@Mementomori_em
もう、昔のようには生きられない。
一.鬼
東京の下町。天から降り注ぐ灼熱を傘で遮りながら歩く男が一人。傘を持つその手は、一度も陽の光を浴びたことが無いかのように白い。黒い傘と暗色の着物がより一層彼の色白さを引き立たせていた。男は既に用事を済ませ、自宅へ帰る途中であった。
町に並ぶ家々は、まだ江戸の雰囲気を遺している。甘味屋の軒先で、見慣れた茶髪の男を見つけた。それにしても昼間にこんな所で彼を見かけるのは珍しい。
「よう、いずみん。こんな時間に外に居るの、珍しいんじゃねえの」
「うっわ」
気まずそうに茶髪の男は顔を顰めた。どうやら看板娘を口説いていたらしい。娘は新たに来た客人を見て店の中へ引っ込んでしまった。
「あーあ。いい所だったのに。ていうかその呼び方やめてくれる?」
「あ? 知るかよ。たまたま見かけたからちょっと挨拶しようと思っただけなのによ。それにいずみんて名前、可愛い感じするだろ?」
「はいはい。相手が女だったら許してたよ。……ほら、蓮太郎サンはそこに腰掛けてな。日陰のほうが良いでしょ」
いずみん、もとい近衛泉は蓮太郎に向かいの空席を指差した。
「んー、悪いね泉くん。本当ならとっとと帰りたいところなんだけどちょっと疲れちゃってさ。矢張りこの時期に出掛けるのは好(よ)くねえな」
傘を閉じ、どかっと腰掛ける。傘の下から現れた顔は日本人とは思えぬ美しいものであった。夜の闇を切り取ったような黒髪と、鮮血の如く赤い眼。顔立ちも日本人特有の平たいそれではないものである。加えて病的な色の白さときたら本当にこの世の人間とは思えない。
あちいあちいと言いながら蓮太郎は懐に仕舞っていた扇子を取り出し扇いだ。暦の上では既に秋だが、未だに秋の気配が訪れそうにない。少しして、先程の看板娘が冷たい茶を持って戻って来た。ついでに軒先に簾を立て掛けて貰えないかと蓮太郎が頼むと看板娘は只今、と店の奥へと消えた。
「あ、酷い。戻ってきたらお話しようと思ってたのに」
「店の迷惑になるだろうが。遊ぶのも程々にしろよ色男」
ぐいぐいと一気に茶を飲み干す。生き返った気分だ。
「あ、そうだ。蓮太郎サンのとこのあの子、どう?」
「けっ、別の女の話かよ。よく仕事してくれるぜ、いい下女だ」
「ええ……あんた本当にそういう対象でしか見てないの?」
泉は蓮太郎に軽蔑の眼差しを向ける。当の本人はそんなものすら気にしていないようだ。
「んだよ。別に俺はお前みたいな下心あってあの娘を買ったわけじゃねえぞ。もしもの時の非常食だからな」
「……蓮太郎サンて冷徹っていうか。もう少し人間らしくした方が良いんじゃない?」
蓮太郎と泉。二人は「人のなりをした人ならざる者」である。この時世にも珍しい生き血を吸う悪魔、今で言う吸血鬼の蓮太郎はその正体を隠しつつ、大きな日本式の屋敷で静かに暮らしている。一方、泉の正体はというと狐――九つの尾を持つ妖狐である。彼は蓮太郎とは逆に、博打をしたり花街に出向いて女遊びをしたりと自由奔放な生活を送っていた。
「……あれ、蓮太郎サン血ぃ飲めないんじゃなかったっけ? 流石の僕でも覚えてるよ、嘘はよくないよね」
「うっせえ建前だ、建前。……それ以上は何も言うな。余計な事を思い出す」
「ふぅん。じゃあ今から蓮太郎サン家に行こう。花梨(かりん)ちゃんに会いたくなってきた」
「泉くんは本当に自由だな。まぁ、いい加減帰りたくなってきたからいいけど……どっこいしょ」
「蓮太郎サンてたまにっていうか所々おじいちゃんみたいだね。僕よりも年若い癖に」
「お前が若作りしすぎてるだけだよ。オラ、さっさと行くぞ」
□□□
町の隅の、閑静な場所に蓮太郎の自宅はあった。桐の木の表札には、青桐と流麗な文字が刻まれている。門を潜ると、様々な植物が庭に植わっていた。
「いつ見ても広い家だね」
「独りで住むには広すぎるけどな」
「今は二人、でしょ」
傘を閉じ、蓮太郎はガラリと引き戸を開けた。
「お帰りなさいませ、蓮太郎さま」
