@botakuro
穏やかな日曜日はあっさりと崩壊した。
きっかけは鯉登の一言だった。
「お前はおやっどんに抱かれたのか?」
「は?」
突然の言葉に月島はただ困惑して、眉間を険しくする。何を言っているのかと聞き返す気も起きない。
一方の鯉登は、畳み終えた洗濯物を持ったまま固まっている月島を睨みつけながら腕組みをしている。そのまま無視して進もうとすれば確実に道をふさいでくると確信が持てるほど、鯉登の双眼は完全に月島を見捉えていた。
「とぼけても無駄だ。私の家に行ってから貴様は何かにつけておやっどんは立派だ、将来私もあんな風になるのだろうかと言って来るではないか」
「それがどう先程の発言に繋がるのですか……」
月島は重く痛み始めたこめかみを指先で揉んだ。
はっきりと呆れた様子の月島を見て、鯉登の鼻に皺が走る。鯉登は掌を自分の胸にばんと叩きつけた。
「月島にはこんなに立派な恋人がいるというのに、なぜおやっどんのことばかり言ってくるのだ!?おかしいではないか!」
頭痛が目眩まで連れてきた。
百歩譲ってもしそうだとしてもだ、どうして抱かれたことに繋がるのだ。
月島は思わず額を掌で覆って、重いため息をつく。
因縁をつける不良にしたってもっとまともなことを言ってくるだろう。鯉登の場合、飛躍していることにも間違っていることにも全く思い至ることなく月島へと詰め寄っている。
己の正しさを信じ込んでいる人間ほど厄介な物はない。
「そんな言い掛かり、お父上にも迷惑ですよ」
「またおやっどんのことか!そんなに口にするということは意識しているのだろう」
「だからくだらないことを」
鯉登は月島の左腕を強く握る。月島は思わず言葉を切った。貫かれるのではと危惧するほど、鯉登が向けてくる視線は真っ直ぐで鋭い。
「私がいなかった日が一日あっただろう。その日にまさか」
「妄想が過ぎます」
いつまでこんな不毛なやりとりをしなくてはならないのか。
月島は鯉登の手を外して洗濯物を持ち直した。気を抜けばすぐに昼になってしまう。貴重な休日をふいにしてしまうことは月島にとって望ましいことではない。
腹でも満たせば鯉登の機嫌も直るだろう。先送りにしようと決めた矢先、畳まれた洗いたてのタオルの山が大きく揺れて床に落ちた。
「分かった。じゃあ体に聞くことにしよう」
鯉登が月島の体を乱暴に引き寄せる。
見開かれた月島の瞳が、差し込んだ日で一瞬海松色に変化する。
鯉登は栓でもするように唇をぴたりと合わせて、長い舌で口を抉じ開けた。月島がなんとか押し戻そうと抵抗するが、短い舌も絡め取られて弄ばれる。
吐息すら奪い取るつもりかと重いほど、鯉登は執拗に月島の咥内を貪っていく。
鯉登の手がシャツの隙間に潜り込んだ。筋肉の隆起をなぞりながら腹から胸へと撫で上げて、乳首を爪の先でつっつく。
「っ……ふ……」
重ねた口から苦しげに漏れる声に、鯉登の目が細められる歯列を舌先で内側からなぞると月島の体が小刻みに震えていく。
月島が息苦しさのあまり鯉登の胸を叩くと、ようやく口づけが止んだ。
解放されたもののうまく空気が行き渡らず、月島は大きく呼吸を繰り返した。目尻には薄く赤が滲んでいる。
「うぁ!」
大きく開いていた口から、嬌声があがる。
月島の胸をいじっていた鯉登の指が、乳首をきつく摘んでいた。たくし上げた胸を舌でも刺激を与える。
「ゃめ・・・待っ」
「相変わらずいやらしい反応をする体だな、月島」
ちゅうと吸い上げると、ぽつりと赤い痕が浮かび上がった。ひとつ、ふたつと赤が増やされていく。
息が上がっていく月島の顔を、鯉登が掴んで持ち上げた。
「そんな蕩けた顔をおやっどんにも見せて喘いだのか?」
膨らんでいた熱の色が変わった。
