「…………ッフ、年貢も納め時かい?」
気絶した同業者Pさんの事を運びながら「ああ、自分はこいつが好きなんだな」とはっきり自覚した負傷雨彦さんのお話です。
@toasdm
「っは、んんっ……」
一歩、一歩が重い。左足を地面につく度に激痛がそこから脳天へ抜けて、じわりと脂汗が滲む。歯を食いしばり、痛みで感覚を麻痺させながら歩く雨彦の腕には、ぐったりと、力尽きた彼女が抱えられている。落とすわけにはいかない、と抱えなおしたその重みと衝撃が、雨彦から苦痛の音を漏れさせた。
あと、ほんの、数メートルだ。ビルとビルの間にある、契約者専用駐車場。事務所に近い僅か三台ばかりのそこを押さえておいてよかった、とその数メートルを雨彦は、気力だけで歩ききる。
そもそもが、負傷しているのだから普通に歩くだけでも重労働だというのに、今の雨彦は腕の中に、大事な大事な「連れ」を抱えている。平均的な成人女性の体重を五十程度と見積もっても、決して軽いものではなかった。
「……はぁっ」
休憩がてら雨彦は、ビルの隙間に身を潜めて冷たい壁に背をついた。支えられて少し負担は軽くなるが、微々たるものだ。ただの気休めさ、と腕の中の彼女を再び抱えなおして、雨彦はその痛みに呻いて、そっと彼女の胸に耳を当ててみる。
「大丈夫、か……」
意識も反応もないが、浅く弱々しいながらも呼吸と拍動は確認できた。こっちの方が気休め効果が高い、と一人苦笑して、雨彦は天を仰ぎ見た。
沈みかけていた夕日のオレンジ色の中、危うく彼女を失いかけた恐ろしさをそのまま溶かし込んだような宵闇色が、ビルで四角く切り取られた空の色だ。そんなに長いこと格闘してたのか、と振り返ってみるが、彼女が意識を喪失してからどうやって自分が汚れを祓ったのか、雨彦は実のところ、よく覚えていない。ただただ一生懸命、必死で、彼女を護るのは自分しかいないのだ、という強い意志だけで汚れを祓い除け、倒れた彼女を取り落とすまいと、僅かな距離を必死になって、歯を食いしばって歩いてここまできた。こんなに一生懸命になることなんざそうそうないだろうな、と苦笑して、雨彦はまた、はぁっ、と息を吐き出した。
「一生懸命になれること、か……っはは」
掠れた笑い声と呟きが、騒がしい街の片隅にできたエアポケットのようなビルの隙間にこだまする。そうだな、お前さんは初顔合わせの時から、まっすぐそのままだったな、と目を閉じると、くらり、と眩暈に襲われる。今倒れるわけにはいかないんでね、と痛む足首を捻らないように、雨彦は踵を地面にまっすぐ打ち付ける。
「っぐ、は……ッ!」
激痛が押し出した涙で、視界が歪む。自分まで倒れるわけにはいかない、と雨彦は痛みを逆手にとって無理やり自身を覚醒させた。そうまでしてでも、彼女だけは、という思いの根源を、雨彦はうすうす理解していた。
俺は、お前さんのことが大事なんだな。
雨彦の胸の中、すとんとそれは落ち着いて、当然そうだろう、という納得になる。同業者だからか?それとも、放っておけないからか?一歩ずつ、駐車場の方へと踏み出しながら、雨彦は痛みと眩暈とでふらつく頭と体とを、思考で誤魔化し歩を進める。
初め、同業者だと気付いた時には、俺はお前さんのことを羨ましい、って思ったんだぜ。雨彦に全てを預けた彼女の顔に、こっそりと打ち明ける。俺にはどうやったって自由にならないことがあるのさ、と自分の身の不自由さと、生まれた家のしきたりの違いで彼女が手に入れた自由とを比較して、勝手に妬んでた。俺は最低だな、と苦笑して、視界の隅に漸く雨彦は、自分の車の姿を捉える。
「いつからだったろうなぁ……っく、こんな、に、なってでもお前さんを、っ!」
また遠のきかけた意識を激痛で無理矢理引き戻して、雨彦は倒れそうになる体を精神力だけで支えて歩く。
満身創痍になったって、俺はお前さんを護ってやりたい、って思ったんだぜ、と腕の中の穏やかな呼吸に語りかけながら、雨彦はとうとう、車にたどり着いた。
「っんん!」
最後の気力を振り絞り、スライドドアを彼女を抱きかかえたまま開ける。広々としたリアシートに彼女を、まるで壊れ物でも乗せるかのようにそっと安置すると、視界がぐらりと揺れた。
「ックソ、まだ、だっ!」
どこか、安全な、ところへ――。
真っ先に浮かんだのは、一度だけ訪れたことがある彼女の自宅だった。随分と居心地のいい場所だ、と素直に思った、清浄な空気に満たされたあそこならば、きっと……。
お前さん、鍵持ってるよな?と静かに語りかけながらシートベルトで彼女の体を固定して、ここで漸く雨彦は負傷した足首を庇って歩く。右足さえ動かせりゃ運転はできるさ、と車を出した雨彦を今突き動かしているのは、いつだったか、名前を付けずにおいておいた、あの感情だ。
「…………ッフ、年貢も納め時かい?」
ルームミラーをちらちらと見て、雨彦はその感情に、愛の名を付けて大事に仕舞っておくことにした。