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地獄鮫がポセイドン王国の遺跡へ行く話

全体公開 遊戯王ZEXAL(Pixiv未UP) 8 41618文字
2020-03-20 12:47:45

【遺跡編】開幕。加筆修正24.5.14
ようこそレディスノーホワイト(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9794526)と繋がってる。

挿絵は動物さん、素敵マンガ化はえいさんより
ボイスドラマ企画進行中

<prologue>

すべては、九十九一馬が送ってきた、ある調査写真から始まった。


「また面倒なものを」
カイトは眉間を押さえ、頭痛を堪えながら、クリスの前で渋面を作った。
「クリス、解析結果は」
「間違いないだろう」
「やはりそうか。次から次へと、遊馬の父親はいったいどこから情報を仕入れてくるんだ」

送られた資料をテーブルにザッと広げたカイトは、キーボードを叩いて画面を展開する。
「俺は正直、トロンやバリアンどもより、この男の先読みの方が恐ろしい」
宙に展開するグラフと波形、数値が高率の一致を示して点滅した。

────the catapleptic enegy coinsides with 92% of his personal date.
(観測されたエネルギー体は【彼】のデータに92%一致します)


「行くぞオービタル。……解析が終わるまで休めないと思え」
「うう、オボミさんと我が子が待つホームに帰りたいデアリマス」
「スクラップにされたくなければ、ごちゃごちゃ言わず手を動かせ」

カイトは背を向け、深くため息を吐いた。

「また、厄介な事になったな」


研究室のコンピューターのAIが無機質に点滅し、合成音声を読み上げた。


pasonal date opend:name [Ryoga Kamisiro]
(該当人物データを起動します。人名【神代凌牙】)



【ベネトナシュの遺跡】





March 28, 20×× at 07:03 AM EDT

異世界の境界に生じる地場の歪みを観測。
エーゲ海南部、ナンバー1~23の推定ポイントにリンクを認めます。
認証。システムグリーン。23次元方程式に基づいて測定を行います。-----解析完了。ログ86452poitsに一致。

画像を取得。損傷データの復元を行います。読み込み率67...82...91...clear.
翻訳システムを展開。損傷率8%、翻訳可能、表示します。

《この扉を開く者、力を得る代わりに、一番大切なものを失う》




夕焼けが照らす、学校帰りの放課後。
帰宅中の凌牙のDゲイザーを鳴らした珍しい着信の主は、すがすがしいほど人の話を聞かなかった。

「研究室に来い。その後の判断は好きにしろ」
要件も告げず時刻だけ一方的に言い捨て、カイトは一瞬で電話を切った。
物言わぬDゲイザーを手に、凌牙は通学路の真ん中で思わず「はぁ!?」と大声で叫んだ。

「なんなんだあいつは! イラッと来るぜ! あいつ、月から帰ってから余計オレサマに拍車かかってねえか!?」

文句と悪態を吐き出しながら、結局、凌牙は指示通りにハートの塔に足を向けた。

態度に難はあるが、天城カイトという男は無意味なことはしない。凌牙はそう知っている。
遊馬も誰も通さず、わざわざ滅多に連絡しない凌牙に、話を付けに来たカイト。
その行動は、無言で厄介事の気配を連れている。

だから凌牙は、璃緒にも告げず。
指定された真夜中に、このハートの塔にやって来た。

月が高い。
オボットに案内されて塔をエレベーターで登っていく。凌牙はデッキを念入りに確認した。
足元が浮動する感覚。扉が開いて凌牙を招き入れる。

案内された部屋は暗く、呼び出した当人の姿もない。

茶菓子が用意されているなどと思ってはいなかったが、呼び付けておいて無人とは。
凌牙は眉をひそめたが、ここに案内されるまでの経路が妙に人目をはばかるようだったのを思い、警戒に視線を鋭くした。

カイトは合理的な男だ。
何か、この薄暗い部屋に案内された理由があるはず。

凌牙は二度三度またたいた。
目が慣れて、薄闇にテーブルが浮かび上がる。
研究資料と思わしき写真が乱雑に広げられ、奥の部屋に通じる扉がわずかに明かりをこぼしていた。言い争うような声がする。

疑惑は確信になり、凌牙は扉に忍び寄って耳をそばだてた。
扉の隙間から差し込む光が、テーブルの上に広げられた写真を、闇からぼんやり浮かび上がらせる。
そこには。
(壁、画?)

『何度も言ってんだろッ‼︎』

写真の壁画に気を取られた一瞬だった。
つんざくような怒鳴り声が、ぎょっとした凌牙の耳を貫く。声はよく知る男のものだった。

(Ⅳ? 何を)

『凌牙も璃緒もまだ学校戻ったばっかだぞ! 水差すような時期じゃねえって何度言やぁ分かるんだクソ兄貴!』

凌牙は硬直した。

「な、」

思わず零した驚きは、分厚いドアに隔てられ、幸いにも向こう側には届かなかった。
覗き込んだ先で、モニター画面に大写しになったⅣの顔が怒りで吊りあがっていた。
それに相対する銀髪の背中が、扉の隙間から見えた。

『このまま黙っておくべきだ!』
「そうは行かない。彼らには知る権利がある。カイトも同意見だ。何かあってからでは遅い」
『そりゃこっちの台詞だ! 何かあったらどうすんだよ!? 特に妹の方はいっぺん意識不明になってんだろうが! ハッキリしたことが判るまで行くのは危険だ!』
「そうは言っていない。知らせるだけだ」
『知らせるだけで済むかよ! あいつら飛び出していくに決まってる!』
「トーマス。私とて心苦しい。だが、事態はもう動き出している。少しでも早く対策を練った方がいい。彼らの意見が不可欠だ。後手に回れば、それだけ打てる手も少なくなる。判っているだろう、トーマス」
『うるせえっ! まだ決まった訳じゃねえだろ!』
……いずれ、分かることだぞ」
『だからッ! どうせ分かるなら、あと少しだけでもッ、静かに生活させてやれって何度言ったらッ!』

「俺が、なんだって?」

ギョッとしたⅣと目が合った。
鬼の如く目を吊り上げた凌牙は、怒気を燻らせ、殺気立った形相で二人を睨みつけた。
『凌牙!? 何でそこに凌牙が居るんだ!?』
信じられないものを見る目で愕然としたⅣは、次の瞬間、一転して視線を走らせた。睨み付けた視線の先で、いつの間にか部屋に入って来ていたカイトが、無言で壁に背を預けていた。
……てめえの差し金か、カイト!』

怨むようなⅣの視線にも、腕を組んだカイトは目を閉じたまま意に介さなかった。
「いい加減、連日の兄弟喧嘩にも飽きた」
『てめぇ……!』
「悔しいか? だが貴様に配慮してやる理由が無いな」

鼻を鳴らしたカイトに、画面を割りそうな勢いで強烈な視線をぶつけたⅣは、しかし画面ごしでは何もできず臍を噛んだ。

「第一、俺はキサマのヌルい意見に賛同する気は毛頭ない」
「カイト、私は何もそこまでやれとは言ってないぞ……
「クリス、あんたのやり方は手ぬるい」
カイトはピシャリと言い放った。
「神代凌牙という男は、そんなヤワではない。本人のあずかり知らぬところで物事が決まるのは、見ていて気分が良いものではないのでな。自分で決めれば良い」
カイトが顎をしゃくった。
「そうだろう?」

カイトが水を向けた先。
一切の誤魔化しを許さない眼光は、十四歳には相応しくない重厚さで、場をぶわりと席巻した。
睨み付けられた先で、重しを与えられたようにⅣが身を引いた。
「何を隠してる。吐け」
クリスは頭痛がするように額を抑えた。
Ⅳはたじろいて画面越しにわずかに身を引くと、「あー!」とカエルが潰れたような声を出して天を仰いだ。
『だから嫌だったんだ、ちくしょう!』


◆ ◆ ◆



「ふた月ほど前だ。旅先の一馬さんから、調査録と写真が送られて来た」

クリスは、凌牙に淡々と告げた。
広げた海流図に、ペンでバツ印が付けられる。

「地図に無い遺跡だ。この数ヶ月で新たに衛星に映った。海流の関係で、人の乗る船が辿り着けたのはほんの数日前だったということだ。そこに一馬さんも乗っていた」

地図に無い、新しい遺跡の出現。
それを聞き、凌牙はぐっと眉根を寄せた。
ナンバーズを巡って、七皇それぞれの遺跡を歩いた記憶はまだ新しい。
「どこだ、その遺跡ってのは」
「エーゲ海。……記録上では、かつて海の王国があったとされている」

その王国の名は。


凌牙はハッキリと顔を歪めた。
覚えがあるどころの騒ぎではない。
「俺の国じゃねえか」

よくもまあ、これで隠し通そうなどと思ったものだ。
いずれ凌牙の耳に入るのは必至だっただろう。
凌牙は一層、Ⅳを非難で睨め付けた。Ⅳは凌牙の視線を受けて舌打ちを吐いた。

「そして先日、現地の一馬さんから、最奥の壁画に辿り着いたと報告があった。これがその写真だ」

クリスが提示した壁画。

王だ。王が棺に花を捧げている。
誰かの死を嘆くように民がひれ伏している。

そして、その中央には。

凌牙は顔をしかめた。
描かれた壁画は、自分で見ても、凌牙にあまりに似すぎていた。

「貴様らと関わっていると、本当にあらゆることが非常識極まりないな。数千年前の地質から、見覚えのある人相書きが出てきた時の気持ちが分かるか? まともに考えるのがバカらしくなってくる」

カイトが、徹夜疲れの滲む顔で、そう嘆息した。厄介極まりないとため息が無言で語っていた。カイトは続けた。

「解析結果は他の遺跡と同じだ。国の行く末と、王の死の顛末が描かれている。そして、王が潜ったとされる【扉】について」
……扉だと?」
「生贄になった者たちが逝った、恐らくバリアン世界へ通じる【扉】について、だ」

凌牙は顔色を変えた。クリスが淡々と続けた。

「太古の石板文字は、警句だったよ。どれも一つの事象と王を指していた。『ソレ』は酷く恐ろしい化け物のようであり、避けられない災害のようでもあった。警句はこうだ」


《扉を開く者、力を得る代わりに、一番大切なものを失う》


遊馬は、この【扉】の夢を幾度となく見ていた。





「凌牙、今回の出来事は妙にきな臭い。解析が進むまで慎重に事を運ぼうと思っていたのは事実だ。だから、あまりアレを責めないでやってくれ」

潜水艇を遠隔操作するクリスが、凌牙にそう告げたのは、出立の直前だった。
「意外だな。あんたでもそうやって弟は庇うのか」
凌牙は皮肉を込めて笑い飛ばした。

そのⅣは今、潜水艇の計器を睨みながら、ひたすらギスギスした空気を送ってきていた。
今、この潜水艇はⅣと凌牙だけが乗っている。

「いいか。今回の調査は、あくまで補助だ。無茶はすんな」

凌牙は奥に陣取って「フン」と腕を組んでそっぽを向いた。
「てめえに指図されるいわれはねえな」
凌牙はピシャリとⅣの言葉を跳ね除けた。鼻白んだⅣを他所に、凌牙は席を立った。
「俺は寝る。着くまで起こすな」
「ッオイ凌牙! 話はまだ!」
バタン。にべにもなく閉じられた扉。
がしゃりと錠の落ちる音を聞きながら、Ⅳは歯噛みした。
……くっそ!」
ガンッ、と壁を殴り付ける。

潜水艇は、遠隔操作で兄が操作しているが、最低限の細かい作業は計器を見てⅣが確認せねばならない。持ち場は離れられなかった。
カツカツカツと、Ⅳは指先を無意味に鳴らした。

嫌な想像ばかりが頭を巡る。
そもそも『遺跡調査』などというものが、Ⅳは大嫌いだった。憎んでいると言い換えてもいいほどだ。

家族が崩壊した日。
父は遺跡へ行ったまま帰ってこなかった。
あれも、こんな嫌味なほど晴れた日だった。
……クソッタレ!」
ガッ、と床を蹴り飛ばした。
普段なら兄か弟がたしなめるだろうが、どちらも不在の今、Ⅳを咎める者はいなかった。時化のように荒れた内心に反して、外は憎らしいほどの凪だった。

思い通りにならない現実にイラついて、Ⅳは計器を睨んだまま親指の爪を噛んだ。

いつか凌牙の耳に入るのは分かっていた。だが。

「ちくしょう、なんで今さら出てきやがった。遺跡なら遺跡らしく、ずっと海の底に沈んでりゃ良かったんだ」





《この扉を開く者、力を得る代わりに、一番大切なものを失う》

 ────扉を開くのは、誰?