膨らみきっていたそれがばんと破裂した。月島は両手で鯉登を突き飛ばした。一切手加減のない力で押された鯉登はそのままフローリングに叩きつけられる。
「いい加減にしなさい!」
月島の大声に空気がびりっと揺れた。
眉は吊り上がり、目ははっきりと開かれている。肩で息をしているのは口づけの余韻だけではない。
「分かりました。そんなに私が信用ならないなら結構です」
床に転がっているタオルを蹴ってから、月島は背を向けた。
「おい、どこに行くつもりだ!」
鯉登は慌てて立ち上がり、月島の肩を掴んだ。止められた月島は顔を向けたが、その眼差しは冷ややかなものだった。
「ああ、そうですね。お望み通り鯉登さんのお父上のところにでも行ってきましょうか」
鯉登の手をあっさりと叩き落として、月島は廊下をずかずかと進んで行く。ばんと廊下のドアが閉じられて月島の姿が遠くなる。
「な、待て月島!!」
鯉登が追いかけたが、玄関のドアが勢いよく閉じる光景しか捉えられなかった。
*
逆転劇に興奮する実況の声が部屋に響く。
話を聞き終えた前山は火を止めた。薬缶からはまだ忙しく湯気が出ている。
「それでここに」
「すまない……」
ばつが悪そうに小さくなっている月島に、前山は笑いかけた。
「いえ、一人暮らしなので問題ないですよ」
話しながら、前山は戸棚を開けた。
中にはココアや葛湯といった、溶かして飲む粉末が何種類か収まっている。月島へ声をかけようと顔を覗かせた。
来客である月島は一通り話し終えてからも、そわそわと落ち着かないままテレビを眺めている。
前山は何も言わず頭を引っ込めてから、適当に選びとったものをマグカップへと入れる。
「どっちが勝っていますか?」
「ん?あースコアが出ていないから分からん」
「そうですか」
前山は愛用しているマグカップへとお湯を注いだ。ココアの粉末が溶けて甘い香りを広げていく。
「いいんですか、鯉登さんのこと」
鯉登という単語に、月島の表情が曇った。
月島は前山からテレビへと視線を戻して頬杖をつく。
「別に少しくらい離れたっていいだろう」
「月島さんがいないと、鯉登さん大変でしょう」
「…まぁそうだろうが…」
座っている月島の頭が少し下がった。途切れた言葉は続くことなく、そのまま歓声に余韻も消されていく。
前山は月島の横顔を垣間見てから薬缶の蓋を開けて量を確かめた。
「月島さん、何か飲みますか」
「日本酒」
「僕としては暖かい飲み物がお勧めですよ」
前山は薬缶を月島に見せた。火を止めて少し経ったがまだ湯気が上がっている。
月島は考えるようにじっと薬缶と前山を見比べてから頷いた。
「お前の家だから、お前に従うか」
「はい」
こぽこぽとお湯が注がれて、ふたつのマグカップからも湯気が揺れた。
*
散らかったタオルを見様見真似で畳み終えた。
ローテーブルと同じくらいの高さに積みあがったものが、どこか不満な顔をしているように見えた。面白くない心地で、タオルの山を一瞥してから、ふんと鼻から息を吐く。
「何なのだ、あいつは」
鯉登は玄関を見た。鯉登の革靴だけが取り残されている光景に胸がくしゃりと歪んだ。知らず知らず唇が尖っていく。
「月島め。九州に行くだと?何をふざけたことを」
凍てついた眼差しが蘇り、払われた手がじんと痛んだ。
鯉登は腕組みをして月島が出ていった方向を睨みつける。しかし、それも束の間で居間に置いていた携帯電話を操作してすぐに耳へと当てた。
呼び出しが続いてから、留守を知らせるアナウンスと録音を開始する電子音が流れた。
握りしめた携帯電話がぎしっと小さく悲鳴を上げる。
「もしもし、おいだ。そん、もし月島が来ちょったらいっき連絡してくれ」
通話終了へと指をスライドさせてから、ポケットへと納める。
