@ayame0601s
灯籠の頼りない明かりしかない、暗い森の中。つい昨夜通ってきたその道を、昨夜同様、髭切さんの背を追ってただただ歩みを進める。
肌を刺す空気は冷たい。寒さで身震いしながら足を機械的に動かし、頭の中では先ほどのやり取りを、何度も繰り返し思い起こしていた。
白い和服のあの彼は、一体何者なのだろうか。
昨夜、門の前でしげしげと物珍しげに見られ、彼に対して警戒心を抱いた。それはさっき無理やり手を引かれた事で、より一層強いものになってしまった。
けれど、どうにも胸の中でつかえるような、腑に落ちないものがある。
昨日の彼も、さっきの彼も、見た目は全く同じもの。服装も、体格も、整った顔立ちも。それなのに、髭切さんとの会話の中で、彼を……彼らを「同一人物」と見なすには、歯車の合わない居心地の悪さを感じてしまったのだ。
さっきの彼は、もしかして昨日の人とは別人なのでは。
そう思うと妙に納得するものの、外見があまりに一致しすぎていて、なかなか結論付けられない。
「あの……」
声をかければ、前を歩く髭切さんは肩越しにこちらへ視線を配る。
聞いていいものなのか、迷いはあった。髭切さんと白い和服の彼は、どこか険悪な雰囲気だったからだ。
けれど、どうしても気になって仕方がない。それに、この会話のない空間を変えたい気持ちもある。
「さっきの人は、昨日会った人ですよね? 昨日、門の前にいた」
あまり深くまでを質問しないように、表面的な部分だけを問いかける。
髭切さんは「ああ、彼?」と相槌を打つと、再び前を向いた。
「さっきの彼は違うよ。他の本丸の刀だね」
「他の本丸?」
「うん。昨日のは、うちの本丸の」
淡々とした、簡潔な答えだった。
本丸……聞き慣れない単語を呑み込もうと、頭の中で反芻する。
まるで、時代劇のような。刀が出てくるくらいなのだから、納得するといえばそうだけれど。そういえば髭切さんも先ほど、「我が本丸」と、そう口にしていたことを思い出す。
他の本丸と、うちの本丸。どうやらこの世界には、本丸というものが幾つか存在していて、昨日の彼とさっきの彼は別人らしい。
髭切さんの言葉からそう理解するも、それは表面的な部分だけで、きちんと納得しているかといえばまた違った。
別人、だなんて。あんなにも、見た目も声も、服装までもが一致していたのに。別人であそこまで全てが一致するだろうか。
まるでクローンのような。
刀の付喪神の、クローン──。
そこまで考えてみるも、それは違和感しかなかった。そんな事、できるというのだろうか。付喪神という言葉だけでも、聞き慣れないというのに。むしろ、いまだに信じきれていない部分があるというのに。
この妙に胸がざわつく感覚は、心中を落ち着かなくさせる。何かを警告されているような、胸のざわつき。それはどこか、息苦しくさえ感じるものだった。
「君たちはさ、歴史とか習わないの?」
唐突に前から声をかけられ、いつの間にか俯いていた顔を上げた。髭切さんはこちらを軽く一瞥する。
突然何の脈絡もない質問をされ、理解が遅れた。
「え、歴史、ですか?」
「うん」
「習いますけど……一応」
歴史は必修科目だった。得意かと問われれば首を横に振ってしまうけれど、何も覚えていないかと言われればそうではない。その程度にしか身についてないけれど、彼の話の本筋が全く見えなかった。
上手い返しも出来ず、言い淀んでいれば、髭切さんは「なるほどね」と呟く。
「残しもしないのか、君たちは。勝手だなぁ」
そう自嘲気味に笑い、言い捨てた。
言葉に含まれた意味は分からない。
ただ、『君たちは』
その言葉は明らかに私の事も含めた言い方で、咎められた心地になる。
返事をしようにも適切な言葉が浮かばず、結局黙りこんでしまった。そんな私をさして気にもしていないようで、髭切さんはもうこちらも見ずに歩みを進めた。
それからは互いに何も口にせず、黙々と歩みを進めた。足元で擦れる砂利の音と木葉のざわめきだけが、辺りを包む。
身体は、昨日から蓄積された疲労でひどく怠い。それに、心も鉛を飲み込んだように重たかった。
歴史云々の話が尾を引いていた。身に覚えはないものの、非難されているような。髭切さんの言い方と口調はどこか冷たく、些か素っ気ないものだった。
私の答え方が、何か気に触ったのだろうか。そう思うも、どうせもうすぐ別れるのだから気にする事はない、と自身に言い聞かせる。
ただ、それは橋を渡る事ができたらの話であり、昨夜の事を考えると不安しかない。
一度通ってきた道という事もあってか、行きよりも帰りの方が早く感じた。目前の木々の合間から、朱色の灯りが滲んでいる。どうやら森の出口が近いらしい。
前を歩く髭切さんを追う足も、自然と速くなっていた。早く、この森を出たい。砂利道のせいでスーツケースを持ち上げている手の力も、限界に近づいていた。
そうしてやっとの思いで森を抜ければ、灯籠の明かりに体が包まれる。暗闇に滲む朱色の明かりは、目の前の橋を照らし上げていた。
昨日渡ってきた、戻橋だ。
──あれ?
