まさか、全く音楽に関わりのない男から、そんな言葉が飛び出てくるとは。俺は素直に戸惑った。
……俺、だけの音?」
 口に出してみても、それは不思議な言葉だった。俺の音とは、なんだろう。それは存在していいものなのか?
 俺はずっと俺のピアノに縁壱の音を求めていたし、父もそうだった。だから俺は縁壱の音を必死に真似ようとしていた。そうしないと、俺の音は縁壱の音に比べて陰気で無機質なのだ。俺は俺だけの音なんかいらない。縁壱の音が欲しい。
「君はまだ9歳だろう、継国巌勝。これからの鍛錬次第で充分伸びる。君はそういう音色を持っている。実のところ、先程俺は君がピアノを弾きたいと言った時は、岩の修行を拒否するための方便だと思ったのだ。元上弦の壱が、音楽の道に進むと誰が思う?だが嘘ではなかったこと、俺は安堵している」
 この数か月間、あまり口を開かなかった悲鳴嶼がこんなに話すのが珍しく、俺は内心驚いていた。すると悲鳴嶼は着ていた作務衣のポケットから白い布を取り出し、俺の前に差し出した。
「これは君のものだ」
 白い布の中から出てきたのは、あの笛だった。ずっと望んでいたものが、目の前にある。
 驚く以上に、不気味だった。前世、俺は彼と戦い、殺された。そんな相手に何故この男は優しくするのか。悲鳴嶼の真意が見えず、思わず身構えてしまう。
……なぜだ。俺は、お前と」
「今世の話ではない」
 俺の動揺を断ち切ろうとするように、清々しいくらいにきっぱりと言い放たれた。
「それに、それはあの戦い後に俺が回収し、供養のために土に埋めたものなのだ」
「供養……誰の」
「お前とお前が殺した人々のだ。生き残った鬼殺隊員が、他の鬼が遺したものも、一緒に埋めて供養した。今世でその場所が区画整理で埋め立てられると聞いて、5年ほど前に掘り起こしたのだ。呪われるのも困るからな……
 知らないうちに俺は供養されていたのか。しかもそれまで俺が殺してきた鬼狩りに。
悲鳴嶼の手からそれを受け取ると、記憶より大きく感じた。当然か、今の俺はまだ10にも満たない子どもなのだ。震える指で笛の一片をつまみ上げる。間違いなかった。あの笛だ。こんなに軽かったのか。
 喉の奥のほうから何かがぐっとせり上がってくるのを、必死に堪えた。そんな俺の様子を盲目の悲鳴嶼が観察し、口を開く。
……巌勝、だが、いくつか約束して欲しい。もう二度と鬼にならないと」
 薄々は勘づき始めていたが、結局、悲鳴嶼の真意はそこだ。脅威の芽は早めに摘んでおきたいのだろう。当然俺は元々この人生は贖罪に生きるつもりだったし、もう鬼になる気もなかった。
「分かった」
 声を出すと情けないくらい震えていたが、悲鳴嶼の空気がふわっと軟化する。
「それと、ピアノは辞めずに続ける事。俺にはどういう道かは分からぬが、恐らく剣の道に匹敵するほど苦しく険しい道のりになるだろう。それでも俺は君の音色が好きだから、諦めずに続けて欲しい。恐らくそれは君自身のためにもなる」
 悲鳴嶼のその言葉に俺はぱちりと瞬きをした。
「好き?俺のピアノが?こんなに稚拙なのに」
 ああ、やはり悲鳴嶼は音楽に関してはド素人だ。こんな音、評価する価値もない音を好きだなんて。縁壱の音を聞いてみろ、お前なんて大号泣間違いなしだ。けれど悲鳴嶼は首を傾げた。
「好みは技巧の良しあしではないだろう。上弦の壱がピアノを弾いているという面白みも含めて、君の音色が好きだ」
 面白がられている。つまり特に褒められているわけではないのだ。文句の一つでも言ってやろうと思ったが、だがしかし俺は今世贖罪に生きることとしたのだ。やつらに笑われても、今世俺は耐え忍ばなければならない立場であった。恥やら怒りやら色々な感情をどうにか飲み込んだ俺に、悲鳴嶼は柔らかく微笑んだ。
「それとこれは個人的なお願いだが、よければたまにこのピアノを弾きに来てくれないか。たまに弾いてやった方が、楽器にも良いだろう。それに俺もまた君のピアノが聴きたい」
 それは、俺にとっても願ってもない申し出だった。縁壱がいる時は家で弾きたくないので学校のピアノを使わせてもらっているが、下校時刻である4時半までしか弾けないのだ。6時間授業の日は1時間も弾けない時もある。でもこの寺であれば、21時までに家に帰ることにしても確実に3時間は弾けるのだ。休みの日であれば、1日中弾いていられる。縁壱と顔を合わせずに済む。
……良いのか?」
「構わない。そうだ、そのうち元柱を呼んで君のピアノを聞いてもらおう。きっとみんな安心するだろうから……
 南無南無言いながら合掌して涙を一筋流した悲鳴嶼に、俺は顔を顰めることしか出来ない。聴かせる?俺のピアノを鬼狩りの連中に?やはりこの世は地獄だな。
「ところで先程の曲は、なんという曲だったのだ?」
 ピアノを片付け、部屋の戸締りを終えて外に出ると、外はもう暗くなっていた。悲鳴嶼に問われ、俺はちらりと暗い空を見上げる。今日は見当たらないようだったが。
……月の光。ドビュッシーの月の光」
「月、なるほど。君らしい曲だな。また聴かせて欲しい」
 悲鳴嶼は俺の頭をぐしゃりと撫でた。人に頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろうか。大きい手だが、こいつは今世、俺よりも年上なんだろうか。
「念のためにこれを持っているといい」
 悲鳴嶼は俺に紫色の小さな袋を渡した。ふわりと香ってくるのは藤の匂いだ。以前は不快な香りだったが、今は全く気にならない。鬼除けだ、と悲鳴嶼は言う。
「ありがとう……
「香袋一つ600円……
「金取るのか……
「稀血と前世鬼だった人間には自己申告で5%割引になる……さらに当寺オリジナルの藤の花の香水との併用をお勧めする……香袋と2つセットだとさらにお得な1500円(税込)今ならセットを買った人には藤の花のお香をプレゼントしている」
……前世鬼でした、セット下さい。クレカ使えますか」
「現金のみの対応となっております……5%割引で1425円になります。効力は保証するから安心しろ、金持ち小坊主」
「最後のそれ悪口だよな?」
 渋々二千円財布から取り出すと、悲鳴嶼はつり銭と一緒に薄紫色の香水とお香を渡してくる。何となくお香の箱を鼻に寄せると、寺みたいな匂いがした。そういえば、この寺は全体的に藤の匂いがする。胡散臭いと思ってはいたが、本当に鬼の記憶を残した寺なのだろう。
……お前の他にも以前の記憶を持っているやつがいるのか」
 寺から下の道路へ降りる石畳の階段を歩きながら問えば、悲鳴嶼は頷く。
「皆が皆、記憶があるわけではない。ある日突然思い出す者もいるが」
「弟も、記憶は無いようだ」
「弟……継国縁壱か。……大丈夫なのか、それは」
 悲鳴嶼の言わんとしていることを察した俺は苦笑するしかない。嫉妬に駆られて鬼になるのではないかと、心配になったのだろう。でも今の俺は弟に嫉妬するほど、すでに自分に期待はしていなかった。俺は哀しいほどに凡庸だ。
「悲鳴嶼、礼を言わせてくれ。俺、初めてだったんだ。弟以外から俺のピアノ、綺麗って言われたのも、拍手を貰ったのも、好きだと言われたのも」
 まぁ縁壱はしょっちゅう無表情で言ってくるが、あいつはどこまで本気かよくわからない。だから毎回聞き流しているが、悲鳴嶼は違う。元敵の俺を、そうする必要はないのにこの男は褒めたのだ。だから、その言葉が嘘ではないことは分かる。
「お前がくれた言葉、大事にしようと思う」
 力と誓いを込めてそう言った俺に、悲鳴嶼は合掌し涙を流す。そして
……弟からの言葉も大事にしてやれ」

 寺から家に戻ってきた俺は真っ先に自室に行き、今日手に入れたものをベッドの上に置く。香り袋、香水、オマケのお香。そして。
 そして
「縁壱……
 二つに割れた笛が、今俺の目の前にある。時間が経ち、水分が抜けきり色あせた姿は、あの時の老いた縁壱を思い出させた。それが俺の後悔を更に煽る。この笛は俺の罪の象徴だった。
 ……縁壱に会いたい。
あの時の縁壱に、老いた縁壱に、後継の話を遠い目をして語った縁壱に、鬼に襲われた俺を助けた縁壱に、この笛を大事にすると微笑んだ縁壱に。
この笛が伝え遺す縁壱の記憶は温かく、俺の罪は冷たかった。
 縁壱、お前はどうして俺にこんな温かな記憶ばかりを残すのだ、こんな俺に。あんなに嫌いだと思っていたのに、何故転生してもなお俺の記憶に残り続ける。
 溢れる涙を拭うことも出来ず、俺は暗い部屋で一人声を上げて泣いた。無様な姿だったろう。子どもみたいに泣いて。実際9歳の子どもだが。
 泣いて泣いて泣きつくした俺の耳を、不意に笛の音が撫でる。幻聴かとも思ったが、それは間違いなく縁壱の音色だった。不思議なことに、今朝まで聴くのが不快だったその音は、妙に耳に馴染む……何となく、少しだけ、縁壱の音が分かるような気がした。
……これは何の曲だったろうか。母が好きな洋楽だった気がする。フルートのソロ用にアレンジしたピアノの伴奏の楽譜を、以前縁壱に見せられた記憶があった。
 鼻をすすりながら蓋を締め切っていたピアノの前に座る。泣きすぎたせいで妙に頭が軽い。カギを開けて久しぶりに叩いた鍵盤の音は、悲鳴嶼のところのピアノよりずっと良い音で、少し笑ってしまう。お前、こんなに軽い音出せたのか。
 ―――兄上は、物事を理論でとらえ過ぎなのではないか。
 そう、縁壱に言われたのは今世だったか……前世だったか。縁壱の言っていることが全く理解出来ず、呼吸法の習得に戸惑う俺に、縁壱はそう言った。
 兄上は頭は悪くないのだから、後はもう恐れず心で受け入れればいい、との高尚なご意見を賜り誠に痛み入るわ!