もしかしたらとすぐに取り出したが、先程の画面から何一つ変化はない。白けた顔をして再びポケットの中へと落とした。
ふぅと息を吐き出すと、腹からくぅと切ない鳴き声があがった。時計は昼が近いのだと訴えてきている。
鯉登は冷蔵庫を開いて覗き込んでから頭を上下させる。どこを見ても料理の材料ばかりで、すぐに食べられそうな物が見当たらない。月島が買ったと思しきものがあったが、手をつける気になれずそのまま扉を閉めた。
「……米でも炊くか。」
米櫃はすぐに見つかった。何回か見かけた、月島の手際をどうにか思い出していく。適当なカップで米を掬って、ザルへと移す。そのまま流しでがしがしと爪を立てて掻き回した。澄んだ水がたちまち白く濁っていく。
すっかり濁りが出なくなった米を炊飯器へと入れてから、近くに置かれていた計量カップを手にする。
そこで鯉登は立ち尽くした。
「たしか米と水を入れて、カップで量を決めていたな。どこまでが米でどこまでが水だ?」
釜には目盛りが書かれていたが、適当に米を入れた所為で当てにはならない。鯉登はカップを片手に釜を見つめてからひとつ頷いた。
「まぁ、これだけ乾いたものなら多い方がいいだろう。」
水を多めに注いでから炊飯と書かれているボタンを押す。カチンと固定する音を立ててから、炊飯器が始動したことを軽やかな音が知らせてきた。聞き覚えのあるメロディーに思わず鯉登は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「こんなものか。どうだ月島、ぁ……」
鯉登が目を輝かせて、勢いよく振り向いた。
しかし、言葉尻がふつりと切れる。何も置かれていないテーブルがその言葉を受け止めるだけだ。
輝いていた鯉登の目がするすると力を弱めていった。
「私は十分立派だと、なぜ月島は分からんのだ」
こぼれた声が拗ねた子供のように聞こえて、鯉登は眉間にきつく寄せた。通行人の笑い声がやけに耳についてますます深く皺が刻まれる。叩きつけるようにベランダの戸を閉めた。
炊きあがりまでの時間を確認してから自室へと向かうと、そこで揺れる物を見つけた。
鯉登のシャツがハンガーにかけられていた。皺ひとつなくピンとしていて誇らしげに胸を張っている。
揺れると、固さを帯びつつもどこか甘さもある香りが鼻孔をさらりと滑っていった。
鯉登が寝ぼけ眼で見た背中は黙々とアイロンをかけていた。
ひしゃげていた胸のあたりが更にぎゅうと潰される。手を当てて服を握りしめても、そこには届かない。
「……ふん」
鯉登はソファへと飛び込んだ。
腹は依然切ない音を立てている。胸の違和感もきっと空腹の所為だ。食事を取れば治まる。
うつ伏せになった鯉登が何回も自分へと言い聞かせてから、そのまま目を閉じた。
*
ぽーんと気の抜けた音がテレビから流れた。
前山は空になったマグカップを下げながら時計を見る。ぴたりと短針と長針が重なって天辺を示していた。
「もうお昼ですね」
「あ」
月島は口を開いて声を零した。
「どうかしました」
「鯉登さんの飯……」
言い切る前に、月島はうっと口を閉じる。ゆっくり視線を動かしてみると前山が顔立ちによく似合う柔和な笑顔を見せていた。
結んでいた唇が尖り、険しい眉間に皺が一本増えた。。
「前山、何か言いたいなら言ってくれ」
「いいえ。何でもないですよ。お昼、出前でも取りますか?」
前山が電話機の傍に束ねてあるチラシをテーブルの上に広げると、月島が覗き込んできた。
「懐かしいな」
「そうですよね。昔よく休日出勤して、昼は出前取ってましたもんね」
新人とは言えず、中堅にはまだ遠い時期、後輩の尻拭いと上司の要求に応えるべく駆け回っていた日々が思い出された。
気に入って頻繁に頼んでいた中華料理屋からは電話で名乗った時点で注文を先読みされたこともあった。