◆ ◆ ◆


カツリ、と石を踏む感覚。
潜水艇から凌牙はそこへ降り立った。

濃く残る磯の匂い。海水に浸かったままの石壁。
海藻とフジツボと貝の残骸を随所にべっとり貼り付けた遺跡は、降り立った瞬間、心臓を持って行かれるような懐かしさを凌牙に与えた。

(ああ)

凌牙は嘆いた。
ここに帰って来てしまった。二度と戻ることは無いと思っていたのに。
前世という名の過去の残骸を、色濃く残す滅びた国跡に。

「凌牙ッ! 勝手に先に行くんじゃねえよ!」
苛立ちの声は、潜水艇の出入り口のハンドルを入念に閉じてから遺跡へ飛び降りたⅣのものだ。

急いで凌牙の隣に並び立ったⅣは、焦ったように表情を切迫させている。それが酷く気障りで、凌牙はあからさまな態度で鼻を鳴らして目をそむけた。
Ⅳはそんな態度に苛立ったように舌打ちしたが、ぐっと堪えたように声を平坦にして告げた。
「勝手な行動すんな、ただでさえイレギュラーなんだ」
「うるせえ、俺の勝手だ」
「凌牙っ!」
Ⅳの非難を押し退けるように前に出た。凌牙はいらだちをそのまま吐き捨てる。
「ついてくると言ったのはてめえだ。嫌ならさっと帰るんだな」
「このっ!」
凌牙の傍若無人な態度に、Ⅳはいきり立つ。しかし結局、歯を噛み締めて文句を呑み込んだ。

移動中、潜水艦の中でもずっとこの空気だった。徹底的に拒絶する凌牙の態度はⅣの気に触ったはずだし、凌牙は知っていてあえて煽った。
だが、凌牙の挑発にどれだけ腹を据えかねても、Ⅳは絶対に引かない。
凌牙がⅣを突き放したがっているのに気付かれている。凌牙は舌打ちした。思い通りにならない。

凌牙は、できれば今からでも、Ⅳを引き返させたかった。Ⅳの堪忍袋の尾が切れて、見捨てて引き返す気を起こせばそれが一番良かった。

Ⅳは知らないが、ここにはナッシュが遺して来てしまった物が眠っている。
自分がまだ正真正銘の人間だった最期に、遺した物が。

凌牙は舌打ちして、Ⅳの静止を振り切って前に進み出た。
Ⅳが苛立ちながら凌牙を引き止めるが、聞かない。
Ⅳは「くそ!」と悪態を付いて壁を蹴りつけると、凌牙の後を追った。ギスギスした空気はずっと尾を引いたままだった。


複雑な遺跡を、凌牙はすいすいと、まるで我が家のように足を運ぶ。凌牙の背中を睨んだまま、Ⅳはついて行った。
Ⅳが苛立つ内心のまま前に出ようとしたが、凌牙が「待てよ」と瓦礫の破片を前へ蹴り上げた。

途端、ガラリと音を立てて石畳が動いた。

瞬時に飛び出した槍に、Ⅳは顔を青くした。
凌牙が石を投げなければ、不用意に踏み込んだⅣは今頃串刺しだ。

「余計なモン触んじゃねえ。俺の前に出んな。頭と胴体泣き別れになりたくなきゃあ、な」
シャレにならない。足元に突き刺さった鋭利な飛び矢に、Ⅳはぞっと肝が冷えた。
「凌牙、てめえ何でそんな平気で……
「俺はここの『鍵』を知ってる。歩くには法則があるんだ。それさえ外れなきゃ、庭を歩くのと同じだ」

この遺跡は、俺を拒まねえよ。
そう言葉を落とした凌牙の声は、望郷にまみれた深い哀しみを帯びていた。
目の当たりにする深い嘆きに、Ⅳは息を止めた。

「凌牙……
「拒むわけがねえ。この遺跡は、王の帰還を待ってたんだ」

ぼそりと、呟いた凌牙の声は、酷く沈鬱だった。




【遺跡の最奥で】

「遊馬の親父は、よっぽど腕が良いらしいな。鍵も知らずに仕掛けも罠もかいくぐって、この最深部まで辿り着くなんざ」
凌牙は、そこに在った覇者のコインを拾い上げた。

貴重なアストライトの塊を、こうして世界の各地にばら撒く意図は読めない。
だが、恐らく、この先に起こる『何か』を知っていて、これを必要とする人間を呼び集めるためではないかと推測できた。
現にこうして、凌牙はここに呼び寄せられてしまった。二度と、永久に足を踏むことは無いと思っていた残骸に。
「もっとも、さすがにこの碑文までは読み解けなかったらしいが」

九十九一馬。数年もアストラル世界に身を置いていた稀有な人間。
聞けばエリファスすらも欺いたというその男は、凌牙と違って正真正銘の人間のはずだが、未だ読み切れぬ底知れなさがある。この遺跡の秘密も、一体どこまで掴んでいるのか。
「なぁ、凌牙」
覇者のコインを手に、石碑を見つめる凌牙の目は、ここではない遠くを見るようで、Ⅳは口を挟むべきかずいぶん迷ったが、結局、遠慮がちに尋ねた。
「何が書いてあるんだ」
「俺の死後のこと」
ぎょっと目を剥いたⅣの前で、凌牙は淡々と揺るがない。

「語り継がれている。俺の、かつての皇の死に際が」



いにしえの海の国。連合国を率いた海軍の王。
ナッシュ王、と仰がれた男に仕えていた姫巫女。隣国との戦。メラグの犠牲。ベクターを追った王と、その王が掴んだ、惨めな末路。


「この扉を開く者は新たな力を得る。ただし、その者は代償に、最も大事なものを失う。ベクターを討った いくさから、夜ごと夢を見るようになった。扉の夢だ」


びっしり文様で埋められた壁画には、無力だったナッシュの罪が、数千年を越えて刻まれ続けていた。

「無力は罪だ。何千の犠牲を出してから、俺はようやく罪を知った。俺は門を叩いた。『一番大事なもの』を引き換えに」

ぞわ、とⅣの背中が泡立った。

「いったい、何を」
「妹も、友も、民も失った後だった。俺には何も残っていなかった。自分自身以外は」


凌牙が初めて語る、『ナッシュ王』の末路だった。


「生きたまま、扉をくぐった。他のヤツらと違って、俺は生きながらにして、バリアンになったんだ」



凌牙は、闇をたたえた瞳で、うろりと振り返った。


「Dr.フェイカーは、ジャングルの奥地で、これと同じ物を見つけたんだろうな。Ⅳ、分かるか。コイツが、てめえの親父をあんな姿にした呪われた祭壇と同じモンだよ」

ぞわりと
怒りと、不気味さが反射的に湧き上がった。

握った拳が震えて
制御不能の感情を、必死に抑え込んだ。

その傍らで
凌牙は、薄く笑った。


そのらしくない笑みに
Ⅳはぞわりと背筋が冷えた。
「凌、牙?」
「なんだ、まだ気付かねえのか」
「凌、」

「忘れたのか、こいつがどういう代物か」

暗い目で口角を吊り上げた凌牙に
Ⅳは訳の分からぬまま、たじろいて足を引いた。

「なあ、こいつは、人間を」

何度も逃げるチャンスをやったのに。
お前が悪いんだぜ、と。

「生け贄に、異世界の扉を開く」



ぞわっ


凌牙のねぶるような視線に絡められて
Ⅳは身動ぎもできなくなった。
気圧される。凌牙の纏う空気が、どろりと濃くなる。

「なあ、俺が、本当はお前を憎んでるとしたら」

カツカツ
石畳を歩いて、凌牙は、
ゆっくりと、迫る

「璃緒に消えない火傷を刻んだお前を。俺から家族も、デュエルも、誇りすら奪ったお前を。俺を蹴落としてチャンピオンとして在り続けるお前を」

背が壁に付いて、もう逃げられない。

「俺たち兄妹の運命を歪めて、バリアンの記憶を思い出させた、最初の始まりを」


どろりとあふれた黒い気配に
身動ぎも出来ずに


「腹の底で ずっと 憎んでいたなら」


凌牙が伸ばす手のひらが
真っ青な顔をしたⅣの首筋に迫る


「お前さえいなければ、俺は普通の人間でいられたと、ずっと機会を伺っていたとしたら」



ひたり。凌牙の手のひらが
Ⅳの頚動脈に触れた。



「なあ、Ⅳ お前、俺に殺されるか?」




爪の先まで縛る、本物の殺気に
息もできず、迫った青い瞳を見つめ返した。
凌牙の瞳には、何もない。底なし沼のような青い暗闇がぽっかり口を開けていた。

首にひたりと手を触れられ、仰け反ったままぶるりと震えたⅣは、口から漏れそうになる声を、歯を食いしばって耐えた。
ごくりと生唾を飲み込んで、腹に力を込める。
見つめ返した虚ろの青が、嘲笑に歪んだ。

「抵抗しないのか?」
「理由が、無い」

「へえ、素直に殺されるってのか」
「違う、凌牙、」



「オレが、お前を憎む理由がない。凌牙。オレはお前を信じている」






固い意志で、返された言葉に。
凌牙は黙りこくった。

瞳の闇を見つめ返して、Ⅳは首に触れられたまま、永遠にも思える時間を待った。
凌牙は、不意にうろりと虚ろにⅣを見つめ返して、触れた親指を、ぐっとⅣの喉に食い込ませた。

「ぐ、」
…………

ゆっくりと、静かに食い込む指

見つめ返す瞳から、友を信じる光は消えず
されるがまま、凌牙を見つめ返したⅣに

凌牙は、目の虚ろをふっと眉を下げて掻き消して、心底困ったように、泣き笑った。
「これでもだめか」

パッと手を離した凌牙に、Ⅳはがくんと膝を付いた。
「げほ、ごほッ」
むせ込んだⅣは、しかしすぐ呼吸を取り戻した。最後まで、深く力は入っていなかったのだ。
それでも生理的に出た涙を目尻に浮かべながら、Ⅳは座り込んだ。戸惑うⅣが見上げた凌牙の顔は、酷く哀しげに歪んでいた。
「凌、牙
「Ⅳお前、いったいどうすれば俺を見限るんだ。俺はもうてめえの死に顔を見たくねえ」

Ⅳはひゅ、と息を止めた。
凌牙は諦めたようにかくんと顎を落としたかと思うと、呆然と見上げるⅣの腕を取って、ぐっと引き上げた。
凌牙に手を貸され、立ち上がらされたⅣは、されるがまま白い裾を凌牙に軽く叩かれて埃を丁寧に落とされる。

「虎の子の切り札まで引っ張り出したってのに、これでも落ちねえのか。参ったな。もう打つ手がねえ」

凌牙の瞳が無言で謝るようで、Ⅳは口を開く事ができず言葉を失ったままだった。
「Ⅳ、お前は人間だ。人間なんだよ、バリアンもアストラル世界も関係ねえ。てめえの運命の糸はとっくに切れてる。残ってんのはもう、俺との繋がりだけだ」
「凌牙、おまえ」
「Ⅳ、てめえは巻き込まれたんだ。バリアンとアストラル世界を巡る古い戦いに、何の関わりも無く生きるはずだった。この戦いに巻き込んだのは、俺だ。俺なんだ。なのに俺がいる限り、お前はまだ戦う」

ひゅ、と息が止まった。失敗したように真意を明かした凌牙の顔は、憎まれたかったのに憎んでもらえなかったような、酷く歪な泣き笑いだった。
「馬鹿なヤツ。ここで俺を見限っておけば、てめえはこの先いくらでも『普通』に戻れたのに」
凌牙の瞳は乾き切っていて、泣き笑いのように見えたのは錯覚だったようにも思えた。
「悪いな。俺は遺跡を調査する気なんてさらさらねえよ。俺は、壊しに来たんだ。この場所を、この場所に残った、門を」

ざらり、と壁画に触れる。
壁画の中央には、【門】の絵が刻まれている。風化して一部が欠けているが、凌牙には読み解けた。これは、解析されれば第二のDr.フェイカーを生みかねない。
人を生贄に異世界の扉を開く。誇張でも何でもない。
これは、この世にあってはならない。

「これは人の世に不要のものだ。人目に触れる前に、俺が壊す。この遺跡と共に」
それが、俺の果たすべき責任。
そう言い切った凌牙の背中に、Ⅳは一瞬、はためく王のマントの幻を空目した。
それが、凌牙の背負う因果と十字架に見えて、Ⅳは幻を掻き消すように首を振った。

「止め方、わかるのか」
「わかる。ここに書いてあるのは古代文字だ。解読するまでもねえ。全部読める」

俺がかつて、慣れ親しんだ字だ。

そう言って、凌牙は遺跡の壁に、切なさを持って触れた。

「水を掻き出す装置 しかけが動いてるんだ。ただのカラクリじゃねえ、奥に装置の核になる石板があるんだ。そいつを壊せば、この遺跡は再び海に沈む」

それで、終わりだ。

……わかった。一度出るぞ。兄貴に連絡を入れて、潜水艇を近くに寄せてから、」

そう言ってⅣは、凌牙の決定に口を出すことなく、腕の通信機を取り出してスイッチを入れようとした。

その時だった。



カシャン

Ⅳが手にしていた計測器が、あっけなく地に落ちる音がした。
凌牙が振り返った時、Ⅳの背後の遺跡の壁が
ぐにゃりと歪んだ。

音もなくⅣが一瞬でそこに吸い込まれ、
一瞬の驚愕の表情と共に
叫ぶ間もなく、Ⅳが壁の中へ
吸い込まれて、消えた。

「────ッ!? Ⅳっ!!」

凌牙が伸ばした指は空を掻いた。
ドン、と付いた両手は固い石壁に当たった。奥に吸い込まれたはずのⅣは影も形も無かった。
「Ⅳッ!? オイ、Ⅳーッ!」
拳で殴りつけた壁から返答はない。

