@toasdm
「っ……」
月夜の夜桜、舞い散る花びらが可視化した風の軌跡が、二人の足元を抜けていく。葛之葉さん、と呼びかける彼女はしかし、雨彦の方を振り向けない。
「……しばらく、このままでいいかい?」
どうにかこうにか頷くことだけはできたが、腕は全く動かせそうにないほどに、後ろから覆い被さるようにして抱き着いてきた雨彦の、腕の力は強かった。
「…………すまないな」
言葉すらも、うまく発せないのは、決して抱きしめる力の強さだけではないはずだ。あまりにも悲痛という言葉がよく似合うような、悲しげな雨彦の声に、彼女は呼吸すらも忘れてしまったように、押し黙ったままになる。
「お前さんが、桜に攫われちまうんじゃないか、ってな……」
ふる、と震える雨彦から漂う酒の香りに、彼女は宴を思い出す。結構飲んでいたから、そんな風に弱気になってしまったのだろうか、まで考えて、彼女はひとつの違和感にたどり着いた。
「葛之葉さん……?」
「……なんだい?」
酔っていて、力加減ができないのはなんとなくわかる。気が弱くなって魔が差して、日頃から「お前さんは豪胆だな」と気の強さや体の丈夫さを褒める雨彦ですら、そんな風に考えてしまうのも、仕方がないとは言えなくもない。だがしかし――…。
「酔ってますね?」
「飲んだからな」
「っていうか、笑ってますよね」
「ッフ……いや、別に、っくくく……」
震え方が少しおかしいとなると、豪胆であるという雨彦の評価と、攫われてしまいそうという恐れとの関係性が少し怪しくなってくる。それに加えて今の反応と、普段の雨彦のからかい好きの性格とを加味すると、今振り返ったら雨彦の顔は恐らくは――…。
「んっ」
「こら」
なんとか腕の中でぐるりと体を回して、彼女は雨彦の表情を見上げる。すぐに姿勢を戻されてしまったが一瞬見えた雨彦の顔は、悲痛さも必死さも全くない、いつものからかい顔だった。
「前向いてろよ今いいところだろう」
「やっぱり笑ってるじゃないですか!」
おかしいと思ったんですよ、と腕の中で暴れる彼女に、雨彦はとうとう笑いを隠そうともせずにきつく抱きしめて白状する。
「っははは! あーバレちまったかい?」
「もー! 適当なこと言って抱きつきたいだけのただの酔っ払いじゃないですか!」
「飲んだからなぁ」
間延びした口調は酒のそれで、先ほどまでの迫真の演技はどこへやら、すっかり絡み酒になってしまった雨彦は開き直って、すりすりと彼女の頭に頬をすり寄せる始末だ。
「はーなーしーてーくーだーさーい!」
「いいだろう、酒と桜と月夜のせいだ」
「それは別な人たちの歌でしょうっ! こらっ、酔っ払いっ!」
ばたばたと暴れる彼女の力に負けるような雨彦ではなかったが、ちとからかいが過ぎたか、と雨彦は観念して彼女を解放する。余程全力で暴れていたのだろうか、ぜいぜいと肩を上下させる彼女の疲労っぷりも笑いを誘って、雨彦はけたけたと笑っている。
「ああ、っはははは……お前さんなら、桜に攫われちまうこともなさそうだな」
「当然ですっ!」
目を三角にして怒る彼女の頭をぽんぽんと軽く撫で、雨彦は長い息を吐く。
「おいしい思いさせてもらっちまったなぁ」
「勝手にしたんでしょうっ、勝手にっ!」
こういうところでそういうことしない!と未だ怒りの冷めやらぬ彼女を、雨彦は目を細めて見下ろした。
「へぇ……じゃあ、どこならいいんだい?」
する、と大きな手が、彼女の手に絡まってくる。きゅ、と繋いだ手の指先に力を込めた雨彦の、少々挑発的な色香にあてられたように、ぼぅ、っとした彼女の方も、酒は少々入っている。弱々しくもしっかりとその手を握り返して、彼女は小さく呟いた。
「……この後、家まで送ってくれるなら」
ざぁ、とまた風が桜吹雪を舞い上げて、薄紅色の嵐の中で、彼女はそっぽを向いたままぽつりと呟いた。
「私の、部屋なら、いいですよ」
「…………言ったな?」
雨彦の低い声は、桜吹雪の嵐の中でもよく通って聞こえた。