あまりの割合を見かねた和田と鶴見がサラダと健康茶を差し入れてくれたこともあった。
前山はある程度のジャンルで山を分けて、月島の前にチラシを置いた。
「今、こんな店もあるのか」
月島はひとつひとつを手にとって、隅々まで目を通していく。
「聞いた話ではネットで申し込むのもあるみたいですよ」
「そうなのか?時代だな。まったく知らなかった」
「最近は自炊ですか」
「ああ、鯉登さんが作れとせっついてきてな。できるものもだいぶ増えてきて」
月島がまたはっとした顔をして言葉を切った。そして今度は前山を軽く睨んだ。
「前山……」
「何ですか?」
お互いの顔を見つめ合う状況が続いたが、長針が動く前に月島が先に根負けした。月島は天井へと顔を向ける。 その眉間には深い皺が刻まれていた。
「どれにしますか?」
前山に促されて、頭を戻す。月島は近くにあった和食系のチラシを手に取った。
「じゃあ丼にでもするか」
「せっかくなら普段作らないような物がいいんじゃないんですか」
「それはそうなんだが……この親子丼美味そうだな」
親子。そう口にしてしまった月島の頭に収まっていた記憶の中でぶすりとした顔の鯉登の顔が飛び出してきた。
思わず苦いものを噛んだような表情になると、前山は不思議そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「いや。何でもない」
月島は姿勢を変えてベランダを眺めた。無意識に見慣れた建物がある方向へと視線が吸い寄せられていった。
*
軽やかに響く音楽へ手を伸ばした。
いつの間にかソファで寝入っていた鯉登は何事かと飛び起きた。音の発信源である携帯電話を掴んで耳に当てた。
「もしもし」
「ああ、おいだ。出られんで悪かったな」
「いや、そいより月島は」
鯉登が責付くと携帯電話越しに重々しいため息が聞こえてきた。
「わいはまた月島どんに迷惑をかけたんか」
当たり前のように鯉登に否があると決めつけられている。
父の呆れ返った口調に、鯉登はむっと目つきを険しくした。
勢いよく閉じた玄関のドアが過ぎり、寝付いていた苛立ちが再燃し始めた。
「迷惑など!月島のせいだ!月島がおやっどんが立派じゃと何度もゆてきたんじゃぞ。おいちゅう恋人がおっちゅうとにそげんこっゆ月島が悪か!」
「まさか嫉妬して、そげんこっを月島どんにゆたんじゃなかじゃろうな」
早口に捲し立てた鯉登に対して、鯉登の父は重みのある、いつもの口調で聞き返す。
うぐっと、鯉登は明らかに言葉を詰まらせた。
耳が痛くなるほどの沈黙が続く。
このまま心臓が止まるまで続くかもしれないと鯉登が懸念を抱いた、その瞬間、電話口で息を深く吸い込む音が聞こえた。
ああ、来る。そう思った直後、びりっと空気が張りつめた。
「こん大馬鹿者!!」
直撃を受けた鯉登の頭がぐわんぐらんと揺れる。
耳からぶつかってきた衝撃に平衡感覚も狂わされて、握っている携帯電話を落としかけた。
「聞いちょるんか、音之進」
鯉登はとんとんとこめかみを掌の窪みで叩いてから頭を横に軽く振る。何度か瞬きを繰り返してからようやく感覚が正常に戻ってきた。
「つ、月島と一晩中二人きりで過ごしていたじゃろう!そんたないをやっちょった?月島に聞いてん一向に話そうとせん。やましかて思われてん仕方なかじゃろう!」
擦れるような音がして、再びため息が電話から漏れ出てきた。ため息をつきながら、髭を擦るのは、父が本当にあきれ果てた時の癖だった。叱られた幼少期が蘇り、鯉登の自尊心がかりかりと小さく傷ついていく。
「わいはほんのこて月島どんにべったり甘えちょっど・・・」
「甘えてなんか」
「音之進」
遮られて名前を呼ばれれば、鯉登は反射的に口をきつく結んだ。