Ⅳは、一瞬にして
その場から消えてしまった。

「なんだ、何が起こったッ! いったい、どこへ消えたッ⁉︎ Ⅳ、返事しろっ、Ⅳーーッ‼︎」


やられた。最初に手を出してくるとしたら、てっきり自分だと思い込んでいた。
宿命は再び凌牙に牙を剥いた。しかし、今度はⅣを巻き込んで。

「くそっ!!」

凌牙はⅣの消えた遺跡を走った。
最悪の状況を引き当ててしまった。これを避けたくて慣れない芝居まで打って遠ざけようとしたのに、結局自分がⅣを巻き込んだ。
「いつもそうだ、ちくしょう!」
遺跡で璃緒が意識不明になった時も、火事に巻かれた時も、過去でベクターと相対して民が犠牲になったあの時だって。

何もかも、凌牙が標的だった。

凌牙を狙ったベクターは言った。
なぜ周りを巻き込むんだと嘆いたナッシュに、何を当たり前のことをと言わんばかりに平然と、甘さに唾棄して言い捨てたのだ。
『それがてめえの弱点だからだよ』

「俺を狙え!! 運命は甘んじて受けてやる、だからッ!」

シンと静まり返った遺跡に、声は反響して虚しく響いた。凌牙の叫びを嘲笑うようだった。
「ッち、くしょおお」
行く手を阻む壁を越え、仕掛けから飛び出す矢をかわしながら強引に突破して、凌牙は吼えた。
「Ⅳッ!! 返事をしろ、フォォォォォォ!!」







Ⅳが最初に気付いたのは
頬を擦るザラついた砂の感触だった。

「う

うつ伏せの胸が、空気を求めて苦しい。
砂っぽい空気を吸い込んで、指先をたぐる。ジャリ、と砂が擦れた。
うろりと瞼を開くと、目の前には、砂利と。
青い海。

「あ? おれ、なに、を」


「動くな!!」

鋭い一喝と共に、頭に鈍い痛みが走った。
ぐ、と呻いてから、殴りつけられたのだ、と遅れて理解した。
「な

顔を上げた先には、槍で首を抑えつける兵士らしき男が二人。
男たちは、鬼のような形相で槍を持ち、ぐいと捻った。後ろ首が圧迫されて「ぐあ」と潰れたような声が出る。

(ぐっ何が)

なにが、起こった。

ガッと蹴りつけられて、首を押さえられたまま仰向けにされる。
呻きながら開いた目に飛び込んだ、青い空。

ようやく頭が覚醒し、ハッとした。

(屋、外!?)

おかしい。自分は遺跡に居たはずじゃなかったか。

そうだ。凌牙と一緒に、遺跡に潜っていたはずだ。
なのにそれが、何でこんな砂けむりの、憎らしいほどの晴天の下にいるんだ。

男たちは甲冑に身を包み、兵士のような出で立ちだった。よく見れば、周りにも大勢の人の気配がある。さらし者になっているのだ。

何だここは。何が起きているんだ。

「こやつが敵軍の舟跡に現れた、スパイと思わしき不審者です。王、検分を」

ハッとした。


強烈な予感が、脳裏によぎる。

人波が波立つように引いていき、群衆が二つに割れた。
人々は道を開け、一斉に跪く。その中から歩いてくるのは。

甲冑に身を包み、重厚な空気を纏いながら
頬にこびり付いた赤を拭おうともせず
真っ直ぐこちらを射抜く、青い瞳の

あまりに良く知る友の、知らない姿。

「この男か」

冷たい声。

「凌








世界を賭けた敵として
相対したあの時を思わせる、冷たい目。

無関心を宿した凍った目が、Ⅳを見下ろした。

「「ナッシュ王、処遇を」」

人々が唱和した。



友は、Ⅳを知らぬ目で見やり、裁定 しなさだめするように、無機質な視線だけを寄越した。


▼To be continued
[Ⅳ、ポセイドン王国タイムスリップ話]




そこは、戦火の未だ消えきらぬ
かつて『ポセイドン王国』と呼ばれた国。

(ここは、いったい)

そこまで考えた瞬間、目眩が襲った。
ぐにゃん。セカイが廻る。

(────っ!?)

強烈な眩暈に襲われて、目を開けていられない。
景色が歪む。友の顔が分からない。頭上から降る声だけが、かろうじて耳に届いた。

「牢に連れていけ」

(りょう

友の名は声にならないまま、眩暈に紛れて何も分からなくなった。


◇ ◇ ◇

遠くで、誰かが呼ぶ声。
意識がゆるやかに浮上した。聞き覚えのある、鈴を転がしたような女の声だった。

……璃、緒……?)

「異国のかた。目を覚まして」

パチ、と意識が今度こそ浮上した。

目覚めた場所は石牢だった。
異様に体が重い。手枷が嵌められているのか自由が効かない。

「あ……?」
「よかった。気が付きましたわ。あなた、五日も気を失ったままだったんですのよ?」

牢屋に不釣り合いな、純白の巫女衣装。
床に転がったⅣの側にしゃがみ込むように、彼女はコロコロと微笑んだ。

「璃……ッ!」

反射的に起き上がろうとして、ガッと頭が押さえ付けられる。
槍を持った門番が、Ⅳを睨んで押さえ付けた。
「メラグさま、お下がりください」
首筋に槍の刃がピタリと押し当てられる。
うなじにピリッと痛みが走って、じわりと血が滲むのを感じた。頸動脈のすぐ上。命の危機を感じて、体が動かなくなる。
…………
「およしなさい」
「ですがメラグさま! 邪神の手先とも知れぬ異国民ですぞ!」
「いいえ。むしろ加護を感じますわ。私たちの崇める海の神の」

呼ばれた名前に、Ⅳは瞠目した。

(今、メラグと言ったか? 璃緒じゃない? いや、だが『メラグ』は、璃緒 アイツの)

混乱の最中、巫女は微笑んでⅣの頬に触れた。
何の躊躇もなく十字傷を触られて、Ⅳはギョッとした。璃緒ならば絶対にしない仕草だった。

「貴方の パーは不思議ですのね。一目で分かる異国の民なのに、私たちと同じ神の加護がある」

目の淵をそっとなぞる、白い指。
その仕草は、そこに刻まれた何かをなぞるようで、Ⅳははたと思い至った。
(まさか、バリアンの紋章のこと言ってんのか? だが『同じ神』って────?)

疑問が一瞬浮かんだが、背中に回る指先に気を奪われる。

「メラグさま!」
「皇に許しは得ています。この辺りの海流は特殊ですから。異国民が船で流れ着くのは珍しくありません。わたくしの預かりに致します」

カシャン、と枷が外される。
Ⅳはのろのろと視線を上げた。

「あなた、名はなんと仰るの?」
混乱のまま答える。
……Ⅳ、だ……
「あら、ダメですわよ。本当の名前を仰って」

指先が唇に置かれる。
白い指先は、吸い付くように無防備にⅣの唇をなぞった。

「わたくしはこの国の巫女。偽りの名は分かります。信を得たいなら、名を」

璃緒に似た少女は美しく微笑む。
Ⅳは、頭がくらりと回るのを感じながら、無意識に答えていた。

……トーマス、アークライト……


ことり、と石の動く音がした。
見えない何かが、Ⅳの身をじわりと縛るのに、気付かないまま。


◇ ◇ ◇


「ずいぶん衰弱していたようだね」
次にのろのろと顔を上げた時には、Ⅳは清潔な布の上だった。
灰色の髪と目を持つ甲冑の男が、Ⅳの前でスラリと立っていた。
張り付いたように乾いた喉をこじ開けて、無意識に声が出る。
「ドル、ベ……?」
「おや、もう私の名を知っているのかい? ああ、メラグから聞いたのかな」

騎士は帯剣したまま簡素な壁に寄り掛かって、にこやかにⅣを見ていた。
「君が海岸に打ち上げられてから、今日で十日経っているよ。無理に動かない方がいい」
「おれ、は……?」
「キミは一目で分かる異国民だからね、奴隷場に売り払われる所だったんだ。覚えているかい?」
のろのろと首を横に振る。
体が酷く重くて、思考がまとまらない。
「奴隷売買は禁止されているが、ここ数年の戦で治安が悪くてね。我が友はそれを憂いていて……視察先で、たまたまキミを回収したんだ。表向きは捕虜ということになっているが、実態は他国との摩擦を避けるための保護だよ、安心してくれていい」

そうだっただろうか。思考に霧が掛かる。
目覚めるたびに、消耗が酷くなっているような気がした。
「キミの祖国からもし接触があれば、友好の意を示す捕虜交換に応じるつもりと聞いている。立場を弁えてくれれば、安全は保証するからゆっくり休むといい。何もないが、ここはキミの部屋だ」
「だから、か?」
衰弱から無意識に声が出た。Ⅳが帯剣を示唆していることに気付いて、ドルベは瞬いたあと苦笑した。
「抜かせないでくれると助かる」

Ⅳの意識は、また闇に呑まれていった。


◇ ◇ ◇

四度目に目覚める頃には、ここに来るまでの記憶が曖昧になっていた。
「高熱だったからね、無理もない」
石造りの簡素な部屋で、相変わらず壁に背を預けながら立つドルベがそう告げた。
気付けば、身にまとっているのは簡素な麻の服で、デッキどころか元の服すらⅣの手元には残されていなかった。
「オレの、服は」
「さあ、侍女が持っていったと思うが……すまないが恐らく返せない。この国であの衣装は異端すぎて、要らぬ摩擦を生むだろうから」
ドルベはそう困ったようにⅣに告げた。

Ⅳは起き上がって、自分の着ているものをマジマジと見つめた。

亜麻色の軽い麻の服。
麻を腰布で留めるだけの簡素な服だった。腰を留める布は酷く質素で、ざらついている。
(これが、この国の衣装なのか)
異国風の衣装に包まれていると、さらに現実感が失われていく気がした。
手当てされたのか、槍を当てられたうなじと腕には包帯が巻かれていた。

「キミの衣装はずいぶん上質だった。王族が着る物に劣らないほどだ。問いたいのだが、キミは何か由緒正しい立場だったのだろうか?」
「いや……
「そうか。ならばキミの国はずいぶん豊かなんだな」
恐らく監視のためにここにいるだろうに、ドルベはそれ以上詮索せず、むしろ気遣うように、石の壁に背中を預けて窓の外を見ていた。
窓ガラスなど存在しない、ただの石の四角い枠から、風が直接入り込んでいた。風の中に、優しい海の匂いがしていた。

「王の謁見まであと数日ある。起きれるなら、少し外を歩こうか」



庭では、子どもたちが走り回って遊んでいた。
草の上を無邪気にはしゃぐ幼子たちが、土の匂いをさせながら太陽の下で笑っていた。
現実感はあまりにも遠かった。

「キミと同じように王に保護された子たちだ。皆、戦火で焼け出されてしまってね」

ドルベが気遣ったように曖昧に微笑みながらそう告げて、Ⅳはいよいよ自分がどこで何をしているのか分からなくなってきた。

「おにいちゃん、あそぼ!」
人懐っこくⅣの腰元に懐いてきた緑の髪の小さな少女は、どこか璃緒の面影があった。

ぺたぺたと無邪気に肌を触られる。もともと人懐っこい子どもなのかもしれなかった。紅葉のような無垢な手が温かくて、とても幻には思えなくて、Ⅳに残った緊張を柔らかに解いていく。




「おにいちゃん、あのね、あのね、イリスとね、つかまえっこしよ!」
無邪気に笑った子供は草の匂いがした。太陽の下の生命の匂いだった。少女はⅣの手を引きながら、振り返って笑った。
「ミシェルも一緒にあそぼ!」
後ろからおずおずと顔を出した、ピンク色の頭の子ども。
少女に無邪気に手を引かれて、Ⅳは心がふわりと和らぐのを感じた。遠慮がちに顔を出した小さな男の子は弟の幼い頃に似ていて、Ⅳは微笑んで頭を撫でてやる。
「お前、名前は?」
「ミシェル
「そうか。オレの弟によく似てる」
弟によく似たピンク頭は頬を染めて、たどたどしく尋ねた。
「おにいちゃん、お名前、なんていうのですか?」
「Ⅳ……いや、トーマスだ」

ことり、とまた石が動く音がした。





?」
一瞬、感じた違和感は霧散する。

「トーマスさん、あそぼ」
遠慮がちに袖を引かれる。
弟によく似た顔がふにゃりと安心したように笑った。
その様子を、ドルベがじっと見ていることに気付いて、Ⅳは怪訝に振り返った。

ドルベは曖昧に微笑んだ。
「気にせず遊んでやってくれ」
Ⅳの知るドルベと違う甲冑姿。
少し滲む取れない血の匂い。戦の空気。

悪夢にしてはあまりにもリアルで、これが幻かタチの悪い現実か判断が付かない。
(ここは、本当に数千年前のエーゲ海なのか?)
考えようとすると目眩がした。くらりと思考にもやが掛かって、上手く考えられない。
(ここが、かつての凌牙の国なら、)

