@ayame0601s
『主さまには、まずしっかり刀を集めていただかないと。そのためには霊力の底上げをせよと、政府からの通達が来ています』
目の前から淡々と放たれる言葉に、身体がぎゅっと縮こまった。
ここはどこだろうかと、ふと思う。ぼやける視界。靄がかかったように重たい頭。目の前にいる動物の顔すら、画質の悪い映像を見ているかのようにかすんで見える。
けれど小さい動物の体から発せられる言葉は、臓腑までも押し潰されるような重みがあった。
能力不足を、咎められている。
のしかかるその重圧に、身体は萎縮していく。
『戦況が戦況ですので、背に腹は変えられません。主さまには、今からお伝えする方法で霊力の底上げを図っていただきます』
目の前の動物──狐の姿をしたその動物は、淡々と言い放った。どこまでも事務的であり、そこに異論は唱えられない圧がある。
受け入れるしかない、と、私は承知の意を示すために頭を下げた。
そして夜、私は再び、目の前にいる彼に頭を下げるのだ。懇願の意を込めて。
彼に何を願い求めているのかは、よく思い出せない。
『君の助けになれるのなら』
そう言って、彼は微笑む。間接照明だけの、暗い部屋の中だった。目の前に座る彼は、私を不安にさせないためか、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。そんな彼を見て、複雑に絡み合う感情が胸を軋ませた。
なぜ、こんなにも切ないのだろうか。
確かに心の奥がひどく悲しいのに、その原因が分からない。見えている光景も、一枚ベールを挟んでいるかのように鮮明ではなかった。体も上手く動かせない。
ここでやっと、そうかこれは夢なのだと、頭の片隅で理解する自分がいた。
『ああほら、見て。あれは混ざりものだ』
不意に声が聞こえ、その言葉にびくりと肩が跳ねる。辺りを見渡し、数人と目が合えば、あからさまに視線を逸らされた。
突然、ガラリと変わった光景。見渡せば、着物やスーツを着た『同業者』と、傍らに佇む刀の姿が視界に映る。何かの集まりの場らしい。
同時にコソコソとした、それでいてこちらへ向ける意図を感じるような話し声が聞こえた。
混ざりもの。
その言葉に、ギュッと胸が締め付けられた。
『主、気にする事はない』
すぐ隣から聞こえた声に、そちらを見上げる。彼は私と視線が合うと、その目元を和らげた。
『他所は他所。うちはうち、だろう? 俺はきみの元に来れて良かったと思ってるぜ』
白い睫毛で縁取られている目を細め、ニッと口角をあげて。
彼──鶴丸国永は、人懐っこい笑みで笑っていた。
不意に上昇した意識と共に、ハッと目が覚める。
緊張したように体は硬直し、無意識に止めていたらしい息を静かに吐き出した。
天井が視界に映っている。ゆっくりと周りを見渡せば、そこはこぢんまりとした和室だった。
小さな文机に背の低い本棚と、三面鏡付きの化粧台しかない、シンプルな室内。
私の部屋だ。
状況を確認した後、体の力が抜けていく。ひどい脱力感に加えて、心臓はどくどくと忙しなく鼓動していた。
──夢、か……。
そう認識した途端、どっと疲れが押し寄せた。
あまり気持ちのいい夢ではなかった。むしろ感じる心情は、辛いものであった。
鶴丸さんと、もう一人。それにあの狐は、以前見た夢にも出てきたものだった。
なぜ、こんな夢を……。
全然寝た気になれなかったものの、襖の隙間から外の陽が微かに差し込んでいる。居候の身で、寝坊助はいけないだろう。
そう思い、ゆっくりと体を起こす。その際、ふと鼻を掠めた香りに、辺りを見渡した。
──あれ?