むやみやたらに怒鳴り散らす父親ではない。その分、この抑えた声で諭されるといつも何も言えなくなる。しかしそれと同時に腹立たしさで散らかっていた頭の中が一気に片づけられていく。
「こんた月島どんの名誉んために伝ゆっこっじゃ。あん夜はな」
*
空になった丼には米粒ひとつ残っていない。
前山と月島は揃ってテレビを眺めていた。昼前に起きた逆転以降、どちらのチームも点が入ることなく膠着状態が続いている。
ぶぶっと音を立てて、月島の携帯電話が振動した。
ポケットから取り出して画面を見ると、すぐにそのままテレビへと目を戻す。
「あれ、三塁にいるのって月島さんが注目していた選手じゃないですか?」
前山が声をかけたものの返事は来ない。
じっと月島の顔はテレビに向けられているが、歓声が上がっても際どい判定が下っても何の反応も示さない。
前山が月島の鼻先でひらひらと厚みのある手を振ると、ようやく月島の焦点が定まった。
「悪い。どうかしたか?」
「いえ。次はビール行きますか?」
「あー……いや、いい」
月島が首を横に振ったとき、再び携帯電話が振動した。
しばらく音を立て続けるが、月島は手に取らずただじっとやり過ごす。そして諦めたように振動が止んだ。
キンッと澄んだ音が響き、歓声が沸き上がる。
「俺にも、非はあるんだろうな」
似つかわしくない小さな声が前山の部屋に転がった。
前山は何も言わずただ月島の言葉を待つ。ひとつ転がると次々とぽろぽろと出てくる。
「薄々思ってはいた。俺が甘やかしているから、あの人はどこか成長できなくなっているんじゃないのかって」
携帯電話の画面には不在着信を告げるメッセージがある。
鯉登はどんな顔をして電話をかけていたのだろう。思い描こうとすれば喉が痛んだ。
「あの人を見ていると何かしたくなる。俺が出来る事なんて高が知れている癖に」
一人で生きていくために身につけたことばかりだ。だが、それらはいつの間にか鯉登のために使う物になっていた。
「あの人のためにはならないのに」
望めば、その脳裏にすぐ鯉登の姿を描くことが出来る。いつも眩しいほどの笑顔を浮かべていてほしいと心から願ってしまう。
少しでも曇ることがあるのなら、年甲斐もなく手を尽くそうと走り回るだろう。
でも、どこまでいこうとそんな思いはエゴでしかない。
そう理解しながら手を離そうとしないのは他でもない自分だった。
だんだん吐き気すら覚え始めた。粘り気のある唾液を飲み込みどうにか堪えて、月島は渦巻いていた答えを口にする。
「あの人は俺と離れた方が」
言い切ることすらできない。
自己嫌悪が泥となって自分の体の中に溜まっていく。
そのまま泥に溺れてしまえばいい。突き放そうとしたとき、柔らかだが芯のある瞳が月島を映した。
「そこからスタート、じゃあだめなんですか」
前山は月島の顔をじっと見る。
「月島さんが鯉登さんを甘やかしているとして、そこから変えることを選んだっていいじゃないですか」
「……それは、一切手を出すなってことか?」
月島がおそるおそる聞くと、前山は顔の前で手を振った。
「そんなことしたら生活が崩壊しませんか」
「絶対する。人としての生活が全うできなくなる」
間髪置かずに月島は勢いよく首を縦に振った。あまりにも真剣な月島の顔に前山は苦笑いを浮かべる。
「そんなになんですね。何も全部じゃなくていいんですよ。ひとつひとつ」
丸みのある人差し指がぴんと天井を指した。
「できることを一緒に増やしていってもいいんじゃないんですか」
前山は何も言わずにいる月島の前にしゃがんで窺う。月島は頬杖をついて唇を固く結んだままだ。視線は部屋の片隅に置かれている。
「月島さんはどうしたいんですか?」
前山の言葉が終わった直後、ピンポーンと来客を告げる音が響いた。