そこは、昨日と同じ光景のはずだった。橋の両脇に、一定の間隔で置かれた灯籠。その明かりが、橋自体をぼんやりと照らしている。
それは昨日と変わらないもの。それなのに、なんだろう……何かが、違う。
「僕が送れるのはここまで」
聞こえた声に、ふと我に返った。橋のたもとに立つ髭切さんは、ゆっくりこちらを振り向く。
彼の柔らかそうな髪の毛と、肩にかけた上着が、風でふわりとはためく。瞳には灯籠の明かりが反射し、唇は緩く弧を描いてあでやかに微笑んだ。
灯籠で照らし上げられた橋を背に、髭切さんは佇む。そんな彼の姿に、思わず目を奪われた。
神様──。
不意に浮かんだその言葉は何故か泣きたくなるような感情を伴い、胸を締め付ける。突然わき上がってきた感情は、狼狽えるほどのものだった。自分でも、この感情の出所が分からない。ただ、髭切さんを見て、どこか切なく。胸が痛いほど締め付けられた。
「あ……ありがとうございました。ここまで送ってくれて」
何とか声を絞り出す。髭切さんは笑みをたたえたまま、「どういたしまして」と短く言った。
なんだというのだろう、この感情は。胸の奥がざわついて落ち着かないような。得たいの知れない感覚は気味が悪く、かき消すように頭を振ると、髭切さんと並ぶように橋のたもとに立った。
視界に映る光景は、昨夜とほぼ同じものだった。橋の両脇に置かれた灯籠が、向こう岸まで続いている。その橋の先は闇で塗り潰され、何も見えない。
私は、この世界から出られるのだろうか。
急に不安が込み上げてくる。
もし、帰れなかったら。もしも昨夜のように、橋から出る事が出来なかったら。私は、どうすればいいのだろう。
「もし帰れなかったらさ」
隣からかかる髭切さんの声にドキリとする。まるで私の心を読み取ったかのようなタイミングに、緊張しつつも隣へ目を配った。
目の前の橋を見ていた彼は、ゆっくりこちらを見やる。
「もし帰れなかったら、どうするつもりなの?」
核心をついてくる問いかけに、言葉を呑み込んだ。まさに今、自身へと問いていたその答えが出せず、不安になっているのだ。明確な答えを言えるはずもなく、ただ唸るしかできない。
「それは……帰れなかったら決めようと思います」
結局そんな事しか答えられなかった。髭切さんは「そっか」とただ一言だけ返事をする。
会話はこれ以上掘り下げられる事もなく、どうやら終わったらしい。
「一晩でしたが、お世話になりました」
髭切さんへ向き合い、一礼したあと彼に背を向けた。なぜか彼の顔を見ることが出来なかった。まるで逃げるようだと、頭の片隅で囁く自分がいる。
逃げる、だなんて。ただ帰るだけで、そんなつもりは全くないというのに、罪悪感のようなものが背中にまとわりついている。
さっきから自然と沸き起こる感情は、自分の意思に伴わないものばかりで心地が悪い。それを振り切るように、一歩二歩と足を進めた。スーツケースが音を立てながら地面を擦り始める。
そして、橋を渡り始めた時だった。
私の背後で、髭切さんが口を開く。
「 」
呼ばれた私の名が、髭切さんの声が、風に乗って後ろから届いた。風はそのまま私を通り過ぎ、灯籠の明かりを揺らめかす。
耳に音が届いた瞬間か、その少し前、彼が私の名を紡いだ瞬間か。心臓をぎゅっと握られたような感覚と共に、身体に緊張が走った。
昨夜と同じだ。ただ、名前を呼ばれただけだというのに。細胞全てが彼の声に反応するように、緊張の糸がぴんと張り詰めるのだ。
ゆっくり、彼へと振り返る。錆び付いたように、上手く動かせない。
視界に入った髭切さんは、変わらずその顔に笑みを浮かべていた。
「もし、君が此処に残るなら」
作り物のように整った微笑を乗せて、彼は言う。
「僕と契りを結んでよ」
緊張はだんだんと身体の中央に集まり、心臓を速まらせた。
ちぎり──?
