2017年06月20日に発行した「うたかたの好きを君に」より全文掲載。
カヲアシちゃんの惚れ薬で弟が自分に惚れてしまい解決しようと奮闘するオニイチャンの話。後半数ページはおまけ。
状況的にBL(ライレフ)なので注意。
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校舎の外に一歩踏み出すと、馴染みのある匂いが鼻をくすぐった。どこか生ぬるいそれは、さぁ、と風が吹くような細かな音とともに世界に降り注ぐ。囁くようなそれに混じって、ひゃーと叫びにも似た笑い声が聞こえていた。
あーあ、と呟き、雷刀は重い色に染まる空を見上げた。弟が朝告げていたこともあり、雨が降っていることは校舎内にいても分かっていたが、窓越しに薄っすらと見える程度ならばすぐに止むだろう、と思っていたのだ。まさか業務を終わらせ、下校する時間まで降り続くとは。焦って傘立てを探してみたが、いつかの日に自分が差し込んだ置き傘がその姿を見せることはなかった。安いビニール傘だ、きっと誰かに盗られたのだろう。あーあ、ともう一度溜め息を吐き、雷刀は目を伏せた。
バサリと布が風を受ける音が鼓膜を震わせる。隣を見ると、折り畳み傘を開いた烈風刀の姿が見えた。ちょうどいい、と雷刀はにまりと笑う。静かに弟の方へ近付き、少し屈み見上げる形で若葉色の瞳を覗き込んだ。
「れーふーと、オレも入れて」
「置き傘があるのではないのですか」
「無くなってた」
鬱陶しげな表情を隠すことなく、烈風刀は兄を見下ろす。これしきのことで諦める相手ではないということは理解しているが、甘やかすことを良しとしない彼は眉をひそめ、溜め息をひとつ吐いた。そもそも、優等生な彼は置き傘自体をあまり快く思っていない。その上にこれだ。ゆっくりと細められた目は冷たい色を宿していた。
「嫌です。予報を見ずに傘を持ってこなかった貴方が悪いのでしょう」
突き放す言葉に続き、えー、と不満げな声があがる。烈風刀は兄など気にもかけず、雨空の下を歩き出すべく、開いた傘を肩にかけた。弟のつれない様子に唇を尖らせた雷刀だが、何か思いついたのかその瞳がいたずらめいた光に輝く。くるりと軽い身のこなしで烈風刀の隣、彼とレイシスとの間に割り込むように顔を出した。
「じゃあ、レイシス。途中まで入れてって」
「いいデスヨ」
透明なビニール傘を手にした少女は、少年の頼みを快く受けた。その和やかな様子に焦ったのは弟の方である。ちょっと、と慌てた声で二人の会話に割って入った。
「何故そうなるのですか」
「だって烈風刀は入れてくれねーし? 濡れたら嫌じゃん?」
「知りません。レイシスに迷惑をかけるのはやめなさい」
「迷惑じゃないデスヨ?」
こてん、と小首を傾げるレイシスに、烈風刀はう、と気まずそうに言葉を飲み込んだ。彼がレイシスに惚れ込んでいるのは学園の皆が知っている。そして、その兄である雷刀も同じく彼女に想いを寄せていることも周知の事実である。そんな恋敵である兄を想い人から引き剥がすための口実を本人に否定されてしまったのだ、言葉に詰まるのも仕方がない。さて、どう返すかな、と雷刀は密かに意地の悪い笑みを浮かべる。どうなるも何も、答えが一択であることは明白だ。
「…………仕方がありません。今日だけですよ」
心底納得がいかないという声音とともに、雷刀に向けて折り畳み傘が差し出される。やったー、と嬉しそうに笑う兄の姿を見て、烈風刀は眉間に深い深い皺を寄せた。兄の稚拙な計画に見事に乗せられてしまったのが悔しいのだろう。
手渡された傘を上機嫌にくるくると回す。薄暗い空の下、背後の蛍光灯の光を受けて銀の中棒が鈍く光った。ふと、碧の瞳が中空、昇降口から張り出した屋根を見上げるのが横目に入る。どうかしたのだろうか、と尋ねようとした矢先、その目が大きく開かれるのを朱の瞳が捉えた。
「――雷刀っ!」
鋭い叫び声とともに、烈風刀の身体が雷刀目掛けて飛んでくる。驚きの声をあげる暇もなく、二人の身体は勢いよく地面に倒れ込んだ。コンクリートに頭を強かに打ち付け、雷刀は喉が締めつけられるような濁った悲鳴をあげる。否、あまりの衝撃に声を出すことすら叶わず、それは声帯を震わせることなく消えた。ガンガンと耳元で銅鑼が鳴らされるような痛みと耳鳴りの中、レイシスの短い悲鳴と、落ちた傘の金属が擦れる音、びちゃりと地面を打つそれとは違う液体が叩きつけられる音が聞こえたような気がした。
「っ、ぅ…………、ぇ、れ、ふと……いきなり、何だよ……」
ほんの少しだけ痛みが引き、雷刀は呻きと抗議の声をあげた。いきなり飛びかかられ、押し倒されたのだ。それも硬く丈夫なコンクリートの地面に、受け身を取る暇もなく思いっきりである。理知的な弟が理由なくこんな行動をするとは思えないが、さすがに実害があってはその意図を説明してもらわなければ納得がいかない。
ぅ、と同じく小さく呻いた烈風刀が、そっと目を開く。どこか朧気なその瞳を眇め見つめていると、目の前にある彼の顔がふわと紅を刷いたように色づいた。何故か引きつったその口元から漏れるのは、意味を成さない単音ばかり。そして、その髪は雨を遮る軒下にいるというのに何故か濡れていて、額に張り付いていた。一体どうしたのだろう、と小さく首を傾げると、烈風刀はバッと勢いよく起き上がり押し倒したままの雷刀の上から退いた。
「すっ、すみません」
たじろいで謝る彼の顔は追求する朱から逃れるように横を向き、わざとらしく視線を床に落としていた。謝る際、彼はいつもしっかりと相手の方を向く。こんな風に意識的に目を逸らす姿など、少なくとも雷刀は見た覚えはない。嫌な予感がする。先程からの彼らしくない姿に、胸が静かにさざめきだした。
「雷刀! 烈風刀! 大丈夫デスカ?」
開こうとしていた傘を放り出し、慌てて駆け寄ったレイシスは二人の間にしゃがみこんだ。はわわわ、と床に座り込んだままの二色を交互に見て、どうすべきか考えているようだ。こんなに動揺した様子で解決策を出せないことぐらい、誰が見ても分かる。まずは彼女が落ち着くべきである。
大丈夫だと言う代わりに、雷刀はひらひらと手を振り返事する。不自然なほど離れた先、座り込んだ烈風刀は何も言わず俯いたままだ。レイシス第一、レイシス最優先で行動する彼が、その少女の問いに答えないだなんてあまりにも不自然だ。嫌な予感が確信へと変わろうとしていく。それを否定するためにも、雷刀は一向に顔を上げない碧へと手を伸ばした。
「アッ」
「アチャー」
弟の名を呼ぼうとしたところで、三人の頭上、軒の影から小さな声が聞こえた。未だ鈍く痛む頭を動かし音の方に視線を向けると、小柄な少女が二人、空中に佇んでいた。重なる二つの音は、失敗を悟り焦るような響きをしており、両者ともやってしまったと言わんばかりに口元に手を当てていた。
「カヲルちゃん? アシタちゃん?」
同じくその姿を捉えたレイシスが、中空に浮く二人組の名を呼ぶ。日の入り始めの空のように鮮やかな橙の髪をおさげにし、魔女のような暗い紫色の三角帽を被った双子の姉妹、学園に住まう小さな悪魔のカヲルとアシタだ。帽子と同じ色のケープの後ろには、ぱたぱたと羽ばたく蝙蝠のような黒い羽が見える。小さなそれで飛び、三人の頭上に潜んでいたのだろう。矢じりのように尖った尻尾が二人分、ぷらぷらとどこかつまらなそうに揺れていた。
「アーア、ヤッチャッタネアシタタン」
「イヤイヤ、マダ失敗ッテ決マッタワケジャナイヨカヲルタン」
レイシスを無視し話す少女らの姿に、ぞわりと雷刀の胸が一段と大きくざわめく。彼女らの会話に浮かぶ単語はどれも不吉なものだ。湧き上がる嫌な予感が否定できないままどんどんと確信へと変化していく様子に、少年の心に空を覆う雨雲のように黒い不安が広がっていく。
「おい、カヲル! アシタ! 何やったんだよ!」
身体のそこかしこに響く痛みを無理矢理振り払い、雷刀は声を荒げ二人に問う。そんな彼の烈気など気に掛ける様子もなく、二人の小さな悪魔は不思議そうに顔を見合わせた。そもそも、何故彼が怒っているのか分かっていないようにすら見える。
「何ッテ、薬カケタンダヨ」
「恋ノ薬ヲネ」
サラリと告げられた言葉に、はわ、とレイシスが懐疑に満ちた声をあげる。問うた本人である雷刀は、ぽかんと間抜けに口を開いただけだった。理解できずにいる二人を置いたまま、姉妹は残念そうに、それでいてどこか楽しげに会話を広げる。
「セッカクノ雨ダシ、相合傘ドキドキハプニングチャレンジリベンジシヨウト思ッタノニ」
「レイシスニカケル予定ダッタノニー。マサカ男ト男デ、ナンテネ」
「惚レ薬作戦ッテノモナカナカ上手クイカナイネー」
「デモドウナルカ気ニナルシ、コレハコレデ面白インジャナイ? カヲルタン」
ソウカモネ、とケラケラ笑う少女らを、桃と朱は呆然と見つめることしかできなかった。相合傘。男と男。惚れ薬。現在の状況に対してあまりにも不穏な言葉たちに、二人の脳味噌は音もたてることなく綺麗にフリーズした。
「えっと……、つまり」
先に硬直から復帰したのはレイシスだった。冷や汗がたらりと流れる頬に指を当て、少女は答え合わせをするように悪魔たちを見上げて小首を傾げる。薔薇色の瞳には、不正解でありますようにという強い祈りが見えた。
「カヲルちゃんとアシタちゃんの惚れ薬のせいデ、烈風刀は雷刀に恋しちゃったってことデスカ?」
「ソウナンジャナイ?」
少女の切実な祈りは無慈悲に切り捨てられた。まさに悪魔の所業だった。
たっぷり数十秒かけて、再度フリーズした二人の脳がその曖昧な肯定の語を咀嚼する。ゆっくりと噛み砕き、何度も何度も反芻し、どうにか飲み込みようやく理解に至ったところで、二色二対の目が目一杯見開かれた。
「――はわっ!?」
「――はぁっ!?」
悲鳴をあげる二人の後ろで、烈風刀は顔をしかめ、気まずそうに灰色の地面をじっと見つめていた。その姿は、想い人に抱きつき、間近でその顔を見つめて赤く染まってしまった顔を隠しているかのようだった。
「――――ちっ、違います。そんな、そっ、んな、非科学的な、非現実的なこと、あっ、あるわけない、じゃ、ないですか。何を、馬鹿な」
ようやく口を開いた烈風刀は、つっかえつっかえになりながら早口で否定の語を吐く。ところどころ上ずる声は、冷静にハキハキと言葉を紡いでいく普段の彼からは想像できないほど酷い有様だった。あまりにも不自然なその姿、そして何より真っ赤な顔で雷刀を視界に入れぬようしきりに目を泳がす様子は、想い人であるレイシスを前に緊張している時の彼そのものだった。
「アッ、ヤッパ成功ミタイダネ」
「サッスガダネ、アシタタン」
イェーイ、とハイタッチするカヲルとアシタの声が遠くに聞こえる。雷刀は未だ呆然と烈風刀の姿を眺めたままだった。仕方のないことだろう、いきなり『弟は自分に惚れている』と告げられてすぐさま行動できるはずなどない。彼の脳味噌は、普段以上に動きが鈍っていた。レイシスもパニックに陥り酷く動揺した声を漏らすばかりで、その場にへたりこんだまま動けずにいる。烈風刀に至っては、絶望の色に染まった顔で愕然と蹲っていた。
「……どうやったら治るんだよ」
ようやく思考が活動を再開し、雷刀は悪魔の双子を真っ直ぐに見つめる。問う声は、彼のものだと思えないほど低いものだった。不愉快な様を隠すことなく眉を寄せ、鋭く細められた目でギロリと睨むその姿は、すさまじい怒気に満ちていた。それでも彼女らは悪びれる様子もなく、互いに顔を見合わせた。
「サァ? ドウダロウネ」
「アンマリ強イ薬ジャナイシ、一週間モアレバ治ルンジャナイ?」
確約のない曖昧な返答に、雷刀の身体からガクリと力が抜ける。この様子が最悪一週間続くのかと思うと、不安で胸の内が塗り潰されるようだった。最近はアップデートの頻度が多く作業量も増えているというのに、こんなギクシャクした雰囲気では仕事になるはずがない。運営業務に差し障るのは明白だ。レイシス、烈風刀の両者も同じ結論に至ったらしく、どちらも頭を抱えていた。
「どうしまショウ……」
「マァ、成就サセルノガ一番手ッ取リ早イケド」
「恋ノ薬ダモンネ。叶ッタラ効果ハ切レルヨ」
ケケケ、と悪魔らしい笑い声ともに吐かれた姉妹の言葉に、今度は三人一斉にフリーズする。比較的回転が速い烈風刀の頭脳ですら、その発言をすぐさま理解することができないようだった。理解したくない、と無意識に脳が拒否していたのかもしれない。
「じょうじゅって」
「ジョウ、ジュ……?」
「じょっ、成就ッテ、雷刀と烈風刀が恋人になるってことデスカ!?」
ようやく言葉の意味を理解し真っ青になる烈風刀、語自体の意味が分からない雷刀、解決方法に思い至ったレイシス。三者三様に声をあげる。
そして数拍おいて、少年二人の素っ頓狂な悲鳴が雨音を消し去らんばかりに響いた。
ぼすん、と音をたててソファが沈み込む。柔らかなそれは、疲れ果てた雷刀の身体を優しく抱きとめるようだった。
夕方の一件は、比較的体力に自信のある彼すら疲弊させるのに十二分の破壊力を有していた。あの後、自分は走って帰ると言い張り傘を押しつける弟をどうにか説得し帰宅したはいいが、彼の態度は変わらず余所余所しいものだ。露骨に距離を取り避けられ、ちょっとした会話をすることすらままならない。唯一顔を突き合わせた夕食も、二人とも一言も発することなく終えた。痛いほど冷えた空気の中、バラエティ番組のわざとらしい笑い声が虚しく響いていたのが未来への不安を更に増長させた。
普段ならば食事の準備や後片付けは二人で分担するのだが、今日は自分が全てやるから、と烈風刀は頑なに言い張ったため、キッチンに入ることすら叶わずにこうしてリビングにいる。隣に立つことすら拒絶するその様子に胸が痛んだのは、気のせいではないだろう。
触れて、会話して、感情を共有する。日常生活で当たり前のように行ってきたそれらができないだけで、こんなに辛く感じるだなんて思ってもみなかった。肉体だけでなく精神まで音をたてて削られ、雷刀は二人分にしては大きいソファに力なく倒れ伏すしかなかった。
肘掛けに頭を預け、薄目でぼんやりと部屋を見回す。少し遠くのキッチンに、エプロンを外す烈風刀の姿を捉えた。赤いそれを畳むその顔は暗く淀んでおり、痛ましいとすら思えるものだ。
「惚れ薬、ねぇ」
双子の悪魔の声が脳内に響く。雷刀も烈風刀も青春真っ只中の高校生である。当然、愛やら恋やらの話には年相応の興味は持っている。何より、二人ともレイシスに好意を寄せており、その人生を捧げていると言っても過言ではないほど彼女に尽くしていた。恋の喜びや楽しさの甘い感情だけでない、苦さや痛みの酸い感情もしっかりと味わっている。だからこそ、得体の知れない薬のせいでその痛みを理不尽に受けている烈風刀の姿は、見るに堪えないものだった。
よし、と一息吸い込み、雷刀は身体のバネを活かしソファから起き上がった。しっかり目を開き、キッチンから出てくる弟を真っ直ぐに見つめる。
「烈風刀」
努めて優しい声で、家族の名を呼ぶ。びくり、と烈風刀の肩がわざとらしいほど跳ねるのが見えた。恐る恐ると言った風に上げられた視線は、それでも片割れと交わることを避けている。胸に刺さるかすかな痛みを隠し、雷刀は柔らかい笑みを浮かべ、諭すように言葉を紡いでいく。
「無理しなくていーからな。オレと一緒にいるのつらいなら、しばらくレイシスのとこでも行くし。何なら学校にでも泊まれるしな」
恋をしている相手と同じ屋根の下、ふたりきりで過ごすなど、潔癖かつ見た目に反して純情な彼には喜びよりも緊張が勝るだろう。四六時中相手を意識して過ごすなんて、疲れるに決まっている。大切な家族である烈風刀の負担を少しでも軽減したい。自分が他所に行くことで解決できるならば、安いものだ。それが、雷刀の真っ直ぐな気持ちだった。
重い雰囲気を振り払おうと笑いかける彼を見て、紡ぎ出された言葉を聞いて、烈風刀の目が大きく開き、すぐさま細まる。一瞬だけ兄を見つめた瞳は、酷く傷つき悲しみをたたえた色をしていた。まずい、と朱い頭が遅すぎる警鐘を鳴らす。思いやるはずの言葉は拒否の意として読み取ることもでき、それが聡い弟にどう受け止められるかなど、彼の頭ではすぐに気付くことができるはずがなかった。
「いや! つらいならだぞ! 烈風刀がつらいならだから! 烈風刀といるのが嫌とかそんなんじゃねーから!」
わたわたとフォローしようとする言葉は裏返るばかりで、本来の意味を届けることができない。何やってんだ、と内心自身を罵るも、吐き出された言葉は揺れる碧の瞳を切りつける刃となるばかりだ。
「……気持ちが悪いでしょう」
は、と笑い飛ばすように息を吐き、烈風刀は口を開く。互いに黙していたのは帰宅後のたったの数時間だけだというのに、数年の時を経てようやく聞くことを叶ったように錯覚する。久方ぶりに鼓膜を揺らすその声は、ようやく正面から見ることができた表情は、痛みを隠すような、涙をこらえるような、深い哀絶に満ちていた。
「男に……弟にこんな反応をされるだなんて」
気持ちが悪くてたまらないでしょう、と吐き捨てる音は、相手に届けることなど諦めて床へと落ちる。何もないはずのフローリングの床は、互いの声が積もり黒く濁っているように見えた。
ぐ、と思わず息が詰まる。彼の不安を取り除き軽くしてやりたいのに、その気持ちは一向に届かない。もっと自分の感情を上手く言語化できたならば、彼のように自身の思考を丁寧にまとめ言語化できたならば、弟をこのように苦しめることはないのだ。そう考えて、雷刀の口が苦しげに歪む。兄だというのに弟を助けることができないだなんて、不甲斐なくて仕方がない。常日頃任せろと豪語しているのに、肝心なところで役に立てないだなんて失笑ものだ。
ダメだ、と一度俯き朱の瞳を伏せる。訳の分からない薬に振り回され、不安に押し潰されそうになっている烈風刀の前で、自分までこんな苦しげな顔をしてはいけない。ゆっくりと顔を上げ、雷刀は普段通りの明るい笑みを浮かべる。弟の胸の内に広がる暗雲を消し去ってしまうためには、まずこの重苦しく暗い空気を吹き飛ばさねばならない。
「愛とか恋とかよくわかんねーし? 気持ち悪いとかそんなん思わねーよ」
