@toasdm
疲れたな……。
彼女の独り言は境内の静寂がそっと包み、残響すらもなく空間に潰える。最近すごく疲れる、という実感はあるが、この、人気のない神社にくるとそれが少し和らぐような気がしたのだ。難しいことなど考えなくてもいい、気を緩めていい、と、境内の空気がそう言っているような気すらする。
最初はほんの気まぐれで、あ、こんなところに神社がある、と鳥居を潜って足を踏み入れた。信心深い方ではなかったし、願掛けやおみくじを引こうなどという具体的な目的があったわけではなく、ただただ、日々の激務に疲れた足が、自然とそちらへ向かった、という感じだった。五十歩も歩かないうちにたどり着く本殿は、立派ではなかったが小ぢんまりとしていて、古ぼけた印象は年月を感じるようだと感じた。
鳥居の脇の狛犬は犬ではなく狐のようだったが、そういえば意識してまじまじと見たことはなかったし、気付いた今も、別段確認してみよう、とも思わなかった。苔むしていたような記憶はあったが、そんなことは今は、どうでもよかった。
「はぁ……」
落ち着くな、と目を細め、彼女は本殿の脇の苔むした岩に腰掛けた。ここが彼女の定位置だ。季節を差し引いても冷涼な空気を肺腑の奥まで吸い込めば、本当に、日常の些細なことなどどうでもよくなる。
私、ここに住みたいな――。
もう何もかも投げ出して、ここの住人になってしまおうか、と、頬を撫でる風に目を閉じた。ざわざわと木立の音が心地いい。
「お前さん……?」
びり、と一瞬空気が震えたような気がした。は、と目を開けると、目の前には背の高い、凛とした居住まいの大男が立っている。
「あれ、葛之葉さん……?」
ですよね、と念の為確認したのは、彼女の目にはその、雨彦の雰囲気が、いつもと違うような気がしたからだ。正確には、それが雨彦であるかどうかがうまく認識できないような、そんな不思議な感覚だ。なんなら声も、水中で聞くような、こもった音に聞こえる気がする。こんなところで何してるんだい、と目線を合わせて腰を屈めた雨彦の手が触れた肩は、気のせいか少し、先ほどよりも重たく感じる。
「この寒空の下、こんなところで寝てちゃ風邪ひくぜ」
「え、寝てました……?」
ぞく、と急に寒気が襲ってきて、身震いをする彼女に手を差し出して、雨彦はふらつく彼女を立ち上がらせる。
「お前さん、この神社にご縁があるのかい?」
「いえ……たまたま、ふらっと、なんか」
ふらっと、と言いながらふらつく彼女を危うげなく支えて、雨彦はその、青白い頬に手を当てた。
「お前さん……」
血相を変えた雨彦の顔を、彼女はうまく認識できない。神社の境内ははっきりと、荘厳な空気感まで認識できるくらいくっきりと見えているのに、雨彦の姿かたちだけはもやがかかったように目に映る。ごしごしと目をこする彼女をぎゅっと抱きしめると、雨彦は背中をパンパンと強めに叩いて耳元で囁く。
「ご縁、ってのは、いいご縁もあれば悪いご縁もある」
最近流行のパワースポットもそうだな、と辺りを警戒するように睨みながら、徐々に力の抜けてきた彼女の背中をさすって雨彦は続ける。
「ここの氏子じゃないなら、もう来ない方がいいだろう。――近付くな」
近付くな、だけはやけに力強く、今の今まで霞んだもやに包まれていた雨彦の存在が、それ以降徐々にはっきりとしてくる。
「え……?」
「戻って来たか……お前さん、もう少しで食われちまうところだったかもしれないぜ」
「っ!?」
ぱちくりと、瞬きを繰り返す瞼に唇を押し当てて、それから額に押し当てて。最後に背中を一度だけ、ばしんっ!と強く叩いた雨彦は、ぎゅっと彼女の手を力強く握った。
「あの、えっ?」
「近付くな……ッ!」
ィン――…。
静寂を切り裂いて、雨彦の声の残響が境内の空気をびりびりと震わせる。そんな大きな声出さなくても、と訝しむ彼女の手を半ば強引に引いて、雨彦は鳥居を潜って街路へと踏み出した。
「はぁっ……いいかい、お前さん、神社は神様のおわす場所だ」
「……ぁ」
ふる、と体が震えた彼女が振り返り、雨彦と繋いだ手にぎゅっと力が込められる。
「ありがたがって祀られてる神様もいりゃ、なんとかご機嫌とって封印されてるような神様もいる」
「あ……ぁ……」
がたがたと震えだす彼女の瞳には、ついさっきまで居心地の良い、落ち着く、住みたいとまで思った神聖な神社は映らない。そこにあるのは身の毛も弥立つような、おどろおどろしい、朽ち果てた粗末な社しか映っていない。ようやく気付いたか、と胸を撫で下ろす雨彦の言葉は、今はもう、はっきりと、彼女の耳に届いている。
「感覚を狂わされてたのかもしれないな。本当の姿をしっかり見れば、もう二度と、近付こうなんて思わないはずだぜ」
クリアになった感覚と思考、雨彦の言葉の意味もはっきりと理解できた彼女はその恐ろしさにがたがたと震えが止まらなくなる。
「あの、あの」
「心配しなさんな」
震える指先を絡めてぎゅっと握ってやって、雨彦は彼女を覗き込む。
「お前さんはちゃんと、見えてるんだろう?」
あのお社が、と言われても、彼女はもう、そちらへ目を向けることすらできずにただただ震えるだけだった。
「見えてるなら大丈夫さ。もう二度と、ここへは来ない方がいいだろうな」
頼まれたって絶対来たくないです、と頷く彼女の背に手を当てて、雨彦は彼女と神社とを引き離す。
「二度と、うちのプロデューサーにちょっかいかけるなよ」
ギロリ、雨彦に睨まれた鳥居の脇の狛狐が音もなく返事をしたのを、彼女は知らなかった。