 急激に蘇ってきた記憶の中の縁壱への怒りにまかせて、低音をぶっ叩くと重い響きが空気を震わせる。その音が、縁壱の笛の音と合っていたのは、勿論偶然だ。けれど、縁壱の笛が少しの動揺の後に、俺の音を待っているのが分かり、仕方なく次の音を叩く。この部分は繊細さなど必要ないから、多少強すぎてもいい。縁壱の音もいつもより強めだ。ああ、成程、元が歌だと歌詞があるからどういう感情を音に乗せればいいのか、どう強弱をつければいいのか、限定されやすいのか。だがその分、音の感情表現を豊かにしなければならない。俺はそれが苦手だった。
 縁壱の音は上手かった。間の取り方も、緩急のつけ方も、強弱のつけ方も、まるで本当に誰かが歌っているようだ。上手いよ、お前は本当に、縁壱。悔しすぎて気持ちが悪い。
 気が付いたら夢中で鍵盤を叩いている自分がいる。堂々としろ。縁壱がどんな音を出してもひるまず、立ち向かえ。父の顔とあいつの音を伺うような、そんな伴奏はもう二度としない。この旋律はお前への開戦宣言だ。
 低音を強く叩くと、やはり俺の音は重く響く。そう、俺の本来の音は、光り輝くような明るさのある縁壱の音とは正反対の、重く暗い、深い闇のような音色だった。父の言いなりにならず、縁壱の音に媚びず、光を纏うのを辞めたら、俺の音は縁壱の音に対抗出来るのだろうか。
 縁壱、俺はずっとお前への感情は単純なものだと思っていた。嫉妬、憎しみ、嫌悪の三和音しかないと思っていたが、俺のお前への感情はもっとこの多重音のように複雑で、畏怖、恐怖、執着、信頼の下に憧れや恋の音も混ざっていたことも、認めよう。俺がどんな不協和音を発しようと、お前の音は変わらない。変わらずに、ただ俺が正しい音を選ぶのをあきらめずに待っている。
 力強くピアノは叩くが、あれほど聞きたくなかった縁壱の旋律を耳で必死に辿る。お前は何を考えながら、その音を奏でているのだろう。兄弟だろう、少しくらい教えてくれたっていい。それとも俺がもっと探ってやれば良かったのか?どうなんだ縁壱。
 その時、縁壱の旋律がふわりと消えた。一瞬、音を探ってやろうとしたのを気付かれたのかと思ったが、すぐに縁壱の真意を悟る。ああ、確かにここの旋律はピアノの高音のみの方が、映える。
 弟が耳を澄ませているのを感じながら、あいつの期待に従い、否、期待以上になるよう静かに優しく主旋律を奏でた。……が、縁壱が帰って来ない。あいつが戻ってくるだろう小節まできても、縁壱の音が帰ってくる気配がない。このままだと俺が主旋律を弾くことになる。また、あいつが分からなくなった。演奏を止めたのか?何なんだ、じゃあこの曲は俺が貰うぞ。
 俺が主旋律を得た瞬間、待ち構えていたように縁壱が奏で始めたのには、思わず笑いが漏れてしまった。縁壱は俺が弾く主旋律を装飾し始めたのだ。縁壱が、伴奏をしている。俺の音の伴奏を。
 ぞわりとしたものを背筋に感じると同時、腹の底からぶわりと欲の波が駆け上がってきた。主旋律を得ていいなら、もっと音を増やしたい。鍵盤を抑える指を増やせば、手の平がぴきりと引き攣ったが、全く気にならなかった。早く成長したい。もっと手が大きくなれば、指が太くなれば、もっと広く、もっと強い音が出せる。
 勝手に音を増やした俺に縁壱はひるむことなく主旋律を更に輝かせる音を選び、奏でる。伴奏も巧いのか、ああ、ほんとお前は本当に縁壱だな。けれど、昔言われた縁壱の言葉を、今更理解する。縁壱、お前に伴奏されるのは、本当に気持ちがいい。出来る事なら、ずっと弾いていたい。でも俺も馬鹿じゃない。次からの主旋律は縁壱に譲った方が曲として成り立つことくらい、分かっている。
手と指の筋肉を最大限に使って和音を叩きしばらく音を響かせた後、肩の力を抜き、ダンパーペダルを上げ、静寂を奏でた。
 鍵盤から手を離し、荒い息を整えながら目を閉じると、丁度いい間の後に縁壱のフルートが主旋律を奏で始める。一音一音が優しく、美しく心地いい、透明な音だ。瞼の裏に、前世の縁壱の顔が浮かぶ。心優しい、類まれな人格者。まさにあいつみたいな音だった。
 うっすらと目を開け、再び両手を鍵盤へ伸ばす。主旋律を弾くためだ、縁壱と一緒に。
 耳を澄まして縁壱の音を注意深く聞く。集中しろ。縁壱の呼吸に合わせろ。向こうも、こちらのタイミングをうかがっているのを、何となく感じた。
  一音、二音、三音、と慎重に音を重ねる。そして最後の音がぴたりと合うと、主旋律の余韻を俺に任せた縁壱が最後の伴奏を吹いた。情感が込められたそれを聞きながら、これ以上余計な音を発しないよう恐る恐る鍵盤から手を離す。酷使したせいなのか、何なのか、わずかに指が震えていた。
 縁壱の最後の音が完全に消えたのと同時、ずっと踏みっぱなしだったペダルから足を離したその瞬間、ぶつりと緊張の糸が切れる。
 全身の血管が脈打ち、耳元に心臓があるみたいだった。この浅い呼吸音は俺のものか?大量の汗をかいていることに気が付く。立ち上がろうとすると、くらりと軽いめまいを感じ、再びピアノの硬い椅子に座り込んでしまう。それでも、立ち上がらないといけない。縁壱に会うために。
 ふらつく足取りで、部屋から出る。縁壱はどこで吹いていたのだろう。地下のレッスン室か、それとも一階のリビングか。あの音の大きさだったら、隣の自室ではないだろう。とにかく、下にいけば会えるはず。
 フローリングの床を力の入らない裸足でたどたどしく歩いてどうにか階段まで来ると、丁度階段の真ん中まで登ってきていた縁壱と目が合った。
「より、い」
 ふらつく足で階段を降りようとすると、縁壱がいち早く目を見開き駆け上がってくる。何だ?と思った瞬間に足をずるりと滑らせ階段を踏み外していた。俺が恐怖に息を呑むより早く、縁壱が即座に腕を伸ばし、全身で俺の身体を支える。驚くべきことに、ほぼ同じ体格である俺の身体を、縁壱の身体は難なく抱えたのだ。
「大丈夫ですか?」
 縁壱が俺を階段に座らせながら、無感情な双眸で聞いてくる。
「あ、ああ……びっくりした」
 驚きに再び心臓が耳元に移動していた。動揺してしばらく立てそうにない俺の隣りに、縁壱も座る。階段は子ども2人が座るのに意外と丁度いい幅だった。……会わなくてはと思ったが、いざ会ってみると、何を話せばいいのか分からない。ちらりと縁壱の横顔を見れば、本当にさっきまであの演奏をしていたのか?と思うほどの相変わらずの涼やかな無表情だ。俺なんか、息も絶え絶えだというのに。
 またつまらない嫉妬心が膨らみかけたその時、縁壱の顔の痣がうっすら赤みが濃くなっていることに気付く。何となくその痣に手を当てると、縁壱が驚いたようにこちらを向いた。その痣は、俺の手よりもずっと熱かった。
 何だ、お前も興奮してたのか。
……父さんと母さんは?」
 その時両親の存在を思い出し、肝が冷えた。特に父親に今のを聴かれていたらきっと朝まで怒られるに違いなかった。けれど縁壱は無表情で首を振った後に
「今夜はどこかのホテルで何かのパーティだと」
 それは珍しいことではなく、どちらかといえばよくあることで、俺は安堵に思わず長めのため息を吐いた。縁壱はそんな俺を静かな目で見る。
「兄さんは父さんが怖い?」
……お前は怖くないのか?」
「俺は父さんなんてどうだっていい。どうでもいい」
 それは少し意外だった。あれだけ父の期待一身に受けていても、縁壱は父に対して特に何の情も抱いていないらしい。縁壱らしいというか、前世も確かに縁壱は母には懐いたが、父と一緒にいるところは見たことがない。
……どうでもいいことはない。お前の着るものも食べているものもフルートや楽譜、俺のピアノだって全部父の金で賄われているんだ。俺たちは父の金で生かされている、その分礼儀は払わないといけない」
「兄さんは父さんに礼儀を払っているから、俺との演奏をやめたのですか?」
 兄として縁壱を窘めるつもりだったのに、縁壱の静かな声に俺は黙してしまう。確かに、父の指示もあるが、縁壱との演奏をせずに済むことに、どこか安堵している自分もいたのだ。
……俺が父さんの金で生かされなくなれば、また兄さんと演奏出来る?」
 沈黙を肯定と捉えたのか、縁壱はさらに問いを重ねた。それにも、俺は答えられなかった。嘘は好きじゃない。嘘を吐いたところで、何の意味もなさない。縁壱はこのまま音楽を続ければ、間違いなくこの世界で輝けるだろう。だが、俺は?
 悲鳴嶼には未来のある音だと言われたが、その未来がどこまであるかまでは。
……わからない」
 俺の答えをどう思ったのか、縁壱はそれ以上何かを問うことは無かった。
 しばらく無言で二人、階段に座り込んでいた。不思議だ、あれほど縁壱と顔を合わせるのも厭だったのに、こうしているとこうやって二人でいることが正しいことのようにも思えてくる。元は十月十日ともに母の胎内にいた双子なのだから、これが当然なのだろうか……否、こいつと十月十日四六時中二人きりとか多分気が狂うな。胎児の俺よく耐えた。
……兄さん」
「なんだ」
 唐突に縁壱に呼ばれ、俺はびくりと肩を揺らしてしまう。そんな俺に、縁壱は顔を綻ばせた。
「俺は、兄さんの音は沢山あって好きです」
 ……ピアノだからな。
 ピアノは楽器の中でも音域が広いほうだ。それに一度に指の数だけ音が出せる。縁壱は何故か微笑みながら語るが、当たり前の話なのだ。
「兄さんの色んな音、全部好きです」
……音がありすぎると、不協和音になりがちだろう」
 和音は半音音が下がっただけでも不協和音になる。その瞬間、曲の全てが崩れる可能性があった。
「その時は、俺が音を足せばいい」
 けれど、縁壱はなんてことない風に、そんな言葉を口にするので、俺は思わず眉間を寄せてしまう。
「不協和音に一音足したところで何も変わらない」
「きっと面白い音になります。それに兄さんの音は全部綺麗だ。透明で、何の混じりけもない、感情に素直な音がする」
 どことなく楽しそうに話す縁壱の言葉はやはり昔から不可解な、居心地の悪い気分にさせられる。心臓を直接撫でられているような、そんな感覚に無意識のうちに自分の心臓に手を当てていた。
 何で縁壱はこんなに楽しそうなのだろうか。
「俺は、自分の音なんて要らない。お前の音になりたい」
 己の嫉妬心を吐き出せば、縁壱は怪訝そうに瞳を瞬かせた。
「何故?」
 何故と聞き返されるとは、思ってもみず、俺は思わず声を上げてしまう。
「わからないのか!?お前の、お前の音は……神に祝福された音だろう」
 けれど、縁壱はさらに理解出来ないと言いたげに目を伏せた。
……わからない。俺は兄さんの音が、俺の音になったら、つまらない。兄さんの音はそのままがいい」
「だって、父さんは、俺の音がお前みたいにならないから怒ってるんだ。俺の音が、陰気で暗くて、稚拙だから」
「兄さん、それは違う」
 その時、庭の方から車のエンジン音が聞こえてくる。恐らく両親が帰ってきたのだ。とっくの昔に風呂に入って寝入っていなければいけない時間であることに気付き、慌てて立ち上がった俺の手を、縁壱が掴んだ。
……兄さんは風呂に行って。俺が父さんたちを足止めします」
 俺が怒られないように、縁壱が手伝ってくれるらしい。それは素直にありがたい。そうと決まればさっさと部屋に戻って着替えをとって風呂に入らないと。が、何故か提案した縁壱の手が離れない。
「縁壱?」
 もう一度縁壱を振り返ると、彼の静かな目がじっとこちらを見つめている。
……今日兄さんの部屋で寝ていい?」
 両親不在の夜に、縁壱が俺の部屋で寝たがるのは、そう珍しいことでもない。この広い家に大人がいない不安感は分かる。けれど今日はもう両親は帰ってきたのだから、必要ないのでは?とは思うが、縁壱の手は離れない。こいつ、頷かなかったら離さないつもりだろう。
「分かった」
 仕方なく頷けば、縁壱はすぐに手を放して階段を下りて行った。そして階下から縁壱の「おかえりなさい」という幼い声と、「おぉ、縁壱。まだ練習していたのか?お前は努力家だな」と上機嫌な父の声が聞こえてくる。俺が起きてたら早く寝ろと怒鳴るのに。
 余計なことを考えるのは止めて、俺は自室に戻り広げていたお香や香水を乱雑に机の引き出しに放り込んだ。そしてあの笛だけは、慎重に取り扱い引き出しの中に置く。引き出しを閉じる寸前、その笛に今世の縁壱への態度を咎められた気もするが、それは無視した。前世の縁壱には恋をしているかもしれないが、今世あの幼い縁壱には恋心など微塵もなく、あるのはただ、さらに複雑になった感情だけ。縁壱のことは好きじゃない、結局嫉妬もある、でもあいつの音は嫌いじゃない、あいつにとっていい兄になりたいという気持ちも本当だ。
 でも、縁壱はそんな俺が奏でる音がすべて好きだと言うのだから、ひとまずは……練習あるのみだろう。
 前世の縁壱が俺のピアノを聞いたら、何て言っただろうか。まあ、まずはあの奇妙な形状の楽器を見たら流石に目を丸くするくらいはして貰わないと。
 そして、きっとあの薄気味悪い笑みを浮かべて、こう言うに違いない。


 セックスすればいいんじゃないかなぁ、黒死牟殿!


―――は?」
 急激に意識が浮上し、俺は唖然とした。遠くで雀の鳴き声が聞こえる。視界を埋める白い壁は、俺が家賃を払って借りている部屋のものだった。……はて、何かすごく変な夢を見た気がするが気のせいだろうか……そしてなぜかめちゃくちゃ熱い。背中が。
 寝返りを打とうとすると何か壁のようなものに阻まれてしまう。目の前に壁があるんだから、後ろに壁があるはずがない。正体を確認するために首を後ろへ捻じ曲げて、俺はため息を吐いた。
「縁壱、お前またか……
 いつの間にか俺のベッドに入り、背中にくっついて寝ていた弟に呆れたため息を吐きながら起き上がろうとして、縁壱の腕が腰に巻きいていることにも気付く。お前いい加減にしろよ。もうすぐ25になる男が、同じくもうすぐ25になる兄に抱きついて寝るとか有り得ないからな。
「あっついわ、お前。何してんだ」
 そして何より縁壱は平熱が高い。だから一緒に寝るとその熱さで起きた時は、俺が汗だくになっているのだ。眠気覚ましに頭を掻きながら、いまだ夢の中にいる弟の腰骨を軽く蹴ると、何の抵抗もなくベッドから落ちていった。掛け布団を道連れにした縁壱は、下に敷いてた布団に柔らかく受け止められていた。掛け布団と弟という熱源が無くなると、朝の冷気がひやりと俺の肌を撫でる。それが心地よくて、もう少し寝ていてもいいかと再びベッドに仰向けになった。自慢じゃないが、俺はあまり朝が得意ではない。それはもう前世鬼の名残だと諦めている。
「蹴り落とすことはないのでは……
 ベッドの下で、布団に埋もれていた縁壱が不満そうに起き上がる音が聞こえた。が、それ以降何の音も聞こえない。立ち上がる音も、もう一度寝転がる音も、あくびをしながら身伸びするような音も、何も。
 ……何をしている?もしかしていなくなったのか?