備え付けられた電話機にはランプが点滅している。
「あれ、誰だろう」
前山は腰を上げてインターホンを操作しようとしたとき、連続で鳴らされたチャイムの音が大波のように部屋に押し寄せてきた。
カメラを表示させると、猛然とボタンを押し続ける端正な顔立ちの青年が映っている。
画面を見た前山がゆっくりとソファの方へと振り向いた。ソファにいる月島も無の表情で画面を眺めている。ドア越しに「月島ぁ!いるのか!」と大声が聞こえてくる。
「月島さん……」
「悪い……」
月島は掌で顔を覆った。前山はボタンを押して鯉登に待つように伝えてから急ぎ足で玄関に向かう。
すぐに、どかどかと騒がしい足音が近づいてくる。たとえ画面を見ていなくても、この足音なら誰なのか分かっただろう。
「月島!!ここにおったか!!」
「人の家で騒がないでください」
顔を合わせるなり飛んできた小言に、鯉登は唇を尖らせる。不満げな鯉登に構うことなく月島は前山に目で詫びた。
「どうしてここに?」
月島が聞くと、鯉登は腰に手をあてて胸を張った。
「お前の知り合いを片っ端から訪ねた」
「そんな迷惑なことを……」
後でどれだけ謝りに行かなくてはならないのかと、月島は頭を抱えた。万が一尾形の所に行っていたとしたら一週間は嫌味を言われ続けるに違いない。
「迷惑なのは月島だろう。帰るぞ」
鯉登が月島の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「前山」
「大丈夫ですよ。また職場で」
人を和ませる笑顔を浮かべながら前山は鯉登と月島は見送る。後ろ髪を引かれるように月島が前山を見るが、そのまま鯉登に引っ張られて出て行った。
ぱたん、と玄関のドアが閉じると一気に静けさが戻ってきた。
「大丈夫かな」
前山はドアを見つめる。ドアの向こうで鯉登と月島はどこかに向かっているのだろう。外で喧嘩しているかもしれない。不安に駆られたが、前に出した足を元に戻す。
「でもまぁ二人でどうにかするしかないし」
鯉登と月島が並んだ背中を思い浮かべて、前山はうん、とひとつ頷いた。
「あの二人なら大丈夫か」
実況の叫びと、沸き上がる歓声が一気に部屋を賑やかにさせる。結果を確認してから前山はテレビを消した。
流しには丼がひとつ置かれている。
*
漏れ聞こえたラジオが試合の終了を知らせる。
前山の家を出てから、鯉登と月島は何も言わず家路に就いていた。鯉登は月島の腕を握ったまま歩調を落とすことなく歩いていく。月島が何度か解こうと試みたが、今は諦めて鯉登の動きに従っていた。
「おやっどんと話したぞ」
月島は顔を上げて、まじまじと鯉登の背中を見つめる。
「何故ですか?まさかあなたの妄想を話していませんよね。」
「九州に行った可能性を確認しただけだ」
「まさか鯉登さんと一緒でないときに行くわけがないでしょう」
何も言わず鯉登は二、三歩進む。
「そうか」
二人が歩く横を自転車に乗った少年たちが駆け抜けた。競争しているらしく猛然とペダルを漕いで、はしゃいでいる。ずりーぞー!と叫んだ声があっという間に遠くなった。
「月島」
足を止めることなく鯉登が名前を呼んだ。
「お前はただ傍で私を見ていろ」
横断歩道の信号が点滅して急かしてくる。すぐに直立した人の姿に切り替わった。
「そして一瞬も逃すことなく、私がいかに立派なのかをその目に、その耳に、いやおまえの全てに刻み込め」
鯉登の顔は見えない。届く声はいつもの自信に満ちあふれた口ぶりとは違っていた。
「だから、勝手にどこかへいなくなるな」
鯉登が掴んでいた腕を離して、月島の手を包み込むようにしてから握った。
熱い。汗ばんでいる。大きい。肉刺がある。月島は手の甲から伝わる感触をひとつひとつ拾っていく。その度に胸の奥から喉の方へとくすぐったさがこみ上げてくる。