「おう、お迎えごくろーさん。悪ぃな、客が来ちまった」
「やっほー、花梨ちゃん。僕のこと、覚えてるかな?」
蓮太郎の背後からひょっこり顔を覗かせ、泉は花梨に声を掛けた。
「……近衛さま、でしたか」
「そうそう。出来れば下の名前で呼んでくれるともっと嬉しいなあ。まあ女の子に覚えてもらえてるってだけで御の字だけどね」
「お茶、用意しますね」
そう言ってその場から離れようとする花梨を、蓮太郎は腕を掴んで引き留めた。
「……蓮太郎、さま?」
「茶は要らない」
「わかりました。では」
「あとお前も同席してくれ。泉くんはお前のことが気になって仕方ないそうだから」
花梨がはいと返事をする。蓮太郎は掴んでいた手を離し、履物を脱ぎ始めた。
「何突っ立ってんだよ。土足で上がるつもりか」
「ああ、ごめん。ちょっと意外だったっていうか」
「俺の事何だと思ってんだ? ここまで来たら流石に家に上げるだろ。別に昨日今日で知り合った仲でもねえしよ」
「はいはい、そうだったね。それじゃ、お言葉に甘えて」
庭を一望できる客間に通された。……縁側に立て掛けられた簾のお陰で、見える庭の範囲が限られているが。
「……ええと」
「何今更まごついてんだ」
「痛っ」
卓の下で蓮太郎の足が泉の脛に直撃する。女の子の前で情けないところを見せまいと下唇を噛んで耐えた。
「蓮太郎サン行儀悪すぎ。花梨ちゃんが真似したらどうすんの」
「まさか。花梨はいい子だから俺の真似なんてしねえよ。残念でしたー」
「どうだか」
「えっ……泉くん、俺の事なんだと思ってんの」
「不良」
「ひどくない?」
ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。花梨が口元を隠しつつ笑いをこぼしていた。そんな彼女を、蓮太郎が優しい眼差しで見ていることを泉は見逃さなかった。
「……あっ」
「女の子の存在自体癒しだけどさ、笑ってる顔が一番だよね」
「お前が言うとたらしこんでるようにしか聞こえねえけどな。お前にはやらんぞ」
「今いいこと言ったつもりなのに余計な事言わないでくれる?」
「まあ、その……言ってることは間違いないけどよ」
「あー、花梨ちゃんの笑顔見たら安心した。僕はそろそろお暇するね」
「うん? 矢鱈早いお帰りじゃねえか。今夜も花街か?」
「想像にお任せするよ。花梨ちゃん、また今度」
「お見送りいたします」
「え、いいの?」
「……変な気起こすなよ」
「やだなあ、僕そんなに無節操じゃないし。それに花梨ちゃんは蓮太郎サンの、でしょ。仮に何かしたら僕蓮太郎サンに殺されちゃう」
「蓮太郎さまは」
「ん、俺はここで休んでる。まだ日差しきついし」
姿勢を崩し蓮太郎は力なく手を振る。それじゃ、と満足げに泉は玄関口に向かい、その後を花梨はとてとてと追いかけていった。
「……お前も単純だよな」
たかが小娘の笑顔ひとつで機嫌をよくするなんて。目を細めた蓮太郎の口元は、綺麗な弧を描いていた。
□□□
「……ねえ」
「はい」
玄関口。履物を履きながら泉は花梨に声を掛けた。
「花梨ちゃんは蓮太郎サンのこと、どう思ってるの?」
「蓮太郎さま、ですか」
「そう」
「……」
振り向きざま少女の顔を見る。彼女も美しい顔立ちをしている。こんなきれいな娘が、つい半年前まで身売りに出されていただなんて思えない。
「蓮太郎さまには感謝しています。偶々……あの方の気紛れとはいえ、わたくしをあの場所から連れ出してくれた」
花梨は元々遊郭に居た少女だった。町に住み始めて間もない蓮太郎が、花街に詳しい泉を引き連れた際に見つけ即買いした。以来、彼女は蓮太郎と共に暮らしている。
「それだけ?」
「蓮太郎さまはお優しい方です、最初の頃はわたくしの身の回りのお世話をしてくださいました。今は、何も知らないわたくしにいろんなことを教えてくださるんです」
「ああ、あの人変に世話好きなとこあるもんね……」
「あの方が連れ出してくれなかったら、きっと、毎日が楽しくなかった。……ですから、わたくしはせめてもの恩返しに蓮太郎さまの役に立ちたいのです」