お香のような香りが、微かにした気がしたのだけれど。ほんの一瞬だけだったため、今ではもう感じられない。
それは、囲炉裏の前でうたた寝をしていた時に感じたものと、同じ香りのように思えた。
朝餉は各々で取るから準備の心配はしなくていい、と。昨夜、膝丸さんに言われたその言葉を思い起こしながら厨房へ向かえば、近づくにつれて美味しそうな香りが漂い始める。
魚を焼いているのだろうか。芳ばしい香りに誘われるように厨房を覗けば、そこにいたのは膝丸さんだった。
その後ろ姿に声をかけようとした矢先、膝丸さんはこちらを振り向いたため、思わず肩が跳ねる。視線が交わったのを合図に、とりあえず頭を下げた。
「あ、おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか?」
にこりともしない表情で淡々と問われ、はい、と頷いた。よく眠れたわけではないけれど、反射的に頷いてしまった。膝丸さんは「そうか」と呟きつつも、じっとこちらを観察している。
「君も朝餉を食べるだろう? 器に盛ってくれないか」
「え、私の分もあるんですか?」
「兄者と俺の分も作らなくてはだからな。ついでだ」
そこに器があるから、と、彼は顎でクイと指し示す。出ていたのは三人分の食器だった。彼は始めから用意してくれていたらしい。
「ありがとうございます」とお礼を言いながら、言われた通り食器を手に取った。
まさか、私の分まで用意してくれているとは思いもしなかった。
きりっとした強い目力や、微笑みもしない表情から、厳格な印象を受けたものの。彼の見せる細やかな優しさに安堵感が生まれる。ここに来て緊張続きだった心が少しだけ休まるのを感じながら、彼の作った料理を食器によそった。
用意した食膳を持って膝丸さんと食堂へ向かえば、そこにはすでに髭切さんの姿があった。頬杖をつき、まだ眠そうにぼーっとしている。
朝食は膝丸さんと髭切さん、そして私の三人だけだった。二人分の食膳を持った膝丸さんは、一つは髭切さんの前へ。もう一つはその隣へと置いた。
彼らは並んで食べるのかと不思議に思いながら、昨夜と同じ様に離れた場所へ行こうとすれば、「一緒に食べないの?」と髭切さんから声がかかったため、足を止める。
「ご一緒していいんですか? お邪魔じゃないかと……」
「全然。いいよね?」
髭切さんは膝丸さんを見上げながら確認を取る。膝丸さんは「ああ、構わない」と返答すると、髭切さんの隣に座った。
必然的に彼らの前に座る事となり、迷ったものの、とりあえず髭切さんの前に腰かける。
私が座ったタイミングで、髭切さんがスッと手のひらを合わせ、膝丸さんもそれに続く。私も二人に習って手のひらを合わせれば、疎らに「いただきます」と呟いた。
「ふふ。こういうの久しぶりだね」
髭切さんが箸を手に取りながら、くすりと笑う。それに対して膝丸さんも「そうだな」と呟いた。
久しぶりというのは、朝食に対して、なのだろうか……けれど膝丸さんの手際の良さから、彼らは毎朝食事を取っているのかと思っていた。
何に対して久しぶりなのか検討がつかず、かといって深く聞いていいものなのか、悩みが生じる。
「髭切さんと膝丸さんは、いつも二人だけで朝食を取っているんですか?」
結局好奇心に勝てず、遠回しに聞いてみる。
髭切さんはお箸で器用に焼き魚の身を分けながら、うん、と頷いた。
「毎朝、弟が作ってくれるんだ。僕は朝が弱くて」
「代わりに、夕餉は兄者が作ってくれるではないか」
「そうだね。でもこれからは主が作ってくれるから、僕は楽できるなぁ」
ね、主。と、髭切さんは私に微笑みかける。ご飯を口へ運ぼうとした手を、思わず止めた。
あるじ──そう呼ばれた瞬間、胸の奥がざわついた。夢で見た内容が、一瞬フラッシュバックする。
けれどこの胸のざわつきは、生まれて初めて『主』と呼ばれたからかもしれない。
ふと視線を感じて膝丸さんを見やれば、彼は私と目が合うと、ふいと視線を逸らして食事を再開した。
まるで、何か思うところがあるような雰囲気。