 眠気より疑問の方が勝ち、目を開けて縁壱を見た。なんだ、いるじゃないか。縁壱は方向としては壁の方を凝視している。壁?蜘蛛でも這っていたのか、と思って縁壱の視線をなぞり、眠気が一気に覚めるのを感じた。
 俺が着ていた上着の裾が捲れ上がり、腹の醜い傷が露になっていたのだ。
 裾を引っ張ると同時に飛び起き、壁を背にして身を縮めた。勢いが付きすぎて肩甲骨が壁にぶつかり、痛むが、それどころじゃなかった。そこまでする必要もないだろうが、両腕で腹を庇う俺に、縁壱は我に返ったような顔をする。
……兄さん、その傷、大丈」
「問題ない。何年前だと思ってる」
 縁壱が何を言おうとしているのか察して最後まで言わせなかった。もうすでに治っている傷を心配されるのは本意ではない。これでこの話は終わりにして欲しかったのに、馬鹿な縁壱はさらに口を開いた。
……見てもいいでしょうか?」
「何のために?」
 腕に力を入れ、俺は縁壱をねめつける。警戒を隠さない俺の様子に、縁壱はすぐに眉を下げ、「ごめんなさい」と謝った。
……朝飯、食べるだろ。用意しておくから、顔洗ってこい」
 部屋に生まれ始めた奇妙な空気を払拭するために、俺はベッドから立ちあがった。縁壱も「うん」と頷いて洗面所へと向かってくれる。俺はほっと息を吐いて、なんとなくわき腹を撫でてしまった。そして、窓にかけている遮光カーテンを握り、一呼吸おいてある種の覚悟を決めてから開けると日の光が目を焼いた。なんだかんだ、いまだに朝日を浴びるのには不安があったので、この部屋を借りる時も、カーテンをわざわざ遮光に変えたのだ。
 今日も朝日に照らされても崩れない腕をしばし眺め、朝食の準備に取り掛かることにした。
 縁壱は小さい頃から、音楽以外の作業は何もしてこなかった。フルートより重いものは幼い頃は基本的に持たなかったし、とにかく手を怪我してしまう可能性のあるものやことはすべてしてこなかった。代表的な例はバスケットボールやバレーボールで、体育でそれをやる時は見学していたが、サッカーはやっているのを見かけたことがある。勿論サッカー部から勧誘を受ける実力だった。俺も勧誘されたことは一応あるが、巌勝が入れば縁壱くんも入るから!というあまりにも屈辱的な理由だった。お前よくそれを正直に言えたな、と逆に感心させられたので、「キーパーならやる」と伝えたところ縁壱が「兄さんがキーパーとはどういうことなのですか、俺が代わりに断っておきましたから」と俺の代わりに断ってくれたし、あいつもサッカー部に入部することはなかった。ははは。
 だから、家事や料理も、弟はしたことがない。身の回りのことは父か母、もしくは家政婦が全て行ってくれる。全く、甘やかされているな。……前世の俺もそうだったが。
 俺は将来的に何があっても良いように、中学になった頃から母から料理と菓子作りを習った。母は元々料理好きだったのもあり、教えて欲しいと自ら口にした俺に少し嬉しそうに頷いてくれた。俺は彼女の優秀な生徒であろうと日々努めたし、一人暮らしを始めてからは、当時の経験が随分と生かされている。
 縁壱は海外から帰ってくると日本食を食べたがるのが常で、それを見越して昨日のうちに米を炊飯器にセットしておいたから、もう炊けているはずだ。……しかし現代はスイッチ一つで白米が食えるのだから、本当にすごい世の中になったものだ。時間を確認するためにスマホを見ると、母から『縁壱がそっちに行ったと思うけど、ちゃんと食べさせてあげてね。お兄ちゃんなんだから』とのメールが届いていた。……握り飯だけで終わらせたかったが、みそ汁も作ることにする。母は恐らく、身の回りのことが何も出来ない縁壱の為に、俺に料理やなにやらを仕込んだのだろう。分かっていても『お兄ちゃんなんだから』という呪いの言葉に俺は弱かった。
 顔を洗った縁壱が出来る朝食の準備といえば、電気ケトルでお湯を沸かし、ティーパックで二人分のお茶を淹れることだけだが、あいつはそれを至極真面目な顔でやりこなそうとした。笑ってやりたいが笑えないのは、何故か縁壱が淹れた茶はティーパックの癖に高級な味がするからだ。何故そこまで神に愛されているのだ縁壱ィ……。奥歯を噛み締めながら俺は握り飯の中に昆布の佃煮を突っ込んだ。
「美味しい」
 まずみそ汁を飲んだ縁壱が無表情でぽつりそうと呟いた。俺が作ったのだから当たり前だろう……と思いながら縁壱が淹れたティーパックの緑茶を飲んだら玉露の味がした。おのれ……。俺がどんなに高めの昆布や煮干しやかつおぶしで出汁を取っても、こいつはティーパック一つで神の味を再現する。腹ただしい、恨めしい。
「お前、向こうで美味いもの散々食べてきたんだろう」
 料理の出来ない縁壱は海外に行くとほとんど外食になる。大体はかなり高級な部類の場所で食べていることを俺は知っている。そもそもあの父親が縁壱に安物を食べさせるはずがない。
「兄さんのご飯が一番美味しいですよ」
 まぁ、久しぶりの日本食が美味く感じる気持ちは分かるが。
縁壱は意外と大喰らいで、今もそこそこ大きく握ったはずの握り飯を4個喰いやがった。俺の一か月分の食費のことなんて全く頭にないのだろう。確かにこちらには土産を貰った弱みはあるが。
 俺はどちらかというと小食な方で……それが双子であるのにわずかに縁壱との体格差がある理由なのだろうけれど、握り飯一個あれば朝は充分だった。一応健康のためにヨーグルトを食べておこう、と冷蔵庫からそれを出して口に運びながら縁壱の喰いっぷりを眺めていると、不意に目を上げた縁壱の目が笑みに細められる。
「噛み過ぎですよ、兄さん」
 ……どうやらまたスプーンを噛んでしまっていたようで、俺はうなだれる。どうも、自宅だと油断してしまう。
……はしたないところを見せた」
 気恥ずかしさからスプーンを器へ放ると、この癖が前世鬼の名残であることを知らない縁壱は「謝る必要はないですよ」とみそ汁を飲み干していた。弟はこの癖が昔からのものであることは知っている。
「それより……手、無理していませんか」
 手に持っていた器をテーブルに置いた縁壱が、唐突に俺の腕へ視線を向ける。は?手?
 縁壱の視線に習って自分の腕に目を落とした俺に「包丁を使う時の音が少々変でした」と縁壱は言う。お前どんな耳をしてやがる。天才か。知っていたが、気持ち悪いな。
「別に変なところなんて」
「兄さんはすぐ練習しすぎる。油断するとまた疲労骨折することになりますよ」
 そう言いながら縁壱は手を差し出してきた。それがどういう意味か分からないほど付き合いは短くない。渋々俺も手を差し出すと、縁壱は俺の手を掴み、何かを確かめるように撫でる。
「やはり、使いすぎている」
 ぶつぶつ文句を言いながら縁壱は俺の手の平をマッサージし始めた。縁壱の親指に力が入るたびに軽い痛みが走る。
……社会人なんだからしょうがないだろう」
 ピアノの練習時間は取れるが、ケアをする時間はなかなか取れない。軽いストレッチはしていたものの、それでは不十分だったのだと縁壱の指圧で思い知らされた。
「兄さんもピアニストです」
「俺はそんな仰々しいものじゃない」
「兄さんはピアニストだ」
 ぐりっと人差し指と親指の間の筋肉を強めに指圧され、その痛みに眉間を寄せて見せたというのに、縁壱はそ知らぬ顔で力を弱めない。
……縁壱、痛い」
「腕の筋肉にも疲労が溜まっている……
「縁壱、おい、痛いと言っている」
 黙々と腕の方にも手を這わせ始めた弟は、声をかけても目を上げることもしない。こうなってしまっては何を言っても無駄であることは24年間の経験則で学習済みだったので、もう好きにさせることにする。
 諦めてしばらく俺の手を指圧する縁壱の手を黙って眺めていると、縁壱がちらりと俺を見た。
……今度兄さんが弾いているバーに遊びに行っても?」
「絶対来るな」
「でも俺兄さんのピアノしばらく聴いてないんですが」
「お前、無一郎に録音させたやつ持っているだろうが」
……よくご存じで」
「無一郎がわざわざ俺に「送っておいた」と言いに来る」
 チッと舌打ちした俺に、縁壱は視線を横へと流した。
 時透無一郎と有一郎は母方の双子の従弟で、俺が今勤務している中学に通う生徒でもある。この双子は無一郎の方には過去の記憶があり、それで俺のことは嫌っているが、縁壱には懐いているようだった。だから縁壱の頼みは聞くし、俺には嫌がらせの事後報告をしてくる。アレは俺を縁壱でイジれば一番効果があることをよく知っていた。
「無一郎は未成年だからバーの演奏は録って貰えないので」
「まずその録って貰おうって発想を止めろ、気持ち悪い」
「つまり、今度弾いてくれるということでしょうか?」
「弾かない」
……俺はどうすればいいのですか」
 特に表情も変えることなく聞いてくる縁壱に、俺の方がため息を吐いてしまった。
「一人で世界のツグクニやってればいいだろうが」
 いつから言われ始めたのか、たまにテレビで世界のツグクニとテロップを出されていることを揶揄ったつもりだったが、やはり縁壱は表情一つ変えない。
「兄さんも継国です、俺は一人じゃない」
 そういう意味じゃない。この弟は冗談の一つも通じないのか。
「縁壱、お前の才は唯一無二だ。そういう才能を持った人間は常に孤独なものだろう」
……俺は兄さんがいるから、孤独だなんて思ったことはない」
……縁壱」
「兄さんは」
 その時、今までずっと俺の手に視線を落としていた縁壱が初めて目を上げた。
「兄さんは、孤独なんですか?」
 赤みがかった黒い瞳がじぃと俺の心を見つめる。その目が嫌いだ、俺が知らない俺の心のうちまで見通されるようで。
 その双眸は覗き込んだ俺の目から何かを見つけたらしく、ついと俺から視線を下すと同時に言葉も零した。
……俺が、いるのに」
 お前がいるから、何だと言うのだ。双子だから、何だと言うのだ。姿かたちが似ているだけの赤の他人ではないか。昔の記憶すらないお前に、何が出来ると言うのだ。と、言えればどれほど良かったか。
 いつの間にか縁壱の手は止まり、ただ俺の手を握っているだけの状態になっていた。
「縁壱、手を離せ」
……兄さん」
 離せと言っているのに、縁壱は逆に俺の手を握る手に力を込めた。おい、痛い。じろりと睨むと、縁壱は感情の見えない目を俺に向けてきた。
「俺は、怒っている」
……何?」
「俺は怒っています」
「何故?」
 ここは俺が怒るところであって、縁壱に怒る権利があっただろうか?
「兄さんが、俺が怒っていることに気付いていないことにも今怒っている」
「あ?」
「だから、これは早い話俺と兄さんは今喧嘩をしているということになる」
「縁壱、悪いがお前の言っていることがさっぱり分からん」
「兄さんが、俺が何故怒っているのか気付くまで、俺は兄さんと口を利かない」
……好きにすればいい」
 縁壱と口を利けなくなったとしても、俺に実害は殆どないのだ。実際、縁壱と顔を合わせるのはここ最近では月に一度あるかないかで、例えば来月また縁壱と顔を合わせることとなっても、その頃にはどうせこんな些細なことは忘れているに違いない。
 が、縁壱は存外真剣な目を俺に向けた。
「兄さん、俺は今日の午後の飛行機で神戸へ行くことになっています。明日、コンクールがあるので」
「だからなんだ」
「良いのですか?」
「何が」
「飛行機が落ちたら流石の俺も死ぬでしょう」
「だろうな」
「俺が死んだ後に兄さんは俺と喧嘩別れしたことを一生悔いることにな」
「さっさと神戸だろうがジュネーブだろうがどこへでも行ってしまえ」
 朝の時間のない時だというのに真面目に聞いてやった俺が馬鹿みたいではないか。チッと舌打ちをしながら縁壱の手を払い落した。俺もそろそろ仕事へ行く準備をせねば。
 クローゼットを開けるために縁壱に背を向けて、この話は終わりだと暗に告げた。
「何故ですか、俺は純粋に俺が死んだ後の兄さんが心配で」
 しかしさらに畳みかけてきた無神経な縁壱の言葉は、俺を苛つかせる。今日着るシャツをハンガーからむしり取り、思い切りベッドに投げ付けた。
……飛行機はそうそう落ちない安心しろ。何だか俺も段々腹が立ってきた」
「兄さん」
声に静かな怒気をにじませた俺に気付いた縁壱が俺を呼ぶが、振り返りはしなかった。
「口を利かないのではなかったのか、縁壱」
 視線はクローゼットに向け、手で目的のものを探すような動きはしていたが、苛立ちで全く集中できない。縁壱ももう出ていけと言われていると察したのだろう。がさがさと背後で出ていく準備を始めた音が聞こえ始めた。
 縁壱の声が、気配が、玄関ドアの方へ移動したことに、俺は安堵していた。これでまた一か月は平穏が保たれる。が
「お気づきですか、俺達まともに喧嘩するの初めてなんですよ」
 縁壱のその声は、どことなく嬉しそうだったのだ。はぁ?
「それが、何だと言うんだ!」
 思わずそう叫びながら振り返るが、その時はもうそこに縁壱の姿は無かった。何なのだ、本当にお前は!
 喧嘩が嬉しいとか本当に意味が分からない、気持ち悪い。喧嘩など、しないことに越したことはないではないか!俺がどれだけお前のことで我慢を強いられてきたと思っている?何が、何が!