自分は、時を超えて、過去にいるのだろうか。

ここが、ポセイドン王国。
かつて、凌牙が生きて、死んだ国。






夢は、現実だと感じるほど
『戻れなく』なる。



◆ ◆ ◆


それから、Ⅳはたびたび広場で戦争孤児たちの相手をしてやるようになった。

特にイリスという緑髪の少女は、慕う「おーさま」の話をとにかくしたがったし、Ⅳの知らない『ナッシュ王』の話はひっきりなしに耳に入った。
子どもたちの話だけでは「すごい」とか「かっこいい」とか要領を得なかったが、周囲の話を総合すると、子どもだけでなく市井からも非常に慕われている様子だった。

この一帯の島々は、それぞれの小国に分かれ、長く水害や天災、戦争の憂き目に遭ってきて、奪い合いと小競り合いは絶えなかったそうだ。
それを、島々を渡って説得してまわり、ついに武力でない平定を成し遂げた賢君が、この『ポセイドン連合軍』の軍王である『ナッシュ王』だということだった。

(オレの知らない、アイツがここでは生きてる)

酷く複雑な思いだった。

誰が何と言おうと、アイツは神代凌牙だと。
Ⅳはその一念を貫き通してあの日デュエルに挑んだ。
だが、Ⅳはその信念が揺らぐのを感じた。ここには『神代凌牙』が居ない。

難しい顔をしているのに気付いたのか、ミシェルと名乗った子どもがⅣの膝におずおずと乗った。
「トーマスさん?」
慰めているつもりらしかった。心の機微に聡い所がやはり弟に似ていて、自然と頬が緩んだ。ぬくい子ども体温は、癒される。
「なんでもねえよ。それより、その他人行儀な呼び方をやめとくか。なあ?」
脇を掴んで肩に抱え上げる。びっくりしたような顔で、ピンク頭の子どもはたやすく肩車された。
「オレがここにいる間は、兄貴だと思ってもいいぜ」
ヒスイ色の瞳が輝いて、子どもらしくワクワクときらめいた。
「トーマスお兄ちゃん?」
「おうよ」
「わぁっ」
Ⅳの肩の上で、子どもがキラキラ嬉しそうにはしゃいで笑った。

春の陽気に包まれた、柔らかな時間だった。

◇ ◇ ◇


「謁見は中止だ」
ドルベが広場を訪れて、まなじり鋭くそう言ったので、Ⅳは顔を上げた。

あと数日で王が戻るので、その際に正式な処遇を言い渡されるだろう、と前もって言われていた。
ドルベは常にⅣを見張っていたし、時折別の人間に言伝ている様子もあったから、恐らくⅣの挙動はドルベを通してナッシュまで筒抜けに報告されていたのではないかと思う。ドルベはその様子を、あまり隠そうとはしていなかった。

今日はついにその謁見の日のはずだった。
にも関わらず、急に言い渡された いとまに、Ⅳは困惑した。
「なんで」
「それは……
ドルベが言葉を濁した時、わぁああ!と正門の方が喝采に湧いた。

Ⅳは、予感がして駆け出して、城壁から頭を出して正門を見下ろした。
王の凱旋だった。
軍が馬と荷を積み、正門へと入っていく。
中心で先陣を切る王は、────ナッシュ王は。
鎧にこびり付いた返り血をいまだ拭うこともなく
一見すれば堂々と王の風格を以って
けれど、Ⅳから見ればあまりに瞳に深い闇を称えて、凱旋していた。

「──ッ」

Ⅳは、その距離に堪らなくなって、後先考えずに駆け出した。
後ろからドルベが制止する声を聞きながら。

◆ ◆ ◆

あらそい、叫ぶ

戦場の爪跡は、生々しい






表情に嘆きと疲れの荒廃が滲み、瞳は荒んで
纏う空気は酷く淀むのに
瞳だけが、鮮やかなまま光を帯びて死者を悼んでいる。

橙の燐光に照らされた
儚い一瞬の夜明けの街
疲れ切った朝の、悠久の朝焼け

朝焼けの戦地
並み居る墓の前で、闇に浮かぶように立ち
ゆっくりと登る朝焼けに染まるままに
その姿を浮かび上がらせてこちらを振り返る顔は
あまりに

「凌、牙

気付けば口を突いていた名前は、けれど届かなかったようだった。
茫洋と視線をくゆらせて、Ⅳを見やったナッシュ王は、けれどⅣなど見えていないように、ゆるりと遠くに視線をやった。

「ドルベ、目を離すなと言ったはずだ」

後から黙って追いついたドルベに、一言、苦言を呈して。
後はⅣに見向きもしなかった。

「レスターは、優しい男だった。少し粗雑だが情にもろくて、部下の失敗を庇っては泥を被って、慕われていた」


「トニーは乱暴者だったが子煩悩で、誠実な奴だったな。酒の席で何度も惚気を聞かされた。昔はよく、撫でられたな」

「トルクのじいさんは聞き上手だった。シェリー婆さんの焼いたパイ片手に、よく、愚痴に付き合ってくれた」


次々と思い出話をしていくナッシュ王は
ここではない何処かを見つめながら
墓の一つ一つを歩いて行った。
繰り返される幾数の墓の名を、全て
全て、ナッシュは辿りながら

「無駄にはしない」
ナッシュは、静かに墓に告げた。
土を盛っただけの、墓とも言えぬような代物だった。
指先は土で汚れて、爪が割れていた。血豆は潰れていた。

「お前たちの冀望 きぼうは、俺が連れて逝く」

ああ。こいつは駄目だな と思った
死臭がする。

カリスマ性は、Ⅳをグラリと引き込んで
Ⅳはかぶりを振った。
(だめだ、呑まれる)

とうとう、山程ある墓の全てを渡り終えて
Ⅳは、ぐらつく頭を押さえながら、思った。
(コイツは、駄目だ)
おびただしい死霊の群れが、少年王の肩にこびりついている。
死者が手招く錯角に、Ⅳは戦慄を覚えた。

(もう、駄目ておくれだ。こいつは、もう、背負い過ぎてる)


戻れないところまで



ナッシュ王は、天を仰ぐ
見つめる先には、何があるのか

視界は ぐらり 回る 




帰らない

帰れない






ああ。と
Ⅳは思った。
無性に
あの小憎たらしい、青が見たかった。

王などでない
ただの、14才に







「引き上げるぞ」
ナッシュは、重い足取りを引き摺って
遠くを見るように、空を仰いだ。

「雨になる」




ザァァァァ







その晩は、痛いほどの豪雨だった。
真夜中がぽっかり口を開けたような暗闇から、突進するように音が迫って来る。
「酷い雨だな

窓辺に触れて、Ⅳは
石窓の冷たい感覚と、ひやりと入り込んでくる風に、身を任せたまま、立ち尽くした。

あてがわれた部屋のシーツは冷たく、シンと冷え切っていた。
寝床に入らず、Ⅳはずっと暗い部屋で雨を見ていた。

「落ちちまいそうだ」

常夏のこの国に、窓ガラスは無い。
窓は石で出来た吹き抜けで、雨除けの向こうから霧のような雨粒が少しずつ入り込んで、Ⅳの袖を濡らした。
もう二刻は立ち尽くしているⅣの、質素な寝巻きはすっかり水を吸って湿っていた。

微動だにしないⅣの背後から、静かに、石の床をカツンと鳴らして、影が揺れる。
「感心しないな。……風邪を引く」

そう、柔らかな声を部屋に落として、英雄はそこに立っていた。
Ⅳはゆらりと、彷徨うように視線を投げかけながら振り返る。
覇気無く、どこか遠くに魂をやったままのような眼をして、ドルベを見返した。

「眠れないのかい」
Ⅳは問いに答えを返さなかった。
ただ、ぼんやりしたような、無防備な表情を返すだけだ。

「わからなく、なっちまった」

Ⅳは、英雄の問いに
行き場を失った迷子のような、所在無げな声を出した。

「あいつは、誰なんだろう。オレの知ってるあいつはそれとも、オレが知らなかっただけなのか」

強過ぎる雨を見つめながら、Ⅳは何も見てはいなかった。

目に焼き付いた光景は離れなかった。
戦場と死体と、朝焼けの中。
青い眼は朝日に濡れて、乾いたまま泣いているようだった。


「オレはあいつが分からねえ。呼ぶべき名前すら」


ザァァァァァァァ





雨足はますます強く
夜闇は明けない。


それきりまた黙り込んだⅣに、英雄は小さく溜息をついて、案じる色を瞳に乗せた。

「明け方のスコールは冷える」
そう言って、ドルベは手にしていた布地を、すっかり水を吸ったⅣの頭に被せた。
案じるように、それ以上は踏み込まなかった。

「寝付けないなら、湯を借りてくるといい。私も時々、煮詰まった時にそうする」

それだけを告げて、英雄は去った。
Ⅳは、しばらく頭に掛けられた布に所在なく触れていたが、やがて、すっかり濡れた床をカツンと蹴ってその場を後にした。

部屋には、夜闇とシンと冷えた空気だけが残された。






夜中に目が覚めた。
ここに来てから、体力が落ちているのか所々記憶が途切れて曖昧になる。
体が軽くなるのは久しぶりだった。

窓ガラスの無い石の枠から、美しい月が出ていた。地面を、蒼光が照らしている。

「不思議だな。何千年前でも、月は変わらねえのか」

青い月光の中から、ふと美しい音がする。
……笛の、音?」
Ⅳは導かれるように、石枠を乗り越えて外に出た。




「そこの人。こちらにいらっしゃらない?」

突然、上から投げかけられた声に
はっと顔をあげれば、白い衣装が柔らかくたなびいていた。

「迷い人さん。こちらにいらっしゃいな」

美しく微笑むのは
月を背に、無防備に屋根に足をさらして
こちらを見下ろす紅い瞳

夜風に白の薄布を流しながら
優雅になびく髪を耳へとかき上げて
美しい唇に笑みをはいて見下ろす
あふれる満月の光を背負って、燐光を纏う
美しい、姫巫女

「月の夜を楽しまないのは損ですもの」



「璃





「異国の迷いびとさん。貴方はどうしてここに来たの?」
……わからない。だが、オレにできることは無いだろうかと、考え続けてる。ここに来てから、ずっと」
「貴方は帰る所がある人ですわ。目がそう言ってる。なのに、ここに留まるの? どうして?」
……知りたいからだ。あの青い眼の向こうに、何を思い、何を背負って、何を見ているのかを」
「それを知ってどうするの?」
……オレは、ただ。あいつと、バカみたいなケンカがしたかったんだ。運命も宿命もなしに。知れば、何かが変わるんだろうかって。突然チャンスが転がり込んで、正直、持て余しているんだと思う」

知れば知るほど、これはオレが覗いていい過去じゃないと感じる。
オレは部外者で、ここに、オレは必要じゃない。

「あいつの中に、オレの割り込む場所はないって、思い知らされるだけだ」

思いを言葉にして初めて、自分の本心を知った。
うなだれたⅣを見つめる姫巫女は、月の下で美しく微笑んで横笛を構えた。

「笛の音は祈りですわ。私たち巫女は、舞い、奏で、祈りを神へ捧ぐの。歌声は空気よりも軽いの。だから、どこまでも天高く響くのよ。きっと遠い遠い空の向こうにも、届くわ」

メラグが吹き込んだ吐息は、美しく空に伸び上がった。
月夜の邂逅。笛の音が、月に舞う。

迷うⅣは、メラグの音に酔いしれる。
深く、深く、酔いしれて
聴き入りながら、静かに夜は更けていく。

迷いを晴らす笛の音に
たゆたいながら、今はまだ このままで





「メラグが、死んだ……?」
Ⅳは呆然とする他なかった。

聞かされたその死は瞬く間のことで
Ⅳには愕然とすることしかできなかった。
何もかも、Ⅳが軟禁された場所とは関係の無い場所で、事は起こった。他国が攻めて来た戦争の戦火は、平和に見えてもかなり近しい所まで来ていたらしい。
つまり、ベクター軍とナッシュ軍の激突は、既に起こっていたのだと。
その諍いを止めるため、メラグは王族の待機場を飛び出して、自ら犠牲になったのだと。
そう聞かされたのは、彼女の埋葬までとっくに終わった後だった。

異邦人であるⅣに葬式の参列は許されず、周囲が妙に騒がしいと思っている内に全てが終わって、何もかも手遅れになってから彼女の死を聞かされた。

Ⅳは知らなかった。
安全な場所にいたはずのメラグが、誰にも告げずに秘密の通路を使って警備をすり抜けて外に出たことで。
あらゆる異邦人に間諜の疑いが掛かっていたことなんて。
「内通者の動きは」
「あの男、メラグ様と密会しておりました」

兵の一人がそう声を上げたのが。
何もかも定められた崩壊の皮切りだった。

……なんだと?」
「ご報告します。皇が保護した子供たちに、聞き回っておりました。国王のこと、そしてこの周辺国の詳しい情勢を」

ドルベ不在の時に、主にⅣを見張っていた兵士がそう声を上げて、初めてⅣは、自分がどれだけ危うい立ち位置にいたのか知った。
……それは……っ!」
Ⅳが声を上げようとした途端、屈強な兵士がすかさずⅣを押さえつけた。
頭を乱暴に地面に擦り付けられ、Ⅳはなすすべなく「ぐあっ!」とうめいた。
「オイ貴様! どうやってメラグ様を連れ出したッ!」
「知らねえ!」
「ならばなぜ、捕虜である貴様とメラグ様が密会など!」
「そんなんじゃねえ! あの夜は、ただ、偶然会っただけで!」
Ⅳの弁明は、疑心暗鬼となった兵たちをいきり立たせるだけだったらしい。
異邦人に疑いがかけられるのは至極自然なことだった。

「捕らえろッ!」
「違う、オレは……!」

あっという間に縛り上げられ、国王の前に引きずり出されたⅣは、芋虫のように地面を這ったまま、遠く座するこの国の絶対者を見上げることとなった。
Ⅳを見下ろす目は、絶対零度をはらんで冷たかった。

「拷問部屋へ連れていけ」

────Ⅳッ!!