いつもの明るい笑みと声で、雷刀はおどけるように答える。彼がこのような態度をとってしまうのは、カヲルとアシタの惚れ薬が原因であるのは明確だ。その被害者で、ただただ振り回されている姿を気持ち悪いと思うことなど欠片もない。何より、相手は大切な家族である烈風刀なのだ。心配すれど、忌避することなどないに決まっている。
「大体、こうなってんのは薬のせいなんだろ? 仕方ないじゃん。烈風刀のせいじゃねーって」
「感情をコントロールできずこのような状態になっているのは、僕が未熟だからですよ。薬のせいだけではありません」
「違う。烈風刀は悪くない。全部薬のせいだ」
悲嘆の言葉を、凛々しい声がきっぱりと否定する。
烈風刀は自身を過剰に責める傾向がある。原因は己に無いということが明白であるこんな時までこの調子だ。自身を責める必要など全く無いというのに思い悩み苛むその姿は、見ている者すら苦しくさせるものだ。
「そうやって自分のせいにばっかするなよ。あんまり卑屈になると、オニイチャン怒るぞ?」
むぅ、と子どものようにむくれる兄の姿に、烈風刀はバツが悪そうに眉をひそめた。自覚はあるのだろう、気まずげに握られたエプロンに浅い皺が浮かぶ。
まぁまぁ一回落ち着けって、と雷刀はひらひらと両手を振った。そのまま自分の隣、一人分と少しの余裕があるソファを軽く叩く。ここに座れと言外に主張する様子に、ひくり、と烈風刀の喉が引きつったように震えるのが見えた。逃げるように一歩後ろに下がった姿に、妙な焦燥感が胸をざわつかせる。一人になった彼が孤独に己を責める未来が容易に想像できたからか、それともようやく成立した対話がまた失われる喪失感からか、このまま彼との距離がどんどんと開いてしまうのではないかという恐怖からか。雷刀自身、じわじわと心を蝕むそれが何によるものなのか全く理解していない。けれども、思い悩む弟をたったひとりきりにしたくない、というのは確かな願いだった。
「あっ! そうだ、コーヒーでも飲もうぜ! ブラックでよかったよな?」
必死に思考を巡らせた末に生み出されたのは、強引な提案だった。素早く立ち上がり、雷刀はぺたぺたと足早にキッチンへと向かう。その入り口に立ち尽くしたままだった烈風刀の身体がびくりと跳ね、逃げるようにリビングへと足を運んでいった。よかった、とこっそりと息を吐く。半ば賭けだったとはいえ、無理矢理誘導するような行動は褒められたものではないが、今回ばかりは仕方ない、と開き直ることにする。自室に戻られてはどうしようかと不安だったが、彼はまだ同じ空間にいることを許してくれるようだった。その事実に、少年は再び安堵の息を吐いた。
慣れた手つきで手際よくコーヒーを淹れ、マグカップ二つを手にリビングへと戻る。先程まで雷刀が専有していたソファには、烈風刀が所在なさげに座っていた。出来る限り距離を取るように一番端を陣取り緊張したように縮こまったその姿を捉え、兄は気付かれぬよう苦々しい笑みをこぼす。薬のせいとはいえ、ここまで避けられるのはなかなか辛いものがある。それでも、帰宅直後のそれよりもずっとマシになっているのだ。大丈夫、と自身に言い聞かせて、雷刀は烈風刀の隣、必要以上に空いたスペースに腰を下ろした。今までの様子を見るにあまり近付くのも良くないだろう、と拳三つ分ほど距離を取ったが、それでも足りないと言わんばかりに弟はもぞもぞと端へと寄った。これでは好意を寄せられるというよりも、嫌われていると言った方が自然ではないだろうか。己を彷彿させるような赤いエプロンをぎゅうと抱きしめ、逸らされたその顔が淡く色づいていなければ、きっとそう判断しただろう。複雑な感情を胸に押し込め、はい、とふわりと柔らかな湯気が立ち上がるマグカップを差し出す。ツヤのあるその髪とはまた違う空のような淡い青を、烈風刀は小さな礼の言葉とともにこわごわと受け取った。
ずず、とコーヒーをすする音だけが冷たい部屋に響く。深い黒の水面に幾度も波紋が浮かぼうとも、互いに口を開く様子はない。じわりじわりと足元から湧いて出るような気まずさが、室内の空気を更に冷やしていくようだった。温かな飲み物を飲んでいるというのに、ひやりと寒気が背筋を這う。闇色が持つ苦みが広がる口は、どんどんと渇くばかりだった。
成就サセルノガ一番手ッ取リ早イケド。
再び焦りに支配されゆく頭の中に、小さな悪魔の言葉と笑い声が浮かび上がる。ジョウジュ、と渇いた口の中で呟く。薬による恋が成就すれば、レイシスの言うところの『コイビト』になれば、この状況はすぐさま解消されるのだろうか。
「……なぁ、『ジョウジュ』って、どこまでやったら『ジョウジュ』したことになるのかな?」
「………………は?」
ぼんやりと考えていた疑問が口を突いて出る。底の見えない黒の湖面を見つめていた烈風刀の顔が反射的に上がり、間の抜けた声を漏らしたのが横目に見えた。数拍の沈黙の後、言葉の真意を理解したのか、その顔が夕日のように真っ赤に染まり、そしてすぐさま海のように真っ青に反転する。ようやくこちらを向いた目は驚きで大きく見開かれ、呆然と開いた口元はわなわなと震えるばかりで答えを導き出せる様子にはとても見えなかった。
「あ、貴方……、一体、何を言って」
「だってカヲルとアシタが言ってただろ? 『ジョウジュ』したらすぐ治る、ってさ」
そんなに驚くことだろうか、と雷刀は首を傾げた。不確かなものとはいえ、治す手段が存在するのならそれについて検討してみるのは必要なことだろう。ただただ無為に過ごすよりは良い、と普段の弟ならば判断したはずだ。今回は相対的に思考が落ち着いている自分がそれを言っただけに過ぎない。
「よく分かんねーけどレイシスが言ってたみたく『コイビト』になればなんとかなるかもだし、とりあえずそれっぽいこと試してみてもいいんじゃね? 治ったらそれでいいし、ダメならまた考えればいいんだしさ」
こんなつらそう烈風刀見てるのもつらいし、と付け加えると、空色を握る手に力が込められたのが見えた。元々透き通るように白い肌が、力強く握りしめられたことにより血の色すらも失っていく。再び俯いた碧の顔には、憂いが濃い影を落とした。
「自分が何を言っているか、本当に理解していますか?」
幾許かして返ってきたのは、睨むように細められた目と絞り出すような低い声だった。秒針が進んでいく音にすら掻き消されてしまいそうなほど細いそれは、かすかに震えているように聞こえた。
「僕は男ですよ。男と恋愛関係になるだなんて、貴方はいいのですか」
「それっぽくするだけだろ? 本当に『コイビト』になるわけじゃねーし」
真面目に考えすぎだって、と雷刀は軽く笑い飛ばす。依然冷え沈みゆく空気を消し去ろうと努力するが、暗鬱たるそれは足元に絡みつくように二人の間に居座ったままだ。這い上がってくるそれが心を、思考を掻き乱す。抗うかのように深呼吸をひとつ、兄は居住まいを正し、弟の方へ身体を向けた。
「烈風刀は嫌かもしれねーけどさ、やるだけやってみようぜ?」
海色に揺れる瞳をしっかりと見据え、雷刀は再び尋ねかけた。『烈風刀は』という言葉に、自分は全く気にしていないという確かな意思を乗せる。馬鹿なことを言うな、ふざけるな、と罵られるだろうか。けれども、直感ではあるが、彼がこのごっこ遊びのような解決策を拒んでいるようには思えなかった。
見つめる鮮やかな浅葱が、風に撫でられた水面のように揺れる。彼は深い皺が刻まれるほど強く眉を寄せ、潤むその色を隠さんばかりに目を細めた。はくり、とほのかに色を失った唇が開かれる。蛍光灯に照らされた白い喉が引きつるように動くも、声帯が震えることはなかった。酸素を求めるように幾度も口が開き、音を発せぬ喉が鉛を飲み込むかのように重苦しく動く。胸に渦巻く言葉を絞り出そうとして、それでも感情を音にできずそのまま内に消えていく様は、重い枷を括りつけられ悲哀の底に沈んでいくようだった。
普段の雷刀ならば、ごめん、無理をするな、ととうに遮っていただろう。しかし、朱は真摯に口を閉ざし、その炎のように鮮烈な瞳で震える碧をじぃと見つめたままだ。言葉を紡ぎ出そうと必死にもがく彼を静かに待つ。どれだけかかってもいい、その口から内に抱えた考えをはっきりと聞きたい。その声に、彼のためにこの手を差し伸べることを許してほしかった。
憂い色の瞳が伏せられ、さらさらとした髪の奥に姿を消す。おねがいします、と救いを乞うかすかな声は、ふたりきりの冷たい部屋に溶けて消えた。
「――オニイチャンに任せとけって!」
ようやく届けられたその言葉に、雷刀は身を乗り出し、俯く烈風刀の手を取り大きな声で応えた。燃える朱の少年が常々口にしているその言葉には、『弟をこの手で必ず救ってみせる』という、固い決心と確かな誓いが込められていた。
中身が完全に冷めてしまった夕焼け色と空色のマグカップをテーブルに置き、二人は居住まいを正し互いに向き合うように座り直した。拳三つと少し開いていた空間がわずかながら縮まる。自然と手が届くほど、いつもとほとんど変わらない距離に、雷刀の胸に喜びがじわりと広がった。
「でも、一体何すりゃいいんだろうな?」
「何の考えも無いのにああ言っていたのですか……」
こてんと首を傾げる雷刀を見て、烈風刀は苦い顔をする。ようやく本来の調子を取り戻しつつある声には、先程までとはまた違う不安がたゆたっていた。任せとけ、と自信満々に言われた矢先にこの問いだ。仕方がないだろう。
コイビト、と考え、雷刀はうぅんと顎に手を当て思考を巡らせる。重ねて言うが、雷刀も烈風刀もレイシスに恋する青春真っ只中の高校生である。けれども二人の現在進行形の想いはまだ実を結んでおらず、その上今の今まで彼女しか見てこなかったものだから、互いに交際経験は皆無であった。その類に興味はあれど、世間一般の『コイビト』がどのようなことをするのかはぼんやりとしたイメージしか持ち合わせておらず、具体的には分からない。
「とりあえず、手を繋ぐとか?」
ほい、と雷刀は右手を差し出す。烈風刀の身体が小さく跳ね、反射的に後退ったように見えた。自身でも気付いたのか、苦々しい表情を浮かべながらも彼は居直し、元の距離へと戻る。自ら助けを求めた手前、逃げるわけにはいかないのだろう。その瞳に、わずかながら逡巡が走る。一拍おいて、筋肉に包まれつつもほっそりとした足が小さく地面を蹴り、自ら距離を詰め手の届く場所までやってきた。
「……やってみましょう」
緊張と決意で引き結ばれた口から紡がれたは、肯定的な音だった。つい先程まで逸らされていた目が、はっきりと目の前の兄を見据える。頬を桜色で彩った彼は、差し出されたそれへと震える手を伸ばした。
己のそれよりも心なしか細く、荒れることのない綺麗な白の指が、目の前に留まった手に伸ばされる。求めピンと伸びた指が触れそうな距離まで近付き、躊躇するようにひくりと曲がり離れる。手首が反るように退く様は、大きな動物に怯える子どものようだった。それでも震える指は救いを求め、真っ直ぐ伸ばそうと必死に動こうとしていた。決心と恐れとの狭間で揺れ動き、何度も何度も繰り返されるそれを、雷刀は黙って見守る。無理に急かしては逆効果だということは、火を見るより明らかだ。触れそうで触れられないこの距離はとてももどかしいが、今は努力する弟を待つことしかできなかった。
凍えたように固い動きをする指が一度全て退き、そのままぎゅ、と爪が食い込みそうなほど力強く握りしめられる。ふ、と小さな深呼吸の音。覚悟を決めたのか、大きく開かれた烈風刀の手が真っ直ぐ伸び、ようやく目の前のそれへと辿り着いた。指の腹が触れる。たったそれだけで、小さな喜びが胸に火を灯した。撫でるように恐る恐る内側を伝い、ひたりと手のひらと手のひらが重なる。ようやく取ることができたその手は、緊張のせいか酷く冷たくなっていた。失った温度を分け与えるように、雷刀は雪のように白い右手をそっと握る。未だ震えるそれが一瞬強張ったが、すぐに負けじと握り返してくれた。
『手を繋ぐ』という目的はこれで達成された。どうだろうか、と雷刀は烈風刀の顔を窺う。視線で辿った先の彼は、重なり合った手を複雑そうな表情で眺めていた。
「これは、『手を繋ぐ』のではなく『握手』なのでは」
「あ」
疑問が浮かぶ声に、呆けた声が続く。烈風刀の指摘に、雷刀は思わず視線を手へと戻した。確かに、互いに同じ手を差し出し強く握るこの姿は、主観的にも客観的にもただの握手である。『コイビト』がする『手を繋ぐ』という行為には、似ているようで似つかないものだ。これでは『ジョウジュ』には程遠いだろう。
重なり合っていた手が、バッと素早く離れる。分かたれた温度の行方を追い、雷刀は視線を上げる。その先にある烈風刀の顔には、薄く刷いた紅だけでなく、恥ずかしさと気まずさと動揺がぐちゃぐちゃに混ざった色が強くにじんでいた。身体ごと逸らされた視線が、斜め下の床と反射のように引いてしまった手との間を戸惑うように揺れる。強く眇めた目には悔しさが見てとれた。
中途半端に上げられたままだった白い手が、持ち主の膝の上へと戻る。固く握りしめられた両の手は、先程の緊張や恐れとは違う何かで震えていた。
「烈風刀」
思わず、雷刀は再び色を失っていくその手に己のそれを重ねた。ほとんど無意識の行動だった。負担を考慮し相手のペースに合わせるためにも、自身から強く出てはいけないと考えてじっと待ったというのに、これでは意味が無いがないではないか、と理性が罵る。けれども、本能と身体は目の前で苦痛に震える弟を放っておくことはできなかったのだ。
温めるように包み込む右手に、烈風刀の肩が大きく跳ねる。優しく捕らえた凍える白が怯えるように強張り、逃げるように引かれる。しかし、それはほんのわずかに動いたところですぐさまピタリと止まった。上に被さるそれは本当にただ触れているだけで、力など全く入っていない。ならば、逃げずに止まったのは烈風刀自身の意志によるものだ。
固く冷え切った拳がそっと解け、朝日を浴びた蕾のようにゆっくりと広げられる。ようやく力が抜けたそれを落ち着けるようにすべらかな甲を撫でると、ほっそりとした指がむず痒そうに動いた。何か言い淀むように浅く曲がり伸ばしを繰り返す姿に応え、雷刀は重ねた手を少しだけ浮かし空間を与える。膝と手で作られた小さな部屋の中、未だ怯えるように震える手が、寝返りを打つようにゆるりと裏返された。
手のひらと手のひらがそっと触れ合う。重なった右手に甘えるように、烈風刀の白い指が被さる指の腹に擦りつく。未だ強張りながらも一生懸命じゃれついてくるそれに、返事の代わりに指と指の間に己のそれを潜り込ませた。人指し指、中指、薬指、小指。愛しい左手を抱きしめるように、ひとつずつ絡めていく。全て受け入れられ、肌と肌がひたりと重なる。熱を求めるかのように甘える指がそっと曲げられ、震えながらも抱きしめ返してきた。怯えさせないように、そろりと淡く握りしめる。触れ合うそれは解けることなく、静かに寄り添っていた。
指と指、手と手を重ね互いを抱くその姿は、誰が見ても『手を繋いでいる』と認識するものだ。
秒針が文字盤を歩む音を何度聞いただろうか。熱と熱を共有し、白の冷たさが和らいだ頃、雷刀はそっと烈風刀の顔を覗き込んだ。
「……どう?」
「えっ……、あ、は、い。……大丈夫です。治りました、もう大丈夫です、ありがとうございます」
「さすがのオニイチャンでも嘘ってはっきり分かるぞ!?」
無事だと主張する弟の声は妙に早口でところどころ裏返り、普段の冷静さは欠片も見当たらない。何より、俯いた拍子につややかな髪の合間から姿を現した耳は、兄の髪色と良い勝負ができるほど赤く染まっていた。いくら鈍いやら何やらと言われる雷刀でも、これで『大丈夫だ』と思うほど鈍感ではない。
嘘吐くなよー、と雷刀は繋いだ手をぶんぶんと振る。不機嫌さを隠そうともしないその姿に、烈風刀はだって、と言い訳をするような声を漏らした。
「これ以上、貴方に無理をさせたくありません」
「だーかーらー! 無理してるなんて一言も言ってないだろ!」
未だに全てを一人で背負おうとする姿に、兄はとうとう怒りを露わにし、弟の手を強く握りしめた。びく、とすぐ隣の肩が震え、拘束から逃れようと動く。大人しく逃がすはずなどなく、雷刀は絡みあった怯える手を指が食い込むほど強く強く握る。痛みすら与えるそれは、溢れ出る己の感情を繋がった先の彼に明確に伝えていた。
「無理してんなら最初からこんなこと言い出すわけなねーって! オレが好きで、オレがやりたいと思ってっからやってんの! 烈風刀ならそんなことぐらい分かってんだろ?」
ぐい、と繋がった手を引き、雷刀は烈風刀の身体を自身の方へと向かせた。その拍子にようやく上がった顔を、正面から真っ直ぐ見つめる。狼狽え揺れる碧の瞳には、怒りの炎が燃える朱がはっきりと映っていた。悲憤が揺らめく炎色が、悔しげに強く強く細められる。
「……おねがいって、言ってくれたじゃん」
だったら、ちゃんと頼ってくれよ。
呟くような声は、繋いだ手に額をつけ祈るような姿は、普段の彼からは想像することなどできないほど弱々しいものだった。
たったひとりきりの弟に助けを乞われたのに、結局のところ彼は全てを抱え込んで深い憂愁の海に沈もうとしている。自分はそんなに頼りないのか。救うことなどできないと思われているのか。全てをさらけだせるほど信用されていないのか。不安と怒りと悲しみが雷刀の胸の内を引っ掻き回す。情けがなくて仕方がなかった。
「いいの、ですか」
「いいって何回も言ってんだろ! 任せとけってば!」
未だ遠慮がちに問う声に、他の音全てを掻き消すような声がぶつけられる。弟の謙虚な性格は良く評価される美しいものではあるが、さすがに状況と限度というものがある。おねがいと言ったのならば、任せておけと言ったのだから、最後まで信じて臆すことなく頼ってほしい。あまりの苛立ちと言葉にできないほどの悔しさに、雷刀はギリ、と強く歯噛みした。
「ほら、次何か試すぞ!」
何か、と言ってはみたものの、相変わらず具体的な行為は思いつかない。『手を繋ぐ』よりも『コイビト』らしい行為は何だろうか、と雷刀は脳内の引き出しを片っ端から開けていく。漫画、ドラマ、雑誌、コマーシャル、その他諸々目にした覚えのあるレンアイに関する光景を必死に探す。事象に興味はあれど、その類をメインに扱った作品は彼の趣味の範疇外である。見聞きし閉まってあるはずの記憶はどれも霞のように薄くはっきりしないもので、参考になりそうなものはなかなか見つからない。
