@toasdm
喧嘩なんてするんじゃなかった。
ぽろぽろと涙は、次から次へと溢れてくるが、しゃくりあげても嗚咽は声にならない。音すらも立てずに流す後悔の涙は、静かに、彼女自身の首を絞めている。
けほ、などという可愛らしい咳き込み方ではない、肺の奥の方から無理やり全部吐き出すような激しく生々しい咳は、彼女の体から低く濁った音を出す。パンパンに腫れた喉が張り付いて、唾液を飲み込むだけでそこから激痛が走る。詰まった鼻からさらさらと流れる鼻水を拭いすぎて、鼻の下は真っ赤になっている。それと同じくらい、頬は発熱で赤く目は虚ろ。立派な風邪っぴきはベッドで一人、寝転んでいた。
あんなこと言うんじゃなかった、とぼやつく頭で思い返してみるが、喧嘩の原因になった些細なきっかけは、些細だったなぁ、ということしか思い出せない。どちらか一方だけが悪いということはなく、彼女が「もう雨彦さんとは口きいてあげません!」と意地を張り、雨彦が「そうかい、だったら勝手にしろ」と電話を切ったことだけは覚えている。あんな風に突き放さなくたっていいじゃない、と見放された寂しさを貝になることでやり過ごそうとして、彼女は寝る前に、もう絶対、雨彦さんとはお話してあげないんだから、と不貞寝を決め込んだ。
そして、起きればこのざまだ。僅かな救いは久しぶりの連休初日であることと、昨日喧嘩をしたばかりの雨彦が、絶対にここにはやってこないということだけだった。来られては困る。雨彦に風邪を伝染すなどもってのほかだ。プロデューサーとしても恋人としても、アイドル葛之葉雨彦に風邪を引かせることだけは避けたい。ずぴ、とすすった鼻の音にむなしさと寂しさを感じて、彼女はまた、ぽろりと涙を零した。
もう、口きいてあげない、なんて言ったから、声が出なくなっちゃったんだ。
与えられた苦痛を罰だと受け止め、彼女は一人寂しく涙を流す。私ここで誰にも知られず、一人ぼっちで死んじゃうんだ、とめそめそしては、三日後くらいにニュースになって、ここが事故物件になってしまう、大家さんごめんなさい、とまで考えが暴走する。、ぐるぐると回る天井が気持ち悪い。世界の全てが自分に優しくない気がして寒気も酷く、寝ているのも立って歩くのも辛い。もう、ほんとにだめかも、とまた意識を手放した彼女は、眠りの淵でなにか物音を聞いたような気がしたが、それを確かめる為に起きていられるほどの気力も体力も、もうどこにも残ってはいなかった。
「……っう」
ぬるい感触で目を覚ましたのは、それから何時間後だったのだろうか。目を開けようにも、腫れぼったいまぶたはあまり言うことを聞いてくれない。戻った意識、黒の視界を細く切り裂くように、うっすらとかろうじて開けた目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だ。
「起きたかい?」
「……?!」
あめひこさん、と口は動くが、枯れた喉から出るのは声ではなくヒュウヒュウと鳴る音だけだ。無理するなよ、とかけられた声は優しいというよりも、どこか不貞腐れているような、そんな雰囲気だ。動け、と全身全霊で力を振り絞り、彼女はのろのろと上体を起こした。
「酷い熱だ」
軽く引っ張られる感覚と一緒に、額からぺろりと冷却シートが剥がされる。さっき張ったばっかりだぜ、とそれをゴミ箱に捨てると、雨彦はもう一枚、冷蔵庫から出したての冷却シートのフィルムを剥がして彼女の額に乱暴に貼り付けた。
「っ」
「寝てろ」
口だけは、なんで、と動くのに、声が全く出ない。出るのは音、それと、涙だけ。泣くほど辛いなら意地なんて張るんじゃない、と冷却シートで埋まった額をぺちんと軽く叩いて、その勢いでベッドに沈んだ体に雨彦は、丁寧に布団をかけてやった。
ちがうの、あめひこさん、なくほどつらいの、かぜだからじゃない。
伝えたい気持ちは涙以外にならない。ごめんなさいも言えないなんてやだ、と自分のことで精一杯になった彼女の頭をぽんぽんと叩いて、雨彦は溜め息混じりに言う。
「どうせお前さんのことだから、もう口きいてやんない、なんて言ったからばちがあたって声が出なくなっちまった、なんてくだらないこと考えてんだろう?」
なんで、わかるの、と泣き腫らした目をきょとんと丸くした彼女に、雨彦は目だけでにやりと笑う。マスクの下に隠れている口も、恐らく彼女の良く知った形で笑っているのだろう。
「わかるさ。お前さん夕べ、寝る前の電話で咳き込んでただろう? ありゃ喉やられてる時のお前さんの音だからな。あと妙にイライラして俺につっかかってきてた、あれもお前さんの具合が悪いときの反応だな。ここ最近仕事が立て込んでたし、そろそろ風邪でも引くだろうかと思ってな……念の為、来てみて正解だったよ」
心配かけてごめんなさい、どうしてわかっちゃうの、喧嘩したのにどうしてくるの、風邪うつっちゃう、と言いたい事がぐるぐると、彼女の胸と頭を占める。何も言えない自分のことを、雨彦はじっと目を見つめて、まるで心を覗き込むかのようにしてうんうんと頷いてから、そうさなぁ、と顎に手をやり考える。
「風邪引いて動けないなら看病が必要だし、そうじゃなくても、仲直りが必要だろう? どっちみち、俺は今日ここに来るつもりだったよ。虫の知らせもいらないな」
飲めそうかい、とスポーツドリンクを差し出す雨彦は、さも当然といった表情で彼女に普段どおりの顔を向けている。飲めば少しは声が出るかと期待を込めて、彼女はペットボトルに刺さったストローに口をつけた。
「よしよし……いい子だ」
意地を張っているのが馬鹿らしくなるくらい、雨彦は、彼女のことは何でもお見通しだった。電話越しの声、日頃の疲れ、いくら声が出なくても、目を見て話せばだいたいわかるさ、と目が笑う。頭がキレる、洞察力がある、思いやりの心も、全部雨彦は持ち合わせている。理由も思い出せないような些細なきっかけの喧嘩をしていると思っていたのは、この様子だとどうやら彼女の方だけのようだ。からからに乾いた口と喉、それと心に、じんわりと必要なものが吸い込まれて染みとおる。時間をかけてペットボトルの半分を飲みきった彼女の頭を優しく撫でて、雨彦は少し拗ねたように言った。
「……勝手にしろ、なんて突き放して、悪かったよ」
これは、拗ねているのではなく、落ち込んでいるのでは?
ぼぅっとする頭を雨彦の方に向けると、不本意だった、と書いてある顔がマスクで半分隠れている。半分だけしか見えない顔からそれを汲み取れるくらい、彼女は雨彦のことが好きなのだと自覚して、またぽろりと涙が零れる。寂しかっただろう、すまないな、と既にぬるくなりはじめた冷却シート越しに額を撫でてやりながら、雨彦はすっと目を細める。
「仲直りしようぜ、お前さん」
あと風邪治せよ、と優しく言われては、意地を張る理由がなくなってしまう。ありがとうとごめんなさい、漸く一言くらいなら声に出せそうになった彼女はどちらを先に言おうか逡巡して、涙を拭った。
迷った挙句、出てきたのは、掠れた声の「だいすき」だった。