@toasdm
皆誰しも、心の中に誰かが住んでいる。例えばそれは、心の琴線に触れるような魂が震える一言をくれた恩師だったり、腹を割って話せる仲間だったり、愛しい笑顔を浮かべた恋人だったり。人生の歩き方によって変わる道標のように、皆誰しも、心の中に誰かが住んでいて、迷って立ち止まった時や、挫けて膝をついた時に自分の内側から、語りかけてくれる。
お疲れ様、頑張ったね。
きっとあなたなら大丈夫ですよ。
それは本当に、今必要なことだろうか?
心の住人はそんな風に、生き様を投影して、歩んでいる道の要所要所で自分を支えてくれる。雨彦はそんな風に思ったことがある。なら今の俺の心には、誰が住んでいて何を語りかけてくれるんだろうな、とぐるぐる回る天井に心情を投影してみたが、ぼんやりと歪んで揺れる視界に、像を結ぶ姿はなかった。
思考がまとまらない。声が出せない。腕も足も重たくて、なにをするのもだるすぎる。自分の尊厳の為に体を引きずってどうにか用だけは足してきたが、この倦怠感がもう少し続くようなら、尊厳もクソもあるか漏らすぞここで、とやけを起こしそうになるくらい、ひどい状態だ。用を足すついでに飲んだ水はひりつく喉を一時潤してはくれたが、ただそれだけだ。
特注ですか?とよく聞かれる海外サイズのベッドに倒れ込んで、腋に挟んだ体温計が故障でもしたのか、と目を疑うようなスピードでハイスコアを叩き出したのは覚えているし、最後に見た数値は三十九を超えていたのも覚えているが、検温完了の短い電子音を聞いた記憶はない。高熱に意識を奪われて、捨て鉢の雨彦は一人暮らしの不便さと共にベッドに沈んでいた。
「……?」
いくつかの嗅ぎ慣れた香りに意識を優しく包まれて揺り起こされた時、だから雨彦は、寝起きと熱とでぼやけた視界で自分を見下ろす最愛の顔を、そんな心の住人が漸く姿をみせたのだ、と思った。少し休めばましになるとは思っちゃいたが、ちと回復が早いな、立派な幻覚だ、と混濁した意識が相変わらずまとまらない千切れた思考をそこらに散らしたまま、ぼんやりと声を聞いていた。
「少し下がった……よしよし、雨彦さんはいい子ですね」
俺は子供かい?と、意識を手放す前に聞かなかったはずの体温計の電子音と彼女の声とに、雨彦はいつものノリでツッコミを入れる。そういや汗でべったり前髪が張り付いていたはずの額が冷たくて気持ちいいな、いや足の付け根も冷えてるな、とゆっくり自分の今の状況がわかるようになってきて、は、と意識と瞳が完全に覚醒した雨彦は、そのやけに輪郭のくっきりとした心の住人に、お前さん、と声をかけた。が。
「ッゲホ、ゴホッ!」
「わあああ、しゃべらない、起きない、慌てない、ステイステイ!」
今度は犬かい、と待てを言い渡してきた幻覚が幻覚ではないことが理解できる程度には、雨彦は自分が回復していることを知る。咳き込んで言葉にはならなかったが、寝起きでからからの喉では仕方がない。起こしちゃってごめんなさい、と眉尻を下げる彼女がぱたぱたとどこかへ行って、また戻ってきて、巻き起こす風が撫でた頬に、雨彦はにやにやとゆるい笑みを浮かべたまま、なんだこれは、と困惑していた。
「つめた~いと、ぬる~いがありますけど……」
そいつは自販機の表示だな、と苦笑してゆっくり起き上がると、雨彦は彼女が「つめた~い」と言った方を受け取って一気に飲み干した。スポーツドリンクが乾燥した喉を潤いで拭って、全身の細胞が今飛び込んできたばかりの水分を、我先に、と奪い合うように活発に活動するような錯覚すら感じる。生き返った、と素直に思ったが、俺は別に死んじゃいないな、とまた苦笑して、漸く掠れ声が出た。
「自販機は、つめた~い、あたたか~い、だろ……」
「あはは……よかった、雨彦さん元気だ」
「俺が元気ならお前さんは能天気だな」
「やだ褒められたぁ」
ああ、これだ。このやりとりだ。俺の心の中に住んでるお前さんは、いつもこういうノリだ。両頬を押さえて照れたように身を捩る彼女の仕草に、雨彦は全身にまとわりついていた倦怠感がすっと拭われたような気がした。
「もうねー、雨彦さん絶対熱出してると思って来てみたら、やっぱり熱出してるじゃないですか」
「よくわかったな」
ふふん、と腰に手を当ててふんぞり返った彼女の仕草に、力が抜けて気力が満ちる。昨日少しだるそうだったので、と額の冷却シートを貼り替えてくれた彼女が、食欲はありますか?と聞いてくる。嗅ぎ慣れたもう一つの匂いに目を見開いた雨彦の体をシートで拭いてやりながら、彼女はニコニコと言った。
「きつねうどん、作りましたので」
体の不快感を拭われて、心は優しく満たされて。彼女の香りとだしの香りで、雨彦の体はすっかり忘れていた空腹感を急速に自覚させられる。くぅ、きゅるる、と鳴る腹をさすさすとさすって、もらおうか、と立ち上がった足取りは、捨て鉢めいたやけくそ感のない、しっかりとしたものだった。
「んー、やっぱりこういうときの為に、一緒に住んだ方がいいのかもしれませんねぇ……」
黄金色のつゆでいつもより少し柔らかく煮込んだうどんを丼によそって、彼女は油揚げを二枚ものせる。雨彦さんにはこれが一番効果てきめんですからね、と差し出されたうどんをはふはふとすすりながら、雨彦は思う。
お前さんなら、もう俺の心に住んでるぜ。
お前さんの申し出を謹んで受けよう、こいつを食い終わったらな。
夢中でうどんをすすりながら、雨彦は身も心も彼女と共に過ごす毎日をぼんやりと空想しては口角を上げていた。