必死に記憶を探る姿を隠すように、わずかに目線を逸らす。赤い瞳に、掲げるように握ったままの手が映った。どこか見覚えのあるその影が、記憶の糸に絡まり隠れていた光景を引っ張り出してきた。
記憶の答え合わせをするために、雷刀は更に強く腕を後ろ側へと引く。そのまま、繋がった先の片割れを自身の胸へと抱き寄せた。
手を繋ぎ、身体を寄せあい、腕を回し抱きしめる。映画のコマーシャルで、主役の男女が行っていたものだ。言ってしまえばただのハグだが、恋愛を主題としたそれの中に組み込まれていたのだ。この行為は『コイビト』でもやるものでもあるはずだ。
小さく悲鳴をあげ胸に飛び込んできた弟の背をなぞるように、そっと左手を回す。絡めた指を名残惜しげに解いていく。くすぐる指がゆっくりと分かれていき、ひとつの温度がふたつに戻る。そのまま、解放され寂しげに垂れていく腕ごと優しく抱きしめた。
腕の中、兄の胸に頭を押しつける形となっている烈風刀の身体が凍ったように硬直する。重い石のように動かないその背中を、幼子をあやすかのように優しくさする。たっぷり十数秒、ようやくフリーズから復帰したであろう彼は、酸素を求め喘ぐように意味を持たない音を漏らすばかりだった。更なる混乱の渦に飲まれる弟を宥めるかのように、兄は強張ったままの背を、飴細工を扱うかのように静かに優しく撫で続けた。
触れた身体から伝わる温度は、先程まで握りあい繋がっていた手に反し日向のように温かい。突如放り込まれた非日常の中、ようやく出会った日常を思い出させるような温度に、柔らかな安心感が胸にじわりと広がっていく。物言わず抱かれたままの彼ほどではないが、雷刀もこの状況に十分混乱していた。混ざり乱れる様々な感情の波で荒れた心が、緩やかに凪いでいく。泣いてしまいそうなほどの温かさだった。腕の中にいる彼もそうならばいいのに、とそっと視線を下ろす。光を透かした翡翠のような髪が音もなく揺れるのが見えた。
呆然と背中側に放り投げられた烈風刀の右腕が、痙攣するようにぴくりと跳ねる。ほんのりと血の赤を取り戻しつつある白の指が、戸惑うようにソファの生地を力なく引っ掻いた。生地と爪が奏でる細かい音が止んでしばらく、雷刀の背に温かな何かが触れた。こわごわとした様子で触れては離れを繰り返すそれを、瞼を下ろしじっと待つ。何度目かの別離の後、ようやく背にしっかりと指が触れ、恐る恐る腕が回された。同じく放ったままの右手がそろそろと追いかけ、雷刀の身体を包み込んだ。回された両腕にわずかに力が入る。烈風刀の身体が、雷刀のそれに遠慮がちに寄せられる。そのまま、碧の頭が朱の胸に擦りつき、ゆっくりと体重が預けられた。
身を寄せあい、肌を重ね合わせ、温度を共有する。
秒針の音すら聞こえない。響いてくるのは互いの鼓動のみだ。
心音の協奏曲の中、ず、と鼻をすする音が加わる。水っぽい音に混じって、必死に殺した嗚咽が胸の中から響く。緊張の糸が切れたのだろうか、泣く姿など家族にすら滅多に見せないというのに、縮こまった烈風刀は温かな涙を流していた。己の服が汚れることなど気にせず、雷刀は胸の中で震える身体を柔らかく抱きしめる。不規則になりつつある呼吸を整えるかのように、存分に泣いてもよいのだと語りかけるように、その内にわだかまる憂いを払うかのように、ただただ静かにその背を優しく叩いた。
どれほど経っただろう。ようやく嗚咽と震えが落ち着いた頃、烈風刀はそっと顔を上げた。見上げてくるその目の端は痛ましいほど赤く染まっており、海色は膜張る涙で揺らめいていた。涙で彩られたその顔は、言葉を発するのはまだ難しいように見える。落ち着いてからでいいからなー、と雷刀はあやすように優しく頭を撫でた。乱れた呼吸を整えようと深呼吸をするその呼気が、襟ぐりから覗く己の肌を撫ぜ、少しくすぐったい。
形のいい頭に沿ってさらさらとした髪を梳いていると、後ろに回されていた腕がそろりと離れる。かすかに聞こえてくる呼吸の音も整っており、抱きしめた彼の心がようやく凪いだということが分かった。
雷刀は手を離し、腕の拘束を緩める。胸に預けられたままだった頭が離れていく。遠ざかっていく温もりが何だか名残惜しいが、引きとめることなどできない。ただ、未だ突き放して逃げることなく自分の前にいてくれることが嬉しかった。
起き上がった烈風刀は、少し俯いたまま手の甲で目元をごしごしと擦る。その姿は、泣いたことを隠しているように見えた。
「落ち着いた?」
「……えぇ」
尋ねる声に、烈風刀はバツが悪そうに視線を逸らした。やはり、高校生にもなって、それも双子の兄の前で子どものように泣いてしまったのが恥ずかしいのだろう。泣き顔など、昔はどちらも隠すことなく晒したというのに、と雷刀は密かに小さく息を吐いた。
「で、どうだ?」
夕焼けのように鮮やかな赤が、夜明けの澄んだ青を覗き込む。燃えるような赤の中には、嘘を吐くなという有無を言わせぬ気迫がしっかりと見てとれた。さすがの烈風刀もこれには抗えないらしい。小さな抵抗とばかりにふいと視線を逸し、素直に口を開いた。
「駄目……みたい、です」
沈痛な音に続いて、薄い唇の向こうからギリ、と鈍い音が鳴り響く。形の良い眉が強く寄せられ、眉間に深い深い皺を刻んだ。歯痒くて仕方ないという様子で、烈風刀は拳を握りしめる。ようやく温度を取り戻したその手は、加減などせず思いきり込められた力で再び血の気の薄い白に染まってしまった。
「――なんで、……なんで、こんな」
絞り出す声は、憤怒と悲哀と苦渋に震えていた。ギリ、と再度歯が軋む嫌な音がたつ。そのまま噛み砕いてしまうのではないかと危惧するほど強く食いしばる口元は、苛立ちで酷く歪んでいた。
烈風刀、とその名を呼ぼうとして、雷刀は詰まったかのように口を噤む。こんなにも悲愴に溺れる彼に、一体何をしてやれるのだろうか。当たり障りのない薄っぺらい慰めの言葉は、届くのだろうか。矮小な己の行動たったひとつで、ゆっくりと沈みゆく彼を救えるのだろうか。幾許か逡巡し、雷刀は再び手を伸ばす。迷いを纏いながらも届けた指先で、もう一度柔らかな髪に触れる。幼い頃、弟が泣いた時には大丈夫だと安心させるように頭を撫でてやっていた。今でもそれが通じるかは分からないが、ほんの少しでも落ち着きますように、となぞる指先に願いを込める。ようやく顔を上げた片割れは、絶望と哀絶の淵に立っているような色をたたえた目で向かい側の同じ顔を見た。
「……貴方が」
薄く開いた口が、緩慢な動きで言葉を紡ぐ。逸らされてばかりだった澄み渡る碧が、憂惧に揺れる朱を覗き込むようにじっと見つめる。けれども、その瞳は色の無い硝子玉のようで、目の前にいる雷刀など全く見ていないように思えた。
「貴方が視界に入ると、うるさいほど鼓動が早くなるのです。心臓が力いっぱい握りしめられたように痛くて、口の中がカラカラになって、思考が上手く働かなくなって、ろくに話せなくなるのですよ」
はは、と烈風刀は苦しそうに目を細め、乾いた笑みをこぼした。自己を強く嘲り、精神を自ら嬲り、自身の全てを切り刻むような音だった。吐き出す一言一言が、彼の身体を、精神を傷つけていく。作り損なった笑みを浮かべ、碧は言葉を続ける。その表情も、声も、身体も、哀切に震えていた。
「普段と全く変わらないのに、貴方の笑顔を見るだけで胸の内が燃えるかのように熱くなるのです。少女のように鼓動が高鳴って、心臓が締めつけられるように苦しくて……、それでも、笑いかけてくれるのが嬉しくて、胸がいっぱいになって……、いっそ、泣いてしまいたくなるのです」
抱え込んだ激情を吐露する声は、聞く者すら胸を締めつけられるような悲痛で切羽詰まったものだ。わだかまる苦しみを吐き出す度、比例するように烈風刀の顔は歪んでいく。醜く崩れゆくその表情を隠すかように、彼はソファに突いたままだった左手で美しい碧をひとつ覆い隠した。形として表すことなど到底できそうもない苦痛に苛まれながらも、こぼれ続ける言葉を切る様子はない。
「頭の中が、雷刀のことでいっぱいになって。どんなに些細なものでも、貴方のことが思い浮かんで……、何も、手につかなくなってしまうのです。貴方のことばかり考えて、何も出来なくなって、貴方のことしか、考えられなくなって」
どろどろと心の中から流れ出る言葉に、ひとつふたつと色の無い雫が重なる。赤く染まった目元から溢れ出た透明なそれが肌を伝い、ぽつりぽつりとソファに水玉模様を作っていく。水が染み込んだ生地が作る暗い色は、まるで彼の心からそのまま溢れ出てきたもののように見えた。
「こうやって、触れてくれるだけで、嬉しくて、苦しくて、死んでしまいそうになる」
嘲りと痛みがにじむその一言だけは、柔らかな温かみを孕んでいるように聞こえた。それもすぐに喉の奥へと消える。溢れた雫が水玉模様を作る静かな音、高ぶる感情を押し殺そうとする吐息、それでも漏れ出る苦しげな嗚咽。深痛な音が、ふたりきりの部屋に、互いの心に刺さるように響いた。
「こんなに苦しいなんて……、辛い、なんて……」
こんなもの、早く消えてしまえばいいのに。
胸の奥底から絞り出された声は、溢れ出る涙と痛嘆で濡れていた。
「……大丈夫だから」
呟くように、囁くように、雷刀は項垂れた弟に語りかける。己の無力さに胸の内を暴れまわる怒りが決して漏れぬよう、努めて優しい声で震える彼にゆっくりと言葉を紡いでいく。
「オニイチャンがちゃんと治す方法見つけるから、な?」
無責任に聞こえるかもしれない。こんな言葉で、彼が抱える全てを軽くしてやれるはずなどない。それでも、ほんの少しでも、彼の救いになってくれるならば。雷刀は祈るように嗚咽をあげる片割れの頭をそっと撫で続けた。
分針が何度歩を進めただろうか、悲嘆に満ちた呼吸が少しではあるが収まった。ようやく上がった烈風刀の顔は、涙と鼻水で雨に打たれたように濡れていた。ぐちゃぐちゃだなー、と雷刀は服の袖を伸ばし、痛いほど紅色に染まった目元を拭う。普段ならば行儀が悪い、と顔をしかめるであろう品行方正な弟は、何も言わず大人しくされるがままでいた。すん、と気まずげに鼻をすする音が時折こぼれた。
「つらいかもだけど、もうちょっとだけ試してみよーぜ? ……つっても、具体的には思いつかないんだけどさ」
はは、と雷刀は苦く笑う。本当ならば、一時的にでも烈風刀を苦しみから解放するには、雷刀が家を出ていくのが最善の手なのだろう。けれども、最初に提案した時の反応を見るように、その解決策はきっと彼の痛みを増やすだけだ。その内に積もった激情を吐露し、感情の整理がまだ上手くいっていないであろう今なら尚更だ。
だからこそ、足掻く。互いの胸に渦巻く黒く重い何かを消し去るためには、とにかく探り動くしかないのだ、と朱色の口元が悲壮に引き結ばれた。
鼻をすする弟に机の上に置かれたティッシュ箱を渡し、他に、と雷刀は中空を見つめ頭を働かせる。他に何か、『コイビト』ですることはないか。『コイビト』しかできないような行為はないだろうか。先程どうにか引っ張り出した光景以外にも何かないものか、と再び記憶の引き出しをガチャガチャと開け広げ中身を掻き回していく。
「――キス?」
漏れた言葉が、痛いほど冷え切った部屋にこぼれ落ちる。その瞬間、全ての音が消えたように錯覚した。互いの呼吸の音まで聞こえない。己の心音すら分からない。まるで時が止まったようだった。
「やめてください!」
停止した空気を引き裂くように、烈風刀は悲鳴にも似た怒声をあげた。深痛で塗り潰された顔に、様々な感情の色が塗りたくられていく。混ざり合ったそれは、深い闇のように黒く濁った姿をしていた。
「ファーストキスなのでしょう? そんな、そんなに大切なもの、……っ」
こんなくだらないことで失わないでください、と冷たい部屋に落ちた声は、祈りと同じ形をしていた。
「な、にも、口にするわけじゃないしさ。ほら、ほっぺならノーカンじゃね?」
気圧されながらも、雷刀は言葉を続ける。確かに突拍子のない、あまりにもふざけた提案だろう。けれども、本当にもう他に何も思いつかなかったのだ。どれだけ記憶の扉を開いていっても、彼のそれの中にはそのひとつしか残っていなかった。
「他にも、きっと何かありますよ。だから――」
「何かって、何があるんだ? オニイチャンもう何も思いつかねーぞ?」
素直な疑問に、烈風刀は言葉に詰まったように口元を強張らせた。碧色の瞳は宙を泳ぎ、寄せられた眉は心なしか端が下がってゆく。焦燥感が浮かび上がっていくその表情を見るに、彼の中にも明確な答えが存在するわけではないようだった。
「……一緒にご飯を食べるとか」
「さっき一緒に夕飯食べたよな?」
「隣に座るとか」
「今やってんじゃん」
雷刀が指摘する度、烈風刀の声は萎んでいく。あ、う、と漏れる音は数を重ねるにつれ絶望色で染まっていった。同じ色に変わりつつある視線が、困り果てたようにどんどんと下へと降りていく。口が開かれては、何も言わず震えて閉じる。ついには言葉を失い、彼は未だ黒い点が浮かぶ布地をただただ呆然と見下ろした。
「そりゃあ、男にそんなことされるの嫌だろうけどさ。他に何にも考えつかねーもん」
「…………何で、何でそんなに自分を犠牲にするのですか。僕なんかのために、何で、こんなにも」
訴えるように紅玉を見つめた翡翠に、また水が膜張っていく。限界を超えこぼれたそれが、赤く染まった肌に透明な一本道を作りだした。溢れ流れるそれを、雷刀は再び袖で拭う。湧き出続けるそれは全て受け止めきれずに、ただただ薄い布地を濡らしいくばかりだ。それでも、早く泣き止みますように、という願いを込めて、彼は手を離さずにいた。
「だって、烈風刀のことすっげー大事だもん。苦しんでるの見てるのつれーよ。それに、烈風刀こそ我慢すんなよ。自分ばっか犠牲にしないで人に頼れって、さっきも言ったろ?」
任せとけって、と兄はふわりと笑いかける。自分まで辛い顔をしていてはいけない。少しでも弟を安心させなければならない。様々な気持ちを込めて、柔らかく細めた目で涙を流す片割れと視線を合わせる。ひくり、と白い喉が引きつるように動くのが見えた。震える唇が、酸素を求めるようにはくりと動く。どうにか音を奏でようと努力するも一向に上手くいかず、翡翠の瞳が悔しげに細められた。
「…………本当に、いいのですか」
男ですよ。
弟ですよ。
そんなことしても、平気なのですか。
気持ち悪くないのですか。
ようやく役目を思い出したらしいその喉から叩きつけるように投げられた問いは、深憂に揺れていた。救いを求めるような、突き放してほしいような、相反する感情に揺れるその声は、細く絞られ掠れていた。
「だいじょーぶ、嫌なんかじゃないって。だって、烈風刀だし」
弟だからこそ、家族だからこそ、その行為に対する嫌悪感や忌避感は全く無い。大切な家族を心の底から心配することはあれど、気持ち悪いと忌むことなどあり得るはずがないのだ。
もし烈風刀自身がその行為を忌み、拒否するのならば雷刀もこのようには言わない。しかし、先程から弟が紡ぎ出す言葉はこちらを慮るものばかりで、行為自体を否定する音は含まれていなかった。嫌でないならば、受け入れてくれるならば、試せることは全て試したい。『おねがい』と縋り頼ってくれた弟を、兄として救ってやらねばならないのだ。
それにほっぺならノーカンって言ってんじゃん、といつものようにおどけて笑う。しかし、和らげたいはずの烈風刀の表情は、再度痛ましげに揺らいだ。それでも、彼は否定の言葉を吐くことなく、逃げる様子すら見せることなく、朱の明るい笑顔から目を逸らさずにいた。
何も言わず、水面のように揺れる碧を見つめ、そっと悲しみの雨に打たれた頬に右手を添える。幾許かして、何かを耐えるように細められた目がゆっくりと閉じ、見慣れた色が白の下に姿を消す。口は固く引き結ばれ、身体は怯えるように震えていた。強張るその表情は、息をすることすら忘れているようにすら見える。緊張しているのだろう。薬のせいとはいえ惚れている相手にキスをされるなど、ドキドキするに決まっている。雷刀だって、レイシスにそうされる状況に陥れば心臓が破裂してもおかしくないほど脈動し、身体が凍ったように固くなるであろうことは簡単に想像がつく。自分以上に恋愛には純情で奥手な烈風刀ならば尚更だ。
春に咲く桜の花のように色づいた頬を見て、思わず息を呑む。双子故同じ顔と評価されることが多いが、雷刀にはそうは思えない。烈風刀は鋭いかっこよさだけでなく、整った美しさを持っているように思えた。自分のそれよりも白い肌は降り積もったばかりの雪のように綺麗で、湧き出る清水のような透明感があった。今は瞼の下に隠れた反対の色をした目は雨上がりの空のように澄み渡った鮮やかなもので、心なしか長い睫毛で縁取られた様子はまるで丹精込めて作られた人形のように粋美だ。常日頃生活をともにし見慣れているとはいえ、その美しい顔が目の前に、それも間近にあるというのだから、少し気恥ずかしさを覚える。こんなことをしている場合ではない、と軽く頭を振る。無用に長く待たせては、弟の心に積もる不安は増していくばかりだ。
気付かれぬよう静かに息を吐き、目を閉じじっと待つ烈風刀の左頬へと顔を寄せる。彼に釣られるように、気恥ずかしさを隠すようにそっと瞼を下ろし、高ぶった感情で赤く染まった頬に口付けを落とした。
一秒にも満たない、刹那のふれあい。
祈りを込めた唇で触れた肌は、柔らかくて、すべらかで、熱くて、涙の味がした。
熱を持つ肌から、少しかさついた唇が音もなく離れる。どうだろうか、と目の前の顔を不安げに注視したところで、雷刀ははたと動きを止めた。
恋を『ジョウジュ』させるには、まずその胸に抱えた恋心を相手に伝え、受け入れられることが重要なのではないだろうか。否、それどころか『コイビト』という関係を成立させるには大前提の条件である。何故今まで気が付かなかったのだろう、『コイビト』めいた行為を試すよりも先に、それを試すべきだったのだ。
「――好き」
自然とこぼれた言葉が、ふたりを包む空気を震わせる。冷たい部屋に落ちた泡沫のように淡い温度に、隠されていた碧の瞳が再び姿を現した。深い海のようなそれが大きく開かれ、ゆっくりと細められる。つい数秒前に見せていた強張ったものではない、ぬくもりを宿したそれは、空にかかる虹のように柔らかな弧を描いた。