殴り付けられて気を失ったⅣは。
自分を必死に呼ぶ凌牙の声を、空耳した気がしたが。
それも、Ⅳの願望が見せた幻かもしれなかった。



「おいⅣッ! Ⅳー!! 返事しろ、Ⅳ!」

凌牙は遺跡で絶叫した。
罠の酷い方、より行く手を阻む方へと強引に身体をねじ込んで進む。

飛び矢で出来た柵を蹴り破った。
その瞬間、視界に白の裾がチラリと映った。立ち尽くす見慣れた背中が見えた。

「Ⅳッ! 無事か!?」

凌牙は安堵に気が抜けて、駆け寄り怪我を確かめるべく腕を伸ばして肩を取った。

触れた肩がぐにょんと曲がって、蜃気楼のように消えるまで。

「ッ!!」
気付いて飛び退いた時には遅かった。
ずるりと崩れた肩。それがそのまま触手に変化して、凌牙の腕を縛り上げる。

幻影の崩れた先、凌牙の虚を突いて、身体を這った触手が一斉に凌牙の手足を吊り上げた。凌牙は身動き取れずにもがいた。
「ぐッ、こいつはッ」

忘れもしない、ドス黒い紫の触手。
吊り下げられて自由を奪われた凌牙は、在り得ないはずの物に顔を歪めた。これは。
「ドンサウザンドの玉座ッ!? なんでっ」
足首を縛られ、手首を引き摺られる。
凌牙は宙に浮かされる形で屈辱的に隷属させられた。
辺りが闇に吞み込まれたように暗くなり、目の前にスクリーンのように光景が浮かぶ。凌牙はギリギリと歯を噛み締めながら顔を歪めて睨み付けた。

「くそっ、俺はいったい何度繰り返せば気が済むんだッ、てめえの不甲斐なさに吐き気がする!」

縛り上げられた凌牙の視線の先で。
凌牙は、予想していた最悪の事態が起こったことを知って絶望に顔を歪めた。

映し出された光景の中で、本物のⅣが
凌牙の祈り虚しく、倒れ伏していた。

「なぜだ……なぜ貴様が遺跡ここにいる……
凌牙は手足の自由が利かないまま、怨嗟のような低い声を出した。
倒れたⅣの前には、ここにいるはずのない存在が立っていた。
『そいつ』は凌牙に向けて、薄ら笑った。
凌牙は激昂した。

「答えろッ! アビスッ!!」

遺跡を守るナンバーズ
激瀧神アビス・スプラッシュは

以前の慇懃さとはかけ離れた
邪悪な笑みを浮かべてそこに居た。

ドンサウザンドの玉座は、なお凌牙を縛り上げたまま。






────目覚めよ。
目覚めよ、我の力を受け継ぎし者よ






思えば最初から、何もかもおかしかった。
「おいで、おいで」とアビスが囁く声に呼び寄せられて、璃緒は海へ落ちて、アビスに操られ、凌牙と対峙することになった。
遺跡でアビスとデュエルして、凌牙は前世の記憶を強制的に追体験し、思い出した。だから凌牙はバリアンとして覚醒した。

前世の中で、ベクターが血を捧げて召喚した神は誰だった。
メラグが身を投げて、命と引き換えに自分を捧げた神は誰だった。

メラグが魂を捧げた相手はアビス。
巫女として生を全うしたはずのメラグが
バリアン世界に囚われたのはなぜだ。

前世で、海深く封印されていた神は、アビス。
悪意の海に封印されし神は、ドンサウザンド。

そう、そうだ。

アビスはあのとき、凌牙を。
「我の力を受け継ぎし者」と言ったのだ。






あの日、凌牙は気付かなかった。

100枚のナンバーズの中に
No.96のように、ドンサウザンドの記憶が混在している真の意味を。
目の前の存在が、口角を引き上げた。

「目覚めよ。我の力を受け継ぎし者よ」

あのとき聞いた言葉が、全く違う意味を以って凌牙に迫ってくる。


ドンサウザンドの玉座を前にして、凌牙は
自分たちが真に利用された存在の正体を知った。


「No.96は、てめえの分身だったな、ドンサウザンド……

己の不甲斐なさから地を這うような声が出た。
全身を縛り上げられて、身動きも取れないまま、目の前のスクリーンに映る倒れたⅣを前に、凌牙は瞳孔を開いた。

「そうか、そういうことだったのか、初めから、俺たちポセイドン王国の民が崇めた古き神は!!」


アビスの姿はどろりと溶けて
ドンサウザンドの玉座に座った、バリアンの邪神がそこに居た。




「古来、人が運命を決める闇の遊戯は大きく分けて三つだった。一つは兵を使った戦争、一つは決闘 ディアハ、そしてもう一つは、これだ」

指先でコツリ、と
闇で出来たテーブルを叩いた。

「生きた駒を使う、箱庭」

現代におけるTRPG。
仮想空間に閉じ込められた魂を使って、ゲームマスター二人が己の目的のために生死を争う。


「ちょうど良い駒が転がってきたのでな。招待してやった。貴様が連れてきた男に刻まれているのは我が紋章。我が眷属の証よ。アレがある限り、思い通りにならぬことなどない」

ドンサウザンドはうすら微笑み、手の甲に顎を乗せて、ゆったりと見下ろした。

ブスリ、と触手が凌牙の首筋を刺した。
「ぐ、あ!」
首筋を刺す触手の痛みが、気を遠くする。

どくん。どくん。
ドンサウザンドの玉座に何かが吸い取られて、凌牙はぐらつく頭を必死で引き上げる。

頭が、乱暴に掻き回されたみたいだ。
ベクターの時にカオスが抜き取られたように、『なにか』が体から引き抜かれている。

なんだ、今、俺は、何をされているんだ。
たわんだ焦点が現実に合わせられず、揺れる。

凌牙の前に引きずり出されたのは、走馬灯のようなフラッシュバック。
王として立った日。
剣を持ち馬を駆けた戦場、臣下達の顔。
めまぐるしく映し出される光景に翻弄されて、凌牙は浮遊感でぼうっと意識が一瞬飛んだ。

ぐらっと傾いた自分の頭に、ぐっと首の筋を引っ張られてハッと正気づいた。
凌牙は、遅れてこの触手の意味を知ってぞっとした。

こいつらは、俺の記憶を吸っている。

「や、めっ」
暴れる凌牙に、触手はビクともしなかった。
首に一層強く食い込んで、凌牙は痛みに呻いた。
「う、ぐっ」
痛みで正気を取り戻した凌牙は、首をくゆらせて目に飛び込んだ光景に目を剥く。
「やめろッ!」
地に倒れ伏したⅣの背後に、どす黒い触手が迫っていた。
「Ⅳッ、起きろ、Ⅳォォォォ!」

叫びは届かない。
黒く蠢く触手は、気絶するⅣをぐったりと抱え上げて、ゆるゆるとⅣに巻きついて全身を覆っていく。
力なく目を伏せたまま、喉元を晒したⅣは、凌牙が目を見開いて暴れる中、こめかみに触手をブスリと突き刺された。
「────ッ!!」
Ⅳと凌牙の体が同時に跳ねた。脳が嵐に掻き回されたみたいに、目の前がフラッシュバックで覆われる。
「ぐ、ああああッ!」

なんだ、なんだ、これは

頭に叩き込まれたのは、暴風のような記憶の嵐だった。
人、人、人、声と、匂いと、痛み
かつてのポセイドン王国の記憶が、濁流のように注ぎ込まれて気が狂いそうだった。
(なんだ、)
もはや声も出ず、記憶に溺れて窒息しそうになりながら、凌牙は正気を保とうと竜巻のような記憶の嵐の中を必死にしがみついた。
(ちがう、こんな記憶は、知らない)

ポセイドン王国に降り立ったⅣ
失うⅣの慟哭、疑心、怒り、失望

(なんだこれは、こんな記憶があるはずがない)

脳を直接弄られるような苦痛に叫びを上げる。
身悶えて耐える凌牙の身動ぎすら、食い込んだ拘束が許さない。

凌牙は脳が焼け付くような痛みに絶叫しながら、辛うじて正気を保っていた。
縛り上げられた先で、Ⅳが苦悶に呻いていたからだ。
Ⅳが苦しむのを、身動ぎもできずに見せ付けられた凌牙は、それゆえに気絶を許されなかった。

どくん、どくん、と黒いうねりは水を吸うように蠕動し、倒れ伏すⅣと凌牙に何かを注ぎ込んでいる。
まるで、凌牙から吸い取ったものを、Ⅳに与えているように
(まさか)

凌牙の頭にぶち込まれる、覚えの無い過去の自分の記憶。それが注ぎ込まれるたびに、目の前のⅣの喉が苦痛に跳ねて逸らされた。
(これは、Ⅳの夢か。俺の記憶を入れられて、Ⅳが見ている夢を、俺は、)

息も絶え絶えに苦痛に喘いだ凌牙は、瞼の裏にフラッシュバックする知らない記憶に、どうすることもできずに苦しみ呻いた。
頭に直接ぶち込まれる記憶の中で、Ⅳが捕まり鞭打たれる。
現実のⅣの体が気を失ったまま跳ねた。

「やめ、ろ

そして、記憶の中で鞭を持つのは
かつての、自分の姿。

「やめろぉ!」








「知ら、ねぇ」
息も絶え絶えに繰り返す、両手足を吊るされたⅣの訴えは。
憎しみに狂ったナッシュには、届かなかった。

ガッと頭を鷲掴まれて、水桶の中に顔を突っ込まされる。
息ができない。もがいて、苦しさのあまり意識が朦朧として、また頬を張られて繰り返される。

びしょ濡れに髪が落ちたⅣが、ゲホゲホと辛うじて再び息をした所で
「そろそろ吐く気になったか?」
と非情な声がする。
「りょナッシュ」
友だった男からの絶対的な不信に、やっとのことで顔を上げて憐れに目をやるⅣの嘆きは、しかし非情と化した皇には届かない。

松明を手にしたナッシュに、Ⅳは戦慄した。

「や、め」

わなないた唇は、けれど無視されて。
ナッシュは無言で火束をグリッとⅣの腹に押し付けた。

「あ、アアアアア!!」

けれどもう意味の無い叫びを上げるだけの






(これは、報いなのか)
蕩ける意識でⅣは呟いた。

痛みはとうに麻痺し、空腹は突き抜けて
絶望が、もういっそ舌に甘い。

「妹を手にかけたのは、貴様か」

ナッシュが怨恨の視線をⅣへと向ける。
そこに心を交わしたはずの男の姿は無く
意識がブレて限界の中で、男の姿はカードを交わした友の姿に変わっていく

「りょう、が

髪も、声も、瞳も
何もかもが友と同じその男は

「それが内通者の名か」

憎悪を限りなく煮詰めた瞳でⅣを睨む。

ああ、と
Ⅳは堕ちかけた意識で絶望を抱いた。

凌牙
凌牙
これは、報いか

お前と友になれたと、一瞬でも思ったのは間違いだったか


「あいつの無念を、思い知れ」


そうだ、当然だ

お前が、俺を怨むのは


(ああ)


そうだった

オレが、お前の妹を、

お前がオレを怨むのは、当然じゃないか


絶望的な負荷に意識が飛んで
ナッシュと凌牙が
過去と現実が
何もかもが混ざり切って呑み込まれたⅣは


「おれ、の、せいだ」



焼けた喉で、絞り出すように


「お、れが、やった」


とうとう、ナッシュの糾弾に
肯定を、返してしまった。




ナッシュの顔は憎しみと殺意と
そして

「調べはついた」

Ⅳへ僅かに残った希望への失望に歪み

「連れて行け」

吐き棄てるように背を向け断罪を告げた。


「裁け。明日だ」


この国で、内通者は重罪

王族に危害を加えた者は
死罪、だ


「ぁ


ナッシュの背に向かって、
消える意識でⅣは手を伸ばそうとした。

けれど縛り上げられた腕はピクリとも動かず、指先は空を掻いて

僅かに身じろいで、ナッシュの方に身を乗り出した。
それがⅣに出来る全てであった。

首が、鎖に阻まれて、引き戻される。

部下に申し付けたナッシュはⅣを振り返らず、牢の扉が無慈悲に閉まっていく。

「りょう、が」

乞う声は、
届かない



ガ、シャン



牢の扉が完全に閉まる音と共に、
Ⅳの意識は絶望の闇へ堕ちて途絶えた。




────凌牙、凌牙

お前と、また

ただ、わらって







絶望の夜は明けない。








凌牙は、がくん、と一瞬、気を失っていた。
茫洋と視線を彷徨わせた凌牙に、ドンサウザンドは悠然と笑った。

「数千年の時渡りの感想はどうだ、ナッシュ」
「戯れ、るな……

掠れた喉をこじ開ける。

「何千年のタイムスリップなんて、起こせるはずがねえ。ヌメロンコードでもない限り! てめえにそこまでの力はねえ、ドンサウザンドッ!」

ギリギリと睨んだ。

「あの時と同じだ。てめえは記憶を頭にぶち込んで、何千年前の世界を錯覚させてるに過ぎない! これはてめえが見せてる夢だ!」
「左様。だが、分かった所で何ができる」

ドンサウザンドの触手が凌牙を這う。
脳の記憶がかき回される。
「ぐ、あああ!」
「記憶は誤認すれば現実と同じ作用を生む。怪我をすれば魂に傷が付く。死すれば体の息が止まる。現実と錯覚するほどの我が悪夢の中で、せいぜい楽しむことだ。駒が壊れていく様をな」
「て、めえええええ!」
現実の世界にノイズのように混じる世界。くらっ、と目に映る視界が歪む。
ドンサウザンドが手元の駒を、つまらなさげにひとつ前にやった。