何となく、ただ何となく、気まずい空気が漂い出す。
「……三日月さんと鶴丸さんはどうしてるんですか?」
もう、この際ついでだ。そう開き直って、疑問をそのまま口にした。昨日の夕食時を見た限り、あまり仲良くないように感じたため、もしかするとこの質問は地雷かもしれない。
そんな心配はあったものの、髭切さんはさして気にしていないようだった。
「ああ。あの二人は、こういう食事をしないから」
口元に笑みを乗せ、視線は食膳へ落として食事を進めながら、ただ淡々と言う。
それ以上の説明はない。私もさすがに、それ以上突っ込んで聞く事が出来なかった。
こういう食事をしない。それなら、どういう食事をしているのか……それを聞いてしまえば後悔するような直感が胸を過る。
『きみは、いつから喰っていないんだ』
別本丸の刀である鶴丸さんが髭切さんに放った、その言葉を思い出す。あの言い方は、どうにも不安を煽られるものがあった。
それに昨日、此処の鶴丸さんと夕飯の話をした時、彼は『久しぶりだ』と言っていた。
やっぱりあの『久しぶり』というのは、こういう料理を食する事に対してだったのかもしれない。
それなら、彼らは普段、一体何を食しているのか。
髭切さんの言葉に深追い出来ず、「そうですか」と、それしか言えなかった。
それからは、ぽつりぽつりと会話をしながら食事を進めた。電気が通り始めたからあれが出来るだの、日が出ていればあれをしようだの、髭切さんと膝丸さんは話し合っている。それを耳に入れながら、ちらりと髭切さんを盗み見た。
目を伏せ、片耳に髪をかけながら、箸を口元へと運ぶ。たったそれだけの動作、姿なのに、つい見入ってしまうほど彼は整っていた。
夢の中で、私は何に対して、彼に頭を下げていたのだろう。
夢に出てきたのは、狐と鶴丸さん。そしてもう一人──髭切さんだった。
夢の中で頭を下げ、何かを頼み込んでいた相手は彼だったのだ。
たかが夢だと思うものの、知りたいような知りたくないような相反する気持ちが胸に渦巻き、心地の悪さを紛らわすように箸を進めた。
食事が終われば、今日こそはと皿洗いを買って出て、それが終われば膝丸さんに書庫へと案内してもらった。
書庫という呼び名に相応しいくらい、室内には所狭しと本棚が並んでいる。
奥へと進んでいく膝丸の後を追いながら、陳列する本へと視線を滑らせた。
本棚には色んな種類の本が並べられている。歴史から小説、図鑑、医学書まで──とそこで、本棚の隅に立て掛けられた数冊のファイルが目に入った。
出陣記録。
思わず足を止める。筆で見出しが書かれたそれは、他の製本された既製のものとは違い、明らかに此処の記録として綴じられたものだった。随分と古そうに見える。出陣記録の他にも、数冊ファイルが並んでいた。
これは、一体──。
そっと、そのファイルへと手を伸ばす。
「あったぞ。君の探していた料理本」
不意に声がかかり、びくりと手を引っ込める。
気になりつつもファイルは手に取らず、膝丸さんの元へと急いだ。
膝丸さんは腰を落とし、パラパラとページを捲りながら本を見ている。
「意外と揃っていたんだな。和食から洋食、中華まであるぞ」
膝丸さんはあまり料理本を見ないのだろうか。パタンと手元の本を閉じると、その品揃えに感心したように、陳列された本をしげしげと眺めている。
「ありがとうございます。昨日も何か足りないのに、それが分からなくて」
「昨日……そうだな、もう少し、出汁がきいていたら良かったかもしれないな」
「出汁、ですか」
「ああ」
出汁、ともう一度頭の中で復唱する。そういえば、出汁を一から取った事なんてないな、とふと思った。いつも粉末のものやパックのもので済ませていたのだから。
出汁はどうやって取るのだろうか……そう考えを巡らせていれば、膝丸さんのじっとこちらを見る視線にハッとした。
探るような視線を私に寄越した後、ゆっくりと口を開く。
「まさか、君……」
そこまで言っておいて、彼は言葉を途切らせた。
君、出汁を取った事がないのか?
