「やっぱりいるんですか」
「ええ、年に数回はお見かけしますよ」
海で叫ぶ人がいるとかいないとかいう話をしながら海へ行くクリスさんとPさんのお話です。
@toasdm
「やっぱりいるんですか」
「ええ、年に数回はお見かけしますよ」
くすくすと、品よく笑うクリスの横顔を、彼女は横目でちらりと見た。ハンドルを握る彼女の隣、クリスは今日も上機嫌だ。
「やっぱり夕日に向かって?」
「も、ありますし、時間帯はあまり問わないようです」
夜は流石に見たことがないですが、と付け加えたクリスと彼女の今の話題は、クリスが愛してやまない海についてだ。もっと言うと、海でバカヤローや愛してると叫ぶ人は実在するのか、ということだ。
「っふふ、やっぱりあれ、テレビや映画だけの話じゃないんですね」
「はい! やはり、海が持つ懐の深い印象や拓けた場所というものは、人をそういう行動に駆り立てるなにかがあるのではないかと」
クリスが海について話す時、子供のようにまっすぐになるのが彼女は好きだ。海の魅力を広めるためにアイドルを志したクリスにとって、アイドルは二の次、ということは決してなかったが、ベースには確実に、海への憧憬が存在していた。
「あなたもそういう経験が?」
「えっ、私ですか!?」
海へと向かう車を運転しながら、彼女は少々面食らった。まさか自分に振られるとは思っていなかった驚きは、しかしハンドル操作やアクセルワークに影響のあるものではなかったものの、ええと、と少し考えて、彼女は無意識にスピードを落とす。
「レジャーで行くことはあっても、クリスさんみたいにちょっと海まで、ということがないので、そもそも海との接点がそこまで……」
「そう、ですか……」
少し沈んだ声すらも、なんだか愛おしい。嫌いというわけではないですよ、と付け加えれば、そうですよね!とすぐに明るさを取り戻すところまで、セットでまるごと愛おしい。くすりと笑いをひとつこぼして、彼女は続けた。
「でも、クリスさんとこうして海に行くことが増えたので、もしかしたらそのうち、叫びたくなっちゃうかもしれません」
「そのときは是非、ご一緒したいものです」
顔を確認しなくてもわかる、ルンルン♪という雰囲気が、クリスの二十九歳児めいた雰囲気を音だけで彼女に伝える。この人本当に海が大好きなんだなぁ、と好きに向かっている好きな人の様子に、彼女の心はふわふわと、暖かく軽くなる。
「そういえば、クリスさんはないんですか?」
「私、ですか?」
彼女のとしてはなんの気なく、振られた話題をそのまま返しただけだったのだが、クリスは少し考えて、おずおずといった様子で言い淀み始める。
「ええと……」
「やっぱり、海は愛すべき存在で、叫ぶ場所じゃなかったり」
「いえ……その……」
声の調子がルンルン♪からもじもじ……に変わる。おやおや?と海岸線のカーブを曲がりながら、彼女はじっと、クリスの答えを待った。
「何度か、ありますよ」
「やっぱり、バカヤロー!とかですか?」
「…………」
歯切れが悪く、返事がない。これはなにか、言い辛いことを叫んだ経験があるのでは、と踏み入ってはいけないところへ踏み入ってしまったような気まずい沈黙を乗せたまま、車はすんなりと、浜の脇にある駐車場へとついてしまった。
「あの……」
「せっかくですから」
ザバ、ザプン、と押し寄せる波は比較的穏やかなようで、車を降りたクリスは誰もいないその穏やかな浜辺へ向かって、彼女の手をとり歩き出す。
「実演で、おみせしましょうか」
時刻は夕暮れ、辺りはオレンジ。駐車場から続く二人分の足跡は、その夕焼けに照らされて甘い影を落としている。
「……」
波打ち際に立ったクリスは、彼女の右手をぎゅっと握ったまま、すぅ、と大きく息を吸い込み、同時に右手を口元に当て、沈む夕日に向かって思いっきり叫んだ。
「私はあなたを愛していますと叫んだことがありまーーーーーーーーす!!」
なにそれーーー!?と驚いた彼女の頬に、夕焼け色より濃い赤が、ぼっ、と一気に広がった。よくよく見ればクリスの方も、似たような色の頬に笑みを浮かべている。
「あぅ、あの、あっ、あのっ」
「……今は、叫ばなくても」
ぎゅ、と指を絡ませて、頬の赤みを残したままクリスは彼女を見下ろした。
「すぐ隣のあなたには、伝えることができますので……今は、叫ぶ必要はないのです」
腰を屈めて耳元で、優しく低い声が「愛していますよ」と彼女に囁く。うーともあーともつかないような呻きを上げる彼女の頬に夕焼け色を濃く残して、ゆっくりと、太陽は水平線の向こうへ隠れ始める。
夕焼けの最後のオレンジは、砂浜に二人の影を長く残して触れ合ったのを見届けてからとっぷりと沈んだ。