@shikanoko_aki
少し身体に悪そうにも思える、鮮やかなグリーン。シュワシュワと幾つもの小さな気泡が生まれては消え、その液体の中で繰り返されていく。緑海の上に小山のように盛られた白い半円のそれを、スプーンの先で僅かに突いて舐めれば、蕩けるくらい甘い味がするのだ。
「なあ、師よ。早くアイスを食べてしまわないと、溶けて失くなってしまうぞ」
対面に座る司馬懿は困ったみたいに、けれど優しく微笑んで、幼子の要領の悪さを指摘した。しかし、愛し子の司馬師はきょとんと可愛らしくまん丸な瞳を見開くだけで、父の言葉の意味を理解することはなかった。
「アイスクリームは嫌いなのかな?」
アイスは時間の経過と共に、液状と化して溶けてその形を失くしてしまう。そんな当たり前のことも、幼すぎる司馬師にはまだ分からない。それを悟った司馬懿は、違う言い方で息子に問うた。司馬師はふるふると、小さな身体の割に大振りな調子で首を横に振った。
「……しゅき」
舌足らずな口調で答えて、司馬師は溢れんばかりの満面の笑みを浮かべて見せた。まるで天使だ、などと親バカ丸出しの感想を脳裏によぎらせながら、司馬懿はならばと続けて訊ねる。
「じゃあ、どうして食べないで残しておるのだ」
氷の山を土台に盛り付けられたバニラアイスと、その下に満たされたメロンソーダ。それらを併せてクリームソーダと呼ぶのだが、司馬師はほとんどアイスには手をつけず、ソーダ水ばかりをストローで吸って飲むのだ。左手がまだ不器用に拳で握った幼児用スプーンは、すっかりただの玩具だった。
「だって、しゅきはさいごにたべるの」
その方が“おいちい”のだと言って、司馬師はまたチューチューと、小さな口で懸命に緑色のソーダだけを器用に飲む。なるほど、と幼子の行動にもしっかり理由があることに納得する反面、司馬懿は難しい顔をする。
「ふむ。それは良き考えではあるがな、師よ」
司馬懿は我が子の口の端にそっと手のひらを寄せ、指の腹でベタリと付着したそれを拭った。慎重に、力加減に配慮しながら触れたのだけれど、幼児の肌は想像よりも柔らで、司馬懿の指は驚くほど司馬師の頬に沈んだ。
「大事なものは早く食べてしまわないと、失ってしまうということもあるのだぞ?」
顔を近づけて過ぎてしまったせいで、司馬師の顔に付着してしまっていたアイスクリームは、司馬懿の手によって綺麗に拭い取られていた。父親の手が頬から離れてゆけば、幼児はまたぱちくりと不思議そうな目でこちらを見つめてくるのだった。
「まあ、いずれ。大きくなってから考えれば良い」
今の司馬師には難し過ぎる話と知って、司馬懿は半ば独り言のような講説を止め、今この場で我が子を悲しませないための算段をする。
「ほら、あーん」
自分のスプーンで少量掬ったアイスを、司馬懿は幼子の口元へと寄せる。誘われるがまま、司馬師は素直に口を大きく開けて、放り込まれたそれを舌の上で溶かした。
「美味しいか」
父の言葉に大きく頷いて、司馬師は顔を綻ばせた。幼児はまだまだ単純で、その甘さと美味しさの前では、自分がそれを大事に残していたこともすぐに忘れてしまう。これを幸いに、司馬懿は手付かずだったアイスクリームを、どんどん司馬師の口へと放り込こむのだった。クリームソーダが、溶けて失くなってしまう前に。
次男の司馬昭もようやく、幾つか意味のある言葉を言える年頃になった。それに伴って、司馬師にも兄であるという自覚が目覚めていた。まだ幼いながら、弟の世話を焼こうとする姿は、父からしてみればなんとも微笑ましいものだった。
「ほら、二人とも。兄上が土産にケーキを持って来てくれたぞ」
朗報を聞くや、みるみると息子達の表情が変化する。ぱたぱたと小さな歩幅で駆け寄って、二人は目当ての物を早く出せと言わんばかりに、父の袖をぐいと引いた。