そんな続きも聞こえてきそうな彼の言葉に、先回りして頷いた。
「……はい。出汁を一から取った事がなくて」
「そう、か」
膝丸さんは少々呆気に取られたように、目をパチパチ瞬きさせていた。
昨夜は、かまどでの米の炊きを。今夜は出汁の取り方を膝丸さんから教わる事になり、彼とは書庫の前で別れた。
きっと、何も出来ない娘だと思われているに違いない。仕事が忙しくて満足に自炊出来なかったんです、なんて言い訳は此処では通用しない。
恥ずかしさが込み上げてくる。けれど、膝丸さんはやっぱり優しいのだろう。何も分かっていない私を放置するでもなく、かといって卑下するわけでもなく、「出汁はきいていた方がいいからな。今日は出汁の取り方を教えよう」と真面目な面持ちで言ってくれた。面倒見がいいのかもしれない。
そんな彼のおかげで、何も出来ない恥ずかしさはあったものの、体は萎縮せずにすんでいた。出来ない事に対して咎められ、嫌味を言われる職場とは大違いだ。
夕飯の準備まで時間があるため、今日は洗濯と、屋敷内の探索をしようと思っていた。外廊下から空を見上げれば、今日は曇りだ。太陽は見えないものの、昨日よりかは明るかった。
きゅっきゅと鶯張りの廊下が鳴る音を耳に入れながら、屋敷内を見回して歩く。
電気が通り始めた事が分かったからか、廊下にも明かりが灯り、随分と視野が鮮明になっている。
屋敷内には部屋がたくさんあった。襖を開けて中を覗き見れば、どの和室も埃っぽかった。今は使われていないのだろう。浴場で見た脱衣かごの数といい、やっぱり元々は大所帯だったに違いない。
今は髭切さんと膝丸さん、そして鶴丸さんと三日月さんしか居ないようだけれど。他の人たちは、どこへ行ってしまったのだろう──。
そんな事を考えながら探索を続けていれば、襖の開いた一部屋が視界に入る。中を覗けば、小さな机に小さな本棚、端には布団が畳んで重なっていた。
今までの部屋と違い、明らかに生活感のある部屋だった。もしかしたら、髭切さん達の部屋なのかもしれない。
それならあまり覗き見しては失礼だ、と、その場を後にしようと思った、その時。ふと見えた物に、目が釘付けになった。
刀だった。
刀が二本、刀掛けに飾られている。
通りすぎようとした足をその場に留める。無意識のうちに、こくりと唾を飲み込んだ。目をその刀から離せない。
髭切さんが腰に下げていたものと、似ている気がする。
唐突に、間近で見たい衝動に駆られ、辺りを見渡した。
誰もいない。誰かがこちらへ来る様子もなかった。鶯張りの廊下は、鳴りを潜めている。
少し。少しだけ……。
見えない何かに引き寄せられるように、足を部屋へと踏み入れる。心の底から生じる好奇心に抗えなかった。魅せられるように、吸い寄されるように、視線がその刀から離せない。
一歩一歩と近づき、刀掛けの前で静かに正座をする。
飾ってあるそれを目の前にして、言葉が見つからなかった。
不思議な感覚だった。今まで、刀に興味を持った事なんて一度もなかったのに。
それなのに、目の前に飾られてある刀を目にして、どうしようもなく心が揺さぶられた。
どこか懐かしく、そしてどこか泣きたくなる感情。
胸が締め付けられて、熱いものが込み上げてくるような。
心が震え、目の奥がジンと熱くなる。
触れたい──。
その感情に促されるまま、そっと、その刀へと手を伸ばした。
「何しているの」
突然聞こえた声に、ハッと息を呑んだ。
反射的に隣を見上げれば、一体いつから居たのか、髭切さんがすぐ側で私を見下ろしている。
心臓が思い出したかのように、ドクンと強く脈打つ。刀へ伸ばした手は引っ込め、咄嗟に後ずさった。
しまった──一体、いつから。廊下の音は全く聞こえなかったというのに。
焦りで心臓の鼓動が速まる。どうしよう。見つかってしまった。謝らなくては、と、焦燥感に駆られた。
「あ……ごめん、なさい。勝手に」
途切れ途切れになりつつ、なんとか言葉を紡ぐ。髭切さんはそんな私を見下ろしたまま、静かに腰を下ろした。
目線が同じ高さになる。急に近づいた距離に、緊張するのも束の間。髭切さんは手袋を外し、その手をこちらに伸ばしてくる。
すぐ目の前に差し迫った彼の手に、ひっと喉がひきつった。叩かれるのかもしれない──何をされるのか分からない恐怖に襲われ、咄嗟に目を瞑る。
