@toasdm
平然とした態度で仕事をこなして、上がりまでは後三時間程度だろうか。彼女はそのまま、どうするつもりだったのか、と雨彦の中に焦りが生まれた。嫌な予感をそのままにするような不手際が招いた惨劇に、雨彦はぎり、と強く奥歯を噛みしめて、フッ、と鋭く吐き出した。
お前さんくらい豪胆な御仁なら、そのまま飲まれちまうようなこともないだろうが……一言言ってくれたってよかったんじゃないのかい?
彼女の肩から背中にまとわりつくねっとりとした汚れは、ひっきりなしに蠢きながら、周囲の無害な汚れすらも吸い寄せるように彼女に集めて、じわじわとその質量を増している。その存在は感知できても、自分で汚れを祓うことのできない彼女ができる、唯一の方法だったのだろう、という想像はついた。ああして自分に集めておけば、少なくとも周りに悪さはしないだろう。目を眇めて雨彦が睨みつけても、汚れの方は今、それどころではないようだ。
いかにして、この女を憑り殺すか。
そんな単純で、物騒な思惑しか持てない汚れの塊に、彼女の方が先に気付いたのは明白だった。小一時間ほど前、彼女が「ちょっと席外しますね」と出て行ったことに違和感を覚えたのを、雨彦はなんとなく、嫌な予感がするな、と思ったのだ。
それでも、後を追わずに、問い詰めもせずにミーティングを続けたのは、彼女なりの考えがあったのだろうという配慮と、ミーティングの途中で抜けた彼女の穴を埋めるなら自分が適役だ、と思ったからだ。案の定、雨彦がなんとか場をつないでいたところに彼女が戻って来た時には、既に彼女は、自身の中に汚れを取り込んだ状態だった。
「お前さん」
「あ、はい」
飲み物買ってきたのでどうぞ、と関係者各位に配り歩きながら、そうやって誤魔化すのか、と目を細めて彼女を睨んでみたが、彼女はそんな視線などどこ吹く風とばかりに普通にしている。
いいぜ、お前さんがそういうつもりなら、俺も合わせてやろう。
その場は何とか凌いで次の仕事のミーティングを無事終えて、彼女と雨彦とその他の事務所のメンツとでいったん事務所に戻る。五分でいい、お前さんと二人きりで話がしたい、と、途中何度かそんな視線を送ってみたが、彼女の方はまだまだ忙しいらしく、事務所に車をつけてミーティング後のミーティングでさらに細かく意見を調整している。
こいつは後でお説教だな――適当な理由を見つけて事務所に残った雨彦は、彼女から目を離さないように事務所の中で資料などを確認する。その間にも汚れの方は、しめしめとばかりに彼女の「表面」を食い荒らして成長していくが、一般的な成長速度よりもずいぶんと、ゆっくりしていた。
例えば恐怖。恐れる気持ちは心に隙間を生み、汚れにとって「食いやすい」状態に持っていける。彼女にはそれがないと見えて、流石はうちのプロデューサーだ、と雨彦は内心舌を巻いていた。その他にも、騙されやすさや情の深さ、心の弱さに付け入って、汚れは「表面」から「内側」へと入り込み、やがて魂を食い殺してしまう。いっそ汚れの方に同情したくなるような彼女の「強さ」に、今はひとまず感謝をしておくが、冷や冷やすることには変わりない。お前さん、声しか聞こえないくせに、自分じゃ祓えないくせに怖くないのか、といつも以上に気にかけてみてみるが、虚勢ではなく本当に、彼女はほとんど恐れてなどいないように雨彦には見えていた。
「じゃ、僕はお先に失礼しますねー」
山村が帰れば、事務所は雨彦と彼女のとの二人だけになる。一応、念の為、とすぐさまドアを施錠して雨彦は彼女に近づいた。
「お前さん!」
「今話しかけないでください気が緩みます」
強いとはいえ、もう半日も汚れを背負ったままで気疲れしない道理もなかった。微動だにせずデスクについて、目を閉じている彼女にだって、限界はある。疲れたり、気が緩んだりすればあっという間に「食い散らかされる」可能性だってある。掃除が先だな、と雨彦は彼女に触れ、さっ、と汚れを祓った。
「どうしてこんなことしたんだい?」
ざっ、と汚れを拭う度にぼろぼろと涙が溢れる彼女を、強いなどと誤解していた。
「……っ!!」
「っと」
最後の汚れを祓い去って、その誤解は確信になる。
「こ、怖かった……っ!」
「……よし、よし」
震えながら、泣きながら、雨彦に抱きついてしゃくりあげる彼女は強くなんてなかった。腕の中に抱え込んだ小さな頭を、雨彦は撫でながら彼女に優しく語りかけた。
「よく頑張ったな……怖かったかい?」
「はい……私、には、祓うことは、できないので……」
「だったらどうして、俺を呼ばなかったんだい?」
至極当然の雨彦の問いに、彼女はゆっくり呼吸を整えながら、ぽつりぽつりと説明と言い訳を始める。
「あの場は、どうしても、外せなかったんですけど、でも」
「見過ごせなかったか」
「はい……すごく、意志が強い、汚れで」
嗚咽が徐々に落ち着いてきたのは、雨彦の声音と、優しい手の温もりのせいだろうか。でも、と彼女は、涙でぐしょ濡れになった頬に健気な笑みを浮かべて雨彦を見上げた。
「私に、引きつけておけば、絶対葛之葉さんが、こうやって祓ってくれる、って信じてたので」
無茶してごめんなさい、でも信じてました、と素直に言われてしまっては、雨彦にはもう、彼女を責める理由がなくなってしまう。
「信じてもらえるのはありがたいが、二度と無茶はしないでくれ……肝が冷えて仕方なかった」
だから、それが雨彦にとっての、精一杯のお説教だ。
ぎゅっ、と閉じ込めた腕の中、ごめんなさい、と反省する彼女のことを護ってやれるのは俺しかいないか、と思った時のなんともいえない感覚に、雨彦は今はまだあえて、名前をつけずにおいておくことにした。