「花梨ちゃん」
「何でしょう」
やおら立ち上がり、泉は花梨と向き合った。
「何があっても、蓮太郎サンから離れない。……君に、その自信はある? 蓮太郎サンに尽くす覚悟はある?」
こんな意地悪なことを言うつもりは無かった。少しお喋りをして、さっさと出て行ってしまおうと思っていたのに、歳を取るとつい弄りたくなってしまう。また、蓮太郎の友としても聞いておきたくもあった。
「はい」
そう答えた少女の目に、揺らぎはなかった。
□□□
戻ってきてもいい頃なのに、花梨は戻ってこなかった。泉に何かされてはいないだろうか。彼とは確かに友人だけれども、女との関係に関してはとてもじゃないが信用出来ない。不安になって立ち上がる。くらりと、身体が傾げた。血が足りないのはいつものこと。そのギリギリを蓮太郎は生きている。倒れる筈だった身体は誰かに支えられた。
「あんたはんも、大変なご身分やねぇ」
「……」
視界に広がる黒。気怠そうな表情。ちょっと変わった調子で話す彼、敷見棗も蓮太郎と同じ人外だ。
「……よう、烏。お前にやる餌はねえぞ」
「そんなクチ叩けるんやったらまだまだ大丈夫そうやね」
「気紛れとはいえ、まあ礼は言っとく」
「律儀やね」
「で、何だ」
「ん?」
「ん? じゃねえだろ。来たからには何か用でもあんだろ」
「ああ……そういう。あんたはん、さっき甘味屋に居てはったやろ。昼間から出歩いてるの見てるとこっちが冷や冷やしてくるんよ」
「それよりも前に野暮用があったんだよ。仕方ねえだろ」
「んー、問題はそれだけやあらへんよ。外で話す内容も考えとき。普通の人間がいる中でバケモノの話はあきまへん。ばれたらウチらは迫害される立場になるんやから」
「地獄耳だな」
「それと」
「まだあんのか」
「あんたはん、本気であの女の子と一緒に居たいんやねぇ」
「なんだいきなり」
「人間と共存できるって、本気で思ってはります?」
問いを投げかけた棗に、気怠げな雰囲気はなかった。
「……ま、ええです。兎に角。後悔せえへんよう気ぃ付けて。ウチはちゃぁんと、警告したで」
「……はいはい」
「ほなまた」
黒い羽根が縁側に舞い込んだ。彼の姿はもうない。
「蓮太郎さま」
廊下から花梨の声が聞こえた。調子からして泉から何かされたという訳ではなさそうだ。蓮太郎は少し安心した。
「何だ」
「お客様です。蓮太郎さまに用があると」
今日は矢鱈と客の来る日だ。仕方なく玄関口へと足を運んだ。
二.妖狐
好きなもの。
楽しいこと、甘味屋のお菓子、かわいい女の子。
嫌いなもの。
男、孤独。
――僕は寂しいのが一番嫌いだった。
日が傾き始めた街を軽い足取りで歩いていく。ここからはより自由な時間だ。
「ん~? あんたはん、随分とご機嫌そうやないの」
聞き覚えのある声。確か蓮太郎の知り合いの……名前は何だったか忘れたが、烏天狗。
「天狗さんが僕に何の用? 生憎男に構ってる時間は無いんだよね」
「ほんまにウチの名前覚えてくれる気ないんやなぁ、おキツネ様は」
「それはお互いさまじゃない?」
歩みを止める様子は一切ない。ただ前を見ながら言葉を交わす。そんな遣り取りだ。
「さっき青桐の小童の家に居たやろ」
「女の子がいるからね」
「はぁ、あんたはんほんに節操ないんやなぁ。それでも力のある妖さまやないの?」
「……だったら何だって言うの? 人間共をどうにかしろとでも?」
泉の返答に烏天狗はクツクツと笑う。どうにも、その笑い方が気に食わない。
「はは、そんなん出来たらみーんなとっくの昔にやってはる」
「人を誑かしたり滅ぼしたりしたかったら蓮太郎サンに頼むといいよ。あの人、鬼っていうより悪魔だし。それに僕よりは強いよ」
「へぇ、あの小童が、ねぇ。おもろいこと。そんなこと聞けるなんて長生きしてみるもんやねぇ」
泉の隣で烏の笑い声と高下駄の音。嗚呼、もう、五月蝿い。小鳥の囀りならばまだ良かっただろう。今隣で囀っているのは雄の烏だ。不快なことこの上ない。