「何が、俺が死んだ後の兄さんが心配だ!ふざけるな!!」
 手近にあった枕を縁壱が出て行ったドアへ向かって投げ付けた。それは勿論本人に当たることはなく、灰色がかった扉にぼすりと柔らかく当たり、重力に従って落ちる。……枕カバーを洗わなくては。
 頭は冷静になっていたが、まだ興奮が収まらない体は肩で呼吸をしている。落ち着け、落ち着け、全集中だ……今度全集中の呼吸で枕をぶん投げてやるから、覚えていろよ縁壱。
 縁壱は何故自分が怒っているのか理解していないから俺に怒っていると言ったが、お前こそ俺が何故怒ったか、理解出来ていないだろう。いつだってお前の言葉、行動に俺は振り回されているのに、振り回されていない振りをしなくてはいけない辛さなど、お前に分かるわけがない。分かってたまるか。
 じわりと目の奥が熱くなる感覚に、小さく「くそ」と吐き捨てた。人間の身体はどうしてこう、涙脆いのか。縁壱の体温がわずかに残る手で、頬を流れ落ちてきた熱いものを乱暴に拭う。
 後継のことは心配する必要はないから安心して死ねると、薄気味悪い笑顔で言っていたくせに。
「だったら、俺を殺してから死ねば良いではないか……
 否、あの日、縁壱に死なれたと同時に俺も死に、俺はただの醜い生きる屍となった。その後数百年生き恥をさらし、行冥達に殺され地獄に堕ちたのだが。
 では、今の俺は何なんだ?今も、ただの醜い屍でしかないのだろうか。
 藤の匂いを纏っても気分が悪くならない、朝日に当たっても身体が塵になることはない、目が六つあるわけでもない俺は、侍という職業も無くなり、剣技はただのスポーツと化し、日本刀は美術館で見る程度の存在感になった世界で、結局生きる意味を見出せず、いまだに出来る事なら縁壱に殺されたいと仄暗い願望を抱えて生きている。



 笛の一件以来、悲鳴嶼とはよく顔を合わせるようになった。悲鳴嶼がいる寺へピアノをしょっちゅう弾きに行っているから当然だが。悲鳴嶼は俺の3つ年上とのことだった。身長が170くらいあったので、高校生かと思ったが、初めて出会った時、悲鳴嶼はまだ中学生だった。記憶では悲鳴嶼は過去もっと背丈があったから、これからまたぐんぐん伸びていくのだろう。
あいつとは色々な話をした。前世の縁壱と俺のこと、今世の縁壱と俺のこと。それと、身体にある生まれつきの痣のことも。
「25になったら、俺は死ぬんだろうか」
 どう思う?と問えば、悲鳴嶼は手を合わせ
「分からぬが、今世は前世とは違う。元鬼殺隊が前世で失った家族は、今世では存命だ。それほど気にすることでもあるまい」
 その口ぶりからして、悲鳴嶼はそれほど気にはしていないようだった。確かに、悲鳴嶼の場合は痣の出現がなければ死ななかったのだから、今世では長生き出来そうだと俺でも思う。
「俺がまた鬼になる可能性は、あるんだろうか」
……君次第だろう」
 鬼に関しては、鬼舞辻がいないから大丈夫だとは一言も言わなかった。寺に通い始めて気付いたことがあるが、悲鳴嶼が俺に売りつけた藤の香袋と香水の類はそこそこ売れているらしい。特に、前世鬼だった者に。
前世鬼だったと名乗る者が、定期的に寺に来て藤の香袋を買っていく姿を何回も見かけた。確かにそう名乗れば割引にはなるので冗談半分で鬼だと名乗る者もいたが、中にはどことなく怯えた顔で購入していく者もいる。前世鬼であったと記憶の無い者も、正体不明の悪夢に魘されると、寺を頼ってくると悲鳴嶼は言っていた。そして前世鬼だった者は皆、何かしら鬼であった名残が体に残っていると。俺の場合は恐らく地獄で焼かれた痕だが、人によっては日光過敏症だったり、昼間起きていられない睡眠障害だったりと、症状は様々だとのことだ。大体は病院へ行けば解決するらしい。記憶を持つ者の中には、精神を病み、前世を悔いて出家する人間もいるとか。
「上弦が来たのは巌勝が初めてだ」
 悲鳴嶼は物珍しそうに言うが、それはそうだろう。上弦でも下位の顔はあまり覚えていないが、弐の童磨や、参の猗窩座はこんなところにわざわざ足を運ぶような性格ではなさそうだった。そもそも、転生しているのか自体謎だ。猗窩座はともかく童磨はずっと地獄にいて欲しい。
 珍しい元上弦だからと、悲鳴嶼から血を取ってもいいかと問われたので、特に拒否する理由もなかったので了承する。注射器とは違う、小刀のような形状の道具で取られた。悲鳴嶼の話では元鬼専門に診ている医師がいるらしい。痣を消したかったらその医師と連絡を取ってやると言われたが、断った。痣を消したら、罪の記憶も失うのではと漠然とした不安があった。俺はこの記憶があるからこそ、今があるのだ。この記憶を失ったら、再び道を誤るかもしれない。俺がそう答えると、悲鳴嶼は「そうか」と言い、新しい藤の香袋を渡してくれる。一袋600円は良いが、クレカ対応してほしい。
「悲鳴嶼、この間のセットを一つ貰えるか」
 その時、不意に俺はあることを思い出し、先日買った香水と香袋のセットも購入することにする。香袋の藤の香は少し甘めの匂いで、不快ではないが好みではなかった。だが香水の方は爽やかな香りで、男がつけていても何の問題もないものだったのはありがたい。藤の石鹸も製作中だとセールストークをする悲鳴嶼に金を渡し、楽譜を入れてきたカバンに乱雑に詰め込んだ。
「精が出るな」
 楽譜をピアノに並べた俺に、悲鳴嶼は激励なのか何なのかよく分からない言葉を言う。
……本選が近いし、その後に発表会もある」
 曲自体はもうすでに完成している。後は暗譜を完璧にするだけだが、それももうほぼ終わっていた。講師からもこれであれば大丈夫と言われているし、後は弾き慣らすだけだ。
「発表会とは、珍しいな」
 悲鳴嶼の言う通り、俺は発表会には積極的に出ない。ピアノ講師から誘われる門下発表会は参加費用が高額で、わざわざ金を払って他人から評価を受けることなくただ聴かせるだけという行為が、俺にはよく分からなかった。俺自身への利点が全く無い。そもそも本当に聞いて欲しい相手は、この世にいない。
「コンクールに優勝するとその発表会で弾かねばならない」
 しかし、徐々に必ず出なければいけない発表会が増えてきた。賞金だけくれれば良いものを、余計な副賞が付いてくるのだ。
「そういうのもあるのか……コンクールは優勝出来そうか?」
「慢心は油断の元になるから答えたくない」
 実のところ、恐らく優勝は出来るだろう。けれど、優勝したからなんだというのか、という気持ちもある。他の出場者の音を聴いても、縁壱のような音を出せる者はいない。こんな場所で勝利をおさめたところで、何の意味が。得た賞状やメダルなどは部屋の段ボールにぶち込んでいる。
 縁壱はすでに国内外の演奏会やコンクールで華々しい活躍をしている。あいつも出たコンクールで必ず優勝しているから、俺も優勝という結果以外有り得ない。縁壱以外には負けられない。
「俺は、縁壱と比べて表現力に乏しい。今はまだ国内での優勝は出来るが、精度だけでは時期に勝てなくなる」
 しかし、どんなに練習してもあの燦々と輝く音色には近づけない。今の音は縁壱の猿真似にしかすぎず、ピアノ講師には「もっと縁壱くんみたいに明るい音を出して」と何度も言われる日々だ。とにかく俺の音は相変わらず重々しく、暗い。
「表現力……確かに君の音色は少々堅物というか遊び心がないというか、そんな雰囲気はあるな」
 悲鳴嶼にも言われてしまうと、頭を抱えるしかない。
……情感豊かに弾けるというのは天性のものもある。このままだと俺はどこかで必ず躓く」
「表現力か……そういう時は恋をするのが一番」
「ふざけているのか?」
「と、言いそうな知り合いがいるという話だ……巌勝、君にも感情はあるだろう。喜怒哀楽の中で君が表現しやすい感情があるはずだ。それに合った曲を選べばいいのではないか」
……それが存外難しい」
 合う曲が見つけられない理由は、分かり切っていた。俺は自分が何者なのか、よく分からない。前世、俺は醜い鬼だった。結局何者にもなれず、消し炭になった、醜い鬼。そんな鬼が奏でられる音楽など、存在するのだろうか。
「君の近くにはその疑問のヒントをくれる丁度いい化け物がいるではないか」
 悲鳴嶼の助言に、俺は分かりやすいくらい眉間に皺を寄せてしまう。最近、天才という言葉では表現しきれず、ついに鬼才と言われるようになった、俺の弟のことか。
「あいつはまさに天性の化け物だ。何の参考にもならない」
 縁壱は絶対何も考えずにやっている。そして、何故出来ないのかと不思議そうな目で見るのだ。そんな目で見られてみろ、煉獄のように絶望するだけだ。そんなの俺のプライドが許さない。
「聞いてみないと分からないだろう。上を目指すのであれば、出来ることはすべてやるべきだ。やれないのであれば、君の覚悟はその程度ということだ」
 悲鳴嶼のその指摘にぐうの音も出ない。本当に鬼狩りは呆れるほどに真っ当な意見しか言ってこないな。真っ当すぎるのも嫌味だと、いい加減気付け。
 確かに、過去には呼吸を学ぶために俺は恥を忍んで何度も縁壱の指導を仰いだ。結局日の呼吸は扱えなかったけれど、あの時の煮え湯を飲まされているような日々は今でも覚えている。あれを、また今世でも繰り返せというのか。小学生にしてストレス性胃潰瘍になってしまうぞ。
 黙りこくってしまった俺に、気を遣うように悲鳴嶼が声をかけてくる。
「親御さんも見に来るのか」
「どちらも両親は来ない。同日に縁壱のコンクールがあるからな」
 いや、演奏会だったか?まあ、どちらでもいいか。
 楽譜にメモを書きながらそう答えれば、今度は悲鳴嶼が黙り込んでしまう。
「悲鳴嶼?」
「ふむ……
 ちらりと悲鳴嶼に視線をやれば、彼は何かを思案するように指で自身の顎を撫で、そして
「発表会の方は今月末だな。俺が見に行っても良いだろうか」
……は?退屈なだけだぞ?」
 自分は出る側だから我慢出来るが、見る側は何が楽しくて見に来ているのか、正直よく分からなかった。どいつもこいつも俺を含めて退屈な音ばかりで、聞いたところで時間の無駄だ。退屈の極みである。けれど悲鳴嶼は何故か行きたいと言った。
「物好きだな」
「これでも音楽は嫌いじゃない。趣味で尺八をやっているし」
「それは知っているが……
 今まさに尺八を手にしている姿を見れば、それくらい誰だって分かる。以前までこの離れは悲鳴嶼が尺八の練習場所として使っていたらしかった。だから俺が練習する横で悲鳴嶼もたまに尺八を持ち出して練習を始めることもある。その音を煩わしく感じたことはない。素人趣味と言うだけあって、確かにまだ音程が甘い部分もあるが、悲鳴嶼らしい暖かみのある音だと思う。
「巌勝、一つ聞いてもいいか」
「何だ」
「また、剣を握らなかったのは何故だ?」
 指使いの確認をしていると、そんな俺を眺めていた悲鳴嶼からそんな問いが飛んできた。至極真っ当な問いだろうし、その問いには、正直に答える義務が俺にはあった。
「沢山の人間を切り刻んできたのに、再び剣を握れるほど厚顔無恥ではない」
 昔、一度だけ竹刀を握ったことがあるが、講師と向き合った瞬間、どこを斬れば相手が死ぬか、どのようにどの程度の血が飛び散るか、そして相手の断末魔まで予測出来た。そして、鼻腔と口腔に蘇る、生温かな血と柔らかな肉の感触……俺は思わず、その場で吐いた。すべてを吐き終えるまで、まだ口を利かなかった縁壱にずっと背中をさすられたのを覚えている。一生の恥だ。その日以来、あの感覚に襲われるのが恐ろしくて竹刀は握っていない。血の臭いも肉の感触も、鬼の頃は平気だったのだが、やはり鬼という生き物は精神構造も人間とは異なっていたのだろう。今では気持ちが悪くて無理だ。人の肉の臭みと生臭さを思い出させるレアの肉や生魚も苦手だった。
「それに、もしまた俺が鬼になってしまった時に、余計な手間をかけさせたくない」
 冗談のつもりだったが、眉間を寄せた悲鳴嶼に「健全な魂は健全な肉体からだ」と、滝行にぶち込まれた。余計なことは言うものじゃない。
「実際、どうなのだ」
 滝から上がり、タオルで頭を拭いている時に悲鳴嶼が少し心配そうな顔で聞いてきた。
「君は、何の影響も受けていないのか?悪夢を見たり、していないのか」
 優しい問いかけに、俺はくしゃみを一つしてから答える。
「していない」
 けれど、悲鳴嶼との出会いはある種の心の安寧を得られた。俺が鬼にならないように見張っていてくれる人間がいるのは、今の俺にとってはありがたいことだ。何より縁壱や親のいない環境でピアノが弾けることは集中度が全く違う。気が付いたら20時を過ぎることはしばしばで、小学生の帰宅がそんなに遅くて大丈夫かと悲鳴嶼には心配されたが、家が広いから俺がいないことにすら恐らく親は気付いていないと返す。そんなことあるのかと首を捻られたが、実際、俺がいないことに気付いているのは縁壱のみだ。
……毎日、こんなに遅くまでどこに行っているのですか」
 その日も21時を過ぎて帰ってきた俺に、縁壱が俺の部屋に来て無表情……否、少し心配そうな顔で聞いてきた。隣の部屋で俺が帰ってきた音を聞きつけてやってきたのか。
「どこだって良いだろう、お前に関係あるか」
 背負っていたカバンをベッドに投げ付けながら言うと、縁壱はすっと目を細めた。
「腕の疲労が酷い。ピアノをどこかで弾いているんですよね?」
 その一言で、俺は悟る。縁壱は今も、あの透明な世界を見る目を持っているのだ。
「何故、そんなことが分かる?」
 わざと訝し気に問えば、縁壱は「見えるのです」とだけ言う。他にどう説明すればいいのか、分からないのだろう。全く……
 俺は頭を掻きながらため息を吐き、縁壱を見返した。
……縁壱、それが見える事、他のやつには言うなよ。異常者扱いされるからな」
「嘘ではありません」
「嘘ではないことは知っている。俺の手がどう見えるのだ」
 ひらりと右手を縁壱の目の前に差し出して問えば、縁壱はそれをじっと見つめ、眉を顰めた。
……赤く腫れている。そんな弾き方をしたら、いつか手が壊れてしまいます」
 ――また豆を潰して。そんなに無理をしたら兄上の手が壊れてしまいます。
 不意に蘇った前世の縁壱の言葉を、目を閉じて振り払う。ピアノの弾きすぎで手が壊れるなどと大袈裟な。あの頃と違って、手に血豆は出来ていないし、他人に攻撃されることもないから血も出ない。多少の筋肉痛はあるが、そんなもの、あの頃に比べたら怪我ですらない。