月島が手を動かそうとしたとき、前方からぐぅと切ない音が聞こえた。繋いでいた手を見ていた月島の目が、鯉登の背中へと動く。
「鯉登さん?」
「気のせいだ」
「何も食べていないんですか?」
何の返事もない。月島は咄嗟に冷蔵庫の中身を広げて、何が作れるかと頭を回転させる。
「帰ったら飯が炊けている」
思いがけない言葉に、月島は目を丸くした。
「鯉登さんが炊いたんですか?」
「他に誰がいる。あんなもの私にかかれば楽勝だ」
月島の反応が余程満足だったのか、誇らしげに鯉登は言ってみせる。鯉登の口ぶりがいつもの堂々たるものになっていた。
「そうでしたか」
月島は鯉登の手を握り返す。
次の坂を登れば見慣れた景色が広がって家が見えてくる。
どこか懐かしさを感じて、月島は深く空気を吸い込む。
飛び出した時に張りついていた強ばりはすっかり解けていた。
玄関には、くたびれたスニーカーと手入れされた革靴が揃えて置かれている。並んだ靴を眺めてから、月島は顔を上げた。
「鯉登さん」
名前を呼ぶと藍にも映る艶やかな黒髪を揺らして月島の方を見た。
すぅと息を吸ってから、月島は鯉登を見つめ返す。
「確かにお父上は立派な方です。素敵な方だと思います」
鯉登の顔が露骨に不機嫌なものに変化した。これでもかと眉根を寄せて、鼻梁に皺が出来ている。
鯉登の憤りを前にしても月島は表情ひとつ変えていない。鯉登はずかずかと月島へと近づいていく。
「月し」
ま、と口を開いた鯉登の体が傾く。
鯉登の胸元を引っ張った月島が、自分の唇を鯉登の唇へと重ねた。
思いもしなかった状況に鯉登は目を見開いてただ固まっている。触れただけで離れたが、鯉登は動かないままだ。
月島は直立したままの体を抱き締めて、鯉登の胸に額を押し当てた。どんどんと内側から胸を大きく叩く音が響いている。
「ですが、私がこういうことをしたいと思うのは他でもない、あなただけです」
「っっ月島ぁ!!」
鯉登の腕が月島をしっかりと抱え込んだ。思いに任せてまわした腕で力いっぱい恋人の体を抱き締める。
痛みを訴えた月島の声を聞くことなく、鯉登の指が月島の服の下へと這い上がっていく。
月島の息が震えて、鯉登の服をきゅっと握った。
「鯉登さん、ベッドに」
「そげん待つっか」
鯉登の瞳が妖しく光った。月島以外のものは一切その目には映らない。
月島はぼぉと鯉登の眼差しに浮かされて目を閉じる。
少しずつ上がっていくふたつの息遣いが、突如軽やかなメロディーが上塗りされた。
スイッチが入ったように月島の目がぱちと開く。
「炊飯器の音ですね」
鯉登がそのまま続けようとしたが、月島は鯉登の腕から逃れようと体を動かした。
「月島ぁ……」
「ほぐさないと固まりますよ。せっかく炊いてくださったというのに勿体ないでしょう」
「そんなもの後で良いだろう」
鯉登は逃さないよう月島をきつく抱き締める。
「だめです。それに鯉登さんお腹鳴っていたじゃないですか」
「いや、これしき」
ごつごつとした掌が、鯉登の顔面に押し当てられる。遠慮なく力が込められていき、苦しげな呻きが鯉登の口から漏れた。
月島の渾身の力に折れた鯉登が腕を広げると、月島は一切の名残を見せず、さっさと炊飯器がある台所へと向かった。
月島はしゃもじを持って蓋を開く。
自分以外が炊いたご飯などいつ以来だろう。柄になく緩んでしまう口元をどうにか堪えて中身をのぞき込んだ。が、しゃもじを握りしめたままの姿勢で静止する。
押しつぶされた鼻の頭を擦りながら、鯉登も台所へと入ってくる。
「鯉登さん」
「どうした?見事な仕上がりだっただろう」
月島は瞬きをしっかりとゆっくりとしてから頷いた。
「ええ、見事な粥ができています」
