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先に微分をしておいて。

全体公開 2594文字
2020-01-18 09:50:01

ルイナとバークレイさん。 別回答から。


図書室は珍しく明かりがついていて、いつもの陰気さも何処かにいっていた。眠りについている本が少し日の目を浴びているようにも思えた。そして、ルイナ以外のだれかがその場に訪れていることもそれは語っていた。
歩いて、色んな書物を見ながら彼女はいつもの閲覧席に移動する。
横目に、たまに見る人をみた。知ってるけど知らない人だった。最近、横切る本の一冊だった。文章量の少ない児童文学を借りて、数学の前で立ち止まり、そのまましばらく帰ってこない旅人だ。
今日はいつもの余裕というか、行間も何処かにいってしまっているようだった。
そうなったら、彼は旅行本ではなくなってしまう。あの簡素で羅列されているさまざまなカテゴリが機能しないなら、それは彼が本調子でないってこと。ルイナには読んだことのない本はわからなかったが、状態くらいなら一目でわかった。それは人でも変わらない。
ルイナはとにかく気にしないフリをして横に座った。なんとなくスペースを開けているが、なんとなく近いくらいの感覚だ。いつもなら2人とも避けているはずの距離感がおかしいのは、彼女も彼もどこか日常からズレているからだった。
そのままルイナは手帳を書いて、彼はそのまま動かない目で本を睨み付けていた。それでも落ち着かないみたいで、指を置いたり、ページの端を擦ったりしていた。入り込めてないんだな、と、その姿をなんとなく見る。ルイナのことも目に入らないらしく、彼は小刻みに揺れたりしつつその世界にいる。その世界にいて、と、急に啜り泣く声が聞こえて、ルイナは流石に気になった。
本当に泣いていた。しっかり目があった。
それを隠そうとする彼の涙で本が濡れかけていた。
ルイナは大急ぎでティッシュを取り出して彼の前に差し出した。本の間にも差し込んでギリギリ間に合った。ぽろぽろと涙を流している彼は自分のハンカチを持っているらしくそれで拭き始めていた、なんとなくルイナもかなしいような気がしてメモを取り出す。それでも、そういう時にどんなふうに声をかけたらいいのか彼女にはわからない。
読んでいる本は悲しいものでもなく、むしろ小さな女の子がその才能を元に色んな謎を解明するような話だった。
とりあえずメモを書く。彼の前にスライドさせる。
「どうしたんですか?」
何か足りない気がして、彼の前にペンを置いた後に付け足す。これじゃあ伝えるのも大変かも。彼女は自分の経験から予測を立てた。選択肢を付け足す。書き足す。
「飲み物いりますか?」
彼は首を横に振った。
ルイナはその選択肢を消した。
「人を呼びま」
書いている途中から震えていて呼ばない方がいいのはすぐにわかった。ルイナも苦手だ。話すのも大変だし。
こういうのより、もっとわかりやすいのを。と、彼女はさっきの感情の名を書いた。
「かなしいの?」
彼の目から、大きな粒になって感情が落ちていた。それを見た。
ルイナはそれに線を引いて繋げた。
「どうして?」
彼の口が動いた。
……いないんです、あの子が、モノが……
何か言おうとしてまた泣き出して、ルイナはつい、頭を撫でそうになってやめた。
そういえば、いつだかうるさめのひとがそばにいた気がする。怖かったから早めに帰ったんだっけな。
「ここの人?」
彼は不思議な顔をする。口を開いて何かを言おうとしたが、うまく言葉にならないらしい。ルイナも良く起きる現象なので、本当は落ち着くまで別のことを話したりした方がいいんだけれど。
ルイナはメモを新しくちぎって、話せるための紙を彼の方においた。もう一つの紙に別の言葉を書く。
「お名前は?」
彼はカードキーを取り出して見せてくれる。
バークレイ、さん。
ルイナはこの機関専用のタブレットを出して、名前検索する。このやり方だと詳しいことは出てこないから、本人に聞かないといけないかもだけれど。
検索結果が出て、彼の名前とちょっとした保険証みたいなデータが出て、
担当哲学人として哲学人「物自体」と出た。
なるほど、物自体でモノ自体?安易な名前だ。
一応彼に画面をトントン、とすると、彼はうなずいた。つまりこの哲学人がいなくなった?らしい。それが悲しい。
なるほど。面白い人だなぁ、とルイナは思った。丁寧なんだろう。もともと見えないものを失ったかどうかなんてわかんないのに、でも大事なんだなぁ、と彼女は本棚に向かう。
そもそも哲学人がいなくなるわけないのに。
ルイナは一冊の本を出した。彼の前においた。彼の目を見ても彼女は怯みもしない。そこから凄い勢いでページを巡った。そのまま読んで確かめて、その中の一つの単語を指差した。
「"das Ding an sich"(thing in itself) 」
彼の目はそこに吸い寄せられる。ドイツ語は曖昧だったが、英語には見覚えがあった。
……あ、」
ずらっと並ぶのはドイツ語と英語訳であったが、ルイナはその横に日本語版を引っ張り出しては並べ上げた。やはり訳の長さや言葉回しが違う。でも、やっぱりこっちの方がとっつきやすい。
並べる。置く。彼はしっかりとその文章を見る。認識する。
「"空間と時間とは、感性的直観の形式にすぎない、それだからまた現象としての物の存在を成立せしめる条件にほかならない、――また我々の悟性概念に対応する直観が与えられ得ないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまた物を認識するに必要な要素を一つももたないことになる、[略]つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである"」
ゆっくり、一文をなぞった。彼の目が別のところを見ないように、さっと。
ルイナは、メモに書く。
「線を引くと 読みやすい。
 コピーして 色をつけると わかりやすい。」
付箋みたいな大きさに切り取ったメモを、先ほどの文のところにおいた。そして、その「純粋理性批判」を持っては、彼の方にまた、メモを置く。そのまま、どこかへ駆け出す彼女。
「哲学人は 哲学だから。
 そこにいるよ。
 印刷してくる」
ルイナは彼のことなど何も知らなかった。ただ、困っている読書家を助けたいだけだった。
図書館の印刷機が数ヶ月ぶりに動く音が響いた。


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