「余興もあっけなかったな。そろそろ駒の首が落ちる」
ハッと凌牙は顔を上げた。


触手に縛られた凌牙の体が、うっすらと赤く発光し始める。
ドンサウザンドは、静かに口角を上げる。

「させ、ねえ!」
ギラリと睨む凌牙の目が、一瞬だけ紅く発光して消える。ドンサウザンドはせせら笑った。
「貴様に何ができるナッシュ。アストラルに力を封印された無力な貴様に」

ドンサウザンドが薄ら笑いながら、手元の駒を動かした。
ことり、と石の動く音がした。
瞬間、凌牙は視線を鋭く煌めかせた。





これは、『闇のゲーム』だ。
ゲームには、どこかに法則がある。

生きた魂を使った箱庭。現代におけるTRPG。

ドンサウザンドが、つまらなさげに手元の駒をひとつ進めた。
途端、倒れ伏したⅣの体が跳ねた。そうか、これは。

(生きた人間を使った、チェスだ)

なら。

凌牙は、触手に縛り上げられ、自由のきかない体を必死によじった。
ギリギリと限界まで触手が引き絞られる。ドンサウザンドは、抵抗する凌牙を見て、待ちかねたように口角を上げた。

凌牙が必死で伸ばした手が、無意識に紅く発光する。
必死に手を伸ばした盤面の先で、指先がピンク頭の駒に触れた。
「させ、ねえ!」

ピンク色の小さな駒が、ひとつ
凌牙の手で前に進んだ。





◇ ◇ ◇


ことり、と石の動く音で、目が覚めた。

Ⅳは、ゆるゆると目を開けた。牢の隙間から、早朝の暗い空が見える。
重い石が動く音。合わない焦点をゆっくりと結べば、そこに。

痩せた体で必死に体を石格子にねじ込む、ピンク頭の子どもがいた。

「ぉ、まえどう、して

掠れ切った喉で、幻に乞うように茫洋と呟く。
日も出切らぬ早朝に、牢屋に忍び込んだ子どもは、泣きそうな顔で、すかさずⅣの喉へ水をやった。

「メラグ様ならきっと許してくれる! 信じた人を最後まで信じなさいって!」

子供は泣きそうな瞳に光を宿して、歯を食いしばった。

「家族を最後まで守りなさい、って!」
「かぞ、く」


Ⅳの脳裏で、光が弾けた。

「あ

家族


そうだ、俺には



『トーマス』
『にいさま』
『トーマス──』


「帰ら、ねえと


オレにはまだ
帰る場所が




泣きそうな翠の目が揺らめいた。縄がほどかれる。よろめく体を、必死に起こした。
Ⅳは家族を想い、弟とよく似た少年を抱き締めた。

『俺がここにいる間は、兄貴だと思ってもいいぜ』
『わぁ!』

「無事に生きてくれ。それだけでいいから」




城の外で。
子供が持たせてくれた握り飯を食めば
泣きたくなるほど口の中で甘くほどけた。

『トーマスにいさま、デュエル飯っていうんですよ』

帰りを待つ家族の声がする。

『遊馬が教えてくれたんです。かっとビングの勇気が出る、魔法の食べ物なんだって──』


かっとビング、ってな」

口の中で呟けば、少しだけ腹の底にジワリと熱が沁みた気がした。

Ⅳは、痛む体に鞭打って、引きずるように歩き出す。

繋いでくれた希望を無駄にしないために
家族の元へ、帰るために

素足を傷付けながら行くⅣは
それでも、もう迷わなかった。



絶望が深ければ深いほど
必ずやってくる希望も眩しい
それは必ず
必ず、やってくる
絶望の夜は明け
希望と困難の朝がやって来る
そこに立ち向かう全ては
もう、胸の中にあるから





牢から逃げ出したⅣは、素足で川を登るように進んだ。
川を進めば、海に出るはずだった。海まで逃げれば、船があるはずだ。
船、……船? そう、オレたちは船でこの遺跡に、……遺跡?

頭がクラクラする。現実はどっちだ。
オレは、ナッシュに追われて
いや、凌牙と遺跡に……

海へ向かう。
波止場にあるはずの潜水艇を目指して進んだのか
それともポセイドン王国を出るための船を求めたのか
頭がぐちゃぐちゃで分からなかった。

頭にノイズが走る。

ここはポセイドン王国
いや、ここは古の遺跡

オレを憎んでいるのは、ナッシュ王
いや、遺跡で待つオレの友は神代凌牙



馬の蹄の音がする。
追っ手だ。







こいつはナッシュ王。オレを殺しに追ってきた。
違う。こいつは神代凌牙。オレの友だ。


耳許で声がする。
自分を呼ぶ必死な声が。


────………Ⅳッ‼︎ 起きろ、オイッ‼︎


「りょう、が……?」


悪い夢が醒める。
夜明けの空を振り返った時

背後に迫ったナッシュ王が
咆哮して

槍が振りかざされて
Ⅳの首を落とさんと迫る。



スローモーションのように世界が動く中
Ⅳは、迫る凶器から逃げられないことを悟って


(ああ)

悪い、父さん、兄貴、ミハエル
帰れねえや




首を掻き切られる瞬間
友の獣のような咆哮で、世界が紅く爆発した。



「────Ⅳォォォォォッ‼︎‼︎」



槍を弾くキンッと高い音で
世界は閃光に包まれた。





◇ ◇ ◇


息も絶え絶えに苦痛に喘いだ凌牙は
フラッシュバックする知らない記憶に
どうすることもできずに苦しみ呻いた。
頭に直接ぶち込まれる高速に回る記憶の中で
槍を持つのは、かつての、

「やめ、ろ

過去の亡霊。
Ⅳに槍を向けるかつての皇
自分の姿を見るⅣの目は、絶望に満ちていて

「やめろ!」

友の首に、
槍の切っ先が 振り上げられた


「やめろぉぉぉぉぉ」



身体が、火のように燃えた。





胸の奥でビシリと何かが砕ける音がして、
次の瞬間、凌牙は爆発する赤い閃光に包まれた。







「ようやく目覚めたか。アストラルが余計な封印など施してくれたおかげで、ずいぶんと手間が掛かった」

激昂する凌牙の、身体から迸る 『赤い気』

ドンサウザンドは、ニタリと笑って満足気に頷いた。

紅いオーラを体から轟々と迸らせ、その力で玉座の触手を引きちぎった凌牙が、気を失うⅣの肩を抱え起こして、ギラギラ睨む。
蒼いはずの左眼は、紅く発光していた。
「ドンサウザンド、キサマ……ッ!」
「ナッシュ、我の力を受け継ぎし者よ。怒りも、憎悪も、執着も、欲望も、愛も、哀も、全てげに美しきカオスの深淵よ」

バチッ、バチッと静電気の名残りのようなものが、大気を覆う。
紅いオーラを電気のように帯びたまま真っ二つになったチェス盤に、ドンサウザンドは満足げに笑みをはらった。

真っ暗だった空間は、瞬時に元の遺跡へと変化する。
そこにあったのは、石板。
ナンバーズ73 ────激瀧神アビス・スプラッシュに酷似した石板が、ドンサウザンドの背後で、凌牙の怒りを受けてバチバチと音を立てながらヒビ割れていった。
ドンサウザンドはますます満足そうに、成果でも眺めるように凌牙を睥睨した。

「こちらの封印も解けたか。長居は無用だな」

ドンサウザンドは、脚を組んだままゆっくり宙に浮かび上がった。

「待て!!」

駆け出そうとした凌牙の前で、ドンサウザンドの姿がかき消える。

嘲笑が広い遺跡に響いて、残響だけを残して消えていく。

────忘れるなナッシュ。我の呪いは解けていない。どれだけ平和のぬるま湯に浸かろうと、運命は貴様の全てを奪う。解放されはしない、輪廻の果てまで、決して。

憎しみで心の臓が焼けそうだった。

嘲笑が遠ざかっていく。憎悪が身を喰らって目の前がドス黒い激情に溺れていく。
煮えた頭で、激情に駆け出し踏み込んだその足を、弱く掴む手のひらが、凌牙の正気を一斉に引き戻した。
跳ね上がるように背中を反らして、意識を引き戻されて固まった凌牙は、自分の右足を弱々しく掴む指先に、よろよろと視線を落とした。
視線の先で。仰向けに倒れ伏したままのⅣが、茫洋と焦点の合わない目でそれを掴んでいた。
唇が、吐息を零すように、大気を震わせた。

いくな

そうしてすうっと、眼の光を失うようにして、Ⅳは意識を失った。

凌牙は戦慄した。
心臓を食い破ろうとしていた黒い憎悪が波立って引いていく。
青い顔で瞬時にⅣの口のそばに手を持っていく。Ⅳの心臓に耳をやった。脈が、弱い。呼吸も。
「くそっ!」
凌牙は意識の無い弛緩したⅣの腕を取ると、両肩に回して担ぎ上げた。
遠ざかった嘲笑はもう影も形もない。逃した。
「くそッ!」と凌牙は叫んだ。
耳にかかる呼吸は細く、首筋に乗せられた頭はぐたりと動かない。手足は冷水から上がったような冷たさだ。
弛緩した体は重く、凌牙はほとんどおぶるような形でⅣを背負った。
「オイッ! 起きろ、しっかりしやがれⅣ!!」

Ⅳは答えを返さない。吐息が細過ぎて息が止まっているかのようだ。凌牙は失う予感に背筋を震わせた。

あの時と同じだ。璃緒と。遺跡で目を覚まさなくなった妹と。
「冗談じゃ、ねえぞ!」
呑まれかけた心臓が、熱を持って早鐘打つ。
同じ轍を、踏まされてたまるか。
もう誰も失わない、失わなせない。失って────
「奪われて、たまるか!」
頭上で音を立て崩壊し始めた遺跡で、凌牙はⅣを背負って逆の道へ地を蹴った。
凌牙の背後で、崩れゆく決闘場が岩に阻まれ、そこに居たはずの者の痕跡を失っていった。



ヒビ割れて跡形も無く崩れていく壁。降りしきる岩に行く手を阻まれる。凌牙はⅣを背負い、降り止まぬ礫を危うくかわして走りながら、反応の無い無線機を叩くように連打した。砂嵐のかかったようにノイズを発する無線機が、ようやく遠い叫び声のようなノイズを拾い上げた。凌牙は叫んだ。
「Ⅴ!!」
『ーーザザッーージジーー凌ーー、応答しーー』
「ヘリ寄越せ!! Ⅳがヤバイ、体温も意識も戻らねえ!!」
『ーージジーーザァーー』
ブツン、と途切れた電波に、「くそっ!」と凌牙は毒付いた。こっちの音声は届いたのか。解らない。
近くの離島でⅤの操るヘリが周囲を回旋して待機しているはずだった。連絡が途絶えた先程からこちらに向かっているだろうと思うが、あと何分掛かるか見当も付かない。崩れた岩肌に塞がれた道を何とか乗り越え、潜水艦の止まり場まで戻った凌牙は、しかし最悪の事態が起こったことに顔を歪めた。
「道が……!」
波止場代わりにしていた岩壁が、落盤していた。道が完全に水没している。この遺跡自体が海に沈みかかっているのだ。

凌牙は肩に重いⅣのぐったりした腕を握り締めて、意を決して海に飛び降りた。
ざぶん。
海に落ちる岩に波を揺らされながら、塩水を辛く呑み込み、凌牙は必死に足をバタつかせて波を蹴った。潜水艇を目指すが、波に翻弄されて前に進めない。背負った一人分の重さが凌牙の手足を沈ませる。

ダメだ、だがここで溺れたらⅣまで。

崩れた岩がズシリと沈んだ。
波が一瞬で立ち上がって、凌牙の頭上を越えて覆った。凌牙は瞠目して息が止まった。
しまった。

波に覆われる刹那、閃光のように体が殴り付けられて宙を舞った。

「馬鹿が!! 無茶なことを」
「カイトッ!!」

ゲホッと飲み込んだ水を吐き出す。
抱えたⅣごと勢いよく海から宙に投げ出された凌牙は、体にデュエルアンカーを巻き付けられてカイトと飛んでいた。
腕の中でぐったり呼吸の覚束ないⅣにゾッとして「頼む、Ⅳがっ」と叫んだ凌牙は「動くな!」と鋭く叱責された。カイトの表情にも余裕が無い。水を吸った男三人は重量オーバーなのだ。
「渦潮に呑まれたら助からんぞ! 死にたくなければじっとしていろ!」