「こらこら。慌てなくとも、ケーキは逃げぬからな」
小鳥のように騒ぎ立てる息子たちの頭を両の手で撫で、宥めすかしながら食卓へと連れゆく。妻が三時のおやつの準備をしている間に、息子らを所定の位置に座らせるのが司馬懿の任務。
「ほら、昭おいで」
子供の背丈に合わせた背の高い椅子は、到底自力で座れるものではない。安全バーの付いたそれに、司馬懿はまだ二つになったばかりの我が子をを抱き上げ、すっぽり納めてしまう。機嫌が悪いと、司馬昭はイヤイヤと暴れることもしばしばあるのだが、今日は楽しいおやつが待っているためこご機嫌であった。
「お、自分のコップを持って来たのか。偉いな、師は」
長男の司馬師はと言えば、五つになり、進んで手伝いも出来るようになっていた。もちろん椅子にくらい自力で座ることが可能で、弟の座るベビーチェアの隣、少し小さめの椅子に行儀良く座った。
「はい、お待たせ。ケーキと、ジュースはオレンジでいいかしら」
張春華が訊ねれば、司馬師がこくこくと大きく頷く。司馬昭はまだよく分からないといった様子で、必死に届かぬ短い腕をケーキのある方へと伸ばしていた。
「いただきますを言ってから、ね」
司馬懿と司馬師の前にそれぞれ一皿ずつ、妻は苺の一つ乗ったショートケーキを置いた。司馬昭の分はと言えば、手の届く場所に置いた瞬間、素手で鷲掴みに握り潰されるのは必定であるため、未だ張春華の手の内に。
「いただきます」
綺麗に両手を顔の前で合わせて、司馬師は元気よく宣言をする。それから、フォークで真っ先にてっぺんの苺を皿の端に除けてしまう。もちろん、嫌いだからではなく、その逆だから最後に残しているのだろう。かく言う司馬懿もまた、同じ行動をとっていたりするのであるが。
「また、そうやって。本当に、師はパパにそっくりね」
すかさず、張春華が冷やかしを言う。司馬懿はわずかに眉根を下げて、司馬師はまるで気にする様子もなく、目の前のケーキに夢中だった。唇の端に真白なクリームが付着しているのが、なんとも愛らしかった。
「じゃあ、昭ちゃんも。はい、あーん」
幼児用のプラスチック製の小さなフォークで張春華が食べ易く崩したケーキが、司馬昭の口元へと運ばれる。ひときわ大きく開かれた口の中に、それはすぐさま吸い込まれて消えてしまう。
「美味しい?」
「おいちー」
張春華が訊くと、その言葉をおうむ返しするように司馬昭が舌足らずに答える。咀嚼しながら喋るものだから、口からケーキのカスがボロボロと溢れ落ちた。クスリと笑いながら、それを妻が指先で拭った矢先、その事件は起こった。
「あっ、こら……」
兄弟仲が良い故に、二人の席は少し手を伸ばすだけで届くくらいに近かったのだ。つまり、司馬昭の腕はギリギリ司馬師の手元に届いてしまうのだ。となれば、何が起きるかは言うまでもない。
「昭ちゃん、ダメでしょう?これはお兄ちゃんの…」
優しく声で妻が叱責の声をあげた時にはもう既に、それは司馬昭の口の中に押し込められてしまっていた。司馬師の取って置いた苺は、一瞬の出来事の内に失くなってしまったのだ。
「ごめんね。師」
当然、悪気など一切ない幼い弟に代わって、張春華が謝罪の言葉と共に、その頭を慰めに撫でた。ぽかんと、司馬師は何が起こったのか理解しかねる様子で、大きな目をぱちくりと数度瞬きさせる。
―――泣くか、な
司馬懿は思ったが、予想に反して司馬師はふるふると首を横に振るのだった。司馬師は昔から、あまり泣かない子供だった。兄になってから、それはより一層顕著で、我が子は同じ年頃の子よりもずっと我慢強かった。
「いちごは昭にあげます」
「いいの?」
次はこくりと頷いて、司馬師は弟に「おいしい?」と訊ねる。にっこりと天使のように笑う司馬昭を見て、兄も釣られて微笑んだ。司馬師は本当に良い子であり、良い兄だった。父親としては、少しばかり心配になる程度に。