「――僕も、です」
すき、と呟くような答えとともに、再び一筋の涙が烈風刀の頬を伝う。透明なそれには、もう悲しみの色も苦しみの色も孕んでいないように見えた。
音もなくこぼれだした涙をせき止めるかように、再び瞼がゆっくりと下ろされる。深呼吸ひとつしてそっと開かれた目には、悲哀も苦渋も潤む熱もない、普段通りの冷たくも澄み渡る美しい色が戻っていた。
「……だいじょぶ、か?」
「はい、もう平気ですよ」
「ほんとに? ほんとーに?」
「本当に大丈夫です。もう、嘘なんか吐きませんよ」
恐る恐るといった風に何度も尋ねる雷刀に、烈風刀は落ち着いた声で返す。言葉につかえる様子も、上ずった様子も、震える様子もない。冷静で大人びた、普段の嬬武器烈風刀の声だった。
ようやく薬の効果が消え去ったのだ、と実感し、雷刀は大きく息を吐き出し、倒れ込むようにソファの背もたれに寄りかかった。ふたりで解法を探ったのはほんの数時間ほどだろうに、もう何日も経ったかのような感覚と、重い疲労感が一気に身体を襲う。薬に振り回され苦痛に喘ぐ烈風刀の心配ばかりしていたが、どうやら自分も相当に緊張していたらしい。勢いよくのしかかってきたそれらの下から、じわりじわりと安心感がにじみでる。元に戻ったのだ。治ったのだ。弟が抱える羽目になった苦しみを、ようやく取り除くことができたのだ。紆余曲折あれど、無事に日常に帰ることができた喜びと安堵に、雷刀の頬は無意識に綻んだ。
「よかったー……。ほんと、よかった……」
「ご迷惑をおかけしました」
安堵の溜め息とともに漏れ出た言葉に、苦々しく低い謝罪の言葉が重なる。いーよいーよ、と、気にするなと言うように雷刀はひらひらと手を振った。それでも負い目を感じているのか、揺らぎのない真っ直ぐな瞳が笑みを浮かべた朱を見据える。鮮やかなその目には依然悔いの色が見えるものの、すっかりと元の落ち着きを取り戻していた。
「全て雷刀のお陰です。本当にありがとうございます」
深々とお辞儀する姿に、兄は困ったように目を眇めた。いいと言ったのに、生真面目な弟はこんな時まで律儀だ。呆れにも似た溜め息を吐く。そのまま、にぃと笑い、下げられた烈風刀の頭をぐしゃぐしゃと勢いよく撫でた。うわ、と乱れた髪の下から小さな悲鳴がこぼれたのが聞こえた。
「治ったんだったらそれでじゅーぶん! 気にすんなって!」
未だにどこか暗さと硬さが残る空気を吹き飛ばすように、雷刀は明るく笑い飛ばす。ようやく重い枷が外れ、悲哀の海から出ることができたのだ。今はそれを喜ぶことが第一だろう。
髪が乱れる、子ども扱いするな、と普段ならあがるはずの抗議の声もなく、烈風刀はただただ大人しく撫でられ続けていた。細い若葉色の奥に、どこか気恥ずかしそうな笑みが覗く。あれだけ悲しみと痛みを抱えて歪んでいたその顔に、柔らかな表情が浮かんでいることが嬉しくてたまらない。溢れ出る喜びに、茜色はへにゃりと頬を緩ませた。
「あ、そだ。ほっぺ洗わなくてもだいじょぶか? 気持ち悪くねぇ?」
頭を撫でる手が髪を梳くように下がり、再び頬に触れる。先刻からの感情の高ぶりで依然色づいたままのそこは、涙の痕でかさついていた。泣いた痕はもちろんであるが、先程雷刀の唇が触れた箇所が気にかかる。行為を試した時点では薬の影響により『好きな人』扱いだったが、既に治った今、烈風刀にとって雷刀は『ただの兄』である。男兄弟に口付けをされた感覚など、まず快くは思えないだろう。潔癖な弟ならば尚更だ。
「あぁ、いえ……。一応、洗ってきます」
これ以上こんなにみっともない顔は晒せません、と独白のようにこぼして、烈風刀はソファから立ち上がった。泣き腫らした目元を隠すかのように手の甲で拭う姿は子どものようだ。その様子をぼんやりと眺め、雷刀は手をソファの上に放り出す。熱を持つ肌と別れたそこに、少しの寒さと寂しさを覚えた。
よかったよかった、と彼は両手を組み前方へと小さく伸びをする。は、と詰めた息を吐くと、雷刀、と澄んだ声が家族の名をなぞった。音もなく移した視線の先には、廊下へと続く扉の前で振り返る烈風刀の姿があった。
「本当に、ありがとうございました」
ふわりと柔らかな笑みを浮かべ、烈風刀は兄に再度感謝の言葉を告げた。白い喉が奏でた音は、穏やかなものだった。
「だから、もうだいじょーぶだってば」
朱が苦笑で返すと、碧も少し気まずげに目を細めた。気にしなくてもいいのに、と胸の内で呟くが、生真面目な弟の性格ならばこうなってしまうのも仕方のないことだとも分かっている。ならば、これ以上意識させぬように優しく流してやるのが一番だ。
「烈風刀も、頼ってくれてありがとな」
雷刀自身が強く働きかけたことも要因ではあれど、いつも何でも全て一人で抱え込む弟が、兄である自分に助けを求めてくれたのが嬉しかった。助けたい、助けさせてくれ、と必死に差し伸べた手を、その冷たい手が取ってくれたのが、嬉しくてたまらなかった。
助かってくれて、助けさせてくれてありがとう。そんな気持ちを込めて、朱い瞳が碧い瞳を真っ直ぐと見る。その言葉がくすぐったいのか、美しい海色が揺れる。少しして、綻んだその口元が何か言葉を紡いだように見えたが、雷刀の目では薄暗い中のそれを読み取ることができなかった。ことりと首を傾げるが、烈風刀はその動きを見るよりも先に背を見せ、扉を開き廊下へと出てしまった。
パタン、と扉が閉じる控えめな音とともに、雷刀は滑るようにずるずると崩れ落ち、ひとりきりに戻ったソファに寝そべる。雪崩のように襲ってきた疲労感と、胸の内に広がる安堵が緩い眠気を誘ってきた。ただ隣にいただけの自分ですらこれなのだ、振り回された当人である烈風刀の負担は想像もつかないほどのものだろう。大丈夫かな、と考える間にも、睡魔は瞼をゆっくりと撫でていく。救いを求め必死に足掻きフル稼働させた雷刀の頭は、それに抗う術など持ち合わせていなかった。まどろみでぼやける視界が、どんどんと狭くなっていく。
ふと、固い指が持ち主の唇をゆっくりとなぞる。ふにと柔らかな頬の感触、涙の痕で少しかさついた肌の温かさ、ほのかに感じた塩辛さ。須臾の邂逅だったはずなのに、あの時の感覚は雷刀の脳内にはっきりと残っていた。レイシスもこんな感じなのかな、と不埒なことを考える。睡魔に主導権を奪われつつある思考はろくに働くことはなく、意識とともに眠りの底へと落ちていった。
すっかりと下りた瞼の裏には、小さく震えながらも目を固く閉じ、兄をじっと待つ烈風刀の表情が淡く浮かんでいた。
際限なく湧き上がってくるあくびを噛み殺しつつ、澄んだ冷たさに包まれる廊下を静かに歩く。冷水を浴びてなお再び睡魔に身を委ねようとする目をごしごしと擦り、雷刀は冷たいドアノブに手をかける。かちゃりと軽い音をたて扉が開くと、卵が焼ける甘い匂いと野菜が煮える優しい香りが鼻をくすぐった。穏やかなそれに、身体を包むように残っていた眠気がゆっくりと晴れていく。香りの先にあるであろう光景を思い浮かべ、少年はぱたぱたと音をたてキッチンへと駆け寄った。
「おはよ」
「おはようございます」
入り口から覗いたそこには、雷刀の予想通り赤いエプロンをつけたの烈風刀が立っていた。彼の目の前にあるコンロには、ことことと揺れる鍋と小さい音をたてるフライパンがかけられており、調理を始めてからある程度の時間が経っていることが分かる。遅かったか、と兄は内心苦々しく呻いた。
「今日ぐらいゆっくり寝てればよかったのに」
昨日は精神的にも肉体的にも酷い疲労を背負ったのだ、普段は早起きな弟も今日ばかりは布団の中に長く滞在しているだろう。そう予測し、彼の負担を少しでも減らすため自分一人で朝食を作ろうと、雷刀はいつもより少し早く起きたのだ。それでも、疲れているはずの烈風刀の方がずっと早かったのだから兄としてしまりがつかない。労わる言葉には、気まずさと申し訳なさと少しの悔しさがにじんでいた。
「普段通りにしていないと落ち着きません。料理をするのは好きですし、気分転換にちょうどいいのですよ」
兄の言葉と声に見える色に苦笑しつつ、烈風刀は火にかけていた鍋の蓋を開ける。蛍光灯に照らされ鈍い銀色に光るそれから、ふわと優しい湯気が舞った。ふつふつと煮えるその中に、おたまに取った味噌を溶かし入れる。しっかりと溶け切るよう幾度か中を掻き回した後、彼は小皿に鍋の中身を少し掬い取り、薄いその縁に口をつける。一人納得したように頷くと、今度はそれを雷刀に差し出した。兄は素直に受け取り、器に残る温かなそれを飲み干す。出汁と味噌の風味が調和した、いつもと変わらぬちょうどいい塩梅だ。うめぇ、と心からの明るく元気な返事に、浅葱の瞳が嬉しそうに細められた。
家庭菜園から始まったこの趣味は烈風刀の気質に合っているようで、キッチンに立ち食材と調理器具を巧みに操る姿は心の底から楽しそうなものだ。これで彼の気が晴れるなら、と雷刀はその姿を眺める。もし後からその細い身に疲労が襲ってきたならば、その時は自分がサポートしてやればいいのだ、と結論付け、うんうんと兄は一人頷いた。
「ほら、食器出してご飯よそってください。こっちももう少しで出来ますから」
「分かった!」
おたま片手に指示を出す烈風刀に従い、雷刀は踵を返す。箸と調味料をテーブルに並べ、二人分の茶碗を手に炊飯器の元へ向かう。ぱかりと開いた蓋の先、炊きあがったばかりの米はつやつやと輝いていて、優しい甘い香りとともに起き抜けの胃袋を刺激した。なだらかな白い山が二つ作り上げられた頃には、弟は汁椀を手にキッチンを出るところだった。
全てを運び終え、食卓に二人分の食器が並ぶ。白米、味噌汁、卵焼き、その他おかず数品。普段と変わらぬ温かな朝食だ。
いただきます、と二人で手を合わせ、箸を手にする。もぐ、と口に運んだ卵焼きは少し甘めでふんわりとしていて、味噌汁はしっかりと火が通った柔らかな野菜と出汁の風味が目覚めたばかりの胃を優しく温めてくれる。常備菜の和え物はいつも通り、安定した美味しさだ。どの料理も温かで、空腹と心を優しく満たしてくれる。昨晩と同じ食卓だというのに、部屋を包む空気は比べ物にならないほど澄んだ明るいものだった。
「……あの」
小さな声に、雷刀は汁椀から口を離した。視線を手元から正面に移すと、茶碗と箸を置き気まずそうに視線を逸らした烈風刀の姿があった。ごくり、と口の中のものを飲み込み、雷刀は首を傾げる。彼が話を促す際によくする仕草だ。それでも言い辛いのか、弟はもごもごと口を動かすばかりだ。
「あの……、その、昨晩のことは、レイシスには内密……内緒でお願いします」
兄にも理解できるように言い直す口元は強張り、宙を泳ぐ目には羞恥と後悔と恐怖が見てとれた。あぁ、と彼らしくもない様子にようやく合点がいき、赤い目がぱちりとひとつ瞬きをした。
そりゃああんなことレイシスに知られたくないよなぁ、と雷刀は苦い顔をする。恋慕の情を寄せる女性に、ごっこ遊びのようなものとはいえ別の誰かと恋人めいた行為をしたなど、死んでも知られたくないに決まっている。その相手が彼女も知る人間、それも当事者の兄であるならば尚更だ。もし自分が昨夜の彼の立場ならば、土下座をする勢いで同じことを言っただろう。分かってる、とくるりと箸を振って返すと、烈風刀は心底安心したように胸を撫で下ろした。次いで、行儀が悪いですよと咎める声。いつも通りだな、と小さく笑うと、目の前にある形の良い眉が強く寄せられた。
「何を笑っているのですか」
「いや、いつもの烈風刀だなーって」
棘の浮かぶ烈風刀の問いに、雷刀はへらりと緩んだ笑みで返す。まったくもう、と呆れたように溜め息を吐く様も普段通り、いつもの嬬武器烈風刀の姿だ。たったそれだけのことなのにこれほど嬉しく感じるのだから、昨日の一件は自分の胸にも酷い傷を残していったことがよく分かる。この胸に染み渡る感情は、きっと弟も同じく感じているだろう。尖った声色に反してわずかに綻んだ口元が、それを証明していた。
ごちそうさまでした、と二人分の声が重なる。一人一人に出された皿の上の料理は綺麗に無くなっていた。気持ちの良い眺めだ、と兄弟は図らずも同時に頷く。食べ終わった皿の上を見れば、その料理の良し悪しが一目で分かる。野菜くずひとつ、米粒ひとつ残らず綺麗に食べられているということは、それは残すことなどできないほど掛け値なしに美味であったということだ。料理を作る二人にとって、いつ見ても嬉しい光景だった。
片付け流しへと運ぶべく、食器を重ねていく。カチャカチャとそれらが小さな鳴き声をあげる中、そうだ、と雷刀は顔を上げた。烈風刀が元の調子に戻ったのならば、本日も通常通り運営業務を行えるだろう。今度の更新では何が控えているかを今一度確認しておきたかった。自分でちゃんと把握しとけって怒られるかな、とほんのりと不安を抱えつつ、兄は重なった皿を抱きかかえようとした弟に声をかけた。
「なぁ、次のアプデって来週の木曜だっけ?」
「そうですね。通常の楽曲追加と、連動イベントでの楽曲とアピールカードの追加と、既存楽曲の新規エフェクトの追加と……」
「いっぱいあるのは分かった……」
次に控えるアップデート内容を指折り数える烈風刀の声も、それを聞く雷刀の表情もどんどんと萎んでいく。両者とも、本日対面するであろう山のような業務内容を想像し、苦い顔をした。
コンソール=ネメシスによるこの世界は、肩を並べる他の世界に比べアップデートの頻度が高く、必然的に日々の運営業務も多い。平時も十二分に忙しいが、そこに様々なイベントやキャンペーンが重なりに重なって作業量が恐ろしいことになる場面が多々あるのだ。いつだったか、他世界との連動企画を含む週連続アップデートを行っていた時期には、自分たちだけでは到底抱えきれないと半ば音を上げ、手の空いている関係者に片っ端から声をかけ協力を仰ぎ、ギリギリのラインでアップデート準備を終わらせたこともある。地獄と言っても過言ではない、と皆が口を揃えて評価したその時期に比べれば可愛いものだが、処理すべき事項が多いことには変わらない。
それでも、レイシスと自分たち兄弟、そしてつまぶきとなら。
協力し全力で動けば、どんなことだって乗り越えられる。そう心から信じられるほど、五年の歳月をともに過ごしてきた四人の結束は固いものとなっていた。
「ま、今日もがんばろーな!」
「はい。今日もよろしくお願いします」
明るい朱。穏やかな碧。二人の笑顔が重なる。柔らかく差し込む朝日が、その姿を照らしていた。
おまけ
校舎の外に一歩踏み出すと、馴染みのある匂いが鼻をくすぐった。どこか生ぬるいそれは、さぁ、と風が吹くような細かな音とともに世界に降り注ぐ。囁くようなそれに混じって、ひゃーと叫びにも似た笑い声が聞こえていた。
やはりか、と烈風刀は雨色に染まる空気を眺めた。今朝テレビで流れていた天気予報は、晴れ一時雨だと告げていた。特に午後の降水確率は午前に比べて高く、降ってもおかしくないだろうなと液晶画面に映る天気図を眺めていたのだが、どうやら的中したようだ。午後の授業が終わる頃に静かに降り出した雨は、業務が終わり下校する時間まで活動を続けていた。霧のように細かな雨粒がコンクリートの地面を撫でるように染めていく。止む気配はまだまだ感じられない。
持ってきて正解だった、と鞄を開く。綺麗に整頓されたその中を探り、彼は細い折り畳み傘を取り出した。普通の傘ではかさばるだろうと、こちらを用意しておいたのだ。携帯用のカバーと、薄い生地をまとめる留め具を外す。玉留に手をかけ、ぐっと押し出すと、幾重にも畳まれた骨組みが植物のように真っ直ぐと伸びていく。銀の骨と骨を跨ぐ布がばさりと広がると、見慣れた傘の形が姿を現した。折り畳み式のため通常のそれよりも小さいが、一人で使う分には十分な大きさだ。
段階的に伸びる銀の中棒を握り直したところで、見慣れた茜色が彼の視界に飛び込んでくる。若葉色の瞳に、すぐ隣に立っていた雷刀がこちらを覗き込む姿が映った。わざわざ少し屈み見上げるその顔には、何かを企んでいるような怪しい笑みが浮かんでいた。
「れーふーと、オレも入れて」
「置き傘があるのではないのですか」
「無くなってた」
棘を含ませた言葉に悪びれもせずに答える朱を、碧は鬱陶しげに見下ろす。今朝、午後から雨が降るかもしれないと伝えた時、兄は置き傘があるからいい、と言って何も持たずに家を出たのだ。そもそも、優等生と評される烈風刀は、置き傘というものをあまり快く思っていない。そのだらしない行為に甘えた挙句にこれだ。形の良い眉を強く寄せ、彼は溜め息を吐く。この程度で諦めるはずなどない相手だとは重々承知しているが、こんな調子では嘆息のひとつぐらい漏らしたくなるのも仕方のないことだろう。ゆっくりと細められた目は、冷たい色を宿していた。
「嫌です。予報を見ずに傘を持ってこなかった貴方が悪いのでしょう」
突き放す言葉に続き、えー、と不満げな声があがる。全て自分が悪いのではないか、と内心呟き、烈風刀は兄など気にもかけず、開いた傘を肩にかけた。弟のつれない様子に唇を尖らせる雷刀だが、何か思いついたのか、その瞳がいたずらめいた光に輝く。そのまま彼はくるりと軽い身のこなしで烈風刀の隣、彼とレイシスとの間に割り込むように顔を出した。
「じゃあ、レイシス。途中まで入れてって」
「いいデスヨ」
透明なビニール傘を手にした少女は、少年の頼みを快く受けた。その和やかな様子に焦ったのは弟の方である。ちょっと、と慌てた声で二人の会話に割って入った。
「何故そうなるのですか」
「だって烈風刀は入れてくれねーし? 濡れたら嫌じゃん?」
「知りません。レイシスに迷惑をかけるのはやめなさい」
「迷惑じゃないデスヨ?」
こてん、と小首を傾げるレイシスに、烈風刀はう、と気まずそうに言葉を飲み込んだ。彼がレイシスを特に気に掛けているということは学園の皆が知っている。そして、その兄である雷刀が彼女に惚れこんでいることも周知の事実である。そんな相手を可憐で美しい彼女から引き剥がすための口実を本人に否定されてしまったのだ、言葉に詰まるのも仕方がない。どうしたものか、と少年は逡巡する。どうしたも何も、答えが一択であることは明白だ。
「…………仕方がありません。今日だけですよ」