言っている意味を即座に理解出来ず、カラカラの喉を潤すために唾を飲み込む。
「え……契り、ですか?」
「うん。契約というか、約束っていう方がいいかな。
風で乱れた髪を耳にかけ、目元を細めて髭切さんは微笑んだ。
なんだろう……その笑みは、やっぱりどこか無機質で。『作り物』その表現が適していた。感情の読めない表情というのは、怖さすら感じる。
「約束、してもいいですけど、内容によります」
得たいの知れない緊張から、言葉が途切れ途切れになる。慎重に答えなければいけないという、本能に近いものを感じたからでもあった。
付喪神と約束を交わす。
言葉にすれば尚更、それに危険が伴う気がしてならない。
髭切さんは私の返答に、「いいよ」と軽く頷いた。
「もしも、君が帰れなかったらの話だから。答えはそれからでいいよ」
そう言って、彼は手をひらひらと振る。そんな彼にもう一度頭を下げたあと、踵を返して今度こそ足を進めた。
ガラガラとスーツケースの車輪が音を立てる。心臓は忙しなく胸の内側を叩いていた。何がこんなにも焦燥感を煽るのか、自分でも分かっていなかった。不意に沸き起こる出所の不明な感情、名前を呼ばれた時に感じた緊迫感、もとの世界へ帰れないかもしれないという不安──。
心が浮き足立っていた。帰れないかもしれない。その直感のようなものが、更に落ち着かなくさせる。
それにこの橋、昨日と何かが違うように感じるのだ。なぜだろうか……そう思い、辺りを見回してふと気づいた。
桜だった。桜が、ない。
昨夜は、風に乗って桜の花びらが漂っていた。こんな真冬に、そう思ったのは記憶に新しい。それなのに今日は桜がないのだ。
些細な事でも違う光景というのは、どうにも不安を助長させる。どこかに桜の木はないかと、ぐるりと辺りを見回したついでに、後ろを振り返った。
つい先ほど通ってきた、その道の先。橋のたもとには、髭切さんが居ると思っていたものの。
そこには、誰の姿もない。
思わず息を呑む。てっきり、彼は待っててくれると思っていたのだ。
一人きりになってしまった事で不安が膨らんだ。元の世界に戻れる保証はない。それならもし戻れなかった時、私はこの世界で一人きりになってしまう。
様々な思考が矢継ぎ早に脳内で通りすぎ、心臓は全く落ち着きをみせなかった。
とりあえず、橋を渡ってから考えよう──そう思い前を向き直してみれば、なんとその行く先に、髭切さんの姿があった。腕を抱えるように立つ彼は、私を見て小首を傾げている。
その方向はこれから向かう場所で、そちらに彼が居るはずないのに。
訳が分からなかった。頭が混乱し始める。まるで、方位がぐるりと変わってしまったような感覚だった。
とりあえず行く先は彼がいる方向ではない、と、方向転換をする。
スーツケースの鳴り響く音を耳で捉えながら、ただただ前を見据えて歩いた。言い様のない不安が肺を絡め、呼吸は意図せず速くなっていく。
橋の終わりが近づく。努めて何も考えず、歩みを緩める事もせず。最後の一歩を踏み出して、橋から出た。
「……おや、お帰り」
がらりと変わった視界の先は、橋だった。対岸まで続いている、橋のたもとに立っている。そう認識したのと隣から声が届いたのは、ほぼ同時だった。
恐る恐る隣を見上げれば、そこに居たのは髭切さんで。彼は口元の笑みそのままに、横目で私を見下ろす。
戻っている。昨日と同じだ。
やっぱり私は、此処から先へと帰れないらしい。
「あの……」
「なんだい?」
「私、やっぱり帰れないんでしょうか」
「そうみたいだね」
柔らかい口調でいて、平然とした答えが返ってくる。自分でも分かっていた答えに、沈む気持ちと共に視線を地面へと落とした。
帰れない。それは髭切さんも、最初から分かっていたはずだろう。私が此処から帰れない事など。昨夜も宿の場所を聞いた時、「此処からそこへは行けないよ」と言っていたじゃないか。それなのにこうして此処まで付き合ってくれたのは、現実を突きつけるためだったのだろうか。
「今は帰れなくても、当てがない訳でもない」
不意に溢された言葉に、落としてい視線を勢いよく上げた。目元に薄い笑みを乗せた髭切さんと、視線が交わる。
「約束の件、どうする?」
優しくこちらを気遣うような問い方に、言葉を呑み込んだ。
このタイミングでの、この言葉。策士だと思わずにはいられなかった。主導権は彼にある。けれどいくらそう思っていても、この状況下では相手の誘導に乗らざるを得なかった。
「約束の、内容を教えてください」
震えそうになる声を必死に抑える。言い様のない不安が込み上げていた。
髭切さんはその目元を細め、笑みを深める。
「君が此処から帰るには、恐らく他の力が居るんだ。君だけの力では帰れない。そのための手助けをしてあげるし、君が此処に居る間は、僕が守ってあげる」
その代わり、と彼は言葉を続けた。
「君が此処に居る間、我が本丸の主になってほしい」
「……あるじ?」
「うん」
おうむ返しで聞けば、髭切さんはにこやかに頷く。
本丸の事は、先ほど少し会話に出てきたものの。主になれと言われても、想像つかないのが本音だった。
「主というのは、具体的に何をすればいいんでしょうか?」
疑問のままに問いかける。髭切さんは終始変わらない笑みで「やる事は一つだけでいいんだけど」と続きを口にした。
「僕を──僕たちを、祀り直してくれないかい」