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温い、日々

全体公開 4718文字
2020-05-16 20:28:25

現パロの鄧艾司馬師が結婚の報告をする話

 道程、目的地が視界に入るほどまで近づいた折になって、その歩みはピタリと止まってしまう。動かなくなったそれを三歩ほど追い越して、司馬師は大きな溜息と共に振り返る。
「鄧艾。今更、もう決めたことだろう」
 いや、ですが、しかし、と続け様にさまざまな否定へ繋がる言葉を述べて、鄧艾はその先を紡ぐことなく項垂れる。行き過ぎた三歩を引き返して、司馬師は鄧艾の右手の指と己の左手の指とを絡めて、強く握った。
「し、司馬師さん……
 今の時間帯、人通りはほとんど無いとは言え、ここが公道のど真ん中であることには変わりはない。けれど、司馬師はそんなこと気にもしていなかった。
「わたしの命令が聞けぬか?」
 普段はそのような卑怯な言い回しなど滅多にしない司馬師であったが、今回ばかりはどんな手段を用いても鄧艾を従わせるつもりであった。
……承知致しました」
 幾分か間を置いて、不承と言った調子で鄧艾は応じた。司馬師が再び前を向き歩みを始めれば、鄧艾も同じ歩幅で続き従う。結んだ手は、勿論、もう解かれてしまっていた。
「鄧艾。お前は何も言わなくていい。全てはわたしが、取り纏める」
 ただ黙って、鄧艾は頷くのだった。初夏の日差しは少しきつくて、鄧艾の額を汗が流れ落ちる。しかし、司馬師はいつもと変わらず、涼しい顔をしていた。


 話がある、とだけ伝えられていた。だから、てっきり司馬師が一人で訪ねて来るものとばかり思っていたのだ。息子の背景の、気付かぬフリをするには大きすぎる図体の見知った顔があることに、驚かない方が無理とというもの。
「ちょっと、なに神妙な顔をしているの」
 沈黙の最中、最初に口を開いたのは司馬懿の隣に座る、妻の張春華だった。
「う、うむ
 歯切れの悪い返事をして、司馬懿は本題に入るのを先延ばしにしようとする。何かある、と司馬懿は二人を玄関で招き入れた時から感じ取っていた。
「もう、麦茶が温くなってしまうじゃない」
 司馬師は至って平静で、いつもと変わらず、父や母が声を掛ければ笑って応えた。けれど、鄧艾はずっと黙ったままで、空気はひたすらに重い。常から寡黙な男ではあったが、今日の静けさは幾分か不自然さを孕んでいた。
……して、だな。師よ、話というのは」
 妻に小言を言われた故ではないが、司馬懿はこれ以上、沈黙を引き延ばせないと悟る。何故、息子の話を訊くだけのこと、これほどまでに気が滅入るのか。理由など、司馬懿は本当のところ判っていた。
「父上、母上」
 司馬師の声音はハッキリとしていて、静かな和室によく通る。本畳の敷き詰められた大広間には、司馬懿夫婦と息子とその連れと。向い合わせに座す様は、まるで嫁入りの報告の場でもあるようだった。
「わたしはこの男と、鄧艾と、添い遂げるつもりでございます」
 先ず、張春華が驚きに小さく声を漏らした。司馬懿はといえば、眉一つ動かすこともなく、成長した息子の姿を俯瞰していた。
 “まるで”ではなく“まさに”なのである。そんなこと、司馬懿は最初から勘付いていた。だからこその、神妙なのである。
……申し訳ありません」
 その司馬師の報告に続いた台詞は、司馬懿の幾つかの想定のどれとも違っていた。毅然とした混じり気の無い声と共に、息子の頭は深々と下がる。
―――先手を打たれた、か
 我が息子ながら、美しい所作だと思えた。行儀の良すぎる姿勢で首を垂れる司馬師に倣って、鄧艾もまた、額を畳に押し当てていた。
……師よ」
 どれくらい、そうしていただろうか。微動だにせず、司馬師は決して自ら顔を上げることはなかった。恐らくは、司馬懿から望む対応を得られるまで、その態度を改める気は無いと見える。そして、司馬懿の選べ得る対応は二つあった。
「話はそれで終いか」
 その一方は、父にとって選択したくないものだった。その言葉を言えるほど、司馬懿の心は広くない。
「顔を上げなさい、師」
 内心穏やかでなど無いことを隠して、司馬懿は努めて平静に促す。随分と間があって、司馬師はようやく頭を上げた。その表情には、なんの変化もない。
今日は、夕食を食べて行くのか?」
 くだんの件は終わったとばかりに、司馬懿は唐突に話題を変えてしまう。鄧艾だけが未だ顔を上げず、畳に視線を落とし続けていた。
―――いったい、どんな心地でこの場にいるのやら
 きっと、自分以上に穏やかではない男の心情を想像すれば、司馬懿の気持ちは幾分か落ち着いた。だからと言って、同情してやるような気分には到底なれはしない。
「いいえ。本日は用件を済ませましたので、早々にお暇いたします」
 父の誘いを断り、司馬師はいつもと変わらぬ穏やかな笑みをこちらへと向ける。その手がさり気なく死角にて、鄧艾の服の裾を引き、面を上げるよう促す。目敏くそれに気付いてしまった司馬懿は、僅かに不愉快な心地になる。
「里帰りはまたの機会にいたしましょう。わたし、一人で」
 念を押すようにして、最後に付け足された一言が、父の内情を慮っていた。その、なんとも我が息子らしい細やかな配慮は、司馬懿は先ほど感じた胸のモヤを早急に晴らした。
……うむ」
 短く唸るような返事をして、司馬懿はチラリと鄧艾の方へと視線を遣る。いたたまれないという様子がありありと伺えて、少し不憫にすら思う。同じことを考えていたのだろうか、再び傍の指がその裾をクイと引いていた。