「今は本気出せないだけで。でも滅ぼせって頼んだところであの人は聞き入れてくれないかもね。あの人は人間好きだから」
「生意気な小童や思てたけど。お人好し? なんやね」
「あー、もう用無いならさっさと消えてくれる? 男と並んで歩くの好きじゃないんだよね」
「はいはい、仕方あらへんね。でもまあ、面白い話聞けて良かったわぁ。ほいでは」
去りゆく烏天狗の背中に向け、しっしっと野良を追い払うように手を振るが、烏天狗はなにか思い出したようにはたと止まり振り向いた。
「……まだ何かあんの?」
「あんたはん、青桐の小童のお友達……なんやろ?」
「そういうことになるんじゃない」
「お友達は大事にするんやで」
「余計なお世話」
「独りぼっちは苦しいやろ?」
棗の一言に、泉は凍り付いた。
「ま、頼んます。ほなまた」
瞬く間に棗は消えた。彼がそこに居たことを証明するかのように、漆黒の羽根が落ちていた。
「……人の心読むなんて最低」
落ちていた羽根を弄びながら、泉は夜の街を往く。
□□□
「あら、お早いこと」
「ずっと暇だったんだ、開くの待ってたんだよ?」
「……今宵も、お喋り?」
「うん、まあそんなとこ」
「お金が無いわけでもないでしょうに」
「そう言う霞ちゃんは僕からお金取る気無い癖に」
「意地悪なこと言うのね」
泉は毎夜この遊郭の女主人、霞と逢っている。何をするでもなく、ただ他愛ない話をして終わる。それだけの関係である。
「まぁ、寂しさを埋める為にここに来てるだけだし」
「あら」
泉が彼女に向ける感情は、子が母親に向けるそれに似ている。それは幼くして母親を亡くしたという過去がある故のものか。眠たげに欠伸をして、泉は霞の隣に座った。
「あ、いい匂いする」
「別に何も変えていないけれど」
「女の子はいい匂いがするから好きだよ」
「女の子という歳でもないし、それ、誰にでも言ってるのでしょう?」
「酷いなぁ」
溜息を吐きながら、寝そべって霞の腰に抱き着いた。
「ちゃんと言う相手は選んでいるんだよ」
「本当かしら」
霞の手が、泉の頭を優しく撫でる。狐の毛のような色をした髪はさらさらと指の間を通っていく。口から吐息を漏らす様子が酷く艶やかだ。
「そうそう、花梨は元気にしてる?」
「今日会ったけど元気そうだったよ。とてもいい子だよね。将来有望かな」
「もう。いつもそんな事しか考えないんだから」
「僕の性(さが)だからね。考えずにはいられないよ、何せ君のお気に入りの子なんだから」
「……でもアタシにはあの子を倖(しあわ)せにはしてやれなかった。此処が、どんな所か分かってるでしょう?」
今居るこの場所が遊郭である限り。籠の中の鳥が本当の倖せを知る事は叶わない。霞は少し寂しげに微笑んだ。
「そんな顔しないでよ」
身を起こし寄り添う泉に、女は小指を立てて差し出した。
「じゃあ、約束してくれるかしら。……今すぐじゃなくていいから、アタシを此処から連れ出して。あなたの傍に居させて欲しいの」
「僕が霞ちゃんを倖せにしてやれる保証も無いのに、そんなこと言っていいの?」
「……あなたなら、私の為に何でもしてくれるでしょ?」
愚かだと、率直に思う。この女は自分が何者であるかを知らない。分かっていない。人のなりをしていても、本性は化け物なのだ。その気になればこの女一人、神隠しに遭わせてやることも出来る。古くから人を誑かし、惑わせてきたこの化け物の前で無防備に、無責任に発言するものではない。
「……へぇ。じゃあ、約束、したからね」
外は夜闇。人ならざる者たちの時間である。
三.ヒトの世界に棲まうモノ
時刻は逢魔が時。昼間の空が夜に平伏そうとしている。蓮太郎の自宅の寝室で、二人の男が向かい合って座していた。
「君はどうしても、可能な限り人間で居たいようだね」
左眼辺りを洋風の仮面で覆った男が、蓮太郎の診察を始めた。今回は酷く血色が悪い。
「当たり前だろ。こうでもしねえと俺はここで暮らせない」