心底納得がいかないという声音とともに、弟は兄に折り畳み傘を差し出した。やったー、と嬉しそうに笑う姿を見て、烈風刀は眉間に深い深い皺を刻む。こんな稚拙な計画に乗せられてしまうだなんて、と悔しげに目を細める。普段は物静かで冷静な彼だが、レイシスが関わるとこんなにも短絡的になってしまうのだった。
したり顔をしているであろう兄を視界に入れぬよう、烈風刀は中空、昇降口から張り出した屋根へと視線を逸らす。悔しさに歪む碧の瞳が、ふと動く影を捉えた。一体何だろう、と薄暗いその場所へと目を凝らす。次第に闇に慣れた目には、日の入り始めの空のように鮮やかな橙の髪をおさげにし、魔女のような暗い紫色の三角帽を被った少女らの姿が映った。学園に住まう、小さな悪魔のカヲルとアシタだ。見上げる少年には気付いていないようで、二人は顔を近付けて何やら話し込んでいる。笑っているのか、時折矢じりのように尖った尻尾が楽しげに揺れていた。
こんなところでどうしたのだろうか、と烈風刀は小さく首を傾げた。彼女らが拠点としている理科室もここからは随分と離れた場所にある。それに、校舎に住み着いている彼女らは登下校する必要もないのだから、昇降口に来る理由はないはずだ。
嫌な予感がする。悪魔の双子がいたずら好きで、よくトラブルを起こすことは有名だ。そんな彼女らが、わざわざ来る理由がないこの場所にいる。その上、何やら笑いながらひそひそと話し込んでいるのだ。また何かいたずらしようとしているのではないか、と警戒してしまうのも無理はない。
ざわめく胸を押さえ、先んじて声をかけようとしたところで、カヲルが帽子と同じ色をしたケープに手を入れたのが彼の目に映った。効果音が付きそうなほど仰々しく取り出されたのは、手のひらサイズの小瓶だ。真っ白な手袋に包まれた手がその蓋を取り、躊躇うことなくくるりと逆さにする。細い口から液体が勢いよくこぼれ落ちたのが、暗いその場所でもはっきり見えた。
「――雷刀っ!」
烈風刀は叫ぶように兄を呼ぶ。彼女らの真下、手渡した折り畳み傘をくるくると回して遊ぶ赤毛は迫りくる何かには気付いていないようで、その場から動く気配は全くない。鋭く舌打ちをし、弟は地を蹴る。突然名を呼ばれ、ぽかんとした様子でこちらを向いた兄に、半ば体当たりのように飛びついた。互いに声をあげる間もなく、二人でコンクリートの地面へと勢いよく倒れ込む。固い何かがぶつかる鈍い音と金属が擦れる音、びちゃりと地面を打つそれとは違う液体が叩きつけられる音が聞こえたような気がした。
突然の衝撃にぐらぐらと揺れる頭部に冷たい感覚、次いで、水が肌を伝う気持ちの悪い感触がぞわりと背筋を撫でる。あの小瓶の中身が己に降り注いだのだ、と理解して、烈風刀は顔をしかめた。それでも、レイシスや雷刀にかからなくてよかった、と胸を撫で下ろす。ネメシスの根幹に深く関わるレイシスはもちろん、雷刀に被害が及ぶのは避けたかった。
「っ、ぅ…………、ぇ、れ、ふと……いきなり、何だよ……」
レイシスの短い悲鳴と、酷く苦しげな雷刀の声が鼓膜を震わせる。ぅ、と同じく小さな呻き声をあげ、烈風刀はゆっくりと目を開いた。衝撃に備え固く閉じていた目はなかなか焦点が合わず、ぼんやりと正面を眺める。次第に鮮明になっていく視界の中、咎めるように細められた朱がこちらをじぃと見つめていることに気付く。その色をはっきりと認識した瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
え、と突然の変化に戸惑う碧の声は、喉の奥に引っかかり動きを止める。無事の確認や謝罪など口にすべき言葉はたくさんあるというのに、喉を絞められているように声が上手く出せない。どうにか浮かんだ言葉もすぐに真っ白になった頭の中に消えてしまい、音になることはない。呆然と開いた口は何故か引きつり、喘ぐように単音を漏らすばかりだ。痛みすら感じるほど、心臓が強く脈を打つ。雨の音も、風の音も、兄の声も、己の鼓動で掻き消され、耳に届くことはなかった。
不思議そうに首を傾げる雷刀の姿を捉え、はっと意識が現実へと帰還する。そのまま弾かれたように起き上がり、烈風刀は押し倒したその身体から退いた。
「すっ、すみません」
ようやく出たその声は、不自然なほど上ずっていた。本来ならば、しっかりと顔を見て謝罪すべきだと理解している。けれども、今は兄の顔を見ることができなかった。あの鮮やかな朱を見るだけで、顔がその色に染め上げられる。心臓が早鐘を打ち、締めつけられるように痛む。喉が、思考が、上手く機能しない。まるで、身体が全て作り変わってしまったかのような心地だった。
けれども、この感覚は知っている。ずっと昔に厳重に鍵をかけ、胸の奥底に眠らせた感情だ。二度と浮かんでくることのないように重い鎖で縛り沈めていたはずのそれが、堰を切り胸の内に溢れていく。再び沈めようとしても上手くいかない。コントロールができなくなっていた。
一体何だ、自分の身に何が起こっているのだ。突如混乱の渦に放り込まれ、烈風刀は愕然と地面を見つめることしかできなかった。
「雷刀! 烈風刀! 大丈夫デスカ?」
開こうとしていた傘を放り出し、慌てて駆けよったレイシスは二人の間にしゃがみこんだ。はわわわ、と床に座り込んだままの二色を交互に見て、どうすべきか考えているようだ。こんなに動揺した様子で解決策を出せないことぐらい、誰が見ても分かる。まずは彼女が落ち着くべきだ。普段ならばそんな言葉をかけるはずの烈風刀は、同じく狼狽え固まったままだ。
「アッ」
「アチャー」
三人の頭上、軒の影から小さな声が聞こえた。きっと経過を見るために留まっていたのだろう、カヲルとアシタのものだ。重なる二つの音は、失敗を悟り焦るような響きをしていた。やはり、彼の嫌な予感は当たっていた。それも、元凶である彼女らすら想定していなかったものまで重なってしまったらしい。
「カヲルちゃん? アシタちゃん?」
その姿を捉えたレイシスが、中空に浮く二人組の名を呼ぶ。幼い悪魔たちは見上げる彼女を無視し、二人きりで会話を続けた。ぱたぱたとコウモリのような羽が忙しなく動く音がかすかな雨音に混じって聞こえる。
「アーア、ヤッチャッタネアシタタン」
「イヤイヤ、マダ失敗ッテ決マッタワケジャナイヨカヲルタン」
「おい、カヲル! アシタ! 何やったんだよ!」
不吉な語ばかり浮かぶ会話を、雷刀の怒声が切り裂く。温厚な彼にしては珍しい荒らげられた強い声だというのに、双子の悪魔は不思議そうに顔を見合わせるだけだ。そもそも、何故彼が怒っているのか分かっていないようにすら見える。
「何ッテ、薬カケタンダヨ」
「恋ノ薬ヲネ」
サラリと告げられた言葉に、はわ、とレイシスが懐疑に満ちた声をあげる。『恋』という言葉に、困惑で揺さぶられる烈風刀の思考が凍結した。コントロールできないほど溢れるこの感情と、彼女らの言う『恋の薬』が己にかけられたことが、一つの線として繋がっていく。彼の頭は、認めたくない現実を拒否しようと必死だった。
理解できずに固まる暖色二つ、理解を拒否し固まる寒色一つを置いたまま、姉妹は残念そうに、それでいてどこか楽しげに会話を広げる。
「セッカクノ雨ダシ、相合傘ドキドキハプニングチャレンジリベンジシヨウト思ッタノニ」
「レイシスニカケル予定ダッタノニー。マサカ男ト男デ、ナンテネ」
「惚レ薬作戦ッテノモナカナカ上手クイカナイネー」
「デモドウナルカ気ニナルシ、コレハコレデ面白インジャナイ? カヲルタン」
ソウカモネ、とケラケラ笑う少女らを桃と朱が呆然と見つめる中、碧は気が遠くなるのを感じた。このまま意識を失えたらどんなに楽だろうか、と益体もないことを考える。それでも、彼の意識はシャットダウンすることなく現実に留まり、逃げることを許してはくれなかった。
「えっと……、つまり」
長い長い沈黙の後、ようやくフリーズから復帰したレイシスが口を開いた。冷や汗がたらりと流れる頬に指を当て、少女は答え合わせをするように悪魔たちを見上げて小首を傾げる。薔薇色の瞳には、不正解でありますようにという強い祈りが見えた。
「カヲルちゃんとアシタちゃんの惚れ薬のせいデ、烈風刀は雷刀に恋しちゃったってことデスカ?」
「ソウナンジャナイ?」
少女の切実な祈りは無慈悲に切り捨てられた。まさに悪魔の所業だった。
見事に最悪の予想が当たり、烈風刀の顔が絶望の暗い色に染まる。燃えるように熱い頬に反し、頭と心は凍えるほど冷えていった。
『恋しちゃった』というレイシスの言葉は本当にその通りなのだろう。けれども、ただ一人、烈風刀だけはそれが厳密には違うことを知っていた。
嬬武器烈風刀は、嬬武器雷刀に恋している。
薬がかかった今この場ではない。何年も前からずっと、彼は双子の兄に恋をしていた。
カチャ、と食器と食器がぶつかる小さな音が、ひとりきりのキッチンに大きく響く。些細な音すら煩わしく感じ、はぁ、と烈風刀は今日何度目かの溜め息を吐く。その吐息は、黒く濁った重々しいものだった。
夕方の一件は、彼の精神を抉るのに十分な破壊力を有していた。どうにか二人で帰宅したはいいが、あの瞬間から碧は見慣れた朱を意識せずにはいられなかった。あの色が目に入るだけで、少女のように頬に紅が散る。軽やかな声が聞こえるだけで、心臓が痛みを訴えるほど脈を打つ。紅玉のような澄んだ瞳がこちらを向くだけで、泣いてしまいそうなほどの幸福感が胸の内に溢れ返る。ずっと沈め押し込めていたはずの感情が暴れ回る。想い人である雷刀の前で平静を保つことなど、今の烈風刀には不可能だった。過剰反応する肉体と精神は相手から露骨に距離を取り避けてしまい、カラカラに渇いた喉とぐちゃぐちゃになった思考はちょっとした会話を成立させることすらままならない。唯一顔を突き合わせた夕食も、二人とも一言も発することなく終えた。痛いほど冷えた空気の中、バラエティ番組のわざとらしい笑い声が虚しく響いていたのが未来への不安を更に増長させた。
普段ならば食事の準備や後片付けは二人で分担するのだが、今日は自分が全てやるから、と言い張り、兄をキッチンから追い出してしまった。こんな状態で隣に立つなど、心臓が破裂してしまう。
触れて、会話して、感情を共有する。日常生活で当たり前のように行ってきたそれらが、こんなにも辛いことだったなんて思い出したくなかった。肉体も精神もごりごりと音をたてて深く削られ、烈風刀の頭は鈍い痛みを訴えるばかりだ。
惚れ薬、と口の中で呟く。彼女らの口ぶりによると、悪魔謹製のそれは『薬がかかった人物が最初に見た人物に惚れる』という効能らしい。それならば、既に雷刀に恋している烈風刀には効果が無いはずだ。恐らくだが、随分と昔に自覚し、外に出してはいけないと胸の奥に押し込めていたその感情が、薬によって無理矢理暴かれたのだろう。元から持っていた感情に薬がもたらす感情が加算され、結果的に過剰なまでの反応を示してしまっている、というのが烈風刀の予想だ。実際、具体的な仕組みは彼女らにも詳しくは分からないようで、次々と投げかけられた問いに答える声は全て疑問形だった。調合し作った当人すら効果がどれほど持続するかも理解していなかったのは笑えない。
一週間モアレバ治ルンジャナイ。
双子の無責任な声が、動きの鈍る脳内に響く。あと一週間、殺してきた感情と再び向き合わねばならないだなんて、彼にとっては地獄でしかなかった。この調子では運営業務に差し障るのも、レイシスに負担がかかってしまうことも目に見えている。はっきりと思い浮かぶ未来に、呻き声にも似た吐息が漏れる。明日が不安で仕方がなかった。
普段の倍以上の時間をかけ、ようやく片付けが終わる。のしかかる疲労感をどうにか退け、烈風刀は愛用しているエプロンを外した。手早く畳んだそれの鮮やかな夕日色を見ただけで、胸に針が刺さったかのような痛みが走る。湧き上がる濁った感情に、彼は強く眉を寄せた。
今まで鍵をかけしまいこんでいたのに、ずっと殺してきたのに、必死に『できた弟』の仮面を被ってきたのに、あんな薬ひとつで全て台無しになるなんて。まるで努力を否定されたようで悔しかった。そして、この恋心が偽りでないと気付かれてしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。『薬のせい』で片付けられる範疇を超え、口を滑らせ想いをぶつけてしまうのではないか。不安が彼の胸をじわじわと侵蝕していく。恐怖と痛嘆で押し潰されてしまいそうだ。
「烈風刀」
優しい声が、家族の名をなぞる。焦がれる音色に、烈風刀の肩が大袈裟なほど跳ねた。こんな些細なことですら過剰に反応してしまうこの身体が憎い。腹立たしさと怯えに苛まれながらも、彼はぎこちない動きで視線を上げる。そこには、ソファの上に胡坐をかき、柔らかな笑みを浮かべた雷刀の姿があった。
「無理しなくていーからな。オレと一緒にいるのつらいなら、しばらくレイシスのとこでも行くし。何なら学校にでも泊まれるしな」
帰宅してからずっとたちこめている重い雰囲気を振り払おうと、訳の分からない薬品に心を掻き乱される弟を安心させようと、彼は普段の調子で笑顔を作る。その明るい表情を見て、紡ぎ出された言葉を聞いて、烈風刀は大きく目を見開いた。
心臓を鋭い刃物で抉られるような、形が無くなってしまうほど握り潰されたような、そんな心地だった。息が詰まる。呼吸の仕方を忘れてしまいそうな痛みが、少年を襲う。兄の言葉は裏など何もない、そのままの意味なのだろう。けれども、不安定で過敏になった烈風刀の頭脳は、それを否定的な意味で捉えてしう。一緒にいるのが辛いのは雷刀の方なのではないか、こんな自分と同じ空間で過ごしたくないのではないか、こんな状況から逃げ出したいのではないか、きっとそうだ、そうなのだ。思考がどんどんと淀み、停滞する。今の彼には、普段通りの冷静で聡明な判断などできない。
「いや! つらいならだぞ! 烈風刀がつらいならだから! 烈風刀といるのが嫌とかそんなんじゃねーから!」
片割れの変化に気付いたのか、雷刀は必死にフォローを試みる。その声は、深い悲哀の底へと沈んでいく弟には届かない。碧の瞳が、痛みと悲しみにゆっくりと染め上げられていった。
「……気持ちが悪いでしょう」
は、と笑い飛ばすように息を吐き、烈風刀は口を開く。黙していたのは帰宅後のたったの数時間だけだというのに、数年の時を経てようやく話すことが叶ったように錯覚する。久方ぶりに使う声帯は、必要以上に震え怯えた音を奏でた。
「男に……弟にこんな反応をされるだなんて」
気持ちが悪くてたまらないでしょう、と吐き捨てる音は、相手に届けることなど諦めて床へと落ちる。何もないはずのフローリングの床は、互いの声が積もり黒く濁っているように見えた。
本当に、どちらにとっても馬鹿らしくて、気持ちが悪い状況だ。弟に恋愛感情を持たれた兄と、兄への隠してきた想いを暴かれた弟。どちらも不幸でしかない、最悪の現実だ。何故、と歯噛みしても、現状が変わることなどない。悪魔の薬は彼の心を掻き乱すばかりだった。
「愛とか恋とかよくわかんねーし? 気持ち悪いとかそんなん思わねーよ」
悲痛に暮れた言葉に、いつもの明るい笑みと声で雷刀はおどけるように答える。普段通り振る舞おうとするその姿は、烈風刀の目には痛々しく映った。余計な負担をかけている自分も、心配してくれているという事実に喜びを覚えている自分も、苦しくて、気持ち悪くて、醜くてたまらなかった。
「大体、こうなってんのは薬のせいなんだろ? 仕方ないじゃん。烈風刀のせいじゃねーって」
「感情をコントロールできずこのような状態になっているのは、僕が未熟だからですよ。薬のせいだけではありません」
「違う。烈風刀は悪くない。全部薬のせいだ」
悲嘆の言葉を、凛々しい声がきっぱりと否定する。
違う、と叫びそうになる喉を必死に押さえ込む。烈風刀が口にしたことは、全て紛れもない事実だ。しかし、今この言葉を否定しては胸に燻る想い全てを吐き出してしまいそうに思えた。それだけは死守せねばならない。この想いは決して気付かれてはいけない。完全に沈め隠すまで何度も何度も言い聞かせてきた言葉を、繰り返す。これ以上現実を壊したくない、その一心で少年はもがき、苦しみの底へと沈んでゆく。
「そうやって自分のせいにばっかするなよ。あんまり卑屈になると、オニイチャン怒るぞ?」
むぅ、と子どものようにむくれる兄の姿に、烈風刀はバツが悪そうに眉をひそめた。答える言葉が思い浮かばぬまま、気まずげに握られたエプロンに浅い皺が浮かぶ。
まぁまぁ一回落ち着けって、と雷刀はひらひらと両手を振った。そのまま彼はその隣、一人分と少しの余裕があるソファを軽く叩く。ここに座れと言外に主張する動作に、ひくり、と烈風刀の喉が引きつるように震えた。無意識に一歩後ろに下がる。まるで、兄から逃げるような動きだった。隣に座るなど常日頃行っていることなのに、こんなにも胸が高鳴る。幸福で息が詰まりそうになる。少女のような淡く甘い情調を、想いを吐露してしまわないかという恐怖がすぐさま塗り潰す。近付きたい、逃げ出してしまいたい、ともに過ごしたい、ひとりきりでいたい。相反する思いが彼の心をぐちゃぐちゃに掻き回していく。本能があげる喜びの声と、理性があげる恐怖の悲鳴が頭を苛んだ。
「あっ! そうだ、コーヒーでも飲もうぜ! ブラックでよかったよな?」
焦ったような声とともに雷刀は素早く立ち上がり、ぺたぺたと足早にキッチンへと向かってきた。その姿を見た途端 、石のように固まっていた身体が弾かれたように動く。そのまま自室に逃げてしまえばいいのに、烈風刀の足は自然に兄が指し示した場所へと向かった。何をやっているのだ、と従順な自身の無意識を呪いつつ、諦めとともにソファに腰を下ろす。最後の抵抗とでもいうように、出来る限り端に寄った。想い人のすぐ隣に座ることなど、潔癖かつ純情な彼にとってはなかなかに強い刺激だった。
しばらくして、マグカップ二つを手に戻ってきた雷刀が戻ってきた。普段通りの距離は今の弟にはあまり良くないと考えたのだろう、兄は少しばかり離れた位置に腰を下ろした。それでも湧き上がる羞恥に勝てず、烈風刀は火照る顔を隠すようにエプロンをぎゅうと抱きしめ、更に端へと寄る。少しの間の後、はい、とふわりと柔らかな湯気が立ち上がるマグカップが差し出された。未だその目を真っ直ぐと見ることができず視線を下げたまま、彼は小さな礼の言葉とともにこわごわと受け取った。