カイトはオービタルを操りながら、ぐらりと態勢を崩した。グライダーが失速しかける。
ッ!!」
「カイト、捕まれッ!」
嵐の中をクリスの声が鋭く裂いた。
投げられた縄はしご。カイトが空に手を伸ばして、ガッと掴んだ。クリスの操るヘリが、三人を吊るして辛うじて空に留めていた。

回収されていく縄ばしごに、凌牙は、ああ、助かったのかと、実感の伴わない安堵に茫然と息を吐き出した。

足先が遠ざかっていくその下で。
そこにあった遺跡が、渦潮に呑まれて沈んでいくのを、凌牙は見下ろしながら遠ざかっていくのを見つめていた。



離島の病院で。凌牙は裸に剥かれて毛布にくるまりながら、救護の順番を待っていた。
凌牙に外傷は無い。あるのは海に落ちたことによる低体温症だけだ。意識が戻らないⅣはもっと重症のはず。運び込まれた凌牙が恐慌して暴れて治療を拒んだため、落ち着くまでと初療室の片隅に押し込まれてベッドを借りている。凌牙は頭まですっぽり毛布にくるまりながら、頑なに顔を見せようとしなかった。
「オイ。いつまでそうやっている」
人のいない初療室に我が物顔で入って来たカイトの声に、凌牙は一層深く毛布を握り込んで顔を隠した。苛立った足音がツカツカと歩み寄り、凌牙の毛布を引きずり取る。凌牙は頑なに抵抗した。
「オイ凌牙、ふざけるな。状況を説明しろ。ヤツの身体、アレはどうなっている。遺跡で何があった」
「そんなもん、俺の方が聞きてぇよ!」
毛布の下で悲鳴のような声が上がった。カイトは眉を顰めた。凌牙は一層強く毛布を握り締めた。治療のため濡れた服を脱がせたⅣの身体には、焼ごてか火鉢でも押し付けられたように酷い水ぶくれが出来ていた。凌牙は初療室でそれを目撃してしまった。

アレは、凌牙がドンサウザンドの玉座で見せられた夢の中でⅣが受けていた拷問痕だ。アレは幻のはずだ。なのに一体どういうことなのか。
凌牙は幻と現実の区別が付かなくなって恐ろしくなった。あれは本当に幻だったのか。それともまさか、本当は自分が。疑心暗鬼に囚われた凌牙はそこから動けなかった。
そんな凌牙に、カイトは一瞥をくれると凌牙の胸元を毛布ごと掴み上げ手酷く頬を張った。
パンッ!という音が無情に凌牙の耳朶を打って、冷水のように凌牙の頭を冷ます。
「落ち着け、見苦しいぞ」
頬がジンジンと痛かった。
カイトの声は冷淡で、視線が氷のようだった。
だがカイトが次に落とした言葉に、凌牙は肩を震わせる。

「何のために仲間がいると思っている。今さら独りのつもりなら一生そこで蹲っていろ」

突き刺さる言葉は、打たれた頬よりも痛かった。

凌牙は、意を決して、震える手で頭の毛布をずり落とした。掠れた声でカイトを見返す。
「カイト。俺の目は何色だ」
「? 何を言っている。青だろう」
直視したカイトの目に浮かんでいるのは、いつもと変わらない淡々とした感情だけだ。それに安堵ともつかない震える息を吐き出して、凌牙は顔を伏せた。
「悪りぃ。着替えたら行く。先に行っててくれ」
……ちっ。逃げたら承知せんぞ」
物言いたげな視線だけで言葉を飲み込んだカイトは、気遣うような素振りを一瞬だけ見せ、あとは振り返ることなく出て行った。
閉じられた扉を見つめながら、凌牙は裸の毛布を床に落として鏡の前に立った。鏡の向こうには、常と変わる事のない青いまなこ。薄い裸の胸板。だが。
(あの時、確かに見た
凌牙は鏡に手をついた。崩れゆく遺跡で岩の降る中。水鏡に移った自分の目は紅く揺らめいていた。

今、凌牙の裸の胸には何の異変も無い。だが、あのとき、荒れ狂う激情の中で、確かに胸の奥にバリアラピスの影を感じた。

俺は、まだ人間なのか。それとも。

鏡の中に答えはついぞ見つからなかった。
凌牙は鏡に力なく拳を打ち付けて、病院着に袖を通した。扉の向こうで声が聞こえる。Ⅳが目を覚ましたらしかった。



虚ろな意識で目覚めたⅣの視界に飛び込んだのは、腕を点滴する異国の看護師と、傍らの兄と弟だった。
「ぁみしぇ? いや、ミハエル、と、あにき? ここ、は、おれは、戻って?」
現実と先程までいた非日常との区別が付かない。
ぼうっと視線を彷徨わせたⅣは、弟に泣き縋られるように強く手を握られて、青い人影を無意識に捜した。
「おれ、の、首、繋がってんのか? おれ、なんで、ナッ、凌牙は、無事か?」
うろうろと視線を彷徨わせて、覚束なく焦点を結んだ。自動ドアが開くような機械音がして、部屋に入って来る無言の人影にⅣは安堵した。
「凌牙、ぶじ、だったか」
吐息のような声に、顔を伏せた凌牙はそれを聞いて肩を震わせると、無言でⅣに歩み寄って、ベッドに伏せるⅣの胸倉をガッと掴んだ。
「ちょっ、凌牙! 兄さまに何するの!?」
慌ててIIIが引き剥がしにかかるが凌牙は離れない。それどころか、Ⅳがどこか茫洋とそれを見つめてさせるがままなのを見て、より一層握り締めた手首を震わせた。
「何が無事かだてめえなんで頷いた!」
ぼんやりと霞みがかったような意識が、凌牙の声で正気を取り戻していく。腰が浮くほど胸倉を掴み上げられて、悲痛な声が耳を突きした。
「ふざけるなよ何で ナッシュに殺される事を受け入れた! なんで笑いやがった、なんで、なんで!!」
瞳孔を開いて。人を殺しそうに刮目しながら。歯を食い縛ってⅣを掴み上げて。
憎しみすら感じるほどに、睨んでいるのに。なのに、凌牙のその顔は。
掴み上げられたⅣは、虚ろだった意識をようやく取り戻して、眉を下げた。
「泣くなよ、凌牙」






ポロリと、Ⅳの頬に
染み入るような雫が降る。

ああ、帰って来たのだと。
国王でも、敵でもない男の現在に、自分は戻って来たのだと、今無性に、実感が湧いた。

現実が友の形をして色を取り戻していく
安堵でⅣは引き込むような眠りに意識を攫われて、重い瞼を落とした。
凌牙、と万感を込めて友の名を呼んだけれど、それが相手に届いたかは、泥のような眠りに溺れて判らなかった。

だから、Ⅳは気付かなかった。
再び気を失ったⅣを掴んだままの凌牙が、どんな顔をしていたか。先ほどの激昂が嘘のように凪いだ、ぞっとするほど虚ろな目をしていたことに。

気付いていたなら。
もしかしたら、この先は変わっていたかもしれない。
それから、Ⅳはまた丸一日以上目を覚まさなかった。精神が、酷く消耗していた。

擦り切れたように眠りに落ちてしばらく、Ⅳは夢と現を行ったり来たりしていた。
ようやくまともに意識を取り戻したのは、そこから丸一日以上たった真夜中の事だった。
心配を掛けた弟と一緒に酷く胃にしみるスープを飲みながら、Ⅳは凌牙が既に飛行機でハートランドへ発ったことを知った。調べなければいけないことがあるからと、カイトと共にフェイカーのラボへ足早に戻ったらしい。

その時まだⅣは、遺跡で見た生々しい記憶が夢か現か判別できず、聞きたいことも、聞いて良いのか解らないことも山ほどあって、どうしていいのか判らなかったから
「なんだよ凌牙の奴、薄情だな」
と弟に笑ってみせながら、本当は安堵していたかもしれなかった。

翌日、チャーターした飛行機で弟の反対を押し切って、戻り切らない体力に鞭打って無理を押してハートランドへ帰還したⅣは、自分が体調を理由に伏せられていただけでハートランドではフェイカー達のラボが大わらわになっていたことを知った。

「ドンサウザンド復活の兆し!? おまけに凌牙の中のバリアンの封印が解けただぁ!?」

フェイカーのラボでこれでもかというほど厳重に全身に機械を取り付けられた凌牙は、まるでコードが全身から生えているような有様で検査されていた。
ぞっとしない有様だった。青くなったⅣは慌て、兄に止められ、事情を説明された。
「凌牙の話を鵜呑みにすれば、だ。だが今の所、凌牙の体にそれらしき反応は見受けられない。トーマス、やはりお前は何も見ていないのか」
「オレが知るかよ!! むしろオレが聞きてえ、どういうことだよ、あの時オレが見たのはやっぱり夢じゃなかったのか? 凌牙に何が起きてんだ!?」
《ガタガタうるせえⅣ、お前こっちきやがれ》
コードに覆われた凌牙はそう言ってスイッチ式のマイク越しに不機嫌にⅣを呼びつけ、検査室の中で体を横たえたまま淡々と語った。

Ⅳが遺跡で見たのは凌牙の記憶だったこと。
Ⅳはタイムスリップしたのではなく、頭に叩き込まれた記憶を限り無くリアルな夢として見せられていたこと。それがⅣに害を成したのは遺跡の主の悪意であること、Ⅳの腹と肩にできた焼きぶくれは後で分かったが一種の催眠錯覚であること。
Ⅳは次々明かされる事実に戸惑いを隠せなかった。
「聞いたことねえか? グツグツ煮た鍋の前で目隠しして、突然ただの水ぶっ掛けると、悲鳴上げて本当に火傷するっつー話」
凌牙はコードに覆われながら、あくまで淡々とⅣに語る。
「ありゃ反射の一種らしい。感覚が脳で処理される時に錯覚起こすと、火傷に対処するために、血管拡張だの炎症物質だの、大量に放出する。だから、火がなくても一気に腫れるんだと。ストレスでじんましん出る奴もいるだろ、似たような理屈だって話だ」
ほとんどカイトの受け入りだがな、と凌牙は淡々とこぼした。
「暗示ってのは、案外怖えモンなんだな。ただの思い込みだと油断すると、体に現実で返って来ることもある。あのまま首撥ねてたら、どうなってたか判らねえな」
凌牙は自嘲するようにクッと喉を反らした。
Ⅳは告げられた事実を飲み込むまで時間がかかった。
あんなに生々しかったものが幻。
だが、間違いなく凌牙の記憶だという。
「んな顔してんじゃねえよ。現実に火鉢当てられたわけじゃねえんだ、腫れちゃあいるが、皮膚は何ともねえだろ。痕も残らず消えるはずだ」
「そういう話じゃねえだろそれに、じゃあ何でオレの目を見ねえ、凌牙
凌牙の側で立ち尽くして項垂れたⅣに、凌牙は目を反らした。
拒絶する凌牙との間に、透明な壁があるようだった。
……つくづく嫌なもんだな。幻だろうが、自分の手でてめえを手にかけるってのは」
凌牙が零した言葉に、Ⅳは顔を跳ね上げる。凌牙は変わらず目を背けたままだった。
「実際やった事があるから余計に手に負えねえ。次は今度こそ現実になるぜ、Ⅳ」
「オレは
「なあⅣ。俺はてめえが大っ嫌いだ」
唐突に、脈絡なく。凌牙はⅣに向けて宣言した。意図を掴みあぐねて、Ⅳは胡乱に凌牙を見つめ返す。そんなⅣに、凌牙はクッと喉を鳴らした。
「だから、なぁ? 俺はこんな事も言えるんだ。……Ⅳ。あれが現実になる日が来たら、俺を殺せ。お前がだ」

頭を殴りつけられたような感覚だった。

「お、まえ、なに言って、」
「ドンザウザンドが俺を使って何かをしたがっていたのは間違いねえ。遺跡で俺は何かをされたはずだ。だが、トロンやフェイカーやカイトでも揃って俺は異常無しだと言いやがる。人間の機械じゃ判らねえんだ。俺は今爆弾持ちなんだよ。いざって時の覚悟は決めた。だが、その時もう俺が俺じゃ無くなってたら

凌牙は蒼の瞳で、じっくりとⅣを射抜いた。

「遊馬には荷が重い。璃緒にはさせられねえ。ドルベの手には余るだろう。ベクターは俺の言う事なんざ聞きゃしねえ。いいか。お前が殺れ。お前に俺の命くれてやる」

とんでもない殺し文句だった。頭に血が上って、Ⅳは激怒のまま凌牙に掴みかかった。計器がブチブチと音を立てて引きちぎられ、エラー音を立てる。
「ふざけんな!!なんでそうなる!!」
Ⅳの激昂にも、凌牙は淡々と見返すばかりで答えない。後は何も言う事は無いと言わんばかりだ。
凌牙は空恐ろしいほど薄く唇に笑みをはいた。
「なぁ、Ⅳ。俺が憎いか?」
「ああ憎いな!はらわたねじ切れそうだ!てめえの思い通りになってたまるか!!てめえは地獄から引きずり出してでもオレが生かす!」