 「何か言ってあげればよろしかったのに」
 すっかり氷の溶けてしまった麦茶を差し出しながら、張春華は嫌味っぽく告げた。
「あれで良いのだ。師もそれを望んでいた」
 司馬師はただ、己の意思を述べ、両親に対する謝罪を口にしたのみ。息子は受け入れられぬことなど、承知していたのだ。だから、こちらに何の返答も望んでいなかった。
「でも、本当に求めていた答えは違いますでしょう?」
 それこそ、張春華に言われずとも司馬懿とて分かって。それでいて、あえてその選択をしなかった。否、選ぶ気など毛頭無かった。
「言えるわけがなかろう。許す、などと」
 心が狭いと非難されようとも、司馬懿にはそれを受け入れるなど到底でき得るものではなかった。
「あなたってば、本当に頑固なんだから」
 司馬師は想定していた、父が反対するであろうことを。そして、説得は容易でないことも。それでも尚、報告に来る決意を固めたのであれば、なんとも肝が座っている。
「あの子も本当に、あなたそっくり」
 妻の言うように、似てしまっているのだろう。父の気持ちを変えるのが難しいのと同様に、息子の決意を改めされることもまた、困難だった。もしも、お互いが我を通すつもりで言い争いになっていれば、どちらかが傷付く結果になっていたのではなかろうか。それは、双方にとって望むところではなかった。
「わたしなどではなく、お前に似れば良かったものを」
 何故、生き難い方の血を濃く引いてしまったのか。他人の気持ちに機敏すぎるのも考えものである。
「いいじゃない。優しい子よ」
 仮に司馬師が許しを乞うていれば、司馬懿は決めねばならなかった。しかし、何も言わないことで、許すとも許さぬとも口にさせぬことを司馬師は選択したのだろう。
「悔いても悩んでも、あの子の性格も気持ちも変わりませんわよ」
 無論、それを承知しての沈黙という対応が、互いに不幸にならぬための落とし所だったのだ。歓迎も反対もしない。何事もなかったかのように、次の息子の里帰りに、父はいつもと変わらぬ態度で接するのみ。
「もう、良い。この話は忘れる」
 難しい顔をして吐き捨てれば、張春華は困ったように笑うのだった。
 我が子にごく普通の幸福を送って貰いたいと願う親心は、間違っているだろうか。それがたとえ、その子の望んだものでなくとも。
―――せめて、もっとケチのつけられる男でも連れて来てくれれば
 などと考えてみても、我が子がそんな相手を選ぶはずがないという結論に至る。受け入れることは出来ぬものの、司馬懿は鄧艾という男を好まぬわけでもなかった。
―――だが、やはり十も歳上の男なのだ
 人としては好ましく思えても、いざ息子の恋人だと知って見れば、父の気持ちはまるで変わってくる。
 いや、やはり許容はできぬと改めて思いながら、司馬懿は深く嘆息する。気を紛らわせるため、喉に流し込んだ麦茶は、とっくに温くなってしまっていた。


