@niziirononanika
名称:ラッセルの『幸福論』 Russell's “The Conquest of Happiness” 人間名:Ruth(ルート)
能力:自身を対象とした人物にとっての肉親であると思わせる。
解説:この報告書は彼が脱走時に語った彼自身の話と、私に蘇った正しい記憶から書き起こしています。
彼は小学三年生の男の子です。良く言えば温厚で、悪く言えば鈍感でした。動作が鈍く、不器用で、運動も苦手ですが、いつでも堂々としており、人の話を聞いて共感するのが得意で、人の良いところを見付けるのが得意で、場の空気を和やかにする雰囲気があります。
彼は研究所に連れられた時から既に、担当研究員である私の子供として周りの認識を書き換えていました。私自身を含めてです。当時から独り身であった私には、有りもしない亡くなった妻の記憶すら補填されました。そして当然のように、私は彼を連れ帰ったのです。彼を人間が収容することは不可能でしょう。誰も、自分の子供を収容室に閉じ込めたいとは思いません。
自宅における彼は特別なことのないただの子供でした。子育てをしたことがないため、本当になんの問題もない子供なのかはわかりません。誰も、他人の家にいるときの他人の子供と自分の家にいる自分の子供を比べられませんから。
私は、彼は学校に通っていると思っていました。なので彼が出掛けている間、私は今まで通りに職務を続けられました。しかし二回ほど、彼が原因で休んだことがあります。はしゃぎすぎた子供によくあるように、連休明けの彼が熱を出した時です。あの時私は研究所内で大きなプロジェクトに携わっていました。あの二回の欠席でプロジェクトに与えた影響は多大なものでしょう。その点で彼は確かに、私と研究所の行いを妨害しました。熱で真っ赤な顔をした彼は、仕事に行かない私を見て確かに笑っていました。「五連休になったね」と笑って言って、大好きな唐揚げも喉を通らない程に辛いだろうにそれを隠して、私の手を握って嬉しそうにしてくれたのです。小さく熱い手を握り返した私の心の中は確かに異常でした。世界的な技術の進展に関わる私の職務ではなく、今目の前にいる非力な子供の心配と、彼のそばに居るという選択を行った自分への安堵で満ちていたのですから。
彼は私の相談事によく付き合ってくれました。この件について誓って言いますが、研究所の機密を彼に話したことはありません。小学生の彼に難しすぎる話をするつもりはありませんし、何より自分の子供を愚痴や不満の捌け口にするなんてありえません。ただ、残業が多くなって家にいる時間が減った時期には、その謝罪や、弱音をいくつか吐き出しました。その都度彼は私を励まし、私の仕事への熱意を尊敬し、そして世の中には自分の力でどうしようもないことがあるのだと諭しました。私はそれらの言葉に救われていました。彼のために生きようと思えました。
研究所において、私の振る舞いが大きく変わったことにお気付きでしょうか。私は■■■■研究員に指摘されて初めて気が付きました。私には野心が消え、けれど向上心のみが残りました。他者を出し抜こうという思想や焦りなどどこかへ立ち去ったのです。けれど研究に対する意欲が消えたのではありません。より良い技術、より良い社会を作り出し、あの子がなんの心配もなく過ごせる世の中を迎えたいと思うようになりました。その為には他者と協力するべきだと、私は自然に行動していました。協力的になった私に、研究所の仲間たちもまた応えてくれました。全ての歯車が噛み合ったようなのです。そういえば、私に息子など居ないと指摘したのも■■■■研究員でした。あの子が研究所に訪れた時、あの場に居なかったからでしょう。
彼は私にとって良い子供でした。私は彼にとって良い父で居られました。お父さんと別れ際に呼んでくれたことが、逃げ出すための時間稼ぎでも、職務を忘れた私への侮辱でもなく、共に過ごした日々への感謝であると思っています。彼は私に誇りを与えたのです。
対応:現在脱走中。
発見経緯:■■県■■■市にて「娘の家に知らない男の子が住んでいる」との通報があり、保護される。その後の検査で哲学人の可能性が高いとして、哲学人名を判定するため研究所に送られた。