「コンクールと発表会が近い、いくら練習してもしたりないくらいだ」
「兄さんならそんなにやらなくても優勝出来る」
「そういう油断が俺は一番嫌いだ」
「しかし」
 何かを続けようとした縁壱の口に、俺は悲鳴嶼から買った例のセットが入っている紙袋を突きつけた。
……兄さん?」
「誕生日おめでとう、縁壱」
 そう言うと、縁壱の目が徐々に徐々に大きくなっていく。
「覚えていたのですか」
 袋を受け取りながら大きな目を瞬かせた縁壱を俺は鼻で笑った。
「何故か俺の誕生日と同じ日だからな」
 そう、今日は誕生日だ。俺と縁壱の。昔は誕生日など祝う習慣がなかったから、こうして弟に「誕生日おめでとう」と言うのは毎年気恥ずかしいものがある。それでも、必ず毎年そう弟に言うのは、過去に生まれてこないでくれと呪った罪悪感からだ。
 何も知らない弟は、俺の祝いの言葉を純粋に喜び、贈り物に顔を輝かせ、その無邪気な反応がまた俺の罪悪感を煽る。
「これ、何ですか……最近の兄さんと同じ匂いがする」
「藤の香袋と香水だ」
 一応、どこで買ったのか分かりそうなものは全て剥がしたり抜いておいたりしたから、俺がどこで手に入れたのかは分からないはず。俺はまだあの安息の地を縁壱に知られたくなかった。
「ありがとう、兄さん。大事にします」
 大事そうにそれらを胸に抱えた弟は、無表情ではあったが嬉しそうだった。そうだ、大事にして身に着けてくれ。鬼除けになる。
 記憶の無い縁壱は、間違いなく鬼舞辻の標的になる。鬼舞辻が存在するのであれば、だが。……あのお方には存在して欲しくないが、何となく日々、その存在を感じるのだ。この世のどこかで、過去に鬼だったお前らがこの世で幸せになれると思うなよと嘲笑っているのではないかと、俺はそんな恐怖を抱いている。……もし鬼舞辻がいるのであれば、俺はこの弟を守り切らなければならない。
「兄さん俺、何も準備出来てなくて」
「気にするな。お前、現金持ってないだろう」
 もともとは俺の罪悪感からの行動なので、縁壱に何かをしてもらいたいわけではなかった。
 縁壱は今まで金銭のやり取りをしたことがない。恐らく、自販機で飲み物一つ買ったことすらないはずだ。現金という存在すら知っているのか危うい。俺は両親からカードを与えられていて、コンクールの費用もすべてそこから出していたが、縁壱の場合は本人ではなく誰かがやってくれているのだろう。
「現金……
 俺の指摘に縁壱が考えもつかなかったと言いたげにハッとしたような顔になった。現金は知っていたか。
「兄さんは、その、どうやって現金を」
「賞金のあるコンクールを選んでいる。コンクールの参加費はカードで出してもらってはいるが。あまり高額でなければ金一封で貰えるからな」
 そもそも小学生は優勝賞金でもそれほど高額ではないし、賞金ではなく図書カードやテーマパークの入場券だったりもするが、縁壱が出ている国際コンクールはレベルが違うだろうから、よく分からない。恐らく父が管理しているのだろうが、縁壱にしてみれば寝耳に水な話だったようで「賞金……?」と首を傾げている。
「お前は俺より稼いでるはずだ。演奏会も出ているし、交通費や宿泊費を差し引いてもかなりの額に」
……何も知らなかった」
 ぽつりと呟きを落とした縁壱だったが、それも仕方ない話だ。縁壱は父と母に過剰に保護されている。
「それが普通だ、気にするな。俺も特に欲しいものは無い」
「では、何か俺に出来ることはないでしょうか」
 身を乗り出してくる弟に、俺は一歩引きそうになるのをどうにか堪えた。こうなると弟はしつこいことを、俺はよく知っている。何か言わないとこの弟はずっと付きまとってくることが簡単に予想出来た。
 と、なれば、だ。
 悲鳴嶼の言う通り、俺はこの化け物を利用するしかないのか。……嫌だ。しかし脳内の悲鳴嶼が「それが出来ぬのならお前の覚悟はそこまでということ」と涙を流す。鬼狩りとは本当に厄介な存在だ。
 俺は観念し、小さくため息を吐いて、先程カバンを放ったベッドに座り、縁壱を手招きして隣りに座らせた。縁壱は何の疑問も持たず俺の隣りに座り、じっと俺を見つめる。その視線の中で、俺は口を少し開いたまま、考えた。この後この口から何を言うべきか……いや、言うべきことは分かっているのだ。ただ、覚悟というか、その……ああ、もう!
……曲を選んで欲しい」
 腸が千切れそうな気分でどうにかそう言い終えると、縁壱が少し驚いたように目を大きくする。その驚きから俺は目をそらし、言い訳がましい言葉を並べた。
「俺はあまりこの曲が弾きたいとか好きだとか、そういったものがない。だから……
 弟も突然こんなことを言われたら困るだろう。何かあったらいつでもいいから教えて欲しいと続けようとした俺の言葉を、縁壱はまるで待ち構えていたかのように遮った。
「月光」
……月光?」
 一瞬、どの月光だ?とうっかり思ってしまうくらいには、あまりにも有名なタイトルで、俺は思わず聞き返してしまうが、縁壱は軽く頷いた。
「ベートーヴェンのピアノソナタ第14番月光……兄さんに似合うと思う。タイトルは月光だけれど、太陽のように燃えるような情熱の旋律がある。ベートーヴェンの情熱の音は全体的に兄さんに似合う。そういう意味では熱情も悪くはないし、悲愴も聞いてみたいとは思う。でも、これはイメージの話だけれど兄さんには一番月光が似合う。モーツアルトみたいな天からの啓示を受けたような音よりも、苦悶から生まれた音が似合う」
 ……ああ、何となく分かる気がする。縁壱お前にはモーツアルトがよく似合う。こいつのフルート協奏曲はまさに天からの祝福の音だった。天才が天才の曲を奏でると言うのは、こういうことなのだ。
 ベートーヴェンも天才ではあったがその人生が苦悶に満ちているので音が一音一音、何というか、人間みが溢れすぎている。月光自体はコンクールで弾くやつもそこそこいる人気タイトルなので、俺も何回か耳にしたことはあるが、それほど興味は惹かれなかった。というのも
「でもあれは恋の曲だろう……俺には表現力が乏しいから、難しい」
 そういう時は恋が一番、と悲鳴嶼が言ってはいたが、それが俺に似合わないのは自覚している。どれくらい似合わないかというと、月光?あれは恋の曲だからなぁ、と父が俺に与えたピアノ講師が半笑いで言うくらいだ。
月光というタイトルはベートーヴェン本人がつけたわけではなく、元々のタイトルは違うものだった。その正体は恋する女に捧げた曲。そんな曲に自分の手で色彩をつけられるのか分からないし、自信もなかった。どうせまた、楽譜をなぞって終わりになる。
 が、縁壱は不思議そうに俺を見た。
「恋は、恋と一言で言うのは容易いけれど、その中には色々な感情が入ってるものです。喜びや幸せもあれば、嫉妬や怒りもある。ベートーヴェンは結局失恋した。この曲の中には、喜びや幸せの音と、なかなか届かない思いに苦悶する音もある。焦がれても焦がれても届かない、掴みたいのに掴めない懊悩に悶え、やるせない想い、悲しみ、嫉妬、怒り……兄さんは気付いてないかもしれないけれど、兄さんの音の奥には怒りがある。その怒りが上手く音に乗る曲を選べばいい。兄さんは、表現力がないわけではなく、表現の仕方を知らないだけです」
 それお前が言うか?お前今無表情で話してるんだぞ、おい。自覚あるか?
 堰を切ったように、声変わり前の透明な少年の声でべらべらと喋り始める縁壱と、その内容に俺は圧倒されてしまう。……これが天才か……煉獄が絶望するのも何となく分かるぞ、今なら。これでも数百年生きているのに、何故俺はたかだか12年程度しか生きていない子どもの恋の講釈を聞かせられているのだろう。そして、どこか心を見透かされているような気分にもなった。こいつが透けて見えるのは肉体だけのはずではなかったか。
……もしくは」
 縁壱は、紅い瞳で俺の心を覗き込む。
「感情を出すことに何か、躊躇いがあるのでは?」
 俺は無意識のうちに自分の心臓を手で覆っていた。
 そうだ、俺は恐い。俺の心に生まれる感情を全て認めると、鬼が顔を出しそうで、俺は恐いのだ。だから俺は必死に隠している。……怒りだと?そんなものを解放したら俺が隠し続けている鬼が出てきてしまうかもしれないではないか。それが怖いから、俺はひたすら縁壱の音の猿真似をしている。ここに醜い鬼がいることを、縁壱に知られてはならない。縁壱にだけは。
「でも」
 しかしそこで縁壱はぴたりと言葉を止め、少し困ったように口を引き結んだ。
……でも?」
 あからさまに続きを話していいものか戸惑っている様子の弟を、俺は許す。すると、弟は少し申し訳なさそうな顔で口を開いた。
……兄さんは打鍵が強すぎる。そんなに叩き付けなくても音は鳴る。怒りに任せるとさらに手に力が入ってしまって、負担が大きくなる。怒りを操りたいのであれば、奏法を見直した方がいい。そもそも、兄さんの講師、あんまり兄さんに合ってないですよね。コンクールの選曲も少しおかしい。全然兄さんの音の魅力に気付けてない」
 変わらない無表情ではあったが、どこか憤慨した様子の弟に俺は少し目を見張るが、それをどう解釈したのか、縁壱が少し申し訳なさそうに身を縮めた。
……ごめんなさい」
「何で謝る」
「差し出がましいことを言いました」
「いや、助かる」
 俺がそう返してから、縁壱ももう喋らなくなり、無言になってしまった。どうしたものか、この奇妙な雰囲気……ああ、そうだ。
……お前、演奏中に何を考えている?」
 もう一つ、聞いてみたいことがあったのを思い出した俺は、それを口に出してみる。先程熱烈にベートーヴェンに関して語ったのだから、矢張り何か考えて曲を奏でているに違いない。しかし、俺の思惑に反して縁壱は小首を傾げた。
「特に、何も」
 ……やっぱりお前はそうだよな。駄目だ、悲鳴嶼。こいつはやはり化け物だ。
 縁壱は、聞いた音をそのまますぐに演奏が出来るタイプの天才だ。それは俺みたいな凡人がどんなに考えても努力してもやりこなせない芸当で、そんなことが出来る奴というのは大体何も考えていないし、自分がそうなのだから他人にも出来る事なのだと思っている。勘弁しろ、己が鬼才だと自覚してくれ、せめて。
……曲を奏でている間は、独りになれるから良い」
 嫉妬で腹を焦がしていると、唐突に縁壱が言葉を零した。……それは何となく分かる気がする。俺も、あの寺で何も気にせずピアノをかき鳴らしている時が一番好きだ。
縁壱が孤独を好むことには少し驚かされたが、今の家の中のことを思えば、縁壱が疲れる気持ちも分からなくもない。今日のこともそうだ。来週末にどこぞのホテルで盛大に誕生日会をやってくれると親には言われているが、当日には「おめでとう」の一言もない。父はすでに俺達兄弟に興味がなかった。外にいる愛人の元へ通うのに忙しいからだ。母は、それに気付き、縁壱に依存して弟の海外遠征に保護者の名目でべったり着いて行っている。俺は……俺は縁壱を置いて、あの寺のピアノに逃げている。
……兄さんと演奏している時は、兄さんと二人きりになれるのが楽しかった」
 懐かし気に過去へと視線をやる縁壱の横顔に、俺は何と言えばいいのか分からない。そのうちまた、とは言えなかった。俺はもう弟と演奏する気はない。けれど、それを素直に伝えられるほど俺も非道ではなかったし、嘘を吐くのも気が引ける。
 どうしたものか考えあぐねいていると、縁壱は「あ」と声を上げる。何だと俺が顔を上げると、縁壱の無表情顔が迫ってきて、ふにゃりと柔らかい何かが唇に触れ、た…………
「縁壱ッ!?」
 口を手で覆い、思わず後ろに後ずさった俺に、縁壱の目が不思議そうに瞬く。その無表情顔に俺は目を見開いて困惑した。今、俺はこいつに何をされた?キス、だった気がするのだが、何故こいつは表情を変えない?なんで。何なんだ、気色悪いな。
……表現力」
 縁壱は俺の態度を怪訝そうに見つめた後に、小さく口を動かす。
「はぁ?」
 表現力、と言ったのは聴こえてはいたが、意味が分からず俺は思わず怒りの声をぶん投げてしまい、縁壱も俺が怒っているとようやく気付いたらしい。それでも何故怒っているのか分からないと言いたげに小鳥のように首を傾げた。
「表現力を養うには、これが一番いいと聞きました」
「なわけないだろうが!誰だそんなこと言っ…………本当に誰だ!?」
 叫んでいるうちに、俺の方もやっと事態を把握出来、血の気が下がった。縁壱は天才鬼才ともてはやされてはいるが、まだ10歳の子どもだ。キスなんて行為をどういう時にすべきなのか、まだ理解しきれていないはず。つまりそこに付け込んだ、誰かがいる。
縁壱の肩を掴んで詰めよれば、弟は無垢な紅い瞳に困惑を滲ませ、その困惑は俺を苛立たせた。本当にこの弟は、何も分かっていない幼い子どもなのだ。
「今のピアノ伴奏者です」
 縁壱の答えで、俺の頭に浮かんだのは40代くらいの男の顔だった。昨年くらいから縁壱のピアノ伴奏をするようになった、眼鏡をかけた人の好さそうな顔を思い出し、俺は腹の底が冷え始めるのを感じる。
「お前、そいつに何かされたか」
 嫌な予感が的中しないように祈りながらそう問えば、縁壱は素直に頷く。
「俺に今のをして、こうすれば表現力があがるのだと……
「他に何か、どこか触られたりとかは?」
「いえ……他に何かあるのですか?」
 縁壱の目は心底透明で、嘘を吐いているわけではないのは分かった。俺はいやに早く鼓動している心臓に向かって、落ち着けと何度か唱える。ふーと長く息を吐いた俺に、「兄さん?」と縁壱が声をかけてきたので、それに向かって片手を伸ばした。
……お前のスマホ、もってこい」
 すると縁壱はベッドから飛び降りて、自分の部屋へと向かうために俺の部屋から出て行った。数分もしないうちに買ったばかりの俺と色違いのスマホを手に、再び俺の隣りに座って、素直にそれを渡してくる。同じ機種だから、扱い方は分かっていたが、勿論俺の機種ではないので、俺の指紋認証はしない。だから縁壱にロック解除のパスワードを聞くとあっさり口頭で告げてくる。それは縁壱の誕生日だった。お前そこは、相手が俺だからだよな?他の奴には教えていないだろうな?
