@toasdm
加湿器の白い霧が潤せないほどに、この時期の事務所は乾燥している。実は霧を出してると見せかけて湿気を略奪してるんじゃないの?と無実の加湿器をぎろりと睨みつけながら、彼女はリップクリームを塗っていた。
「プロデューサーちゃん、いる?」
「あ、翔真さん! お疲れ様です!」
ぱぁっと明るくなった彼女の現金な反応に、翔真はたおやかに笑う。そんな嬉しそうにされたんじゃますますアンタから目が離せなくなっちまうよ、と人目がないのをいいことに、翔真は駆け寄ってきた彼女の前で両腕を広げた。
「ん、よっ!」
「っとお!」
甘えておいてどうかとは思うが、ばっと飛びつく彼女を危うげなく受け止めた翔真が、こんな風に甘えてくる恋人を好きなようにさせるという印象は、彼女は最初持っていなかった。もっと大人で、余裕があって、浮ついたところのないしっとりとした穏やかな恋愛をするのだろうと思っていたところに、こんな風に、じゃれつかれても飛びつかれてもたしなめもしない翔真の反応は、彼女にとっては意外以外のなにものでもなかった。
「はぁ……アンタも子供ねェ」
「んっふふふ……嫌いですか?」
「んー、そうねぇ……」
考えるような素振りは一応見せはするものの、翔真の答えはいつだって決まっている。飛びついてきた彼女をしっかり抱き上げて額をコツンとあわせて目を細め、幸せそうに翔真は言うのだ。
「素直なアンタは好きよ」
「えへ……」
にへら、と笑う彼女の、笑ったときに出るえくぼも目尻に寄るしわも、翔真は心底大好きだ。ああ可愛い、とぬいぐるみでも抱きしめるかのようにぎゅうっと愛しい腕で抱き寄せて、翔真は彼女をゆっくりと着地させる。
「んっ……」
着地と共ににやけた彼女の一瞬の動きの鈍りを、翔真は見逃さなかった。どうしたんだい、と顔を近づけると彼女は口元を隠してから目線を泳がせて、実は、と僅かに血の滲んだ唇を翔真に見せた。
「あら、荒れてるわねぇ……」
「うぅ……全部乾燥のせいです」
さっき塗ったばっかりなんですけど、とリップクリームを取り出すと、彼女は傷口を広げないように乾いた唇に慎重に塗り広げる。リップクリームを一目みて、翔真はおや、と声をあげた。
「それ、結構お高いやつじゃないか」
「はい……桁がひとつ違うやつなんですけど……」
効果薄いのかなぁ、ともごもご言う彼女は、唇の手入れを怠っている、と翔真に叱られるのではないかとばつの悪そうな顔で上目遣いに翔真を見上げた。
「アンタ女の子なんだから」
あ、やっぱり叱られコースだ、とシュンとした彼女の頬をふわりと包むと、翔真はぐい、と彼女の顔を自分の方へと向けさせた。
「外っ面ばっかり手入れしてないで、中からもちゃんと補っておやんなさいな」
「ふへ……?」
中からですか、ときょとんとする彼女の瞳をじっと覗き込んで、翔真は続ける。
「ちゃんと水も飲んでるのかい?」
「……あ、そういう?」
そうそう、と花がほころぶようにふわっと微笑む翔真は、ささくれだって皮のめくれかけた彼女の唇を親指で優しく撫でてやる。
「内側からも水気をやって、乾燥しないようにリップクリームでフタをしておやんなさいな。どっちか片方だけじゃ足りないわよ?」
「はぁい……」
それは盲点だったなぁ、としょげた彼女の頬を包んだまま、翔真は目を閉じ、ゆっくりと彼女の唇の端にキスをする。
「んぅ……っ?!」
唇の感触と、翔真の香りとがすぐそばにあって、胸と頭がいっぱいになる。ふぁ、と離れた後もまだ残る翔真の存在感に、頭が全体、ぼんやりする。
「とっととキレイに整えて、早くこっちにもさせとくれよ」
潤んで揺れた翔真の瞳に映った自分の顔の、熱に浮かされたような表情が恥ずかしい。こくりと頷くだけで精一杯の彼女にほら飲みな、とバッグの中からミネラルウォーターを取り出して手渡す。ただそれだけの動作は、直前の一言のせいですっかり、下心ありきのような動作になってしまった。
彼女が飲みづらそうにしているのを、アタシもついつい欲張っちまったかい、とまんざらでもない顔をして、翔真はにんまり眺めていた。