「ならば、師には父の苺をやろう」
皿の端に除けておいた苺をフォークで突き刺せば、果汁がじゅわりと溢れて零れる。それを司馬懿は我が子の口元へと差し出した。すると、司馬師は躊躇いがちにその果実と父の顔とをきょろきょろと交互に見るのだ。
「遠慮などしなくて良いのだぞ」
司馬懿が微笑みと共に小さな鼻先をそっと摘めば、その表情は花のように綻んだ。
「ありがとうございます。ちちうえ」
丁寧にお礼を言ってから、司馬師は差し出された果実を小さな口で齧る。その愛らしさと引き換えならば、苺の一つや二つなど、安いものだと司馬懿は思うのだった。
「どうか致しましたか?」
対面に座し、ぼんやりと手にしたフォークを宙に浮かせたままの司馬師へと問えば、彼はぱちりと瞬きをして長い睫毛を揺らめかせた。
「ああ、いや。ふと、昔のことを思い出していたのだよ」
そう言うと司馬師は、切り崩したショートケーキをひとかけら、フォークの先に突き刺して口に含んだ。
「幼い頃、ケーキの苺を昭に奪われたことがあってな」
その件を大人になってから、殊更恨めしそうに語ったら、司馬昭は頬を赤くして謝ったと言う。可笑しげに話す司馬師は、どこか含みのある顔をしていた。表向きの温厚な性格には似つかわしくない意地の悪い一面を、時折、司馬師は見せたりもする。
「苺、お好きですよね。いつも、残していらっしゃる」
ケーキの上から丁寧に下され、皿の端に除けられた苺。いつもそうやって、彼が好きなものを最後に取って置くのが癖なのだと、鄧艾はずっと前から知っていた。
「そういえば、大事なものは早く食べてしまわないと失ってしまう、と忠告を受けたな」
それも過去の記憶なのだろうか。けれど、幼い頃のように、司馬師の好きなものを奪う者など、もう誰もいない。だって、ここには自分と彼の二人しかおらず、鄧艾が司馬師のものを奪うなど絶対にあり得ないから。
「宜しければ、自分のも食べられますか?」
むしろ、司馬師が欲するならば、鄧艾は自分のものだって差し出して構わなかった。己の分のケーキに乗せられていた苺をフォークに突き刺し、司馬師の唇へと寄せれば、彼はふわりと穏やかに笑む。
「……苺は失くなることはないから、ついつい残して置いてしまうのだが」
グイと、差し出されたフォークを持つ鄧艾の腕を、司馬師は掴んで引き寄せる。しかし、そのままその果実に触れると思われた唇は、何故だかあらぬ方へと向かうのだった。
「今は、失くなってしまうものは早く手を出すようにしている」
苺ではなく、鄧艾のそれに触れた彼の唇が離れると同時に、司馬師は少し意地悪い微笑みを浮かべて囁くのだった。どういう反応を返すのが適切か分からなくて、今度は鄧艾が苺の刺さったままのフォークを宙に浮かせてしまっていた。
「溶けて失くなってしまっては敵わんから、な」
まるで、鄧艾がいつか消えて失くなってしまう存在のように司馬師はうそぶく。自分はもはや彼だけの物でしかなく、失うことなどあるはずもないのに。何故、そのような心配をなさるのだろうか。鄧艾は僅かに苺のような色をした頬のまま、そんな疑問を頭に浮かべた。
「自分は溶けたりなど致しませんよ」
至極、当たり前の返答をして、それから、再び鄧艾はそれを司馬師の口元へと差し出した。二度目は素直に受け入れられて、赤い果実はその口の中へと吸い込まれた。それが上品に咀嚼されてゆく様を目で追いながら、鄧艾は思う。
―――もしも、溶けて失くなってしまうのならば。その前に、全て食らってしまえばいいものを
けれど、それは言葉にされることはなく。鄧艾はただ黙って、対面のショートケーキが失せていくのをずっと眺めていた。最後の苺が失くなるまで。