けれど髭切さんは、私の目元にそっと触れるだけだった。
拭うように滑らされる感触の後、静かに離れていく。恐る恐る目を開ければ、髭切さんは自身の親指をじっと見つめていた。
何がなんだか分からないまま、私も自分の目元に触れる。指先の濡れた感触に、驚いた。
無意識のうちに、涙を流していたらしい。
涙を拭ってくれたのか──そう思いながら髭切さんを見やれば、彼はその親指を、ゆっくりと口元へ運んだ。
「……甘い」
髭切さんはぼそりと呟く。そんな彼を、ただ唖然と見守る事しか出来なかった。
無意識に涙が流れていた事にも驚いたけれど、その涙を拭ってくれた事にも驚き、更にはそれを……それを、味見された。
それに、甘い……? 涙なのに? よく分からず頭は混乱するも、得たいの知れない羞恥心に襲われ、顔に熱が集まり出す。
「なっ、な……」
「なんで泣いてたんだい?」
上手く言葉が出てこない私をよそに、髭切さんは小首を傾げて問いかけてくる。彼は至って冷静だった。
そんな彼に反して、私は動揺から戦慄き、上手く言葉が出てこない。
なぜ泣いていたのか。その質問は、私も自分に問いかけたいくらいだった。
「な、泣くつもりはなかったんです。それに、泣いてた事にも気づきませんでした」
なんとか正直に話せば、髭切さんはじっとこちらを見つめた。その瞳は心の内まで見透かされそうなもので、動揺に次いで居心地の悪さも襲ってくる。
髭切さんは「そっか」と呟くと、静かに立ち上がった。飾られている刀へ手を伸ばし、それを携える。
「刀、興味あるんだね」
「え?」
「だから、ここで見ていたんだろう?」
「あ、ごめんなさい……」
「別に怒ってないよ。見てもいいし。ただ、下手に触ると怪我しちゃうから」
そう言いながら、彼は鞘から刀身を抜いた。
露になっていく刃物に、一瞬びくりと体が強ばるものの。不思議とそれ以上の恐怖は感じず、むしろますます見入ってしまうもので。
スラリと刀を抜くその動作は自然で、とても滑らかだった。刀の扱いに慣れているのだと改めて感じさせられ、髭切さんは今はジャージ姿だというのに、それでさえもとても様になって見える。
それに、緩やかに反った刀身も、光を反射して美しいものだった。
思わず見とれていると、髭切さんはふと眉をひそめた。
「……んん?」
手にした刀身を眺め、訝しげな声を洩らす。髭切さんは手首を返しながら、色んな方向から自身の刀を念入りに見つめていた。刀に、何か違和感を覚えているらしい。
どうしたんですか──そう問いかけようとしたところで、目に入ったものに口をつぐむ。
腕捲りしている彼の腕に、血の滲んだ切り傷。
それはあまりに痛々しく、刀よりそちらへと意識が向いてしまった。
「えっ、あの、髭切さん。その傷どうしたんですか?」
「うん? ああこれ。さっき庭の手入れをしていたんだけど、その時に切ってしまったみたいでね」
血が地味に止まらなくて。と、彼は平然と言ってのける。けれどその傷口からは、まだじわりと血が滲み出ていた。一体、何で切ったのだろうか。ミミズ腫のように赤く腫れ出してもいて、見るからに痛そうだ。
「消毒しないと化膿しちゃいますよ。マキロンとかありますか?」
「まきろん?」
「消毒液です。他の物でも……あと、絆創膏とか」
「うーん、ないねぇ。あっても随分古いだろうし」
刀を手に持ったまま、彼は考え込む。
今まで怪我をしたらどうしていたのだろう。放置で治るのだろうか……付喪神、だから。
よく分からないものの、血は滲んでいるため絆創膏くらいは必要だろう。そういえば絆創膏ならキャリーケースの中に入っていたはずだ、と思い出す。
髭切さんには傷口をよく洗い流してもらうよう言い、急いで自室に戻った。
こんな事になるなら、消毒液も持参しておけば良かったと思うものの、私の女子力ではせいぜい絆創膏止まりだった。絆創膏を持っていただけでも誉めたいくらいだ。
絆創膏を何枚か手に取り、足早に彼の部屋へと向かう。部屋に着けば、髭切さんは胡座をかいて座り、自身の腕をしげしげと眺めていた。刀は元の位置に戻されている。
「傷口、洗い流しました?」
問いかけながら部屋へと入る。髭切さんは「洗い流したんだけど」と口を開いた。