凌牙を突き飛ばしたⅣは、飛び出すように検査室から出て行った。トロンかV相手だろうか、怒鳴り込むような怒号が聞こえる。
凌牙は突き飛ばされた体勢のまま肩を払って、もはや役に立たない計器をブチブチと引き抜いた。
入れ違いに部屋に入ってきた男の影にも、凌牙は判っていて眉根を動かさない。
淡々と計器を引きちぎる凌牙の前に、男は立って処置無しと言わんばかりに呆れ果てた声で見下ろした。
「卑怯者め」
「ああそうさ、俺は卑怯者なんだよ。知らなかったのか?カイト」
「ここまで馬鹿とは思っていなかった」
「クッ、失望したか?」
「知らんな。管轄外だ。オレまでキサマの茶番に乗ってやる理由がどこにある。馬鹿につける薬は無い」
「ひっでぇ」
クスクスと、凌牙は喉を鳴らした。半裸の身体に上着を羽織って、ベッドに座り込む。
見下ろすカイトの視線は憐れむようだった。
凌牙は肩を竦めて、カイトの前でようやく弱音らしきものを零した。
「カイト。あの馬鹿はな、俺を引き戻すためだけに笑って死ねるやつなんだよ」

あの遺跡で痛感した。凌牙は散々Ⅳを突き放そうとしたが、それでもⅣは凌牙から離れなかった。その結果があれだ。
あと少し、凌牙が拘束を解いて記憶の呪縛から抜け出すのが遅ければ、Ⅳは凌牙の記憶という名の、凌牙の形をしただけの過去の妄執に、笑って首を撥ねられるところだったのだ。

凌牙には判る。Ⅳは本当に地獄で待っているだろう。
ヤツは、凌牙が国王として命を捧げると言われ続けた、誰一人守れなかった民達と同じ目をしている。

自分の運命を、凌牙に預けると決めてしまった者の眼だ。

「運命、ってのは。神が作るんじゃねえ。人間が作っちまうんだ。俺はいつだって、そういう渦のド真ん中でそいつを背負っちまってた。何の因果だろうな、俺はいつだって、誰かの運命を決めちまう。俺の選択が、俺の一歩が。誰かの運命を引き摺り込んじまうんだ」


Ⅳはもはや疑問すら持っていないのかもしれない。凌牙のために命を賭けることを。
それは、今の凌牙にはどうしようもなく恐ろしいことだった。
そしてそれは、恐ろしいだけでなく現実になろうとしている。
ああして焚き付ければ、少なくともⅣは命の最後の一手を抗うことに使うだろう。Ⅳが他の誰かに凌牙の行く末を託す選択肢をああして手酷く潰す事で、奇しくもⅣは自分の命を早々賭けに出す事が出来なくなった。どんな形であれ最後の最後で凌牙が立つのはⅣの前だ、という宣誓が、Ⅳの無謀に対する生命線になる。
考えに考えて、何をしてもⅣに絡んだ縁を切れなかった凌牙にできるのはもはや、憎まれる事でⅣの命の予防線を張ることだけだった。

「本当はよ、言いたかった。璃緒でも遊馬でもねえ。俺は、お前をあの遺跡に連れて行ったんだ、ってな」

凌牙は疲れたように、もう必要の無くなった言葉をゴミ箱に放り込んだ。
カイトは、馬鹿な方向に腹を括ってしまった男どもに、呆れ果てた溜息を吐くばかりだった。
「馬鹿め」

心底言っていると分かるカイトの冷たい声に、凌牙はハッと笑った。
「カイト、お前といるのは楽でいいよ。お前の優先順位はハルトだろ? 分かり切ってる。ブレねえから気楽だ」
「当たり前だ。俺は俺の守るもののために生き、俺の選んだ場所で戦い、果てる。貴様らがおかしいんだ」
「人間、誰もがお前みたいに生きれるわけじゃねえんだぜ」

喉を鳴らした凌牙は、半裸に上着を羽織って検査室を出て行く。カイトは止めなかった。
「どこへ行く」と問い掛けただけだ。
興味無さげで、淡々とした、引き止める意志を持たない問いだった。事務的に必要があって確認しただけのような。それに凌牙はまた機嫌良く喉を鳴らして、言葉を返した。
「帰るよ。璃緒が待ってる。結局俺は、人の中にしか居場所が無えんだ。離れられねえ」
「ふん。自覚があるなら結構だ。いいか、異常を感じたらすぐ連絡しろ。些細な事でもだ。俺は俺で異世界の脅威に対策を練らねばならんからな、今のところ貴様が唯一の手掛かりだ。隠し立てするなら解剖も辞さん」
「おお怖」
肩を竦めて扉に手を掛けた凌牙は、小さく笑んだ息を吐き出して「悪りぃなカイト」と静かに背中越しに笑った。
「仲間の意味を履き違えてるのは分かってる。でも、間違ってると分かってても、それでしか護れねえなら、俺は通さなきゃならねえんだ」

パタン、と後ろ手に閉められた扉に。
誰も居なくなった部屋で、カイトは深々と溜息を吐いた。
「つくづく馬鹿は死んでも治らん。何度死んでもあれなのだからもう打つ手が無い。くそ、頭痛がして来た。あんなのに延々食らいついた遊馬の根気にほとほと感心する、絶対に真似しようとは思わんがな。チッ、オービタル!」
部屋に備え付けられたコールボタンをガッと殴りつけたカイトは、部屋に数秒後に飛んできたオービタルに伝令を飛ばした。
「しばらく凌牙を張っていろ。信用ならん」
「ギョエ!? あのクソ鮫をでアリマスか!? 何でオイラガぁぁ」
「いいか、しばらく帰ってくるな」
無情に蹴り出されたオービタルは、あわれ、妻と子のもとを離れて当分飛び回ることになりそうだった。嘆きの悲鳴が窓から遠ざかっていく。
カイトはつくづく面倒な男に関わったと頭痛を堪えた。
「まったく、これだから仲間というのは……恨むぞ遊馬」

デュエルをすればみんな仲間。
そんなふうに笑って自分を変えてしまった少年に、カイトは恨み言を零して頭を抱えた。

ひとまず、遊馬のDゲイザーに凌牙帰還の一報をすげなくメールして、すぐさま折り返して来た連絡は無視した。
焦れたかっとビング馬鹿が凌牙を突撃しようとあとは知らん。管轄外だ。

ひとまず馬鹿の面倒は馬鹿に押し付けて、こちらはやらねばならないことが山積みだ。
崩壊した遺跡の再調査、凌牙からスキャンしたデータの再解析、アストラル世界との連絡手段も何としても確保せねばならなくなった。
最低四日の徹夜を覚悟して眉間を押さえた辺りで、カイトの頭上でブランと「お疲れだなぁカイトぉ?」となんとも耳に障る声がした。

振り返ったカイトは、天井から逆さにぶら下がる男に、一瞬素で、うっかりゴキブリが顔に張り付いたような顔をした。
ケタケタと笑った男は、ヒョイっと天井から逆さにダイブして、シュタッと無駄にいい動きで着地した。
「ジャンジャジャーン。良かれと思って、俺様が手伝ってやろうかぁ、カイトぉ」
「貴様どこから湧いた!」
「口の利き方には気を付けた方がいいんじゃなぁ〜い?お前の愛しの弟の病気を治してやったのは俺様だぜぇ?つか、俺はナッシュの弱みを握るためなら何でもやる」
「それが本音か貴様」
「お前の親父とちびっこパパには大分恩を売ったからなぁ〜。反対しやしねえんじゃね?」
カイトは頭がさらに痛くなってくらりと目を回した。うんざりだ。
警備用オボットの見回り路の再確認を頭のリストに叩き込んだ。

「オレサマを追い出すかぁ? それでもオレは構わねえが、ちょぉっと困ったコトになるんじゃなぁい? つか、困ったことにする」
ベクターが飄々とうそぶく。無視した。
真意が判らないまま辺りを無断で嗅ぎ回られる方が厄介だ。頃合いを見て遊馬あたりを召喚して引き取らせようと心に決めて、カイトは扉を開けてベクターを研究室に入れた。本当に恨むぞ遊馬。
(まったく、これだから!)

胃痛薬が欲しかった。
研究室で喚き散らすⅣを宥めるクリスと、入って来たベクターを見てギョッとするフェイカー。面白げに笑ったトロンに、カイトの頭痛はさらに増す。

我が物顔でデータを覗き見始めたベクターは、ふとカイトをニヤァァと振り返って笑った。
「諦めな。あのかっとビング馬鹿に関わった時点でてめえはもう逃げられねえよ」

恐らく最も切実に、それを体現したベクターに言われ。
カイトは膝から崩れ落ちそうになった。

たった今。カイトは何が何でも今回の元凶の凌牙に、後で懺悔させると心に固く誓った。



【epilogue ?】

遺跡は海に沈み、遺された祭壇は壊れた。
Ⅳの前で、凌牙が望んだ責任の果たし方は、済んだと言えた。
だが、また余計に、重い責任を背負い込んでしまったように思う。
(くそっ
Ⅳは仕事帰りに鞄を投げ出して、自室で電気も付けずに水を飲みながら前髪をぐしゃりと握り潰した。
あれからひと月が過ぎた。凌牙は度々カイトの元で検査を受けているがやはり何も見つからないらしい。嵐の前の静けさというべきか、凌牙は日常に帰りつつあった。

学校の凌牙の様子をⅢに報告させているが変わった所は無いらしい。
だがその間、Ⅳはたびたび凌牙と接触しようとしたが、凌牙は決してⅣと話そうとはしなかった。

凌牙は、Ⅳを自分の運命から遠ざけたがっていた。
あの遺跡が見つかった時から、再び運命に巻き込まれる予感があったのかもしれない。だから頑なに妹の同行を拒み、遊馬に告げず、強引についていったⅣには遺跡の祭壇であんな危うい賭けを吹っかけた。
遺跡で見た記憶も、一体どこまで凌牙の本当の記憶なのか聞けていない。Ⅳが思うに、あれは多分に脚色が入っている。
だが、凌牙はあの狂乱の王について、Ⅳに触れられるのを頑なに恐れているかのようだった。

凌牙が分からない。過去を知って、余計に友の本心が見えなくなった。
凌牙に告げられた宣告は重くⅣにのしかかったままだ。
────だが、その時もう俺が俺じゃなくなってたら

「くそっ!」
Ⅳは手元のグラスを壁に投げつけた。ガシャン、とガラスが粉々になる。
Ⅳはこの一ヶ月荒れていた。
こちらも馬鹿ではない。Ⅳを遠ざけようとした凌牙の本心は、Ⅳを案じてだ。分からないはずがない。
だが、こちらもそれは同じだ。友を案じるⅣを無視して、あんな約定を一方的に押し付けていった凌牙の、どうしようもない身勝手さが我慢ならなかった。

Ⅳは、共に運命に立ち向かうことを望んでいた。それを望むよう凌牙に欲していた。凌牙自身が運命にⅣを巻き込むことこそを望んでいた。
だがⅣは、それこそが、凌牙の最たる恐れであるのは、理解できない。

開けた覚えの無い窓。
割れたグラスの破片が、かたん、と揺れた。
カーテンを巻き上げて、部屋に風が入り込んでくる。
Ⅳがふと、身を投げ出していた革張りのチェアから顔を上げると、カーテンの向こうに見知った髪型の人影があった。
Ⅳは目を見開いてガタンッと立ち上がると、バルコニーに躍り出た。そこに、背中を向けた見慣れた友の姿があった。背中は、月夜の中無言で佇んでいる。
「凌牙!!お前、散々逃げ回ってた癖にッ、やっと口きく気になったか!」
Ⅳは顔を伏せる凌牙の腕を引っ掴み、部屋に強引に引っ張り込んだ。逃げないように後ろ手でバタンとバルコニーの出口を閉めたⅣは、急いで鍵を掛けてゼイ、と上がった息を抑えた。
「こっちは、聞きたい事も言いたい事も山ほどあるんだよ!凌牙、お前っ、」
ふっと、顔を上げかけて。
暗い部屋で、Ⅳは、何かがおかしい事に気が付いた。

部屋が、妙に寒かった。
無言で俯いたままの凌牙は、暗い部屋の中で、目を閉じてじっと佇んでいる。
ただ、無言で。
鍵の掛かった二人きりの部屋で

口角が、静かに、上がった。

「りょう、が?」

────だが、もう俺が俺じゃなくなってたら


かたん、と硝子が鳴る。
一歩無意識に身を引いたⅣは、背中を窓に押し付けながら、凌牙がゆっくり目を開けて、Ⅳの顔に手を伸ばすのを、金縛りのように動けずに見ていた。

「凌、牙、お前、」

目が




開いた眼は、闇の中で

薄っすら

紅く

笑って








月夜の真夜中
カーテンは風に揺れて
そこでは もう 虫の音一つしなかった。



【prologue】
『神になり代わられる凌牙の話』

◼︎◼︎◼︎





























▲presented by ei san


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