 不安を抱えつつも、俺は父の番号を見つけて、そこに電話をする。数コール後、耳元に父の声が響いた。
……もしもし、父さん?はい、縁壱です」
 俺が縁壱と名乗ったことに、本物の縁壱が眉を上げる。それに俺は口元に人差し指を当てて静かにするように指示をした。父が『どうした、縁壱』と何の疑いもない声を出したので、俺はそのまま縁壱のふりを続ける。
「父さん、実はお伝えしたいことがありまして。ピアノ伴奏者の件なのですが、ええそう、はい。その伴奏者、俺にキスしてきたので、即刻辞めさせて下さい。警察に届けてください。週末のコンクールの伴奏者も別な人材を探してください。よろしくお願いします。では」
 縁壱ではないとバレる前に、父の反応を待たずに切った。縁壱は父のお気に入りだし、恐らくは上手く対処してくれるはずだ。そこでやっと緊張から解き放たれ、俺は弟のスマホをベッドに投げ、ついでに自分の身体もベッドに沈めた。ぼすりと気の抜けた音が羽毛布団から漏れる。
……兄さん?」
 遠慮がちな弟の声が聞こえ、俺は両手を顔で覆ったまま身を起こす。
「縁壱……気付いてやれなくて済まなかった」
 これほど口の中が苦く感じる謝罪は無い。俺は一体何をしているのか。こいつにふさわしい兄になると、宣言しておいて、放置してこれか。
……兄さん、どうして泣いてるのですか?」
 困惑する縁壱の指摘通り、俺は泣いていた。泣かないでいられるか、守るべき弟が屑の毒牙にかかり、さらに毒牙にかかっていることにすら気付いていない現実を知らされて。
……あのな、縁壱。それは嘘だ」
俺が慎重に言葉を選び、やっとの思いでそう告げると、弟は「嘘」と俺が告げた言葉を自分の口の中で転がした。
「キスなんかじゃ表現力は上がらない。音楽は技術と才覚だ。才覚があっても練習せねば上達しないし、練習しても才覚が無ければ……
 その後の言葉は、続けられなかった。それは俺にとってあまりに辛い言葉だ。俺は続けるべき言葉を奥歯で噛み締め、ぐっと飲み込む。縁壱には関係のない言葉だから、わざわざ口にする必要もない。
「これから、良い演奏をするには恋をしろとかキスをしろセックスしろとか芸の肥やしだとか、物知り顔で言ってくるやつがいるかもしれないが、そいつらは総じて屑だ。屑の言う事は信用するな。不必要にお前の身体に触れようとするやつ全員屑だ。嫌じゃなかったのか、そんな風に触れられて」
……よく、分からなくて。ごめんなさい、泣かないで、兄さん」
 違う、お前を責めているわけではないのだ。謝る弟に俺は首を横に振った。
「お前が謝るな。分からなくて当然だ、子どもなのだから」
 鼻をすすると思ったよりも大きくぐすりという音が鳴り、俺はその恥ずかしさを紛らわすために両目から落ちる涙を両手で乱暴に拭った。弟の方は俺が泣く意味がわからないというようにどことなくおろおろとした空気を纏っている。その顔に手を伸ばし、子ども特有の丸くやわらかな輪郭を撫でた。何も知らぬ弟のこの肌に触れた男の手を切り落としてやりたい。
 昔の縁壱であれば……剣を知る縁壱であれば、即座に叩きのめしただろうに、今世ではこいつは剣の道を選ばなかったから、抵抗する術を持たなかったのだ。前世も今世も縁壱はその道の天才であるが、いくつかの分野においては無頓着で驚くくらいに無知だった。例えば、色事が筆頭に挙げられ、あの頃は再会した時はお互い大人であったし、大して気にも留めなかったが、これは駄目だ。放置するにはあまりにも今の弟は幼く、無防備だ。
 弟の、普段はあまり動かされない小さく薄い唇を見るとまた腹の底から怒りがわいてくる。この弟は、あの頃、戦神に愛された弟とは違う。これはまだか弱い俺の弟なのだ。弟の顔を引き寄せ、ごつりと額を合わせると、高い平熱が俺の額にジワリと広がった。
「初めてだったろうに……
 強く目を閉じながら、思わず俺はそう呟きながら、事の重大さを思い知る。こいつは今はまだ何をされたか理解していないが、それが分かるようになった頃、この無表情は歪むのだろうか。目を開けると、目の前の縁壱が、無感情の瞳を細めた。
「じゃあ、俺も兄さんに、嫌なことをしてしまった……?」
 普段あまり動かない縁壱の眉間が、ゆっくり顰められたのを見て、俺は首を横に振った。
……ちがう、でもこれは普通、好きな相手とやるべきことで、表現力を上げるとかそんな理由ですべきことじゃない……
「俺は、兄さんが好きです」
 幼い縁壱の明朗な声に、俺は再び心に悔しさがじわりと広がるのを感じる。なんて幼く、素直な好意を口にするのだろうか。親愛と恋愛の区別もつかない幼子が、大人の欲望のはけ口にされたという事実が悔しい。
「それは、家族だからだ。家族の好きと、その好きはまた別ものなんだ」
 縁壱の小さな手を、俺は強く握る。縁壱、早く大人になれ。大人になったお前は本当に無敵なのだから。お前の心に干渉し、前に立ちふさがるのは、俺だけで良い。
「自分の身を守るんだ、縁壱。今までお前を大切に思ってきた相手と、これから出会うだろうお前を大切に想ってくれる相手の為に」
 まだ理解出来なくてもいい。けれどそれだけは覚えていて欲しい。大人だらけの世界に子どもが混ざるという事は、こういうことなのかと俺は愕然としていた。母か父が守ってくれていると思っていたのに、期待していたほど両親は大人として機能してくれていなかった。
 俺は確かに、弟の音に嫉妬しているが、こんなことで傷ついて欲しいとは思っていないのだ。俺がお前と同じ領域にいけるその時まで、お前の音は変わらずそこにあっていてもらわないと、困る。
……兄さんは俺にされても、嫌じゃなかったのですか?」
 弟はどことなく心配そうに眼を伏せながら、俺の手を握り返す。あ?何の話だ、と一瞬考えてしまったが、そういえば俺はこいつに先程キスされたのだ。……あまりにも怒りが過ぎて忘れていたな。
「お前とのキスなど、ピコに舐められたのと大差ないぞ」
 というか縁壱の行動に驚かされて感触もろもろ全く記憶にない。
……ピコ」
 縁壱の体温の高さは、小動物の舌の温度に似ているだろうと思い、母の従妹の家で飼っている犬の名を出すと、縁壱の表情が何故か今まで以上に無になった。何故……
 しかし弟のこの感情に無頓着故の無防備さはどうにかならないものか。「犬……」と何故か神妙な顔で呟く弟の頭を撫でると、その癖毛がやはりトイプードルを思い出させる。今世は今世の流行りらしく短く切り整えられているから、尚更だった。
 あんな気持ちの悪い男にキスをされても何とも思わなかったということは、縁壱は自分の負の感情に鈍いということになるのだろう。あるいはその男に好意を持っているか……それはないと思うが。それに加えて、俺には迷いなくキスをしてきた。と、すれば、だ。
 俺は撫でていた縁壱の頭を軽く胸に抱く。二三度形の良い後頭部を撫でながら覚悟を決め、その頭を離して、きょとんとした弟の痣に唇を軽く落とす。それと、幼く柔らかい頬にも触れる程度のキスをした。それを終えて俺は弟の赤い目を覗き込んだ。
「縁壱、どんな気分だ?」
 縁壱はぱちりと瞬きをして、俺を見やる。そして目を伏せ、自分の手をそっと胸にあて
……心が、とても温いです」
 良かった! 
 弟の答えに俺は盛大に安堵した。よかった、これで何も感じないと言われたら完全にやり損だった、よかった。まあ、お前が俺のこと大好きなのは知っていたが、恐らく些細だったろうその感情の機微に気付いてくれてよかった。
「それは俺がお前の兄弟だからだ、お前にとって俺が特別だからだ、触れられてそうならないだろうと思う相手には、触れさせるな」
 これで弟の情操教育は完璧だと、俺は拳を握った。これで、縁壱に他人への警戒心が芽生えてくれたらそれで良い。俺も無駄にキスされキスしてしまった甲斐があるというものだ。よし、この話はこれで終わりだ、と俺がベッドから立とうとしたところで縁壱に袖を引かれ再び同じ場所に座らせられた。
「縁壱?」
「兄さんには触れて良いのですか?」
「は?」
「俺は兄さんに触れてもらうと心が温くなるから、兄さんには触れても良いのですか?」
 縁壱は俺のパーカーの袖を握りながら、距離を詰めて聞いてきた。顔は無表情ではあるが、何となく真剣なのは伝わってくる。何でそんなどうでもいいことを真剣に聞いてくるのか、俺にはよく分からない。
……家族間として不自然でない程度でなら」
「それはどの程度なのでしょうか?」
 やけに喰いつく。
 俺はもう少し、自分の危機感の無さを自覚し、その対策を練って欲しいのだが。しかし、他人とのどこまでの接触が問題ないのか知っておくのも、必要なことではなるのだろうか。
「母にもされているだろう?ハグとか……ハグであれば、家族間以外でもやるから、臨機応変に対応しろ。お前は海外にもよく行くから、そこの土地柄にも注意するんだ。家族でなくとも頬にキスする土地もある」
……ややこしいですね」
 怪訝な顔をする縁壱の気持ちは分からないでもない。対人関係の経験を積まなければ、俺が言った臨機応変は難しいだろう。日本にはハグの文化がないから、海外で弟は驚かされたのではないだろうか……いや、こいつ講師にキスされても平然としていたから、それはないか。
「口にはキスするな、とだけ覚えておけばいい」
 それは家族間も含めて、万国共通であろう。
「何故口は特別なのですか?」
 すかさず縁壱は聞いてきた。通常であれば、誰に習わずとも想いのない相手との接触は不快に思うはずなのだが、この弟は本当に面倒だ。
「口は……
 しかし、この単純な不快感にどう理由をつけるべきか。生理的に無理……と言って納得してもらえたら楽だが、この弟はそれでは再び何故と問いかけてくるに違いなかった。残念ながら俺にも一般論が思い浮かばず、ここはもう、もっともらしい理由をもっともらしく言うしかない。
 いわば、はったりだ。
 このはったり、実のところ俺の得意技でもある。前世で国を治めていた頃は大名相手に交渉術として使いこなしていたし、この弟相手にも何度か使った。縁壱は俺相手となると単純かつ素直になるので、俺の話は大体信じ込む。信頼されていたのだ。だから、恐らく今世の縁壱も、俺の言うことであれば信じるだろう。
 俺は息を吸い、もっともらしい表情を作って人差し指をもっともらしく立てて見せた。そして
……口は呼吸をするところだからだ」
「呼吸」
 縁壱は、わずかに身を乗り出して聴く態勢になった。掴みは上々のようだ。俺はさらにはったりに真実味を持たせるため、声色を硬くする。
「よいか、縁壱。人は呼吸をしないと生きていけない。その呼吸を一瞬でも他人に奪われるということは、相手に己の命を預けるということ他ならない。この相手ならば自分の命を奪わないと信頼出来る相手以外に、そこを許してはいけない」
 気付けば兄弟二人でベッドの上で正座をしていた。縁壱は腕組みをして俺の話に聞き入っていて、話が終わると片手を自分の顎に当て、ふむと鼻を鳴らす。そして小さな人差し指で顎の形を二三回なぞり、その指で二度ほど、口元を叩いた。
 あ、と俺は思わず目を見開く。
 その仕草は、前世何度か目にした、弟の癖だった。