ずず、とコーヒーをすする音だけが冷たい部屋に響く。深い黒の水面に幾度も波紋が浮かぼうとも、互いに口を開く様子はない。温かなそれを飲み込むも、身体は芯から凍ってしまったように冷たいままだ。恋慕の情を寄せる人間と隣り合って座っているという緊張と、何かの拍子にこの想いが露呈してしまうのではないかという憂惧と、互いに互いを意識しすぎるが故の気まずさが、温度を奪っていく。顔を上げることすらできず、烈風刀は誤魔化すように闇のような湖面を眺めるばかりだった。
「……なぁ、『ジョウジュ』って、どこまでやったら『ジョウジュ』したことになるのかな?」
「………………は?」
ぼんやりとした声に、彼は思わず反射的に顔を上げる。突然の問いに、間の抜けた声が漏れた。数拍の沈黙の後、言葉の真意を理解し、その顔がぶわりと真っ赤に染め上がった。油を注いだ炎のように勢いを増す熱が、この先にある兄の言葉を予測しサァと音をたてて冷える。あまりの温度差に倒れてしまいそうだ。それでもはっきりとしたままの意識は、驚きのあまり、逸らしていた朱へと目線を移す。呆然と開いた口はわなわなと震えるばかりで、渦巻く感情を形にできそうにない。
「あ、貴方……、一体、何を言って」
「だってカヲルとアシタが言ってただろ? 『ジョウジュ』したらすぐ治る、ってさ」
雷刀は小さく首を傾げる。何か問題があるのか、と言いたげなその顔に絶句した。漢字に弱い兄のことだ、きっと『成就』の意味が分かっていないのだろう。そうでなければ、いくら能天気な彼でもこんなことを言うはずがない。この状況で、そんな馬鹿げた話をするはずがない。そうやって必死に逃避しようとする烈風刀の思考を、続く兄の言葉が勢い良く現実へと引き戻す。
「よく分かんねーけどレイシスが言ってたみたく『コイビト』になればなんとかなるかもだし、とりあえずそれっぽいこと試してみてもいいんじゃね? 治ったらそれでいいし、ダメならまた考えればいいんだしさ」
こんなつらそうな烈風刀見てるのもつらいし、と付け加えられた言葉に、喉を締められたかのように息が苦しくなった。叫び出したい衝動を押さえつけるように、空色を握る手に思わず力がこもる。元より白い肌は力強く握りしめられたことにより血の色すら失い、張り詰めた心情に熱を失った手が更に冷えていく。言葉を失い再び俯いた碧の顔に、憂いが濃い影を落とした。
「自分が何を言っているか、本当に理解していますか?」
どうにか絞り出した声は、驚くほど低く細いものだった。わずかながら震えているのは怒り故か、驚愕故か、恐怖故か、烈風刀自身も分からない。心を荒らす激情に、その目が兄を睨みつけるように歪んだ。
「僕は男ですよ。男と恋愛関係になるだなんて、貴方はいいのですか」
「それっぽくするだけだろ? 本当に『コイビト』になるわけじゃねーし」
真面目に考えすぎだって、と笑い飛ばす雷刀の姿に、心臓が凍るような心地がした。こんな提案をするのも、苦しむ弟を早く救ってやりたいという彼の優しさによるものだろう。その優しさが、烈風刀の心を切り刻んでいく。無垢な兄の気遣いは、弟にとっては鋭い凶器だった。
恋い焦がれる相手と、恋人のような関係を演じる。それはとても魅力的で、とても残酷な提案だ。ほんのわずかな時間でも、乞い願うも諦めてきた未来が手に入る。そして、自身が相手にとってそのような対象ではないという現実を突きつけられる。うたかたのように消えゆく希望との邂逅と、これから一生をともにする絶望との再会。何年も叶わぬ片想いをしてきた少年の心を揺さぶるには十分なものだった。
雷刀は居住まいを正し、烈風刀の方へと身体を向ける。夕焼け色の瞳が、海色に揺れる瞳を真っ直ぐに見据える。たったそれだけで、指一本動かせなくなり、碧は目の前の朱を見ることしかできなかった。
「烈風刀は嫌かもしれねーけどさ、やるだけやってみようぜ?」
尋ねかける声は、わずかな不安と強い願いで色づいていた。『烈風刀は』という言葉は、自分はこの行為について何も気にしていることはないと暗に示しているのだろう。だからこそ、性質が悪い。全ての決定権を相手に委ねる、ずるいやり方だ。そのずるい言葉に喜んでいる自分がいることに気付き、烈風刀は愕然と目を見開いた。兄の好意を悪用しようとするだなんて、勝手に抱え込んだ感情のために利用するだなんて、あまりにも醜く、汚らしい。溢れ出る嫌悪の情に、呼吸が止まりそうだった。
鮮やかな浅葱が、石を投げ込まれた水面のように揺れる。彼は深い皺が刻まれるほど強く眉を寄せ、潤むその色を隠さんばかりに目を細めた。はくり、とほのかに色を失った唇が開く。蛍光灯に照らされた白い喉が引きつるように動くも、声帯が震えることはなかった。あまりのもどかしさに呻きそうになるが、相も変わらず喉は役目を果たそうとしない。胸に渦巻く言葉を絞り出そうとして、それでも感情を形にできずそのまま内に消えていく様は、重い枷を括りつけられ悲哀の底に沈んでいくような思いだ。酸素を求めるように幾度も口が開き、音を発せぬ喉が鉛を飲み込むかのように重苦しく動く。いっそのこと、このまま悲しみの海で溺れ死んでしまいたかった。
普段ならば無理をするなと遮るであろう朱は、口を閉ざし炎のように鮮烈な瞳で震える碧をじぃと見つめたままだ。真摯に言葉を待つ姿に息が詰まる。燃えるようなその色は、己の醜さを見透かすかのようだった。
視線から逃げるように、憂い色の瞳を髪の奥に姿を隠す。おねがいします、と浅ましい欲に負けたかすかな声は、ふたりきりの冷たい部屋に溶けて消えた。
「――オニイチャンに任せとけって!」
自信に満ち溢れた大きな声とともに、項垂れたの烈風刀の両手が強く握られる。身を乗り出した雷刀が、その手を取ったのだ。見上げた先、太陽のように輝く赤色は固い決心の光に満ちていた。
汚らしいこの手を取ってくれた彼の好意を我欲のために利用するのだ、と考えて、夜明けの深い青色に闇が膜張った。
中身が完全に冷めてしまった夕焼け色と空色のマグカップをテーブルに置き、二人は居住まいを正し互いに向き合うように座り直した。拳三つと少し開いていた空間がわずかながら縮まる。未だ近付くことに抵抗感はあるが、これから起こる『コイビト』めいた行為に期待する烈風刀の身体は逃げ出さずにいた。一生叶わないと思っていた夢が、たったひと時だけでも現実になる。不謹慎だとは分かっていても、恋する少年の胸は高鳴った。
「でも、一体何すりゃいいんだろうな?」
「何の考えも無いのにああ言っていたのですか……」
こてんと首を傾げる雷刀を見て、烈風刀は苦い顔をする。平静を装った声には、先程までとはまた違う不安がたゆたっていた。任せとけ、と自信満々に言われた矢先にこの問いだ。仕方がないだろう。
「とりあえず、手を繋ぐとか?」
ほい、と兄は無造作に右手を差し出す。視界に飛び込んできたそれに、弟の身体は小さく跳ね、反射的に後退った。未だ少女のように恥じらう自身に気付き、烈風刀は苦々しい表情を浮かべる。どうにか居直し元の距離へと戻ったところで、海色の瞳にわずかながら逡巡が走る。これ以上逃げるわけにはいかない。一拍おいて、筋肉に包まれつつもほっそりとした足が小さく地面を蹴り、彼は自ら距離を詰め兄の手の届く場所までその身を近付けた。たったそれだけで、この胸の内に小さな火が灯ったのが嫌でも分かった。
「……やってみましょう」
緊張と決意で引き結ばれた口で、肯定の言葉を紡ぎ出す。つい先程まで逸らしていた目を正面へと向け、夜明け色の瞳が目の前の夕焼け色をはっきりと見据える。頬が熱を持つのを自覚しつつ、烈風刀は差し出されたそれへと震える手を伸ばした。
己のそれより節が目立ち始めたように見える指に、色を失った手を伸ばす。想い人を求め強く伸ばした指がどうにか触れそうな距離まで近付いたところで、突如羞恥がその存在を強く主張しだした。全身にぶわりと広がったそれは神経を過剰に刺激し、ようやく進んだ白は躊躇するようにひくりと曲がり離れてしまう。手首が反るように退く様は大きな動物に怯える子どものようで、あまりの臆病さに嫌悪感が募った。それでも、救いを、焦がれる相手を求めて、少年は必死に震える指を伸ばす。触れたい、という強い欲求が羞恥心を押さえつけ、その身体を突き動かそうとした。
欲と羞恥の狭間で揺れ動き、何度も何度も繰り返すそれを、雷刀は何も言わず見守っていた。きっと、焦り逃げてしまわないよう気遣ってくれているのだろう。感情に振り回されもがく弟に真摯に向き合い、手を差し伸べてくれた兄を手間取らせている。それも、身勝手な欲のために。緊張と羞恥、不安と悔恨、嫌悪と恋慕に、碧の目が苦しげに細められた。
ぐ、と悔しげに息を呑み、烈風刀は凍えたように固い動きをする指を一度全て退かす。そのままぎゅ、と爪が食い込みそうなほど力強く握りしめた。何をやっているのだ、助けを求めたのは自分ではないか、触れたいと心から願ったのは自分ではないか。あまりにも意気地のない姿に、彼は自身を強く責める。臆病なこの身体が情けなくて仕方がなかった。
これ以上、迷惑をかけてはいけない。早く、この夢から目を覚まさなければいけない。ふ、と深呼吸ひとつ、覚悟を決め、烈風刀は手を大きく開き真っ直ぐと伸ばす。熱を求める指が、ようやく目の前のそれへと辿り着いた。指の腹が触れる。ほんのわずかなそれだけで、胸の内に温かな感情が広がった。そのまま恐る恐る、撫でるように内側を伝い、緩慢な動きの末にひたりと手のひらと手のひらが重なる。ようやく取ることができたその手は、焼かれてしまいそうなほど温かかった。失った温度を分け与えるように、温かな右手が己のそれをそっと握る。驚きのあまり震え強張る手は、逃げを選ばず負けじと握り返した。
『手を繋ぐ』という目的はこれで達成された。これで終わりだ、これで十分満足だ、と洗脳するかのように何度も唱える。しかし、その片隅に何かが引っかかり、彼は繋いだそこを訝しげに見つめた。
「これは、『手を繋ぐ』のではなく『握手』なのでは」
「あ」
無意識に漏れた疑問の声に、呆けた声が続く。余計なことを口走ったことに気付き、烈風刀の顔はその髪のように青くなった。これで適当に誤魔化して終わらせればよかったものの、何故無用な手間がかかることを言ってしまったのだ。強い後悔の念に駆られるも、こぼした言葉を戻すことはできない。弟の呟きによって事実に気付いた雷刀は、繋がった手を見つめていた。
焦りに駆られ、碧は重ねていた手を振り払うかのように素早く離す。熱と別れた末端は、更に温度を失ったように思えた。恥ずかしさと気まずさと動揺がぐちゃぐちゃに混ざった顔を隠すように、身体ごと視線を逸らす。行き場を失ったそれは、斜め下の床と反射のように引いてしまった手との間を戸惑うように揺れる。その目が悔しさに強く眇められた。
中途半端に上げられたままだった白い手が、持ち主の膝の上へと戻る。どうすれば感情に揺さぶられるこの身体を押さえつけられるか、どうすればこの汚らしい欲を消してしまえるのか、少年には分からない。固く握りしめられた両の手は、溢れ出る悲憤に震えていた。
「烈風刀」
どこか切羽詰まった声が、片割れの名を呼ぶ。刹那、凍ったように冷たいその手に再び熱が灯された。雷刀が己のそれを重ねたのだ。触れられた驚きに、烈風刀の肩が大袈裟なほど跳ねる。再び反射的に振り払おうとしてしまう手を、片隅で息をしていた理性が必死に引き止めた。冷たいそれを包む熱は優しく重ねられただけで、力は全く入っていない。無理矢理『手を繋ぐ』ためではなく、震え冷え切っていく弟の身を案じ、温め安心させようとしたのだろう。その優しさが、喜びが広がる卑しい胸に刺さった。
小さく息を呑み、烈風刀は固く握り強張った手をそっと解いていく。ゆっくりと震える指を伸ばす様は、蕾が空を見上げ花開くかのようだった。ようやく開ききったその甲を、少しばかり硬い手が撫でる。泣く子どもを落ち着けるようなそれに、伸ばした指がもぞりとむず痒そうに動いた。ようやく開いた手をどうにか裏返そうとするが、己の身体は未だ強張ったままで上手くいうことを聞いてくれない。もどかしそうに浅い動きを繰り返していると、ふわ、と重なった手が少しだけ浮く。誘い教えるようなその動きに、ようやく震える手が寝返りを打った。
手のひらと手のひらが、再び出会い触れ合う。包む右手に甘えるように、指を擦りつける。今の烈風刀にとっては、それだけでいっぱいいっぱいだった。じゃれつくようなその動きに、返事の代わりに白い指と指の間に被さった指が潜り込んでくる。人指し指、中指、薬指、小指。まるで抱きしめるように、ひとつずつ絡みつく。全て受け入れ、肌と肌がひたりと重なる。慈しむようなそれに、彼も同じ動きで包み込む右手を抱きしめ返した。互いの存在を確認するように、そろりと淡く握られる。触れ合うそれは解けることなく、静かに寄り添っていた。
指と指、手と手を重ね互いを抱くその姿は、誰が見ても『手を繋いでいる』と認識するものだ。
部屋にふたりきり、音すら無くなったように錯覚する。鼓動は早まるばかりだというのに、意識は妙に落ち着いていた。これで全てが終わった。もう、兄を苛ませる必要などない、と烈風刀は小さく息を吐いた。
「……どう?」
赤色の瞳が不安そうに青色を覗き込む。鮮やかなそれが視界に入るだけで、依然胸が高鳴ってしまう。大丈夫だ、と何度も言い聞かせ、激しく動く心臓と揺さぶられる思考をどうにか押さえつける。もう平気だ、と答えようと、碧は口を開いた。
「えっ……、あ、は、い。……大丈夫です。治りました、もう大丈夫です、ありがとうございます」
「さすがのオニイチャンでも嘘ってはっきり分かるぞ!?」
ようやく出た声は妙に早口で、ところどころ裏返っていた。何で、と焦りが少年の顔に浮かぶ。洗脳するかのように何度も何度も言い聞かせたというのに、この身体は言うことを聞いてくれなかった。度々鈍いと評される雷刀だが、さすがにこの不自然な返答に騙されるほど鈍感ではないらしく、素っ頓狂な声をあげた。
嘘吐くなよー、と彼は繋いだ手をぶんぶんと振る。不機嫌さを隠そうともしないその姿から逃げるように、烈風刀は下を向いた。だって、と答える声は、言い訳をする子どものそれと同じ音をしていた。
「これ以上、貴方に無理をさせたくありません」
「だーかーらー! 無理してるなんて一言も言ってないだろ!」
慈しむように穏やかだった雷刀の声が突如荒げられる。先程までとは真逆の強い語調には、確かな怒りが見てとれた。繋いだままだった手に力が込められ、強く握られる。びくりと震え碧はは逃げようとするが、しっかりと絡みついた指は動くことすら許してくれなかった。怯える手を強く強く握りしめられ、切り揃えられた爪がその甲に食い込む。肌に刺さる痛みは、溢れ出た兄の感情がそのまま形になったもののように思えた。
「無理してんなら最初からこんなこと言い出すわけなねーって! オレが好きで、オレがやりたいと思ってっからやってんの! 烈風刀ならそんなことぐらい分かってんだろ?」
ぐい、と繋がった手を力いっぱい引かれ、烈風刀には雷刀の方へと身体を向ける形になる。その拍子に、逃げて俯いていた顔がようやく上がった。その真正面に映る朱に、碧の瞳が狼狽え揺れる。眼前に広がる瞳には、怒りの炎が燃えていた。悲憤が揺らめく炎色が、悔しげに強く強く細められる。
「……おねがいって、言ってくれたじゃん」
だったら、ちゃんと頼ってくれよ。
呟くような声は、繋いだ手に額をつけ祈るような姿は、普段の彼からは想像することなどできないほど弱々しいものだった。
雷刀が苦しんでいる。己の弱い心が、身勝手な欲が、兄を苛んでいる。その姿と事実に、烈風刀は愕然とする。先程握られた手の痛みなど忘れてしまいそうなほど、心臓が刺し貫かれたように痛んだ。
「いいの、ですか」
漏れた声は懐疑に震えていた。こんな汚らしい人間に、兄に想いを寄せる醜い弟に、まだ手を差し伸べてくれるのか。救おうと必死に手を伸ばす雷刀だけではない、救いを求め手を伸ばす烈風刀自身にも問いかける声だった。無論、彼の理性が出した答えは否である。それでも、半ば無意識にこぼれた声は縋りつくような音をしていた。
「いいって何回も言ってんだろ! 任せとけってば!」
遠慮がちに響く声に、他の音全てを掻き消すような声がぶつけられる。朱の瞳には未だ煮えたぎる憤りと、痛ましげな悔しさがにじんでいるように見えた。ギリ、と苛立ちに満ちた音が静かな部屋に落ちる。
「ほら、次何か試すぞ!」
怒りを乗せた視線に射竦められ、烈風刀は動くことができなかった。何か、と必死に手段を探る雷刀の様子に、もういい、と首を横に振りたくなる。これ以上を期待したくない、これ以上を望んではいけないのだ、と恋い焦がれる少年の脳味噌は声高に主張する。それでも本気で拒否せず、あまつさえ自ら求める声を漏らすのだから、この身体はどれほど浅ましいのか。翡翠の瞳に、墨がじわりとにじんだ。
再び余計な行動を起こさぬようじっと俯いていると、更に強く腕を引かれた。突然の衝撃にバランスを崩し、烈風刀は小さく悲鳴をあげて倒れ込む。そのまま、目の前の胸の中に飛び込む形となった。いきなりの行動、そして突然放り込まれた現状に、彼の思考は処理限界を超えフリーズした。
握りしめ絡みあった指が、名残惜しげ解けていく。くすぐる指がゆっくりと分かれていき、ひとつの温度がふたつに戻る。支えを失った手が、重力に従い寂しげに垂れていく。それごと受け止めるかのように、ついさっき別れを告げた手が烈風刀の身体に回った。
背をなぞる温度に、凍りついた思考がようやく動き始める。兄に身を寄せ抱きしめられているという現実を理解して、少年の顔が赤いインクをこぼしたように強く色づいた。顔が、身体が、燃えるように熱い。溶けてしまうのではないかと錯覚するほど、恋する身体は沸騰したかのように熱をもった。間抜けに開いた口は、酸素を求め喘ぐように意味を持たない音を漏らすばかり。更なる混乱の渦に飲み込まれる弟の背を、兄がそっと撫でる。布越しに感じる動きは、宥めるような優しく慎重な手つきだった。
触れた身体から伝わる温度は、先程握っていた手よりも穏やかな、日向のような心地良さだった。甘やかなそれが、鈍る思考を、強張る身体を、凍った心を和らげていく。泣いてしまいそうなほどの温かさだった。