「治ったみたいなんだ」
そう言って、私へとその腕を見せた。
その腕を見て、思わず目を見開く。
──傷が、ない。
さっきまであった生々しい傷口は、どこにも見当たらなかった。傷痕さえもなく、彼のきめ細かい肌だけが視界に映る。
「え……え? あ、やっぱり。付喪神だから、ですか」
狐につままれたように呆然とするも、髭切さんは付喪神であり、人間ではない。そう考えれば腑に落ちた。やっぱり私たち人間とは違い、傷を放置していても治る性質らしい。
そう思っていたものの、髭切さんは否定する。
「いや、普通はすぐに治らないんだけどね。手入れをされなければ」
「手入れ?」
「そう。物が壊れたら修理が必要だし、人間だって治療が必要だろう。それと同じ」
つまりは付喪神といえど、何もせずに傷があっという間に治るものではない、と。言いたい事は分かったものの、それじゃあ何故……と疑問が残る。
沈黙が落ちる。髭切さんにとっても、当たり前の事ではないらしい。彼は自身の腕に視線を落としながら、何か考え込んでいる。
何を言えばいいのか分からず黙りこんでいれば、沈黙を破ったのは髭切さんだった。
「さっき、君の霊力を貰ったからだろうね」
ぼそりと呟かれた言葉に、理解が追い付かない。
髭切さんは視線を落としたまま、ため息をつくように笑みを溢した。
「ご馳走さま」
そう言って顔を上げた彼の表情は、どこか苦笑しているものだった。
霊力とは、一体何なのだろう。
その疑問がずっと胸の中でわだかまり、考える度に苦々しい気持ちが込み上げてくる。
髭切さんは何回か、霊力がどうのという話をしていた。霊力が供給されたから電気が通り始めた、だの。霊力を貰ったから傷が治っただの。
それに、夢によく出てくる『霊力』という言葉にも、どこか引っ掛かりを覚えていた。霊力不足を咎められるあの夢は、何かしら関係があるのだろうか。
分からない。検討もつかなかった。それでもこの件に関して考える度、胸が押し潰されるように苦しくなる。
しかしこの件に関して、うじうじと悩んでいる暇もなかった。私には此処で過ごすための、重大な役割がある。
彼ら付喪神を、祀り直す事についてだ。
膝丸さんから出汁の取り方を一から教わり、ついでにもう一度、かまどでのお米の炊き方を教わって。料理自体は、味見の時点で自分でも納得いくものになっていた。料理本のおかげもあって、調理中の余裕も生まれる。
そのため、なるべく真心をこめながら作る事ができていたのだ。
味も悪くない。気持ちも、ちゃんと込めているつもりだった。
それなのに……それなのに、どうしてもやっぱり何かが足りないらしい。
鶴丸さんは、毎晩、食事の途中で席を立つ。
それはおそらく、彼らを祀り直すという私の気持ちが足りないからなのだろう。
他の三人も、この件に関して何も触れてこない。
少しでも前進しているのか、それとも全く変わっていないのか、何も分からなかった。それだけでも誰かに聞いた方がいい気もするものの、それなら誰に? と自問自答する。
契約をした髭切さんがいいのだろうか。けれどどちらかというと、膝丸さんの方が聞きやすい気もした。
三日月さんとは、月見酒をしていたあの日から会話をしていないからか、聞きにくいのが本音だった。それか、彼から感じる空気感に怖じけづいているからかもしれない。彼は、得体の知れなさが強いのだ。そんな事を言ったら、此処の誰もが得体の知れず、聞きにくい事には変わりないのだけれど。
どうしようか悩みに悩み、ついに一週間が経過してしまった。さすがに、そろそろ少しでも前進した方がいいかもしれない。
今日の夕飯の後、膝丸さんに助言をもらおうか──特に、鶴丸さんに少しでも食べてもらえるように。このままの状態が長引くと、もう食べてもらえない気がする。
そんな事を考えながら、夕餉の準備をしている時の事だった。米を研ぎ、羽釜に移していたその最中。
「なあ、いつまでこんな事を続けるつもりなんだ?」
突然聞こえた声に、肩が大袈裟なくらい跳ねた。危うくザルを落としそうになり、何とか持ちこたえる。
恐る恐る視線を向ければ、白い和服が視界に入る。
鶴丸さんは部屋の柱に背中を預け、じっとこちらを眺めていた。
「つ、るまる、さん……」