 嫉妬や憎しみはあったが、兄弟としての対話の時間は多かった。俺が縁壱に意見を述べる間、弟は腕組みをし、そして俺の話が終わると、自分の顎に手を当て、鼻を鳴らしてから何か思案するように人差し指を彷徨わせる。そしてその動きを終えると、こう呟く。
―――なるほど。
……なるほど」
 幼い声であるのに、妙に大人びた口調で呟かれ、それは俺の古い記憶と合致した。
「よりいち」
 思わず、ぼろりと弟の名を口から零してしまうと、弟は素直に目を上げて「はい」と返事をする。その音は記憶よりも高く、柔らかい声で、俺は自分勝手にも落胆してしまった。……記憶が戻らなければいいと、毎日願っているというのに、本当に俺は自分勝手だ。自己嫌悪にまみれながら、何でもないと首を横に振ると、弟は感情のない目を瞬かせた。
 せめて、自分勝手な想いが唯一許される夢の中で会えないものかと、笛の入った袋を枕元に置いて寝てはみるものの、縁壱の夢どころか……俺は悲鳴嶼には、一つ嘘を吐いた。
 俺は、ほぼ毎日悪夢を見ている。その内容は、毎日違う。前世人間だった頃の悪夢だったり、鬼の頃の悪夢だったり、地獄に堕ちた時の悪夢だったりと、俺の人生は悪夢になりやすい要素がありすぎていっそ笑える。
 その中で、幼い頃から何度も見る同じ夢があった。
 それは、夜ベッドで寝ている縁壱を、瞬きせずにじっと見ている夢だ。夢に出てくる縁壱は幼く、耳飾りはつけず髪も短いので、今世だということは分かる。俺はその弟が寝るベッドに膝を乗せ、弟の顔を覗き込み、そして、その無防備な首に噛み付こうとするところで、目が覚める。
 ベッドが揺れるほどの勢いで飛び起き、俺はあたりを見回した。まだ暗い部屋の中は間違いなく俺の部屋で、口元を手で押さえてそこに血が付着していないことを確認する。口の中には、縁壱の肉の感触が生々しく残っているようで、俺は怖気に震えた。
 縁壱。
 まさか、弟を食い殺してはいないだろうな、と慌てて自室から出て、隣りの縁壱の部屋の扉を開ける。暗い部屋の中に丸いふくらみのあるベッドを見つけ、すぐにそこに駆け寄り、弟の寝息を確かめた。未発達の子どもの胸が、一定のリズムで上下しているのを見て、全身から緊張が抜ける。
 よかった。
 ……よかった。
……兄さん?」
 安堵と恐怖に弟のベッド脇で脱力していた俺に、縁壱が眠そうな目で俺に声をかけてきた。
「怖い夢でもみたのですか」
 眠気を纏った声で問いながら、縁壱は自分のかけ布団を上げ、俺をそこへ誘う。俺はいつもそうされると戸惑うのだ。このまま一緒に眠ったら本当に、夢が真実になってしまうのではないのかと。
 しかし、この時の縁壱はいつも強引だった。俺が戸惑うと、同い年とは思えぬ力で俺の腕を引っ張り、ベッドの中に引きずり込む。縁壱のベッドの中はいつも温かかった。縁壱は俺の頭を胸にぎゅうと抱き、小さな手で俺の頭を撫でる。
「大丈夫、兄さんの悪夢は縁壱が全部喰ってやりますから」
 大丈夫、と再び繰り返され、俺は目の奥が熱くなるのを感じながら弟の胸にその顔を擦り付けた。
……俺の悪夢は量が多い上に、不味いぞ」
 弟の胸の中でそう言えば、縁壱は「それでも喰います」と小さな手で俺の目元を撫でた。小さい縁壱は優しく素直で、俺を慕ってくれていて、弟として申し分ない存在だった。だというのに、俺は、俺は、どうしても過去の縁壱と出会いたくてしょうがないのだ。


 コンクール当日の朝といっても、俺にとっては普段と変わらない朝だ。特に緊張するわけでもなく、必要なものを持って部屋から出る。それは学校へ向かう平日と何ら変わりない。
 ……変わりないのだが。
 手首のカフスボタンを留めながら気を紛らわせるようとするが、なかなか上手くいかない。
 今日は、縁壱も別のホールでコンクールがある。つい数日前に、ピアノ伴奏者が変わったから、流石のあいつもコンディションが整わないのではないかと思った。別に心配しているわけではない。縁壱であればやりこなして、どうせ優勝するのだから、俺が気にする必要はない。
 ……ないのだか。
 どうも、気持ちが落ち着かない。理由は、気付いているのだ。コンクールの緊張であれば良いのに、そうではないことも気付いている。無視しようと思えば出来るが、無視をしたらまた俺は自己嫌悪に落ちる予感もしていた。
 コンクールの為の正装に着替えた自分の姿を鏡に映し、俺はコンクールに行くのだ、と心の中で唱えた。
 俺はコンクールに出るのだ。出て優勝して帰ってくる。それが、あの弟に近付く最短距離であるのだから。
 縁壱は朝食を食べてしばらくしてから母と共に家を出た。贅沢にも車の送迎付きだ。俺はいつも公共交通機関をフル活用しているというのに。何となく玄関口で見送れば、兄さんなら大丈夫ですと言いながら手を柔らかく握られた。母からは「巌勝も頑張って」と言われた。
 俺は自分のコンクールに出るべきなのだ。
 何のために練習してきた。この日の為だ。……とはいえ、それほど重要なコンクールかと言うとそうでもない。縁壱以外には負けられないとがむしゃらにやっては来たものの、結局今の自分が弟にどれだけ近いところにいるかは、把握できていない。
 ……俺は何のためにピアノを奏でているのだ。
 ベッドの上に置いていたジャケットと、そのポケットにいつも忍ばせている縁壱の笛が入った袋を見比べ、俺はため息を吐く。
……少しだけだ、ほんの一瞬、その後会場に向かえばきっと間に合う。
 俺はジャケットではなく、臙脂色のフード付きのパーカーを被って、楽譜を詰め込んだカバンに笛が入った袋を放り込んだ。靴は歩きやすいスニーカーを選び、俺は家を出る。
 縁壱のコンクールに顔を出すのは、久しぶりだった。昔は何回か行ったが、父が俺を見限ってからは一度も行っていない。縁壱もそうだ。昔は俺のコンクールや発表会に来ていたけれど、あれ以来来ていない。俺が来るなと言っているのもあるが、そもそもに多忙なんだろう。
 電車をいくつか乗り継いで、会場についてから、俺はフードを被る。縁壱と同じ顔なので、誰かに話しかけられたら面倒だ。俺は一つだけ確認出来れば、そしたらすぐに帰るのだから。
 大人が出るような大規模なコンクールであれば話は別だが、通常子どものコンクールは演奏会程来客が多くない。大体は出場者とその親しか来ないもので、閑散としているロビーをドレスや正装に身を包んだ子供がうろうろする状況は、楽器が違っても同じだな、と思いながら足を進め、俺はそこに見つけてはいけない顔を見つけてしまう。
 思わず足を止めてしまった俺を男も見つけ、馴れ馴れしく微笑みながら近寄ってくる。
「パーカーなんて珍しいな。今日も頑張ろうね」
 縁壱くんと弟の名を呼びながら、俺が被っていたフードを後ろへ払落し、「早く着替えておいで」と背中を叩いてきた。その生暖かい男の体温にぞっとする。
 何故、お前がいる。
 俺がここに来たのは、縁壱に違うピアニストがちゃんとあてがわれているかの確認の為だった。だから、この男はここにいてはいけない存在なのだ。なのに、何故いる。
 言い知れぬ焦燥を抱えて俺は男から逃げるように背を向けて、縁壱を探した。あいつどこにいるんだ、練習室か?いや、練習をするならあの男も一緒だろうから、多分着替えているのだろう。じゃあ、楽屋だな。このホールでは俺も何度か発表会とコンクールで来たことがあるので、楽屋や練習室の場所は把握済みだった。そちらの方向へ行こうとすると、会場入り口に正装姿の母と父の姿を見つけ、俺は慌てて近くの柱の陰に隠れた。母はともかく、何故父まで来ているのか。最近、父も仕事で忙しく、縁壱のコンクールには行っていないと弟から聞いていたのに。今二人に会ったら、間違いなく自分のコンクールに出ろと追い返されてしまう。男に落とされたフードを被り直し、俺は両親の動向を伺いながら、明るいロビーの奥にある暗い廊下の方へと向かったその時、縁壱が舞台袖に通じる関係者以外立ち入り禁止と書かれた重い扉から、フルートを片手に出てきた。
 正装姿の弟の腕を取り、すぐ横にあった非常階段の扉を開けてそこに弟をぶち込む。
 誰にも見られていないことを確認してからその扉を閉め、空調の効いていないひんやりとした空気の中、弟の身体をコンクリートの壁に押し付けた。縁壱はきょとんとした目で俺を見ていたので、被っていたフードを後ろへ落すと、その目を驚きに瞬かせた。
「兄さん?何で」
 どことなく嬉しげな声をだした弟の顔の横の壁を怒りを込めて殴りつける。喜んでいる場合か。
「それはこっちのセリフだ。何であの男がいる」
 コンクリートがむき出しになっている非常階段に俺の声が必要以上に反響する。それに驚いて俺は周囲の様子をうかがってしまうが、この非常階段は殆ど使われていないから杞憂ではあった。
「ああ……父が、突然新しい伴奏者を見つけるのは厳しいから、今回だけ我慢しろと」
 なんだそれは。そしてお前も何故平然としている。
「お前はそれで納得しているのか?」
「納得も何も……仕方ないのでは」
 お前、俺があれだけ説明したのに、理解しきれていなかったのか。
 それよりも問題は父だ。何故、すぐに手を打ってくれないのだろう。母はこのことを知っているのか?そして何よりあの伴奏者の男。まだ父から何も言われていないのだろうか、平然と人の好さそうな笑みを浮かべ、俺に触れてきた。
 気味が悪い。過去俺は散々弟を気味が悪いと思ってきたが、あの男の方がよっぽど気味が悪い。これが、本当の嫌悪感というものか。
 俺の目の前にある縁壱の顔は今日も無表情だった。恐らくこのままコンクールに出させても、特に問題はないだろう。こいつは平然とした顔で完璧な演奏をし、いつものように優勝する。俺はこのまま帰って、見なかったことにして自分のコンクールに出れるかこの野郎!
 俺は壁についていた手を剥がし、俯いて覚悟のため息を一つ落とした。そして
……俺が」
「え?」
「俺が、出る」
 再び顔を上げたそこには、何を言われているのか分からないと瞳を忙しなく動かす縁壱の顔があった。
「プーランクのソナタだよな。俺が伴奏する」
 縁壱のプーランクのソナタはもう耳にタコが出来るくらい聴いているし、伴奏も……実のところ、先日の一件があってから、練習していた。突然違う曲を練習し始めた俺に、悲鳴嶼が怪訝な顔をしていたけれど俺も俺自身馬鹿なことをしていると理解していたから、説明は上手く出来なかった。言えるか、あの弟の輝く音を、屑の伴奏に合わせたくないなどと。
 縁壱はようやく俺が何を言っているのか理解出来たようで、瞳が俺の顔にようやく定まったが、すぐにわずかに眉間が寄った。
「でもこのコンクールは父も見に来るのです。気付かれたら兄さんが殴られます」
……お前、俺と演奏したがっていたじゃないか。何で反対する?」
 縁壱から反対されるのは少し意外だった。こいつは俺とずっと演奏したいと言い、言わない時は視線で訴えかけてきていたというのに。あのうざったい視線を思い出しながら片眉を上げて見せると、縁壱はフルートを持つ手に力を入れ、目を伏せた。
……俺のせいで兄さんが殴られるのはもう嫌だ」
 ……はぁ?