「人間の薬で吸血衝動を抑えようなど無謀にも程があるのだよ。……昔のよしみでこうして仕事の合間に君の所まできてやっているんだ、あの小娘を犠牲にしないよう努力する事だね」
聴診器を外し、男は片付けを始めた。やれやれと肩を竦め蓮太郎は着物を直す。
「相変わらず厳しいねぇ、薊(あざみ)ちゃん」
「其の呼び方をするのはもう君くらいのものだよ。全く、女でもあるまいしちゃん付けなど……」
「あー、今は説教やめてくれる? 花梨に情けないところ見せたくねえっつうか」
「その位の口が利けるならまだまだ大丈夫だね。約束通り、処方箋をここに置いていくからちゃんと飲むのだよ、青桐」
お大事に、と言って薊は部屋を出た。部屋の外では少女が行儀よく座って待っていた。
「……おい、小娘」
黒髪が揺れ、少女と目が合った。
「彼の診察が終わったよ。それじゃあね」
ありがとうございました、という言葉を背に薊はさっさと家を出た。門の前で薊の連れが立っている。
「……喜一(きいち)。別にこんな所で待たなくても」
「好きにしろと言われたから俺の好きにしたんだ」
「いつから君はそんな口を叩けるようになったんだい」
「俺は心配だったからここでずっと待っていたんだ。陰陽師の末裔がこの街に生き残っている限り、お前もいつかは」
相棒の言葉を、馬鹿の一言で遮った。
「僕は妖の類ではないよ」
松風薊は人間ではない。彼の言う通り、妖でもない。元は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)という製鉄、鍛冶の神であった。退屈をしていた薊はある時ヒトの世界に溶け込んで、軍部に身を置き、医業も兼ねて生活を始めた。人間の中で、彼が人間ではないことを知っているのは彼が相棒としている男、九条喜一のみであった。
「だがお前が妖に関わっている以上、というかお前の正体が知れたら」
「は、寧ろ僕を崇め奉ってくれるんじゃないか? 製鉄と鍛冶の神だ、軍人には必要なものだろう」
笑い交じりに一蹴してやると、喜一は黙り込んでしまった。ついこんな調子になってしまうのは旧友に会えた事による昂ぶりの所為なのか。
「君が心配してくれるのは嬉しいけれどね。僕のようなやつにも友と呼べる、そう言ってくれる物好きは居るのだよ。勿論君もだが」
「いつもの説教か?」
「まさか。……嗚呼、こんな所で延々と時間を潰すのは好(よ)くないね。行こうか」
軍靴の音高らかに、ふたりの男は街を往く。最近は事件だの取り締まりだので頻繁に街を出回るようになった。お陰で人っ子ひとり外に出ている者が居ない。この街も少しずつ、西洋の雰囲気を醸し出してきている。もう自分の知る場所でなくなっていく事に薊は少し寂しさを覚えた。似たようなことは永らく生きてきた中で何度もあった――何度も、何度も。
「寂しくなってくるものだね」
「突然感傷的になりやがって、何だ」
「偶に思うことがある。人間が、羨ましい……と」
「長生き故の贅沢な悩みってか」
「ああ、そうかもしれないね。長生きしてもいいことは無い」
「そういうものか?」
「うん?」
「長く生きてきたからこそ分かったこともあったろ」
「そりゃあ、そうだ」
人の愚かさに関しては、一番熟知していた。悲しいことに似たようなことを何度も繰り返す。利益に囚われる。優劣をつけたがる。己可愛さに他人を陥れる。そういう、点に関しては。
「だが君のような得難い存在に出会えたことに関しては良かったと思っているよ」
「大袈裟だな。俺はただの凡人だ」
「君のような義理堅く聡い人間なぞ中々居るものではないよ。人外の友にならよく居るがね」
「俺はそいつらと同列ってか」
「僕が唯一、人間の中で君を一番信頼しているということだよ。誇りたまえ」
ヒトの皮を被った神は、そう言って人間ににこりと笑いかけた。この街とは違う、昔から何一つ変わらない彼に。
□□□