烈風刀は呆然と放り投げていたままの腕に力を入れ、どうにか動かす。痙攣するように無様に跳ねたそれが、戸惑いを表すようにソファの生地を引っ掻いた。惑うように生地の上でもがく指が、ようやく動きを止める。迷いを捨て、本能に従い、彼は鉛のように重いそれをどうにか上げた。目の前にいる兄の背に指を繋ごうとするが、秘密が暴かれるのではないかと未だ恐怖する思考が邪魔をし、すぐに離れる。苛立ちを覚えるほどのもどかしさに、烈風刀は眉をひそめた。こんなにも真摯に向き合ってくれる兄に対して、自分はあまりにも臆病だった。何度目かの別離の後、ようやくその背にしっかりと指が触れ、肌を伝うように恐る恐る腕を回す。同じく放ったままだった右手がそろそろと追いかけ、震える腕が雷刀の身体を包み込んだ。そのまま、腕に力を入れ、遠慮がちに身体を寄せた。すり、と子どもが甘えるように頭を擦りつける。柔らかな温度に安心したのか、強張っていた身体から力が抜け、包み込む彼に全てを委ねた。
身を寄せあい、肌を重ね合わせ、温度を共有する。
秒針の音すら聞こえない。響いてくるのは互いの鼓動のみだ。
幸せだった。
手を繋ぐことは日常でも起こることだ。しかし、抱きしめられるなんて、男兄弟、それも高校生にもなった今ではまずあり得ないことだろう。そのあり得ないことが、現実に起こっている。この腕の中伝わってくる温度と鼓動の音は、いつの日か諦めた夢ではない、確かな現実だった。
あまりの多幸感と体温がもたらす安心感に、緊張の糸がふつりと切れる音が遠くに聞こえた。つん、と鼻の奥が痛みを覚え、じわじわと視界がぼやけていく。そのまま、熱い涙が翡翠の瞳から溢れ出た。喉をせりあがってくる嗚咽を必死に殺す。子どものように鼻をすすり、嗚咽を漏らして泣きじゃくる姿など見られたくなかった。弟の心情を察したのか、背中に回された腕がその身体を柔らかく抱きしめる。とんとんと落ち着けるように優しく背中を叩かれ、碧の瞳からぼろぼろと雫が流れ落ちる。服を汚してしまうことを気に掛ける余裕などなく、烈風刀は片割れの胸に縋りつくように頭を預けた。
どれほど経っただろう。ようやく嗚咽と震えが落ち着き、涙に濡れた碧はそっと顔を上げた。己を包み込む朱を見上げる。未だ涙が膜張る瞳には、鮮烈なその色はぼやけて映った。浅い呼吸を繰り返す姿を見てか、落ち着いてからでいいからなー、と雷刀はあやすように優しく胸に預けられた頭を撫でる。兄の言葉に従い、烈風刀は乱れた息を整えようと深呼吸をする。さらさらと髪を撫ぜ梳かすその手が、酷く心地良かった。
ようやく、呼吸が普段の調子を取り戻す。もう大丈夫だ、と告げるように、彼は背中に回した手をそろりと離す。自ら行ったことだというのに、柔らかな体温と優しい手が離れていくことに寒さと寂しさを覚えた。音にしない言葉が伝わったのか、腕の拘束が緩む。ゆっくりと起き上がると、濡れて色を濃くしたシャツが目に入った。申し訳ないことをしてしまった、と潤む碧が気まずげに眇められる。それでも、雷刀は全く気にしていないという風に優しく目を細めた。
「落ち着いた?」
「……えぇ」
尋ねる声に、烈風刀はバツが悪そうに視線を逸らした。ごしごしと濡れた目元を擦る。あまり良くないと分かってはいても、泣き腫らした目など見せたくはなかった。高校生にもなって子どものように我を忘れて泣くなど、恥ずかしくて仕方がない。
ふ、と小さく息を吐く。もう大丈夫だ、これで満足だ、夢が叶ったではないか、これ以上の幸せなど求めてはいけない。ようやく落ち着きを取り戻しつつある理性が必死に言い聞かせるが、心臓はそれらを一切無視して強く脈打つ。愛し人を目に映しただけで、頬が熱を持ち、桜のように色づいていく。薬に増幅され焦がれる感情は、未だにその火を灯したままだ。
「で、どうだ?」
夕焼け空のように鮮やかな赤が、夜明けの澄んだ青を覗き込む。燃えるような色の中には、嘘を吐くなという有無を言わせぬ気迫がはっきりと見てとれた。ここでまた誤魔化しては、さすがに温厚な兄といえ烈火のごとく怒るであろう。何より、またあの辛い顔と声を聞きたくはなかった。小さな抵抗とばかりにふいと視線を逸し、烈風刀は諦めて素直に口を開く。
「駄目……みたい、です」
深く沈んだ声から一拍、ギリ、と鈍い音が鳴り響く。形の良い眉が強く寄せられ、眉間に深い深い皺を刻んだ。歯痒くて仕方ないという様子で、烈風刀は拳を握りしめる。ようやく温度を取り戻したその手は、加減などせず思いきり込められた力で再び血の気の薄い白に染まった。
「――なんで、……なんで、こんな」
絞り出す声は、憤怒と悲哀と苦渋に震えていた。被害者めいたその響きに、強い怒りが湧き上がる。ギリ、と再度歯が嫌な音をたてる。噛み砕いてしまいそうなほど食いしばる口元が苛立ちで歪んでいることなど、鏡を見なくとも分かった。
手を繋ぎ、抱き合い、温度を共有する。それだけで十分に幸せなのに、薬に振り回されるこの身体はまだ足りないとばかりに欲望を膨らませていく。どれだけ強欲なのだ。兄の好意を踏みにじり、我欲を満たすだけの己はあまりにも醜く、反吐が出そうだった。烈風刀は再び項垂れる。こんな惨めな姿を、想いを寄せる相手に見せたくなどなかった。
自己嫌悪に震える身体に、そっと指が触れる。恐る恐ると言った風に伸ばされた手が、浅葱の髪をゆっくりと撫でた。柔らかなその手つきに、揺れる心に安堵がじわりと広がっていく。温かなそれは、積怒と愁嘆と悔恨に塗り潰され姿を消した。どうにか顔を上げ、烈風刀は向かい側の、自分と同じようで違う、愛する人の顔を見た。その瞳は、絶望と哀絶の淵に立っているような色をたたえていた。
「……貴方が」
薄く開いた口が、緩慢な動きで言葉を紡ぐ。哀絶に彩られた碧が、憂惧が浮かぶ朱を覗き込むようにじっと見つめる。確かに正面のその色を見つめているというのに、苦痛に呻く心には何も映らなかった。
「貴方が視界に入ると、うるさいほど鼓動が早くなるのです。心臓が力いっぱい握りしめられたように痛くて、口の中がカラカラになって、思考が上手く働かなくなって、ろくに話せなくなるのですよ」
はは、と烈風刀は苦しそうに目を細め、乾いた笑みをこぼす。相手の一挙一動に過剰に反応し心を揺さぶられるだなんて、あまりにも馬鹿げていた。こんな感情を実の兄へと向けているだなんて、気持ちが悪くて仕方がなかった。我欲のために大切な家族を利用しその行為を踏みにじるだなんて、最低という言葉では足りないほど卑しかった。こんな醜い弟のために尽力してくれる兄に対して、申し訳がなくて仕方なかった。それでも、雷刀の優しさが、想い人が己のことを第一に考えてくれることが、何よりも嬉しかった。あまりにも卑怯で浅ましく汚らしい自身を、理性的な自身が切り刻んでいく。作り損なった笑みを浮かべ、碧は言葉を続ける。その表情も、声も、身体も、哀切に震えていた。
「普段と全く変わらないのに、貴方の笑顔を見るだけで胸の内が燃えるかのように熱くなるのです。少女のように鼓動が高鳴って、心臓が締めつけられるように苦しくて……、それでも、笑いかけてくれるのが嬉しくて、胸がいっぱいになって……、いっそ、泣いてしまいたくなるのです」
抱え込んだ激情を吐露する声は、悲痛で切羽詰まったものだ。わだかまる想いを吐き出す度、比例するように烈風刀の顔は歪んでいく。醜く崩れゆくその表情を見せまいと、彼はソファに突いたままだった左手で潤む碧をひとつ覆い隠した。形として表すことなど到底できそうもない苦痛に苛まれながらも、こぼれ続ける言葉を切ることはできない。
「頭の中が、雷刀のことでいっぱいになって。どんなに些細なものでも、貴方のことが思い浮かんで……、何も、手につかなくなってしまうのです。貴方のことばかり考えて、何も出来なくなってしまう。貴方のことしか、考えられなくなって」
どろどろと心の中から流れ出る言葉に、ひとつふたつと色の無い雫が重なる。赤く染まった目元から溢れ出た透明なそれが肌を伝い、ぽつりぽつりとソファに水玉模様を作っていく。水が染み込んだ生地が作る暗い色は、まるでこの汚い心そのもののように思えた。
「こうやって、触れてくれるだけで、嬉しくて、苦しくて、死んでしまいそうになる」
嘲りと痛みがにじむその一言にだけ、隠し通すべき喜びが浮かんでしまったことに気付く。それもすぐに喉の奥へと消える。溢れた雫が水玉模様を作る静かな音、高ぶる感情を押し殺そうとする吐息、それでも漏れ出る苦しげな嗚咽。深痛な音が、ふたりきりの部屋に、烈風刀の胸を深々と刺すように響いた。
「こんなに苦しいなんて……、辛い、なんて……」
こんなもの、早く消えてしまえばいいのに。
胸の奥底から絞り出された本心は、溢れ出る涙と痛嘆で濡れていた。
「……大丈夫だから」
呟くように、囁くように、雷刀の声が項垂れた烈風刀の頭に降り注ぐ。まるで子守唄を歌うかのように、柔らかで優しい声がゆっくりと言葉を紡いでいく。
「オニイチャンがちゃんと治す方法見つけるから、な?」
温かな声と壊れ物を扱うかのように頭を撫でる手は、苛まれる弟の思考を和らげるようだった。喉が締めつけられる感覚の後、再び醜い嗚咽が漏れる。優しさに甘えるこの姿は、涙に暮れる少年には無様としか思えなかった。
分針が何度歩を進めただろうか、悲嘆に満ちた呼吸が少しではあるが収まった。烈風刀はどうにか顔を上げる。悲しみに染まったそれは、涙と鼻水で雨に打たれたように濡れていた。ぐちゃぐちゃだなー、と雷刀は服の袖を伸ばし、汚れることを厭わず紅色に染まった目元を拭う。普段ならば行儀が悪い、と顔をしかめただろう弟は、何も言わず大人しくされるがままでいた。本心を吐き出した身体は、与えられる慈しみを受け止めることで精一杯だった。
「つらいかもだけど、もうちょっとだけ試してみよーぜ? ……つっても、具体的には思いつかないんだけどさ」
はは、と雷刀は苦く笑う。その表情に心臓が鈍い痛みを覚え、烈風刀は目を細めた。どこまでも、自分は兄を苦しめる加害者でしかない。改めて実感したそれに、再び鼻の奥に痛みを覚えた。すん、と気まずげに鼻をすすると、ティッシュ箱が渡された。一枚抜き取り、彼は肌を流れる雫を拭き取っていく。薄い紙が己から溢れ出た水分を吸い上げべとべとになる様に、思わず顔をしかめる。あまりにもみすぼらしかった。何度も拭い、ようやくまともな状態に近付いた顔を上げると、何かを探るように中空へと視線を向ける朱の姿が目に入る。ふわふわと所在なさげに揺れるそれを、幾分かクリアになった碧がぼんやりと追う。
「――キス?」
赤い唇から漏れ出た言葉が、痛いほど冷え切った部屋にこぼれ落ちる。その瞬間、全ての音が消えたように錯覚した。互いの呼吸の音まで聞こえない。己の心音すら分からない。まるで生命活動が止まったようだった。
「やめてください!」
停止した空気を引き裂くように、烈風刀は悲鳴にも似た怒声をあげた。深痛で塗り潰された彼の心に、様々な感情の色が塗りたくられていく。混ざり合ったそれは、深い闇のように黒く濁った色をしていた。
「ファーストキスなのでしょう? そんな、そんなに大切なもの、……っ」
こんなくだらないことで失わないでください、と冷たい部屋に落ちた声は、祈りと同じ形をしていた。
これ以上、与えられたくなかった。求めたくなかった。希望を持ちたくなかった。沈めるべき感情のために、兄から奪いたくなかった。薄汚れたこの感情のために、兄の大切なものを奪いたくなかった。吐き出しぶつけたい言葉は、全て喉の奥に消える。兄をこの状況から解放することよりも、秘めたる想いを暴かれまいと保身に走るこの思考はあまりにも愚かで卑しい。嫌悪感が、うるさいほど脈打つ心臓を締めつけていった。
「な、にも、口にするわけじゃないしさ。ほら、ほっぺならノーカンじゃね?」
気圧された様子でもなお、雷刀は言葉を続ける。能天気を通り越して愚昧にすら思えるその提案は、烈風刀にとって地獄へと誘う悪魔の言葉と同義だった。『兄弟』という今の関係では到底起こり得ない、決して訪れることがない未来にのみ存在するその行為は、長年夢見てそれでも叶わぬと諦めていたものだ。けれども、中途半端に与えられたその未来に、この身体は耐えられるだろうか。想いを口走り、兄に軽蔑されるのではないか。夢見た行為への渇望と、未来を壊す恐怖が彼の思考を侵食していく。握りしめたその手は、憐れなほど震えていた。
「他にも、きっと何かありますよ。だから――」
「何かって、何があるんだ? オニイチャンもう何も思いつかねーぞ?」
雷刀の素直な疑問に、口元が強張る。碧色の瞳は宙を泳ぎ、寄せられた眉の端が下がってゆくのが自身でも分かった。何か、他に何かないだろうか、と烈風刀は必死に思考を巡らせる。ぐちゃぐちゃになった脳味噌の中身を急いで掘り起こし、それらしきものを探す。しかし、兄にひたすらに想いを寄せてきた彼に交際経験などなく、それらに付随する知識も乏しい。あるとすれば、雑多に読む本の中で出会った恋物語ぐらいだが、その類は彼の趣味の範疇外である。ぼんやりと流し読んだそれの記憶など、どれも霞のように薄くはっきりとしないものだ。
「……一緒にご飯を食べるとか」
「さっき一緒に夕飯食べたよな?」
「隣に座るとか」
「今やってんじゃん」
必死で絞り出した案を指摘される度、烈風刀の声は萎んでいく。何か、何か、と焦る思考はどんどんと絶望色に染まり、その口から漏れる音も暗く色づけられていった。同じ色に変わりつつある瞳が、どんどんと視界を狭めていく。酸素を求める魚のように、無様に口が開いては閉じる。ついには言葉を失い、彼は未だ黒い点が浮かぶ布地をただただ呆然と見下ろした。
「そりゃあ、男にそんなことされるの嫌だろうけどさ。他に何にも考えつかねーもん」
「…………何で、何でそんなに自分を犠牲にするのですか。僕なんかのために、何で、こんなにも」
苦しみをたたえた翡翠が、訴えるように紅玉を見つめる。次々と湧き出る涙が限界を超え、赤く染まった肌に透明な一本道を作りだした。何故、何故、と涙に濡れる思考は意味のない問いを繰り返すばかり。何故、口付けだなんて、そんな大切なものを醜い弟に捧げるほど救いの手を伸ばしてくれるのか。兄の行動は、烈風刀の理解の範疇を超えようとしていた。
混乱と戸惑いがにじむその一本道を、雷刀は再び袖で拭う。際限なく湧くそれは全て受け止めきめずに、ただただ薄い布地を濡らしていくばかりだ。それでも、彼は甲斐甲斐しく流れ続ける熱から手を離さずにいた。
「だって、烈風刀のことすっげー大事だもん。苦しんでるの見てるのつれーよ。それに、烈風刀こそ我慢すんなよ。自分ばっか犠牲にしないで人に頼れって、さっきも言ったろ?」
任せとけって、と兄はふわりと笑いかける。その答えと笑顔が、弟の胸を突き刺す。雷刀はただ純粋に烈風刀を助けたくてそう言っているのだろう。なのに、この心はそれを利用し裏切るのだ、と考えて、じわりと涙が少年の視界を歪ませる。暴れる恋心も、逸る鼓動も、濁る思考も、身体ごと全て消え去ってしまいたかった。ひくり、と白い喉が引きつるように動く。震える唇が、声を探してはくりと開く。どうにか音を奏でようと努力するも一向に上手くいかず、翡翠の瞳が悔しげに細められた。
「…………本当に、いいのですか」
男ですよ。
弟ですよ。
そんなことしても、平気なのですか。
気持ち悪くないのですか。
ようやく役目を思い出したらしいその喉から吐き出した予防線は、深憂に揺れていた。この汚らしい恋心から救ってほしい、抱える想いを切り離すために突き放してほしい、相反する願いに揺れるその声は、細く絞られみすぼらしく掠れていた。
「だいじょーぶ、嫌なんかじゃないって。だって、烈風刀だし」
それにほっぺならノーカンって言ってんじゃん、と雷刀はいつものようにおどけて笑う。その言葉と、表情が、烈風刀の想いを切り刻んでいく。『烈風刀だし』という穏やかな一言は、口付けなんてことをするのに一切の嫌悪感も忌避感を抱いていないその表情は、己は恋愛対象と認識されていないという当たり前の事実を改めて少年に突きつけるものだった。隠し通すべき痛みが、混じり乱れた思考に揺らぐ碧に浮かぶ。それでも、彼は否定の言葉や苦渋の呻きを漏らすことなく、逃げるだなんて卑怯な選択をせず、屈託のない笑みを浮かべる朱から目を逸らさずにいた。
何も言わず、雷刀は泣き腫らしたその目元から濡れた袖を離す。入れ替わるように、空いていた右手がそっと悲しみの雨に打たれた頬に添えられた。涙の膜張る瞳越しに、燃える炎のように鮮烈な赤色が、揺れる青色をじぃと見つめているのが分かった。それでも、目の前の彼が動く気配はない。まるで、同意を求めているようだった。ずるい、と潤む目が耐えるように細められる。そうやって、烈風刀自身に全ての決定権を委ねる彼のやり方は、酷く優しくて、酷く残酷に思えた。ひくりと苦しげに息を呑み、震える瞼を緩慢に下ろす。白いそれの後ろに姿を消した碧の瞳には、光などない真っ暗な闇しか映らなかった。
これで、全て終わる。『口付け』だなんて、この世界では『コイビト』しか行わないようなことをすれば、我が物顔で暴れ回るこの感情は収まるはずだ。今度こそ、二度と浮かんでこないように、厳重に鍵をかけ奥底に沈めておけるようになる。暗闇の中、烈風刀はうるさいほど鳴り響く鼓動を押さえつけるように何度も言い聞かせる。緊張に強張る身体は、口付けへの期待と、未来への恐怖で震えていた。
何も見えない、黒で塗り潰された世界で兄を待つ。早く終わらせてほしい、早く解放してほしい、早く解放されてほしい。切に祈る気持ちは膨らむばかりで、必要以上に心臓を揺り動かす。呼吸すら忘れてしまいそうな心情だった。それでも、烈風刀は今までのように逃げることなく、動くことなく静かに座ったままでいる。終わりを求め、少年は恋い焦がれる人をひたすらに待った。
小さな呼吸の音。幾許かの静寂の後、晒されたままの頬に指とは違う温度が落とされた。
一秒にも満たない、刹那のふれあい。
涙色の肌に触れた唇は、柔らかくて、かさついていて、熱くて、ずっと焦がれていた希望の色をしていた。
