@toasdm
見慣れた天井に違和感を覚えたのは、直前の記憶との相違だ。常夜灯のオレンジ色も、嗅ぎなれた匂いも、聞きなれた時計の音も全部、自分の部屋のものだったせいだ。
「っん……」
「起きたかい?」
「っ!」
ベッドの下の方から、その激闘の記憶の最後にあった声がする。慌てて起そうとした体を軽く押さえられ、ぱちん、とベッドサイドのライトが暖色の明かりを灯してまばゆさに一瞬目がくらむ。
「まだ休んでろよ、お前さん相当消耗してたはずだぜ」
「葛之葉さん……?」
「すまないな、勝手に運んで」
やつれたような声、というのが相応しいような疲弊しきった覇気のない、しかし穏やかで優しい雨彦の声に、ああ、全部終わったんだ、と、どっと安堵が押し寄せる。体のあちこちが重たく、まだ締め付けられた後のような圧迫感が残っている気がする。あの、と再び起き上がろうとしたが、今度はそれを抑止する手は伸びてこなかった。
「葛之葉さん」
「ちゃんといるさ」
光に慣れた目で彼女は雨彦の姿を捉える。床に足を投げ出してベッドに半身をもたれかからせた雨彦の、確か左足だったはずだ。ギュン、と一気に血が巡り、慌てた彼女はベッドから降りようとしてそのまま体勢を崩し――。
「っ痛、ぐっ……!」
「ごめっ、ごめんなさいっ!」
「お前さんなぁ!!」
わざとかい?!と漸く声に覇気が戻ったがそれも一瞬で、転がり落ちたベッドの下、しかし彼女の体を受け止めたのは固く冷たいフローリングではなく、足首を負傷して動けない雨彦のしっかりとした体だった。
「丁寧に扱ってくれよ、これでも怪我人なもんでね」
「怪我、そう、怪我は?!」
「何、軽く捻った程度さ。湿布でも貼っときゃ痛みも引く」
「……うそつき」
「……」
こういう時ばかりは、彼女の「いい耳」が恨めしい。今も拍動に合わせてずきずきと痛む足首は、確認こそしていないが確実に腫れているだろう。骨まではいってないさ、というのは本当だろうが、軽度の捻挫であることには違いなかった。その痛みが立てる軋んだ音を、彼女の耳はどんな風に拾っているのだろうか。
「……無茶するなって、言ったはずだぜ」
「…………ごめんなさい」
「……ほぅ?」
いつもの、葛之葉さんなら大丈夫だって信じてましたから、は出てこなかった。彼女自身も自分がいかに無茶をして、そのせいで雨彦に、アイドルの体に怪我を負わせてしまった責任を重く受け止めているということだろう、と彼女の潔さに雨彦は感心した。
「あの」
「なんだい?」
「離して……重たい、から……降ります」
「……」
ぎゅう、と抱き留めた体を、雨彦は離すまいと強く抱きしめる。離して、ともう一度、今度は先ほどよりも強めに主張した彼女の意見を、雨彦は腕で却下した。
「葛之葉さん」
「好きだ」
ベッドサイドの暖かなライトの明かりの中、それは突然の告白だった。ぎゅうっ、とさらに力を込めて、まるで縋り付くように抱きしめる雨彦の腕の中、彼女は沈黙を守っている。
「俺は、お前さんが好きだ」
懺悔するように、秘密を打ち明けるように、絞り出すように。
雨彦は、彼女に思いのたけをぶちまけはじめる。
「はぁ……だいたいお前さんなぁ、無茶ばっかりしやがって、俺の心臓はひとつしかないんだぜ?」
「……ごめんなさい」
「人の話は聞かない、なんでもかんでも自分一人で背負い込んで抱え込んで、その尻拭いは全部俺任せで」
「うぅ……だって、葛之葉さんなら大丈夫だって信じて」
「っのや、ろッ!」
「っっ!?」
ゴヂン!と鈍い音と鋭い衝撃に、彼女の目の奥でチカチカと星が散る。これで少しは懲りろ、とヘッドバッドをくれた雨彦はにやついて、今度はそっと、コツンと額を触れさせる。
「いい加減にしろ、どれだけ俺に心配かけたら気が済むんだ」
「痛ぅ……」
「俺以外の誰が、そんな身勝手で、愚直で、捨て身のお前さんを護ってやれる?」
「葛之葉さん……」
「俺以外の、誰かが」
意識を消失する前に握りしめていた雨彦のブレスレットが、彼女の手首で冷たく丸い音を立てる。震える声と震える体、雨彦は彼女を腕に閉じ込めたまま、真剣な声音で誠実に、思いを告げた。
「俺以外の誰かがお前さんを護るなんて、そんなのは願い下げだ。お前さんを護るのは俺がいい。お前さんのそばにずっといるのは、俺がいい……好きだよ」
激闘の中、愛と名付けた感情が、雨彦だけのものだったはずのその思いが、彼女に優しく手渡される。お前さんは?と鼻先が触れあう距離で微笑む雨彦は、この思いがどうか、自分だけのものではないように、と祈りながら彼女の言葉を待っている。
「……私、みたいな、半端者が」
震える唇が、懸命に言葉を紡ぐ。
「葛之葉さんの、邪魔に、なるし」
「それだけかい?」
「……無茶、するし、人の話全然聞かないし」
「そこは聞いてくれ」
「いや、急には……」
お前さんそこだけ素直なんだな、と苦笑して、雨彦は膝の上に彼女を抱えなおす。
「ゆっくりでいい、頼むからもっと自分を大事にしてやってくれ」
「で、でも」
「――…」
「っ……?!」
耳元で、雨彦の甘く低い声が、彼女の名を呼んだ。
「俺は、自分で汚れが祓えなくても、無茶して暴走しても、どれだけ心配かけられても」
真剣な瞳が揺らめきながら、温もりの明かりを反射する。吸い込まれそうに澄んだ瞳が問いかけているのは、雨彦の真実だ。
「迷惑だなんて、邪魔だなんて、一度もそんな風に思ったことないぜ」
好きだ、ともう一度告げた唇は、角度をつけて。僅か数センチの距離をゆっくりと縮めて、震えて待つ彼女の唇に触れた。
「んっ……!」
「ふ、っ」
そっと雨彦の首の後ろに回された彼女の腕が、その問いかけの答えだった。
絡み合う舌先、それだけでは満足せずどちらからともなく、口付けは強く、深く、二人を結び付けあう。
激闘の余韻を引きずったような夜が、重なり合った二人の体を固く結んで繋げて交わらせることに、異を唱えるものは二人を含めて誰もいなかった。