またあの発作だ。自分が吸血鬼である以上、この発作からは逃れられないことは解っていた。けれど、それでも人間として暮らしたかった。かつて人間が自分にそうしてくれたように、自分も誰かに、人間に優しくしてみたかった。人を愛してみたかった。だから遊郭に居た、暗い顔をしていた娘を引き取った。自分にとっては大敵の光を見せてやった。好きな柄の着物を買ってやった。髪飾りも似合うものを見つけて贈った。暗い顔をしていた娘は年相応の、愛らしい笑顔を見せてくれるようになった。自分にも、人を愛することが出来る。娘の笑顔を見た時、そう確信した。心底、嬉しかった。
血色の失せ切った自分の手が視界に入る。身体が血を求めている。血を飲みたい。じんわりと手が汗ばんできた。血が足りない。血が足りない。視界が白黒になる。――血、血。薬で抑えなければ。喉が渇いた。血。いつにもまして動悸が酷い。
「蓮太郎さま」
ああ、どうしてこんな時に入ってきてしまうのだろう。乾きは一層酷くなる。この娘は、こいつは、吸血鬼(おれ)の食糧じゃない。違う、違うんだ。
「か、りん……」
名を呼ぶだけで精一杯だ。お願いだからこれ以上来ないで欲しい。そのまま、開けた襖を閉じて。どこか、遠くに――。
「蓮太郎さま、大丈夫です。花梨はここに居ます」
離れるどころか、近付いてきた。か細い腕が首に回る。何があっても離れない。少女は確かにそう言った。どこか懐かしい匂いの正体が、庭に植わっていたものだと気付くのは少し後のことだった。
四.光の下
それから発作はどうにか乗り越えることが出来た。額の汗を拭い、蓮太郎は水を呷った。
「蓮太郎さま。いいのですか、飲まなくて」
首筋を見せつけながら花梨は尋ねた。どうやら蓮太郎の正体が判っていたようだ。
「……いつから知っていた」
「会った時から何となく。泉さま、獣臭いんですもの」
投げかけた問いの答えに思わず笑ってしまった。獣臭い。蓮太郎も泉と初めて会った時、彼が人間ではないと見抜いた理由がそれだったからだ。
「それに蓮太郎さまは他の方と色々違いますし。あとはその……勘? です」
「うん、間違っちゃいねえよ。目立つ容姿してるの自分でも分かってるし……そう、だよな」
日本人とは少し離れた容姿の時点で既に勘付かれていたのだ。女の勘が怖いと少し前にぼやいていた泉のことを今更ながら理解した。気がした
「で、血のほうは」
「ああ、お願いだからその、首元隠してくれ。発作がまた出ちまうかも。それに正直言って血は嫌いだから飲みたくねえんだよ」
蓮太郎はわけあって血が飲めない吸血鬼だった。それは過去の出来事が原因となっているのだが。
「吸血鬼がそんなこと言っていいんですか。代わりが無ければ限界が来てしまいますよ」
「一応ダチから貰った薬と、庭の花があるからな。今回は思ったより早く来ちまっただけ」
「あの花、食糧だったのですね?」
「そうだよ」
「そう……だったんですね、」
突然花梨が泣き出した。泣かれるとは思わず、狼狽しつつも花梨をあやす。理由を訊くと、血を差し出した後は死んでしまうのかと思ったらしい。あながち間違ってはいない。死が怖いのはこの少女にとっても例外なく怖いことだろう。ましてやこんな化け物に血を吸われるなど。
「……あのさ」
だから一度、訊いておきたかった。訊けるのは今しかないと思った。
「この先も、俺と一緒に居られるか? その……今回初めてあんなとこに出くわしちまったわけで、でも俺は血が飲めないから死にはしないが怖い目に遭わせる時もある。お前に沢山迷惑かけるかもしれない。それでも、俺のもとで、」
「離れません。ずっとお傍に居ます。居させてください」
「……おいおい。即答だな」
余りにも早い答えに驚きつつも少し嬉しかった。そして少女は言葉を紡いでいく。
「だって。蓮太郎さまはわたくしを自由にしてくれたじゃないですか。私に、光を見せてくれたじゃないですか」
単純過ぎる理由だった。ただあの場所から連れ出しただけなのに。それだけのことで自分を信じてしまうとは、なんと愚かしく、愛おしいのだろう。
時は明治。東京のとある街の端(はずれ)にて、人間と共に生きるという風変わりな吸血鬼が棲んでいた。