一体いつからそこに──そんな疑問を口にする余裕なんてなく、彼の名前を呟くだけで精一杯だった。まさか考えていたその人がいきなり、しかも音もなく現れるとは思ってもいなく、寿命が一気に縮んだ気さえする。
腕を組みながら佇む鶴丸さんは、軽く小首を傾げて、その口を開く。
「きみ、俺たちを祀り直す事がどういう事か、全く分かっていないだろう」
いつもの笑みをたたえながら言われた言葉に、胸を刺された。同時に、やっぱり、と、望んでいないタイミングでの答え合わせをする。
やっぱり、彼が食事を途中でやめるのは、私の気持ちが足りていないからだったらしい。
何も答えられず──正確にはどう答えればいいのか分からず、口ごもる。鶴丸さんはそんな私へ視線を据えながら、静かに柱から離れた。びくりと体が強張る。
ゆっくりこちらへ近づいてくる彼を、ただ見守るしかできなかった。何か言わなければ、と思うも、鶴丸さんの雰囲気に呑まれて言葉が出てこない。
「食事から霊力を喰うなんて、少々まどろっこしいんだよなぁ」
しばらく付き合うのも面白いと思ったんだが。そう続けながら、鶴丸さんは一歩一歩足を進めてくる。
彼が近づく度、緊張が高まって肺をしめつけた。
彼の醸し出す、その空気感が。顔に貼り付けている、その微笑みが。
怖い、と、恐怖心が足元から這い上がってくる。本能は、危機感を察し始めていた。
だめ、だ。今すぐ逃げなきゃ──
衝動に駆られるも、体が動かない。金縛りにあったかのように、鶴丸さんが近づく様子だけを視界に映す。
すぐ目の前に鶴丸さんが来ても、微動だに出来なかった。
ただ、彼を見上げて。目元を和らげて微笑む彼の瞳と、視線が交わる。
「もっと、手っ取り早い方法を教えようか」
そう言ったかと思えば。
後頭部に手を回され、近づく距離に体が竦んだ。
落ちてくる彼の影に。
重なるその唇に、息を呑む。
「──ッ」
何が起こっているのか、瞬時に判断できなかった。
唇に触れた、冷たい感触。
鶴丸さんの唇が私の唇に触れている。そう理解した途端ひどく混乱し、頭に血が上った。咄嗟に離れようとするも、後頭部を支える彼の手がそれを許さない。
鶴丸さんは伏せていた目を開き、至近距離で視線が交わる。唇は食むように口付けられ、口を開けろと言いたげに舌を這わせられれば、背筋が震えた。目を瞑り、唇もぎゅっと結ぶ。
それが気に障ったのか、突然腰を引き寄せられたかと思えば、服の下へと差し込まれた彼の手に喉がひきつった。
「ッ、ゃ……っ」
微かに声を漏らしてしまい、ハッとするのも束の間。開いた唇を割って彼の舌がねじ込まれる。
歯列を越えて入ってきた彼の舌に、驚いて舌を引っ込めるものの。ぐっと体を引き寄せられ、更に差し込まれる彼の舌に強引に絡めとられる。
絡みつくように擦り合わされ、舌の合わさる感触にぞくりと肌が粟立った。
「ふ、……んっ……」
理性では拒否しているのに、官能的な彼の口付けに翻弄され、頭の芯がじんと痺れる。鶴丸さんの胸板を押し返そうとするも、びくりとも動かなかった。私の力では、男性である彼に敵わない。
──違う。力が、入らないのだ。
緊張や恐怖からではない。筋肉が弛緩していくかのように、力を込められない。
力がどんどん抜けていく。まるで吸い取られているようだと、はたと気づいたその瞬間、本能が警報を鳴らした。
だめだ、このままでは。死んでしまう──
なぜか強く、そう感じた。
「ッ!」
ガリッと嫌な音が伝わるのと同時に、鶴丸さんは私から離れた。彼の支えがなくなり、腰が抜けて座り込む。
必死だった。力が入らない中、彼を遠ざけるにはこれしかできなかったのだ。
鶴丸さんの口元に、鮮やかな赤が差している。
彼は唇から流れる血を手で拭うと、それを見て苦々しげに顔を歪め、舌打ちをした。
「……っは、随分と気が強いな」
苦く笑いながら、鶴丸さんは吐き捨てる。
「髭切にはするくせに」
呟かれたその言葉は、ほとんど独り言のように小さいものだった。けれど耳に届いたその言葉に、疑問が生じる。
髭切さん? なぜ今、彼の名前が……。
訳が分からず呆然としている私を、鶴丸さんは見下ろした。
細めたその目はひどく冷たく、唇の端を歪めて笑うと、彼は言った。
「きみのおかげで、俺達は此処に居るんだ。そう簡単に帰れるとは思わない方がいい」