「粥ぅ?」
鯉登は月島の肩口から炊飯器を見た。
炊飯釜の中には、白米と言うにはあまりに水分が多く粘りが強そうなものが出来上がっていた。
「何故だ!?何が間違いだった?さっぱり分からん!」
自信満々だった所から打って変わって、鯉登は慌てふためいた。計量カップと米櫃と炊飯器を忙しく見比べている。
目に見えて動揺した鯉登の様子に、月島はため息を漏らしたが堪えきれずくしゃりと笑った。
「ひとまず食べましょうか。放っておくと増えますよ」
「意味が分からん。なんだ、故障か?」
大方、分量を間違えたのだろうと月島は一人結論を出した。鯉登に伝えることなく、ぱんぱんと掌を打った。
「これ以上増えると食べきれなくなりますよ。反省は後にしましょう」
「反省することなど」
「ほら、いつもの皿をお願いしますよ」
納得がいかないと言いたそうな鯉登に、月島はレンゲを取り出して催促した。
鯉登の横顔を見れば、未だに不満そうに唇を尖られている。
「せっかく月島が帰ってきたというのに」
ぽつりとした独り言が、月島の内側にぽつりと温かさを与えた。手にしたレンゲが重なって控えめな音を立てる。
「鯉登さん、今度一緒にやりましょう」
言い終わるか否かのタイミングで、整った顔が月島の視界いっぱいに現れた。
「何してるんですか」
「一緒にやろうと言ってきたから続きをと思った」
鯉登は一歩近づき、月島は一歩後ずさった。しかし月島の背中はすでに壁についている。
「炊飯器の粥、全部食わせますよ」
「それでもいいぞ。おまえを食してからだがな」
月島が何も言わずにいることを、鯉登は肯定と判断して月島の顎に手を添えた。互いしか捉えられないほどの至近距離で視線が絡む。
そっと唇を重ねようとしたとき、かさついた唇が動いた。
「小学生の頃の駅伝で、見事にコースを間違えた上に迷子になって大泣きしたんでしたっけ」
淡泊な口調で発した言葉に、鯉登がびしと固まった。
「猛犬注意の文字を無視して犬を撫でに行ったら尻を咬まれたのは確か中学生のときですよね」
「な……なぜそれを……」
鯉登の体が後方へとぐにゃりと折れた。いつ見ても驚くほどの柔軟性を遺憾なく発揮している。
「秘密です」
月島はかすかに笑みを浮かべてから再び手を叩いた。
「これ以上の話をされたくないのでしたら早く準備してください」
「待て月島。誰からそれを」
引っ付いてくる鯉登を構うことなく、月島は冷蔵庫を開く。
覗きこんで見渡せば米に合いそうなものがいくつか見つかった。それらを見繕ってテーブルへと運んでいく。
粥とご飯のお供が並べられたテーブルに、向かい合う形で腰を下ろした。
「いただきます」
「それで月島、先程の話は」
「早く食べないと続きしませんよ」
鯉登の手が動き始める。月島もきんぴらごぼうへと箸をのばした。
*
「月島どんなほんのこて音之進んこっを好きでいてくれちょるんじゃな」
鯉登の父が愛おしげに月島を見つめると白い頬が赤くなった。月島は誤魔化すように杯を口へと運ぶ。
「ただあいつはわがままなところがあっで大変じゃろう」
「まぁ……そういうところも、ありますね」
実の父からの指摘に、月島は苦笑いを禁じ得なかった。思い出せるものだけでも両手では到底足りないほどだ。
息子の状態を察した鯉登の父は豊かな髭を撫でてから手招きする。
月島は何事かと首を傾げつつテーブル越しに鯉登の父へと近づいた。
「音之進がないかしたやゆてやれ」
鯉登の父が声を潜めながら伝える話に月島は肩を震わせる。
この話を鯉登が聞いたらきっと猿叫をあげて倒れてしまうだろう。次々に語られる鯉登の失敗談をひとつひとつ丁寧に胸の中へと納めていく。
いつか鯉登に言ってやろう。月島は意地の悪い楽しみを抱いて、鯉登の父の話に耳を傾けた。