落とされた熱がそっと離れていく。だというのに、失われるはずの温度がずっとそこに残っているように思えた。これで全てが終わったのだ、と烈風刀は内心息を吐く。ここまでやって、ずっとずっと求め続けた最上の未来を経験して、暴れる恋慕の情が落ち着かないはずはない。これで日常に戻ることができるという安堵に、身体から力が抜けたように感じた。
「――好き」
ふとこぼれた言葉が、ふたりを包む空気を震わせる。冷たい部屋に落ちた泡沫のように淡い温度に、息が止まりそうな心地がした。
そういえば、と冷え切った頭が思考を巡らせる。『恋が成就する』とは、まずその胸に抱えた恋心を相手に伝え、受け入れられねばならないのではないか。そも、そうしなければ『コイビト』という関係を成立させる必要条件をまず満たせない。何故二人とも今まで気付かなかったのだろう。混乱していたとしても、あまりにも滑稽だった。
優しい優しい彼のことだ、きっとこれもそのため一手段なのだろう。情愛や恋慕の宿った告白ではない、ただ必要に駆られての事務的な言葉だ。終わりを知った安堵で静まり、緊張のあまり冷え切った烈風刀の思考はそう結論付ける。あまりにも明白な答えだ。
それでも、死んでしまいそうなほど幸せだった。
恋が叶った。このひと時だけでもそう思わせてくれる言葉が、長年想いを殺し続けてきた少年の胸に深く染み込んでいった。
瞼の下に姿を消していた碧の瞳が再び姿を現す。大きく開いたそれに、祈るように見つめる兄の顔が視界いっぱいに映った。今なら気付かれない。この現状から抜け出すため、ただのごっこ遊びの一部だと思われるだけだ。涙でぼやけた視界の中、想いを寄せる朱を見つめ、碧は震える唇を開く。何より、胸の内から溢れ出る感情を、言葉を、衝動を、これ以上せき止めることは、彼にはもうできそうになかった。
大きく見開いたままの目をゆっくりと細め、柔らかな弧を作り出す。晴れ渡る空にかかる虹のようなそれには、確かなぬくもりが宿っていた。
「――僕も、です」
すき、とようやく形にできたその二文字に、ありったけの恋心を乗せる。そのまま消え去ってしまえ、と強く願いながら、烈風刀は一生届くことのない愛の言葉を呟いた。
再び一筋の涙がその頬を伝う。透明な雫には、もう焦がれる恋も隠すべきだった愛も浮かぶことはない。
音もなくこぼれだしたそれをせき止めるように、再び瞼をゆっくりと下ろす。感情が凪いでいく感覚に深呼吸をひとつ、そっと開いた目の先には、どこか呆けたようにこちらを窺う兄の姿があった。
「……だいじょぶ、か?」
「はい、もう平気ですよ」
「ほんとに? ほんとーに?」
「本当に大丈夫です。もう嘘なんか吐きませんよ」
恐る恐るといった風に何度も尋ねる雷刀に、烈風刀は落ち着いた声で返す。言葉につかえる様子も、上ずった様子も、震える様子もない。あれだけ胸を掻き回した激情は、既に鳴りを潜めていた。ようやく『できた弟』である、普段の嬬武器烈風刀に戻ることができたのだ、と実感し、少年は密かに胸を撫で下ろした。
大きな溜め息とずるずると引きずられるような音とともに、雷刀はソファの背もたれに寄りかかった。その様子に烈風刀も今一度大きく息を吐く。ふたりで解法を探ったのはほんの数時間ほどだろうに、もう何日も経ったかのような感覚と、重い疲労感が一気に身体を襲った。一生分ほど働いた心臓と、散々振り回された脳味噌が、鈍い痛みを訴える。自分ですらこれなのだ、必死に頭を働かせ、何度も弟を励まし、解決へと導いた兄はこの何倍も疲れているだろう。視線の先の赤色は、ぐったりとした様子で天井を眺めていた。
「よかったー……。ほんと、よかった……」
「ご迷惑をおかけしました」
何度も漏れ出る安堵の言葉に、苦々しく低い謝罪の言葉が重なる。沈痛な面持ちの烈風刀を見て、いーよいーよ、と、雷刀はひらひらと手を振った。気にするな、と言っているのだろうが、多大な迷惑をかけたのは紛れもない事実である。邪な感情を隠し通した後ろめたさも含め、烈風刀は謝らずにはいられなかった。碧は揺らぎのない真っ直ぐな面持ちで、どこか疲れたようにへにゃりと笑う朱を見据える。その色が視界に入っただけで狂ったように脈動した心臓は、既に元の落ち着きを取り戻していた。
「全て雷刀のお陰です。本当にありがとうございます」
心からの言葉とともに、深々と礼をする。手を差し伸べてくれたこと、真摯に向き合ってくれたこと、たったひと時でもこの想いを肯定してくれたこと。雷刀が与えたそれらは、叶わぬ恋に溺れ沈みゆく烈風刀にとって何よりの救いだった。これで、このままひとりで抱えていける。もう、この想いが漏れることは二度とないのだ、と少年は静かに目を伏せる。その律儀すぎる姿を見てか、片割れは呆れたような溜め息を漏らした。しばらくして、下げたままの頭に手が乗せられる。何だ、と疑問に思う暇もなく、ぐしゃぐしゃと勢いよく撫でられた。突然のそれに、うわ、と小さな悲鳴が漏れる。それでも、大きく広げられた手が浅葱の髪から離れる気配はない。
「治ったんだったらそれでじゅーぶん! 気にすんなって!」
未だにどこか暗さと硬さが残る空気を吹き飛ばすように、雷刀は明るく笑い飛ばす。撫でる手つきは先程までの壊れ物を扱うかのような恐れを孕んだものでなく、普段の大雑把で元気のよい、日向のような温もりを持つものだった。
髪が乱れる、子ども扱いするな、と普段の烈風刀ならばすぐさま抗議の声をあげただろう。だが、彼は与えられる甘さを素直に享受することを選択した。抗議の声をあげるのは、子ども扱いされる不服さと気恥ずかしさによるものである。今もその感情が湧き上がってくるが、今日ばかりは疲労がそれを上回っていた。膨れ上がった恋慕の情に振り回され強張り冷たくなった身体には、柔らかな温もりを宿す雷刀の手はとても心地良く感じた。心身にじわりと広がる安心感に、様々な感情で強張っていた口元が緩むのが分かった。
「あ、そだ。ほっぺ洗わなくてもだいじょぶか? 気持ち悪くねぇ?」
頭を撫でていた手が髪を梳くように下がり、再び頬に触れる。涙の痕が多数残るそこは未だに熱を失っていないのか、撫でる指がほのかに冷たく感じた。優しい雷刀のことだ、『気持ち悪い』とは涙で濡れていることだけではなく、彼が口付けた箇所のことも指しているのだろう。薬の効果が切れた今、烈風刀にとって雷刀は『好きな人』ではなく『ただの兄』に戻ったと彼は認識している。きっと、男兄弟に口付けされたことなど快く思わないだろうと心配しているのだ。それとも、彼自身が弟に口付けた痕を気持ち悪いと思い、早く消し去ってしまえと思っているのか。どちらにせよ、烈風刀に選択肢は与えられない。残していたいと主張する本心を、早く忘れ消し去らねばならないと声高に叫ぶ理性が叩き潰していく。
「あぁ、いえ……。一応、洗ってきます」
戸惑いを半分装った声で告げ、彼はソファから立ち上がった。これ以上こんなにみっともない顔は晒せません、と独白のようにこぼす。本心であり、言い訳だった。無様に泣き腫らした目元も、涙でぐちゃぐちゃになった頬も、そこに残る泡沫のような感触も、兄の心配を増長させるようなそれらは全て消し去ってしまわねばならない。
ひたりひたりと冷たいフローリングを歩いてゆく。足の裏から伝わる温度は、火照る身体を冷ますような、決してあり得ることのない非日常から正しい日常に引き戻すようなものに思えた。幸福感に包まれていた脳が、じわりじわりと現実を認識していく。良かった、と浮かび上がろうとする何かを押さえつけるように、烈風刀は一度目を伏せた。
ドアノブに手を掛けたところで、彼は目を開けくるりと振り返る。そのまま、囀るかのように兄の名前を呼んだ。ぼんやりとした赤い目が焦点を合わせ、反対色の目と視線を交わす。その穏やかな色を見て、彼はそっと口を開いた。
「本当に、ありがとうございました」
ふわりと柔らかな笑みを浮かべ、烈風刀は再度感謝の言葉を告げる。白い喉が奏でた音は、信じられないほど穏やかなものだった。
「だから、もうだいじょーぶだってば」
礼謝の声に、苦笑が返される。どこか呆れたようなそれに、碧は少し気まずげに目を細めた。何度も礼を言ってしまうのは悪い癖だが、なかなか直すことができずにいた。そんな弟の心持ちを流すかのように、兄はそっと言葉を紡ぐ。
「烈風刀も、頼ってくれてありがとな」
蕾が綻ぶかのように、雷刀は柔らかに目を細め、碧の瞳を真っ直ぐと見つめる。その視線が、優しい声がくすぐったくて、嬉しくて、申し訳なくて、切なくて、痛くて、海色が揺れる。安堵で緩んだ心に、憂愁が一滴落とされたように感じた。幾許かの逡巡の後、烈風刀はそっと口を開く。緩い笑みを作り、柔らかなその瞳を見つめた。
あいしていました。
音にならぬ言葉が冷えた空気に消える。伝えたい、伝わらない、伝えるつもりなどないそれは、醜い音をたてて床に落ちて溶けた。
背中越しに、パタン、と音をたてて扉が閉まる。兄に告げた通り洗面所に向かおうと数歩進んだところで、烈風刀は立ち止まった。そのまま倒れるように壁に背を預け、彼はずるずると暗い廊下の床にへたり込んだ。ぅ、と今日何度目かの嗚咽が喉を込み上げてくる。無様なそれを押し殺し、涙と熱と笑みで彩られた顔を再び片手で隠す。子どものように泣きじゃくり、恋する少女のように頬を赤らめ、あり得ない未来と邂逅しだらしなく頬を緩める姿など、たとえひとりきりの廊下でも晒すわけにはいかなかった。それでも、ぼろぼろと際限なくこぼれる涙を止める術を彼は知らない。包み込んだ手のひらに、しゃがみ込んだ膝に、冷たい床に、透明な雫が幾つもの水たまりを作っていった。
これ以上に無い幸せと、押し寄せてくる苦しみと、未だ燻る恋心を、光すら消し去ってしまいそうな黒に染まった箱に押し込める。闇色のそれに厳重に鍵をかけ、重い鎖で縛りつけ、深く暗い心の奥底へと沈めていく。もう浮かんでくるな、と強く願う。祈りのようなそれは、きっと一生涯続くものだ。
暗い廊下の中閉じた瞼の裏には、緊張と恐怖に冷えた手を握り、希望と覚悟に満ちた眼差しで弟を見つめる雷刀の姿がはっきりと浮かんでいた。
ことことと鍋が奏でる穏やかな音が耳をくすぐる。フライパンの上で卵がゆっくりと固まっていく様を、夜明け色の瞳が真剣な面持ちでじぃと見つめる。頃合いを見て、薄いそれに箸を入れくるくると巻いていく。鮮やかな黄色と浮き出る柔らかな茶色、ふわりと漂った甘い香りに烈風刀は満足げに目を細めた。卵液を注ぎ足し、同じ動作を繰り返していく。薄いそれが幾重にも重なり、どんどんと厚みを増していく様子は、見るだけでも十分に楽しい。様々な過程を経て完成させていく様子を間近で眺めるのも、料理の持つ魅力の一つだろう、と彼はひとり頷く。家庭菜園がきっかけで始まったこの趣味だが、思っていたよりも自分の気質に合っていたらしい。今まで必要に駆られて行ってきた作業が、日常の楽しみの一つに生まれ変わったのだった。
最後の卵液を注ぎ入れたところで、カチャ、と軽い音が遠くで聞こえた。焦げぬよう、フライパンをかけた方のコンロを一度消す。もうすぐ姿を見せるであろう人物を迎えるため、烈風刀はゆっくりと振り返った。
「おはよ」
「おはようございます」
キッチンの入り口、ぱたぱたと駆け寄り飛び込んできた色に少年はふわりと目を細める。己がつけているエプロンと同じ、夕焼けの鮮やかな色。昨晩何度も見つめたそれが、ぱちぱちと瞬きをした。同じく赤々とした唇が、中を覗き込んだ途端少しばかり引きつったように見えた。
「今日ぐらいゆっくり寝てればよかったのに」
労わる雷刀の声は、どこか拗ねた子どものそれに似た音をしていた。優しい彼のことだ、きっと弟は疲れているから今日は自分一人で朝食を作ろう、と珍しく早く起きてきたのだろう。ただ、烈風刀も同じことを考えて早く目を覚ましたのだ。結果、今日は弟が先手を取ったのだった。
「普段通りにしていないと落ち着きません。料理をするのは好きですし、気分転換にちょうどいいのですよ」
兄の様子に苦笑しつつ、烈風刀は火にかけていた鍋の蓋を開ける。蛍光灯に照らされ鈍い銀色に光るそれから、ふわと優しい湯気が舞った。出汁の溶けた湯の中に踊る食材に火が通っていることを確認し、おたまで味噌を取り溶かし入れる。しっかりと溶け切るように幾度か中身を掻き回し、小皿にその中身を少し掬い取った。少し冷ましたところで、薄い縁に口をつけ味見をする。すっかりと感覚が染みついたその手は、一度の動作でちょうどいい塩梅に仕上げたのだった。満足のいく出来に一人頷いて、雷刀にも差し出す。受け取り飲み干した彼は、うめぇ、と元気のよい返事をした。その笑顔に、ふわと心が温かくなる。こうやって食べた者の笑顔を間近で見られるのも、料理の楽しさの一つだ。
「ほら、食器出してご飯よそってください。こっちももう少しで出来ますから」
「分かった!」
おたま片手に指示する弟に、兄は元気のよい返事をして食器を取りに向かった。その後ろ姿に背を向け、烈風刀も調理を再開する。鍋の蓋を閉め、予熱で程よく固まった卵を巻いていく。美しい色合いに焼きあがったそれを切り分け皿に盛った。冷蔵庫からいくつかの常備菜を取り出し小鉢に盛っていく。汁椀にできたての味噌汁を注ぎ入れ食卓へと運ぶと、炊きたての白米を盛る雷刀の姿が見えた。
全てを運び終え、食卓に二人分の食器が並ぶ。白米、味噌汁、卵焼き、その他おかず数品。普段と変わらぬ温かな朝食だ。
いただきます、と二人で手を合わせ、箸を手にする。ぱくりと口に運んだ卵焼きは程よい甘さと柔らかさに仕上がっており、味噌汁は具材に出汁の風味が染み込んだ優しい香りと味わいをしていた。常備菜の和え物も普段と変わらぬ安定した味だ。どの料理も温かで、空腹と心を優しく満たしてくれる。昨晩と同じ食卓だというのに、部屋を包む空気は比べ物にならないほど澄んだ明るいものだった。
「……あの」
茶碗と箸を置き、烈風刀はおずおずと話を切り出す。正面に座った雷刀は、口の中のものをしっかりと飲み込んで、首を傾げた。彼が話を促す際によくする仕草だ。それでもやはり言い辛く、碧の視線は下がり、その口をもごもごと動かすばかりだった。
「あの……、その、昨晩のことは、レイシスには内密……内緒でお願いします」
伝えようと起きてからずっと考えていたものの、なかなか口に出せずにいた言葉をようやく投げかける。その口元は強張り、視線は挙動不審に揺れていた。
兄弟二人で恋人めいたことを、それも頬にとはいえ口付けなんてものをしただなんて聞いては、レイシスは驚くに決まっている。はわわわわと酷く動揺しフリーズする彼女の姿は容易に想像できた。純粋で美しく快活な桃の少女は、烈風刀たちにとって家族も同然の大切な人である。そんな少女を傷つけるような真似は絶対に避けるべき事項である。
何より、雷刀はレイシスに想いを寄せている。恋する相手にそんなことを知られては、彼の恋路に無駄な障害ができることは分かり切っている。烈風刀はこれ以上、大切な兄の邪魔をしたくなかった。
その考えの半分を悟ったのか、雷刀は分かっている、とくるりと箸を振って言葉を返した。ほっと胸を撫で下ろし、次いで、行儀が悪いですよ、と咎める。何故か笑みを浮かべた彼に、烈風刀は形の良い眉を強く寄せた。
「何を笑っているのですか」
「いや、いつもの烈風刀だなーって」
棘の浮かぶ烈風刀の問いに、雷刀はへらりと緩んだ笑みで返す。まったくもう、と呆れたように溜め息を吐くも、碧の心は凪いでいた。普段と同じ、軽口を叩くだけでこんなにも安心する。会話もままならないほど感情に振り回されていた昨晩の様子が嘘のようだ。ようやく静かになった心情に何かが漣を立てたように感じたのは、きっと気のせいだ。違和感を意識の外に弾き出し、少年はわずかに口元を綻ばせた。
ごちそうさまでした、と二人分の声が重なる。一人一人に出された皿の上の料理は綺麗に無くなっていた。気持ちの良い眺めだ、と兄弟は図らずも同時に頷く。食べ終わった皿の上を見れば、その料理の良し悪しが一目で分かる。野菜くずひとつ、米粒ひとつ残らず綺麗に食べられているということは、その料理が残すことなどできないほど掛け値なしに美味であったということだ。料理を作る二人にとって、いつ見ても嬉しい光景だった。
片付け流しへと運ぶべく、食器を重ねていく。カチャカチャとそれらが小さな鳴き声をあげる中、そうだ、と雷刀が声をあげたのが聞こえた。食器を抱きかかえようとした手を止め、烈風刀は顔を上げる。同じく顔を上げた兄とすぐに目が合った。
「なぁ、次のアプデって来週の木曜だっけ?」
「そうですね。通常の楽曲追加と、連動イベントでの楽曲とアピールカードの追加と、既存楽曲の新規エフェクトの追加と……」
「いっぱいあるのは分かった……」
次に控えるアップデート内容を指折り数える烈風刀の声も、それを聞く雷刀の表情もどんどんと萎んでいく。両者とも、本日対面するであろう山のような業務内容を想像し、苦い顔をした。
コンソール=ネメシスによるこの世界は、肩を並べる他の世界に比べアップデートの頻度が高く、必然的に日々の運営業務も多い。平時も十二分に忙しいが、そこに様々なイベントやキャンペーンが重なりに重なって作業量が恐ろしいことになる場面が多々あるのだ。いつだったか、他世界との連動企画を含む週連続アップデートを行っていた時期には、自分たちだけでは到底抱えきれないと半ば音を上げ、手の空いている関係者に片っ端から声をかけ協力を仰ぎ、ギリギリのラインでアップデート準備を終わらせたこともある。地獄と言っても過言ではない、と皆が口を揃えて評価したその時期に比べれば可愛いものだが、処理すべき事項が多いことには変わらない。
それでも、レイシスとつまぶき、そして、雷刀となら。
協力し全力で動けば、どんなことだって乗り越えられる。そう心から信じられるほど、五年の歳月をともに過ごしてきた四人の結束は固いものとなっていた。
大丈夫、と烈風刀は昨晩からまじないのように言い聞かせてきた言葉を繰り返す。
もう、あんな感情には振り回されない。
汚らしい想いなど、心の底に沈め浮かび上がらせない。
このまま何もかもを殺して、兄の隣を歩いていける。
大丈夫、と呪いの言葉を繰り返す。少年の瞳に、もう恋の色が映ることは無い。
「ま、今日もがんばろーな!」
「はい。今日もよろしくお願いします」
明るい朱。穏やかな碧。二人の笑顔が重なる。柔らかく差し込む朝日が、その姿を照らしていた。
うたかたの あい を 僕に