 司馬家の門を一歩踏み出た瞬間に、鄧艾はようやく正しく息が吸えた心地がした。その気配が伝わったのか、司馬師がクスリと隣で笑う。
「黙っていろとは言ったが、顔を強張らせていろとは命じておらぬぞ」
 そうは言っても、緊張するなという方が土台無理な状況なのであったのだ。
 長らく、別段秘匿する訳でもなく、ゆるゆると関係を続けていた。それがずっと、続くのだろうかと鄧艾は思っていた。
「あれでよろしかったのですか?」
 突然、司馬師が両親に報告するから一緒に来いと告げた時の、鄧艾の狼狽たるや想像に難くない。半ば無理矢理に連れて来られた鄧艾は、どうなることかと肝を冷やしていたのであるが。
「言ったであろう。報告にゆくだけだ、とな」
 だが、事は存外に何事もなく済んで、永遠に感じられた息苦しい時間は、三十分にも満たなかっただろう。
「おでこ、畳の跡が付いておるぞ」
 少し背伸びをして、司馬師がその額へと触れる。鄧艾が頬を赤くするのを見て、彼は可笑しそうに笑った。温い鄧艾の体温に、司馬師の手のひらは幾分かひんやりと感じられた。
ただのわたしのわがままだ。黙っていることに、いたたまれなくなった」
 拒絶はされなかったものの、歓迎されたとは到底言えぬ扱い。それが当然の反応だと理解していても、晴れやかな気持ちになれることはなかった。
「付き合わせて悪かったな。鄧艾」
 とんでもない、と鄧艾は強く首を横に振った。司馬師が望むのならば、自分はなんだって従う。たとえそれが、彼にとって辛い選択であったとしても、だ。
「あの司馬師、さん……
 来た道をサクサクと歩み始めた足取りを追いかけながら、鄧艾はその背を衝動的に呼び止めた。わずかに暑さの和らいだ昼下がりの気温は温く、不快ではないが心地良くもない。
「差し支えなければ、お手を拝借しても構いませんでしょうか」
 上擦り吃った声が、世迷言のような台詞を叫ぶ。驚いて司馬師が振り向けば、おずおずと鄧艾の手は差し出される。
「あの人に見られるやも知れませんが……
 人通りはほとんど無いとは言え、やはりそこは公道のど真ん中なのであった。普段は外で手を繋ぐなど、軽率な行動をとることは決して無いのであるが。今は鄧艾から彼に差し出せるものが、この腕くらいしか思い付かなかった。
「そうだな。そんなことをしたら、人目に付く」
 その応えとは裏腹に、司馬師は差し出された手に自分のを添えるのだった。指と指を絡めて握れば、あの門を潜る前の瞬間と、何一つ変わらぬ心地がした。
「だけども、少しだけ」
 そう告げて、司馬師は繋いだ手をやんわりと引っ張った。少しくらい、二人、手を握って歩いたとて、思いの外、気にする人などいなかった。
 あんな一大報告をして来た帰り道だと言うのに、二人の間にはなんの大きな変化も無いのである。ただ、いつもと同じように、初夏の空気は温く。不快でもなければ心地良くもない。多分、そのくらいがちょうど良いのだろうと鄧艾は思って、温い体温で司馬師の手を強く握った。


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