@na_na_mi_p
砂埃混じりの風に若草色の髪をなびかせ、シエルは走っていた。
土を踏み固めただけの路の脇には、掘っ立て小屋のような家々と、かつての栄華の跡を残す褪せた煉瓦塀が交じり合う。
途切れ途切れに聴こえてくる、芯の太い歌声と軽やかな竪琴の音色。きっといつもの場所で、あの男が歌っているはずだ。
曲がり角を抜け、人波をかき分けながら大通りに出る。
歌が、音色が、はっきりとシエルの耳に届いた。
これは夢だ、と。すぐにわかった。
だってシエルが生まれ育ったこの寄せ集めのような薄汚い街は、何年も前になくなった。一夜にして戦火に焼け落ちた。
歌が聴こえてくるはずがない。
――だってあいつはあの日、あたしを庇って死んだ。
間違うはずがない。これは微睡の中で見ている夢、ただの幻想、あるいは思い出だ。
それでもシエルは、息を切らせて駆け寄らずにはいられない。
だって、もう一度この歌が聴きたかった。
会いたかった。
背の低い、崩れかけの煉瓦塀に浅く腰かけて、古びた竪琴を爪弾くこの吟遊詩人の男に。
褪せた真鍮色の髪、散らかった無精髭。肩を覆う短いマントは、ぼろぼろにくたびれている。それでも、深い紫色の双眸は宝石のような輝きを宿すのを、シエルはよく知っている。
朗々と紡がれ続けていた歌声が止み、繊細なつくりの竪琴にそぐわぬ無骨な指先が、最後の一音を響かせる。
視線が交わると、詩人はにやりと笑んだ。
「よう、シエル」
記憶と寸分違わない、気安い調子で名前を呼ばれる。
頭の中が真っ白になった。もう二度と、永遠に会えないはずだった相手に、手渡す言葉を用意していたはずもなく。
立ち尽くすシエルの前で、男はひょいと立ち上がった。
「久しぶりだなー。元気にやってたか? っていうかお前さん、背、伸びたなぁ。顔色もよさそうだし、ちゃんと食えてるみたいだな。よかったよかった」
節くれだった大きな掌が伸びてきて、わしゃりわしゃりとシエルの頭を撫でていく。その手が今度は、ふにふに、ぺたぺたと無遠慮に頬を辿り始めたところで、反射的に身体が動いた。
「あーっもう! ぺたぺた触んな、うっとうしい!」
払いのけた手は、ぱちん、と思いのほか小気味よい音を響かせた。
うっすら赤くなった手の甲を見やり、男はやれやれ、とどこか楽しそうに肩をすくめる。
「変わらんねえ、このお嬢ちゃんは」
温かい声に、胸の奥がじんと熱くなる。
話したいことが堰を切ったように浮かんでくるけれど、何から話せばいいのかわからない。
心を落ち着かせるように一つ息を吐いて、シエルは打ち捨てられた木箱の一つに腰かけた。かつて幾度となくそうしていたように。
「あのさ、おっさん」
「その呼び方傷つくからやめて」
「じゃあ、“ウィン”」
シエルが口にした名前に、男がおや、と片眉を上げる。
「お前さんに呼ばれるのは初めてだねぇ」
「当たり前でしょ、ずっと教えてくれなかったんだから」
「ああ、そうだっけ」
からからと笑って、男は再び煉瓦塀に腰を下ろした。
ウィン=ドゥ・マル・イスリア――イスリアの英雄ウィン。
それは、かつて遠き辺境の小国イスリアを大陸の覇者たらしめた後、忽然と姿を消した若き将軍の名であり、この男が最期まで明かすことのなかった本当の名前だった。
焼け落ちた街の片隅で聞かされた、「剣折りし英雄が竪琴を手に旅をする物語」。それが彼自身の遍歴だとシエルが気付いたときには、男の命の炎は費えていた。
幾つもの作り話が謳われた、英雄のその後。今やシエルだけが知っている本当の物語を、けれど誰にも明かすつもりはなかった。
シエルにとって目の前の男は、歴戦の英雄ではなく、この街で出会った一人の吟遊詩人だ。
「あたし、あんたの歌、嫌いじゃなかったよ」
「へーえ?」
茶化すような相槌が返ってくる。
「夜、寝れない時とかさ。ときどき、一人で歌ってたから。今でも全部覚えてるの」
「お前さん。それは『嫌いじゃない』じゃなくてよ、素直に『好き』って言っていいと思うんだ」
「うっせ」
妙に楽しそうな笑みを浮かべる男から、ぷいと視線を逸らす。
慣れ親しんだ街角で、こうして軽口を交わせば、本当に時間が巻き戻ったような感覚にとらわれる。
スラムの片隅でその日暮らしをするだけの日常に、いつの間にかこの詩人の歌と竪琴の音色が入り込んでいた。その日一日を飢えずに生き延びることに必死だったシエルに、はじめはそんな歌が響くはずもなく。おひねりをくすねて偽金をつかまされたり、下手くそな歌だとなじってみたり。それでもふとしたときに、なんてことない歌の断片がよぎっては、この男のいないところでこっそり口ずさんだりしたものだった。
これはあの何気ない日々の続き――そんな幻想に、叶うなら浸っていたかった。これがただの夢であるのなら。
けれど、もしもこれが何かの奇跡で、シエルの言葉が今、この男に「届いている」のだとしたら。
伝えたい、伝えなければいけないことがある。
男から見えないところで、シエルはぎゅっとこぶしを握り締めた。
「その竪琴、やっと弾けるようになったんだよ。あんたみたいな音は出せないけど、あたしなりに形になってきたと思ってる。だから……だからさ」
顔を上げ、紫水晶の瞳を射抜くほどに見つめて。
「あんたが歌ってた歌、これから、あたしが歌っていってもいい?」
ありったけの決意を込めた問いかけ。
けれど男は、ぽかんとした表情を見せた後、豪快に破顔した。
「そーんな気負うなって」
ほらよ、と男は竪琴をシエルに差し出した。
半ば放るようなぞんざいさに取り落としそうになりながら、慌てて受け止める。
「好きな歌を、好きな時に歌ってりゃいいんだよ。そんで、いっぱい笑ってろ。お前さん、笑ってるほうが可愛いぞ?」
「……なに、それ」
熱を帯びた雫が、まなじりから頬を伝って零れ落ちていく。
「ったく、言ってる傍からなんで泣くかねぇ」
「ほっといてよぉ……」
にじむ視界に影がさして、再び頭を撫でられる。あとからあとから溢れ出す涙をこらえるのに必死で、今度は払いのけることができなかった。
ぱらぱらと、乾いた音が耳朶を打つ。男の腕越しに、遠くの空が砂の落ちるように崩れていくのが見えた。奇跡の終わりが近いのだと、知らせるように。
待って。あたしはまだ、あんたに言ってない言葉がたくさんあるのに。
嗚咽交じりに、シエルは思い切り息を吸い込んだ。
見上げた男の輪郭がぐにゃりと歪み、溶けていく。それでも最後にもう一つ、絶対に手渡したかった言葉は――。
「ありがとう」
ちゃんと届いただろうか。