 何を言っているのだ、こいつは。俺が父から殴られているのは俺が未熟な故で、別にお前の為に殴られていたわけではない。何を勘違いしているのだ。
「俺はお前のせいで父に殴られたことは一度もないし、あんな屑なんかとお前が演奏するくらいなら、殴られた方がましだ!」
 ここ最近の縁壱の演奏を思い出しながら、俺はずっと感じていた苛立ちを思い切り吐き出した。
「俺は、元々あいつの伴奏が嫌いだった!お前の音への配慮が全くない、自分の音に重きを置いて自分勝手な弾き方して、お前が繊細な音を出しても無遠慮に踏み荒らしていた!お前の音への敬意も、尊敬も、尊重も何もない!伴奏者であるというのに!」
 あの男の伴奏は最悪だった。自分勝手に弾き散らかして、縁壱に合わせて貰っているというのにそのことに気付かずにいる。何よりも腹ただしいのはそんな伴奏者であるというのに気にも留めない父と、自分が合わせればいいのだと思っている縁壱だ。
 ……けれど俺の背を叩いたあの男手は大きく、分厚かった。
「でも、俺よりも、弾き方は洗練されている」
……40代ですよ、ただの経験値の差だ」
「屑のくせに……
 舌打ちをした俺の手を宥めるように縁壱の手が撫でる。俺と大きさは大差ないというのに、この手からは大人も太刀打ちできない天才的な音色が生まれるのだ。
 その音を、今まであの屑の音に重ねていたことも間違いであるし、間違いは正されるべきだ。
……縁壱、お前はどちらがいい」
 縁壱の首元を掴む手に力を入れ直し、俺は弟の顔を睨みつけた。
「洗練されている屑の伴奏と、未熟な兄の伴奏、どちらを選ぶ?」
 弟の答えなど、俺は分かっていたし、縁壱も俺が分かっているということを、分かっていたはずだ。
 縁壱はこの時、久しぶりに口角を上げて、微笑んだ。
「そんなの、決まっているではないですか」
 その答えに俺も口元を上げ返しながら、弟の首元を掴んでいた手を離す。
……順番は?」
「次の次です」
「練習する時間は無いか」
 だが、この曲は過去に何度か縁壱と演奏したことがあるから、大丈夫だろう。すぐに使わなければならない手を摩りながら、手袋をつけてくれば良かったと内心舌打ちする。冷え性まではいかないものの、冷えやすい己の手を握っては開きを繰り返し、少しでも体温を上げておこうとする俺のその手を、縁壱の手が包む。指先にじわりと暖かさを感じた。相変わらず、温い手だった。
……縁壱、お前のコンクールだ。自由に弾け。俺が合わせる」
「僥倖の極みですね」
 変に難しい言葉を知っているな。
「これで優勝逃したら俺のせいにされるからな、しっかりやれ」
「兄さんの伴奏があるのに、優勝出来ないはずがない」
 ぎゅうと俺の手を握る手に少し力を込められ……恐らく、俺の手が少し震えていることにも、縁壱は気付いているはずだ。
 少し怖い。こいつが、どんな音を響かせるのか、こいつの音を浴びてこいつの音の中に閉じ込められて、俺は平静でいられるだろうか。俺は俺の音で、こいつに対抗出来るだろうか。また、あの時のように俺は俺の音を見失うのではないだろうか。
 ……この時の為に今まで練習してきたのだろうが、しっかりしろ。
 恐怖で震えそうになる奥歯を噛み締め、足に地を感じるように意識する。縁壱の手を握り返し、弟の目を見つめ返した。昔から、たまに今弟と自分の目が同じ色をしているのだろうと感じることがある。あの頃は鬼を斬る時しかその色を見られなかったが、今世は随分と平和だ。
 縁壱に手を引かれて俺達は舞台袖に向かう。どうやら縁壱を探していたらしいスタッフが縁壱を見つけてほっとしたような顔になり、そして次に手を引かれる俺の顔を見て驚きの顔に変わる。まぁ同じ顔が二つあればびっくりするだろうな。「俺疲れてんのかな……」と呟くスタッフに秘かに同情してしまった。すまぬ。
 けれど、出場者の中には俺のことを知っている人間もいるらしく、「継国巌勝?」「なんでここに」という囁きが聞こえてきて少々居心地が悪い。
 俺は着ていたパーカーを脱ぎ、待機用の椅子の上に放る。自分のコンクールの為に着たシャツとベストの皺を整えていると、縁壱の視線を感じ「何だ」と問えば「いえ」と首を横に振った。そんな縁壱の衿も俺がさっき掴み上げたせいで縁れていたので、直してやる。縁壱の白いニットベストの肩部分を手で撫でつけ、よし、と軽く叩いてやった。俺はいつもベストシングルばかり着てきたが、ニットも柔らかそうで動きやすそうだな。一度縁壱から借りようかと一瞬考えたが、俺に白は似合わないことを思い出して諦めた。
「縁壱くん」
 その時、前の演奏者が終わったらしく、拍手の音の奥から、あの男の声がした。俺が振り返ると、正装姿の男が少し驚いたように目を大きくする。
「お兄さん来ていたのか。応援?仲がいいね」
 男はつかつかと俺たちの横を通りすぎ、先に舞台に出てピアノの椅子に座った。こういう時は普通奏者と共に出るものではないのかと縁壱に目で問えば、弟は軽く肩を竦めて舞台に視線をやる。
 弟が歩いていく背を見ながら、俺はズボンのポケットに入れていた笛を撫で、大きく息を吸って、吐いた。
力を貸してくれ、縁壱。
縁壱が舞台に出ると、彼を歓迎する拍手がぱらぱらと鳴った。弟に少し遅れて俺が出ると、その拍手の音に戸惑いが混じる。それはそうだろう。伴奏者と奏者、二人で足りるこの舞台に、三人目は余計だ。先にピアノに座っていた男も客席の戸惑いに気付いたらしく、やっと俺を振り返った。何だと言いたげな視線に、俺は口角を上げて笑ってみせた。
「どけ。そこは貴様が座っていい場所ではない」
 子どもから言い放たれた突然の侮蔑の言葉に、男の目がわずかに怒りに歪むが、その程度の怒り、怖くはなかった。早くどけ。でないと縁壱が失格になるだろうが。
「聞こえぬのか。どけと言っている」
 さらに濃く深い侮蔑と憤怒を込めた俺の言葉に、男の表情が引き攣った。男はあっさりとその場から立ち、舞台袖へと早足で去っていく。……数百年鬼をやっていた人間に、殺気で勝てると思うなよ、屑が。
 俺が代わりにそこに座ると、多少戸惑いは残留していたが会場の雰囲気も落ち着いた。目を上げると、縁壱がこちらの様子をうかがう紅い瞳と目が合った。大丈夫だという意味で顎を引くと、縁壱も同じ動作をして、客席へ向き直す。俺は、観客席は見なかった。
 綺麗に伸ばされた背筋を眺めながら、俺も冷えた鍵盤に、縁壱の熱が残った指を置く。そして、幼い子供の背が膨らむのを目視し、縁壱の呼吸と己のそれを重ね、縁壱と同時に吐き出した。



 目を開けると、見慣れた俺の部屋の天井だった。
 何が起きたのか一瞬思い出せなかったが……そうだ、縁壱と久しぶりに音を重ねたのだと思い出し、身を起こそうとしたが、身体が鉛のようで、無理だった。
 身体を動かすのを諦めて、己の記憶をなぞることにする。確か、演奏を終えて、舞台袖に返った瞬間、俺は倒れたのだ。それ以降の記憶がない。
……縁壱との演奏はやたら体力を使うのだ。
……熱があるのです」
 不意に、隣りから子どもの声がして首を動かすと、ベッドに縁壱の頭が生えていた。……ベッドサイドに正座をしていた弟に、俺は息を吐いた。
「俺はどうやってここまで帰ってきた?」
「俺が兄さんを抱えて、タクシーに乗って帰りました」
……タクシーの乗り方よく知っていたな……というか、抱えてって、お前が?」
「他に誰がいるのですか?」
 弟はきょとんとした顔で言うが、いやいや、小学生がほぼ同じ体格の小学生を抱えられるものなのか?いや、それ以前に……
「お前、手……!」
 弟にフルートよりも重いものを持たせてしまったことに、思わず跳ね起きるが、頭がぐらりと揺れ、再び俺はベッドに沈んだ。
「兄さん、熱が高いのです。もう少しで39℃にいくところでした」
 弟に窘められるとは情けなくて死ねる。
……今、何時だ」
「22時すぎです」
 22時。
 随分と寝ていたなと思うと同時に、自分のコンクールのことを思い出した。当然、もう間に合わないのだが……せめて一報を入れておくべきだったと思った時「兄さんのコンクールのほうは、母が連絡しておいたと言っていました」と縁壱が言う。
 母?何故、母?
「母さんはうちにいるのか?」
「いえ、なにやら接待とかなんとか……
 どうも色々と腑に落ちないことが多いが、熱で考えがまとまらず、俺は考えるのを放棄し目を閉じる。と、その時ベッドが軽く揺れるのを感じ、再び目を開けると、弟の顔が目の前にあり、ぎょっとさせられる。何故、弟が俺のベッドに寝転がっているのか。
……縁壱、風邪だったらうつるぞ……
「平気です」
 何が平気なのだ。何も平気ではないぞ。
けれど弟の謎の行動を叱る気力もなく、俺はもう弟の好きにさせることにした。 
縁壱はベッドに投げ出されていた俺の手を握り、じっと俺の顔を瞬き一つせずに見つめてくる。……不気味過ぎる。
普段体温が高く感じる弟の手が、ぬるかった。だから俺の体温も大分上がっているのだろう。普段であれば弟の眼差しに耐えられず顔を背けるのだが、今日は体がだるく、それも出来ない。ただただ黙って俺も弟の目を眺めていると、不意に縁壱の口が動いた。
……今日が終わるのが、いやです」
 何を言っているんだ、こいつは。今日など後2時間で終わる。後2時間で、明日は来るのだ。
「また縁壱と演奏してくれますか?」
 縁壱は少し身を起こし、俺にそう問う。幼く無邪気な懇願に似た問いに、俺は胸が軋んだ。
……それは、難しいな。お前だって分かっているはずだ。伴奏の音は、ソロを支えるためにある。俺の音は未熟で、お前の音を支えられない」
「今日は充分支えて頂きました」
……そうか」
「俺も、兄さんを支えたい」
「お前の笛の音は独奏向きだ」
 今回、こいつと演奏してみて分かったのは、こいつに向いてるのは独奏もしくはオーケストラとの演奏であるということだ。
 縁壱が何かを言いたげに口を開きかけた時、ベッド脇に置いていた俺のスマホが鳴り響く。
「縁壱、水が飲みたい」
 俺はそれが母からの電話であることを確認し、縁壱にそう告げた。弟は少し不満げに眉を寄せたが、俺の頼みは断れないらしく、すぐに部屋から出て行く。それを見送ってから、俺は電話に出た。
『巌勝、熱が出たと聞いたけれど大丈夫?』
……はい、まだ下がってはいませんが」
 大丈夫だと答えると、母は「良かった」と少しほっとしたような息を漏らした。
『縁壱はちゃんと優勝出来たわよ』
「本当ですか」
 良かった……。そこで俺も安堵の息を吐いてしまう。これでだめだったら、俺は父さんに殺される。いや、殺されるまではいかないが、まぁ思い切りぶん殴られるだろう。
 俺がどれだけほっとしたか知らない母は、そのままゆったりとした口調で続けた。
『巌勝、今日の演奏、本当にとても良かった。何より、縁壱の音が今までとは比べ物にならないほど、活き活きとしてた。ねえ、巌勝、貴方もう一度縁壱の』
「嫌です」
 母の言葉を最後まで聞かずに、俺はそれを拒否した。あまりにも強い反応に驚かされたのか、母の弾んでいた空気が少し沈んだ。
……あれから、何人目ですか。縁壱の伴奏者が変わるのは」
 熱を帯びた息を吐きながらそう問うと、電話の向こうで母の空気が強張るのを感じる。
「コンサートで毎回伴奏者が違うのも、専属の伴奏者がいないことも、もちろん、あることです。特に不思議ではない。ないが……皆、縁壱についていけなくなるのでしょう?」
 そりゃあそうだ。俺は比較的慣れている方だったけれど、あんな音を間近で浴びたら、自分の音に自信を無くし、きっと壊れてしまう。それくらいの音だった。俺は、さっき舞台の上であいつとの差をまざまざと見せつけられて、泣きたくなった。正直、逃げ出したくなった。まだ、その時ではなかったのだと、後悔した。
「誰も縁壱には届かない。俺は俺の音を弾きたい。……あの頃のように縁壱の音を追っていたら、俺はまた間違いを犯すことになる」
 だからまだ俺はあいつのそばにはいられない。あいつの側にいたらまた、鬼になってしまうかもしれない。例え一生かけてもあいつの音に届かなくても、それだけは避けねばならなかった。
「縁壱を大事に思うのであれば、ちゃんと見ていてください。あんな屑をあいつのそばに置かないでください。縁壱の音を、縁壱を守って下さい。音の世界に関係ない貴方にしか出来ないことだ」
 熱に誘われ日々の苛立ちを思い切り母にぶつけてしまう。これを父に報告されたらきっとまた殴られるのだろうなと思ったが、もうどうでも良かった。
……このようなことは、今回限りでお願いします」
 手がじわりと痛んだ。元々弾きすぎるくせがあり、傷んでいるのは知っていたが、縁壱との演奏はこの手をさらに犠牲にしてしまう。こんなことを続けていたら本当に手が壊れてしまう。
 はっきりと拒絶した俺に、電話の向こうで母はため息をついた。
『わかったわ。でもね、今日のことは、お父様も感謝しているのよ、巌勝』
 ……父が、感謝?……俺に?
 滅多に聞かない言葉に、熱が聞かせた幻聴かと思ったが、母が続けたその先の言葉に、俺の頭の中が真っ白になった。本当にこういう時に頭が真っ白になるのかとぼんやり思いながら、通話を切ると、まるでタイミングを見計らっていたかのように縁壱がコップとミネラルウォーターのペットボトルを持って部屋に入ってくる。
「兄さん、水……兄さん?」
 縁壱の少し焦ったような声を聞きながら目を閉じると、ベッドが軽く揺れた。弟が不躾にベッドに上がり、近付いてきたようだった。
「兄さん、どうして泣いているのですか?」
 なんだかそれ、前も言われた気がするな。
 俺は眉間を寄せ、両手で溢れる涙を拭う。どうして人間の身体というものは、血やら涙やらいろいろと出やすいのか。長年鬼をやっていたせいで、俺が感情に弱いのか、何なのか。
 不思議そうにぺたぺたと涙が落ちる俺の目元に触れる弟の無邪気さに俺は小さく笑ってしまった。
……俺も」
「兄さん?」
「俺も、明日が来なければいいと思う」
 そう言った俺の頭を、何を思ったのか縁壱は強く抱いた。文字通り熱い抱擁を受け入れると、弟の小さな心音の向こうで、母の言葉が蘇る。
『お父様も感謝しているのよ、巌勝。縁壱にはまだ言っていないのだけれど、今日はあの子の婚約者になる予定の子をね、呼んでいたのよ。双子で演奏だなんてとても素敵だと、先方はとても褒めてくださったし、上手くいきそうでお父様は喜んでいたわ。貴方のおかげよ、巌勝』

 俺は、偶然目に留まった野犬を追い払ったに過ぎず、すぐそこにいる大きな獣に、弟を引き渡してしまったのではないだろうか。


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@0tnFNR9MxCBP4AE
すごい好きです!嫉妬、悲しみ、後悔、優しさ、愛しさ、救い、絶望と色んな感情が伝わるし揺さぶられました。継国兄弟はもちろん童磨、悲鳴嶋さんはじめ原作キャラが生き生きしてました。「笛」というキーアイテムを自然な現パロに落とし込んでて脱帽です。続き楽しみにしてます!!!
2019-12-09 06:36:42
@cosonococo
ゆまさま
お返事遅くなってしまって申し訳ないです。お話読んでくださってありがとうございました~~!!原作のキャラがとてもみんないいキャラしているおかげですね。誰かに見ていてもらえていると分ると私も続きがんばろ!ってなるのでコメント嬉しいです。ありがとうございます!
2019-12-11 14:13:18
@ezorisuaji
すごく、すごく感動しました…
言葉が出てこないくらい、、、
2020-01-27 17:11:16
@cosonococo
エゾリスさま
コメントありがとうございます〜!!嬉しいです!!ありがとうございます!
2020-01-31 18:13:57
@kahokirishima
なにこれ凄い、すき、すき~!と思いながら夢中で読みました。縁壱に悪気はないけど兄上が拗れるのも当然な因果、そこへの父の関与など、現パロなのに継国兄弟の魅力的な業を見事にとらえていて圧倒されました。素敵なものを生み出してくださってありがとうございます。
2020-06-20 11:52:17
@cosonococo
夏帆さま
こちらこそ読んでくれてありがとうございます!元々原作読みながらこれ現パロで双子を音楽の世界に入れたらきっとまた兄上の地獄が始まるんだろうな…と思ったのが執筆の一つのきっかけでした。楽しんでいただけたのならとても嬉しいです!コメントありがとうございます!
2020-06-25 21:19:07

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